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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第四章・追憶編
4-(7) 譲れないもの
 いきなり立ち上がったのは兄だけじゃなかった。
 一呼吸遅れて、桜井さんも椅子を蹴っていた。
 わたしたちと同席している見も知らない人たちが、吃驚(びっくり)した顔で、少しおどおどした目つきで、あの人と桜井さんを見詰めている。
「達也君、これは……」
「桜井さんにも聞こえましたか」
「じゃあ、やっぱり銃声……!」
「それも拳銃ではなく、フルオートの、おそらくアサルトライフルです」
 ……えっ? じゃあ、敵が攻めて来たっていうこと?
 どうして?
 ここは国防軍の基地の中じゃないの?
「状況は分かる?」
「いえ、ここからでは……この部屋の壁には、魔法を阻害する効果があるようです」
「そうね……どうやら、古式の結界術式が施されているようだわ。
 この部屋だけじゃなくて、この建物全体が魔法的な探査を阻害する術式に覆われているみたいね」
「部屋の中で魔法を使う分には問題ないようですが」
 兄の言葉に、桜井さんが同意を示した。
 わたしには、分からなかったのに……
「おい、き、君たちは魔法師なのか」
 不意に、少し離れて座っていた男の人が兄と桜井さんに声を掛けてきた。
 仕立ての良い服を着た、見るからに社会的地位のありそうな壮年の男性だ。
 一塊になって座っているのは家族だろうか。
「そうですが?」
 いきなり話し掛けられた訝しさの混じった声で、桜井さんが答える。するとその男の人は尊大な態度で、多分、大部分虚勢だと思うけど、こう続けた。
「だったら、何が起こっているのか見て来給え」
 ……何それ?
 まるきり使用人扱いの物言いじゃない。
 感じワル……!
「……私たちは基地関係者ではありませんが」
 桜井さんもムッとした口調で言い返した。
 必要とあればいくらでも猫を被れるはずだけど、縁もゆかりも、ついでに利害関係もない相手に、そんな義理は無い、と思ったのだろう。
 しかし、桜井さんの当然の主張は、この男性には通じなかった。
「それがどうしたというのだ。君たちは魔法師なのだろう」
「ですから私たちは」
 この男の人は、桜井さんの言葉を聞こうともしていなかった。
「ならば人間に奉仕するのは当然の義務ではないか」
 ……っ!?
 まさか、まだ、こんなことを平気で口にする人がいるなんて……
 それも、魔法師に面と向かって……!
「本気で仰っているんですか?」
 桜井さんの声も殺気立っている。目つきはもっときついものになっているはずだ。
 流石にその男性も怯んだようだけど、彼の暴言は止まらなかった。
「そ、そもそも魔法師は、人間に奉仕するために作られた“もの”だろう。だったら軍属かどうかなんて、関係ないはずだ」
 怒りとショックが強すぎて、言葉にならなかった。
 この男性が言ったことは、口にしてはならないことだった。
 だけど間違いなく事実の一端であり、魔法師でない人々が今でも少なからず思っていることだった。
「なるほど、我々は作られた存在かもしれませんが、」
 わたしの代わりに反論してくれたのは、それまで桜井さんに男性の相手を任せていた兄だった。
 怒りも動揺も感じられない、シニカルで、嘲りを隠さぬ口調で。
「貴方に奉仕する義務などありませんね」
「なっ――!」
「魔法師は人類社会の公益と秩序に奉仕する存在なのであって、見も知らぬ一個人から奉仕を求められる謂われはありません」
 人類社会の公益と秩序に奉仕する、というのは『国際魔法協会憲章』の一節で、魔法師以外にも良く知られているフレーズだ。当然、この男性も知っていたのだろう。
「こっ、子供の癖に生意気な!」
 だからこその、この反応。
 その男性は、赤い顔でブルブル震えながら兄を怒鳴りつけた。
 わたしが見上げた兄の瞳は、侮蔑と憐れみに染まっていた。
「まったく……いい大人が、子供の前で恥ずかしくないんですか?」
 同じ「子供」という言葉を使っていても、意味するところは全く違う。
 名前も知らない男の人は、ハッとなって家族の方へと振り返った。
 彼の家族が彼のことを見上げていた。
 彼の子供たちは、子供らしい潔癖性を以て、軽蔑の眼差しで彼を見ていた。
 動揺する男性の背中へ、兄が追い打ちを掛ける。
「それと、この国では、魔法師の出自の八割以上が血統交配と潜在能力開発型です。
 部分的な処置を含めたとしても、生物学的に『作られた』魔法師は全体の二割にもなりません」
「達也」
 この場を収拾したのは、お母様だった。もっとも、お母様にはそのような意図など、おそらく無かったと思うけど。
 お母様に呼ばれて、兄はワナワナと震える男の人の背中から視線を外した。
「何でしょうか」
「外の様子を見て来て」
 いつものように、お母様は冷淡とも聞こえる端的な指示を出した。
 しかし兄は珍しく、それに難色を示した。
「……しかし状況が分からぬ以上、この場に危害が及ぶ可能性を無視できません。
 今の自分の技能では、離れた場所から深雪を護ることは」
「深雪?」
 兄の反論を、お母様は冷たい声で遮った。
 冷たい眼差しのまま、目をスッと細める。
「達也、身分を弁えなさい?」
 口調だけは優しく、ゾクッと背筋が震えるような声音に、わたしは心の中で異を唱えることも出来ない。
「――失礼しました」
 兄は一言謝罪して、それ以上、反論しなかった。
「……達也君、この場は私が引き受けます」
 ギスギスした空気を取りなすように、桜井さんが横から口を挿んだ。
 お母様は興味を失ったお顔で、あの人から目線を外した。
「分かりました。
 様子を見て来ます」
 兄はお母様の横顔に一礼して、部屋を出て行った。
 怯えた目を向けている、あの男性の家族には、兄もお母様も、一瞥もくれなかった。

◇ ◇ ◇ ◇

 外から爆竹を鳴らしたような音が聞こえる。
 もちろん、お祭りをやっているとかそういうことではあり得なくて。
 銃撃の音は、今やわたしの耳でも聞き取れるようになっていた。
 そして、近づいて来たのは、銃声だけじゃなかった。
 この部屋にいくつもの足音が近づいて、扉の前で止まった。
 桜井さんがわたしとお母様の前に立った。
 CADのブレスレットには、起動式を展開するのに十分なサイオンがチャージされている。こういう風に即時作動が可能な状態を長時間維持するのは難しいのだけど、桜井さんのテクニックは流石だった。
 わたしからはその背中しか見えないけれど、多分彼女は、鋭くドアを睨み付けていることだろう。
「失礼します! 空挺第二中隊の金城一等兵であります!」
 警戒を保ちつつも、桜井さんの緊張が少し弛んだのが分かる。わたしもドアの外から掛けられた声を聞いてホッとしていた。
 どうやら基地の兵隊さんが迎えに来てくれたみたいだ。
 開かれたドアの向こうにいたのは、四人の若い兵隊さんだった。
 全員が「レフト・ブラッド」の二世のようだけど、特に気にはならない。この基地は、そういう土地柄なのだろう。
 熱を帯びたマシンガン(としか、わたしには見分けが付かない)を抱えているのは、敵と銃火を交えながら駆けつけてくれたからだろうか。
「皆さんを地下シェルターにご案内します。ついてきて下さい」
 予想通りの台詞だったけど、わたしは躊躇わずにいられなかった。
 今この部屋を出て行ったら、兄とはぐれてしまう。
「すみません、連れが一人、外の様子を見に行っておりまして」
 わたしがその事を言う前に、桜井さんが金城一等兵にそう告げてくれた。
 案の定、一等兵は顔を顰めて難色を示した。
「しかし既に敵の一部が基地の奥深くに侵入しております。ここに居るのは危険です」
 これもある程度、予想通りの答え。
「では、あちらの方々だけ先にお連れ下さいな」
 しかし、お母様のご発言は、まるで予想外の、意外なものだった。
「息子を見捨てて行く訳には参りませんので」
 わたしは桜井さんと、無言で目を見合わせた。
 考えてみれば当然の言い分ではあるが、どうしても違和感が拭い去れない。
「しかし……」
「キミ、金城君と言ったか。
 あちらはああ仰っているのだ、私たちだけでも先に案内し給え」
 こちらの様子を窺っていたあの男性に詰め寄られて、四人の兵隊さんたちは険しい表情で顔を見合わせ小声で相談し始めた。
「……達也君でしたら、風間大尉に頼めば合流するのも難しくないと思いますが?」
 その隙に、桜井さんが小声でお母様に、こう訊ねていた。
「別に、達也のことを心配しているのではないわ。あれは建前よ」
 声を潜めて返された、お母様の回答はこれだった。
 わたしはガクガクと震えだした膝に、必死で力を込めた。
 お母様は何故、実の息子であるあの人に対して、ここまで冷淡になれるの……?
「では?」
「勘よ」
「勘、ですか?」
「ええ。この人たちを信用すべきではないという直感ね」
 たちまち、桜井さんが最高度の緊張を取り戻した。
 わたしも、膝の震えを忘れた。
 他の人ならいざ知らず、かつて「忘却の川(レテ)支配者(ミストレス)」の異名で畏怖されたお母様の「直感」だ。
 お母様の得意魔法は知覚系や予知ではなく、精神干渉の魔法だけど、「精神」に関わる魔法の使い手は「アカシック・レコード」と密接にリンクしているという仮説もあるくらい、高い直感的洞察力を有している傾向がある。……わたしのような例外もいるけれど。
 四人が相談を終えたのは、ちょうどその時だった。
「申し訳ありませんが、やはりこの部屋に皆さんを残しておく訳には参りません。
 お連れの方は責任を持って我々がご案内しますので、ご一緒について来て下さい」
 言葉遣いはさっきと変わらない。
 だけど、脅しつけるような態度になっている、と感じるのは、わたしの先入観の所為?
「ディック!」
 新たな登場人物が、この一幕に急展開をもたらした。
 金城一等兵が、声の主、桧垣上等兵に対していきなり発砲したのだ。
 廊下側の壁に窓は無いから当たったかどうかは見えないけれど、確かに今の声は桧垣上等兵のもので、金城一等兵は声のした方へ向けてマシンガンを発射した。
 悲鳴を上げたのは、あの男性の家族。
 金城一等兵の仲間が、室内へ銃口を向ける。
 桜井さんが起動式を展開した、けど、頭の中でガラスを引っ掻いたような「騒音」が魔法式の構築を妨害する。
 これは、サイオン波? キャスト・ジャミング!?
 耳を押さえて目を向けると、四人の内の一人が真鍮色の指輪をはめていた。
 こちらでは、お母様が胸を抑えて蹲っている!
 拙い……!
 お母様は元々鋭敏過ぎるサイオン感受性を持っている。それに加え、お若い時分の無理が祟って、サイオン波に対する抵抗力が最近、(とみ)に低下している。
 キャスト・ジャミングのサイオン波が、お身体にまで悪影響を与えているんだわ。
 キャスト・ジャミングを、止めなきゃ!
「ディック! アル! マーク! ベン! 何故だ!?」
 耳を押さえた掌の向こう側から、桧垣上等兵の怒鳴り声が聞こえる。
 よかった、弾は当たっていなかったのね……
「何故、軍を裏切った!」
「ジョー、お前こそ何故、日本に義理立てする!」
 一発ずつ発砲する合間に――マシンガンでも一発ずつ撃てるのね、などと、わたしはどうでもいい感想を抱いた――金城一等兵が怒鳴り返す。
「狂ったか、ディック! 日本は俺達の祖国じゃないか!」
「日本が俺達をどう扱った!
 こうして軍に志願して、日本の為に働いても、結局俺達は『レフト・ブラッド』じゃないか!
 俺達は、いつまで経っても余所者扱いだ!」
「違う! ディック、それはお前の思い込みだ!
 俺達の片親は紛れもなく余所者だったんだ。何代も前からここで暮らしている連中にすれば、少しくらい余所者扱いされて当たり前だ!
 それでも軍は! 部隊は! 上官も同僚も皆、俺達を戦友として遇してくれる! 仲間として受け容れてくれている!」
「ジョー、それはお前が魔法師だからだ!
 お前には魔法師としての利用価値があるから、軍の連中はお前に良い顔を見せる!」
「ディック、お前がそんなことを言うのかっ!?
 レフト・ブラッドだから余所者扱いされる、と憤るお前が、俺が魔法師だから、俺はお前たちと別の存在だと言うのか!? 俺は仲間でないと言うのか、ディック!」
 銃撃の音が途切れた。
 そして、キャスト・ジャミングのサイオン波が弱まった。
 チャンスだわ……!
 この不安定さから見て、アンティナイトを使用しているのは魔法演算領域を持たない非魔法師。
 少しくらいサイオンの保有量が多いからって、それを制御することも出来ない一般人の使うキャスト・ジャミングで、このわたしを、四葉の次期当主候補を、何時までも止められると思ったら大間違いよ!
 CADは使わない。起動する時間が勿体ない。
 ならば、使用する魔法はあれしかない。
 わたしがお母様から受け継いだ精神干渉魔法。
 お母様の魔法、精神構造干渉とは違うけれど、お母様と同じ、相手の精神に作用する魔法。
 それは、相手の精神を凍りつかせる魔法。
 無関係の人を巻き込まないように、アンティナイトをはめた、アイツだけを狙って――

 わたしは、精神凍結魔法「コキュートス」を発動した。

 キャスト・ジャミングが止む。
 相手が「静止」したのが分かる。
 人間を「止めて」しまったのは、これが三人目。
 殺した訳ではないけれど、融けることのない凍結は、再び動き出すことのない静止は、死と同じ。
 わたしは罪悪感に耐える為、奥歯をギュッと噛み締めた。
 その所為で、貴重な時間が無為に流れた。
 それは、わたしの甘さ。
 だからこれは、当然の報い。
 相手は一人じゃなかったのに。
 銃口はこちらへ向けられていたのに。
 相手が引き金を引くのと、桜井さんの魔法が発動したのは、同時だった。
 桜井さんの編み上げた魔法式は効果を現す前に霧散した。
 マシンガンの一掃射が、わたしと、お母様と、桜井さんの身体に穴を穿った。

 撃たれた所が、
 痛いよりも、
 熱い。
 身体が、
 寒い。

 流れ出す血と一緒に、命が流れ出して行くのが分かる。
 わたし、死んじゃうんだ……
 死ぬ時はもっと色々な後悔とか執着とか感じるものだと思っていたけど、意外に何も考えないものね。
 唯一つ心残りがあるとすれば、あの人に、もっときちんと謝りたかった。
 わたしがいなければ、あの人はもっと普通でいられたはず。
 自由でいられたはず。
 ゴメンなさい、兄さん。
 本当にゴメンなさい、お兄さ……

「深雪っ!」

 空耳だと思った。
 兄のことを考えていたから、自分に都合の良い兄の声を頭の中で作り上げてしまったのだと、そう思った。
 だって、兄が剥き出しの感情で、こんなに必死な声で、わたしの名を呼ぶはずがないと。
 わたしを、引き留めるはずがない、と。
 苦労して開いた(まなこ)の先には、雲に覆われた空、消えてしまった壁、いなくなった反乱兵、そして、左手をわたしに向けて差し伸べる兄の姿。

 圧倒的な「何か」が、兄の左手から放たれた。

 それは、未練がましく死にかけの身体を覆う、わたしの情報強化の防壁を易々と突き抜けて、わたしの身体に流れ込んだ。
 兄の「心」が、わたしの身体を包み込んだ。
 だって、それ以外に表現のしようがない。
 わたしの身体の、全てを読み取って、全てを作りかえる。
 「わたし」が、作り直されて行く。
 兄の意志で、兄の力で。
 それは、魔法と言うには、あまりに強大で、あまりに精緻で、大胆で、繊細で。
 ううん、きっと、これこそが「魔法」。
 これこそが真に、魔法の名に値するもの。
 死神が舌打ちをして遠離(とおざか)って行くのが見えた。
 あっ、あっかんべぇ、をしている。
 想像と違って、随分お茶目なのね、死神って。
 そんな幻覚に、わたしは思わず、クスッと笑い声を溢してしまった。
 血の味が喉に迫り上がってくるようなことは、全くなかった。
「深雪、大丈夫か!?」
 クリアになった視界一杯に、心配そうな兄の顔。
 この人の顔に、こんな生の感情表現を見るのは初めてだった。
「お兄様……」
 その言葉は、何故かすんなり、わたしの唇を通過した。
 噛むこともなければ、引っかかりを感じることもなかった。
「良かった……!」
 わたしは、動揺しても良かった。
 もっと慌てふためいても良かった。
 だって兄が、わたしの身体をきつく、しっかりと、抱き締めているのだから。
 でもわたしは、これが当たり前なのだと、「お兄様」の腕の中がわたしの居るべき場所なのだと、
 そんな、図々しいかもしれないことを感じていた。
 だからわたしは、兄が抱擁を解いた時、反射的に、兄のジャケットの裾を掴んでしまった。
 兄は丸く見開かれた目でわたしを見返して、目を細めて、わたしの頭をクシャッ、と撫でた。
「あっ……」
 思わず漏れた声を、どう解釈したのか。
 兄は少し決まり悪げな笑みを浮かべ、照れくさそうに顔を逸らし――
 表情を引き締めた。
 無表情、と言っても感情が欠落しているそれではなく、精神を集中しきっているが故の無表情。
 その横顔は、何かを必死に思い出しているかのよう。
 兄の視線の先には、今にも命の灯火が消えそうになっている、お母様と桜井さん。
「お兄様っ!」
 わたしの呼び掛けには答えず、多分、そんな余裕も無いくらいに精神を集中したまま、兄は左手でCADを抜いた。
 信じられないくらい大量のサイオンが兄の体内で活性化しているのが分かる。
 膨大なデータを格納することが可能なサイオン情報体の器が、兄によって組み立てられている。

 兄の指が、CADの引き金を引いた。
 お母様の身体が、兄の左手に吸い込まれた、ように見えた。

 無論それは、錯覚だ。
 何をどうやったのかは分からないが、何が起こったのかは分かる。
 自分がされたことだからこそ、正確に推測することが出来る。
 兄は、お母様の身体を構成する全ての情報を自分の魔法演算領域に複写して、それを加工した情報体でお母様の身体情報を上書きしたのだ。
 銃で撃たれた傷が消えた。
 服を濡らし床に飛び散った血の跡が消えた。
 前のめりに倒れたお母様の身体を、わたしは慌てて駆け寄り抱き起こした。
 少し苦しげな、だけれども、確かな呼吸。
 撃たれる前と同じ……いえ、これは、撃たれたことが、無かったことになっている?
 兄は左手のCADを桜井さんに向けた。
 お母様の時とは比べものにならないくらい、速やかでスムーズにサイオン情報体の準備が完了する。
 明らかに、慣れてきている……?
 たった三度の経験で、兄はこの、他者の人体を完全復元するという超高等魔法を完成させつつある!
 畏怖に震えると同時に、わたしの心はそれを当たり前のことと見做していた。

 だって、この人は、わたしのお兄様だもの。

 誇らしさで胸がいっぱいになった。
 何も知らなかった自分の愚かしさは、もう気にならなくなっていた。

◇ ◇ ◇ ◇

 桜井さんは「信じられない」という面持ちで、自分の身体を見下ろしている。
 お母様はまだ意識が戻らないけど、呼吸は安定している。これは気を失っているのではなく眠っているだけだから心配は要らない、と駆けつけた軍医の方に言われて、わたしは胸を撫で下ろした。
「すまない。叛逆者を出してしまったことは、完全にこちらの落ち度だ。
 何をしても罪滅ぼしにはならないだろうが、望むことがあれば何なりと言ってくれ。
 国防軍として、出来うる限りの便宜を図らせて貰う」
 そしてお兄様は、わたしの隣で、風間大尉と向かい合っていた。
 頭を下げる風間大尉に、「頭を上げてください」とお兄様が告げる。
 お兄様があの場面にギリギリで駆けつけることが出来たのは、風間大尉と真田中尉が力を貸してくれたお陰らしい。またあの反乱兵の人たちは、わたしたちを攫って人質にするつもりだったみたいで(あの男の人は軍需企業の重役さんだったそうだ)、結果的に見れば、桧垣上等兵が駆けつけたお陰でそういう境遇に陥るのも免れたことになる。
 でも、お兄様のあの魔法がなければ、お母様も桜井さんも、そしてわたしも、間違いなく死んでいたのだ。
 おいそれと不問に付すことは、心情的に出来なかった。
「ではまず、正確な状況を教えてください」
 もっとも、わたしから何かを要求するつもりはなかった。
 申し訳ないけれども、桜井さんにも口出しを許すつもりはなかった。
 例えお母様が目を覚まされていたとしても、この場では沈黙を守っていただくつもりだった。
 これは、お兄様だけの権利なのだから。
「敵を水際で食い止めているというのは、嘘ですね?」
「そうだ。名護市北西の海岸に、敵の潜水揚陸部隊が既に上陸を果たしている」
 ……じゃあ、あの時の潜水艦は、その下調べだったということ?
「慶良間諸島近海も、敵に制海権を握られている。
 那覇から名護に掛けて、敵と内通したゲリラの活動で所々において、兵員移動が妨害を受けた」
 ……っ! 想像以上に酷い状態だわ。
「だが案ずるには及ばない。
 ゲリラについては、元々それ程の数ではなかった。
 既に八割方制圧を完了している。
 軍内部の叛逆者も、間もなく片付くだろう」
「上陸地点の確保という目的を既に果たしているのですから、最早用済みなのでしょう。
 使い捨てのコマをいくら失ったところで、敵にとっては痛くも痒くもないと思いますが」
 お兄様の淡々とした指摘に、風間大尉の顔が苦虫を噛み潰したように歪んだ。
「では次に、母と妹と桜井さんを安全な場所に保護してください。
 出来れば、シェルターよりも安全度の高い場所に」
「……防空指令室に保護しよう。あそこの装甲は、シェルターの二倍の強度を持つ」
 ……呆れた。民間人が避難するシェルターよりも、軍人が立てこもる指令室の方が守りが堅いなんて。
 でも、軍の基地なんて、そんなものなのかもしれない。
「では最後に、アーマースーツと歩兵装備一式を貸してください。
 貸す、といっても、消耗品はお返しできませんが」
「……何故だ?」
 この要求には、わたしもそう思った。
 何故なのですか、お兄様。
 それに先程、保護対象にご自分を含めなかったのは、何故なのですか?
 わたしはお兄様の真意を知ろうとして、その双眸を覗き込んで、息を呑んだ。

 お兄様の瞳の中で、
 激怒と言うのも生温い、
 蒼白の業火が荒れ狂っていた。

「彼らは、深雪を手に掛けました。
 その報いを受けさせなければなりません」
 その声を聞いた全員が血の気を失う中で、一人、変わらぬ顔色を保っていた風間大尉は、流石に剛胆と言うべきなのだろう。
「一人で行くつもりか?」
「自分が為そうとしていることは、軍事行動ではありません。
 個人的な報復です」
「それでも別に構わないのだがな。
 感情と無縁の戦闘など、人間ならばありえない。
 復讐心を以て戦うとしても、それが制御されていれば問題はない」
 お兄様と風間大尉の視線が交差した。
 いえ、二人は睨み合っていた。
「非戦闘員や投降者の虐殺など認める訳には行かないが、そんなつもりはないのだろう?」
「投降の(いとま)など、与えるつもりはありません」
「ならば良し。(もと)より今回の我々の任務は侵攻軍の撃退、若しくは殲滅。
 敵に降伏を勧告する必要もない。
 司波達也君。
 君を、我々の戦列に加えよう」
「軍の指揮に従うつもりはありません。
 自分が護るべきものと、あなた方が護るべきものは、違うのですから。
 ですが、侵攻軍という敵が同じで、殲滅という目的が同じであるなら、肩を並べて戦いましょう」
「よろしい。
 真田、アーマースーツと白兵戦装備をお貸ししろ!
 空挺隊は十分後に出撃する!」
「桜井さん、母と妹を頼みます」
 お兄様は立ちつくす桜井さんにそう告げ、彼女の返事を待たず、真田中尉の後に続いた。
 その時、わたしの方を見て微かに微笑んだのは、決して、わたしの錯覚ではなかった。


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