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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第五章・来訪者編
5-(15) 勝利無き結末

 雷雲どころか薄霞一つ無い空中から、電撃の雨が降り注ぐ。
 雷ではない。
 その速度は秒速二十万キロメートルに遠く及ばず、目で視認できる速度。
 精々、クロスボウから射出される矢のスピードだ。
 だがその小型サイズの球電でも、人を行動不能に至らしめるに十分だった。同時に十発も喰らえば、おそらく、死に至る。
 それに、いくら目で追えるとはいえ十メートルに満たない距離から撃ち出されては、防壁を準備する時間的な余裕もあまり無い。
 初撃を防ぎ止めることが出来たのは、その前の自爆を攻撃と誤認識して展開した防壁の効果が残っていたからだ。
 この攻撃がいきなり繰り出されたなら、全員無傷とは行かなかったに違いない。
 そしてまだ、危機が去った訳ではなかった。
 深雪の背後に生じた閃光を、深雪が振り返るより早く、達也の魔法が消し去った。
 エリカの頭上に生じた球電は、深雪が作り出した氷の粒子群を帯電させて消えた。
 克人の障壁が電光を阻み、リーナのプラズマが電荷を中和した。
 起動式が使用された形跡は見られなかったが、球電を作り出したのも、球電に運動ベクトルを与えたのも、サイオンで編まれた魔法式による事象改変だ。
 電子が分子から分離させられ空中に収束する事象改変の兆候を読み取ることで、ランダムなポイントに生じているように見える攻撃に、辛うじて対処が間に合っている。
 術者の姿は無い。
 少なくとも、達也に「視える」範囲にはいない。
 達也が「視界」に捉えているのは、魔法師ではなかった。
(あれがパラサイトか!)
 魔法は、情報の海を漂うプシオンの塊から放たれていた。

◇◆◇◆◇◆◇

 幹比古と美月は、他の五人からやや離れ、トレーラーの陰に身を潜めていた。
 空中に生じた閃光が、友人たちに届く前に四散する。
 それが今、美月の見ているものだ。
 魔法の兆候や余波は見えていない。
 魔法的な波動のほとんどを遮断する結界。
 さっきの経験から、美月にはそれが必要だと幹比古は判断したのだった。
 そのお蔭で、二人は電撃に曝されないでいる。
 肉体を放棄した情報生命体には、光や音を認識する手段が備わっておらず、魔法的な波動でこの世界を知覚しているようだ。
 友人たちの置かれた状況は、芳しいものではなかった。
 攻撃は散発的であり、不意打ちの性格が強いもので、圧倒されているという感は無い。
 だが反撃が出来ない。
 攻撃する相手の位置が分からない。
 魔物の攻撃が達也たちを傷つけられない代わりに、達也たちも魔物を仕留めることが出来ずにいる。
「おかしいな……何故逃げないんだ……?」
 美月の耳に、幹比古の呟きが聞こえた。
 それを聞いて、今まで気にならなかったことが、急に気になり始めた。
 吸血鬼であったもの――パラサイトは、何故通用しない攻撃を繰り返しているのだろうか。
 パラサイトに意思や判断力があるとは限らないが、仮に本能的な、あるいは機械的な行動だったとしても、この場に留まり執拗に攻撃を続けている理由があるはずだ。
 それは一体、何なのだろう?

◇◆◇◆◇◆◇

 事象改変に結びつく前に、魔法式を分解する。
 起動式の展開プロセス、あるいはそれに代わるものが無かった所為で最初は要領が掴めなかったが、達也は既にほぼ百パーセント、パラサイトの魔法を撃ち落せるようになっていた。
 攻撃に対処する余裕が出来たことで、疑問を覚える余裕も心に生じる。
「司波、何故だと思う?」
 それは克人も同じであるようだった。
 今、達也と克人は、深雪、エリカ、リーナを間に挟む形で、背中合わせの陣形を取っている。
 お互いの顔は見えないが、質問の意図を理解するのに不自由は無かった。
「意図的なものか本能的なものか分かりませんが、俺たちをこの場に留めたい理由があるようですね」
「逃げる気になれば、いつでも逃げられるということか」
「少なくとも俺には、拘束する手段がありません」
「俺もだ。そもそも何処にいるのか分からん」
 達也も克人と似たようなものだった。
 情報の次元の中で何処に位置しているかは視えていても、それが現実世界の何処に対応するのかが分からない。物質次元における座標が明確に定義されていない。
 物質的な存在との関連性が酷く希薄で、魔法を発動する為だけに必要な、細い糸で辛うじてつながっている感じなのだ。
 それに相手はプシオン情報体。座標が分かっても構造が解らなければ、達也には攻撃手段が無い。
「リーナ、何か知らないか」
 その台詞の最中に、達也は振り返りざまエリカにCADを向け、引き金を引いた。彼女の隣で生じかけていた魔法の兆候が霧散する。
「……ヴァンパイアの本体はパラサイトと呼ばれる非物質体よ」
 達也の質問に黙秘を決め込もうとして、そんな場合じゃないと思い直したのか。リーナは渋々、という口調で答えた。
「ロンドン会議の定義だろう。それは知っている」
 だが、達也の返事に、タップリ十秒、絶句した。
「…………何なの、アナタたちって。まさか日本の高校生が皆、こんなだって言うんじゃないでしょうね」
「安心しろ。俺たちは色んな意味で例外だ」
 特別、とは言わず、例外、と言った、その裏に潜む屈折した心情を、リーナが理解したかどうかは定かでない。
「それで?」
 達也自身も明確には意識していなかったのだから、分からなくても不思議はない。
「パラサイトは人間に取り憑いて、人間を変質させる。
 取り憑く相手は適合性があるらしいんだけど、宿主を求めるのは自己保存本能に等しいパラサイトの行動原理らしいわ」
「つまり、俺たちの誰かに取り憑こうとしているのか」
「多分」
「どうやって」
「知らないわ。ワタシが教えて欲しいくらいよ」
「……使えん」
「悪かったわね!」
 憎まれ口を交換している間にも、達也は克人と力を合わせ確実にパラサイトの攻撃をブロックしている。
 しかし、パラサイトのエネルギーも限りがあるはず、と達也は、希望ではなく、懸念を抱いた。
 情報生命体のエネルギー代謝のシステムは、彼にとって全くの未知。だが、無限に魔法を放ち続けることが出来るとも思えない。
 彼らに取り憑くことが出来ないと判断したなら――それが意思的な判断であれ本能的な判断であれ――別の場所に宿主を求めて移動してしまうかもしれない。
 だからと言って、わざと寄生させるなど、取り得る手ではない。彼はそこまで、自分のことを過信していなかった。
 ――打開策が、見えない。

◇◆◇◆◇◆◇

「まずいな……エリカが狙われている」
 美月を背中に庇いながら、仲間たちの様子を見ていた幹比古の呟きは、意識せずに漏れたものだった。
「エリカに対抗手段が無いことを察知されたのか……」
 エリカの魔法技能は基本的に、実体を持つもの相手の白兵戦技に偏っている。
 薄く研ぎ澄ませた衝撃波を飛ばす程度のことは出来るが、実体を持たない敵を相手取るスキルは無かったはずだ。
 幹比古本人は認めたがらないかもしれないが、彼は焦っていた。
 もう少し落ち着いていたら、美月が聞き耳を立てていたことに気付いたに違いないし、もし気付いていたならこんな不用意な呟きは洩らさなかったはずだ。
「せめて何処にいるのか分かれば、手の出しようもあるんだけど……」
 幹比古の独り言を聞いて、美月は決心を固めた。
「吉田くん、結界を解いて下さい」
「えっ?」
 美月の存在を忘れていたわけではないが、不意に、思い掛けない要望を受けて、幹比古は狼狽気味に問い返した。
「柴田さん、何を?」
「何処にいるのか、分かるかもしれません」
 それを聞いて、心の中で呟いていたつもりの言葉が声になってしまっていたと、幹比古はようやく気付いた。
 しまった、という思いが顔に出てしまう。
 もっとも、美月にそれを気にした様子は無かった。強い意志を込めて、幹比古をジッと見上げている。
「……ダメだよ、刺激が強過ぎる。
 妖気を抑えた状態でもあれだけ影響があったんだ。
 妖気を解放した今の状態でアレを直視したら、どんな事になるか分からない。最悪、失明の可能性だってあるんだよ」
「魔法師であることを選んだ以上、リスクは覚悟の上です。
 エリカちゃんが危ないんでしょう? 今、役に立たなかったら、私の持っている力は無意味なものだし、私がここにいる意味もありません」
 美月の言いたいことは分かる。
 幹比古は、そういう価値観の中で育って来たのだから。
 だが美月はそれなりに裕福で平凡な――魔法技能を持たないことを平凡と言うならだが――家庭に生まれ、先祖返り的に「見鬼」の能力を持って生まれた少女だったはずだ。彼女が生まれなければ先祖に術者の家系が交わっているということも分からなかった程の、薄い、傍系の血しか持っていない、魔法に携わる者の心構えとは無縁な両親に育てられた少女であるはずなのだ。
 そんな覚悟を持つ謂われは無い、
 そんな覚悟を持つ必要は無いはずの、少女。
 そんなことを言っちゃダメだ――と、幹比古は口にしたかった。自分を魔法の付属物と見做すような考え方は、魔法によって糧を得、多くの見返りを手にしてきた自分たちの様な人種が持っていれば良いもので、偶々(たまたま)魔法の才能を持って生まれただけの少女が持つべきものではない、と思った。
 自分もまた「少年」でしかないという事実を棚に上げてそんなことを考えていた幹比古は、
「……分かったよ」
 結局、美月に頷くことしか出来なかった。
 彼自身を縛る、名門魔法師の価値観に強いられて。
 幹比古はブレザーのポケットから折り畳んだ布を取り出して美月に渡した。
 訳が分からないまま受け取った美月に、「広げてみて」と指示する。
 布は、意外に思うほど薄く、ショールと同じくらいの面積があった。
「それを首に掛けて。
 危ないと思ったら、その布で目を覆うんだ。
 柴田さんが掛けているメガネより効果はあるはずだよ」
 幹比古の強い語調に押されたのか、疑問を呈する素振りも無く、美月は薄い布を首に巻いた。
 と、幹比古の手が伸びてきて布を首から解き、左右同じ長さになるように肩から胸の前へ垂らした。
 首や肩に触れられて美月の身体が緊張に強張ったが、幹比古はまるで気づいていない。
「約束して。決して、無理はしないと。
 自分の為に誰かが犠牲になることなんて、エリカは望んでいないはずだから」
「……約束する」
 幹比古にじっと見詰められ、美月は羞恥心を忘れて頷いた。

 行くよ、という幹比古の声に、美月は彼に渡された布の両端をギュッと握り締めた。
 はい、と答えを返すのに、たったそれだけの短い返事に、声が震えないよう気力を振り絞らなければならなかった。
 怖くない、と強がることも出来ないほど、怖かった。
 ただ不思議と、逃げ出したいという気持ちは起こらなかった。
 これは自分の役目だという、奇妙な確信があった。
 幹比古が美月に聞き取れない言葉を呟いた。
 次の瞬間、混沌の波が押し寄せて来た。
 目が痛いと感じる間もなかった。
 全身に激痛が走った。
 何処が痛いのかさえ、分からない。
 折れそうになる膝に精一杯の力を入れ、目を見開く。
 普段、自分がどれほど多くのものから目を背け、目を閉ざしているのか――美月はそれを思い知らされた気がした。
 異界と化した視界の中で、一際目立つ、異物。
 それがパラサイトだと、美月は直感的に理解した。
 パラサイトの放つ魔法が、克人の障壁にぶつかり消える。
 その電撃に隠れて伸びる細い糸が、美月には見えた。
 その糸は魔物の「身体」から何本も伸びている。
 長く、細く、深雪に、リーナに、エリカに迫り、克人の壁に阻まれ、達也の銃撃に千切れて消える。
 その糸は、電撃に紛れ、生体電流に乗って、人の身体に侵入しようとしているのだと、理由も無く理解できた。
 そういう風に「見えて」いた。
「あそこです」
 自分の口が勝手に言葉を紡ぎ、自分の腕が勝手に指差すのを、美月は銀幕の向こう側の観客の様に、俯瞰していた。
「エリカちゃんの頭上、約二メートル、右寄り一メートル、後ろ寄り、五十センチ。そこに魔物が使っている接点があります」
 糸がこの世界に伸びて来る穴を、美月は指し示す。
 幹比古は答える間も惜しんで、CADに指を走らせた。
 扇形の、専用デバイス。
 迦楼羅炎の術式が記された短冊を開き、サイオンを注ぎ込み、形成された起動式を回収する。
 対妖魔(アンチ・デーモン)術式・迦楼羅炎――情報体に外的なダメージを与えることを目的とした、「炎」の独立情報体が美月の指定した座標に向けて射出された。

◇◆◇◆◇◆◇

 達也は、「燃焼」の概念を持ちながら「何かを燃やす現象」として具現化せず、現象と切り離された情報体として投射された魔法式が、パラサイトにダメージを与えるのを確かに見た。
 敵を前にした状況でありながら、驚きを禁じ得なかった。
 SB魔法――精霊魔法の基本原理は達也も知っている。
 現象と切り離され情報の次元を浮遊する独立情報体に干渉して、その独立情報体が記録する現象を具現化する、それが精霊魔法のシステム。
 今、幹比古が見せた魔法も、理屈は同じだ。
 違っていたのは、物質次元に現象として具現化するのではなく、情報として具現化した点だった。
 情報の書換そのものを目的とする魔法なら、珍しくも目新しくもない。
 彼が使う情報体分解の魔法も、ある意味で情報の書き換え自体を目的とした魔法だ。
 だが幹比古の使った魔法は、「現象には情報が伴い、現象に伴う情報は情報の次元に記録される」という、魔法理論の土台を為すシステムを利用して、現象に伴う情報のみを発生させることで物質次元に干渉せず情報の次元にのみ干渉するものだ。現実の世界で生じていない「燃焼」が、情報の次元で「そこにあるものが燃える」という情報の書換を引き起こしているのだ。
 魔法のシステムはこういうもの、という概念を逆転させたような魔法。
 だが、それ以上に彼を驚かせたのは、今まで曖昧にしか捉えられなかったパラサイトの座標が、急にハッキリと見え始めたことだった。
 それはまるで、不確定だったパラメーターに、いきなり具体的な数値が与えられたような感じだった。
 シュレーディンガーの猫、というフレーズが脳裏に浮かんだ。
 箱の中の猫が生きているのか死んでいるのか、箱を開けてみないと分からない、というあの思考実験の本質は、提唱者の意図に反して、観測者に観測されることによって不確かだった事実が確定する、という点にある。コペンハーゲン解釈を採用してもエヴェレット解釈を採用しても、観測者にとって不確定な事実が確定するという結果は同一だ。
 パラサイト――「魔物」と呼ばれる情報体の場合は、観測者に観測されることによって、観測者にとってだけでなく、第三者にとっても同じ事が起こるのだろうか?
 美月が視認したことで、物質次元における存在が強まったのだろうか?
 だとするならば……
(今度は美月が危ない!)
 自らの属性情報に変更を加える程の力を持つ視線に、気づかぬはずはない。
 達也は慌てて「眼」を凝らした。
 そこでは、彼が懸念したとおりの光景が展開されようとしていた。
 思慮は一瞬。
 達也は、CADを持っていない左手を、美月へ向けて突き出した。

◇◆◇◆◇◆◇

 見ている者は、見ている相手から見られている。
 ニーチェの言葉を借りるまでもなく、これは道理だ。
 見る為には視線の通り道が必要で、視線が通る道筋があれば相手から見ることも可能なのだから。
 美月がパラサイトを視認したことで、パラサイトの方も美月に「目を付けた」のだ。
「来ます!」
 美月の上げた、悲鳴のような警告を聞いて――あるいは、悲鳴そのものだったのかもしれない――幹比古は咄嗟に結界を再展開した。
「どこに!?」
 急拵えの防壁に可能な限りの強度を付加しながら、幹比古はパラサイトの正確な位置を求めた。
 ほとんど反射的に発動した防御の魔法は、(さき)の結界の再展開。
 隠蔽を主目的としたものだ。
 侵入を防ぐ効き目は薄く、一旦認識されてしまうと隠蔽の効果は半減する。
 こちらから攻撃を仕掛ける必要性を、幹比古本人が知っていた。
 しかし。
 それに応える余裕は、美月に無かった。
 彼女は両目を押さえてしゃがみ込んでいた。
 幹比古に、それを責めることは出来なかった。
 美月が、「魔」と対峙する事など無い、そのような経験とは無縁な、普通の女の子だと幹比古は知っていた。
 だからエリカは幹比古に美月を守るよう求めたのだし、幹比古もそのつもりだった。「魔」を目前にして美月が何も出来なくなるのは織り込み済みで、そうならないように距離を取っていたのだ。
 それを、彼自身の計算違いで間近に迫られて、予想通り美月がパニックに陥ったからといって、どうして彼女を責められようか。
 それに――そんな余裕も、無かった。
 パラサイトから「糸」が伸びる。
 幹比古にその糸は見えなかったが、電光に紛れて「何か」が美月を絡め捕ろうとしているのは判った。
 幹比古も、手を(こまね)いていた訳ではない。
 正体を見極められなくても、霊的な干渉を断ち切る術はある。元々、幹比古たち古式の術者は物質的な現象に介入するより、霊的な現象に対処する方が専門分野だ。
 だが同時に、古式魔法の伝統的な術法は準備に時間を要するものが多い。咄嗟の対応速度に劣っている、そのことが、現代魔法を主流に押し上げ、古式魔法が傍流に甘んじている理由なのだ。
 それでも幹比古は、結界に開いた穴に向かって魔的な干渉を遮断する術法「切り祓い」を行使した。威力は儀式魔法に劣るものの、密教系魔法師の使う「早九字」に匹敵する速度を有する術だ。
 剣を模したサイオンがパラサイトから伸びる糸を切り裂く。
 だが、所詮は略式の術法。
 呪詛を断ち切ることは出来ても、本体を斬り伏せるには及ばない。
 すかさず伸びてきた別の糸が美月に迫る。
 幹比古は千日手を承知で、切り祓いを放とうとした。
 ――しかし、その刃は振り下ろされなかった。
 幹比古が切り祓うより速く、不可視の輝きを帯びた烈風が、その本体ごと「糸」を吹き飛ばしていた。

◇◆◇◆◇◆◇

 幹比古に借りた布は、確かに彼女のメガネで遮ることの出来なかった気持ちの悪い波動をシャットアウトしてくれた。
 だが不思議なことに、「気持ち悪さ」を感じなくなっただけで、見えなくなった訳ではなかった。ほの暗い光を明滅させ細い糸を何本も垂らして空中を漂う姿は、まるで空を飛ぶクラゲのようだ。
 だからといって、少しも恐怖感を和らげはしなかった。
 それに、弊害もあった。
 瞼を閉じても、見えなくならない。見たくないものが、見えてしまう。
 自分を侵そうと伸びてくる、極細の触手。
 それが彼女に見えているものだ。
 生理的恐怖と本能的恐怖で、まともに思考することも出来ない。
 幹比古が何かを叫んでいる、それは知覚していたが、何を叫んでいるのか、認識出来ない。
 この時間があと少しでも続いていたなら、彼女の心は深い傷を負っていただろう。
 身体が侵されるより早く、心が壊れていたかもしれない。
 その彼女を救ったのは、煌めくサイオンの奔流。
 半年前、実験室で見たのと同じ光景が、あの時以上の圧倒的な迫力を以て目の前に再現された。

◇◆◇◆◇◆◇

 咄嗟のことではあったが、魔法戦闘の最中にサイオンの活性度が不足するということはありえない。
 分解系の利き手は右手だが、術式解散グラム・ディスパージョンと違い術式解体グラム・デモリッションは右左に関係なく、CADを持たなくても撃てる。
 達也は瞬間出力の最大限まで振り絞ったサイオンを左手に集めた。
 やはり、美月に見られることでこの世界における存在が確かなものになっているのだろう。彼女に近づくにつれて、パラサイトの座標情報から揺らぎが減少し、分布が収束している。
 情報としては視えていても、何処にいるのか、何処からアクセスすればいいのか分からなかったパラサイトの存在が、今なら達也にもハッキリ判る。
 ただ、それを伝える時間は無い。
 幹比古に薙ぎ払われた触手――達也のイメージでは、不定形原生生物の糸状仮足に近い――は、すぐに再生され美月へと伸びている。
 口惜しいが、選択の余地は無かった。

 僅かに目を細め、

 照準を見据え、射線をイメージし、

 達也は、左手に凝縮したサイオン塊を解放する。

 放出点を掌に設定した術式解体のサイオン流が、パラサイトに襲い掛かり、触手と本体を纏めて吹き飛ばした。

◇◆◇◆◇◆◇

「柴田さん、大丈夫!?」
 動転の余り今にもひっくり返りそうになっている幹比古の声を聞きながら、達也は掲げていた左手を下ろした。
 自らの無系統魔法がもたらした予想どおりの結果に、苦い思いを噛み締めながら。
 術式解体は「解体」と名付けられているが、実態はサイオン流の圧力で情報体を押し流す術だ。
 対象が魔法式の場合は、エイドスから魔法式を剥ぎ取るように作用することで、魔法を無効化する対抗魔法として機能する。大抵の場合は魔法式の情報構造を、剥離の際の衝撃で破壊するので「解体」という名が付いているのだが、術式解体のサイオン流それ自体に情報体を破壊する効果は無い。魔法式より強固な構造を持つ情報体ならば、情報構造を壊されずに押し流されるだけ、という結果になることは、十分あり得ることなのだ。
 それを理解しながら、達也はあそこで、術式解体の使用を決断した。
 美月を救う為に。
 他の手を、思いつかなかったが故に。
「逃がしたか……」
 克人の呟きに、達也は応えを返せなかった。
 あの場面で術式解体を使えば、パラサイトを吹き飛ばしてしまうだけで、とどめを刺せずに逃がしてしまう結果になる可能性が高い。
 分かっていたことだ。
 達也はそう予測し、その通りになった。
「まあ、いい。逃がしたとはいえ、相手も無傷という訳ではあるまい。
 今回は被害が出なかったことで、よしとすべきだろう」
 克人の言っていることは、全くの気休めという訳ではない。
 予想外の反撃を見せたパラサイトに対し、こちらの被害は確かにゼロだ。
 だが今回の遭遇戦を仕掛けたのはこちらの方であり、もしかしたら相手に今日この場で戦闘に及ぶ意図は無かったかもしれないのだ。
 必ずしも不可避ではなかった戦いを選んだ以上、犠牲者を出さないのは最低ライン。第一目標は敵の捕獲、次善の勝利条件は敵の滅殺。それがダメなら、敵勢力の全容を解明するための新たな、有力な手掛かりを得ること。
 つまり、戦闘目的の達成という観点から見れば、今回の結末は零点に近い。辛うじてマイナスにならなかったというだけのものでしかない。
(無様なものだな……)
 声に出さなかったのは、せめてもの意地だ。
 声に出してしまえば、
 深雪が気にする。
 美月が気に病む。
 エリカが傷つく。
 それは達也にとって、無様の上塗りに他ならない。そんな置き土産を手に取るのは、真っ平だった。


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