この物語はフィクションです。
この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
―― フフッ ――
突然深雪が漏らした笑い声に、達也は訝しげな目を妹へ向けた。
「……すみません、お兄様。少し、昔のことを思い出しまして」
「楽しかったことかい?」
笑みを浮かべたままの表情で答える深雪に、達也もつられて微笑んだ。
「いいえ……
昔のわたしが、余りに愚かだったので、それが可笑しくて」
達也が笑みを消し、思わず瞬きを繰り返してしまうほど自虐的な台詞だった、が、言葉の内容に反して口調にも表情にもネガティブな要素は見当たらなかった。
「そう言えばお兄様は、亜夜子さんと文弥くんには昔から優しかったんですよね……
わたし、結構ショックだったんですよ?」
そう言われて、深雪がいったい何時の事を思い出しているのか見当がついて、達也は苦笑を漏らした。
「まあ……昔は俺も子供だったということで勘弁してくれ」
「滅相もありません。
愚かな子供だったのはわたしの方です」
二人とも、世間から見ればまだ「子供」と呼ばれる年齢だ。
兄妹自身も、自分たちが大人だとは思っていない。
それでも二人は、三年前の自分たちを今よりも「子供」と言い切ってしまうことに違和感や躊躇いを覚えなかった。
「わたしはお兄様の妹でありながら、お兄様のことを何一つ解っていませんでした。
いえ……理解しようとしませんでした」
何事か反論しようとした達也だったが、儚い笑みを浮かべて首を振った妹に、何も言えなくなってしまう。
反論すべきことでもなければ、反論する必要のあることでもない。
どちらが悪い訳でも、どちらに責任がある訳でも無いということは、達也にも深雪にも分かっていた。
深雪に昔話を続ける気が無いのなら、達也が蒸し返す話でもない。
達也は視線を窓の外へ戻した。
ボウッと外を見ているようで、彼の五感は如何なる兆候も見落とさないようフル稼働している。
五感を超えた彼の超感覚は、情報体次元に何時でもアクセス可能な状態でスタンバイしている。
全ては、深雪を護る為に。
深雪に害を為そうとする存在あらば、先んじてこれを排除する為に。
それは、今も昔も変わっていない。
ただ昔はそれに、気づかなかっただけだ。
ただ昔はそれを、気づかせないだけだった。
◇◆◇◆◇◆◇
昨日の晩は結構遅くなってしまった。
沖縄に着いた初日だというのに、随分とハードな一日だった。
それなのに、まだお日様も昇りきらない時間に目を覚ましてしまったのは、習慣としか言いようがない。……こういうのも一種の貧乏性なのだろうか?
カーテンを開けて、ついでに窓を開けて空気を入れ替えることにする。この部屋は裏庭に面した二階だから、パジャマのままでも外から見られる心配は無い。……本当は、それでもまず身だしなみを整えるのが、レディのたしなみなのだろうけど。
わたしは潮の香りがする微風を胸いっぱいに吸い込んで、大きく伸びをした。
ふと目を下に向けると、兄がトレーニングをしていた。
腰を落とし右足を踏み出し右手を突き出し左手を突き出す。
腰を落としたまま左足を踏み出し突き出したままの左手を更に伸ばしたかと思うと、その手を素早く引いて交差するように右手を突き出す。
右足を左足に引き寄せながら身体をターンさせ、右手を内側から外側へ、左手を外側から内側へ、右手を上に、左手を下に、力強く開く。
多分、わたしの知らない、空手か拳法の型なのだろう。
両手に小さな、一キロくらいのハンドウェイトを持って、一つ一つの動作を丁寧に決めていく。
それが、一流の舞台役者、あるいは一流の舞踏家の、決めポーズのように鮮やかだった。
裏庭の半分をクルリと一周する円を描いて、兄は動きを止め、身体の力を抜いて大きく息を吐いた。わたしはそこで、ハッと自分を取り戻した。
――不覚にも、見とれてしまっていた。
慌ててカーテンを引き、窓際から離れる。
カーテンレールが結構大きな音を立てたけど、庭までは聞こえなかった……と思う。
壁に背中を預けて、そのままズルズルと床にへたり込む。
顔が熱い。
ドキドキと激しいビートを奏でる心臓は、胸を手で押さえても中々落ち着きを取り戻してくれない。
兄は一度も顔を上げなかった。
窓辺に立つわたしの姿を見ていないはずだ。
それなのにわたしは、兄に見とれていた自分を、兄に気づかれてしまったような気がしてならなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
朝食はいつもどおり、桜井さんが用意してくれた。
一応この別荘もHARで管理されていて自動調理器も備わっているけど、他ならぬ桜井さん自身が「自動機械で調理されたものは味気ない」という人だから、特に事情がない限り我が家の食事は彼女の手作りだ。
最近はわたしも手伝うようにしているけど、腕の方は正直なところ「まだまだ」と自分でも思う。
「今日のご予定は決めていらっしゃいますか?」
食後の紅茶を頂いているところで、桜井さんがそう訊ねた。
形の上ではお母様に対してだけど、わたしの予定も訊かれているのは一々確かめる必要のないことだ。
「暑さが和らいだら、船で沖へ出るのも良いですね」
お母様は少し考える素振りをなさって、そう答えた。
「ではクルーザーを?」
「そうね……余り大きくないセーリングヨットが良いわ」
「分かりました。四時に出港ということでよろしいですか?」
「ええ、それでお願い」
慣れたもので、桜井さんはやや具体性に欠けるお母様の言葉からその意図するところを汲み取って、スルスルっと段取りを組み上げた。
これでわたしも、四時以降の予定が決まったことになる。
お母様はそれまで別荘の中で過ごされるおつもりなのだろうけど、さて、わたしはどうしようか?
「深雪さん、特にご予定が無いのでしたら、ビーチに出られては如何です?
寝転んでいるだけでもリフレッシュ出来ると思いますよ」
考え込んでいたわたしに、桜井さんがそうアドバイスしてくれた。
「……そうですね。午前中はビーチでのんびりすることにします」
「では、お支度を手伝いましょう。
うふふ、水着になるのでしたら隅々まで日焼け止めを塗っておきませんとね」
……えっ? 「うふふ」って……
「……いえ、大丈夫です。自分で出来ますから」
「いえいえ、遠慮なさらずに。
南国の日差しは強烈ですからね。
塗り残しがあっては大変です。
水着の下までしっかり処置して置きませんと。うふふふふ……」
「えっ、と、桜井さん?」
あのっ、何だか怖いんですけどっ!
「さあ、お支度しましょうね」
桜井さんに手首を掴まれた。
痛みを感じるほど強く握られているわけじゃないのに、どうやったって振り解けない。
そのまま二階に引っ張って行かれる途中で、兄が笑い出すのを堪えて顔を背けたのを、わたしは見た、気がした。
……そんな人間的な反応を、あの人がするはずも無いのに。
◇ ◇ ◇ ◇
桜井さんの手で、本当に身体の隅々まで日焼け止めクリームを塗りこまれたわたしは、ぐったりした身体に鞭打って別荘最寄のビーチに来ている。
……何故こんなことで疲れなきゃならないのかしら? と理不尽な思いを抱きながら。
とにかく無性に楽な体勢になりたかったわたしは、前開きのチェニックを脱いで、兄の用意したパラソルの下の、兄が敷いたシートの上に、うつ伏せに身体を横たえた。
身に着けている水着は、ビキニとまでは言わないまでも、かなり露出が多いセパレート。わたしが選んだのではなく、桜井さんに無理矢理着せられたものだ。
そんな、自分で言うのもなんだけど、あられもないわたしの姿を見ても、兄は眉一つ動かさない。
膝上丈の海パンにパーカーを羽織ったまま、わたしの隣に腰を下して水平線へ目を向けている。
浅く膝を抱えた姿勢で、ボンヤリと。
横目で覗き見るわたしの視線に気づいた風も無く、じっと彼方を見詰めている。
退屈では、ないのだろうか?
健康な、運動も得意な中学一年生の男の子が、海を目の前にして、ただ座っているだけで。
これが普通? という疑問に駆られて、肘を突いて身体を起こし、他のパラソルの下をこっそり観察してみた。
あそこは……家族連れね。お父さんとお母さんと、小学校一、二年生くらいの女の子かしら。
と思ったら、女の子より少し年上の男の子が波打ち際から走って来た。
男の子はお父さんの手を引っ張って海の中へ連れて行こうとしている。
その隣のパラソルは空だった。荷物が二人分置いてある。……パーカーが二着だから二人分よね?
多分二人とも海に入っているのだろう。
その向こうは……わわっ!
わたしは慌てて身体ごと顔を伏せた。
チラッと覗き見て、もう一度慌てて顔を伏せる羽目になった。
そこでは高校生くらいの――大学生じゃないと思う――男の人が、女の人の身体にオイルを塗っていた。
かなり、際どい所まで。って言うか、あれって、完全に触っていない?
つ、つつしみというものを知らないのかしら?
公衆の面前であんな恥知らずな真似をするのは止めて欲しいわ。
でも、男の人って、ああいうことが好きなのかしら?
耳年増と笑われるかもしれないけど――というか、桜井さん辺りには間違いなく笑われると思うけど、男の人は女の子の身体に触りたがるものだとものの本で(「本」と言っても紙媒体じゃないけど)読んだことがある。学校の友達の又聞きで「進んだ」同級生がデートのたびにボーイフレンドから身体を求められて困っている、という話も聞いたことがある。その時は女の子を何だと思っているの、と憤慨したけれど。フリーセックスなんて悪しき風習は半世紀も昔に終わっているのよ! そもそも相手はまだ十二歳よ!
……いけない、いけない。落ち着かなきゃ。真夏の沖縄のビーチに雪を降らせるわけにはいかないわ。
でも……この人は、そういうことを思わないのかしら? そういう気持ちにならないのかしら?
わたしは首だけ動かして、兄の顔を窺い見た。
兄は、わたしを見ていた。
目が、合った。
硬直して視線を逸らせなくなったわたしとは対照的に、兄は二、三秒で目を外して、再び水平線に顔を向けた。
何とか身体の自由を回復したわたしは、兄を怒鳴りつけることも出来ず、熱くなった顔を腕で隠した。
余程結い上げた髪を解いてカーテンの代わりにしようかとも思ったけれど、後々面倒臭いことになるのは目に見えている。
うつ伏せのまま、頬の熱が引くのを待つしかなかった。
視界を閉ざすと、良い具合に茹で上がった頭は考えなくても良いことばかり考えてしまう。
この人は、一体いつからわたしのことを見ていたのだろう?
わたしの、何処を見ていたのだろうか?
背中? 脚? それとも……
この人もそういうことに興味があるのだろうか? わたしの身体に触りたい、とか、思うのだろうか……?
血のつながった兄を相手に考えることではない、とは、分かっている。
でもわたしと兄は。
同じ家に住んでいても、普段、家の中で顔を合わせることはほとんど無い。
兄とわたしが一緒にいるのは、登下校を含めた、外出している時間だけ。一日中一緒にいるのは、今回のように、旅行の間だけのことなのだ。
ずっと小さな頃から、一緒にお風呂に入る、どころか、遊んで貰った記憶すらない。
兄はわたしにとって、家族と言うより、一つ年上の知り合いの男の子、に近い。それがわたしの実感だった。
それは多分、兄にとっても同じで。
わたしはきっと、兄にとって、同じ中学一年生の、一つ年下の女の子……
不意に、砂が軋む小さな音がした。
兄が立ち上がったのだと、何となく分かった。
わたしは、顔を上げることができなかった。
目を腕に、ギュッと押し付ける。
手に、脚に、背中に力が入って、身体が強張った、のが分かる。
硬直した身体の内側で、心臓だけが激しいステップを踏んでいる。
兄がわたしの身体の上に身を乗り出した、ような気がした。
息ができない。
頭がぼうっとする。
酸欠には早すぎる、と意味も無く冷静な思考が脳裏を過ぎる。
手足に意味のある命令を下せずにいるわたしの身体に、
ふわり、と薄い布が掛けられた。
――えっ?
それは、わたしが脱いだチュニックだった。
適当に畳まれていたチュニックが広げられて、わたしの身体に掛けられていた。
肩から太ももまで、薄い布に覆われた感触がする。
何だか急に、安心感を覚えた。
無意味な緊張が消えて、その反動で気が緩みすぎたのかもしれない。
その時のわたしはそんな自己分析の余裕も無く、ウトウトと心地の良い眠気に引き込まれていった。
◇ ◇ ◇ ◇
結果として、桜井さんには感謝しなくちゃならない。
いくらパラソルの下とはいえ、あんな炎天下に長時間寝ていたのだ。
爪の根元まで日焼け止めでしっかりガードしていなければ、むき出しだった脚は今頃ひどいことになっていたに違いない。
わたしが余りの暑さに睡眠不足の解消を中断した時、兄はやっぱり、わたしの隣で水平線を見ていた。
「……どのくらい眠っていました?」
「およそ二時間です」
わたしの問い掛けには、何の前触れも無かった。
それなのに兄の回答は、間髪を入れず返って来た。
「そうですか」
何か引っ掛かりを感じたが、起きたばかりのわたしの頭は、曖昧な違和感の正体について深く考えることは出来なかった。
身体を起こすと、チュニックがシートの上に滑り落ちた。
海風が砂を飛ばしたのか、シートの上で寝ていたのに、手足が少しザラザラする。
「水に入ってきます」
わたしは短くそう告げて、返事を待たずサンダルを引っ掛けた。
シートの周りには、砂浜を抉った様な足跡が無数に刻まれていた。
所々平に均されているのは、人の背中が落ちた跡っぽい。
ビーチボールで遊んででもいたのかしらね……?
周りのパラソルは全て引き揚げられているし。
我ながら随分熟睡していたみたい、と暢気なことを考えながら、わたしは波打ち際へ向かった。
◇ ◇ ◇ ◇
遅めのお昼ご飯を食べた後、しばらく部屋で読書をしていたわたしだが、二時間もすると飽きてしまった。
本を読むのは嫌いじゃないけど、今日は何となくそんな気分じゃなかった。
お母様に魔法の練習を見てもらおう。
そう思って、わたしはお母様の部屋へ向かった。
わたしの部屋は二階の一番奥。
お母様の部屋は階段を挟んで、二階の反対側の奥。
わたしの部屋から一つ空き部屋を挟んで、階段の横に兄の部屋がある。
その前を通り過ぎたとき、中から声が聞こえた。
思わず足が止まる。
この別荘は至極普通のリゾート用だから、自宅の様に完全な防音仕様になんてなっていないけれど、普通の話し声が廊下まで聞こえてくるようなちゃちな作りでもない。
余程の大声でなければ、扉の外まで声が漏れて来ないはずだ。
それに、今の声は、桜井さん?
わたしは思わず扉に耳を当てていた。
『こんな酷い痣を治療もせずに放っておくなんて!』
桜井さんが、多分、兄を叱り付けている。
……痣?
『大したことはありません。骨に異常はありませんから』
『骨折していなければ良いというものではないでしょう! 痛くないの!?』
『痛みはあります。しかし、自分がへまをしたペナルティですから』
痛み?
ペナルティ?
いったい何を言っているの?
『ハァ……まったくいつもいつも……達也君の意識を矯正するのはもう諦めましたけど……
せめて治癒魔法をかけておきますから、服を脱いでください』
いつも?
『必要ありません。戦闘行為に支障があるようなら、勝手に治ります』
『……達也君、ガーディアンにだって日常生活はあるんですよ。私たちは戦闘機械じゃないんですから……
大体、さっきのことだって、深雪さんを起こして逃げればよかったんですよ。
ガード対象の意思と自由を最大限に尊重すると言ったって、お昼寝の邪魔をしたくないという理由で他人の喧嘩に巻き込まれる必要なんて無かったんです』
……えっ? わたし?
『反省します』
『本当に、反省してくださいよ? 逃げるのも立派な戦法なんですから。
達也君はもう少し融通を利かせることを覚えてください』
ため息の音は聞こえなかったけど、桜井さんが肩を落としてため息を吐き、踵を返したような気がした。
わたしは慌てて、それでも足音を忍ばせて、自分の部屋へ戻った。
◇ ◇ ◇ ◇
桜井さんが手配したクルーザーは六人乗りの電動モーター付き帆走船だった。
わたしたち四人と、舵を取る人とその補助をする人で、ちょうど定員だ。
対面式に設えられた甲板の長椅子に腰掛けて出航を待つ。わたしの真向かいにお母様、船首側の隣に兄が座っている。
帆を広げる様子を見学するふりをして、わたしは兄の横顔を窺い見た。
兄は熱心に操帆手順を見詰めていて、わたしの視線には気づいていない。
わたしは、さっき盗み聞きしてしまったことが、ずっと気になっていた。
兄はわたしの護衛役。
わたしを護る為に怪我をするのは、当然にあり得ることだ。
でもわたしはこれまで、兄が怪我をしているのを余り見た記憶が無い。
昨日の様に直接トラブルを目にすることも滅多に無かった。
兄の怪我と言えば、訓練によるものばかりだった。
だからわたしは、四葉の後継者候補と言っても、こんな子供に手出しするような卑劣な人間は流石に少ないのだろう、と思っていた。
そういうのは小説の中の話で、現実には例外的な事態なのだろうと。
文弥くんの所は、四葉の事情というより叔父様のお仕事の都合。
わたしに付けられた「ガーディアン」は、四葉の後継者候補の地位に伴う象徴的なもの。
だから兄のような子供にガーディアンの役目が回ってくるのであり、兄がガーディアンに任命されているのは魔法の才が乏しい兄に四葉の中で居場所を確保する為だ、と自分の中で思っていた節がある。そうして、後ろめたさを紛らせていた感がある。
でもさっきの二人の会話は、怪我をすることが日常的な出来事として語られていた気がする。
「深雪さん、何か気がかりなことでも?」
「え、いえ、何でもありません」
不意に向かい側から声を掛けられて、わたしは慌てて顔の向きを戻した。
いけない、いけない。
お母様に心配を掛けてしまった。
「セーリングは久し振りなものですから……」
「ああ、そういえばそうね」
帆を広げる作業を見学しているふりをしていたのが幸いしたようだ。
でも、ずっと誤魔化せるとは思えないし、考え事は後回しにしよう。
タイミングよく、出航の合図があった。
モーターを使っていないというのに、想像以上のスピードで桟橋が離れていく。
わたしは流れ去る景色に意識のフォーカスを当てた。
◇ ◇ ◇ ◇
西風を受けて、クルーザーは北北西、伊江島の方角へと進路を取った。
夏の沖縄は南東の風が吹くと思っていたから船長さんにそう訊ねてみたら、東の海上に低気圧が近づいているとのことだった。
台風に成長するほどの勢力は無いから安心して良い、と言われた。
そこまで意識していたわけじゃなかったから、かえって心配になってしまったけど……何日も航海するわけじゃないから、たぶん杞憂なのだろう。
伊江島の方角といっても、船に乗ること自体が目的だから途中で引き返す予定だ。今の風速だと、片道だけで日が暮れてしまう。
セーリングは思ったよりずっと快適だった。
もやもやした気持ちが風にさらわれて飛んで行ったような気がする。
こんなことなら、もっと早い時間から、もっと遠くまで行っても良かった。
わたしは目を閉じて、帆を抜ける風をしばらく肌で感じていた。
このまま終われば、今日は気持ちよく眠れるはずだった。
――はずだった、というのは、このまま終わらないことが分かってしまったからだ。
肌を刺す緊張感に、わたしは目を開けた。
桜井さんが厳しい表情で沖の方を見詰めて、いえ、睨み付けている。
助手の人が必死の形相で無線機に訴えかけている言葉は――潜水艦?
モーターが唸りを上げ帆が巻き上がっていく。
大きく梶を切ったクルーザーが傾いて、わたしは長椅子の手摺を掴んだ。
「お嬢様、前へ」
そんな場合ではないと知りつつ、兄から「お嬢様」と呼び掛けられたことが、いつになくショックだった。
いつものことなのに、その他人行儀な呼び方が哀しかった。
その所為で余計に、わたしの態度は突っ慳貪なものとなってしまった。
「分かっています!」
全く必要も意味もない高圧的な台詞に、兄は逆らわず席を譲った。
そして、泡立つ海面を観察する。
兄の背中に庇われたわたしに兄の顔は見えないけれど、この人がどんな眼をしているのか、手に取るように分かる。
睨み付ける、でもなく、見詰める、でもない。
一切の感情が伺えない、あの、虚空の瞳。
桜井さんもお母様を庇って船尾側に立っている。
お母様はとても強力な魔法師だけど、最近はその魔法の出力に身体がついて行かなくなって来ている。魔法と肉体の相互作用はまだまだ未解明の部分が多いけれど、強力な魔法の行使はその出力に応じて体力を削ることが経験則的に分かっている。
お母様に魔法を使わせてはならない。
わたしはその事に思い至って、慌ててポーチからCADを取り出した。
桜井さんはとっくにCADをスタンバイさせている。
そして兄は――
――手ぶらのまま、立っているだけだった。
沸き立つ泡の中から、二本の黒い影が、こちらへ向かって来るのが見えた。
イルカ? な訳はない!
わたしは直感的に、その正体を覚った。
魚雷!? 何の警告も無しに!?
硬直したわたしの前で、兄が不可解な仕草を見せた。
右手を海中の、迫り来る黒い影へ向けて差し伸べたのだ。
CADも持たず、そんな真似に何の意味があるというの?
貴方は一応でも、魔法師でしょう!?
わたしは八つ当たり気味に、心の中でそう罵っていた。
そしてわたしは、お母様のガーディアンである桜井さんが、役に立たない兄やわたしの代わりにきっと何とかしてくれるはず、と現実逃避の代わりに決めつけていた。
しかし、わたしの期待は裏切られた。
桜井さんが魔法を発動するより早く、兄から瞬間的で強力な魔法が放たれた。
あまりに一瞬のことで、魔法が発動した兆候だとすぐには分からなかったほどだった。
魚雷が二本とも、海の底へ沈んで行く。
沈みながら黒い影が広がりを増しているのは、魚雷がバラバラに分解されたから?
この人がやったの……?
何の補助具も無しに……?
相手の魔法を無効化する以外、目立った魔法技能を持たないはずの、この人が……?
心の中で疑問と否定の言葉をいくら並べてみても、魔法師としてのわたしはこの現象が間違いなく兄の魔法による事象改変、構造情報への干渉による構造体の分解という極めて高度な術式の所産と理解していた。
もしかしてわたしは、この兄のことを何も知らない?
兄のことを、まったく分かっていない?
桜井さんが水面下に魔法を叩き込んでいる傍らで、わたしは兄の背中を見詰めたまま、長椅子の上で居竦まっていた。
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