この物語はフィクションです。
この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
目の前に立った人影が達也の口許へ手を伸ばした。
それほど素早い動作ではない。
故に、その人影が何モノなのか、見極める余裕があった。
“彼女”の手は、達也の顔面に届く手前で止まった。
「空調システムに・異常が・発生しました。
マスクを・お使い下さい」
3H〔Humanoid Home Helper〕タイプP94・ピクシーの名を持つ少女型のロボットが、簡易防毒マスクを差し出しているのだった。
一見、伝統的な不織布の使い捨て防塵マスクだが、二酸化炭素分子より大きな分子を通さない(当然、酸素分子は通す)ゲル状フィルターを挟んだ高機能素材だ。粘着シールで縁を顔にピッタリくっつければ、フィルターが目詰まりして呼吸が難しくなるまでほぼ完全に有毒ガスを遮断する。
こんな物までよく持ってるな、と思いながら達也が素直にマスクをつけると、今度は目を閉じるよう言ってきた。
「角膜が・汚染される・虞があります。
手を引いて・外へ・誘導します」
言語ソフトに改良すべき面があったが、言いたいことは過不足無く分かる。
どうやら最新型3HであるP94には災害時対応までプログラムされているらしい。それとも、ロボ研が「育成」した成果だろうか。
睡眠ガスが目を傷つける種類のものではないことを達也は知っている。
にも関わらず、彼は言われた通り目を閉じた。
しかし、外へは向かわなかった。
「ピクシー、強制換気装置を作動。
避難時の二次災害を警戒し、俺はここに留まる。
監視モードで待機。
救助の為の入室に備え、排除行動は禁止する」
続け様に下された達也の命令を、P94は受け入れた。
「二次災害回避を・合理的と・認めます。
強制換気装置を・作動します」
空調システムとは別系統で設置されている災害時対応の強制換気システムが作動を始めた。
3Hの本分はホームオートメーションの音声対話型インターフェイス。
小型燃料電池を動力源とする二足直立のフレームは、力仕事に向いていない。
人型という制約から搭載できるセンサーにも限りがあり、余り高度な精密作業も出来ない。
単体で稼働する人間以上の労働力ではなく、人がストレス無くホームオートメーションを使用できるように作られた、音声を認識し人と同じように動くことができる、人と同じ外見を有するHARの遠隔制御端末。
それが3Hの開発コンセプトで、HARの手が届かない細かな部分のフォローが出来るようにと後付けされたスタンドアローンの家事機能は、本来付け足しに過ぎない。
ただその付け足しの部分がなまじ優秀な為に、HARのインターフェイスという本来の役割を忘れてしまいがちになるのだ。
他人事ではない。
達也も、今の今まで忘れていたのだから。
(便利過ぎるというのも善し悪しだな……)
負け惜しみか照れ隠しとしか思えない台詞を心の中で呟きながら、達也は睡眠ガスが排出されるのを待った。
3Hの機能を考えれば、空調システムの復旧も同時に行われているはずだ。
達也は端末の前に座り直し、目を閉じたまま身体の力を抜いた。
◇◆◇◆◇◆◇
待ち人はすぐにやって来た。
ガスが取り除かれた後も、目を閉じたまま神経を凝らしじっと座っていた達也は、誰かが足音を忍ばせて入ってきたのに即、気が付いた。
予めP94に入室チェックを行わないよう命じておいたのは、誰かがこっそり忍び込むことが出来るお膳立てだったのだから、達也としては来て貰わなければ期待外れだ。
「司波?」
聞き覚えのある上級生の声。
達也が眠っているかどうか確かめ、仮に起きていたら言い訳が出来るように、という配慮なのだろうが、彼がこのタイミングでこの部屋へ入ってきたこと自体が不自然なことなので、このアリバイ作りは中途半端と言えるだろう。
達也は無論、狸寝入りを決め込んだ。
「司波、眠っているのか?」
もう一度彼に声を掛け、応えがないことに満足したのか、侵入者は足音を忍ばせるのを止めてデモ機の脇へ移動した。
端末に見向きもしなかったのは、ロックが掛かっているのを見て早々に諦めたのか、それとも最初から直接データを吸い出すつもりだったのか。
達也が薄目で見ているとも知らず、監視モードのピクシーに映像を記録されているとも知らず、侵入者はサブモニター用のコネクタからハッキングツールを使って起動式のデータを吸い上げようと悪戦苦闘していた。
「関本さん、何をしているんですか」
そこへ不意に、出入り口から掛けられた声に、侵入者がビクッと身体を震わせ慌てて振り返った。
(あらら……)
達也が心の中でこう漏らしたのは、愉快な独り相撲が早くも幕引きとなったことを惜しんだからだが、当事者たち――中断させた方とさせられた方――は、そんな人の悪い娯楽など全く知ったことではなかっただろう。
「千代田、どうしてここに!?」
「どうして?
あたしがここに来たのは保安システムから空調システムの異常警報を受け取ったからですが、関本さんこそ、どうしてここへ来たんですか?
手に持っているそれは、何です?」
「バカな……警報は切ってあったはずだ……」
余程動揺しているのか、それとも極端に予想外の出来事に弱いのか、不用意過ぎる一言を漏らした関本を、花音は鋭く睨み付けた。
「そうですね。警報は自動ではなく手動で届きましたから」
警報を送ったのは達也ではなくピクシーだ。
機械が自分の判断で行ったことだから、これも「自動」の一種だが、それは花音の知るところではない。
それよりも――
「しかし、聞き捨てのならないことを言いましたね、今」
関本がうっかり自白した内容の方が、大切だった。
「警報を切った、とは、どういうことです?」
犯罪者が常に理性的で合理的な行動を取る、ということはない。
寧ろ犯罪行為中は過度の緊張から、普通ならあり得ない凡ミスをしでかしてしまうものだ。
だから何時間も何日も後から、事後的にしか動くことの出来ない捜査当局が犯人を特定できる手掛かりを得たり出来る訳だが、今、関本はまさに、犯罪者が陥る心理的陥穽に足を取られ無様に転倒しようとしていた。
「関本さん、この状況で黙っているというのは、自分が犯人だと自白しているようなものですよ」
花音の口調は十分に抑制が効いたもので、それが余計に、彼女の本気を感じさせる。
花音は見せ付けるように左腕を胸の前へ掲げた。
稼働状態にあるCAD。
起動式を即座に展開できるだけのサイオンが、既にチャージされている。
試合でもなく、訓練でもなく、悪ふざけでもない、百家本流・千代田一族直系の、本気の臨戦態勢――
「ハハッ、千代田、冗談がきついな。
僕が犯人? 一体何の犯人だって言うんだ?」
大袈裟な空笑いで、追求を誤魔化そうとする関本だが、大勢の同調者が背後に控えているならともかく、一対一でその様な手が通用するはずも無かった。
「エアコンに細工して睡眠ガスを流した犯人です。
産学スパイの現行犯でもありますね」
「失礼だぞ、千代田!
僕は事故によるデータ滅失を恐れてバックアップをとっていただけだ」
「ハッキングツールでバックアップですか?
あり得ないでしょう、そんなこと。
そうよね、司波君」
愕然と振り返った関本の視線の先では、両目を開いた達也の苦笑いがあった。
どうやら花音は、達也の狸寝入りを一目で見破ったようだ。
「バカな、ガスが効いていないのか……」
「彼は睡眠ガス程度で無力化されてくれるような、かわいいタマじゃありませんよ」
買い被りというには非好意的な花音の口調に、達也の苦笑は一層その色を濃くした。
「可愛げが無いのは事実ですからねぇ……他も概ね、委員長の仰るとおりですよ。
デモ機から直接バックアップをとるなんてあり得ません。
そんな必要もありませんしね」
デモ機の組み込みCADは起動式を記録し、展開するだけだ。内部で起動式を編集する機能は無い。
起動式の手直しは常に接続された電算機上で処理され、電算機内にバックアップがストックされる。
「関本さん、あんまりバカにしないで欲しいですね。
いくらあたしが技術に疎くても、そのくらいは知ってるんですよ」
不機嫌な顔で睨みつける花音を前に、関本は「くっ」と奥歯を噛み締めた。
それは反論(あるいは逃げ口上)が尽きた印であり、窮鼠が歯を剥く徴でもあった。
「関本勲、CADを外して、床に置きなさい」
花音の口調が変わった。
犯罪者に対する投降勧告。
それに対する関本の答えは、
「千代田っ!」
起動式の展開だった。
関本も二年生後半からとはいえ、風紀委員に選ばれていた猛者だ。
魔法の発動手順に淀みは無く、起動式の取り込みから魔法式の構築までそのスピードは九校戦代表選手と比べても遜色が無い。
しかし――
「……カッコつけ過ぎなんですよ、関本さんは」
関本の魔法は不発のまま、床を媒体とした花音の振動系魔法に意識を刈り取られていた。
魔法の発動に、魔法の名称を唱える必要は無い。
それと同じで、標的の名前を叫ぶ必要など全く無い。
現代魔法による戦闘は一瞬の勝負。
ただでさえCADの準備で花音が先んじていたのだ。
相手の名前を叫ぶ、等という無駄な動作を挿んで、関本が花音の先を取れるはずが無かった。
花音の呼び出しにより、風紀委員会と部活連から応援が駆けつけ、関本を生徒指導室(別名「取調室」)へ連行した。
その間、達也は一切、手出しも口出しもしなかった。
花音たち全員の退出を見送って、達也は待機状態のP94に声をかけた。
「ピクシー、監視モード解除。
監視命令時点から現在までの映像記録をメモリーキューブに記録した後、廃棄しろ」
「承知しました。
映像ファイルを・メモリーキューブに・移動します。
……移動完了。
マスターファイルを・完全削除・します」
花音にもその存在を知らせなかった証拠映像が記録されたメモリーキューブを上着のポケットにしまって、達也は再度、少女型ロボットに待機を命じた。
◇◆◇◆◇◆◇
達也は帰宅してすぐ、テレビフォンに向かった。
呼び出し先は、本日二度目の番号だ。
『もしもし』
二世紀にわたり生き残ってきた定型文句が、若い女性(少女ではない)の声で紡ぎ出された。
映像だけでなく音声の品質向上も顕著だが、微妙な曇りから移動体通信端末で電話を受けていることが分かる。
「司波です」
『あら、一日に二度も電話をくれるなんて珍しいわね』
明るい声で返された返事と共に、大手企業の若手女性秘書然とした、柔らかく微笑みながらも隙のないマスクが映し出された。
いつもはわざと地味に目立たない格好をしている彼女だが、こうして普通にメークし普通に着飾ると、平均以上に華のあるルックスをしていることが分かる。
「すみません、デートでしたか」
『フフッ』
夜の繁華街に相応しく着飾った藤林が、その装いに相応しい科を作って微笑んだ。
『残念ながら、仕事よ。
でもこんな時に限って、ナンパ君たちにモテちゃうのよねぇ。
いいオトコはいなかったから構わないんだけど。
あ~あ……どっかに達也クンみたいな格好良いオトコのコがいないかしらね』
何やらいつもと口調が違うのは、アルコールが入っているからに違いない。
無論、(カメラ越しであっても)面と向かって「飲んでますね」などと野暮ったいことを言う程、達也も命知らずではない。
「そうですか。
実はご相談したいことがあったんですが、明日にした方が良いですか?」
相手の冗談(と達也は確信している)を完全にスルーした台詞に、藤林はカメラの向こう側で、科を忘れた楽しそうな笑みを浮かべた。
『クールねぇ……まあ、それでこそ「最も自由なる者」の名を冠するに相応しいのでしょうけど』
「俺が『最も自由』だなんて皮肉が効き過ぎていますけどね……ところで」
『心配ご無用。ちょうど車の中だから』
情報漏洩の懸念を示そうとした達也に、先回りして藤林が答えた。
『だから、込み入った話でも大丈夫よ』
そして達也に、用件を話すよう促した。
「ありがとうございます」
遥あたりならマイペースを貫くことができる達也も、藤林を相手にしているとどうしても相手のリズムに引き込まれてしまう。
役者の違いに表情で白旗を挙げて見せて、達也は本題に入ることにした。
「実は今日、学校で強盗に遭いまして」
『強盗? 今朝相談してもらった件よね? 遂に実力行使?』
「ええ、睡眠ガスを使われました」
ディスプレイに映る藤林は、「あらあら」という感じに目を丸くしている。
「幸い、未遂に終わったんですが」
『ゴメンね。私たちが無理を押し付けてるから……』
「軍だけに義務付けられている訳ではありませんから」
藤林が申し訳なさそうな顔で頭を下げたのは、軍機指定により達也が魔法の使用を制限され、その為にしなくてもいい苦労を押し付けられていることに対する謝罪だ。
それは全くの事実であり、達也の言っていることの方が口実なのだが(四葉に手段を選ぶような良識は無い)、これは事有る毎に繰り返された、会話を円滑に進める為のセレモニーのような遣り取りだった。
謝った方も謝られた方も、全く本心ではないのである。
「その際に盗難未遂の現場を映像に記録しました」
『へぇ……どうやって?』
情報を盗み出そうと企てるなら、防犯カメラを切っておくくらい基本中の基本。また、それが出来なければ、最初から屋内で犯行に及ぼう等としないだろう。
「独立稼働が可能なロボットに記録させました」
『あっ、3Hね。そういう趣味があったんだ』
「違います。場所がロボット研究部の部室で、3Hはそこの備品です」
3Hはその精巧すぎる外見から、一部の特殊嗜好者ご用達という偏見も持たれている。
それを知っているから達也は「独立稼働が可能なロボット」と言葉を濁したのだが、藤林には通用しなかった。
「その映像を」
誤魔化したことでかえって痛くも無い腹を探られる気配を感じた達也は、強引に話の流れを本題に繋げた。
「お預けしますので、調べてもらえませんか」
『何が映っているのかしら』
ここで素直に応じるところが、藤林の性格の良さだろう。
当たり前の対応と言えば当たり前なのだが、良い悪いは相対的なもの。これを「性格が良い」と言わざるを得ないのが達也を取り巻く人間関係だ。
「窃盗未遂犯と、彼が使ったツールです。ハッキングを仕掛けられたCADのログも添付しておきます」
『なるほど。それで達也くんは、そろそろ狐を仕留めろと私に言っているのね』
「そんな偉そうな言い方をするつもりはありませんが、内容はその通りです」
『気にしなくていいわ』
少しも気にしている素振りの無い達也に、藤林はわざと力をこめた口調でそう応えた。
本当に良い性格である。
『隊長からもそろそろ片をつけるように言われているし、猟犬も頭数が揃ったところだから。
一両日中には捕まえるから、吉報を待っててね』
気負いも見せず、藤林はそう予告した。
達也は一言礼を述べ、それ以外に余計な台詞を口にせず、データを藤林の端末へ送った。
◇◆◇◆◇◆◇
自分の車で達也との電話を終えた藤林は、車外に追い出していた千葉警部を助手席へ招き入れた。
「すみません、千葉さん。プライベートな電話だったものですから」
「いえ、構いませんよ」
千葉警部の装いも、藤林に合わせた高級感のあるカジュアルスーツだ。警察官が安月給というのは今も昔も変わらない哀しむべき事実だが、彼の場合は実家絡みの警察公認副収入があるので懐は豊かなのである。
「それで、プライベートな情報提供者はどんなネタをくれたんですか?」
何処と無くいい加減で軽薄な雰囲気を崩さず、カクテルグラスを片手にしているような口調で訊ねた警部に、藤林は達也に向けたものと同種の、楽しそうな笑みを浮かべた。
話が早い相手は大歓迎だ。血の巡りが悪い相手にイライラしてしまう藤林にとって、千葉寿和の油断ならない機転は好ましいものだった。
「狐に利用された哀れな鼠と、鼠に貸し与えられた尻尾のスケッチです」
「……協力者とハッキングツールの映像ですか?」
流石に戸惑った表情で千葉警部が訊ねると、「よく出来ました」と言わんばかりの笑顔で藤林が頷いた。
「警部、狐狩りの最初の手順が何か、ご存知ですか?」
そして、冗談というには真剣な目つきで助手席に向けて問い掛ける。
「いえ……生憎、銃はからっきしで……ハンティングも機会が無くて」
話題の転換について行けず、スムーズな受け答えが出来なかった若い警部に、身分を隠したままのエリート少尉は笑みを消した真面目な顔で自らの問いの答えを告げた。
「狐狩りは、まず巣穴を見つけるところから始まります。
逃げ帰る巣穴を潰して、茂みに潜んだ狐を猟犬で追い立てるのです」
「……我々にアジトを探せと?」
「協力者となった高校生の映像をお渡しします。
街路カメラからその者の立ち回り先を調査して下さい。
一般には手に入らないハードウェアを持っていたからには、必ず生身の接触があったはずです」
捜査令状も無く街路カメラの映像をそのような目的に使用するのは、言うまでも無く違法捜査だ。
相手が未成年とあれば、そう簡単に令状が取れるはずも無い。
だが、千葉警部が指摘したのは、別の問題点だった。
「立ち回り先と言っても、いったいどの程度の期間を調べれば良いのですか?
人ひとりの行動範囲は、一ヶ月、二ヶ月となれば無数といっても過言ではありません。
その中から、怪しそうな相手を抽出するのは……」
「捜索地点は都内三十二箇所です。その内、過去一ヶ月間に協力者が立ち寄った場所をピックアップして下さい」
藤林の答えに、警部の顎が落ちた。
「……三十二箇所……
もうそこまで絞り込めていたんですか……」
「警部がご存じない、別の協力者のデータも有りましたから。
ここから先が大変、と思っていたところなんですが、ちょうど都合よく、新たな手掛かりが入手できました」
警部の瞳に、非難めいた色が浮かんだ。
「……別の協力者ですか? 何故そのことを」
「それは勿論、その協力者が女の子だからです」
澄ました口調の回答に、千葉警部は唖然とした。
「未来ある女の子を、警察のブラックリストに載せるなんて出来ませんから」
「……男だったら良いんですか?」
「自己責任です」
言い切った藤林の台詞に、警部は絶句した。
「私は父権主義なんですよ。殿方が女子より偉くなるのは当たり前だと思っています。
その分、殿方は己を強く律し、己が全ての行動に責任を持って頂きませんとね」
急に古めかしい表現を使って何だか都合の良いことを言い出した藤林を、千葉警部は短くない時間、マジマジと見詰めた。
◇◆◇◆◇◆◇
明けて、月曜日。
深雪が電車から出てくるのを待っていた達也は、停車したばかりの二つ後ろの車両にクラスメイトが同乗しているのを見つけた。
彼の視線に気づいたのだろう。
並んで座っている男女は、揃って「あっ」という形に口を開いている。
「お兄様、何か面白いものでも?」
上品な挙措でキャビネットから降りて来た深雪が、兄の表情を見てそう訊ね、兄の視線を辿って「まあ!」とばかり片手を口に当てた。
兄妹の視線の先、二つ後ろのキャビネットのフロントガラスの向こう側で、エリカとレオが、ぎこちない愛想笑いを浮かべていた。
駅から学校まで。
今日の通学路は四人連れだ。
朝は八人全員が揃う方が珍しいのだが、それでも四人というのは少ない方だろう。
それも当然と言えば当然だった。
「……なあ、何で今朝はこんなに早いんだ?」
不機嫌な声で、レオが訊ねる。
しかし、機嫌を害しているのは一方的にレオの都合であり、達也は八つ当たりと分かっていて畏れ入るような小心者ではない。
「いよいよ今週一週間だからな。朝から色々と予定が入っているんだ」
現在の時刻は、いつもより一時間以上早い。
「レオの方こそ、どうしてなんだ?」
達也には、次の日曜日に論文コンペを控えているという理由がある。
客観的に見て、達也よりもレオの方が、今ここに居ておかしな時間だと言える。
「エリカも今朝は随分早起きね?」
答えに詰まったレオに達也が追い討ちを掛けるより早く、今度は深雪がエリカに言葉の矢を射掛けた。
「……あたしは大抵、早起きだけど」
他意なんてありません、と爽やかに微笑んでいる深雪に、忌々しげな表情で短く答えを返すと、エリカは校舎へ向かう足を速めた。
「そう? じゃあ今朝は西城君が早起きだったのかしら」
しかし、独り言のように呟かれた台詞に、エリカの足がピタリと止まった。こんなことを言われてそのまま立ち去るのは、彼女には耐えられなかったのだ。
「チョッと深雪! まるであたしが毎朝コイツを起こしに行ってるみたいな言い方、止めてくれない!」
「そうだぜ! どっちかっつうと、俺の方が起きる時間は早かったんだ!」
だがエリカの反撃は、レオの薮蛇で台無しになってしまった。
「…………」
「…………」
「…………」
無言で睨み合うエリカ、達也、深雪(正確には、睨んでいるのはエリカだけで、達也と深雪は揃ってポーカーフェイスだった)。
「………えっ? ナニこの雰囲気?」
レオは一人だけ、(自分で引き起こした)状況が理解出来ていないようだ。
「……何で黙ってるのよ」
エリカの口調は強気だが、顔は赤らみ、表情は涙目になりかけている。
「……まあ……早起きは三文の得だよな」
ここで追い討ちを掛けられる程、達也も鬼畜ではなかった。
あるいは、話を逸らすことしかできない程度には、不器用だった。
兄の隣で困惑の笑みを浮かべている深雪と、尚も首を傾げているレオの姿は、ある意味で好対照だった。
◇◆◇◆◇◆◇
始業時間が近づいて達也が教室に戻ると、ヘソを曲げたエリカを美月が懸命に宥めているという一幕の真っ最中だった。
「あっ、達也」
すがりつく様に声を掛けてきたのは幹比古だ。
レオは後ろ向きに座ったいつものスタイルで、苦虫を噛み潰している。
美月が地雷を踏んで、幹比古が火を煽ったのだろう。
達也にはそれが、手に取るように分かった。
「エリカ、いい加減に機嫌を直せって」
そう言いながら達也は、そっぽを向いたエリカの頬に、手に持ったボトル缶を軽く触れさせた。
「あつっ!?」
鳩に豆鉄砲よろしく、エリカが跳び上がる。
「なにするのよ!」
「ほら」
いつもより五割増しくらい攻撃的になっているエリカの手の中に、達也はココアの缶を滑り込ませた。
「あつっ」
お手玉しながら同じ言葉(というか声)を異なる声音で発して、エリカは戸惑った目を達也に向ける。
「甘いものを飲むと気持ちが落ち着くそうだぞ?」
「……フン。こんなものじゃ誤魔化されないんだからね」
そう言いながらキャップを切って口をつけたエリカの頬が少し緩んでいるのを見て、達也は可笑しそうに目を細めた。
「……何よ」
それを見咎めたエリカが詰め寄る。
だがその語調は、まだまだ拗ねを含むものの、随分緩和されたものになっていた。
「新しい魔法を教える為に、千葉一門総掛かりでレオをしごいていたんだろ?
別に下衆な勘繰りはしちゃいないから、機嫌を直せよ」
これは単に、エリカのご機嫌をとるための台詞だったが、達也が期待した以上の効果があった。
達也に向けられたエリカの目の色が、純粋な驚きに塗り変わっていた。
「……もしかして達也くんって千里眼?」
「いや、遠隔視のスキルは無いが。
レオの気力が消耗していて、その反面、魔力が活性化しているようだったから」
ここで達也が魔力と言っているのは、魔法を発動する為のサイオン活性と事象改変干渉力を合わせたもののことだ。
サイオンの活性度は魔法式の構築速度、構築精度、構築規模に影響するが、それだけでは事象を改変することは出来ない。事象に付随する情報を上書きする力と合わせて、はじめて魔法として形を成す。
「いや、気力とか魔力とか、そんな当たり前みたいに言われても……ううん、今更か」
魔法師はサイオンを感じ取る感覚を有しているといっても、干渉力まで判別するには、それなりに熟練が必要となる。しかし、そろそろ達也の非常識ぶりに驚くのもエリカは飽きてきていた。――飽きた、で済まされるのもエリカならではだろうが。
「ところで達也、昨日は大変だったんだって?」
嵐がようやく通り過ぎた、と見て取ったのだろう。幹比古が幾分ホッとした表情で話し掛けて来た。
「昨日? ああ……随分と耳が早いな」
達也が少し間を取ったのは、とぼけた訳でももったいぶった訳でもない。
平河千秋のことも関本勲のことも、彼にとっては既に解決済みの事件だったので、「大変」という言葉とすぐに結びつかなかったのである。
藤林が「一両日中に決着」と請け負った以上、今日明日にも情報窃盗団が一網打尽になるのは、達也にとって既定事項、と言うより未来に起こる事実だ。
エレクトロン・ソーサリス――「電子の魔女」。
この二つ名は、電子、電波に干渉する魔法に長けている魔法師という意味の他に、情報ネットワークを手玉に取る悪魔的なハッカーの称号でもある。
彼女自身は、現実世界の事象改変より寧ろ情報ネットワークの改竄の方が得意だ、と言っている。
達也が時の流れに上書きされた過去の事象に付随していた情報を読み取ることが出来るように、藤林響子は上書きされ消去された磁気・光学ストレージのデータを再構築する特殊スキルを持っている。しかも達也と違って、時間制限無しだ。その代わり、物理的にストレージが除去されると遡及不能になるという限界はあるが、グローバルネットワークを構成する機器の、特定の情報を記録したストレージの全てが、一斉に廃棄されるということはあり得ない。
つまり彼女は電子情報ネットに一旦痕跡が刻まれたなら、事実上それを何処までも追いかけることが出来るということだ。
達也はネットワーク・チェイスのノウハウを藤林に教わっているが、この分野では彼女に生涯敵わないだろうと感じている。
彼女に匹敵するような電網追跡者は、世界に片手の指の数ほどもいないだろう、というのが達也の評価だった。
「まあ、二人も捕まったことだし、もう心配いらないと思うぞ」
だから達也は、幹比古にこう答えた。
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