ここから本文エリア 剛腕サッシー、三振の山2008年06月29日 かつて「怪物」と呼ばれた男が、グラウンドの高校球児たちを見守っていた。32年前の夏の自分を重ねるように。
沖縄県糸満市西崎球場で28日、県大会2回戦が開かれていた。よく日に焼けた184センチの大柄な姿は、スタンドでもひときわ目立った。 酒井圭一。海星(長崎市)のエースとして全国選手権大会に出場し、「サッシー」の愛称でファンを沸かせた。現在は、プロ野球東京ヤクルトスワローズのスカウトとして九州・沖縄地区を担当する。 今年、50歳になった。だが、大きな瞳には18歳のころの面影が残る。
1976年7月22日。日差しの強い日だった。島原中央との県大会3回戦、3年生だった先発の酒井に、当時の監督井口一彦(60)がゲキを飛ばした。「打者一巡、三振取ってこい」 長身から右腕を振り下ろし、並外れて柔軟な手首のスナップをきかせ、伸びのある速球を投げ込む。先頭打者から連続16奪三振。7回コールド勝ちで、18三振を奪った。 現在阪神タイガース2軍監督の平田勝男(49)は、チームメートとして遊撃を守っていた。「あの球を毎日見ていたから、その後、プロの速球を見ても驚かなかった」。瓊浦(長崎市)出身のタイガースの投手、下柳剛(40)は当時小学生。テレビで見た酒井の投球が脳裏に焼き付いている。「とにかく速かった」 酒井は壱岐の漁師の家庭に長男として生まれた。海や山が遊び場だった。家業の手伝いで漁にもよく出た。「その時に鍛えた筋肉が、野球で役立ったのかもしれない」。小学校時代はソフトボールチームに所属。中学校で野球を始め、背がグングン伸びた。全国大会をめざし、本土の強豪、海星に進んだ。 入部当時約100人いた同級生が8人まで減るほど厳しい練習を耐えた。それでも、あと一歩で夢に手が届かなかった。ラストチャンスをかけた3年の夏が近づくと、酒井は目の色を変え、学校から練習場までの約8キロや近くの坂道を何十往復も走り込んだ。「酒井が走った後は雑草も生えない」と言われた。 76年夏、県大会初戦から西九州地区大会決勝までの7試合を1人で投げ抜いた。失点1、奪三振70。圧倒的な力を見せつけた。
そんな酒井が、唯一緊張したのが、全国大会の1回戦だったという。 「ここが甲子園か」。マウンドに立った時、体の芯が震えた。広い球場、大歓声……。すべてが初めての体験だった。 だが、1球目。得意の直球を投げると、緊張はどこかへ吹き飛んでいた。 海星は、この年春の選抜大会優勝校の崇徳(広島)などを次々に破り、4強まで勝ち進んだ。酒井は翌77年、ドラフト1位でヤクルトに入団する。だが、ケガなどで成績は振るわず、90年に引退した。 当時のナインはその後、漁師や会社員など様々な人生を歩んでいる。そんな中、酒井は現役を終えてなお、球児を見つめる道を選んだ。 ずっと野球から離れられないのは、どうしてですか? 「あの夏が忘れられないからかな」=敬称略 |