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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第五章・来訪者編
5-(6) 宣戦受領
 千葉エリカの朝は早い。
 いや、エリカの朝“も”早い、と言うべきかもしれないが。何せ彼女の親しいボーイフレンドは、達也もレオも幹比古も揃って早起きだからだ。
 それはともかく、彼女は日の出前から鍛錬に汗を流すことを日課としている。
 十歳の頃までは、父親に逆らえず、言われるがままに。
 自分が何なのかを思い知らされた十四歳のあの時までは、誰よりも千葉の剣士らしくあろうとして。
 去年の三月までは、ただ惰性で。
 でも、去年の四月、彼と会ってからは、自ら望んで。
 自分の意志で、強くなりたくて。
 朝の鍛錬で、剣は握らない。
 エリカの素質に目をつけた彼女の父親は、彼女を秘剣・山津波の使い手とすべく、否、山津波の使い手とする為だけに育てた。
 彼女に叩き込まれた技は、疾風と化して斬り込み雷光と化して断ち切る、疾風迅雷、速さの剣。
 その為、彼女に課せられた修行の中で、脚力の強化、走り込みはとりわけ重視されていた。
 目標を見失った惰性の日々、等閑(なおざり)になりがちだったロードワークは、自分の意志で「今よりも強くなる」と決めた日から、一日も欠かしたことはない。
 今朝もエリカは、目覚まし時計が鳴ると同時に、ベッドの上で身体を起こした。
 体質的に言えば、エリカは余り朝に強い方ではない。身体は反応しても、意識はすぐに覚醒しない。それでも何千回という反復によってすり込まれた習慣は、彼女の足をベッドの外へ向けた。
 欠伸を噛み殺しながら、足取りだけは危なげなく、部屋に隣接する彼女専用のバスルームに向かう。
 バスルームといってもシャワーブースとシャンプードレッサーが並んでいるだけだが、個人の部屋にこれだけの物が備わっているのはエリカが資産家の娘だからであって、決して一般家庭に普及している物ではない。
 千葉家の当主は少なくとも、子供を物で差別するような吝嗇家ではなかった。
 真冬に湯沸かし器も点けず、凍り付くような冷水で顔を洗って(正確には十回ほど濡らして)、ようやく意識を覚醒させたエリカは、トレーニングウェアに着替えようとクローゼットの前に立って、視界の端でメールの着信ランプが点灯しているのを認めた。
 今はまだ日の出前、正確な時間を言えば、朝の五時半だ。
 昨日寝たのは二十三時半で、その時には未読メールは残っていなかったから、このメールは真夜中に届いたことになる。
 何か、彼女自身にも説明できない予感が働いたのか、エリカはそのメールを後回しせずに開いた。
 シンプルであるが故に、今でも廃れず使われているテキストメール。そのタイトルが目に入って、エリカは眉を顰めた。
 本文を読み終えて、エリカはギリギリという歯軋りが副音声で聞こえてきそうな声で、呟いた。
「あのバカ兄貴……バカに何やらせてるのよ……」
 パジャマを乱暴に脱ぎ捨て、アンダーウェアを取り替える。
 エリカはクローゼットの中から、トレーニングウェアの代わりにセーターとスカートを取り出した。

◇◆◇◆◇◆◇

 達也の許へ凶報が届いたのは、登校前、家を出る直前だった。
 家の電話ではなく、携帯端末に送り込まれたプレーンテキストのメッセージ。
 普通は速報性を最優先した災害予報の配信くらいにしか使われないメッセージ形式が、不吉な切迫感を漂わせている。
 もっとも、そんな曖昧な切迫感など、メッセージを読んでしまえばすぐに上書きされて消えていく程度の代物に過ぎない。
 メールの差出人はエリカだった。
「お兄様、良くない知らせなのですか?」
 兄の感情の揺らぎを鋭敏に感じ取った深雪が、心配そうな眼差しで達也を見上げている。
 妹を不安の種から遠ざける、という思考はこの時、達也の中に存在していなかった。
「レオが吸血鬼に襲われて、病院に運び込まれたとエリカから連絡があった」
「……冗談では、無いんですよね?」
 マスコミには劇場化効果がある。
 例え隣の町で起こっていることでも、マスコミで大々的に――大袈裟に、と言い換えても良い――報道されると、自分たちとは縁の無い、虚構の世界の出来事の様に錯覚してしまう。
 ましてや「吸血鬼」などという突拍子も無い存在による犯罪に、現実感を持てないのは仕方が無いことかもしれない。
 しかし――
「事実だ」
 どんなに突拍子も無く見えても、事実から目を逸らすのはマイナスにしかならない。脅威は正面から向き合ってこそ、予め対策も練ることが出来る。
「中野の警察病院で治療を受けているようだ。
 不幸中の幸い、命には別状がないということだから、見舞うのは放課後にしよう」
「――はい」
 深雪にとって西城レオンハルトは兄を介した友人でしかない。
 達也が放課後で良いと言うなら、深雪がそれに反対する理由は無かった。
 例え、心の中でどう思っていたとしても。

◇◆◇◆◇◆◇

 その日、エリカは学校を休んだ。
 その事は達也にも美月にも幹比古にも、ついでに学校の事務局にも連絡してあるので皆知っているはずだ。
 しかし、エリカが看病の名目で看視しているレオの病室に(とは言っても、エリカが座っているのは病室前の廊下に置かれた長椅子だが)、上級生が訪ねて来るなど誰も知らなかっただろう。
 自由登校だから時間は問題にならない。
 しかし前生徒会長と前部活連会頭が、特に生徒会にも部活連にも関わっていなかった一生徒の見舞いに来ると予測できるはずも無い。現生徒会長、現部活連会頭が見舞いに来るという方がまだ予想の範疇だ。
 克人は入り口の脇に座るエリカをチラッと見て、すぐに関心が失せた顔でドアに向き直った。
 真由美は愛想笑いの見本の様な笑顔でエリカに会釈し、やはりすぐにドアへ向き直った。
 病室(個室)のドアをノックする真由美を、エリカは止めなかった。
 彼女はレオを看護している訳ではなく、看視している――正確に言えばレオを看視しているのではなく、レオを訪ねて来る「招かれざる客」を見張っている――だけなのだから、止める理由が無い。
 エリカは立ち上がって、二人の先輩に声もかけず、その背後を通り抜けて歩み去った。

 エリカが向かった先は、病院の事務室(の一つ)。
 そこには、彼女の兄とその腹心の姿があった。
 ノックも無しに入って来たエリカから、寿和は気まずげに、微妙に視線を逸らした。
 その頬が少し赤く腫れている。否、ほとんど腫れが引いている兄の顔を見て、もう少し強く殴ってやればよかった、とエリカは後悔した。(なお彼女が使ったのは平手ではなく裏拳だ)
 何せ、この「バカ兄貴」が無抵抗に殴られてくれる機会など滅多に無いのだ。
 幼い頃から積もりに積もった恨みを少しでも晴らすことが出来るなら、どんな些細なチャンスでも逃すべきではなかったのに。
「……えっと、お嬢さん。何か物騒なことを考えてませんか……?」
 (くら)い喜びを伴う思考を中断されたエリカが、尖った視線を稲垣に向けた。
 気圧され、目を泳がせる稲垣。
 父親からは冷遇されているエリカだが、門下生に彼女のシンパは多い。
 明るい性格とコケティッシュな美少女ぶり、そして何より、秘剣・山津波の唯一の使い手という事実。実戦の中で、山津波を使いこなしたという実績。
 彼女は当主の娘という血筋ではなく、剣の腕と彼女自身の魅力で、千葉一門のアイドル的な地位を掴み取っている。
 彼女に睨まれると、門下生の間で色々と居心地の悪い思いを味わうことになるかもしれない。
 またそれ以前に、稲垣の腕ではエリカに対抗し得ない。稽古の相手に指名でもされようものなら、いいように小突き回されてしまうだろう。元々の才能に加えてこの半年で急激に腕を上げたエリカに、千葉一門で対抗しうる剣客は現在既に、当主と二人の兄だけだと言われている。エリカは実質的に免許皆伝の腕前で、まだ皆伝が与えられていないのは、剣に関する限り凡庸な腕と才能しか持たない彼女の姉に配慮した結果だ、というのは、門下生の間で公然と囁かれている噂だった。
「兄貴」
 エリカに呼ばれて、寿和が渋々目を向ける。随分と男前な言葉遣いだが、不機嫌を隠そうともしない今のエリカにはピッタリはまっていた。
「今、アイツのところに七草の直系と十文字の直系が訪ねて来たんだけど?」
 何の用事か知ってるわよね? と声には出さず視線で威嚇するように問い掛ける。
 稲垣はエリカの苛烈な眼差しに硬直の度を強めたが、寿和の方は流石にそこまで妹に畏れ入るつもりは無いようだった。
「上からのお達しでね。詮索するな、と」
 芝居がかった仕草で両手を上に向け、肩を竦める。
 半ば予想された答えに、エリカは舌打ちを漏らした。
「霞ヶ関ならともかく、桜田門はコッチのフィールドでしょ」
「俺たちは霞ヶ関の所属なんでね」
「使えないわね」
 忌々しげに呟いたエリカだが、それ以上の八つ当たりをしないだけの理性は残していた。
「盗聴器は?」
「部屋に入ると同時に壊されちまったよ。
 妖精姫のマルチスコープがここまで高性能とは予想外だったなぁ」
 妖精姫とは真由美のニックネーム「エルフィン・スナイパー」から派生した呼び方で、射撃系の魔法競技者を中心に使われている愛称だ。妖精=小さいというイメージがあるので真由美にピッタリだという声がある一方で、同じ理由で本人に対して使われることは無い。
「ますます使えないわね……それで、部屋の外に仕掛けたやつはどうなのよ?」
「そっちは音波遮断で無効化されました。十文字の障壁魔法です」
 事務的な稲垣の答えに、最早エリカは「使えない」とさえ言わなかった。
「じゃあ推測で良いわ。心当たり、あるんでしょ」
 エリカに睨みつけられて、寿和は再度、肩を竦めた。
「本当に推測でしかないぞ?
 どうやら七草は被害者を隠匿しているようだな」
「……死体を隠してる、ってこと?」
 予想以上のきな臭い「推測」に、エリカが驚きを隠せず問い返した。
 死体隠しは証拠隠滅の一種、自分で殺して死体を処理(遺棄・損壊)するのとは意味が違うとはいえ、法に反していないとは言い切れない。
 いくら十師族が超法規的な特権を持っているとはいっても、大量殺人という明らかな犯罪行為で警察の邪魔をするような真似をするとは……
 そこまで考えて、エリカはその裏に潜む意味に気づいた。
「つまり、今回の『吸血鬼』事件は、魔法師絡みの事件ってことね?」
「多分ね。
 被害者か加害者かは分からないが」
「被害者?
 魔法師による犯罪なら警察に任せず自分たちで秘密裏に処理しようとするのも分かるけど、魔法師が被害者になってるなら警察に隠す必要ないんじゃない?」
 喧嘩腰な妹の台詞に、寿和はニヤリと笑った。
「さて、そこなんだよな。今回の事件が、一筋縄じゃ行かないような気がするのは」

◇◆◇◆◇◆◇

 放課後。
 達也はいつものメンバーを引き連れて、中野の警察病院へレオの見舞いに訪れた。
 受付で病室を訊いてエレベーターへ向かう。と、その少し手前で横合いから名前を呼ばれた。
「みんな、来たんだ」
「エリカ、まだいたのか」
 一通りの事情は朝のメールに書かれていたので知っている。エリカの長兄が吸血鬼事件を担当していて、レオはその捜査に協力中、事件に巻き込まれる格好になったと。その責任を取らせる為に(責任を取って、ではなく)、エリカは学校を休んでレオが運び込まれた病院へ行く、とメッセージには書かれていた。
 しかしその連絡があったのは登校前で、今は日も暮れようかという夕方だ。「まだ」という表現も妥当なものだろう。
「ずっとここにいた訳じゃないよ。一旦家に戻って、一時間くらい前にまた来たトコ。
 達也くんたちが来るだろうと思ってね」
 ゾロゾロと一緒にエレベーターへ乗り込みながらエリカが達也の疑問に答える。
 その声にも表情にも、嘘をついているような不自然さは無かった。
 余りにも自然すぎて、かえって嘘くさかった、というのは、多分エリカ本人だけが気づいていなかった。

「エリカちゃん、レオくんは無事なの……?」
 エレベーターの中で隣り合わせになった美月が、小声でエリカに訊ねた。
 もうすぐ自分の目で確認できる、とはいえ、不安なのだろう。
 こういう感情は人によって、容易に理性を凌駕する。
「大丈夫よ、美月。メールでも連絡したでしょ? 命に別状は無いわ」
 ただ、人によって似合う、似合わないが分かれる態度でもある。
 ホッと胸を撫で下ろす美月を、エリカは温かい目で見下ろしていたが(背はエリカの方が少し高い)、同じ事をむさくるしい男がやったら冷たくあしらわれていたこと、疑いない。
 口には出さないものの同じような懸念を抱えていたのは美月だけではなかったようで、幾分硬さの取れた雰囲気の中、エリカが病室をノックした。
「はい、どうぞ」
 中から聞こえてきたのは、若い女性の声だった。
「カヤさん、お邪魔するね」
 戸惑いを隠せない友人たちを尻目に、エリカはドアを開けてスタスタと中に入って行く。
 こういう時に立ち直りが早いのは、やはり達也だ。
 入り口に掛けられたカーテンでエリカの背中が見えなくなる前に、病室の中へ進む。
 深雪が間髪入れずその後へ続き、それを見たほのかが小走りで追いかけ、美月と幹比古が顔を見合わせて病室に入り、ドアを閉めた。
 それなりに広い、つまりそれなりにグレードの高い個室で彼らを出迎えたのは、退屈丸出しの顔でベッドの上に身体を起こしているレオと、その傍らに折り畳み椅子を広げて腰掛けている灰色の髪(アッシュプロンド)の若い女性だった。
 年齢は彼らより四、五歳ほど上だろうか。
 アイネブリーゼのマスターに似た髪の色は、同じ民族の血を思わせる。
 そして彼女の顔立ちは、もう少し彫を深くして性別を反転させればレオとそっくりになる、と想像させる程度に血のつながりを感じさせた。
「こちら西城花耶(カヤ)さん。レオのお姉さんよ」
 疑問が言葉となるより早く、エリカがその女性を紹介する。
 彼女の正体は達也たちが思ったとおりのものだった。
 花耶は立ち上がり、達也たちに向かって丁寧に頭を下げた。
 優雅とも洗練されたとも言えないが、学生とは一線を画す折り目正しい仕草で。
 全員と一通り挨拶を交わした後、花耶は花瓶を持って病室を出て行った。
 水を替えてきますね、とのことだったが、遠慮して席を外したのは問うまでも無く明らかだ。
「優しそうなお姉さんですね」
 花耶の後姿が消えたドアへ目を向けたままで、美月が呟くように口にしたこの発言は、社交辞令というより彼女の本音に違いなかった。
 達也もそう感じたし、他の者の顔にも異存は窺われない。
 ただ、レオが見せた少し苦い表情は、それなりに家庭の事情があるのだろうと思わせるものだった。
「酷い目に遭ったな」
 だから達也は、それ以上踏み込まなかった。
 元々レオの家庭事情は、彼に関係の無いことなのだから。
「みっともないとこ、見せちまったな」
 照れくさそうにレオが笑う。そこには、先程の苦い顔の痕跡は無い。
「見たところ、怪我も無いようだが」
 達也の目は、レオの首に向いている。
 レオは笑顔の種類を変えて、首横を手で撫でた。
「そう簡単にやられてたまるかよ。
 オレだって無抵抗だったわけじゃないぜ」
「じゃあ何処をやられたんだ?」
 不敵に笑ったレオに、達也は当然の質問を投げ掛けた。
 その途端、レオの笑みが消えた。
「それが良く分からねぇんだよな……」
 だからと言って、落ち込んだ、という訳でもない。
 負け惜しみでなく、心底納得いかない、という表情で首を捻っている。
「殴り合っている最中に、急に身体の力が抜けちまってさ。
 最後の根性で一発、良いのを入れたら逃げてったけど、こっちも立ってられなくなって道路に寝転がっている所をエリカの兄貴の警部さんに見つけて貰ったんだよ」
「毒を喰らった、って訳でもないんだよな?」
「ああ。
 身体中何処調べても、切り傷も刺し傷も無かったし、血液検査でもシロだったぜ」
 確かに、不思議な話だった。
 達也が一緒になって首を捻っている横から、幹比古が口を挿んで来た。
「相手の姿は見たのかい?」
「見た、って言えば見たけどな。
 フード付きコートに覆面、コートの下はハードタイプのボディアーマーで人相も身体つきも分からんかったよ。
 ただ……」
「ただ?」
「女だった、ような気がするんだよな」
「……女性の腕力でレオと対等に殴りあったのかい?」
「あり得ないことじゃないでしょ」
 目を丸くした幹比古に、エリカが反論する。
「薬を使えば小学生の女の子だって大の男を絞め殺せるんだから」
「それもそうだね……でも……」
「でも?」
「最初からただの人間じゃなかった、って可能性もある」
「何か心当たりがあるのか?」
 達也にそう水を向けられた幹比古は、何事か心に決した表情でレオに向き直った。
「レオ」
「お、おう」
 余りに気合の入った目つきは、レオが気圧されてしまうほど。
「君の幽体を調べさせてもらって良いかな?」
「ゆうたい?」
 幽体という言葉がピンと来なかったようで、レオは単語を発音の羅列に逆変換して鸚鵡返しに訊ねた。
 それもある程度仕方の無いことで、「霊体」ならともかく「幽体」は現代魔法で余り使用されることの無い単語であり、レオが特に愚鈍という訳ではない。
「幽体というのは精神と肉体をつなぐ霊質で作られた、肉体と同じ形状の情報体のことだよ」
 幹比古は指先で空中に「幽体」と大きく書いた。
「幽体は精気、つまり生命力の塊。
 人の血肉を喰らう魔物は、血や肉を通じて精気を取り込み己が糧としている、と考えられているんだ」
「つまり吸血鬼は血を吸うけど、本当に必要としているのは一緒に吸い取っている精気だってこと?」
 エリカの問いに、幹比古は緊張した表情で頷いた。
「吸血鬼は血を吸い、食人鬼は肉を喰らう。
 でも元々が物質的な生物でない彼らは、本来精気さえ取り込めば良いはずだ。
 僕たち古式の術者が伝えている伝承が真実であるならば」
「その発想に立てば、精気だけを吸い取るヴァンパイアがいてもおかしくない、か」
 幹比古の言葉を受けて、達也が呟く。
 その小さな呟きに、幹比古はもう一度、頷いた。
「僕は今回の吸血鬼事件が、単に異常なだけの人間による、単なる猟奇犯罪とはどうしても思えないんだ。
 何故、と問われても説明できない。
 僕の直感、としか言いようがない。
 でも――」
「良いぜ、幹比古」
 もどかしそうに、自分の感じているものを何とか説明しようとしている幹比古を、レオがそう遮った。
 その短い台詞の意味を理解するのに、幹比古は一秒を要した。
「……良いのかい?」
「ああ。ってえか、コッチからお願いするぜ。
 原因が分からねぇと治しようがないからな」
 幹比古は更に顔を引き締めて、足元に置いていた鞄へ手を伸ばした。

◇◆◇◆◇◆◇

 紙に墨で書かれた由緒正しい札と、達也でさえ初めて見るような伝統呪法具を駆使してレオの状態(ステータス)を確認し終えた幹比古は、驚きを隠そうともしなかった。
 多分、隠す、ということすら思い至らなかったのだろう。
「何と言うか……達也も大概凄いと思ったけど、レオ、君って本当に人間かい……?」
「おいおい、随分とご挨拶だな」
 冗談ならともかく、しみじみと呟かれては、流石にレオも笑い飛ばせないようだった。
 レオは明らかに気分を害している。
 しかし、そんなことも気にならない、と言うか、気がつかない程、幹比古は驚いていた。
「いや、だってさ……よく起きていられるね?
 これだけ精気を喰われていたら、並の術者なら昏倒して意識不明のままだよ」
「喰われた?」
 そんなことまで分かるのか? という顔で問い掛けてきた達也に、幹比古は満更でも無さそうな笑みで頷いた。
「幽体は肉体と同じ形状を取るからね。
 容れ物の大きさが決まっているから、元々どのくらい精気が詰まっていてそれがどれだけ減っているかというのも、おおよそ見当がつくんだよ。
 今のレオには、普通の人なら起きていられない、それどころか意識も保てない程度の精気しか残っていない。
 この状態で身体を起こして話が出来るなんて、余程肉体の性能が高いんだろうね」
 幹比古にとっては何気なく口から出た言葉だった。
 だが「性能が高い」という表現は、性能アップの為の改造を受けた遺伝子を受け継ぐレオの心を抉るものだった。
「まあな。オレの身体は特別製だぜ」
 それでもレオは笑って見せる。
 悪意が無いことの分かっている相手に、八つ当たりするような無様は晒したくなかった。
「で、結局オレの力が抜けたのは、その精気ってヤツを覆面女に喰われたから、って理解すりゃ良いのか?」
 レオは波立つ心の揺らぎを抑え込んで、そう訊ねた。
「ああ、ほぼ間違いないと思う。
 レオが遭遇した相手は、パラサイトだ」
 そして幹比古の回答は、彼がそうするだけの価値が十分にあるものだった。
「パラサイト(寄生虫)? そのままの意味じゃないよね?」
 首を傾げたエリカに向かって、幹比古は講義口調で語り始めた。
「paranormal parasite(超常的な寄生物)、略してパラサイト。
 魔法の存在と威力が明らかになって、国際的な連携が図られたのは現代魔法だけじゃない。古式魔法も従来の殻にこもり停滞することは許されず、国際化は避けられないものだった。
 古式魔法を伝える者たちによる国際会議がイギリスを中心として何度も開催され、その中で用語や概念の共通化、精緻化が図られたんだ。
 パラサイトも、そうして定義された名称の一つ。
 妖魔、悪霊、ジン、デーモン、それぞれの国で、それぞれの概念で呼ばれていたモノたちの内、人に寄生して人を人間以外の存在に作り変える魔性のことをこう呼ぶんだよ。
 国際化したって言っても古式魔法の秘密主義は相変わらずだから、基本的に現代魔法の魔法師である皆が知らなくても当然だと思うけど」
「妖魔とか悪霊とかが実在するなんて……」
 幹比古の説明を聞いて、ほのかが怯えたように呟く。
 その肩に、達也の手が置かれた。
「魔法だって実在するとは思われていなかった。でも、俺たちは魔法を使っている。
 未知の存在だからといって、無闇に怯える必要は無い」
 達也は天然でこういう振る舞いに及んでいるのではない。
 彼は自分がほのかに対して大きな影響力を持っていることを、ある程度まで認識している。
 だから達也は、彼の手の感触にビクッと身体を震わせたほのかから、盲目的な不安が拭い去られたのを確認すると、すぐにその手を引っ込めた。
 ほのかが名残惜しそうな素振りを見せたのも、気づいていて、気づかないフリを通した。
「それが吸血鬼の正体か」
 そうして、幹比古に目を向ける。
 怖れ過ぎるのはマイナスだが、無知が脅威を増大させることも、彼は同時に弁えていた。
「そう思う。
 でも……」
「でも?」
「……殴り合っている最中に、触れるだけで精気を吸い取れるなら、血を吸う必要なんて無いはずだ。
 何故、このパラサイトは血を抜き取るなんて余分な手間を掛けているんだろう……?」
 幹比古の疑問に、達也も答えを持ち合わせていなかった。

◇◆◇◆◇◆◇

 面会時間が終了して、五人は病室を後にした。
 五人というのは、達也、深雪、幹比古、ほのか、美月。
 エリカは兄の寿和に話があると言って残った。
 その言葉を額面通りに受け取った者は五人の中に一人もいなかったが、それを口に出して指摘した者もまた、一人もいなかった。
「そうだ――幹比古」
「うん?」
 急に名前を呼ばれて、美月とお喋りしていた幹比古は訝しげに達也へ顔を向けた。
 達也の両脇には深雪とほのか。
 腕を組んでこそいないものの、身体の距離はそれと変わらない。
 モテ男なんて滅んでしまえ、と幹比古がこの時に思った、かどうかは定かでない。
 幹比古がどう思っていても、達也がそれを気にしたとも思えないが。
「さっき訊き忘れていたことがあるんだが」
 正確に言えば、盗聴器を気にして敢えて訊かなかったこと、なのだが、今の達也の口調からそういう剣呑な裏事情を読み取ることは幹比古でなくても難しかっただろう。
「何だい?」
「妖魔とか悪霊とかパラサイトとかいうヤツらは、頻繁に出現するモノなのか?」
 何も飲み食いしていないにも関わらず、幹比古は()せかけた。
 達也の口調が何気ないものだったので、幹比古も軽い気持ちで聞いていたら、とんでもなく深刻な問い掛けだったからだ。
「……いや、滅多に出現するモノじゃないよ。
 昔話なんかにはいつも何処かに隠れていて悪いことをしているみたいに書かれているけど、大抵は魔性を装う人間の術者の仕業だ。例えば有名な大江山の酒呑童子だって、正体は西域から流れて来た呪術師だった、っていうのが僕たちの間では定説になってるし。
 術者が本物の魔性に出会う確率は、そうだね……十世代に一世代くらいじゃないかな。それだってほとんどの場合は偶然この世界に迷い込んだ個体を見つけるという程度で、本物の魔性が人間に害を為し、それを術者が退治するというような緊急事態が起こる頻度なんて、世界的に見ても何百年に一回ってレベルだよ。
 何せ、日本で最後に本物の魔性を退治した記録は、九百年前の安倍泰成による妖狐退治だから」
「だが、今回の吸血鬼事件は、その『本物の魔性』の仕業なのだろう」
「そう思う」
「偶然だと思うか?」
「偶然、という可能性がゼロとは言わないけど……」
 幹比古の答えは、酷く慎重なものだった。
「歴史が現代に近づくにつれて、間違いなく魔性の観測例は減少している。
 今回の事件が、何の原因も無く起こったものだとは、僕には思えない」
 幹比古の答えに、達也は一言、「そうか」と呟いた。

◇◆◇◆◇◆◇

 達也たちが帰り、代わりに花耶が戻って来たのを確認して、レオは力尽きたようにベッドへ倒れた。
 部屋にはまだエリカがいたが、意地を張るのはもう限界だった。
「……まあ、あたしは本当のことを知ってるからね。
 もう強がる必要はないんじゃない?
 アンタはよく頑張ったわよ」
「……素直に……褒められたと……取っとくぜ……」
「褒めたのよ、素直に」
 苦しげに目を閉じているレオを見て、エリカは優しげな笑みを浮かべた。
「あの、エリカさん……弟は本当に大丈夫なんでしょうか」
 しかし、そのやりとりを見ていた花耶は、とても笑える気分では無いようだった。
 肉親としては当然の心配だろう。
 だが、花耶に答えたエリカの声は、実に素っ気ないものだった。
「大丈夫です。
 千葉家が知る限り、最高の名医に治療させています。
 魔法師でないお姉さんにはお分かりになり難いかもしれませんけど、気力の枯渇は体力の回復以上に時間を掛けないと元に戻らないものなんです。
 他に必要な治療は全て行いました。後は、時間だけが特効薬で、時間を掛ければ治ります」
 魔法師でないお姉さん、のくだりで花耶が小さく身体を震わせたのにエリカも気づいていたが、労るような言葉は彼女の口から出て来なかった。
「じゃあ、あたしは兄の所へ行ってますんで。
 何かご用がお有りでしたら看護師にでも兄の部下にでもあたしにでも、誰にでも遠慮無く仰ってください」
 エリカは花耶に形だけの一礼をして、病室を出て行った。
 そんなエリカの態度に、レオは文句をつけようとしなかった。

◇◆◇◆◇◆◇

「お嬢さん、もう少し手加減した方が良いんじゃないですか?」
 レオの個室を盗聴している例の部屋に入った途端、稲垣からエリカにそんな声が掛けられた。
 何に対して、が抜けている曖昧な言い方だが、エリカには何のことだか解っていた。
 解っていてエリカは、その台詞を鼻で笑い飛ばした。
「別に魔法師を好きになれなんて要求するつもりはないわ。
 親だろうと兄弟だろうと、怖いものは怖いでしょうからね。
 だったらこちらも、そういう認識で付き合うだけよ。
 それより……聞いてたんでしょ、さっきの話」
 最後のワンフレーズは寿和に対する言葉。
 背もたれに大きく寄りかかって、首の後ろで組んだ両手で自分の頭を支えていたエリカの長兄は、乱暴な仕草で頭からヘッドホンをむしり取って身体を起こした。
「中々興味深い話だったな。
 で、吉田の次男坊の推理が当たっているとして、エリカ、お前、どうする?」
「当たり外れは関係ないでしょ、この場合」
 何をつまらないことを、と言いたげな蔑みの眼差しで、エリカは椅子に座ったままの寿和を見下ろした。
「例え一時(いっとき)のことでも、アイツは千葉の門を跨いだ、ウチの門人よ。
 それもあたしが直々に技を手解きしたんだから、あたしの最初の弟子と言うことも出来る。
 弟子をやられて、黙っていられるはずが無いでしょ」
「色気の無い理由だな」
「無くて結構。
 そんなもの無くても、ぶちのめす理由に不足はないからね。
 吸血鬼とやらが男か女か知らないけど、宣戦を布告して来たのは向こう側。
 こっちは受けて立つだけよ」
 それが本音か照れ隠しか、兄である寿和にも分からない。
 確実に分かっているのは、エリカが完全に本気だということだけだった。
私事ですが、今月配転となりました。
異動先は全くの畑違いで恒常的に人手不足。
ぶっちゃけ、とばされたんですね。
という訳で、今までのペースで更新するのは難しくなると思います。


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