この物語はフィクションです。
この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
ドアをノックする音で深雪は我に返った。
「四葉のガーディアンは決して特別なんかじゃありませんよ。
自分の天狗の鼻も、あの後すぐに柳さんの手でへし折られましたし、師匠には未だに勝てません」
達也と風間は深雪が覚えている話の続きをしている。
「お前は最初から天狗になってなどいなかったと思うが。
それに、未だ師匠に勝てないのは、俺も同じだ」
どうやら深雪が我を失っていたのはほんの短い時間だったらしい。
それにしては随分いろんな事を思い出した気がする、と深雪は思った。
再度ドアが、今度は少し強めに叩かれた。
深雪が入室を許可すると、「失礼します」という声と共に若い執事が入って来た。
若い、というより、まだ少年だ。
達也とそれほど年も変わらないように見える。
それでいながら、苛立った様子を微塵も窺わせなかったのは流石に訓練が行き届いていると言うべきか。
「申し訳ございません」
少年はいきなり、謝罪を始めた。
「前のお客様のご用事が些か長引いておりまして……もう少しお待ちいただけないでしょうか、との伝言を奥様より承っております」
奥様、とは四葉真夜のことだ。
彼女は一度も結婚したことが無い。だから「奥様」という呼び方は本来正しくないのだが、慣例的な呼称に目くじらを立てる趣味は、風間も深雪も、そして達也も、持ち合わせてはいない。
「本官は構いません」
深雪と達也から目で問い掛けられて、風間が少年に向かい答えた。
「ありがとうございます」
少年は達也たちの意向を確かめようとはしなかった。
達也はともかく、深雪の都合を聞こうともしなかったのは、彼女が身内であると、少なくとも四葉家では考えているからだろう。
それは間違いではない。
達也は自分のことを四葉家の人間とは砂粒ほども思っていないが、深雪はそうも行かなかった。
司波龍郎の長女であることを拒否できても、司波深夜の娘であることを深雪は拒むことが出来ない。
故に彼女は、自分に対して、自分が四葉真夜の姪であることを、否定することも出来ないのだった。
◇◆◇◆◇◆◇
初日から波乱含みだった沖縄のバカンスも、昨日は平穏を取り戻した。今日も今のところ無事に過ぎている。
退屈な夏休みというのも考え物だけど、トラブルで気疲れするお休みも御免被りたい。
わたしたちは沖縄到着四日目からようやく、南国の休日を満喫出来るようになったという訳だ。
ただ、その「わたしたち」に兄が含まれるかどうかは疑問だった。
現在の時刻は午後一時。
お昼寝代わりにただ今、部屋で読書中。
桜井さんが見つけてきてくれた珍しい紙の魔法書を、机に広げてボンヤリ眺めているところだ。
――いいのよ、ボンヤリで。どうせ完全になんて理解できないんだから。
わざわざ紙の書籍にする魔法の解説書は専門性の高いものばかりで、魔法科高校生でも中々手に負えないのに、中学一年生のわたしが一度読むだけで理解できるなんて考える方が自惚れというもの。
あの人なら、もしかしたら理解できるのかもしれないけど。
その人、つまり兄は、自分の部屋に持ち込んだワークステーションにCADをつないで熱心にキーボードを叩いている最中、と思われる。
CADは一昨日、真田という中尉さんに貰った二丁拳銃。
最初は「貸す」という話だったはずなのに、いつの間にか「あげる」になっていたのは、「それで良いのか国防軍」と小一時間ばかり問い詰めたい気もする。
……先行投資、という思惑が分からない訳じゃないけれど。生憎と、この投資は全損になるのが確定している。だって、あの人はわたしの「守護者」だもの、軍人になんてならない。
くれるという物をお断りする理由も無いけど、所詮は試作品。将来を見越した見学者へのお土産以上の意味は無いはずだった。
ところがあの人は、このお土産が甚く気に入ったらしい。
一昨日、昨日、今日と、暇さえあればCADのシステムを弄っている。――CADのチューニングが出来るなんて、今までそんな素振りも見せなかったくせに。その所為で、休んでいる暇など無いことだろう。
飽きないのかしら?
CADを弄るのって、そんなに面白いものだろうか?
まあ、チューニングと言っても、どうせスイッチの割り当てを変える程度だろうけど……
◇ ◇ ◇ ◇
気がつけばわたしは、あの人の部屋の前に立っていた。
えっと、何しに来たんだっけ?
わたしは、何がしたいんだろうか。
戸惑う心を他所に、わたしの右手は扉をノックする為に持ち上げられて、
戸惑う心に従って、わたしの右手は扉をノックする寸前で停止している。
何だか自分が観客のいない道化を演じているような気がしてきた。それも、三流の道化役者だ。
わたしはため息を吐いて手を下した。
そのまま踵を返そうとした、けれど、それは少し遅すぎた。
外開きのドアが、カチャリ、と、そっと開かれた。
ドアの外にいる人間に配慮した開け方で、お蔭でわたしはドアに鼻をぶつけるようなベタなコントを演じなくてすんだけど、素知らぬ顔で逃げ出す程の余裕は無かった。
「何か御用ですか?」
兄はまるで、わたしが立っていたのを分かっていたような顔で――実際に分かっていたのだろうけど――顔を見せるなりわたしにそう訊いた。
「あっ、あの、えっと……」
「はい」
兄はしどろもどろになったわたしの回答を、辛抱強く待っている。
待っているということを感じさせないポーカーフェイスで、ただわたしのことを見ている。
兄の冷静な眼差しが、わたしの当惑を加速する。
「あのっ、お邪魔してもいいですか!?」
このままではパニックになってしまう、という危機感に駆られたわたしは、そうなる前に勢いで押し切ってしまうことにした。
あの人は流石に目を丸くしていたけれど、それ以上の動揺は見せず、ドアを押さえてわたしを室内へ招き入れた。
相変わらずのシンプルな、と言うより物が無い部屋。
ガランとした室内で、静かに稼働中のワークステーションが声高に存在感を主張している。
「それで、どのような御用でしょうか?」
兄の問い掛けに、わたしは答えることができなかった。
その時わたしの意識は、むき出しのコードでワークステーションに接続された半分解状態のCADと、ディスプレイを埋め尽くす数式とアルファベットの羅列に釘付けとなっていた。
これではまるで、CADの開発ラボみたいじゃない……
正直、度肝を抜かれていた。
でも、次の兄の一言で、わたしの意識は急速に引き戻された。
「お嬢様?」
「お嬢様なんて呼ばないでくださいっ!」
怒鳴りつけたわたしに、兄がビックリして固まった。
この人の絶句する姿なんて、本当に珍しい、けど、無理もないと思う。
自分でもビックリしていたから。
だって、
今のわたしの声は、まるで、悲鳴みたいだった。
今にも、泣き出しそうな声だった。
「あ……」
「…………」
「あの、えっと……そうです! 普段から慣れておかないと、思わぬところでボロを出してしまわないとも限らないでしょう?」
兄の表情が「驚愕」から「不審」に変わった。
正気を疑うような訝しげな眼差しに、挫けてしまいそうになったけど、わたしは気力を振り絞って下手な言い訳を押し通した。
「だからわたしのことは、み、深雪と呼んでください!」
でも、そこまでが限界だった。
やっとの思いでそれだけを言い終えて、わたしはギュッと目を閉じてしまった。
叱られるのを畏れる、小さな子供の様に、瞼を閉じ手を握り俯いてしまう。
何を恐れているのか分からぬまま、それこそ小さな子供が無条件に、親の勘気を怖れる様に。
「……分かったよ、深雪。これで良い?」
兄の答えは、優しかった。
いつもの、大人のような堅苦しい喋り方じゃなくて、友達同士みたいな砕けた言葉遣い。
多分兄が、わたし以外の、学校の友人や下級生と話をするときの言葉と口調。
兄は、わたしに優しく話し掛けながら、優しい眼差しでわたしを見詰めている。
「……それで結構です」
わたしは今度こそ本当に、泣きそうになった。
涙を堪えるだけで精一杯だった。
「すみません、部屋に戻ります」
その我慢も長続きしそうに無かったから、わたしは兄の前から逃げ出した。
自分の部屋に逃げ込んで、枕に顔を押し付けた。
だって、分かってしまったから。
あの優しさでさえも、演技でしかない、と。
普通の兄妹の間で、兄が当たり前に妹へ向けるであろう短い台詞でさえも、冷たい計算の結果としてアウトプットされたものだと。
理由も無く分かってしまった。
だってわたしは、あの人の妹だから。
こんな時だけ通じ合う兄妹のつながりを恨めしく思いながら、わたしは声を押し殺して、泣いた。
◇ ◇ ◇ ◇
その後の二日間は、いつも通りの日々だった。
わたしの後にはいつもあの人が付き従っていて、わたしはあの人を振り回してばかりだった。
わたしは兄に、優しくなろうと思った。――いえ、思っている。
わたしが兄に優しくできれば、何かが変えられると思ったから。
でも、染みついた習慣は中々是正されるものじゃないと、思い知らされるだけだった。
昨日、一昨日と、わたしは相変わらず、あの人を我が侭で振り回してばかりいた。
……つい一週間前までは、こんなこと、気にもならなかったのに。
わたしは一体、どうしてしまったのだろう。
自分の心が分からない。自分が何を望んでいるのか分からない。
こんなモヤモヤした気持ちのまま、今日も過ごさなければならないかと思うと、少し憂鬱になってくる。
でも、幸いにして――というのは不謹慎すぎるけど、そんなことを悩む必要は無くなったみたい。
そんなことで悩んでいる場合では無くなった。
ちょうど朝食を終えた時、全ての情報機器が、緊急警報を告げた。
警報の発令元は国防軍。
つまり、外国の攻撃ということ。
わたしは食い入るようにテレビの画面を見詰めた。
西方海域より侵攻。
宣戦布告は無し。
潜水ミサイル艦を主兵力とする潜水艦隊による奇襲。
現在は半浮上状態で慶良間諸島を攻撃中。
耳慣れない単語が羅列された情報の洪水でパニックになりそうだ。
「便宜を図っていただけるよう真夜様にご依頼します!」
焦りを隠せない口調で桜井さんが提案し、
「ええ、お願い」
頷くお母様の声も、流石に緊張気味だった。
無理もない、と思う。
だって、何の前触れもなくいきなり自分が戦争に巻き込まれるなんて、まさか思わないもの。
テレビのキャスターがさっきから「冷静に行動して下さい」と連呼しているけど、当の本人が気の毒になるくらい動揺している。
当然よ。この状況で「動揺するな」と言う方がおかしい。
わたしが本物のパニックに捕らわれていないのは、単に現実感が無いだけだ。他人事のようだけど、一種の現実逃避で自分を保っているのだと思う。
でも……この人は?
データ通信が流している、テレビより詳細な情報を小型ターミナルから無言で読み取る兄の姿は、動揺や緊張や焦りといった人間的な情動を何処かに置き忘れてしまったよう。
落ち着いた佇まいで黙考するその姿は、精巧なアンドロイドと言われても納得できる気がする。
兄もわたしと同じように、実感を持てないでいるのだろうか?
それとも本当に、何も感じて、いないのだろうか?
わたしがじっと見詰める先で、兄が「おやっ?」という顔をした。
何だろう? と思って見ていると、兄はサマージャケットの懐から通信端末を取り出した。
「はい、司波です……いえ、こちらこそ先日はありがとうございました……基地へ、ですか?」
兄の応答から、相手は先日の国防軍の大尉さんたちだろうな、と推測がついた。
しかし、基地は文字通り戦争中の状態だろうに、一体何の用事だろう?
「ありがたいお申出ですが……いえ……はい、それでは母と相談してみます……はい、後ほど」
通信を終えた時、兄を見ていたのはわたしだけではなかった。
ソファに座ったまま顔だけを向けているお母様に向かって、兄は立ち上がり、一礼した。
「奥様」
実の母親に向かって、あの人はそう呼びかける。
こんな時なのに、心臓を締め付けられたような痛みを覚える。
以前には、一週間前には感じなかった痛み。
「恩納空軍基地の風間大尉より、基地内のシェルターに避難してはどうか、とのお申出をいただきました」
「えっ!?」
思わず声を上げて、わたしは反射的に口を押さえた。
たった二回、実質は一度会っただけなのに、何故……?
立て続けに意外なことが起こって、感情が飽和しそうになった、けど、吃驚するタネはそれで終わりじゃなかった。
「奥様」
桜井さんがお母様に、音声通信ユニット、コードレスの、所謂「受話器」を差し出した。
「真夜様からお電話です」
今度は「えっ」という声も出ない。
叔母様からお電話?
お母様に?
それは、お母様と叔母様は双子の姉妹なのだし、電話が掛かってきてもおかしなことなど、表面的にはないのだけど……お母様と叔母様の仲が余りよろしくないのは、四葉の中では公然の秘密。
いがみ合ったりはしないけど、一種の冷戦状態が続いている。
だからさっきも、お母様がご自分で連絡なさらなかったのに……
別の意味で緊張してしまったわたしの目の前で、お母様は億劫そうに受話器を耳に当てた。
「もしもし、真夜? ……ええ、私よ。
……そう。貴女が手を回してくれたのね……でも、かえって危険ではなくて?
……そうね……分かりました。ありがとう」
お母様が通話を超えた受話器を桜井さんに差し出す。
「奥様。真夜様は、何と?」
桜井さんは受話器を受け取りながら、当然とも思える質問を口にした。
「国防軍のシェルターに匿って貰える様、話を通したそうよ」
「では、先ほど達也君が受けた電話は」
「そういうことでしょうね」
「しかし、かえって危なくはありませんか?」
「私もそう言ったのだけど」
……何故だろう? 民間のシェルターより軍のシェルターの方が頑丈で安全なのではないかしら?
「明確な敵対状態にすらなかったのに、いきなり奇襲をかけてくるような相手に、ルールの遵守は期待できないそうよ」
「それは……そうかもしれませんが……」
(兄を含めた)三人の表情を窺ってみると、理解出来ていないのはわたしだけみたいだ。
だからといって一々説明して貰うのも気が引けるし……ひとまず、疑問は棚上げしておこう。
「大した労力じゃないとはいえ骨を折ってもらったんだし、真夜の言う通りにしてみましょう。
達也」
「はい」
それまで、ずっと立ったままで放置されていたにも関らず、兄は打てば響くような反応を見せた。
……本人が不服そうな顔をしていないのだから、わたしが気に掛けるのはきっと、お門違いなのだろう。
「大尉さんにお申出を受けます、と連絡して。
それから、お迎えをお願いして頂戴」
「畏まりました」
面倒なことを全部、兄に押し付けているように見えるのも、きっと、わたしの考え過ぎなのだろう。
◇ ◇ ◇ ◇
予想はしていたけれど。
基地から迎えに来てくれた軍人さんは、例の桧垣ジョセフ上等兵だった。
「達也、待たせたな!」
「ジョー、態々ありがとうございます。」
「止せよ、他人行儀な挨拶は」
桧垣上等兵は、すっかり友人に向ける笑顔を浮かべている。
兄の方は多少遠慮がちだったけど、それでも十分打ち解けた表情だった。
わたしたち家族に向ける態度より、知り合ったばかりの上等兵に向ける態度の方が、どう見ても親しげだ。
お母様が眉を顰めたのは、彼の粗野な態度がお気に召さなかったから、に違いない。
まさか、身内よりも他人に打ち解けている兄の態度が気に障った、という訳じゃないわよね?
お母様の不快げな表情に気づいたからか、桜井さんの苛立たしげな佇まいに気づいたからか、桧垣上等兵は馴れ馴れしげな態度をひとまずしまい込んで、軍人らしい鯱張った挙措でわたしたちに敬礼した。
「風間大尉の命令により、皆さんをお迎えに上がりました!」
「ご苦労様。案内をお願いします」
「ハッ」
必要以上に張り切った声で口上を述べた上等兵に、少し辟易した顔で桜井さんが応えた。
桧垣上等兵にそれを気にした様子は全くなかった。
……本音を言えば、少しくらい気にして欲しかったのだけど、今は基地に連れて行って貰う方が先だということくらい、わたしにも理解できた。
道路は避難する市民で溢れかえり、立ち往生した車のクラクションと人々の怒号で混沌の坩堝と化している――という光景は見られなかった。
島中がひっそりと息を潜め、道を行き交うのは暗い色調の軍用車輌ばかり。
敵襲警報中と言うよりも、戒厳令発令中みたいな雰囲気だ。
と言っても、わたしはどちらも映像記録でしか見たことはないから、本当のところは分からない。
国防軍の連絡車輌に乗ったわたしたちは、検問に止められることもなく、敵の攻撃に曝されることもなく、無事に基地へ到着した。
完全な奇襲だったにも関わらず、海軍と空軍はよく水際で敵を食い止めているようだ。
もっとも本島以外の状況は、国防軍の発表を信じる以外に知る術は無いのだけれど。
意外だったのは、基地に避難している民間人がわたしたちだけじゃなかったこと。
百人まではいないにしても、それに近い人数が逃げ込んでいるように見える。
この部屋にも、わたしたち以外に五人の民間人が地下シェルターへの案内を待っている。
余計なお世話とは思うけど、敵が攻めて来ているというのに、基地の中へこんなに大勢、無関係で役に立たない人間を招き入れて大丈夫なのかしら?
もしかしたら、わたしたちも――わたしも、戦わなければならなくなるかもしれない。
今日まで実戦と呼べる経験をしたことは無いけれど、戦闘魔法の技能は大人の魔法師にも劣らないというお墨付きを貰っている。
桜井さんのお墨付きだから、信頼性は十分にあるはずだ。
それでも不安を消し去る助けにはならず、わたしはそっと、隣の席を窺い見た。
隣の椅子には、兄が腰を下ろしている。
いつもなら私の後か脇に立っているのだけれど、今は目立たないように隣り合わせに座っていた。
兄の懐には、二丁拳銃ならぬ二機のCADが何時でも使用できる状態で隠されている。
この人も「実戦」と呼べるものは経験していないはずだけど、わたしと違って、殺し合いなら何度も経験している。
人を殺した回数も、一度や二度じゃない。
その場面をわたしが自分の眼で確かめた訳じゃないけれど、こんなことでわたしに嘘を吹き込むメリットはないから、間違いなく事実だろう。
その経験を裏付けるように、兄は落ち着き払っていた。
キョロキョロと目を動かすことも、ソワソワと身体を揺らすこともない。
兄を見ていると、少しだけ、不安が和らいだような気がする。
もう一度……そう思って、チラッと兄の横顔を窺い見た。
何故か、バッチリ、目が合ってしまった。
え? えっ? なに? なんで?
「大丈夫だよ、深雪」
……っ!
三日前に約束したとおりに、あの人はわたしのことを「深雪」と呼んだ。
あの時とは違う、優しいふりじゃない、優しい声で。
「俺がついている」
……それ、反則……!
どんな顔をしていいのか分からない。
自分が今、どんな顔をしているのか分からない。
ええい! こんなのは吊り橋効果よ! ホラーハウスよ! ストックホルムシンドローム……はチョッと違うか、とにかく、気の迷いよ!
よりにもよってこんな時に、実の妹をナンパするなんて不謹慎過ぎる!
本人にそんな気は全くない、というのが余計、癪に障るじゃない!
わたしは兄を睨み付けた。
すると兄が、いきなり椅子から立ち上がった。
えっ? わたし、そんな怖い顔してた?
――でも事態は、わたしのそんな平和なボケを許さない、急展開を迎えようとしていた。わたしはすぐに、それを思い知ることになった。
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