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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第六章・魔人暗闘編
6-(7) 人・対・人

 瞼を開いて視界に飛び込んできた物は、見覚えのある大型ワゴン車――移動中継基地――の天井だった。
 淀んだ、ぬるま湯のような空気が肌にまとわりつく。
 だがあの寒空に放置されては、流石に風邪を引いただろうから、換気の不足に不満を唱えるのは贅沢というもの……リーナはそう考えた。
 覚醒が中途半端な状態で、リーナは左右を見回した。
 特に何か、目的があっての動作ではなかったが……彼女の中で段々と、違和感が膨らんでいった。
 何かがおかしい。
 何がおかしいのか考えに至ったことにより、彼女の中に残っていた眠気は一気に拭い去られた。
「誰もいない……?」
 頭がハッキリしてしまえば、考えるまでもなくあり得ないことだ。
 車体こそ「キャンピングカーとしても使える」が売りの大型ワゴン車だが、彼女たちは遊びに来ていたのではない。
 アクシデントに遭遇すれば様子を見に出て行くこともあるだろう。
 リーナが倒されたということ自体、大きなアクシデントだ。偵察、救出、援護など、複合的な目的で人員を割くことは十分考えられる。
 しかし、全員が同時にいなくなることは、あり得ない。
(何故よっ?)
 自分たちの意思で、同時に移動中継基地を放棄することは無いはずだ。
 ならば、誰が、彼らを――
 ハッと気づいて、リーナはモニターのコンソールに向かった。
 同じ操作を何度も繰り返し、遂には、大きな音を立てて手を操作盤に叩きつけた。掌と指がジンジン痛んだが、そんなことはどうでも良いと思えるほど彼女は苛立っていた。
 データが全て抹消されていることに対して。
(そうだ。コントロール・ルームに報告しなきゃ)
 だが、リーナは再度、癇癪(かんしゃく)を破裂させる羽目に陥った。
 通信機器も全て、外から見ただけでは分からないよう巧妙に、破壊されていた。
 二度、三度とコンソールに掌を叩きつけた後、彼女は力なく座り込んだ。
 両手が痺れ、熱を持っている。
 ノロノロと手を挙げ、怪我が無いか、見て確かめる。
 幸い何処にも、血の滲んでいる箇所は無かった。
「怪我はしていないようね……」
 ヒステリーを起こして自分で自分を傷つけるなど、子供っぽいにも程がある。そんなみっともない姿を晒さずに済んで、リーナは幾分、ホッとした。
 少し気持ちが落ち着いて――彼女は更に大きな違和感に気がついた。
「怪我が……痛みが、無い?」
 まず両腿に手をやり、交互に左右の肩口を撫でた。
 彼女に激痛を与え、意識を失わせた傷が、跡形もない。
 単に傷が無いだけでなく、服にも穴が空いていない。血の(あと)も無い。
「どういうこと……?」
 急に、現実感が失せた。
 何処までが現実だったのか。
 自分は本当に、傷を負っていたのか。
 そう思わされただけではなかったのか。
 もしかしたら、彼らも――
(まさか、精神攻撃……系統外魔法?)
 ゾクッ、と身体が震えた。
 自分たちはとんでもない思い違いをしていたのではないか……そんな疑念に、リーナは襲われていた。

◇◆◇◆◇◆◇

 リーナがミスディレクション(と言うほど大したものではなく、単に四肢の傷と服を修復しただけだ)に従って都合の良い思い違いをしてくれたかどうか、達也には確かめる術がない。
 それよりも今は、急ぎ片付けなければならない用件があった。
 深雪を迎えに行く時間まで、あと二十分。
 出来ればその前に、手配を終えておきたかった。
 達也は全自動運転の車中で、厳重に暗号化された映像回線を開いた。
『おや、達也殿。どうしましたかな』
「葉山さん、夜分遅くにすみません」
 応答したのは四葉家の、と言うより、四葉真夜の執事、葉山。
 この回線は、真夜へのホットラインだった。
『遅いと言うほどの時刻でもないが、奥様は生憎、電話口には出られぬご用の最中でいらっしゃる』
「それは失礼しました」
 時間から見て、入浴中だろうか。確かにこれはうっかりしていた。
『謝罪には及ばない。君の方から連絡して来たことなど、私の記憶する限り初めてだ。余程の事態なのだろう』
 確かに老執事の指摘したとおり、この直通回線を達也の方から開いたのはこれが初めてだ。
 四葉に頼るのは、本音を言えば、達也にとって癪に障ることでもあり避けたいことだが、今回は意地を張っていられない。無頭竜ノー・ヘッド・ドラゴンの一件や中華連合侵攻の時のように力押しで何とかなる状況ではないのだ。
 四葉家の中枢にいる葉山ならば、今回の事情を達也以上に把握しているはずだが、力を借りるなら順序として、達也の口から現状を説明するのが筋だろう。
「実は先程、USNA軍の小部隊より攻撃を受けました。
 第一波は千葉家次男、千葉修次の介入により撃退しましたが、千葉修次はスターズ総隊長アンジー・シリウスの攻撃を受け戦闘不能に、その後、自分がシリウスと交戦し……」

◇◆◇◆◇◆◇

 リーナを倒した達也は、彼女を拘束する間も惜しんで公園(空き地?)に隣接した駐車場へ向かった。
 仮に意識を回復しても、リーナは動けない。
 痛覚を遮断しても、運動神経が切断されたままの状態でいる限り、立ち上がることも這うことも出来ない。
 そういう風に四肢を撃ち抜いたのだ。
 それに、痛みに耐える訓練を積んでいるなら、最初から気を失うことはなかった。リーナが意識を回復することは当分無いと達也は判断していた。
 それよりも優先すべきは、バックアップチームの方だ。
 上空からの「視線」を遮る光学系(光波振動系)魔法は尚も継続中だ。リーナの素顔を撮影されるわけにはいかない、という事情がある以上、当然の措置だが、それは同時に彼らがこの場から動けないということでもある。
 USNA軍が“シリウス”を切り捨てるはずはなかった。
 彼らが撤退する為には、人員を割いてリーナを回収しなければならない。
 その為の時間が、達也の付け入るべき隙だ。
 彼らも達也の襲撃を予想しているだろう。
 警戒されているはずだ。何といっても、目の前で“シリウス”が打ち倒された様を見ているのだから。
 しかしそれでも、バックアップチームを放置するという選択肢は、達也には無い。
 リーナを殺すことは出来ない。
 殺すだけでなく、拘束することも、だ。
 彼女は殺すにも捕虜にするにも、大物過ぎる。
 達也は既に、国家公認戦略級魔法師、通称「十三使徒」の一人を葬っている。
 意図してのことではないが、それによって世界のパワーバランスに少なからぬ影響を与えている。
 ここでまた一人、世界の軍事バランスに算入されている戦略級魔法師を消し去ったとして、それが世界情勢にどんな影響を与えるのか、懸念される要素が大き過ぎた。
 しかし、その支援要員の方は別だ。
 明白な害意を以て――おそらくは、自分を人体実験の材料にしようとする悪意を持って襲い掛かってきた集団。それは、自分を殺そうとした相手に等しい。
 そんな相手に、甘い対応で済ませる余地はない。
 司波達也に暗闘を仕掛けることのコストを、しっかりと認識させなければならない。
 リーナと相対している最中は支援部隊に意識を割く余裕は無かったが、再び知覚の糸を伸ばしてみると、最初に感知した所から動いていなかった。
 エースが敗れるという予想外の事態に、本隊の指示を仰いでいるのだろう。そうでなければこの反応の鈍さは説明がつかない。
 仕方のないことかもしれないが、甘いな、と達也は感じた。
 負けた場合の撤退手順は、作戦に組み込んでおくべき必須事項だ。
 油断、と言うべきだろう。
 もっとも、
(油断してくれた方がありがたいけどな)
 正面からまともにやり合えば、物量で押し切られるのは最初から火を見るより明らかだ。
 リーナと一対一の状況を作ったことからして、相手の油断に他ならない。
 無論その背後には、他国の首都で余り派手なことは出来ないという事情もあるだろう。
 達也としては、そういう事情をひっくるめて、そこに付け入るだけだ。
 照準のアクションも惜しんで、自身の能力のみで狙いを定め、達也は手に持ったままのCADの引き金を引いた。
 ターゲットはワゴン車の電子機器。
 一発目で通信機の配線を、二発目で車外カメラの電源ラインを、三発目で車内カメラの電源ラインを取り外す。
 本来、魔法はこういう機械的な精密作業に適さない技術だが、藤林と真田の二人掛かりで散々しごかれたお陰だ。
 携帯端末の通信機能はまだ生きているはずだが、構わず、達也はワゴン車の扉に手を掛けた。
 鍵は掛かっていなかった。
 生体認証を使った防盗装置も無かった。
 その代わり、弾幕の歓迎が待っていた。
 余程高性能のサプレッサーを使っているのか、炸薬そのものも特殊なのか、銃撃音がほとんどしない。ドアの影に潜んだ達也の耳にも、サブマシンガンのスライドが開閉する機械音の方が寧ろ響いて来る程だ。
 その僅かな銃声も、すぐに止んだ。
 銃器の解体は分解魔法の中で最も数多く練習を積んだ項目の一つだ。
 開け放ったドアから大型ナイフを手にした男が飛び出して来た。
 車内で起動式が展開された。
 白兵要員に目を惹きつけ、後背から飛び道具で――この場合、魔法で攻撃する。古典的だが、有効な戦術と言える。
 相手が起動式を視て認識できる達也でなかったならば。
 起動式を展開している段階ならば、「分解」でなくてもサイオンの弾丸を飛ばすだけで対処は可能だ。
 達也は空いている左手を前に突き出した。
 ここのところ散々練習した「遠当て」の、基本形態たる圧縮したサイオンの弾丸を左手の中に作り出し、展開中の起動式だけでなく全ての敵に撃ち込む。
 砕け散る起動式。
 敵の魔法師はサイオンの逆流を良く防いだが、時間差で飛来したサイオン弾を受け損なったようで、次の魔法が準備されている気配はない。
 飛び出してきた白兵戦闘員は三名で、その内の二人は足下が覚束無くなっている。
 遠当てに影響を受けるのは肉体ではなくアストラル体。魂魄の「魄」の部分。意思の力で肉体を制御する能力に長けている者ほどサイオン弾によるダメージを受け易いが、気魄の扱いに熟達するとサイオン弾自体を撥ね返したり逸らしたり出来るようになる。
 つまり、意思で肉体をコントロールする修行を中途半端に積んだ者が、最も遠当ての餌食になりやすい。
 達也の前で倒れないように足を踏ん張っている二人はそうした中途半端な修行者で、残る一人はその手の東洋的な修行には見向きもしない肉体の信奉者(フィジカリスト)なのだろう。
 そういう単純な手合いの方が、かえって手強いものだ。
 達也は敢えて、先手を取った。
 リーナが身につけていたナイフ形態の武装デバイスを男に向けて投げつける。
 と言っても、ただ投げたのではない。
 手裏剣術の技法に従い、運動量が衝撃となって切っ先に真っ直ぐ集中する投擲。
 それを胸の中央目掛けて撃ち込んだのだ。
 ただ払い除けても無傷では済まない。
 ここで「躱す」という選択肢を選び取った判断力は流石、玄人(プロ)だ。
 男は、達也の注文通りにナイフを躱した。
 合理的な行動だからこそ、読み易い。
 左肩と左足を引き、右手に持つナイフを外から内に回して、ナイフの軌道を身体の外側に逸らす。
 右半身(はんみ)で右手が身体の左に振り切られた体勢。
 死角となった右の背中側から、ではなく、次の攻め手は下からだった。
 達也の右足が跳ね上がる。
 投擲の軸足になった足が蹴り上げられるという変則的な動きは、男の意表をついた。
 右側からのフックや回し蹴りを警戒して体を戻しつつあった男の右手を達也の足の甲が捉えた。
 男はナイフを手放さなかった。
 手首を貫く痛みを堪え、反対に蹴りを打ち落とそうとする。
 軸足を蹴り足に使う為には、軸足でジャンプするしかない。
 事実、達也の両足は地面から離れている。
 蹴りの勢いを止めれば、体格の優位で達也の体勢を崩すことは可能だった。
 これが、純粋に体術の勝負ならば。
 達也は仮想魔法領域に準備していた重力制御の魔法を発動した。
 持続時間を三秒、軌道変更を十回に限定した飛行魔法の術式。
 ブロックされた右足を畳み、新たに地面を蹴ることなく上昇した達也は、左の回し蹴りを繰り出した。
 今度こそ、男の反応は間に合わない。
 左足の甲が、男の首筋に吸い込まれた。
 鈍い音と、確かな手応え。
 それは、達也にとってお馴染みの、骨を蹴り折る感触だった。
 男の身体が横に飛ぶ。
 自分の罪深さと異常性に浸っている時間はなかった。
 達也の身体は、慣性に逆らって左にスライドした。
 その残像を、ナイフが貫く。
 遠当てのダメージに抗って、男の仲間が投げつけたものだ。
 飛行魔法の効果はまだ続いていたが、達也は両足を地面につけた。
 地面を蹴る勢いを、魔法で後押しする。
 肉体だけでは――少なくとも達也の筋力では不可能な速度で、達也は二人目の懐に入った。
 右手に握っていたCADは、ホルスターの中へ()うに移動している。
 魔法で身体を停止させるのではなく、踏み込む足で運動エネルギーを受け止める。
 地面を揺らす足音と同時に、運動エネルギーを吸い上げた右手が男の胸に打ち込まれた。
 拳ではなく掌で、心臓の真上を強打。
 男は受け身を取ることも出来ず、真後ろにひっくり返った。
 達也は身を深く沈めた体勢から、両足で一気に地面を蹴った。
 飛行魔法の効果持続時間、残り一秒。
 二メートルの高さに浮き上がった足の下を、背後から浴びせられた銃弾が通過する。
 車内からの銃撃だ。
 サブマシンガンの代わりに拳銃を取り出したのだろう。
 この対応は、寧ろ遅いくらいだ。
 達也は腰から拳銃を抜いた。
 拳銃形態のCADではなく、実弾銃。これもリーナから奪い取った物だ。
 空中で身を捻り、窓から身体を乗り出している狙撃手に鉛弾をお見舞いする。
 そのまま三人目の上に着地した。
 右足で肩の骨を踏み抜き、左足で首を横向きに踏み畳む。
 魔法の効果が切れた身体は、三人目の後方に着地した。
 次々と浴びせられる銃弾は、射手のパニックを示していた。
 三人目の身体を盾にして、達也も銃戦に応じる
 車体に傷を付けないよう狙いを定めるのが難しかったが、射手が一人だったことが幸いした。
 銃撃戦を制して車内に突入した達也は、拍子抜けを味わった。
 射殺した二人以外に、二人の男が昏倒していた。
 腕に巻いたCADが、バックアップの魔法師であることを示している。
 遠当てが、予想外の効果を発揮したらしい。
 自分で思っていた以上に、八雲との特訓は効いていたようだ。
 念の為に一回ずつ踵で鳩尾を踏みつけて、反応を確認した上で、達也は死体と一緒に気絶した身体を車外へ放り出した。
 リーナの拳銃が小口径だったのが幸いして、弾は貫通していなかった。肉片は飛んでおらず、血もそれほど散っていない。
 データキューブを失敬してバックアップを取った上で、車載コンピュータに残っていたデータを全て抹消する。
 どうせ次のお客さんが綺麗に掃除してくれるだろうが、簡単に血糊を拭き取って、達也はワゴン車を後にした。
 最後まで、気配を殺して潜んでいた監視者の目には気付かないフリを押し通した。

◇◆◇◆◇◆◇

「自分がアンジー・シリウスを移動中継車に運んで来た時には、仕留めたバックアップチームの姿はありませんでした」
『監視していた何者かが連れ去ったということだね?』
「自分の監視を続けるよりも優先度が高いと判断したのでしょう。
 行動不能状態にあった千葉修次も、自分が戻って来た時には姿がありませんでした」
 達也の報告を聞き終えた葉山は、少し、思案している素振りを見せた。そこにわざとらしさが全く無いのは、年の功と言うべきだろうか。
『その監視は七草家の息が掛かった者たちでありましょうな』
「七草家ですか? 千葉家ではなく?」
『東京は現在、七草家の勢力圏内。弘一殿が手の者を動かして何やら画策しているご様子とも耳にしていた』
 弘一殿、とは七草家当主、七草弘一のことだと達也も知っている。十師族当主の氏名は、日本人魔法師にとって一般的な知識だ。
『魔法の使用を最小限に抑え、近接戦技で対応したのは、その監視者の目を意識してのことかもしれぬが、監視をつけられた時点で望ましいこととは言えませんな』
 四月から立て続けに遭遇した事件の内、達也の方から仕掛けたものは一つも無い。全て、彼は巻き込まれた立場だ。とはいえ、護衛役が目立ってしまうのは下手の仕業だと自覚しているので、反論は出来なかった。
『だが、達也殿が何か失態を犯したわけでもないのは重々承知。また、次期当主候補であられる深雪様をお守りするのは達也殿のお役目だが、達也殿だけの責務でもない。
 真夜様におかれても、深雪様のお立場を他家に知られるのは時期尚早とのお考えだ。
 もっとも、弘一殿のことだ。察してはおられるだろうが……』
 察している、というのは達也が四葉の縁者であることを察している、という意味だろう。「薄々」ですらないのか、と達也は密かに感心した。
『それでも、推測以上の確証を捕まれるのは好ましくない。
 達也殿がバックアップしたデータをこちらに送ってください。ひとまず、米軍の方を何とかしよう』
 サラリと紡がれた葉山の台詞を、達也は大言壮語と思わなかった。
 四葉家は、数の上で七草家や一条家に著しく劣っている。
 だが、戦力で劣っている訳ではない。
 一人一人の質では、寧ろ上回っていると言って良い。
 政府機関からカウンターテロの切り札として超法規的業務を受注するに足りるだけの人員は抱えている。
 秘密裏に活動している破壊工作部隊や暗殺部隊を闇から闇に葬る仕事は、「数字付き」の中で四葉家が最も長けているという評価もある程だ。
『国防軍を動かす口実が無くなれば、弘一殿も当面の所は手を引かれるでしょう』
 他の取り巻きならいざ知らず、葉山の言ならば達也も信用出来る。
 データを回線に送り込み、達也はカメラに向かって頭を下げた。

◇◆◇◆◇◆◇

 迎えに行った達也と顔を合わせた瞬間、深雪は怪訝そうな目を向けた。
「どうかしたのか?」
「いえ、何でもありません」
 と、その場では答えていたが、それが他人の耳を意識しての建前であることは明白だった。
 淑女の笑顔で挨拶を交わし、達也にエスコートされて車内に乗り込み、自走車が走り出したところで――
「お兄様、お怪我はありませんかっ?」
 深雪がいきなり、達也に縋り付いてきた。
 これには、達也も流石に、面食らった。
「いや、深雪、少し落ち着け」
「落ち着いてなどいられません!
 この『臭い』……お兄様、リーナと戦われたのでしょう!?
 しかも、一対一ではありませんね!? 少なくとも十人以上と刃を交えられた『臭い』です!」
 達也が「情報」を視覚的に捉えるように、深雪は「情報」を触覚的に捉える。しかし深雪の場合はそれだけでなく、直感的な認識を嗅覚的に解釈することもある。
 物理的な痕跡は何一つ残していないはずだが、戦いの跡を「嗅ぎ付けられて」しまったようだ。
「いや、頼むから落ち着いてくれ」
 心配してくれるのは正直嬉しかった。だが、落ち着いてくれないことには話も出来ないというのも、達也の正直なところだった。
「俺に怪我を『残す』ことなど誰にも出来ないと知っているだろう?」
 困惑気味のその言葉に、深雪はハッとした表情を浮かべた。
 段々と興奮が収まっていく。
 深雪の息遣いが平静を取り戻したのは、五秒後のことだった。
「……申し訳ありません、お兄様。お見苦しい姿を……」
 言葉だけでなく、恥ずかしげに縮こまった妹に、達也は控え目な笑顔――多分に作り笑い――で(かぶり)を振った。
「いや、俺の方こそ、心配を掛けて済まない」
「そんなこと……兄の心配をするのは、妹として当然です!」
 当然なのか? という反射的な疑問が達也の脳裏に浮かんだが、それを口にする愚は犯さなかった。
 ただ、心の中で思っただけだ。
 家族の心配をするのは確かに当たり前かもしれないが、ここまで熱烈なのは、実は珍しいのではないだろうか、と。
「無論、リーナが何度挑もうと、お兄様には勝てないということも承知しております。
 お兄様に勝てる者など、世界中を探してもいるはずがないのですから」
 いつもの様に熱く断言する妹を、何処か醒めた目で見ている自分を達也は自覚した。
 深雪の信頼が重いとは感じない。
 深雪が自分を信じるならば、自分はそれに何処まででも応えてみせる、という想いが達也の中にはある。
 それは、決意であり、自負であり、覚悟だ。
 だが、そんな覚悟とは別に、今回は危なかった、と客観的に分析している自分もいる。
 相手が精神的に未熟な十六歳の少女でなかったならば、相手にその戦闘力を十全に発揮できる意志力があったならば、倒されていたのは自分の方だったかもしれない、と。
 しかし、そんな弱気を、護る相手に覚られるのは、仕事とか使命とかを抜きにしても、拙かった。
 だから今は、殊更、強気な態度を意識した。
「お前が待っていてくれるんだ。
 だから俺は、誰にも負けない」
 しかし、この台詞は、言い過ぎだった。
 あるいは、やり過ぎだった、と表現すべきか。
 深雪の瞳に、霞が掛かる。
 熱に浮かされた様な眼差しに、達也は自分の失策を覚った。
 しかし、一度口にした言葉は取り消せない。
 いや、普通なら取り消しの効く言葉でも、この状況では取り消せなかった。
(……まあ、根掘り葉掘り訊かれるよりはいいか)
 達也は逃避気味に、そんなことを考えた。

◇◆◇◆◇◆◇

 帰りの足がないリーナが自分のマンションに帰り着いたのは、日付が変わった後だった。
 それも直後ではないくらいの「後」だ。
 まだ未明でないのが、せめてもの慰めだった。
 装備を根こそぎ剥ぎ取られていたが、何故かブリオナックが手元に残されていたので、身の危険を感じるという意味で心細くはなかった。
 だが情報端末が予備も含めて奪われていた所為で、迎えの車も呼べなかった。
 普段データ通貨しか使わない関係で、元々財布は持っていない。
 お陰で家まで、自力で帰らなければならなかった。
 特化型CADだけでなく汎用型CADまで取られていたので、飛行魔法も高速走行の魔法も満足に使えない。
 断続的に跳躍の術式を組み立てて、ようやくマンションが見えた時には思わず涙が出そうになった。(もしそんな姿を知り合いに見られていたなら、反射的にブリオナックをぶっ放したかもしれない)
 生体認証のお陰で、部屋に入るのに苦労は無かった。
 ホッとすると同時に、ムラムラと怒りがこみ上げてきた。
(ワタシに何の恨みがあるのよ、タツヤ!)
 客観的に見て、恨まれる理由は山ほどある。
 しかし、それが感情というものだ。
 軍人としての訓練の賜物か、そんな具合に感情的になっていても、真っ先にするべき事は、忘れていなかった。
 指揮指令室との通信回線を開く。
 だが、いくら呼び出しても、応答が無かった。
 背筋を冷や汗が伝う。
 不吉な予感を打ち消す為に、リーナは頭を勢い良く左右に振った。
 予備の携帯端末で、もう一度コントロール・ルームを呼び出す。
 通信機能の不調か、という一縷の望みは、延々と続くコールサインによって遂に絶たれた。
 大佐たちの身に何かが起こったのだ、と覚らずにはいられなかった。
 リーナは手早くCADその他の装備を身につけると、疲れた身体にむち打って、ベランダから夜空に舞い上がった。
 行き先は、秘密裏に指揮指令室が置かれたビル。
 そこで待っている者を、彼女はまだ知らない。
 そこに待っている者は誰一人いないということを彼女が思い知らされるのは、徹底的な捜索を終えた一時間後のことだった。

◇◆◇◆◇◆◇

 翌日の朝。
 USNA海軍所属の小型艦船が日本の領海を航行中、機関トラブルにより漂流していたところを防衛海軍に保護された、というニュースが活字、映像両メディアを賑わした。
 その船には何故か、高位の東京大使館駐在武官が乗り込んでいたが、それが報道されることは無かった。

 また、その日、第一高校の美少女留学生は、体調不良により前日に引き続いて学校を休んだ。


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