ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。

 今回のエピソードにはかなり趣味的な似非科学が含まれております。
 そちらのご趣味が無い方は、該当箇所を読み飛ばしていただければ幸いです。
 一応伏線にはなっていますが、読んでいなくても重大な支障はないと思われますので。
第五章・来訪者編
5-(13) 来訪者の正体(前)

「吉田くん、東京タワー公園にシグナルを確認したわ。
 現在、飯倉交差点方向へ移動中よ」
『了解。こちらの現在位置は桜田通り虎ノ門交差点付近です。飯倉交差点に急行します』
「十分以内にお願い」
『分かっています。二分で到着見込みです』
 通信が切れる。
 今度は間に合いそうだ、と分かって、真由美はホッと息を吐いた。

 午前中の話し合いの結果、真由美が情報管制を担当し、克人とエリカが実働部隊を率いて動くという体制に落ち着いた。
 内輪揉めは有害無益、ということくらい、どちらにも解っていることだった。
 ただどちらも自分から歩み寄ろうとせず、それぞれ勝手にやっていた為に結果として味方同士足を引っ張り合う形となっていたのである。
 そういう意味では、騙し討ちの形で強制的に話し合いの場を設けた達也に感謝しなければならない。
 実に、癪に障ることではあるが。
 ……思い出したら、何だかまた、腹が立ってきた。
(見てなさい。バレンタインには思いっ切り苦いチョコを食べさせてあげるんだから)
 達也が目を白黒させている姿を想像して溜飲を下げ、真由美はモニターに注意を戻した。
 達也がもたらした手掛かりは確かに有益なものだったが、使い勝手は余り良くなかった。
 と言うか、悪かった。
 確かに、傍受用アンテナで電波パターンを捉えることは出来た。
 だが高度に交通システムが発達した都市で三時間もあれば、相当の距離を移動できるのである。
 一回の電波発信時間は、十分間。
 この間に、標的を捕捉しなければならない。
 今回、街路カメラと併設された傍受システムを使って初めて分かったことだが、「吸血鬼」は街路カメラでトレースできない。
 伝説、あるいはフィクションの設定のように、カメラに映らないということはなかった。
 だが、伝説・フィクションは全くの間違いでもなかった。
 どれだけピントを調節しても、吸血鬼の姿はボンヤリとしか映らないのだ。
 特に、首から上が酷い。
 人相が全く判別できない。街路カメラのトレースシステムは顔認識システムを基礎としているものだから、人相が判別できない時には役に立たないのだ。
 通信障害などは起こっていないから、多分、光学系機器を狂わせる魔法を使っているのだろう、というのが七草家のスタッフの推測だった。
 三時間前と六時間前は、それで逃げられている。
 だが今回は、予測が上手く的中したようだ。
 真由美は包囲の網を絞るべく、汐留地区を捜索中の克人に回線をつないだ。

◇◆◇◆◇◆◇

 週明けの教室で、達也はここ数日お馴染みとなった光景に出くわした。
 エリカが机に突っ伏している。
 今日は、朝早くに登校したのは良いものの、そこで力尽きてしまったようだ。
(いや、もしかして徹夜か?)
「……ええと、起こしてあげた方が良いんでしょうか?」
 駅で合流した美月が声を潜めて訊ねてきた。
 この熟睡振りからして、普通に話しても起きることはないだろう。それは美月にも、見ただけで分かったはずだが、それでもついつい声を潜めてしまうのが美月の美月たる所以に違いない。
「寝かせといてやろう」
 対する達也の回答は、実にあっさりしたものだった。
 割り切っていた、と言った方が正確かもしれない。
 今、無理に起こしても、少なくとも午前中一杯、まともに頭が働きそうもないのは一目見ただけで明らかだったし、実のところ達也も他人(ひと)のことに構っていられないという、余裕に乏しい精神状態だったのだ。

◇◆◇◆◇◆◇

 時間は半日ほど遡る

 達也と深雪が夕食を食べ終わってすぐ、と言って良いタイミングで、電話のベルが鳴った。
 電話が掛かってきておかしな時刻ではない。
 電話を受ける方にとっては。
 だがアメリカ西海岸は真夜中も日付が変わった刻限だ。
 何が起こったんだ、と達也が身構えても不思議はない。
「もしもし、雫? 何かあったのか?」
 画面に映ったのは予想に違わず、予想外の姿の、雫だった。
 雫は寝間着姿だった。
 ファッション性重視のネグリジェに、ガウンも着ていない。
 普段ならば如何な達也といえど焦ったに違いない。
 幸いなことに、今は心配の方が彼の心を大きく占めていたので無様に慌てることはなかったが。
「雫っ? 貴女、なんて格好しているのよ!」
 寧ろ、横から画面を覗き込んだ深雪の方が顔を赤らめている――そんなしどけない姿だった。
『あっ、深雪、こんばんわ』
「挨拶なんていいから! せめてガウンくらい羽織って!」
『……いいけど?』
 不思議そうな顔で、それでも言われたとおり、雫はモゾモゾとガウンを羽織った。
『夜遅くにごめんなさい』
 そして、改めて、という感じでペコリと頭を下げる。
「こっちは別に遅くもないが……もしかして、飲んでるのか?」
 雫の口調は眠気によるものとは微妙に異なる感じで呂律が怪しくなっていた。
『何を?』
 そりゃあ、と言い掛けて、達也はその台詞をキャンセルした。
 古来よりこの手のセリフには意味が無いと気付いたからである。
「いや、それよりどうしたんだ?」
 少々思考力が低下しているようだが、脈絡もなくただ電話を掛けてきたという訳でもあるまい。
 ここは速やかに話を聞くべきだ、と達也は判断した。
『んっ、出来るだけ早く、知らせた方が良いと思って』
 何を? と訊かなかった察しの良さは、褒められても良いだろう。
「もう分かったのか? 凄いな」
『もっと褒めて』
 平坦な口調でねだられて、達也は急激な脱力感を味わった。
(……誰だ、雫に飲ませたヤツは)
 雫は明らかに酔っていた。どうやらその所為で、軽い幼児退行を起こしているようだ。
「いや、本当に凄いな、雫は。
 それで、何が分かったんだ?」
 わざわざ真夜中(向こうの現地時間で)に電話をくれた相手を、急かすような真似は本意で無かったが、ここは早めに切り上げた方がお互いの為だろう。
 酔ってるといっても、記憶を無くす程の深酒ではないようだから。
『吸血鬼の発生原因なんだけど』
 だが、思った以上にセンセーショナルなニュースだった。達也と深雪が揃って身を乗り出す。
『余剰……なんだっけ、余剰なんとかの黒い穴の実験みたいだよ』
「はぁ? 黒い穴? 雫、それ、何のこと?」
 しかしその後に、予想外のちんぷんかんぷんな台詞が続いた所為で、深雪の頭上には大量の疑問符が舞い踊っていた。
 そう――深雪の、頭上には。
『知らない。私も達也さんに訊こうと思ってた』
「余剰次元理論に基づくマイクロブラックホール生成・消滅実験、じゃないか?」
 低い、強張った声で、達也が確認する。
『そう、それ』
 声の調子が変わったのを、雫は気にしなかった(気にする状態ではなかった)ようだが、深雪は恐々と兄の表情を窺っていた。
「あれをやったのか……よりにもよって」
 いつもと変わらぬ落ち着いた声。否、いつも以上に冷静な口調。
 それが彼に許容された怒りと苛立ちのレベルを越えてしまったが故のものだと、他の誰に分からなくとも深雪には解っていた。
『それ、なに?』
 その時点で、深雪は電話を切ろうとしていた。「もう遅いから」とか適当な理由をつけて、会話を切り上げるつもりだった。これ以上、達也の気分を害したくなかった。
 だがその前に、雫が短い質問をして、
「詳しく説明するのは大変だから、簡単に言うと」
 達也が、それに答えてしまっていた。
「ごく小さなブラックホールを人工的に作り出して、そこからエネルギーを取り出そうという実験だ。
 生成されたブラックホールが蒸発する過程で、質量が熱エネルギーに変換されることが予想されているからな。
 それを確認したかったんだろう」
 話の腰を折るのに失敗して、深雪は仕方なく兄の解説に耳を傾けていたが、質量をエネルギーに換えるというフレーズに心臓の鼓動を乱した。
 叔母から受けていた警告が、改めて胸中に蘇る。
『それが余剰次元理論? 異次元からエネルギーを取り出すの?』
 無論、雫がそんな深雪の懸念を知るはずもなく、画面の中で酔っているにしてはアカデミック、っぽい、質問をしていた。
「いや、エネルギーを取り出すプロセス自体に、余剰次元理論は関係ないよ。
 余剰次元理論というのは、この世界にはより高次の世界が重なっていて、物理的な力では重力だけが次元の壁を越えられる、つまり重力はその力の大部分が別次元に漏れている為に、この次元では本来のものよりずっと小さな力しか観測できないという仮説だ。
 でも素粒子スケールの極小距離では別次元に漏れ出す前にこの次元の物体同士で作用するから、普通のスケールで観測するより遥かに強く引き合うことになる。だから余剰次元理論を考慮しない場合に比べて、桁違いに小さなエネルギーでマイクロブラックホールの生成は可能だ、というのが余剰次元理論に基づくマイクロブラックホール生成実験の理論的な土台となる」
『……深雪、解った?』
「残念ながら、あまり理解できなかったわ」
 ユラユラと頭を左右に揺らしながら訊ねる雫に、苦笑しながら深雪は首を振った。
「ですがお兄様、今のお話の何処がそれほど問題なのでしょうか……?」
 そして兄の顔を間近に見上げながら、気遣わしげに問い掛ける。
 達也は妹の顔を見下ろし、画面の中の雫に目を遣って、躊躇いがちに、一見、無関係な事を語り始めた。
「魔法による事象改変に、エネルギーの供給は必要ない。物理的なエネルギーが供給されている形跡も無い。この物質次元に物理的エネルギーへ変換可能な非物理的エネルギーが存在しないことも確実視されている。
 だが移動系魔法や加速系魔法だと、魔法発動の前後で明らかなエネルギー量の変動が事後的に観測される。
 このとおり、魔法はエネルギー保存の法則に縛られない。魔法によって、エネルギー保存の法則は否定されているように見える」
「現代魔法の第一パラドックスと呼ばれている命題ですね」
『その命題は命題自体が不完全という結論だったはず』
「そう、雫の言うとおり、エネルギー保存の法則が破綻しているように見えるのは見掛けの上だけのことだ。
 そもそもエネルギー保存の法則は演繹的な法則であり、これに反する現象はあり得ない。
 魔法もまた物理的な結果をもたらすものである以上、少なくともその限りにおいて、エネルギー保存の法則が成り立っているはずなんだ。
 エネルギー保存の法則とは、閉じた系の中でのエネルギーの総量は常に一定である、というもの。
 エネルギー総量の変動が観測されたとすれば、それは観測の誤りか、または、その系が閉じていないということを意味している」
「魔法が観測されるこの世界は閉じた系ではない……先程の余剰次元理論とつながっているように思われます」
『そうか! 魔法に必要なエネルギーは、異次元から供給されている?』
「俺はそう考えている。
 そして仮に余剰次元理論が正しいとするならば、物理的な力の中で重力だけが次元の壁を越えて作用することに何らかの意味があるはずだとも考えている。
 ここから先は何の根拠もない、空想に近い仮説だが……」
 達也の逡巡を、深雪と雫は無言で見守った。
「別次元に作用している重力は、そうすることで次元の壁を支えているんじゃないだろうか。
 魔法は、その壁を崩さずに、異次元からエネルギーを取り出しているんじゃないだろうか。
 確かに魔法はエネルギー供給を必要としない現象だけど、エネルギー収支と無関係って訳じゃない。
 観測可能な範囲に限っても、エネルギーの総収支がゼロに近い魔法の方が発動に失敗し難い傾向がある。
 多分、魔法式には事象改変の結果として生じるエネルギーの不足を逆算して、その不足分を異次元から引っ張ってくるプロセスが含まれているんだ。物理的なエネルギーが供給されている形跡が観測されない点については、異次元のエネルギーが非物理的な性質を持つ、言うならば魔法的エネルギーで、それを魔法式が事後的に物理的エネルギーに変換していると考えれば辻褄が合う。
 次元の壁の向こうには魔法的なエネルギーに満ちた次元があって、そのエネルギーが物理次元に漏れ出してこないよう、重力によって支えられた次元の壁がせき止めているけれども、魔法はこの壁を越えてエネルギーの総収支がちょうどゼロになるように、不足分を物理次元に引き込んでいる――これが、現代魔法の第一パラドックスを解決しているシステムだと俺は考えている。
 ところが、余剰次元理論に基づいて計算されたエネルギーでマイクロブラックホールを生成すると、次元の壁を越えて作用していた重力がブラックホールの生成に消費されてしまうことになる。
 そうすると、ブラックホール生成のその一瞬、次元の壁が揺らいでしまうということになりはしないだろうか」
「次元の壁が揺らぐと……どうなるのでしょう?」
『魔法式でコントロールされない魔法的なエネルギーが漏れて来る……?』
 画面を挟んで、深雪と雫が顔を見合わせた。
 高解像度のカメラとディスプレイは、互いの瞳の中に同じ(おそれ)が宿っているのを映し出していた。
「仮に、魔法的なエネルギーで満ちた次元を魔界と呼ぶことにしよう。
 エネルギーは自然発生的に構造化し、情報体を形成する。そうでなきゃ、宇宙はとうに均質化して何もない世界になっているだろうからね。
 魔界のエネルギーも同じように構造化するに違いない。
 そして次元の壁が揺らいだ瞬間、魔界で形成された魔法的エネルギーの情報体がこの世界に侵入する可能性はゼロじゃない、と思う」
 二人の抱いた虞は、達也が苛立ち、憤った理由と同じものだった。

◇◆◇◆◇◆◇

 幹比古が教室に顔を見せたのは、二時限目が終わった後だった。
「もう良いのか?」
 遅刻ではない。
 今日もまた、保健室のお世話になっていたのだった。
「達也……恨むよ」
 一応、心配して声を掛けたのだが、返ってきたのはドロドロとした恨み言だった。
「おいおい、穏やかじゃないな」
 冗談だと信じたいところだが、それにしては気持ちがこもっている。
 聞き耳を立てていた美月が怯えて縮こまったくらいだ。
「恨み言くらい好きに言わせてよ。あの後、僕がどれだけ胃の痛い思いをしたことか……」
 そう言いながら手で腹をさすっているのは、その時の痛みを思い出したからだろう。
「七草先輩はニコニコ、ニコニコ笑うだけで何も言わないし、エリカも不機嫌丸出しで黙っちゃうし……僕一人で喋り続けなきゃならなかったんだよ。
 あの空回り感は針の(むしろ)そのものだよ……」
「十文字先輩は何も仰らなかったのか?」
「あの人がそんな細かい事に口出しすると思う?」
 なるほど、納得である。
 真由美もエリカも克人も、実に「らしい」行動だ。
「えっと……何だかよく分かりませんけど、大変だったんですね」
 美月に嘘偽り無い同情の言葉を掛けられて、幹比古も少しは癒された様子だった。
 美月の向こうでは、エリカが相変わらず机に突っ伏していた。

◇◆◇◆◇◆◇

 昼休みになって、エリカがようやく復活した。
 そして目を醒ますや否や、美月を捕まえて愚痴り始めた。
「聞いてる? それまでずっと一匹で逃げてたのに、いきなり三匹に増えたのよ。狡いと思わない?」
 誰が聞いているか分からない食堂でこういう話をするのはまずいと判断する分別はあったと見えて、エリカはお昼も摂らずに美月を空き教室――幹比古がよく使っている実験室だ――に連れ込んでいた。
「えっと、そうかな」
 勢いに押されて頷く美月だが、実は何の事だかよく分かっていない。
 辛うじて「吸血鬼」の事だろう、というのは分かったが、状況がサッパリだ。「吸血鬼って一匹、二匹と数えるんだっけ?」というのが美月の心の声である。
「……それより、早く食堂に行こうよ。お昼休み、終っちゃうよ?」
「あんまりお腹空いてないのよね、あたし」
 それはずっと寝てたからだよ! と美月は余程指摘したかったのだが、それを言うとエリカが修復不能なまでに拗ねてしまいそうな気がして、言えなかった。
(はぁ……仕方ないか)
 ダイエットをしている訳ではないが――そもそもそんな習慣(?)自体が今では廃れてしまっているが――美月はお昼ご飯を諦めることにした。
 今日のカリキュラムには体育も実習も入っていないし、一食くらい抜いても大丈夫、と自分に言い聞かせる。
 それよりも、気になることは別にあった。
「ねえ、エリカちゃん。何で達也さんと喧嘩してるの?」
 その瞬間、ギクッとエリカの肩が震えた。
「な、なに言ってるのかな、美月は。喧嘩なんかしてないって。してないったらしてないって」
 ブンブンと勢いよく首と両手を振る。
 春から伸ばしていた成果の、長めのポニーテール――エリカが最近お気に入りのヘアスタイルだ――が、首の動きにつられてブンブン跳ねる。
 動揺しているのが丸分かりだった。
「そんなに慌てなくても……別に、エリカちゃんが達也さんに何かしたなんて思ってないから。
 エリカちゃんが少しくらい羽目を外したって、達也さんなら笑って流しちゃうでしょ?
 だから、エリカちゃんが原因なら、喧嘩になんてなるはずないもん」
「そ、それは、褒められてるのか貶されてるのか、微妙……」
 言葉通り、「表情の選択に窮した」表情で抗議、らしきもの、を口にするエリカ。
「褒めてもないし、貶してもないよ。単なる事実認識だから」
 美月はそれを、バッサリと切り捨てる。
「それを事実と言い切られるのは、なんか、納得できないかも!」
「ハイハイ、とにかく、エリカちゃんが原因だなんて思ってないから」
 憤然とした、だが何処か勢いのない反駁も、あっさりと流し去られた。
「美月、強くなったわね……」
「言いたくないならこれ以上訊かないけど?」
 芝居じみた台詞回しで誤魔化そうとしても、直球が投げ返される。
 エリカは力尽きたように突っ伏した。
「喧嘩じゃないのよ……あたしが一方的に気まずくなってるだけ。
 明日まで引きずる予定はないから、今日のところは見逃してくれない?」
 首を捻って、髪と腕の隙間から気弱な瞳を覗かせるエリカ。
 う~ん、とばかり顎に人差し指を当てて、美月は小首を傾げた。
 軽く内巻きのクセがある、肩にかかる長さのボブカットの髪が、首の動きに合わせて揺れる。
 顔の傾きはすぐに、真っ直ぐに戻った。
「明日になったら元通り、って言い切れるならそれでも良いけど」
 気持ちはどうやら、エリカが期待したようには傾かなかったようだ。
「だよねぇ……あーっ、やだやだ」
 元々、何もしなくても明日になれば大丈夫、なんてエリカ本人も信じていない。
 観念したのか、エリカはさばさばとした顔で身体を起こした。
「結局さ、あたしが達也くんに甘えてるだけなんだよね。
 あたしは達也くんに『力を貸して』ってお願いもしてないのに、何も言わなくてもあたしたちの方についてくれるって勝手に決め付けてた。
 だからあの女にも手を貸してるのを見て、フタマタだ~って頭に来てさ……やだ、また恥ずかしくなって来ちゃった」
 顔を覆った両手の隙間から、赤くなった肌の色が見え隠れしている。恥ずかしいというのは、口先だけでないようだ。
 その妙に可愛らしい様を見て、美月は深々とため息をついた。
「……なに、その『心底呆れました』とでも言いたげなため息は」
「心底って程じゃないけど、呆れました」
 指の隙間から鋭い眼差しを送りつけて来たエリカに、美月は真っ白な眼差しを送り返した。
 エリカの目から、鋭さが消える。
 美月はエリカの正面に移動し(と言っても椅子の向きを変えて座り直しただけだが)、手を伸ばして、顔を覆っているエリカの両手を下げさせた。
「結局、意地を張って自己嫌悪に()まり込んでいるだけじゃない……そういうの、『独り相撲』って言うんだと思うよ」
「ぐさっ! 美月の容赦ない一言があたしの胸を抉るぅ~」
「真面目な話なんだけど」
「……ごめんなさい」
 心なしか、エリカの身体が小さく縮んで見えた。
「エリカちゃん、ハッキリ言うけど、達也さんの方から歩み寄ってくるなんてあり得ないからね」
「……やっぱり?」
「去る者は追わずじゃないけど、避けられてるって思われたら、ずーっと放っとかれちゃうよ?
 ただでさえ達也さんの頭の中は深雪さんでいっぱいなんだから。アピールとまではいかなくても、せめて視界の中に居るようにしないと、思い出しても貰えなくなるかもだよ?」
「……それ、ありそう」
「断言しちゃうけど、達也さんはエリカちゃんが気にしてるようなことなんて、全く気にしてないから。
 意識するだけ損だよ、きっと」
「そうか……そうよね。
 鈍感と言うも生温いあの鋼鉄神経男相手に恥ずかしがってても始まらないか」
 エリカはグッと拳を握った。
 それを見て、美月が生温い笑みを浮かべる。
 幹比古が入って来たのは、ちょうどそんな場面だった。
「あっ、やっぱり何も持って無い」
 入ってくるなり、いきなり、そんな言葉を掛ける幹比古。
 二人が「何それ?」と問い掛ける前に、手にしたビニール袋からサンドイッチを取り出した。
「はい、エリカ、ニンジンツナポテト。柴田さんは玉子サンドだったよね?」
「えっ、どうして?」
「あっ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 これは美月に対する返事。
「どうしてじゃないだろ。
 少しくらい食べないと、眠っていても腹は減るんだよ?」
 そしてこちらはエリカに対する返事だ。
「へえ……ミキ、気が利くじゃない」
「どういたしまして、と言いたいところだけど、これは達也からの差入れだよ。
 自分は避けられているようだから、僕に持って行けってさ」
 幹比古の答えを聞いて、エリカと美月は顔を見合わせた。
「忘れられてはないようだけど……」
「早くも放っとかれちゃってるね……」
 エリカが突然、決意も顕わに立ち上がった。
「な、なに?」
 目を丸くした美月に、エリカは力強いガッツポーズを見せた。
「そっちがその気ならコッチにも考えがあるよ、達也くん!
 あたしを空気扱いなんて絶対させないんだから!」
「構われたら逃げてくクセに」
「ミキ、何か言った?」
「別に、早く食べたほうが良いよ、と言ったのさ」
 自分の分を取り出しながら、目を合わせずに答える幹比古。
 流石に付き合いが長い幼馴染、(たま)に地雷を踏むとはいえ、エリカの扱い方は心得ていた。

 それは、エリカがとりあえず腰を落ち着けて、三人で一緒にサンドイッチに(かぶ)り付いた、その直後のことだった。
「痛ッ……!」
 美月が突然、顔を顰めて両目をきつく閉じた。
 手からこぼれ落ちた玉子サンドを、エリカが空中で器用に掴みとる。
 だがそれは反射的な行動で、彼女の目も幹比古の目も、突然苦しみだした美月に向けられていた。
 美月はメガネを外して、両手で目を押さえている。
 苦しげな呟きが、その唇から漏れた。
「……なに……これ……こんなオーラ、見たことない……」
 何が起こっているのか悟った幹比古は、咄嗟に呪符を取り出して霊的波動をカットする結界を張った。CADの携帯を禁止する校則の盲点をついた格好だが、そんなことを気にする人間は、今この場にいなかった。
 外に意識を向けることで、幹比古もその波動に気づいた。
「これは、『魔』の気配……」
 サイオンではなく、プシオンの波。だからエリカには分からないし、幹比古も意識を合わせるまで気づかなかったのだ。
 純粋な「魔」の波動が、結界を越えて流れ込んで来ている。
 これ程の強さなら、オーラを遮断するレンズの効果を打ち消して、美月の目に影響を与えても不思議はない。
「柴田さん、メガネをかけて」
 しかし結界で緩和したこの状態なら、オーラ・カット・コーティング・レンズで波動を遮断できるはずだ。
 幹比古の考えたとおり、メガネを掛け直させることで美月の容態は落ち着いた。
 そこでやっと、何が起こっているのか考える余裕が生まれて――
 ――エリカと幹比古は、蒼褪めた顔を見合わせた。
「まさか、吸血鬼が学校に?」
「いい度胸じゃない! ミキ、場所はっ?」
 立ち上がった勢いで倒れた椅子がけたたましい音を立てたが、エリカは一顧だにしなかった。
 顔をくっつける勢いで、幹比古に迫る。
「エリカ、落ち着いて」
 幹比古も立ち上がり、冷静な、但し厳しい声で答えた。
「まずは得物を取りに行こう。僕も呪符だけじゃ心許ない」
「……そうね。美月、教室で待ってて」
「私も行く」
 エリカの当然とも思える指示に、美月は首を横に振った。
「美月?」
「私も行った方が良いような気がするの。理由は……分からないけど」
 口調は柔らかなものだったが、その奥から梃子でも動かぬ決意が感じられた。
「……分かった。でも、僕から離れないで」
「ミキ?」
 幹比古の思い掛けない言葉に、エリカが目を丸くする。
 だが彼の答えもしっかり考えた上でのもので、雰囲気に流された訳ではなかった。
「一人の時に襲われるより、一緒にいた方が対処しやすい。
 それに、柴田さんの目は、きっと役に立つ」
「ハァ……ミキ、だったらアンタが責任持って美月をシッカリ守りなさいよ」
 これ以上問答している時間がもったいないとばかり、エリカはCADを預けてある事務室へ走り出した。
 幹比古もそのすぐ後に続いた。
 彼も、そして美月も、ラブコメあるいは青春ドラマを演じている場合じゃないことは、重々理解していた。
 ただ、美月を置いてきぼりにしないよう、手をつないで走ったのは、仕方の無いことだ――と、幹比古は自分に言い訳していた。

【蛇足】
 作中に使用した「次元の壁」は、この世界を閉じた系に見せている、エネルギーの漏洩・流入を防止する架空の構造を意味しています。
 物理学的な背景は全くありません。
 余剰次元理論の解釈も作品に都合が良いようアレンジしたものですので、鵜呑みにしないようご注意下さい。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。