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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第三章・横浜騒乱編
3-(21) 摩醯首羅

 魔法協会支部のある丘の北側で攻勢を押し返された侵攻軍は、兵力を南側に迂回させて最後の攻撃を試みた。
 人質の確保は既に断念している。
 長期の占領が可能な兵力でもない。
 このままでは何の成果もなく撤退ということになってしまう。せめて協会支部に蓄積された現代魔法技術に関するデータを奪取し、その上で魔法師を一人でも多く殺害してこの国の戦力を殺いでおこう、というのが侵攻軍の決断だった。
 撤退のタイミングは、見極めが非常に難しい。
 優勢に立っている中で撤退を決断することも難しいが、決定的な敗北を被っていない状態で何一つ戦果が得られていない状態も中々未練を断ち切れないものだ。
 敵の攻勢を釘付けにしてその後背を衝く。
 一見ダイナミズムに溢れる用兵であり、迂回部隊を率いる指揮官もそう考えて昂揚していた。
 装甲車と直立戦車のみの別働隊は、今のところ、敵と遭遇していない。
 防衛側に機動力は無い、という推測に基づく作戦であり、その読みは的中したようだ、と装甲車の中で指揮官は思った。
 ちょうど、その時だった。
 装甲車の後部ハッチから上半身を出して警戒に当たっていた兵士は、頭上を過ぎる黒い影に顔を上げた。
 その兵士は、黒い影の正体を見極めることが出来なかった。
 空中から放たれた弾丸が、兵士の頭を貫いた。
 侵攻軍車両の間で慌てて通信が交わされ、機銃が空に向けられる。
 その対応を嘲笑うように空から急降下した黒い部隊――独立魔装大隊の飛行兵部隊は、道路沿いのビルの屋上に降り立ち上方側面より一斉射撃を浴びせた。
 貫通力を増幅したライフル弾が豪雨となって降り注ぎ、魔法防御を飽和して直立戦車のコクピットを貫く。
 爆発力を集中した擲弾が装甲車の車輪を吹き飛ばす。
 高温の金属粉末を吹き付け燃料に火をつける。
 侵攻軍も無抵抗ではなかった。
 榴弾を打ち込み、ビルを瓦礫に変える。
 重機関砲で壁面を削り、銃口を覗かせている飛行兵を吹き飛ばす。
 だが黒い部隊の火勢は、少しも衰えなかった。
 炎に巻かれた瓦礫の中から、壁を削られたビルの上から、一層激しい銃撃が繰り出される。
 侵攻軍の兵士たちは、装甲車と直立戦車の中で、不死身の怪物を相手にしているような怖気(おぞけ)に捕らわれていた。
 彼らはすぐに、そのカラクリを己が目にする機会を得た。
 足元を崩されて、一人の飛行兵が路上に落ちる。
 直立戦車の機銃がその身体に穴を穿つ。
 漆黒の戦闘服がもつ防弾性のお蔭か、即死ではなかった、が、間違いなく致命傷だった。
 ところが、その隣に舞い降りた、両手に銀色のCADを持つ黒い魔人が左手をその兵士に向けた途端、
 兵士の傷が、消えた。
 右手は彼らに狙いを定めた直立戦車に向いている。
 装甲に鎧われた機体にノイズが走り、
 全高三メートル半の金属塊が、塵となって消えた。
『……摩醯首羅!』
 悲鳴が、電波に乗って広がった。
 恐怖に急かされた逃走と、恐怖に駆り立てられた突撃と、相反する波がぶつかり合って、侵攻軍の隊列から秩序が失せた。
 パニックは、彼らの全滅によって終結した。

◇◆◇◆◇◆◇

 偽装揚陸艦の艦橋、即ち侵攻軍の司令部は、悲壮で深刻な空気に覆われていた。
「別働隊が全滅……?」
 侵攻軍総指揮官に睨みつけられた参謀は竦み上がりながらも、己が職務を全うした。
「報告より推測いたしますに、飛行魔法を使った空挺部隊による強襲に、善戦空しく全滅と相成った模様であります」
「…………」
「……それと、これは未確認の情報でありますが……」
「何だ」
「別働隊の交信の中に『摩醯首羅』の声が」
「摩醯首羅だと!?」
 艦橋にいた半数の人間が目を剥いた。
「別働隊には、三年前の戦闘に参加した者がおりました」
「…………」
「……何のことでありますか?」
 残り半数の一人だった副官が、総指揮官ではなくその報告をもたらした参謀に問い掛ける。
「――性質の悪い戯言だ!」
 だが、その問いに答えたのは指揮官本人だった。
 三年前、沖縄で彼らに敗北をもたらした正体不明の魔人。
 捕虜交換で帰還した兵士の間で、誰からともなく囁かれた畏称。
 中華連合軍の上層部は、その存在を否定している。
 その名を口にすることを兵士たちに禁じている。
 葬り去ったはずの悪夢。
 だが、いくら口で否定しようとも、悪夢は現実と化して彼らに牙を向けていた。

◇◆◇◆◇◆◇

 独立魔装大隊の飛行兵部隊はその機動力を活かし、魔法協会義勇兵と交戦している敵陣の後背に襲い掛かった。
 前線に投入されている兵数は四十名、一個小隊の規模に過ぎない。
 だが戦場の常識を覆す兵員移動のスピードは、その兵力を二倍にも三倍にも引上げている。
 しかも、兵力の消耗を考慮する必要が無い。
 彼らが身に着けている漆黒の戦闘服――ムーバル・スーツは、高い防弾性能を誇る。
 また隊員は全員が戦闘面においてハイレベルの魔法技能を有しており、魔法的な干渉に対する防御も堅固だ。
 それでも、敵の攻撃を全く受け付けないというわけには行かない。
 個人が身に着けられる装備にはどうしても重量面で限界があり、戦車や戦闘艦艇の装甲に比べて見劣りしてしまうのは避けられない。
 故に、銃弾を浴びることもある。
 爆発で負傷することもある。
 胸や腹に風穴が開くことだってある。
 しかし彼らは、即死で無い限り、止まらない。
 すぐに復活するのだ。
 銃撃に血を流し倒れた兵士は、次の瞬間、何事も無かったように立ち上がる。
 その身体に傷痕は無く、スーツに血の跡は無い。
 それどころか、スーツ自体にも穴が無い。
 銀色のCADを両手に構えた大柄な兵士が、左手を向け引き金を引くたびに、負傷した兵士が蘇る。
 死から解き放たれた兵士が、修羅となって突き進む。

 侵攻軍の兵士は、自分たちの目にしているものが信じられなかった。
 確かに致命傷を与えたはずなのに、その事実が無かったことになる。
 彼らは、白昼夢に迷い込んだのではないか、と感じていた。
 しかもこれは、とびきりの悪夢だ。
 現実感を侵食されながらも、目の前の光景から、因果関係を悟る。
 あの左手の銀色の銃が、漆黒の兵士を蘇らせている――何をどうしているのかは分からないが、それだけは直感的に理解して、銀色の銃を持つ兵士に砲口を向ける。
 だが、砲撃が届くことは無い。
 銃弾も榴弾も、空中で霧散する。
 その右手を向けられた物は全て、塵となって消える。

―― Divine Left ――

 その左手を差し伸べられた兵士は死の縁から蘇り、

―― Demon Right ――

 その右手が指し示すものは人も機械も消え失せる。

 三年前、香港出身の兵士が上層部の緘口令を逃れる為に使った英語のフレーズが、侵攻軍兵士の間に細波(さざなみ)となって広がり、

―― Mahesvara(摩醯首羅)! ――

 大波と化して、彼らの戦意を呑み込み押し流した。

◇◆◇◆◇◆◇

 敵の攻勢が不自然なタイミングで止まった。
 克人の感覚的な予測では、敵が敗走に転じるのはもう少し先のことだった。
 だが予想より早いからといって、これを見逃す克人ではなかった。
「敵は怯んだぞ!」
 彼は魔法協会が主体となって編成したこの義勇軍の中で、最も若い階層に属している。
 それにも関わらず克人は自然と、この場の指揮権を掌握していた。
 彼の外見から彼の実年齢を見抜いた慧眼の主も、いなかった訳ではない。
 しかし彼の持つ、指導者としての資質に異を唱えた者は誰一人いなかった。
 無論、その魔法力がこの場の誰よりも優れた、圧倒的なものであるという要素も大きく影響しているだろう。
 彼の参戦がなければ、ジリジリと押し込まれて敗走していたのは自分たちの方だ、と理解していない者はほとんどいなかった。
 だが、力だけでは無かった。
 力は寧ろ、副次的な要因だった。
 この場で杖を手に取った(魔法師が戦闘に参加することを、「銃を手に取る」という慣用的な表現に倣い「杖を手に取る」と表現する)者たちが克人を大将と認めたのは、彼の叱咤が彼らの怯懦を吹き飛ばしたからだった。
 なるほど、(いくさ)に勝つには補給も重要だ。兵の錬度を上げることも大切だ。効率的に兵力を運用する作戦も、それをサポートする輸送・通信手段も欠かせないかもしれない。
 だが全てが出尽くした後、最後の最後でものを言うのは士気だ。
 兵士の闘争心は、時に全ての不利を覆して勝利をもたらす。
 少なくとも地上戦においては未だ、士気は勝利の無視し得ぬファクターであり続けている。
 そして、兵士の闘争心を引き出すことが出来る、というのは稀少な才能、将の器なのである。
「一気に押し戻せ!」
 克人の下知に従い、魔法が一斉に放たれた。
 相克による無効化が起こらぬよう、加重系魔法に統一された魔法の一斉砲撃。
 この攻撃は、既に逃げ腰になっていた侵攻軍にとって、決定打となった。
 機甲兵器に搭乗していなかった歩兵と魔法兵の大半が薙ぎ倒された。
 既に残り少なくなっていた直立戦車の半数が転倒した。
 攻撃を凌いだ装甲車と直立戦車、そして少数の歩兵・魔法兵からなる残存兵力は敗走を開始した。
 転倒した直立戦車を上からのファランクスで続けざまに叩き潰して、克人は手を大きく前へ振り下ろした。
「進め!」
 態勢を立て直す余裕を与えない追撃命令。
 義勇兵の士気は、最高潮に達した。

◇◆◇◆◇◆◇

 独立魔装大隊の攻撃により敵が背後から切り崩されているということを、克人と同様に将輝も知らない。
 だが風向きが変わったことも、克人とほぼ同じタイミングで掴んでいた。
 義勇兵のリーダー的なポジションに収まっているのも克人と同じだが、将輝は積極的に指揮を執ろうとはせず、寧ろ最前列に出て彼らを庇うスタンスだった。
 彼は今、中華街の北門(玄武門)の前に独りで立っていた。
 この街は戦後の再開発の結果、ビルが壁の役目を果たして、東西南北の四門からしか出入りできなくなっている。無秩序な再開発、ではなく、計画的に行ったことだと思われる。
 閉じ込める為か、閉じ籠もる為か。
 おそらくは、後者だろう。
 平時であれば大きく開け放たれ観光客の出入りが絶えない四方の門が、今は固く閉ざされている。
 それ自体にケチを付けるつもりは、将輝にはなかった。
 他所の国で暮らしていくのに自分たちだけで固まって、しかもそこを要塞化(というのは少し大袈裟だが)するというのは、感情的には気に喰わない。
 だが彼が今、閉ざされた北門の前に立っているのは、反感を叩きつける為ではなかった。
「門を開けろ!
 さもなくば、侵略者に内通していたものと見做す」
 将輝が言葉通りの臨戦態勢でこの場に立っているのは、敵がここから中華街の中へ逃げ込んだからだ。
 いつ向こう側から銃弾が飛んでくるか、分からない。
 飛んでくるのはもしかしたら榴弾や魔法かもしれない。
 彼の防御力を超えた威力の爆弾や術式が降って来ないとも限らない。
 だから彼は、神経を張り詰めて、魔法を即時発動できる態勢で、独りこの場に立っているのである。
 口とは裏腹に、将輝は強行突破を決意していた。
 開けろ、とは言ってみたものの、あっさり進入を許すつもりなら、わざわざ出口の限られたこの街に逃げ込んだりはしないだろう。
 街の人間が敵軍に内通していなかったとしても、門の開閉は真っ先に敵兵が掌握しているはずだ。
 武器を持たぬ街の住民が、それに抵抗できるとは思えなかった。
 だから、彼の呼び掛けのすぐ後に、門が軋みを上げて開いて行く光景に、将輝は肩すかしを喰らった気分込みで呆気にとられた。
 出て来たのは、将輝よりも七、八歳年長の青年を先頭とする一団だった。
 彼らは、拘束した侵攻軍兵士を連れていた。
「周公瑾と申します」
 青年はそう名乗った。
「……周公瑾?」
「本名ですよ」
 周青年もこういう反応には慣れているのだろう。
 首を捻った将輝に、青年はひっそり笑った。
「失礼した。一条将輝だ」
 流石に年長者の自己紹介を放置するのは拙いと考えたのか、将輝が慌て気味に、しかし立場を考え、(へりくだ)らずに名乗った。
 それに対して、周青年はあくまで低姿勢に一礼し、身体をずらして背後の捕虜(厳密に言えば捕虜ではなく被捕縛者)を将輝に差し出した。
「私たちは侵略者と関係していません。
 寧ろ、私たちも被害者です。
 そのことをご理解いただく為に、協力させていただきました」
 青年は誠実そのものの表情で潔白を訴えた。
 そこには、少なくとも外見上は、一片の曇りもない。
 だが、将輝はそれを、信じられなかった。
 白々しい、と訳もなく感じた。
 侵攻軍を門の中に招き入れた事についても、油断させて捕らえる為だった、と周青年は主張するに決まっている。
 また、その主張は筋の通った、説得力のあるものだ。
 しかし、そもそも武装した兵士を、どうやって捕らえたのか。

 油断ならない。

 それが周青年に対して、将輝が抱いた印象だ。
 しかし、だからといって、将輝に民間人を取り調べる権限はない。
 それに、表面的に見れば、彼らの協力によりこの方面の戦闘はこれで終結した、と言えるのだ。
 将輝は周青年に礼を述べ、他の義勇兵と協力して捕虜を引き取った。
 それが彼を最前線から引き離す結果になったと、将輝は気付かなかった。

◇◆◇◆◇◆◇

 達也は柳たちと共に、敵の喉元へ迫っていた。
 克人も掌握した義勇兵と共に侵攻軍を激しく追い立てていたが、彼らは基本的に徒歩、達也たちとは機動力が違う。
 兵士単体で飛行可能という、飛行デバイスによってもたらされた兵力運用の革新を最大限に発揮して、敵を後背・側面から切り崩す。
 元々、独立魔装大隊は、最新の魔法技術を軍事に活用する実験部隊。
 ムーバル・スーツによる高機動戦闘は、その本領を発揮したものと言える。
 近代以降の、攻撃兵器が防御兵器を上回っている状態は、現代においても尚続いている。
 重戦車の装甲が歩兵用の携行ミサイルに破られてしまうような技術体系の下では、陸上兵力も散開陣形とならざるを得ない。
 相手が散開している状態ならば、機動力と打撃力で、一つ部隊を各個撃破するという形に持ち込むことができる。
 部隊ごとの各個撃破ではなく、部隊内の散開した兵力ユニットを各個撃破する。
 ムーバル・スーツの機動性と武装デバイスの打撃力があって初めて可能になる戦術で、独立魔装大隊は侵攻軍を駆逐していった。
 貫通力を増幅したライフル。
 燃焼ガスの拡散方向を限定した燃料気化爆弾搭載の携行ミサイル。
 高温に熱した金属粉末を電磁力で撃ち出すパウダー・レールガン。
 材質的な問題、構造的な問題から、非魔法技術のみでは実現の難しい兵器の数々が、その威力を存分に振るっている。
 無論、魔法そのものも活躍していた。
 中でも目に付くのはやはり、柳大尉の「千畳返し」。
 そして達也の「雲散霧消」。
 何トンもある金属の塊がゴロゴロと転倒する様は実に壮観だ。
 だが、どれほど派手でも柳の「千畳返し」は支援用の魔法であり、それ単体で敵にとどめを刺すものではない。
 それに対して、「雲散霧消」は地味で静かな魔法と言える。
 音も光も無い。
 火薬・燃料の爆発に巻き込まれるリスクを避ける為に分解のレベルを上げているので、容燃性物質の燃焼炎も生じない。
 ただ消え去るだけだ。
 塵となり、蒸気となり、拡散して、それで終わり。
 それだけで、敵機も敵兵も、その存在が終わる。
 死体すら残すことが出来ない無残な魔法は、それを目にした敵の戦意を根こそぎ奪って行く。

 接触から十五分。

 それが敵の限界だった。

 兵力の損耗と、それ以上に士気の喪失に耐え切れず、侵攻軍は潰走を始めた。 

◇◆◇◆◇◆◇

 沿岸部から内陸へ脱出するヘリの中は、沈黙に包まれていた。
 何となく、口を開くのが憚られる雰囲気が漂っていた。
 だが、その不自然な沈黙に耐え続けることもまた、彼らには出来なかった。
「……自分の身に起こったことだというのに……まだ信じられないよ」
 最初にポツリと呟いたのは、五十里だった。
「……一体、何が起こったんだ?
 何をどうすりゃ、こんなことが可能なんだ?」
 誰にとも無く当惑の台詞を口にしたのは、もう一人の当事者である桐原だった。
「いっそ、全部幻覚だった、って言われた方がまだ納得できるぜ」
「でも、幻覚じゃない。
 僕が死に掛けたのも、君の脚が千切れたのも、紛れも無い事実だ」
 再び沈黙が訪れた。
 深刻な、深刻だった事実を改めて突きつけられて、先程より空気の重量が増していた。
「……司波、これだけは教えてくれ」
 遂に、と言うべきか。
 この中で唯一、真相を知っている人物である深雪に、摩利が問い掛けた。
「何でしょうか?」
 応える口調は冷静なものだった。
 ただ、表情の硬さは隠し切れていない。
 いや、もしかすると、隠すつもりも無いのかもしれない。
 深雪はわざと、水晶のように硬質な表情を作っているのかもしれなかった。
「達也くんの魔法は、どの程度効果が持続するんだ?」
 魔法による治療は一時的なもの。それが治癒魔法の原則だ。
 効果が持続する内に何度も掛け直し、何度も世界を欺き、それでようやく、偽りの治癒を世界に定着させることが出来る。
 持続時間が短ければ、すぐにでも新たな治癒魔法を施さなければならない。
「永続的なものです」
 しかし、返って来た答えは予想外のものだった。
「通常の治癒魔法の様に、継続的な施術は必要ありません」
 深雪の回答は、摩利の意図を百パーセント理解した上で、五十里と桐原に聴かせる事も意識したものだった。
「運動の制限もありません。完全に、いつも通りの生活が可能です」
「……そんな事が可能なのか?」
 その答えに、摩利は納得出来ない様子だった。
「信じられませんか?」
「信用していない訳じゃないけど」
 納得していないのは摩利だけではなかった。
「啓を救ってくれたことには感謝してるけど……一度で完治する治癒魔法なんて聞いたこと無いわ。
 そんなの、治癒魔法の基本システムに反してる。
 本当に治ったの?
 だったらあれは、治癒魔法じゃないの?
 司波君は一体何をやったの!?」
「花音ちゃん、落ち着いて」
 言葉を重ねている内に興奮してしまった花音を、真由美が宥めた。
「深雪さん、気を悪くしないでね?
 花音ちゃんは五十里くんのことが心配なだけなんだから」
「分かっています。気にしていません」
 真由美のフォローに、深雪は控え目な微笑みで応じた。
「しかし、何をやったのかは気になる。治癒魔法で無いとしたら、一体何を……」
「摩利! 他人の術式を詮索するのは、マナー違反よ!」
 ようやく少し雰囲気が和らいだ、と思ったところにそれをぶち壊すことを言い出した摩利へ、真由美から厳しい叱責が飛んだ。
「ありがとうございます、七草先輩。ですが、構いません」
 だが、深雪は真由美の気遣いに感謝を示しながらも、それを不要と言った。
「気になさるのは当然だと思います。
 皆さんに打ち明けるだけなら、お兄様も許して下さるでしょう」
 それは、他言無用という意味だ。
 もし秘密を守れないならば、この話はここ迄、ということ。
「他言はしない」
「誰にも言わないわ」
 打てば響くタイミングで、摩利と花音がそう応えた。
 他のメンバーも次々と誓約の言葉を返した。
「今から聴くことの一切を秘密とします。それは名倉さんたちも同様です」
 そして最後に、真由美がこう告げた。
「いえ、そこまで大袈裟なことではありませんが……」
 深雪は珍しく、苦笑気味に笑った。
 真由美が何を約束しようと、結局、七草家の耳には入るだろう。
 だがそれでも構わないと深雪は判断した。
 何を出来るか、が分かってしまった以上、どうやったのかを隠していても余り意味は無いからだ。
 どうせ、誰にも真似など出来ないのだから。
「お兄様が使った魔法は、治癒魔法ではありません」
 深雪は端正な姿勢で静かに語り始めた。
 それは、聴いている方の背筋も、思わずピンと伸びてしまうような佇まいだった。
「魔法の名称は『再成』。
 エイドスの変更履歴を最大で二十四時間遡り、外的な要因により損傷を受ける前のエイドスをフルコピーし、それを魔法式として現在のエイドスを上書きする魔法です。
 上書きされた対象は、上書きされた情報に従い、損傷を受ける前の状態に復元されます。
 ところで、魔法の効果が何故一時的なものでしかないのか、皆さんはご存知ですか?」
 そう問い掛けた深雪は、答えを待たずに言葉を続けた。
「魔法の効果が永続しないのは、エイドスの復元力が作用するからです。
 エイドスの復元力とは、外から書き換えられる前の、過去の自分に戻ろうとする力。
 ですが、『再成』でフルコピーされたエイドスも、過去の自分自身を表す情報体に他なりません。
 自分自身の情報でエイドスを上書きされた対象は、損傷を受けた状態に復元するのではなく、損傷を受けることなく時間が経過した状態でこの世界に定着します。
 全て、無かったことになるのです」
 摩利は、花音と顔を見合わせた。
 真由美は目を何度も(しばたた)かせていた。
 五十里は全身を硬直させ、桐原は狐に抓まれた様な顔をしていた。
 表現方法に様々な違いはあれど、表れている感情は同じだった。
「……じゃあ達也は、どんな傷でも一度で治してしまう、ということですか?
 信じられません、いくら達也でも、そんな……」
 その思いをハッキリ口にしたのは幹比古だった。
「一度で、ではありませんよ、吉田君」
 それを深雪は、笑って否定する。
「一瞬で、です。
 それに、対象は生物に限りません。
 人体だろうと機械だろうと、お兄様は一瞬で復元してしまうことが可能です」
 あんぐりと口を開けた状態で固まってしまった幹比古を見て、深雪は可笑しそうに、だが同時に、寂しそうに笑った。
「この魔法の所為で、お兄様は他の魔法を自由に使うことが出来ません。
 魔法領域をこの神の如き魔法に占有されている所為で、他の魔法を使う余裕が無いのです」
 神の如き、という形容を、大袈裟だと思った者は一人もいなかった。
 誇張でも何でもなく、それは「奇跡」だった。
「……それで達也くんは、あんなにアンバランスなのね」
「ああ……それほど高度な魔法が待機していては、他の魔法が阻害されても確かに不思議は無い……」
 深雪は真実の半分しか語っていない。
 残りの半分を打ち明けるつもりは無かった。
 ただ都合の良い誤解をしてくれた先輩たちの言葉に、寂しげな微笑みを浮かべるだけだった。
「……でもそれって凄いじゃない。
 二十四時間以内に受けた傷なら、どんな重傷でも無かったことになるんでしょう?」
「そうだね。
 災害現場でも野戦病院でも、その需要は計り知れない。
 何千、何万という人の命を救うことができる」
「そうよ!
 それに比べたら、他の魔法が使えないなんて些細なことだわ。
 こんな凄い力を何故秘密にしてるの?
 だって、大勢の命を救うことができるんだよ。
 命を奪うことで得た名声じゃなくて、命を救うことで得た名声なんて、本物のヒーローじゃん!」
「そうですね……ありとあらゆる負傷を、無かったことにする。
 そんな魔法が、何の代償も無く使えるとお考えですか?」
 興奮する花音と対照的に、深雪は極めて冷静で、表情に乏しかった。
 冷たく冴えた眼差しが花音を貫く。
 それを見て初めて、花音も、摩利も、真由美も、深雪が荒れ狂う激情を己が裡で氷付けにすることで、無理矢理平静を保っているのだと悟った。
 彼女は、嘆き哀しんでいた。
 彼女は、怒り狂っていた。
「エイドスの変更履歴を遡ってエイドスをフルコピーする。
 その為には、エイドスに記録された情報を全て読み取っていく必要があります」
 深雪の声は、変わらず冷静で、事務的ですらあった。
 だが、真由美も摩利も花音も五十里も、その声を聞いていた全員が、背筋にゾクッと寒気を覚えた。
「そこには当然、負傷した者が味わった苦痛も含まれます」
 誰かが、息を呑む音がした。
「知識として苦痛を読み出すのではありません。
 苦痛という感覚が、ダイレクトな情報となって自分の中に流れ込んで来るのです。
 肉体を介した情報でなく、精神に直接、刻み込まれるのです」
 ゴホッ、ゴホッと誰かが咳き込んだ。
 それは意識的な咳払いなどではなく、上手く呼吸が出来なくなったが為の生理的な反応だった。
「しかもそれが、一瞬に凝縮されてやって来ます。
 例えば……今回、五十里先輩が負傷されてからお兄様が魔法を使われるまで、およそ三十秒の時間が経過していました。
 それに対して、お兄様がエイドスの変更履歴を読み出すのに掛けられた時間はおよそゼロコンマ二秒。
 この刹那の時間に、お兄様は五十里先輩が味わわれた痛みを百五十倍に凝縮した苦痛を体験されているのです」
「百五十倍……」
 五十里の口から呻き声が漏れた。
 それがどんなものか、正直なところ彼には想像も出来ない。
 だが、もしそんな痛みに曝されて、自分は正気を保てるだろうか、と五十里は思った。
「負傷していた時間が長ければ、それだけ痛みは凝縮されます。
 一時間前の負傷を取り消す為には、本人の一万倍以上の苦痛に耐えることを余儀なくされます。
 お兄様は他人の傷を治すたびに、そのような代償を支払っているのですよ?
 それでもまだ、他人の為にその御力を使うべきだと仰るのですか?」
 彼女は静かに怒り狂っていた。
 何よりも、自分自身に対して。
 兄に「再成」の行使を願ってしまった、身勝手な自分自身に対して。

◇◆◇◆◇◆◇

 独立魔装大隊は、遂に敵の本陣である偽装揚陸艦を目視に捉えた。
 二十輌の装輪式大型装甲車、六十機(輌)の直立戦車、八百人の戦闘員。その中には魔法師も多数含まれていた。
 占領維持には足りなくても、一局面の打撃力としては不足の無い戦力が、今や装甲車、直立戦車の残存数ゼロ、兵士の損耗率七十パーセントという壊滅状態に陥っていた。
 潰走する彼らを追い立てる、その先頭に立つのは、僅か四十名の飛行兵部隊。
 横浜事変は、最終局面に入っていた。


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