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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第五章・来訪者編
5-(7) 仮面の魔法師

 突き出される拳と拳。
 目まぐるしく入れ替わる身体、目まぐるしく入れ替わる攻守。
 達也は八雲と毎朝恒例の組み手を行っているところだった。
 単なる打撃の応酬ではない。
 真っ直ぐ突き出されるだけでなく、上下左右から襲い掛かる拳、手刀、掌。それを躱し、掴み取り、捻り上げようと絡み付く手を紙一重で振り払う。
 達也と八雲。
 今や両者の技量は、拮抗していた。
 二人が同時に右手を突き出す。
 互いの突きが相抜けとなり、二人の身体が背中合わせとなる。
 達也は軸足を蹴り足に変えて、その場から一歩、踏み出した。
 来ると予想した肘の回し打ちは襲って来なかった。
 振り返る。
 八雲も達也と同じように、距離を取っていた。
 自分と同じ攻撃を予測し、同じ回避行動を取り、結果的に必要以上の間合いを空ける結果となったことに苦笑い――
 ――する余裕などあるはずもなく。
 達也は八雲へ向かい足を踏み出す。
 体術は互角。
 体力は達也が上。
 駆け引きは未だ遠く及ばない。
 ならば駆け引きを弄する暇を与えず攻め続けることだけが、達也が八雲に勝利する手立て。
 必要以上に間合いを開けたこの状態は、達也にとって本来避けるべき不利な態勢だ。
 間合いの内に踏み込み、拳を突き出そうとしたその瞬間、達也は八雲の存在に揺らぎを感知した。
 このところ繰り返し苦杯を嘗めているパターンに、焦りを抑え込んで情報体を分解する対抗魔法を発動する。
 八雲の身体がユラリと揺らぐ。
 術式解散が幻術を無効化した、確かな手応え。
 達也は五感をフル稼働させて、八雲の実体を探した。
 右か、左か。
 如何な八雲といえど、背後に回り込む余裕は無かったはずだ。
 達也の判断は間違っていなかった。
 達也の推測は間違っていた。
 八雲は、正面にいた。
 達也が狙い定めた、三十センチ後ろに。
 決断に要した時間は一刹那。
 一旦止めた拳を打ち出す。
 そのままでは届かない間合いだが、八雲が打撃動作に入っているこの状況ならば、相打ちに持ち込めるという判断だった。
 しかし、八雲の身体は、その拳について行かなかった。
 体を残した手打ちに誘い込まれた達也の身体は、八雲の投げに宙を舞った。

「いやぁ、焦った焦った」
 地面に叩きつけた後も関節を決めたままだった手をようやく放して八雲が口にしたその台詞は、あながち韜晦という訳でも無さそうだった。
 片腕を取られていた所為で満足な受け身を取れなかった達也は、慣性を中和することで辛うじて骨折だけは避けたものの、衝撃を完全に殺すには至らず、正常な呼吸を取り戻すまでに何度も咳込まなければならなかった。
「……師匠、今のは?」
「いや、まさか『纏衣(まとい)の逃げ水』が破られるとは思わなかったよ」
 その驚きは本物だった。
 体を残したあのフェイントは、意図したものではなく、咄嗟に出たもの。
 術が破られることを、八雲は想定していなかった。
「『纏衣の逃げ水』、というんですか、あの術は……師匠、あれは、いつもの幻術ではありませんよね?」
「やっぱり分かっちゃうのか」
 やれやれと言わんばかりに嘆息する八雲だったが、唇の端が楽しげに歪んでいるのを隠し切れていない。――多分、隠すつもりも無いのだろうが。
「その、視ただけで術式を読み取ってしまう異能は、相手にとって脅威そのものだけど、それを逆手に取る手段が無い訳じゃない」
「今の幻術がそれだと?」
「纏衣は本来、この世のものならざるモノの目を誤魔化す為の術なんだけどね。
 どういう仕組みかは……そうだね、自分で考えてみてごらん。君ならすぐに解るはずだ」
 勿体をつけるな、とは、達也は言わなかった。
 術式の種明かしを要求するのはマナー違反だ、という心構えも無論あったが、それよりも気になることが八雲の台詞に含まれていたからである。
「師匠」
「うん?
 どうしたんだい、そんな真面目な顔……は、いつものことか。そんな怖い声で」
 いつも真面目な顔、というのは褒めれたか貶されたか微妙なところで、どちらとも判断がつかなかった達也は結局取り合わない――反応しないことにした。
 なんとなく八雲が物足りなさそうな顔をしていたので、それで正解だったのだろう。
「今、この世のものならざるモノの目と仰いましたが」
「ああ、なるほど」
 問い掛けの台詞を最後まで紡ぐ必要はなかった。
 間髪を入れぬ回答は、まるで達也の質問を予期していたかのようだった。
「僕たちが相手にするのは、人間ばかりじゃないよ。この世のものならざるモノの相手は、それほど珍しいことじゃない」
 文脈から予想したとおりの答えだが、予備知識に反する答えでもある。
「しかし、俺の友人の古式の術者は、本物の魔性に遭遇するのは極めて稀なことだと言っていましたが……」
 どちらが信じられるとか信じられないとかではなく、自分が納得出来る答えを達也は欲した。
「達也くんの友人というと、吉田家の次男か。
 まあ、彼の言ってることも間違いじゃないけど……君にしては、切り込みが浅いね」
 八雲はそこで一旦、言葉を切った。
 もっとよく考えてみろ、と言われた達也はその言葉のとおり思考の海に意識を沈め、程なくして一つの解答に行き着いた。
「幹比古の言ったことは、間違ってはいない。かといって、完全に正しくもない。そういうことですね?
 本物の妖魔・化生と遭遇、つまり偶然出会うことは極めて稀であっても、偶然でなければ、何者かの作為の下でならば決して珍しくない、ということですか?」
「辛うじて及第点かな」
 その言葉の通り、八雲の表情は満足には程遠かった。
「うーん……達也くん程の知恵者でも記号化と先入観の罠を避けるのは難しいということか」
 期待した分、採点が辛くなったらしい。
 それにしても、面と向かって「知恵者」というのは、恥ずかしい(照れる、ではない)から止めて欲しいと達也は思った。
 間違っても褒められている場面ではないのに随分な余裕である。
 しかし、そんな達也の余裕は、八雲の次の言葉に吹き飛んでしまう。
「君自身、一度や二度はこの世のものならざるモノたちと接触した経験があるはずだよ。
 君たち現代魔法師がSB魔法と呼ぶ魔法は、一体何を媒体としてのものだい?」
 達也の口から「あっ」という声が零れ出た。
「分かったようだね。
 現代魔法師がスピリチュアル・ビーイングと呼ぶモノ、つまり精霊も、立派に『この世のものならざるモノ』だ。
 ああ、知性の有無とか意思の有無とかは二の次だよ。
 細菌には知性も意思もないけれど、人の身体に入り込み肉体の機能に干渉して健康を害する。ウイルスに至っては不完全な増殖能力しか持たない。それでも、例え学問的には厳密な『生物』に該当しないとしても、人の肉体を蝕む『生き物』であることに異論はないはずだ」
「スピリチュアル・ビーイング――現象から切り離された孤立情報体に過ぎない『精霊』も、『この世のものならざるモノ』に違いはない、と?」
「正確には、肉を持つ生き物ならざるモノ、と言うべきかもしれないけどね。それに、精霊に意思がないなんて誰が確認したんだい?」
「……誰も確認していませんね。その逆のことを言っている人間に心当たりはありますが」
 そして、その友人がスピリチュアル・ビーイングを遠隔操作した現場に居合わせた経験が、達也にはある。与えられたコマンドに対して自律的な処理を見せる精霊の動作は、魔法式の中にアルゴリズムが全て組み込まれていると考えるより精霊自体に意思があると考えた方が、寧ろ合理的なようにも思えてきた。
「師匠、もう一つ質問してもよろしいでしょうか」
「言ってごらん」
「現代魔法学においては、精霊は自然現象に伴ってイデアに記述された情報体が、実体から遊離して生まれた孤立情報体であり、元になった現象の情報を記録している為に、魔法式で方向性を定義することにより、その情報から現象を再現する事が出来る、これが精霊魔法だと解釈されています」
「大体それで合ってると思うよ。そういう理屈を考え出すことにかけては、現代魔法が一枚も二枚も上手だ」
「では、人の幽体に寄生して人間を変質させるパラサイトは、一体何に由来する情報体なのでしょうか」
 幹比古の話を聞いて、パラサイトとは人間の情報構造に干渉する情報体ではないか、と達也は考えていた。八雲が細菌やウイルスを例えに使ったのも、それを裏付けているように思えた。
「パラサイトか……イギリス風の表現だね。
 彼らが何に由来する情報生命体なのか、残念ながら僕も知らない。
 人の精神に干渉するのだから、精神現象に由来するものだとは思うけれどもね」
「精神に由来する情報生命体ですか……」
「僕は、人型の妖魔も動物型の妖怪も、情報生命体である妖霊がこの世の生物を変質させたモノじゃないかと考えている。
 そして、物理現象に由来する精霊がこの世界と背中合わせの影絵の世界を漂っているように、精神現象に由来する妖霊は精神世界と背中合わせの写し絵の世界からやって来るんじゃないかと思うんだ。
 遭遇例が少ないのは存在しないからではなく、僕たちがまだ、精神を観察する術を十分に持たないからじゃないのかな。
 ロンドンに集まった連中からすれば異端の思想なんだろうけど、それが僕の偽らざる自説だよ」
 流石、古式魔法の大家の称号は伊達ではない。
 達也は久し振りに、そう思った。

◇◆◇◆◇◆◇

 あれから二日。
 レオはまだベッドの上だ。
 普通の人間なら意識不明の重態なのだから、三日や四日で退院できなくてもそれが当たり前というもの。
 もう退院、ということにでもなれば寧ろ、無理をしたのか見放されたのか、逆に心配になるところだ。
 少なくとも達也はそう考えていた。
 しかし、そう考えない人間もいるのはある意味、当然な訳であり。
「レオくん、大丈夫でしょうか……」
 美月は、そう考えないタイプの典型だった。
「大丈夫だろ。
 打ち身以外に目立った怪我もなかったし、骨が折れたり内臓を痛めたりということも無いって言ってたじゃないか。
 まさか、エリカが嘘を吐いているなんて疑っているんじゃないだろ?」
 ちなみに達也は、この場にいないエリカが嘘を吐いていたと疑っている。
「そういう訳じゃありませんけど……」
 まあ、美月の性格上、心の中でどう思っていても、友人を嘘つき呼ばわりは出来ないだろう。
 例えこの場にいなくても、いや、寧ろ本人がいないところで陰口、の方を忌避するに違いない。
 ちなみにエリカが今この場に――つまり、始業前の教室に――いないのは、レオの看病に泊まり込んでいるから、ではなく、単にまだ登校していないからに過ぎない。
 昨日は、遅刻ギリギリに駆け込んで来た。
 今日も多分、同じだ。
「そういえば、今朝は幹比古もまだだな」
 特に思惑があっての発言ではなかった。
 エリカがまだ来ていない理由を考えて、幹比古もまだ来ていないな、と意識しただけだった。
 ただそれだけの一言に、美月の顔が一瞬、強張ったように見えた。
 達也は、微笑ましさに弛みそうになる頬を引き締めて、何と声を掛ければ良いのか、いっそ何も言わない方が良いのか、迷った。
 彼は、美月が心配しているようなことは無い、と確信していたが、それを伝えるべきなのかどうか、判断が付かなかった。
「おはよ~」
「お早う、達也、柴田さん……」
 達也がまごまごしている内に、幹比古が疲れの残る顔で、エリカがアンニュイな雰囲気を纏って、教室に入ってきた。
 二人が席に着いた直後、授業開始のメッセージ画面が立ち上がった。

◇◆◇◆◇◆◇

 その日の昼休み、達也たちの行動はいつもと少し違っていた。
 エリカは食堂にも行かず、自分の机に突っ伏している。耳を澄ますと、小さな寝息が聞こえた。
 端末を使った座学で居眠りなど出来ないから、ではあろうが、相当眠かったらしい。
 幹比古は「頭がズキズキする」と言って、お昼を食べ終わるとすぐ、保健室へ向かった。
 彼はどうやら、眠くなると意識がぼやけるのではなく頭痛がするタイプらしい。
 単なる疲労だろうから、幹比古のことは付き添いの美月に一任した。
 そして、達也は、というと。
「雫、いきなりごめんね」
『うん、どうしたの』
「えっと、達也さんがね、雫にどうしても訊きたいことがあるって」
 ほのかに頼んで、雫に電話を掛けてもらっていた。
「すまないな、夜遅くに。メールにしようかとも思ったんだが、直接話さないと要領を得ないだろうから」
 現代の通信システムは、小さな携帯情報端末の上でも、実視と遜色ないクリアな映像を再現する。
 自分の携帯端末の画面越し、同時通話の機能を使って再会した雫の顔は、まだ十日も経っていないのに記憶にあるより少し大人びて見えた。
『大丈夫、まだ八時だよ』
 画面の中の少女が、僅かに目を細めて笑った。
 相変わらず分かり難い表情だが、彼らにはその笑みが、随分嬉しそうなものだと分かった。
 ムッとした表情で各々の端末を覗き込むほのかと深雪。
 だが生憎と、達也は雫を、雫は達也をメインフレームに表示している。携帯端末の小さな画面を更に小さく分割したサブフレームでは、メインフレームと違って細かな表情の変化を読み取ることは難しい。
『それで、なに?』
「ああ、ほのかに聞いたんだが、そっちでも吸血鬼が暴れているそうだな。
 詳しい話を知っていたら教えて欲しかったんだ」
 画面の中で、雫がコテッと首を傾げた。
「……雫?」
『……ああ、あのこと。
 じゃあ、日本では本当に吸血鬼が出たの?』
「日本では?」
『アメリカでは今のところまだ、都市伝説扱い。
 少なくとも、メディアは報道していない』
 伝説やフィクションの中の存在とは別物であっても、吸血鬼あるいは吸精鬼と呼ぶべきモノは確実に存在する。
 実在するものが噂になっている以上、事件は間違いなく起こっているはずだ。
 つまりUSNAでは、この件が未だに報道管制の下に置かれているということだ。
 もしかしたら、思ったより遥かに根が深い事件なのかもしれない。
「単なる噂でも構わない。
 出来るだけ、詳しい話を知りたいんだが」
『何かあったの?』
 雫が画面の中で身を乗り出していた。
 たった一人異国にいる少女に、友人が被害者となった事実を告げるべきか告げざるべきか、達也は迷った。
「レオが吸血鬼らしきモノの被害に遭った」
 だがすぐに、告げるべきだ、と判断した。
 もっとも、何故そうしたのか、達也本人にも説明は出来ない。
 それは、直感的な判断だった。
 あるいは何か、予感があったのかもしれない。
「幸い、命に別状はない」
『そんな……』
 ただ、徒に不安を与える結果となるのは、やはり本意ではなかった。
 雫がショックを受け過ぎないよう、達也はフォローを忘れなかったが、残念ながらあまり効果が無かったようだ。
「いや、大丈夫だから、そんな顔をしないでくれないかな。
 レオは自力で犯人を撃退したんだ。
 ただその際に、相手の異能でダメージを受けて、今は病院で大事を取っている」
 達也の「気休め」も、決して上手とは言えない。
 入院している、などと、気の弱い相手ならますます不安を煽り立てるようなものだ。
『本当に大丈夫? 良かった……』
 しかし幸い、雫は悲観的な思惟に溺れる性質(たち)ではなかった。
 しっかりと頷く達也を見て、ホッと胸を撫で下ろしている。
 こういうコミュニケーションは、テレビ電話ならでは、と言える。
『そっか、だから達也さんは、こっちで何が起こってるのか、知りたいんだ』
 疑問形ではなく断定形で訊ねる雫に、達也はもう一度肯定を返す。
「ただ、どうしても、って訳じゃないからな」
 その上で、忘れずに釘を刺した。
「本当に分かる範囲で良いんだ」
『でも、アメリカに手掛かりがあると思ってる。違う?』
「手掛かりというか、正直に言えば、吸血鬼事件の犯人はアメリカから来たと思っている」
 息を呑んだのは雫だけではない。
 この推理は、ほのかにも、深雪にも告げていなかった。
「だから余計に、危険な真似は慎んで欲しいんだ、雫。
 呉々も、危ない橋は渡るなよ。そっちの情報が必須という訳じゃないんだから」
『……うん、無理はしない。
 だから、期待しないで待ってて』
「念の為に訊くが、期待しないのは情報の方だよな?
 危ない真似をしないことに関しては、信じて良いんだよな?」
『もちろんだよ』
 雫はバカでも怖いもの知らずでもないが、改めて念押ししても尚、何となく不安だった。

◇◆◇◆◇◆◇

 都内で被害者を出し続けている吸血鬼事件に対して組織的な対応を取っている勢力は、エリカの知る限りで三つあった。
 一つ目は、警視庁を主力とし、警察省の広域特捜チーム(通称「日本版FBI」)と、同じく警察省配下の公安が加わった警察当局。
 二つ目は、七草家が音頭を取り十文字家が続く形で組織された、十師族の捜査チーム。彼らは内情(内閣府情報管理局)のバックアップを受け警察とも部分的に連携している半官半民の勢力だ。但しこの場合、常と異なり「民」の方が上の力関係だが。
 そして三つ目が、古式魔法の名門・吉田家の協力を得て千葉家が組織した私的な報復部隊。つまりは、エリカたち自身である。
「やっぱり先輩たちに協力した方が良かったんじゃないかな……?」
 千葉家から吉田家に対する非公式な、けれども正式な要請によって、急遽協力者に任じられた幹比古は、昨日から通算でちょうど十回目になる疑問を投げ掛けた。
 相手は言うまでもなく、この一件に関する彼のパートナー、エリカだ。
「街路カメラをはじめとした防犯システムを使えるようになるだけで、随分効率が上がると思うんだけど」
「関係ない。監視システムをフルに使える警察が尻尾を掴めないでいるのよ」
「人手に頼るにしても、連携が無いよりあった方が良いと思うけど」
「だからこうして協力をお願いしてるじゃない」
「いや、僕たちだけじゃなくて……」
 足を速めて前に出たエリカに、幹比古はそれ以上の忠告を止めた。小走りでエリカの背中を追いかけ、その隣に並ぶ。
「闇雲に歩き回っているだけじゃ、埒が明かないと思うんだけどなぁ……」
 これは独り言であり愚痴だった。
 エリカに聞こえる声量ではなかったし、例え聞こえていても無視されただろう。
 何故なら、まさにこれこそが、幹比古がエリカに同行している理由なのだから。
 吉田家は神道系の古式魔法を伝える一族。
 陰陽道系の家系ほどではないが、占術の造詣も深い。元々、技術に関する宗派間の垣根が低いのがこの国の伝統だ。神道系といいながら呪符を媒体に使っていることからもその節操の無さが分かろうというもの。
 寿和から科学的捜査が行き詰まっていることを聞いていた千葉家の総帥(つまり、寿和やエリカの父親)は、古式魔法師が得意とするこの技能を利用することに決め、古式の一門で最も親密にしている吉田家の当主に協力を依頼したのだった。
 千葉家の総帥は「魔法技能を除けば単なる俗物」と自認する程の「神秘オンチ」だから、もしかしたら「オカルトにはオカルトで」と考えたのかもしれない。
 そういう訳で、幹比古は道案内ならぬ「道占い」役として、エリカに同行しているのだった。
「ミキ、どっち?」
 十字路で足を止め、エリカが振り向いて訊ねる。
 もう少しこまめに訊いて欲しいなぁ、と内心ため息をつきつつ、幹比古は手に持つ一メートル弱、正確には三尺の杖を歩道に突き立てた。ちなみに「ミキ」という呼び方については、リーナにデフォルト設定された時点で、もう諦めている。
 細かな文字が墨でビッシリと書かれた、杖と言うより真っ直ぐなだけの細い木の棒。その断面は、ほぼ真円。
 その頭を押さえて直立させ、そっと手を放す。
 突き立てたといっても、下は舗装された路面。単なる木の棒が突き刺さるはずもない。
 それなのに、幹比古の杖は何の支えもなく、路面に立った。
 幹比古は後ろ歩きで三歩離れ、クルリと身体を反転させた。
 彼が背を向けた直後、杖は見えざる支えを失ってパタリと倒れた。
 そのまま乾いた音を立てて路面を転がる。
 杖は、十字路の右を指していた。
「コッチね……」
 エリカは杖の指した方へ足を向けた。
 連れを待つ、どころか、振り返りもしない。
 幹比古は苦笑いを浮かべ、杖を拾ってエリカの後を追いかけた。
 追いつく直前、ふと思い出したように、内ポケットから情報端末を取り出した。
 通信機能の設定は、シグナルモード。識別信号を発信して自分の位置をグループ登録された端末に通知するモードになっていることを確認して、懐に戻す。
 幹比古の顔から苦笑いが消えていた。
 標的に近づいていることを、彼は予感していた。
 エリカの一歩後ろで歩調を緩め、同じ距離を保ちながらもう一度端末を取り出す。
 呼び出したのはシグナル通知先のグループリスト。
 そこへ、アドレス帳から新たな通知先を一つ加えて、幹比古は今度こそ端末を仕舞い込み、エリカの隣に並んだ。

 それから二回、行き先を占い、十分ほど歩いたところで、二人は走り去る小さな足音を聞いた。
 ラバーソール(と言っても今時、天然ゴムではあり得ない)特有の、舗装面を擦り付ける、逃げる足音と追いかける足音。
 おそらくは、一人の逃亡者と、一人の追跡者。
 二人は顔を見合わせた。
 直後、何の合図も交わさず、二人は同時に走り出した。
 エリカは闘争の気配を、幹比古は精霊のざわめきを。
 異なる感覚で、同じ直感を得て。
 ――見つけた、と。
 エリカが僅かに先行し、幹比古がその後に続く。
 走りながら、エリカは肩に掛けていた細長いケースから、鞘に収まっていない剥き出しの刀を取り出した。
 刃が付いていない代わりに術式刻印が刀身の全面に刻まれた、五十里家謹製の武装デバイス。街中では目立ち過ぎる大蛇丸の代用品として五十里啓からエリカに贈られた物で、大蛇丸ほどではないにしても、慣性制御術式を補助する機能がある。(ちなみに、名前は付いていない。日本刀は包丁と同じで研げば磨り減っていく消耗品だから、常用しないことを前提とした儀式刀でもない限り、品質保証の意味合いで「誰の作」を表す銘はあっても、個々の刀に名前を付けたりしない。この習慣を受け継いでいる日本の剣術家は、自分の武装デバイスに一々名前を付けないのが普通だ)
 一方の幹比古は、杖の端を二握り分ほど余らせて右手で持ち、左手を斜めに振り下ろした。
 袖口から飛び出した扇子のような物を、左手で掴み取る。
 薄く細長い金属の短冊を扇形の骨組みでつないだ鉄扇もどきは、一つ一つの短冊が、呪文と呪陣を刻んだ一枚の呪符。短冊と一体成形された金属の骨が、術者のサイオンを伝えるライン。扇の要から伸びるコードは袖の下に隠れた、詠唱を代替する起動式を展開するための演算ユニットにつながっている。
 これもまた、CADの一種。
 古式魔法の、呪符と詠唱という二段構えの発動プロセスを、CADを使って再現する為、達也のアドバイスを元に幹比古がアイデアを纏め、吉田家出入りの技術者に作らせた新型の古式魔法用術式補助具だった。
 二人は臨戦態勢を整えて、足音を追いかけた。
 時々リズムが大きく乱れるのは、立ち止まって交戦しているからだろう。
 そうでなくても、足はエリカたちの方が速かった。
 中層ビルが建ち並ぶ裏道を抜け、防災用(正確には、災害時の被害緩衝用)の小さな公園で、二人は遂に標的の姿を捉えた。
 交錯する二つの人影。
 一方はフード付きのコートに顔と身体を隠し、もう一方は目の周りを覆う仮面で顔を隠している。
 どちらも女、に見えた。
「ミキはコートの方を。あたしは仮面を抑える!」
 レオの証言に照らし合わせれば、怪しいのはフード付きコートの方だ。
 だがこんな夜中に仮面を付けて顔を隠した人間が、怪しくないはずはない。
 何より女の持つ大型ナイフと、それを振るう女の腕が、遠目に見ただけでもエリカの警戒心を強く刺激した。
 自己加速は使わず、刀身の強度を上げる刻印魔法だけを使って、仮面の女に斬りかかるエリカ。
 魔法で加速せずとも、達人と呼ばれる一握りの人々を除いては、生身の身体能力だけでは躱すことの困難な速さがあった。
 女のナイフ捌きは一流のものだったが、達人と呼べる程ではない。
 故に、エリカの一撃を受け止めることは出来ても、躱すことなど出来ないはずだった。
 ただの人間であったなら。
 閃光が瞬いた。
 エリカの刀は空を切り、標的は三メートル先に移動していた。
 閃光は物理的な光ではなく、魔法の発動に伴うサイオンの輝き。それが知覚出来たから、エリカは自分の斬撃が躱されたことに驚かなかった。
 驚きがあったとすれば、その魔法のスピード。
 斬りかかる直前まで攻撃を覚らせなかった自信がエリカにはあった。
 つまりこの相手は、彼女が刀を振りかぶってから振り下ろすまでの一刹那に、魔法の選択から発動までをやってのけたのだ。
 仮面の魔法師が移動した先は、街灯のすぐ下だった。
 それが本人にとって意図せざるものだったのか、あるいは見られても構わないと思っていたのかは定かでないし、定かにする必要も無いことだった。
 エリカの目に、意識に、強く刻みつけられたもの。
 それは、仮面で隠し切れない女の美貌でもなく、分厚い服に包まれていても分かる均整の取れた肢体でもなく、
 街灯の明かりに浮かび上がる、女の色。
 黒と見まがう程に濃い、深紅の髪と、
 仮面から覗く、金色の瞳。
 人間とは思えない、禍々しい色彩だった。


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