この物語はフィクションです。
この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
大き目の武家屋敷調伝統家屋。
それが門の外から見た四葉本家の印象だった。
一般家屋と比較すれば、確かに広い。
お屋敷、と表現しても違和感が無い。
だが七草家や一条家の大邸宅を見たことがある者ならば、質素でこじんまりとした佇まい、と寧ろ驚くだろう。
四葉は屋敷の広さなど気にしない。
徹底した秘密主義を貫く四葉家は外部から大勢の客を招くようなことが無いのだから、大邸宅など邪魔なだけだと思っているのかもしれない。
母親の実家であるにも関らず他人事の様にそう考えて、深雪は兄と共に、重厚な作りの門へ足を踏み入れた。
あの日――後世に「灼熱のハロウィン」として知られる日から、一週間。
兄妹が「開発」という言葉から取り残されたような山村に足を運んだのは、叔母の招き――という名の出頭命令――によるものだった。
外の構えからは想像できないモダン、かつ広々とした応接室に通され、そこで待つように伝えられる。
プライベートに使用される小さな応接間ではなく、「謁見室」と通称される大応接室に通されたということは、今日の呼び出しが叔母の私的なものではなく、四葉家当主としてのもの、ということだ。
――まあ、最初から分かりきっていたことだが。
それにしても、と深雪は思う。
この部屋に、兄と共に呼び出されたのは三年振りとなる。
今まで何だかんだと理由をつけて兄と直接会おうとしなかった叔母が、自分が同席しているとはいえ、三年振りに兄と顔を合わせる。
果たして、それが良いことなのか悪いことなのか、深雪には判断がつかない。
「――心配するな。俺たちは、三年前の俺たちじゃない」
不安が、顔に出ていたのだろう。
上目遣いに、窺い見るように向けた眼差しに、達也が力強く頷いた。
ソファに座った深雪の横に、立ったままで。
三年前も、この姿勢だった。
三年前は、深雪の後ろに立っていた。
そう……三年前とは、違う。
達也はおそらく、三年前とは実力が違うと言っているのだろう。
確かに三年前とは比べ物にならないくらい、二人は力をつけている。
特に達也は、世界最強の魔法師の一人と言われている叔母、「極東の魔王」、「夜の女王」と呼ばれる四葉真夜に匹敵する戦闘力を有するに至っている。魔法の相性を考慮すれば、一対一なら間違いなく、達也が勝利する。
しかし、叔母との力関係以上に、三年前とは変わったものがある、と深雪は思った。
――それは、兄と、自分の関係。
――兄に向ける、自分の心。
ソファに深く座り直した深雪の意識は、三年の時を遡っていた……
◇◆◇◆◇◆◇
――西暦二〇三〇年前後より始まった地球の急激な寒冷化により、世界の食糧事情は大幅に悪化した。
二〇二〇年代より進められていた農業生産の太陽光工場化により先進国が被った影響は限定的なものに抑えられたが、急激な経済成長により人口爆発を加速させていた新興工業国が受けた打撃は深甚なものだった。
最も深刻な事態に直面したのは、寒冷化と砂漠化が同時に進行した華北地域だった。
華北の住民たちは民族的な伝統に従いこの難局を乗り切ろうとした。
ある歴史学者が「平和的浸透」と呼んだ越境殖民――つまりは不法入植である。
だが、不法入国を受けたロシアは、それを許容しなかった。
例え無人の荒野であろうと、軒を貸して母屋を取られる結果となる不法入植を徹底的に排除した。
実力を以って、流血を厭わず。
中国は人道の名の下にロシアを非難し、ロシアは国際法の名の下に中国を非難した。
両国の対立は、両国にとどまらなかった。
人道の名の下に国境を越え、国際法の名の下にこれを排斥する。
世界中に、火種がばら撒かれた。
その背景にあるのは、寒冷化による食糧不足。
それを補う為の、エネルギー資源争奪戦。
火種が大火となるには、ほんの些細なきっかけがあれば十分だった。
西暦二〇四五年、第三次世界大戦――二十年世界群発戦争の勃発。
二〇四五年から二〇六五年にかけて、世界中で大規模な国境紛争が続いた戦乱の時代。
傍観者でいられた国が唯の一つも無い、真の意味での世界大戦。
大戦終了時に世界の人口は二〇四五年時点の三分の一、三十億人まで減少した。
ロシアはウクライナ、ベラルーシを再吸収して新ソ連に、中国はビルマ北部、ベトナム北部、ラオス、モンゴル、朝鮮半島を征服して中華連合に、インドとイランは中央アジア諸国を飲み込んでインド・ペルシア連邦を形成し、USAはカナダ、メキシコを吸収してUSNAに、それぞれ拡大。対照的にEU諸国は統合に失敗し、EU自体が東西に分裂、アフリカでは諸国の半分が国家ごと消滅、南アメリカはブラジルを除き地方政府レベルの小国分立状態に陥っている。
世界にこのような激変をもたらした二十年戦争が熱核戦争にならなかったのは、偏に魔法師の世界的な団結によるものだった。
西暦二〇四六年、「国際魔法協会」の設立。
その目的は、放射能により地球環境を回復不能なまでに汚染する兵器の使用を実力で阻止すること。
核兵器の使用を阻止するという目的に限り、魔法師はその属する国家の軛を離れ、紛争に実力で介入することが許される。
最前線で殺し合いを演じていた魔法師も、核兵器使用の兆候が観測された時点で闘争を中止し、自国・他国を問わず核の使用阻止に協力する。
熱核兵器の使用阻止が、世界中の魔法師にとって最優先される義務と定められた。
この協定、「国際魔法協会憲章」の対象となるのは放射能により環境を汚染する兵器であり、厳密に言えば純粋な核融合爆弾はその対象にならないが、大戦時の技術水準では核融合爆弾を起爆させる為に小型の核分裂爆弾が必須だった為、熱核兵器の全面阻止という結果につながった。
こうして、二十年に及ぶ戦乱の時代、熱核兵器が使用されることは一度も無かった。
国際魔法協会はこの功績を認められ、国際的な平和機関として大戦後の世界でも名誉ある地位を占めている――
シートベルト着用のアナウンスが聞こえたのを機に、わたしは『読本・現代史』とタイトルがつけられた魔法師向けの教材ファイルを閉じた。中学生になったばかりのわたしには少し難しい内容だったけど、この位の方が退屈しないで良い。
現代の航空機は情報端末の電波如きで航行に支障を来たす程お粗末な代物ではないのだが、離着陸時に情報端末をオフにするのは伝統的なマナーだから仕方が無い。
シールドの内側に投影された、南の島のリアルタイム映像。
その鮮やかな緑と輝く海を見ていると、世界の寒冷化などフィクションの中の出来事に思えてくる。
しかし、それは紛れも無い事実。
わたしたちが生まれる前に世界の気候は温暖化へ向かったが、寒冷化の様々な名残をわたしたちの身近なところに見ることが出来る。
例えば、ドレスコード。
素肌を露出しない、という服装マナーは、寒冷化が深刻化した時代の名残に他ならない。
まあ、わたしは肩や胸元を剥き出しにするドレスは趣味じゃないし――そもそもまだ似合わないし――、裾を引きずるほど長いスカートを強要される訳でもないし、着物は好きだし、プライベートでは全く拘束を受けないマナーなので実害は無いのだけど。
つまらないことを考えている内に、飛行機は那覇空港に接近した。
ほとんど振動を感じることの無い着陸。
昔の飛行機は着陸時につんのめるような慣性を感じさせていたらしいが、お客様を運ぶ乗り物としては失格だと思う。その点、今の着陸は完璧だった。
形式的な意味以上の何も無いシートベルトを外して、わたしはカプセルシートのシールドを開いた。
下のエコノミー席では、肘がぶつかり合うほど狭い座席に何列にも押し込められるそうだが、見ず知らずの人とそんな至近距離で一時間も同席するなんて、わたしなら耐えられない。
お母様がシートから出てくるのを待って、一緒に乗降口へ向かう。
夏休みを利用した、プライベートな家族旅行。
家族旅行は本来、プライベートなものだと思うのだけど、我が家の場合は家族旅行でもプライベートじゃないケースがほとんどなので、ガラにも無くウキウキしてしまう。
お母様と二人きり、ではなく、兄も一緒というのが玉に瑕なのだけど。
◇ ◇ ◇ ◇
到着ロビーの会員制ティーラウンジを出ると、預かり手荷物を取りに行っていた兄が待っていた。
兄一人別行動だったのは、別に嫌がらせではない。
エグゼクティブクラスの乗客は優先的に飛行機から降ろされる。荷物も優先的に返却されるとはいえ、やはり少しは待たなければならない。荷物が出て来る時間を考えれば、エコノミー席の兄に取りに行って貰う方が時間が無駄にならない。
兄一人をエコノミー席に座らせたのもちゃんと理由がある。
エグゼクティブクラスには通常のキャビン・アテンダントの他に、荒事専門の警備用乗務員が目を光らせている。ハイジャックや自爆テロなどの犯罪が発生するとすれば、警備が緩いエコノミークラスの方だ。兄がエコノミーに席を与えられたのは、万が一の事態に対応する為なのだ。
とはいうものの――家族の普通のあり方から外れていることは間違いない。
お母様の隣を歩きながら肩越しにチラッと振り返ると、当たり前のようにわたしたちの荷物を両手にぶら下げた兄が、不満そうな顔一つせず黙々とついて来ていた。
いつも通りに。
わたしは別に、この兄が嫌いではない。
ただ、苦手なだけだ。
一体何を考えているのか分からない。
何故、家族でありながら使用人同然の――使用人そのものの――扱いを受けて平気なのだろうか。
そういう役目を与えられているのだということは知っている。
我が家が特殊なのだということも分かっている。
しかし、兄はわたしと同じ中学一年生なのだ。
四月生まれの兄に対して、わたしは三月生まれ。
年子のわたしたちが同じ学年になっているのは二人の生まれ月がもたらした偶然だけれども、それでも、今年の三月までわたしと同じ小学生だったことに変わりはない。
それなのに何故、妹に顎で使われて平気でいられるのか――
兄とわたしの目が、合った。
何度も振り返っていたわたしの視線が気になったのだろう。
「……何ですか?」
わたしがチラチラ見ていたから、兄もわたしの方へ目を向けたのだ、と理性では分かっている。
だけどわたしの口からは、不機嫌な声しか出て来なかった。
「何でもありません」
女主人に仕える執事のような丁寧な口調で兄が応えた。
プラスの意味でもマイナスの意味でも、そこに兄が妹に向ける感情は、肉親の情は無かった。
「でしたらジロジロ見ないでください。不愉快です!」
理不尽だ、とは分かっている。
兄を使用人扱いしているのはわたし達の方であって、兄がそれを望んだわけではない。
それなのにわたしは、兄に苛立ちをぶつけることしか出来なかった。
「失礼しました」
兄は立ち止まり、わたしに向かって頭を下げた。
そして、さっき迄より少し離れて、わたし達の後をついて来る。
何故、と思う。
今のは、わたしの我が侭なのに。
――やはりわたしは、この兄が苦手だ。
◇ ◇ ◇ ◇
今回わたし達が滞在するのは、恩納瀬良垣に買ったばかりの別荘だ。
わたしはホテルでも良かったのだが、お母様は人の多いところが苦手だから、という理由で父が急遽手配したものだった。
相変わらずあの人は、愛情をお金で購えると考えているらしい。
……そのお金も、お母様を娶って手に入れたものなのだけど。
若い頃は人並み外れた――魔法師としても規格外のサイオン保有量から、その潜在能力を高く評価されていた魔法師だったらしいけど……今の魔法技術体系においてはサイオン保有量と魔法技能の優劣に直接的な関係はない。潜在能力を結局、顕在化させることの出来なかった父は、魔法師として身を立てる道を諦め、お母様の実家が作った会社の役員に収まっている。
そんな経緯があるから、お母様に対して引け目を感じる気持ちは分かるのだけど、娘としてはもう少し父親らしい姿を見せて貰いたいところだ。
……わたしは軽く頭を振って、つまらない思考を頭の中から追い出した。
せっかくバカンスに来ているというのに、不愉快な想いに囚われているなんて愚かしいことだと気がついたからだ。
「いらっしゃいませ、奥様。
深雪さんも達也君も良く来たわね」
別荘でわたし達を出迎えてくれたのは、一足先に来て掃除や買い物を済ませておいてくれた桜井さんだった。
桜井穂波さんは、お母様のガーディアンだ。
五年前まで、彼女は警視庁のSPだった。退職するときは随分と強く引き留められたらしいけど、彼女がお母様のガーディアンになるのは警視庁に就職する前から決まっていたことで、警視庁に入ったのは護衛業務のノウハウを学ぶ為だった。
彼女は遺伝子操作により魔法資質を強化された調整体魔法師「桜」シリーズの第一世代。二十年戦争末期に研究所で作られ、生まれる前から四葉に買われた魔法師だ。
しかしそんな生い立ちを少しも感じさせない明るくさっぱりした女性で、ガーディアンの本分である護衛業務以外にも、お母様の身の回りの細々としたお世話をしてくれる。本人曰く、家政婦の方が性に合っているのだそうだ。
本来護衛対象から離れることのないガーディアンが一足先に別荘へ来ていたのは、現地の情報収集の為であり、兄がわたしとお母様の傍にいたからなのだが、だったら桜井さんと兄の役目を逆にして欲しかった。――兄に生活環境を整えさせるのは無理だから、仕方のないことなのだけど。
「さあ、どうぞお入り下さい。
麦茶を冷やしておりますよ。それともお茶を淹れましょうか?」
「ありがとう。せっかくだから麦茶をいただくわ」
「はい、畏まりました。
深雪さん、達也君も麦茶でよろしいですか?」
「はい、ありがとうございます」
「お手数をお掛けします」
唯一つ桜井さんに不満があるとすれば、兄をお母様の息子として――わたしの兄として扱うことだろうか。
言ってしまえば、当たり前のことだ。
だけどわたしには……その当たり前のことが、出来ない。
そんな自分が、この時、訳も無く歯痒かった。
◇ ◇ ◇ ◇
「お母様、少し歩いてきます」
着いたばかりで泳ぎに行くのも慌しい気がしたし、かといって別荘に閉じこもっているのも勿体無かったので、散歩に行くことにした。
徒歩だと万座毛は少し遠過ぎて無理だけど、ビーチ沿いの遊歩道をノンビリ歩くだけでも気持ちが良いに違いない。
「深雪さん、達也を連れてお行きなさい」
しかしお母様の返事を聞いて、折角のお散歩が最初から台無しになった気がした。
一人でも大丈夫です、と本当は主張したかったけれども、余計な心配は掛けたくない。
「――わかりました」
声が尖らないようにするのが精一杯。
つばの広い麦藁帽子を目深に被り、振り返りもせず、わたしは傾いた日差しの下へ歩み出た。
サマードレスの裾を揺らす海風が、思ったとおり、心地良い。
桜井さんに手伝ってもらって足の指先から瞼まで隙間無く日焼け止めを塗っているので、日差しを気にせず腕や脚で風を感じることが出来る。
褐色のクリームで覆われた肌は、地元の女の子と比べても違和感が無い、と思う。
そのお蔭で、なのか、すれ違うたびにジロジロ見られないのも気分が良かった。
日に焼けるということを知らないわたしの肌は、自慢じゃないけどビーチやこういう所では悪目立ちしてしまう。
――いや、本当に自慢じゃないのだ。
小学校の友達とプールに行った時、「雪女みたい」と言われて激しくショックを受けた記憶は、未だ消し去ることが出来ない。何気の無い台詞で決して虐めとか陰口とかじゃなかったから余計にショックを受けた。
色素が足りないわけではないはずだ。髪の色は重過ぎるほど真っ黒なのだから。
血統的なものだろうか?
過去五世代、わたしの家系にコーカソイドの血は混じっていないはずなのだけど……まあ、それ以前は分からないから超隔世遺伝という可能性も無いわけじゃないのだけれど。
でも、お母様も夏は多少日焼けするし、兄は褐色というか赤銅色というか、元の肌色が分からないくらい見事に日に焼けているのだから、家系的なものとも言い切れない気がする。
「――っ」
意識的に考えないようにしていたことを意識に乗せてしまって、わたしは意識的に視線を前へ固定し、後ろを見ないように、過剰に意識した。……一体何を「意識」しているのか、自分でも混乱しそうだ。
耳を済ませても、足音は聞こえない。
気配も無い。(もっともわたしには最初から、気配を読むなんて芸当は出来ないのだけれど)
しかし振り返れば間違いなく、少し離れて、兄がついて来ているはずだ。
兄はわたしのガーディアンなのだから。
何故「ボディガード」ではなく、わざわざ「ガーディアン」などという大袈裟な呼び方をするのか、わたしにはいまひとつ納得できない。しかし、四葉の「ガーディアン」と単なる「ボディガード」がどう違うのか、それは分かっている、と思う。
ボディガードは「仕事」で、ガーディアンは「役目」。
ボディガードは護衛対象を命懸けで護る代わりに、金銭的な報酬を得る。警察のSPのように職務として護衛を行う例もあるけど、そういう人たちも職務に応じた俸給を得ているから、広い意味で金銭的な対価を得る為に護衛を生業としていると言って間違いじゃないと思う。
それに対してガーディアンには、金銭的な報酬がない。衣食住は四葉に与えられ、金銭の必要があればその都度、四葉から支給される。但しそれは報酬ではなく、護衛の力を維持する為のコストだ。
極論すれば、ボディガードは食べる為に護り、ガーディアンは護る為に食べる。
ガーディアンに私生活はない。彼ら、彼女たちの全ては、マスターあるいはミストレスと呼ばれる護衛対象に捧げられている。
わたしは、わたしたちは、それを当然のものと考える一族だ。当然と考えることが出来なければ、ドロップアウトするしかないのが、わたしたち「四葉」だ。
――ミストレス、なんて恥ずかしい呼び方をされるくらいなら、放り出された方がマシな気もするけど。(幸いなことに「マスター」や「ミストレス」の呼称は、「ガーディアン」ほど公然と使用されていない)
兄がわたしのガーディアンになったのは、わたしが六歳の時。わたしの初めてのガーディアンは兄で、多分それは、これからずっと変わらない。
兄は四葉当主の姉の息子ではなく、次期四葉当主候補の守護者として、わたしが当主になったならその影として、一生を終えることになる。
わたしが、ガーディアンの任を解かない限りは。
そう、ガーディアンは唯一、護衛対象に解任された場合に限り、その義務を免れ一人の人間として生きることが許される。
――わたしは兄が苦手だ
――わたしは兄が嫌いではない
では何故、わたしは兄をこの酷い境遇に縛り付けているのだろうか?
答えは出ない。
このことを考えようとすると、どういう訳かわたしの頭は働かなくなってしまう。
足元に視線をシッカリと固定したまま、わたしは足を速めた。
◇ ◇ ◇ ◇
俯いたまま早足で歩いていたわたしは、突然腕を掴まれ、後ろへ倒れこみそうになった。
その直後、前からドシンという衝撃を受け、兄の胸の中へ倒れこんでしまう。
兄に文句は無かった。
今のは、前を見ていなかったわたしが悪い。――反射的に声を荒げそうになったのは、誰に告げる予定も無い秘密だ。
問題は、わたしの身体が兄に引き止められた後、前からの衝撃を受けたということ。
わたしがぶつかったのではなく、明らかに、わたしがぶつかられたのだ。
これは怒っても良い場面だろう。
わたしは怒りを込めた眼差しを上に向けた、が、それだけでは分厚い肉の壁しか見えなかった。
目線を更に上げる。
そこには軍服をだらしなく着崩した、黒い肌の大男がいた。
――レフト・ブラッド(取り残された血統)。
二十年戦争の激化により、沖縄に駐留していたアメリカ軍(当時はまだUSA)がハワイへ引き上げた際、取り残された子供たち。その大半は親に捨てられたのではなく父親が戦死した為だけど、彼らの多くは米軍基地を引き継いだ国防軍の施設に引き取られて育ち、そのまま軍人になった、そうだ。
彼らは勇猛な兵士として国境防衛の一端を立派に担い、その子供たちも軍人になった者が多い。しかし当の子供たち、つまり第二世代は素行が良くない者も多いから気をつけるべし、というのが沖縄観光に関するプライベート・サイトに共通して掲載されている注意書きだ。
大男の後ろには、同じように軍服を着崩した同じくらいの体格の青年が二人、ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべている。
反射的な怒りは、生理的な恐怖に席を譲っていた。
いざとなったら魔法を使う、という当然の対処法すら思いつかないほど心が竦んでいた。
――視界が、兄の背中に塞がれるまでは。
少年の、華奢な背中。
それでもわたしより、広い背中。
わたしはいつの間にか、兄の背後に庇われていた。
「あぁ? ガキに用は無いぜ?」
こちらを見下しきった嘲笑で、大男が兄の顔を覗き込む。
兄は、何も答えない。
「ビビッて声も出せねえのか?」
「ハッ、チキン野郎が。カッコつけてんじゃねえよ!」
後ろの二人が兄に対して嗤い、凄む。
怒りが心の中に蘇った。
さっきよりずっと、明瞭な形で。
わたしは、CADを持って来るべきだった、と悔やんだ。
補助具無しでは、加減が上手くできない。こんな相手でも、大怪我をさせてしまうのは、色々な意味で拙い。
CADが手許にあれば、こんなヤツらに好き勝手を言わせたりしないのに!
一体何に対して熱くなっているのか自分でも分からないまま、わたしは兄の前に立ちふさがる大男を「キッ」と睨みつけた。
大男の目がわたしを見て、スウッと細められた。
唇が動いた。
それが笑う為だったのか、喋る為だったのか、確かめる術は無い。
「お互いに来た道を引き返すのが、この場におけるベストの選択だ」
およそ少年らしさの無い落ち着いた口調の、まるきり子供らしくない台詞が大男の表情を強張らせたからだ。
「――なんだと?」
低い、低い、囁くような問い掛け。
「聞こえていたはずだが?」
感情の欠落した、独り言のような反問。
男の両眼に、凶悪な光が宿った。
「地面に頭を擦り付けて許しを乞いな。今ならまだ青痣くらいで許してやる」
「土下座しろ、という意味なら、頭を、ではなく、額を、と言うべきだ」
その、直後。
何の合図も前触れも無く、男が兄に殴りかかった。
兄は同年代の中で大柄な方と言っても、所詮、中学一年生の身体。目の前の男とは文字通り、大人と小人。
わたしは反射的に、目を瞑った。
パシッ、という音がした。
兄が殴られれば後ろにいる自分は巻き添えになる、と今更の様に思いついて、そうならなかったことを不思議に思った。
恐る恐る目を開ける。
最初に目に入ったのは、信じられない、という表情に固まった大男。
この男が何故そんな顔をしているのか、悩む必要は無かった。
中途半端に伸ばされた男の右腕。
その拳を、兄が両手で受け止めている。
片手と両手、ではあったが、二人の間にはそんなことなど関係なくなる体重差があるはずだ。
大男の体重は、もしかしたら兄の倍以上。
それなのに兄は、ウエイトの乗った男のパンチを、一歩どころか半歩も下がらず、受け流したのではなく正面から受け止めている。
魔法を使った?
いいえ、そんな兆候は無かった。
学力とか体力とか運動技能とかならともかく、魔法なら兄よりわたしの方が上だ。
兄が魔法を使って、わたしが気づかないはずは無い。
「面白い……単なる悪ふざけのつもりだったんだが……」
大男はニヤリと笑うと、腕を引いて左右の拳を胸の前に構えた。
ボクシング?
空手?
格闘技や武道には丸切り素人なわたしには見分けがつかない。だけど遊び半分だった相手が本気になった、ということだけは何となく分かった。
「いいのか? ここから先は、洒落じゃ済まないぞ」
普通にやったら、敵うはずが無い。
普通なら、逃げるべきだ。
なのに何故、兄はこんな挑発的な言い方をするのだろう。
いえ、兄の思惑なんてどうでも良い。
わたしだけでも、逃げるべきだ。
――わたしの頭はそう考えているのに、わたしの身体は兄の背中から離れようとしない。
「ガキにしちゃ、随分と気合の入った台詞を吐くもんだ、な!」
そこから先を、わたしは目で追うことが出来なかった。
わたしに分かったのは結果だけで、そこから何が起こったのかを推測するだけ。
前へ踏み出した男の左足。
その左足と右足の間にねじ込むような形で、兄が左足を踏み込んでいる。
肩口に引かれた男の右手は、まさにパンチを繰り出そうとしているところ。
その胸板の中央に、兄の左拳が添えられている。
少し隙間が空いているのは、これから打ち込むところではなく、打ち込んだ反動で跳ね返ったからに違いない。
ドン、と太鼓でも叩いたような音が、きっと、兄の拳の音。
兄が踏み出した足を引くと、示し合わせたように大男の身体が沈みこみ、痛そうな音を立てて路面に両膝をついた。
兄は、蹲ったまま苦しそうに咳き込む大男を見下ろし、背後の二人へおもむろに目を向けた。
男たちは、立ち竦んだまま、動かない。
兄は男たちに背を向けた。
「帰りましょう」
兄が、わたしの腕に手を添える。
呟いたその言葉が自分に向けられたものだと、わたしはそれで、ようやく気がついた。
◇ ◇ ◇ ◇
「深雪さん、何かあったんですかっ?」
打ち切りとなった散歩から戻ると、桜井さんが顔色を変えて小走りに駆け寄ってきた。
そんなに酷い顔はしていないと思うけど、少し蒼褪めているという自覚はあるので、誤魔化すことは最初から諦めていた。
「チョッと、絡まれそうになって……」
「まぁ……!」
それだけで桜井さんは大体の事情を覚ったようだ。
さり気なくこちらを観察しているのは、衣服に乱れが無いか、チェックしているのだろう。
「大丈夫です」
少し無理をしたけど、自然な笑顔を作れたと思う。
わたしが笑顔を向けると、桜井さんもホッとしたような笑みを返してくれた。
でも、わたしの作り笑いは長続きしなかった。
兄が助けてくれましたから――その台詞が、わたしの口から旅立つことは無かった。
そう言おうと思って目を向けたのに、兄は素知らぬ顔で、相も変らぬ無表情で、桜井さんに軽く会釈して、それなのにわたしの方は見向きもせずに、奥の部屋へ引っ込んで行った。
「――シャワーで汗を流してきますので」
そんなに汗はかいていないけど、わたしはこの場から逃げるように、そう告げた。
私自身がトインビーの著作で確認した訳ではありませんので、「平和的浸透」は俗説の域を出ないことをお断りしておきます。
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