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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第三章・横浜騒乱編
3-(14) 嵐の襲来

 現地時間、西暦二〇九五年十月三十日午後三時。
 後世において人類史の転換点と評される「灼熱のハロウィン」。その発端となった「横浜事変」は、この時刻に発生したと記録されている。

◇◆◇◆◇◆◇

 一高の発表が終わり、ロビーで藤林と世間話をしていた――朝から一緒で、最早世間話くらいしか話題が残っていなかったのだ――千葉警部は、ピクッと眉を動かしてお喋りを中断した。
 懐の通信専用端末(情報処理機能がほとんど搭載されていない代わりに強力な通信機能が備わった警察の装備)が振動で着信を伝えていた。
 藤林に断りを入れ、背中を向けて通信に出る。
「千葉だ。稲垣か?
 なにっ!?
 ……分かった。すぐそちらへ向かう」
 千葉警部が身体の向きを戻すと、藤林もちょうど電話を終えたところのようだった。
「本官は現場に向かわなければなりません」
「私はここに残ります」
 お互い、相手の受けた連絡が自分の受けたものと同じ内容だと、確認もしない内から確信して話を進めていたが、齟齬は生じていなかった。
「すみません! 何かあったら連絡して下さい!」
 頷く藤林にそれ以上言葉を掛ける(いとま)もなく、千葉警部は自分の車へ向かい飛ぶように走った。
 魔法を併用した全力疾走。
 ――彼の足は、ある面から見れば、速過ぎた。

◇◆◇◆◇◆◇

「状況は!?」
 通信を受けて三分後。
 既に現場へ向け急行中の車の中で、車載のフリーハンド通信機に向かい、怒鳴りつけるような口調で千葉警部は追加情報を求めた。
『管制ビルに突っ込んだ自爆車両は炎上中。
 追加の特攻はありません』
 警部より幾分落ち着いた口調の報告がスピーカーから返って来る。
 しかし単発だからといって、安心出来る内容ではなかった。
 ターゲットになっているのは出入港管制ビル。
 強固な構造材が爆発の熱と衝撃を撥ね返しビル自体に被害は無かったが、公務員であっても非戦闘員の職員を、テロが実行された中で働かせ続けることは出来ない。管制ビルの職員が退避中の時間、港湾警備隊への管制引継ぎが完了するまでの間、入港する船舶の監視に深刻な穴が生まれることになる。
文民(シビリアン)に拘り過ぎだ!)
 防衛軍や警察等の、制服組の勢力拡大(オーバープレゼンス)を嫌った政治家の抵抗で港湾管理、空港管理には一般の公務員が当てられているが、島国の港管理はそのまま国境警備なのだ。防衛軍に任せるのが嫌なら、せめて武装警察を当てるべきだと千葉警部を含め、千葉家は前々から主張していた。
 今回、懸念的中とならなければ良いが、と警部は考えていたが、意識の醒めた部分で、それが儚い願望でしかないと理解していた。
『停泊中の貨物船よりロケット弾が発射されました!
 歩兵用ランチャーを使用した模様です!』
 危うく操作を誤りかけたハンドルを慌てて切り返し、千葉はマイクに怒鳴った。
「船籍は!?」
『登録はオーストラリア船籍の貨物船!
 ですがこれは、形状から見て、機動部隊の揚陸艦と思われます!』
 登録は偽装という訳だ。
 入管も沿岸防衛も何をやっているんだ! と喚き散らしたい気持ちをグッと抑え、千葉警部は通信先を切り換えた。
「……親父か? 寿和だ。
 現在横浜山下埠頭にて国籍不明の偽装戦闘艦が侵攻中。
 国防軍に出動要請を頼む。
 それから、雷丸(イカヅチマル)大蛇丸(オロチマル)を至急届けさせてくれ。
 ……大蛇丸をどうするって? エリカに使わせるに決まってるじゃないか!」

◇◆◇◆◇◆◇

 時計の針は午後三時七分を指していた。
 突如会場内に届いた爆音と振動。
 それは独立魔装大隊の訓練中、何度も耳にし体験したもの。
 その経験から、情報体次元(イデア)にアクセスしなくても、それが正面出入口で生じたものだと達也には分かった。
「深雪!」
 ぶら下げていた荷物から手を離し、達也は彼にとって最も優先すべき者の名前を呼んだ。
「お兄様!」
 応えをステージ下に聞き、達也は二歩で――最初の一歩でステージの端まで跳び、次の一歩で勢いを調節して――妹の傍へ降り立った。
 二列目の関係者席にいたとはいえ、すぐに達也の元へ駆けつけようとした深雪の反応も素早いものだった。
「お兄様、これは一体」
 ぎこちない口調でそう訊ねる深雪。
 軽く惑乱気味ではあったが、パニックには至っていないようだ。
「正面出入口付近で擲弾(グレネード)が爆発したのだろう」
 一方の達也には、戸惑いも焦りも見られない。
 深雪と即座に合流できた今の状況は、彼にとって悪いものではなかった。
「グレネード!? 先輩方は大丈夫でしょうか」
「正面は協会が手配した正規の警備員が担当していたはずだ。
 実戦魔法師も警備に加わっている。
 通常の犯罪組織レベルなら問題ないはずだが……」
 達也はそう答えながらも、悪い予感がしていた。
 先程、藤林から渡されたデータカード。
 そこには外国の国家機関関与の可能性が記されていた。
 まるでその悪い予感を裏付けるように、今度は複数の銃声が聞こえた。
(フルオートじゃない……対魔法師用のハイパワーライフルか!)
 実戦魔法師の魔法には、銃器を無効化するものがある。
 例えば十文字家の多重障壁魔法は、その典型・最高峰の一つに挙げられる。
 二十一世紀末になっても歩兵の主武装(メイン・ウェポン)は銃器。故に銃弾を防ぐ魔法は地上戦において大きなアドバンテージをもたらすことになる。
 だが攻撃と防御は常にいたちごっこを演じて発展していくものであり、強力な防御手段に対してより強力な攻撃手段が開発されるものだ。
 魔法もまた例外ではなく、魔法もまた万能ではない。
 魔法の干渉力より運動体の慣性力が強ければ、魔法は失敗して減速も軌道変更も座標固定も全く効果を生じなくなる。
 物理的な楯ならば貫かれても威力を弱めることが出来るが、魔法は事象改変に失敗すれば最初から何もしなかったのと結果は同じ。
 魔法師の防御魔法を無効化する高い慣性力を生み出す高速銃弾。
 それが対魔法師用ハイパワーライフルの設計思想だ。
 だが実戦レベルにある魔法師の干渉力を無効化する弾速を得る為には、通常の銃器製造技術より二段階も三段階も上の高度技術が必要となる。
 小国の正規軍程度では手に入らない武器だ。
 私的な――国家の支援を受けていないという意味で――犯罪組織やテロリストのレベルで、手に入れられるものではない。
 達也は迷った。
 このホールは、籠城に向いているとは言えない。
 本来であれば、深雪を連れて控え室に避難すべきだ。
 だが客席にはまだ、エリカや美月が残っている。
 彼が責任を有する相手は深雪だけだが、彼も義務感だけで行動している訳ではない。
 別に守ってやらなくても大抵のことなら自力で切り抜ける力量があるはずだが、だからといって知らん顔をするには抵抗があった。
 しかし、幸いにしてか不幸にしてか、それ程長く悩む必要はなかった。
 荒々しい靴音と共に、アサルトライフルを構えた集団が客席に雪崩れ込んで来たのだ。
(だらしない……!)
 もしかしたら、とは思っていたが、それにしても突破されるのが早過ぎる。
 悲鳴が幾重にも木霊する中、達也は心の中で忌々しげに舌打ちした。
 最も素早い反応を見せたのはステージ上の三高生徒だった。
 プレゼンのテーマが対人攻撃に転用可能なものだったのか、舞台上に携行していたCADを操作し、侵入者に魔法を発動しようとする。
 銃声が、轟いた。
 三高の魔法が効果を現すより早く、銃弾がステージの後壁に食い込んだ。
 その弾の威力から見て、彼らが手にしているのは達也の予想通りハイパワーライフル。
「おとなしくしろっ」
 その怒声は、何処か辿々(たどたど)しさを感じさせた。
 外国人であるとしても、(密)入国したのはつい最近のことだろう。
 いずれにせよ、この連中が単なるチンピラでないことは確実だ。
 現代魔法はCADによる高速化で銃器と対等のスピードを手に入れた、と言っても、それはあくまで「対等」であり「魔法師の力量次第」なのであって、相手が既に銃を構えている状態では無闇に抵抗しないのがセオリーだ。
「デバイスを外して床に置け」
 侵入者は魔法師相手の戦闘に慣れている様子だった。
 もしかしたら彼らも魔法師なのかもしれない。
 ごく一部の強力な魔法師だけが、魔法だけで戦うというスタイルをとっているのであって、魔法師であっても銃を使う兵士は、寧ろ一般的な存在だ。
 ステージの上では吉祥寺を含めた三高の生徒たち――その中に将輝の姿はなかった――が、口惜しそうな顔でCADを床に置いている。
 勇敢と無謀は別物だ。
 三高生はそのことをキチンと教えられているらしい。
 彼らの対応を感心しながら見ていた達也だったが、生憎すぐに、他人事では済まなくなった。
 通路に立っていたのが偶々(たまたま)彼ら兄妹だけだった所為で、目についたのだろう。
「おい、オマエもだ」
 侵入者の一人が銃口を向けたまま慎重な足取りで近寄って来る。
 今の言葉が達也に掛けられたのは間違いない。と言うか、誤解のしようがない。
(ここまでかな……)
 達也は近づいてくるテロリストだかゲリラ兵だかを見ながら、心の中でそう呟いた。
「早くしろっ」
 苛立ちの混ざった怒声を浴びせられても、達也は動かない。
 抵抗を放棄したからと言って身の安全が保証されると考えるには、彼は少々捻くれ過ぎた教育を受けて育っている。
 達也は無言で、近づいてくる男を眺めた。
 いや、彼の視線は「観察していた」と表現した方が適切だった。
 彼の瞳には、恐怖も不安もない。
 ただ男の全身を、手に持つ突撃銃(アサルトライフル)、突きつけられたその銃口を含めて、観察している。
 自分に向けられた冷ややかな眼差しに、苛立ちと、そうと意識はしていなかっただろうが、正体不明の恐れを感じて、達也と相対するその男は、引き金に置いていた人差し指に力を入れた。
「おい、待て!」
 仲間の制止は聞こえていなかっただろう。
 銃声が轟き、悲鳴が続いた。
 三メートルの至近距離から明確な殺意を以て放たれた弾丸は、避けようの無い悲劇を連想させるに十分だった。
 だから余計に、人々の受けた衝撃は大きかった。
 胸の前で何かを掴み取ったように握り込まれた右手。
 達也に生じた変化は、ただそれだけだった。
 彼の身体からは一滴の血も流れていない。
 そして放たれたはずの銃弾は、壁にも床にも天井にも、どこにもその痕跡を残していない。
 男は引きつった顔で二発目、三発目の銃弾を放った。
 その都度、コマ落としのように達也の右手が位置を変えた。
 その手の動きが速すぎて、第三者には彼が何をしているのか見えていない。
 気がついたときには右手の位置が変わっており、その手は変わらず、何かを掴み取っているかの如く握り込まれている。
「……弾を、掴み取ったのか……?」
 誰かが呆然と呟いた。
「……一体、どうやって……?」
 誰かが呆然と、そう応じた。
「化け物め!」
 その男が銃を投げ捨てたのは、パニックによるものだ。
 魔法で銃弾を防ぎ止めるならともかく、手で掴み取るという非常識に直面して、銃が役に立たないと錯覚した結果だ。
 それでも戦意を失わず、大型の戦闘ナイフ(コンバット・ナイフ)を抜き放ち達也に斬りかかってきたことが、この男が高いレベルで訓練された兵士であると物語っている。
 しかしそれは、更なる驚愕を呼ぶ行為だった。
 襲い掛かってきた男に向けて逆に間合いを詰めた達也は、握り込んでいた手を開き手刀の形に変えて、ナイフを持つ腕に打ち込んだ。

 達也の手刀は、何の抵抗も受けず男の腕を斬り落とした。

「ぎゃっ」
 男の口から悲鳴が迸る――迸り掛けた。
 だが声が悲鳴に変わる前に、達也の左拳が男の鳩尾にめり込んだ。
 右腕の断面から一際勢いよく鮮血が溢れ、達也の服を汚す。
 それが男に出来た唯一の反撃(?)だった。
 足下に崩れ落ちた男に一瞥もくれず、達也は軽く後ろ向きに跳んで、再び深雪を背中に庇った。
 予想外の、想像もつかない光景に、観客も侵入者も等しく固まった。
 動きを止めただけでなく、思考までも止まっていた。
 ただ一人の例外を除いて。
「お兄様、血糊を落としますので、少しそのままでお願いします」
 静まり返ったホールに、深雪の小さな声は隅までとおった。
 動揺の欠片もない声。
 台詞を「埃を落とします」に変えても、何の違和感もない声音。
 その声を合図にして、止まっていた時間が動き出した。
「取り押さえろ!」
 舞台の両袖から自警団のメンバーが一斉に魔法を放った。
 回避の反応を見せた侵入者もいたが、九校から選抜された手練の魔法に、一人残らず抵抗を封じられた。

◇◆◇◆◇◆◇

 深雪の発動した魔法によって、達也の手と身体を汚していた血は綺麗に拭い取られた。(正確には皮膚と衣服から分離され水分が蒸発し固形分が飛散した)
 命の遣り取りをしたばかりだというのに、達也は眉一つ動かす様子がない。
 いや、「眉一つ動かさない」という表現は、この場合不正確か。
 彼の顔に動揺も興奮も見られなかったのは確かだが、血だまりの中に倒れ伏す男を見て眉を顰めたのだから。
 その僅かな表情の変化を見て取って、深雪が新たな魔法を発動した。
 切り落とされた右手と残された右腕の断面が凍結し、血だまりが乾燥して赤黒い粉に変わる。
 達也が振り返ると、深雪はニッコリ微笑んだ。
 出来過ぎの妹に、達也も無意識に笑みを浮かべた。
 深雪の瞳に、何故か(というのは達也の主観だ)動揺が走る。
 しかしその事を深くは考えず、達也は正面入り口に向けて歩き出した。
 そのすぐ後ろに深雪が続く。
 片腕となった男の横をすり抜ける時にも、兄妹は完全に無関心だった。
 そこへ、
「達也くん!」「達也!」
 同時に彼を呼ぶ、少女と少年の声。
 声が揃ってしまったことに、普段なら二人とも顔を顰めただろうが、今は流石にそんな余裕もないようだ。
 エリカとレオに続いて、幹比古、美月、ほのか、雫も達也と深雪を囲むように集まった。
「手は!? お怪我はありませんか!?」
 真っ先に駆け寄って来たのはエリカとレオだが、二人を押し退けるようにして顔を出したほのかが、焦った口調でそう訊いてきた。
 そう見えるように意識した演技だったので、ほのかが何を案じているのかすぐに分からない、ということは無い。
 実際には掌で掴み取ったのでは無論なく、銃弾の本体と運動ベクトルを「分解」して銃撃を無力化しただけだが、そんなこととは当然知らない友人に向かって、達也は「大丈夫」と言うように、右手を掲げ上げて二回、三回と閉じたり開いたりして見せた。
 それを見てほのかや美月は大きく胸を撫で下ろしていたが、幹比古や雫は「一体どうやって?」という眼差しを向けている。
 だが達也は、訊かれていないことまで答えるつもりは無い(訊かれたことなら何でも答える、という訳でもないが)。彼が答えたのは、この質問に対してだった。
「それにしても随分と大事になってるけど……これからどうするの?」
 嬉しそうだな、というツッコミが喉元まで出掛かったが、時間の浪費につながる可能性が大であった為、
「逃げ出すにしても追い出すにしても、まずは正面入り口の敵を片付けないとな」
 当面の方針を伝えるに止めた。
「待ってろ、なんて言わないよね?」
 目を輝かせたエリカに「やっぱり嬉しそうだな」と余程指摘してやりたかったが、実際には諦念を滲ませ首を振っただけだった。
「別行動して突撃されるよりマシか」
 それは本当に「マシ」というレベルの消極的な同意でしかなかった。
 だから、エリカやほのかばかりか、美月や雫まで喜色を顕したのを見て、達也は「勘弁してくれ……」と思わずにいられなかった。
 とはいえ、今はとにかく緊急事態。落ち込んでる暇などありはしない。
 達也は先頭に立って、足早に出入り口へ向かった。
「待って……チョッと待て、司波達也!」
 だが彼らを、混乱を隠せず、そして何処か必死な声が呼び止めた。
「一体何だ、吉祥寺真紅郎」
 愛想の欠片もない声で達也が訊き返す。
 しかし、不機嫌丸出しの口調に怯んだ様子もなく、おそらく怯むだけの精神的な余裕が無く、吉祥寺は達也の問い掛けに質問で応じた。
「今のは『分子ディバイダー』じゃないのか!?
 分子間結合分割魔法は、アメリカ軍魔法師部隊(スターズ)前隊長・ウィリアム=シリウス少佐が編み出した秘術。分子間結合力を弱める中和術式と違って、分割術式の方はアメリカ軍の機密術式のはずだ!
 それを何故使える!? 何故知ってるんだ!?」
「そんなことを言っている場合か」
 目を剥き出しに糾弾の語調で繰り出される詰問を、達也は呆れ声で斬り捨てた。
 ちなみに達也が使った魔法は「分子ディバイダー」と呼ばれるUSNA軍の機密魔法ではない。
 無論のこと、某架空拳法のように素手で人体を斬り裂いた訳でもない。
 銃弾を分解したのと同じように、右手を基点として相対距離ゼロで分解魔法を発動しただけだ。
 しかし彼の立場として、そんなことを説明できるはずがないし、今の状況として、そんなことを説明している場合でもない。
「七草先輩、中条先輩も、この場を早く離れた方が良いですよ。
 そいつらの最終的な目的が何であれ、第一の目的は優れた魔法技能を持つ生徒の殺傷または拉致でしょうから」
 様子を見に来たのだろう、ちょうど舞台袖から顔を出した真由美と、審査員として最前列に座っていたあずさにそう忠告を残して、達也はその場を後にした。

◇◆◇◆◇◆◇

 達也たちの姿が扉の向こう側へ消えた直後、一際激しい爆発音が会場を揺るがした。
 無秩序な叫び声と怒鳴り声が混沌と絡み合い、悲鳴とも怒号ともつかぬ唸りとなって、更に人々の神経を削る。
 ただそのカオスも、あずさのいる最前列の審査員席までは波及していない。
 まだ、届いていない。
 しかし、このままでは間違いなく多数の負傷者が発生するパニックへと発展する騒動を前に、あずさはどうしたらいいのか、何をしたらいいのか分からず座ったまま硬直していた。
「あーちゃん、あーちゃん……中条あずさ生徒会長!」
 そのあずさを、壇上から叱咤する声。
 あずさは慌てて立ち上がり、ステージを振り仰いだ。
 舞台の袖にいた真由美が、更にステージの前へ進み出て、あずさに視線と言葉を向けていた。
「このままだと本物のパニックになるわ。怪我人も大勢出ることになる。
 だから貴女の力で、みんなを鎮めて」
「えっ!?」
 真由美の言葉に、あずさの目が大きく見開かれた。
 意味が分からなかった、のではない。
「でも、あれは……」
 精神に干渉する魔法は、魔法の中でも特に厳しく規制されている。
 未成年の判断で軽々しく使用できるものではない。
「貴女の力は、こういう時の為のものでしょう?
 私の力でも摩利の力でも鈴音の力でもない、あずさ、今は貴女の力が必要なのよ」
 しかし、真由美は軽い気持ちで指図しているのではない。
 「リンちゃん」ではなく「鈴音」、「あーちゃん」ではなく「あずさ」。
 形式を整える為に「市原さん」や「中条さん」と呼ばれることは普通にあったが、真由美が彼女のことを名前で呼んだのは、過去に片手の指で数えられる程のこと。
 それだけで真由美が本気だということ、本気で彼女に情動干渉魔法「梓弓」の使用を求めているのだと、あずさには分かった。
「大丈夫。責任は私が取るから。
 七草の名前は伊達じゃないのよ」
 コミカルなウインクは、あずさをリラックスさせる為のもの。
 その程度は理解できる付き合いだ。
 しかし、その言葉に嘘も無いだろう。
 真由美一人に責任を押し付けるつもりも無かったが、そこまで言われて知らん顔は出来ない。
 あずさは力強く頷くと、身体を反転させ、所々で押し合い圧し合いに発展している客席を視界に収めた。
 首に掛けたチェーンを手繰り、襟元から小学生の手に隠れる程の大きさのロケットを引っ張り出す。留め具を外してチェーンから引き抜いたそれを、あずさは左手で握り込んだ。
 すーっと息を吸い込み、ロケットへサイオンを注ぎ込む。
 このロケットはCADの基幹部品のみを組み込んだ、唯一つの魔法の為の術式補助デバイス。
 一種類の起動式を記録し、一種類の起動式を出力する、ただそれだけの機能しか持たないが故に、ボタンもディスプレイも起動式の切り替えに必要な一切のシステムを省略し小型化した魔法の杖。

 ただ一人の為の杖が唯一つの魔法の為の呪文を紡ぎ出し、

 あずさだけが使える情動干渉魔法「梓弓」が発動した。

 ――澄んだ(つる)()が、最前列から最後列まで、会場を走り抜けた。
 それは幻聴。
 空気ではなく、無意識の海を伝わった音。
 思念子(サイオン)ではなく霊子(プシオン)を振るわせた波動。
 澄み切った響きは、淀み濁った水しかない沼地で一滴(ひとしずく)の雨に出会った旅人が次の雨粒を待って足を止め呆然と空を見上げる様に、次の響きを人々に渇望させ、意識を唯それだけに縫い止めた。
 最初の響きが完全に消えてしまったその時、次の響きが人々の無意識を振るわせる。
 人々は更に強く、次の響きを待つ。
 そうして何時しか人々は考えることを止め、ただ己の内側に耳を傾けていた。
 時間にすれば、僅かに三秒。
 それだけで、パニックは忘我に変わった。
「――私は第一高校前生徒会長、七草真由美です」
 考えることを止めていた観客たちの意識は、スピーカーで増幅された真由美の声に余すところ無く吸い寄せられた。
「現在、この街は侵略を受けています」
 全聴衆の意識を掌握した上で放たれた次の一言によって、呆然が、愕然に替わった。
「港に停泊中の偽装戦闘艦艇からロケット砲による攻撃が行われ、これに呼応して市中に潜伏していたゲリラ兵が蜂起した模様です」
 俄には信じ難い話だった。
 あずさも真由美から告げられたのでなければ、寧ろ信じなかっただろう。
 だが、本人の言うとおり、「七草」の名は伊達ではない。
 彼女はいち早く事実を知り得る立場にあり、いい加減な憶測を口に出来る立場ではない。
 どんなに信じ難い話であっても、これは事実なのだ。
「先程捕縛した暴漢も侵略軍の仲間でしょう。
 先程から聞こえている爆発音も、この会場に集まった魔法師と魔法技術を目当てとした襲撃の可能性が高いと思われます」
 一旦、言葉を切って、真由美は観客席を見渡した。
 聴衆は息を呑んで彼女の言葉を待っている。
「皆さんご存じのとおり、この会場は地下通路で駅のシェルターに繋がっています。
 シェルターには十分な収容力があるはずです。
 しかし、地下シェルターは災害と空襲に備えたものです。
 陸上兵力に対しては、必ずしも万全のものではありません。
 侵略軍は魔法師の部隊も投入していると推測されます。
 魔法の攻撃に対して、シェルターがどの程度持ちこたえられるか、楽観は出来ません」
 今、会場にいる人々のほとんどが、真由美のことを知っている。
 そのルックスと、競技実績が、彼女の名前の意味を人々に知らしめている。
 だからこそ彼女の語る悲観的な展望を「子供の言うこと」と笑い飛ばせる者は、誰一人としていなかった。
「だからといって、砲火の飛び交う街中から脱出を図るのはもっと危険かもしれません。
 しかし、最も危険なことは、この場に留まり続けることです」
 しん、と会場が静まり返る。
 真由美は無駄に間を取って時間を無駄にする愚は犯さなかった。
「各校の代表はすぐに生徒を集めて行動を開始してください!
 シェルターに避難するにしろ、この場を脱出するにしろ、一刻も無駄に出来ない状況です!」
 さっきとは異なる喧騒が会場に波及した。
 呼び合う声は、先程と異なり、一定の秩序を帯びていた。
「九校関係者以外の方々は、申し訳ございませんが、各々ご自身の判断で避難なさって下さい。
 残念ですが、私たちには皆さんの安全に責任を負うだけの力がありません」
 その薄情とも見える発言に、反発や糾弾の声は起こらなかった。
 この場に集う観客は、何らかの形で魔法に関わりのある者ばかり。
 普通よりも「非日常」に近い者ばかりだった。
「シェルターに避難されるなら、すぐに地下通路へ。
 脱出をお考えなら、沿岸防衛隊が瑞穂埠頭に輸送船を向かわせているという報告を受けています」
 真由美は一礼し、マイクを切って、再びあずさに語りかけた。
「あーちゃん、みんなのことは任せたわよ」
「えっ? 会長、じゃなくて、真由美さん?」
 目を丸くして問い返すあずさに、真由美は笑いながら頷いた。
「分かってるじゃない。
 あーちゃん、今の一高生徒会長は、貴女よ。
 大丈夫、貴女なら出来るわ。
 だって貴女は、この私が直々に鍛えてあげたんだもの」
 真由美はパチッとウインクすると、身体を翻して鈴音たちのいる控え室へ駆け戻って行った。


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