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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第六章・魔人暗闘編
6-(3) 祝福されざる者たち
 大きな布袋を提げて校門を後にした頃には、既に、日は落ちかけていた。
 二月半ばとなれば、昼が最も短い時期を過ぎ、日没も段々遅くなってきている。
 反面、寒さは厳しい盛りだ。日照が無くなれば、気温は急激に下がっていく。
 自然と肩を寄せ合う距離になるのも、仕方がないことなのかもしれない。
 実際、同じように閉門間際まで残っていて追い立てられるように家路を急ぐ生徒たちには、ほとんどゼロ距離で並んで歩いている姿が結構見られた。――但し、カップル限定だが。
 達也の両隣、つまり深雪とほのかも、すり寄って来てはギリギリで止まるという動きを、さっきから交互に繰り返していた。
 お互いの存在を気にしている、という一面も確かにあるだろうが……
「もしかしてワタシ、先に行った方が良いかしら」
 多分それよりも、同行者の目を気にしているのだと思われる。
「いや」
 気を使っているというには棒読みなリーナの台詞に、達也は短く否定を返した。
 達也と深雪とほのかと、リーナ。
 今、一緒にいるのは、この四人。
 E組のクラスメイトは、それこそ気を使ったのか、先に帰った。
 しかしリーナは、臨時とはいえ生徒会役員。
 深雪もほのかも仕事をしているというのに、彼女一人が先に帰る訳にもいかなかった。高校の自治活動など正規軍の任務に比べれば遊びだった(「の様なもの」ではなく)が、疎かにすることは出来ない。責任感とか潜入任務上の必要性とか以前に、「隊長」でも「処刑人」でもない生活、「シリウス」でない時間を中途半端に流してしまうのは、もったいなかった。
 もっとも、その結果として、よりにもよって今日、ただ一人の傍観者として、深雪たちと駅まで同行する羽目になってしまったことについては、現在進行形で深く後悔していた。――達也と深雪は監視対象に指定されているから、本来、日付に関係なく可能な限り目を離してはならないのだが、それをリーナに忘れさせるくらい、第三者には耐え難い空気だったのだ。
「そう?」
 達也は構わないと言っているが、他の二人から無言で咎められているような気がしてならない。
 やはり、先に行ってしまおうか、と思い詰めたところで――駅が見えた。
 と言っても、直線の一本道だから距離はまだ、そこそこあるのだが、
「もう、駅はすぐそこだからな。
 先に行くとか、考える必要はないぞ」
 そう付け加えた達也の真面目くさった顔を、蹴飛ばしてやろうか、とリーナは思った。

 既に説明したとおり、現代の電車(キャビネット)には時刻表が無い。
 だが上り下りの別はある。
 達也の家とリーナのマンションは同じ上り方向、そしてほのかは下り方向だ。
 その日は偶々(たまたま)、上りの車両が残っていなかった。
 プラットフォームに表示された待ち時間は約三分。
 ほのかを見送った三人は、寒気を遮る透明なシールドの内側で次の車両が回送されてくるのを待っていた。
 たかだか三分前後の短い時間だ。
 会話が無くても、不自然ではない。
 ――親しい関係ならば。
 逆に、顔を知っている程度の疎遠な間柄ならば、会話が無くて当たり前だ。
 居心地の悪い空気が流れているのは、兄妹とリーナが中途半端に親しいからだった。
 それぞれ一度ずつ殺し合いを演じた間柄で「親しい」というのは、他人が聞いたら奇異に感じるかもしれない。
 だが達也も深雪も、リーナに対してネガティブな感情は(いだ)いていない。特に達也は、共感に近いものを感じている。
 今はまだ、兵器としての在り方から逃れられない魔法師。
 とりわけ自分が、「そういうものである」ということを、達也は忘れたことがない。
 それを拒もうとしたならば、国家が、社会が、彼を抹殺しようとするだろう。
 彼の魔法は、一国を丸ごと廃墟に変えることが可能なのだから。
――そして、それはリーナも同じ。
――彼女は、自分と同じで、決して兵器であることから逃れられない。
――ある意味でリーナは、深雪よりも、自分に近い存在だ……
「……どうした?」
 そんな思惟に耽っていた所為か、リーナが何か言いたそうにしていることに、深雪に袖を引かれて注意を促されるまで達也は気づかなかった。
「……別に、何でもない」
 深雪がわざわざ知らせたくらいだから、ほんの数秒、偶々見ていたという程度ではないはずだ。
 リーナの不自然な態度からしても、「何でもない」はずはなかった。
「そうか」
 だが、達也は、思わせぶりに間を取って、告白を促す真似もしなかった。
 そこまでする程お節介でも無かったし、余りリーナに構い過ぎると深雪の機嫌が傾いて行く(おそれ)もあった。
 それに何より、キャビネットがプラットフォームに近づきつつあった。
「お兄様?」
 そして、もう一つ。
「何かいるのですか?」
「いや」
 首を振って、達也は妹の肩を抱き寄せた。
 この兄妹ならではの、お手軽な口封じ。
 達也が感知した視線のことは、彼一人の胸に仕舞い込まれた。

◇◆◇◆◇◆◇

「どうした?」
 部下の身体に走った緊張を目敏く認めて、バランス大佐は端的に問い掛けた。
 モニターから目を離して振り向いたオペレーターの顔は、戸惑いに揺れていた。
「それが……監視を気づかれたのではないかと」
「何をバカなことを」
 筋金入りのリアリストであるバランス大佐は、その部下の戸惑いを、気の迷いと切って捨てた。
「低軌道とはいえ監視衛星のモニターだぞ。
 そもそも地上からカメラを裸眼で認識出来るはずがない」
「しかし今、確かにタツヤ・シバの目が、モニターの中から真っ直ぐこちらを見ていました」
 それはつまり、真っ直ぐカメラを覗き込んでいたということだが――
「視力の優れた人間ならば、低軌道衛星の本体を視認することは決して無理ではないだろう。
 だが、衛星に付いているカメラを識別するなど、知覚能力を極大化した強化人間にも出来ることではない。
 まあいい。念の為だ。
 三分前から映像を再生し給え」
了解(イエス・マム)
 リアルタイム映像がサブディスプレイに切り替わり、メインディスプレイで録画映像の再生が始まる。
 高解像度のカメラは、シリウス少佐が落ち着かなげに視線を右、左、右と往復させている様子までハッキリと映し出している。
 それはそれでバランスにとっては興味深い(と言うより、無視出来ない)情報だったが、目下の問題となっているタツヤ・シバへ意識を集中させた。
 シリウス少佐に向けられていた少年の視線が、チラッと上を向いた。
 確かに一瞬、カメラを覗き込んだ、様にも見えた。
 だがそれは、そう見ようと思えばそうとも解釈出来る、という程度のもの。
 実際のところは、気まぐれに空を見上げただけだろう。
 その証拠に、一瞬後には、彼の視線はカメラから外れていた。
「やはり気の所為だ。
 気を抜くよりは良いが、警戒し過ぎるのも判断を誤る元だぞ」
 そう訓示して、大佐はメインディスプレイから目を離した。
 サブディスプレイには、日本で“キャビネット”と呼ばれている小型軌道車輌に乗り込もうとしているシリウス少佐の姿が映っている。
 バランスは寧ろ、シリウスの名を冠せられた少女の見せる、不安定な挙動の方が気になった。

◇◆◇◆◇◆◇

 セーフハウス(彼女がここに住んでいることは秘匿されていないから、厳密にはただの仮住まい)に戻って来たリーナは、扉の前で深く溜め息をついた。
 鞄の中に眠ったままの、ラッピングされたチョコレートの箱を今更のように意識する。
 義理チョコを用意したまでは良かったが、切り出す上手い口実が見つからず、結局、持って帰ってきてしまった。
 反射的に「何でもない」と誤魔化してしまったが、本当はその後、別れ際に渡そうとしたのだ。
 決して深い意味はない。深い意味のあるものではないと、世間的にも定義されているのが「義理チョコ」だ。
 それでも、自分としては、一大決心だった。
 せっかく準備したんだから、と心の中で何回も自分に言い聞かせて、引きつる顔に何とか笑みを浮かべようとした。
 一度は殺し合いを演じた間柄だが、同時に、一度は共闘した仲でもある。
 それに、自分の正体を黙っていてくれている。
 義理はあるのだから、おかしくはない。おかしな誤解を受ける虞はない。
 そう気力を振り絞って、鞄の中から包みを取り出そうとした。
 だが、渡せなかった。
 突然深雪の肩を抱き寄せた達也の姿を見て、手が動かなくなった。
 達也が深雪の肩を抱いたという事実より、自分の手が動かなくなったと言うことに、二重のショックを受けた。
 一つは、結局、チョコを無駄にしてしまったということ。しかしこちらは、比較的どうでもいいことだった。
 リーナにとって本当に問題なのは、自分がまるで、達也に惹かれているような反応を示したことだった。
 冗談ではなかった。
 あんな、嫌味な女たらしのシスコンに自分が横恋慕しているなどと、リーナには断じて認められないことだった。
(意識してるのは認めるわよ)
 誰に言っているのか分からないまま、リーナは心の中で宣言した。
(ワタシはタツヤのことを意識しているわ。それも並大抵じゃなく、強烈に)
 それは、噛み付くような思考だった。やはり、誰に噛み付いているのか彼女自身不明だったが。
(でもそれは! あの男に与えられた屈辱の所為よ!
 あの敗北に雪辱するまで、タツヤを意識せずになんていられないわ!)
 だったら用意すべきはチョコレートではなく白手袋ではないか、と普段の彼女ならば自分にツッコミを入れたことだろう。
 だが今のリーナに、そんな平常心は存在しなかった。

 セーフハウス(くどいようだが厳密には単なる賃借マンション)のドアを開けて、リーナは異常を感知した。
 ミアがあんな事になって、現在リーナは一人暮らしだ。
 それなのに、人の気配がする。
 背筋を冷たい緊張が走り抜けた。
 ドアを開けてみるまで気がつかないなんて油断のしすぎだ、と自分を叱咤する。
 そうやって気合いを入れ直し、慎重に身体を中へ滑り込ませる。
 今更手遅れな配慮だとも思ったが、音を立てないようにそっと扉を閉めた。
 靴をどうするか、一瞬悩む。
 本当は考えるまでもないのだが、後で掃除する手間のことをつい、考えてしまったのだ。
 再度自分を叱りつけてそんなボケた雑念を頭の中から追い出し、鞄をそっと床に置いて、リーナは突入の為にそのまま身を(かが)めた。
「――知覚系統が得意でない、というのは控え目な表現だったようだな」
 そして、頭上から降って来た上官の呆れ声に、彼女の進退は(きわ)まった。

「ご用がおありでしたら、(わたくし)の方から出頭致しましたが」
 決してスムーズとは言えない手際でお茶(とお茶請け)の用意を終えたリーナが、質素なダイニングテーブルの向かい側に座ったバランス大佐に恐る恐る話し掛けた。(短期の拠点という位置付けなので、応接セットのような無くても良い調度品は置いていない)
 大佐はリーナの申し出に、直接的な答えを返さなかった。
「あるいは知っているかもしれないが、(わたし)の軍歴の大半は後方勤務で占められている。
 中でも人事関連業務が主たるキャリアだ」
 無論、バランス大佐のような有名人の経歴は、リーナも知っていた。名門ビジネススクールを優秀な成績で卒業し、その肩書きに恥じぬ辣腕を振るっていることも、そのキャリアの中では数少ない前線勤務においても、文句のつけようがない軍功をあげたことも。
「その私の経験が告げているのだが、シリウス少佐」
「ハイ」
 リーナはピンと背筋を伸ばして、固い声で応えた。笑顔で聞けない話だと、半ば本能的に理解していた。
「今回の作戦において、貴官はターゲットに過度のシンパシィを寄せているのではないか、と私は懸念している」
 バランスの指摘に、リーナは言葉を返せなかった。
 心構えは出来ていたつもりだったのだが、いざとなってみると、まるで役に立たなかった。
「……小官は、そのような……」
「そうか? 私の思い過ごしであれば、それに越したことはないが」
 そう言って、バランスは椅子の上の、リーナの鞄に目を向けた。
 リーナの肩に力が入る。
 鞄の中のアレを見られたなら、彼女が偽りを述べていると、そう思われても仕方がない。彼女に対する嫌疑は、確信に近い強いものとなってしまうことだろう。いくら彼女が「誤解だ」と主張しても、信じてもらうのは無理かもしれない……
「貴官の特殊な事情は私も理解しているつもりだ」
 だが、バランスは「鞄の中を見せろ」とは命じなかった。
「スターズの歴代総隊長の中で十代にしてその職に就いたのは貴官だけだ。
 現代魔法の技術・理論体系により開発された魔法師は、一般に新しい世代ほど魔法のポテンシャルが高いとはいえ、若すぎるという声も少なくなかった。私も意見を求められたならば、貴官の総隊長就任に反対を具申していただろう。
 貴官は未だ十六歳。
 自分の十六歳当時を振り返ってみても、感情をコントロールするのが難しいのは分かる」
 上官が自分のことを真摯に案じてくれていることは口調や雰囲気から判ったので、リーナも神妙な面持ちで耳を傾けていた。
 だが、リーナの少し固い表情を見て、バランス大佐は何故か、チョッと拗ねたような顔になった。
「……君から見れば私はオバサンかもしれないが、私にだって十代の頃はあったんだぞ」
「滅相もありません! 小官は決して、その様なことなど!」
 思いがけないにもほどがあるバランスの言いがかりに、リーナは飛び上がって必死の勢いで弁明した。
 だが驚くのと同時に、リーナは可笑しさと安堵を感じていた。
 女性士官として非の打ち所がない、まるで隙が無いように見えていた大佐の見せた、思いがけず「可愛い」姿は、リーナの緊張を和らげる効果があった。
「……まあ、いい。今の発言は忘れてくれ」
 失言だった、という顔をしているところを見ると、意識的な演技ではなく巧まざる素の表情だったのだろう。
「……確かに小官は、タツヤ・シバにUSNAの軍人として好ましくないシンパシィを懐いています」
 だからこそ、リーナも少しは、素直になることが出来たのだろう。
「ですがそれは、決して恋愛感情やそれに類するものではありません。
 小官が彼に懐いている感情は、寧ろ、ライバルに対する競争心です」
「ライバルか」
「はい。
 大佐殿も報告書でご存知のことと思いますが、小官は一度、タツヤ・シバに後れを取っております」
「なる程。“シリウス”就任以来、魔法戦闘で負けたのは、初めてか」
「はい」
 本当は、模擬戦でカノープス少佐を始めとする隊長クラスに苦杯を嘗めたことが何度かあるのだが、それらは(いず)れもこちらが一人、相手が複数の条件だったし、それを今持ち出して、大佐の発言を訂正する必要はなかった。
「分かった。
 そういうことなら、話もしやすい」
 大佐の語調が微妙に変化し、纏う雰囲気にヒヤリとした冷気が混じった。
 それだけでリーナは、モラトリアムの終わりを覚った。
「脱走者の追跡、処分は優先順位を下げる。
 シリウス少佐。
 現時点より、『質量・エネルギー変換魔法』の術式または使用者の確保を最優先の任務とする。
 確保が不可能な場合は、術式の無力化もやむを得ない」
 魔法の術式無力化とは、誰にも使用できなくするということ。
 即ち、術者の抹殺だ。
「まず、タツヤ・シバをターゲットと仮定。
 第一波として明日の夜、“スターダスト”を使いターゲットに襲撃(アタック)を掛ける。
 貴官はブリオナックを装備し、自己の判断により、適時介入せよ」
「――了解(イエス・マム)
 リーナは表情を消して立ち上がり、バランスに向けて敬礼した。

◇◆◇◆◇◆◇

 エリカの通学時間は、一高生の中で長い部類に属する。
 入学時、学校の傍に部屋を持つことも勧められたが、彼女は自宅から通うことに固執した。
 親離れ出来ていないから、ではない。
 その逆だった。
 父親がマンションを用意するといったので(エリカの為に「借りる」ではなく、エリカに「買ってやる」と父親は言ったのだ)、彼女は「家から通う」と意地になったのだった。
 多少の不便は、どうという事もなかった。
 父親や長兄の、言いなりになる不快感に比べれば。
 駅から自宅まで、すっかり暗くなった通学路を、エリカはコミューターも使わずに歩いて帰る。
 彼女のような美少女には余りお勧めできない行為だが、家族は余り――と言うより全く――心配していなかった。
 エリカに危害を加えられるような腕の持ち主が、痴漢やひったくりなどという小悪党に甘んじているはずがないからだ。
 それは身贔屓ではなく、客観的な事実だった。
 今日も何事もなく、エリカは家の門をくぐった。
 彼女の部屋は母屋に無く、道場と並んで建てられた離れが彼女の「家」だ。
 ()しくもそれは、レオと同じ住環境だった。(但しエリカはそれを知らない)
 しかしその背景を成す事情は、まるで異なる。
 彼女以外に住む者の無い離れの、自分の部屋に入るや否や、エリカは鞄を放り投げて、制服のままベッドに倒れ込んだ。
 今日は朝から毎年恒例のイベントで、いい加減疲れていたところに、一日中窺い見る視線に曝されてウンザリしていたのだ。
 自分の容姿がそこそこ優れていることを、エリカは自覚している。(客観的には、やや控え目な評価だが)
 だから今日という日に、同年代の少年(一部少女)から関心を向けられるのは仕方の無い事だと解ってはいるのだが……
(だったらあたしが義理チョコなんてタイプじゃないのも分かるでしょうに)
 所詮、見られているのは外見だけか、と自分で出した結論に、疲労感がますます酷くなった。
 自分の容姿は、嫌いではない。
 不細工よりも、美人の方が良い。
 損得抜きで、彼女はそう思っている。
 深雪のように美少女過ぎると得な事より苦労の方が多そうなので、自分くらいがちょうど良い、とエリカは思っている。
 でも、外見だけで判断されるのは、嫌だった。
 見てくれでチヤホヤされるのは、寧ろ嫌いだった。
 見た目だけで向けられる好意は、それが過剰な好意であったなら、好きになった側だけでなく好きになられた側にとっても不幸の元でしかない。
 エリカはそう、確信している。
 目が自然に箪笥の上へ向いた。
 そこには小さな写真立てが飾られている。
 デジタルフォトではなく、印刷した写真に写っているのは、エリカより更に明るい、金髪に近い栗色の髪の、彼女によく似た面差しの女性。
 あと十年も経てば、エリカと写真の中の女性はそっくりになるだろうと思わせる相似性。
 エリカが十四歳の時に他界した、彼女の母親の写真だった。
 彼女を産んだ女性であり、彼女がこうして離れに独りきりで暮らしている原因を作った女性でもあった。
 アンナ=ローゼン=鹿取。
 それがエリカの母親の名前だ。
 名前と外見からある程度予想されるとおりの、日独ハーフ。
 そして、姓は「千葉」ではない。
 エリカの母親は、エリカの父親、百家・千葉家当主の、今風の婉曲な言い方をすれば「愛人」、昔風の身も蓋もない言い方をすれば「(めかけ)」だった。
 エリカが「千葉」の姓を名乗るのを許されたのは母親が死んだ後の事で、しかも高校入学直前まで――具体的には「千葉エリカ」の名前で入学試験を受けるまで――は、内々のみで許された事だった。(だから達也は「千葉エリカ」の存在を知らなかった)
 エリカが産まれたのは正妻が病死する前だ。
 病床に伏せる妻が在りながら「そういうこと」をしていたのだから、両親共に言い訳の余地は無い、とエリカは思っている。
 冷たいようだが、その点については母親に非があると割り切っている。
 だからといって、母親だけが悪者扱いされるのは断じて認められなかったが。責任の大半は、あの父親にあるのだから。
 蔑みの目の理由も分からず、小さな身体を更に縮め息を潜めて日々を過ごしていた頃もある。
 自分と母親を認めさせる為に、ただガムシャラに剣を振っていた時期もある。(彼女が千葉道場のアイドルになったのはこの頃の事だ。十代、二十代の若手道場生の中でも特に腕利きの弟子が集まって「エリカ親衛隊」が結成され、母親の死を切欠(きっかけ)に剣術に対する熱意を失ったように見えたエリカの為に、色々とお節介を焼いたりもしていた)
 過去を振り返ってみれば、今が彼女のこれまでの人生で、一番楽しくて一番充実していると、改めて思える。
 素直に「敵わない」と思わせてくれる女友達と、どれだけ目を凝らしても底が見えないボーイフレンドと。
 ほのぼのさせてくれるクラスメイト、
 弄り甲斐のある喧嘩友達、
 同じく弄り甲斐のある幼馴染み。
 彼女の「力」を認めてくれる仲間たちと、彼女が力を(ふる)うことが出来る機会。
 今は、剣を振るのが楽しかった。
 斜に構えて時間を無駄にするのが、もったいなかった。
 彼らとならば、何処までも上がって行けそうな気がする。
 だから――つまらない恋愛遊戯で、煩わせないで欲しかった。
 そんな事を考えながら、ボンヤリ天井を見ていると、不意に、ドアホンのチャイムが鳴った。
 呼び出しではなく、ドアが開いた合図だ。
 鍵を掛けていなかったから、勝手に入って来たのだろう。部屋を覗かれた訳ではないから、そんなに神経質になるつもりも無い。
 時計を確認する。
 彼女が食卓につくには、まだ早い時間だ。
 二人の兄(いずれも異母兄)はともかく、姉(こちらも当然腹違い)は彼女と同席するのを露骨に嫌がるので、彼女の方で時間をずらしているのだ。(姉は生真面目すぎて、からかっても余り面白くなかった)
 誰だろう、と身体を起こしたところで、部屋のドアがノックされた。
 抑えられた足音、乱れの無い息遣い、制御された気配で、該当するのは二人の兄に絞られた。
 長兄は例の事件に掛かり切りで、毎晩遅くまで帰って来ないはずだから――
次兄上(つぐあにうえ)ですか? どうぞお入り下さい」
 そう答えた時には、ベッドの上から机の前へ移動済みだった。
「寛いでいたところに悪いね、エリカ」
 エリカは机の前で、ドアの方へ回転させた椅子に、キチンと背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いて座っていたのだが、次兄の修次(なおつぐ)はチラリとベッドを一瞥しただけで、申し訳なさそうに、そう口にした。
 まあ、「千葉の麒麟児」と謳われるこの兄の眼力を以てすれば、この程度は驚くに当たらない。
 実際エリカは、眉一つ動かさなかった。
「いえ、少し身体を休めていただけですので。
 それで、何かご用がお有りなのでは?」
 夏休みは「あの女」と一緒にいるところを見て、つい逆上してしまったが、そうでもなければこの兄の傍らは、昔から、エリカにとって心の安まる場所だった。
 この兄に向かって大声をあげたりするのは、「あの女」が絡んだ時だけだ。
「ああ……言うべきか言わざるべきか、迷ったんだけど……やっぱり伝えておこうと思ってね。
 エリカのクラスメイトに司波達也君という少年がいるだろう?」
「ええ。彼が何か……?」
 顔には出さなかったが、エリカはこの時、結構動揺していた。
 次兄からいきなり達也の名を聞く事になるなど、完全に予想外だった。
「彼は国防軍から監視されている」
「……はっ?」
「いきなりのことで、信じられないのも無理はない。
 だけど本当の事だ」
 確かにいきなりのことで信じられなかったが、信じられない理由は多分、修次が思っているものとは別だった。
 エリカは達也が国防軍の部外構成員であるという事を知っている。
 あの時、彼を連れ去った士官は、達也が国防軍に所属しているのは国家機密だと言っていた。
 末端の軍人が彼の身分を知らないという事は、十分にあり得る。
 だが、非正規とはいえ身内である達也を、同じ国防軍の人員を使って監視することに、笑えもしないバカバカしさを感じたのである。
 もっとも、呆れていられるのはそれが自分と関わりのない第三者に与えられた任務だからこそで……
「僕も非公式の命令を受けた」
 身内が関わるとなれば、バカにしてばかりもいられなかった。
「まだ正式任官前の次兄上を使わなければならない任務ですか?
 それは一体、どのような……」
「彼を監視し、必要とあれば護衛せよ、と」
「監視と……護衛、ですか?」
「ああ。どうやら司波君は、軍が動くレベルの厄介事に巻き込まれているようだね」
 そんなの今更だし、巻き込まれていると言うより当事者そのものじゃないかなぁ、とエリカは思ったが、達也の為にも修次の為にも、それは口にすべきではないと思い、黙っていた。
「エリカ、しばらく司波君の周囲には近づかない方が良いと思う」
「それは、学校の中でも、ということですか?
 (わたくし)と彼は同じクラスなのですけど」
 いくら尊敬する次兄の指示だからといって聞ける話ではなかったが――相手が長兄ならば鼻先で笑い飛ばしていたに違いなかった――、かなり焦臭(きなくさ)い話のようでもあったので、エリカは取り敢えず探りを入れてみることにした。
「いや、流石に学校の中で襲われることは無いと思う」
 つまり襲撃の主体になるのはリーナとは別口、リーナが襲撃に加わるとしても別の部隊と連携する見込みが高いということか――とエリカは判断した。
「でしたら兄上、ご懸念には及びません。
 司波君とは駅まで一緒に帰るくらいで、帰宅後一緒に遊びに行くような仲ではありませんから」
「そうか。
 本当は一緒に登下校することも避けるべきなんだが……不安を煽るのも良くないからね」
 その言葉で、達也を護衛するより達也を囮にする方が、修次に命令を下した派閥の主な目的だと分かった。
「とにかく、気をつけるんだよ、エリカ」
「ありがとうございます、兄上」
 ――言われたとおり、達也くんと一緒に気をつけます、とエリカは心の中で付け加えた。

◇◆◇◆◇◆◇

 家に帰って深雪が真っ先にしたことは、兄の手からチョコ満載の布袋を奪い取って、そのまま冷蔵庫に放り込むことだった。
 去年まではせいぜい一、二個だったので、二人きりになった時の妹の反応が懸念されたのだが、思ったよりも冷静な対応で達也はホッとしていた。
「お兄様、すぐに夕食の準備に取り掛かりますので、しばらくお部屋でお寛ぎください」
 キッチンまで様子を見る為について来た達也へ、クルリと振り返って、深雪は不自然な笑顔満開で、そう釘を刺した。
 翻訳すれば、呼ばれるまで見に来るな、ということだ。
 去年までと異なる展開に一抹の不安を覚えながら、達也は大人しく自室にこもった。

 そして、約一時間。
「そう来たか……」
 達也は思わず、声に出して呟いていた。
 ダイニングに充満するチョコの甘い香り。
 真由美の薬モドキとは訳が違う、正真正銘、誤解の余地無き、チョコレートの匂いだった。
 深雪が笑顔で――今度は自然な笑みだった――席に着くように促す。
 その姿もまた、達也を唖然とさせるものだった。
「どうなさいました?」
 笑顔を悪戯っぽいものに変えて、深雪がちょこんと首を傾げた。
 明らかに、分かっていてやっている顔だ。
「……その衣装は何処で手に入れたのかと思ってな」
「衣装、ですか? これは単なる、給仕用の服ですが」
 そう言われれば確かに、用途としては合っている、かもしれない。
 しかし、TとOはともかく、Pについては相応しいと思えなかった。
 ここが一般家庭のダイニングではなく、ある種の趣味人が集うレストランであったなら、TPOに適っているとも言えただろうが。
 パフスリーブのブラウスに、胸元が編み上げになったジャンパースカート、フリルたっぷりのエプロンに、頭にはカラフルな三角巾。つまり、チロリアンドレス・スタイルだった。
 料理に合わせたコンセプトは理解できるとしても、少々やり過ぎではないだろうか……
「……あの、似合っておりませんか……?」
「いや、似合っているよ。とても可愛い」
 そう思いながらも、妹に不安げな声で問われれば、ついそう答えてしまう自分に、達也はガラにもなく、頭を机か柱にぶつけたくなった。
「ありがとうございます!」
 彼の心中とは裏腹に、深雪は上機嫌で次々と料理を並べて行く。こうなれば、達也も食卓につかない訳にはいかない。
 で、肝心な、今日のメニュー。
 メインの肉料理は、鶏肉のチョコレートソースがけ。
 付け合わせはナッツぎっしりクッキーのチョコレートフォンデュ。
 デザートはフルーツの、こちらはブランデーを加えたホワイトチョコレートフォンデュ。
 誇張抜きの、チョコずくめだった。
「お兄様、どうぞ召し上がってください。深雪がお兄様の為だけにご用意した、バレンタインチョコレートです」
 確かにこれは、一緒に住んでいないと出来ない真似だ。
 お菓子ではなく料理としてチョコレートを出すというのは。
 それにこれなら、確実に今日、達也の口に入る。
 深雪が知恵を絞った結果だった。

 デザートを食べ終わる頃になると、深雪の顔がかなり赤味を帯びてきた。
 ホワイトチョコレートのフォンデュを食べながら、ブランデーのアルコールが十分に抜けていないんじゃないか? と達也は懸念していたのだが、どうやら気の所為ではなかったようだ。
 深雪はお付き合い程度の量しか食べていないから、アルコールの摂取量も多寡が知れているはずだが……
「深雪、大丈夫か?」
「はい? 何がでしょうか?」
 キョトンとした顔で問い返しながら、片付けに立ち上がる深雪。
 その返答は、少しばかり呂律(ろれつ)のあやしいものだった。
 深雪はお皿を全て重ねて、一度に持って行こうとしている。
 危ない、と達也は感じた。
 普段の深雪であれば、二回か三回に分けて運ぶ量だ。
 おそらく、意識していない疲労の所為で、一度に済ませてしまおうという無意識の欲求が働いたに違いなかった。
 達也は静かに、素早く、テーブルを回り込んで、
「きゃっ!?」
 案の定、足をもつれさせた妹の身体を抱き留めた。
 食器の割れる音はしなかった。
 片腕で深雪を庇うと同時に、もう片方の手でお皿を残さずキャッチしていた。
 スムーズに身体を回転させ、食器をテーブルに戻す。
 その上で改めて、両手で妹の身体を支え、しっかり立たせた。
「あ……ありがとうございます、お兄様」
「深雪、少しソファで休んでいなさい」
 深雪は大丈夫です、とは、強がらなかった。
 強がった結果、達也に余計迷惑を掛けるのは、最悪だったからだ。
 それに、シンクに食器を積み上げておけば、後はHARが片付けてくれる。大した手間にはならないと分かっていたから、兄に後片付けをさせることに対する罪悪感は最小限で済んでいる。
 ただ、気持ちが落ち込むのは、避けられなかった。
 せっかく良い雰囲気で来ていたのに、最後の最後でドジを踏むなんて……というのが、深雪の偽らざる思いだ。
 何か、人知を超えた存在の、嫌がらせを疑わずにいられない。
 いや、そもそも嫌がらせと言うなら、妨害と言うなら、呪詛と言うなら。
「……何故、わたしはお兄様の、妹なのかしら……」
 ため息と共に、つい、口をついて出てしまった言葉。
 零れてしまった本音の欠片。
 心を映す鏡の、破片。
 昨日から何度も、心の中でリフレインされていたフレーズ。
 深雪は慌てて振り返った。
 今の台詞は、決して兄に聞かれてはならないものだった。
 伝えてはならない想いだった。

 本当に、達也の妹でいることに、不満はないのだ。

 妹だからこそ、深雪は達也と一緒にいられるのだから。
 自分が妹だからこそ、兄は常に、自分を気に掛けてくれるのだから。
 しかし――別の関係を望む自分も、確かに、心の中にいる。
 それは未だ、欠片に過ぎない。
 だがいつか、その自分の欠片が、妹で良いと思っている自分に、取って代わるかもしれない。
 それを、深雪は、恐れていた。
 それを望む自分がいることを、兄に知られるのを、恐れていた。
 振り返った視線の先、達也はまだ、シンクの前にいた。
 彼の鋭い五感を以てしても、小さな呟きは聞き取れない距離。
 深雪は胸を撫で下ろした。
 心の片隅で、聞いて貰えなかったことを残念に思いながら。
 そんな自分から、目を背けて。


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