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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第三章・横浜騒乱編
3-(9) 加速する事態

 今日は日曜日、なのだが、達也は学校へ行かなければならない。
 補習、ではない。
 本番まであと一週間、当然その準備があるのだった。
 しかし彼は今、学校へ向かうのとはまるで方向が違う道を、愛車の大型電動二輪で走っていた。(わざわざ「電動」と付けるのは、内燃機関の二輪車、四輪車も現役で走っているからだ)
 彼の腰には妹の細い手がしっかりと回され、彼の背中には妹の柔らかな胸がピッタリと貼り付いている。
 デート、ではなかった。
 単なるツーリング、でもない。
 二人の目的地はフォア・リーブス・テクノロジーCAD開発第三課のラボ。小百合の襲撃事件の後、なし崩しで預かっていたレリックのサンプルを、いつまでも自宅に置きっ放しでは流石に拙かろう、ということで返却に向かっているところだった。
 本社のラボに向かわないのは兄妹の意地みたいなもので、「本社へ返しに来い」「本社には行かない」の押し問答が繰り返された所為で――押し問答といってもメールの遣り取りだが――返却が延び延びになっていたのである。
 公共交通機関を使わなかったのは再度の襲撃を警戒したからだった。
 ラボまでの所要時間は、フルにとばしておよそ一時間。(公共交通機関を使うと大きく遠回りをすることになる)
 肉体的に鍛えている達也や普通に慣性制御を使える深雪にとって、本来ならば途中で休憩をとる程の距離ではないのだが、都市部を出たところで、達也は早朝営業の喫茶店にバイクを止めた。
 訝しむ深雪を促して店内に入り、窓際の席に腰を落ち着け、飲み物だけを注文して(朝食は家で摂ったばかりだ)、達也はようやく妹の疑問に答えた。
「尾行がついている」
 テーブルに両肘を突き、組み合わせた手の陰に口元を隠して、達也は小さな声でそう告げた。
「えっ!?」
 深雪は危ういところでボリュームのコントロールに成功した。
「気がつきませんでした……
 車ですか? それともわたしたちと同じバイクですか?」
 上半身を乗り出して、ヒソヒソと兄へ囁きかける。
 ウエイトレスが頬を赤らめ視線をこちらに固定したまま顔を背けた。つまり見ないフリをしているのだが、その理由を詮索している余裕は、深雪には無かった。(というか、そもそもそういう不審な振る舞いがあったことにも気づいていなかった)
「カラスだ」
 簡潔な達也の答えに、深雪は「はっ?」と目を見開き、僅かなタイムラグでその意味を覚った。
「……使い魔、ですか……?」
「ああ。それも、化成体だ」
 動物、鳥類に偽装した監視システムには鳥・動物型のロボットによるもの、鳥・動物に機械を埋め込んだもの、鳥・動物に古式魔法を掛けたもの、そして鳥型・動物型の化成体を利用したものがある。
 化成体とは、霊的エネルギーを実体化させたもの。
 実体化といってもそれは見かけ上だけのことで、サイオン粒子の塊を土台に、光の反射をコントロールする幻影魔法で姿を作り、物質に干渉する加重魔法・加速魔法・移動魔法、またはそれと同じ効果をもたらす力場で肉体を持っているよう見せ掛けるものだ。
 化成体の作成は一見、無駄な作業の様にも思われるが、術の作用媒体を作り出し可視化、可触化することで、術式の動作を変更するコマンドがイメージしやすいという利点がある。
「……国内の術者ではありませんね。一体、何処の魔法師でしょう?」
 化成体を使用する魔法は、古式魔法に限定される。「化成体」という名称は、現代魔法の研究者が古式魔法を分析する際につけたものだ。
 そして深雪の言うとおり、この国の古式魔法では、目に見える使い魔を使用することは、今では余り好まれない。古式魔法の術者が用いる使い魔も実体性を有しないものが主流、と言うかほとんど全てだ。
 コーヒーとミルクティーを運んで来たウエイトレスが去るのを待って、達也は口を開いた。
 その待っている時間が深雪を無言で見詰める形となった為、店員の誤解は益々膨れ上がったのだが、彼はそれに気づくほど敏感でもなければそれを気にするほど繊細でもなかった。
「正体までは判らないな。幹比古なら判別できたかもしれないが」
 達也は二人分のカップを脇にどけて、深雪の手を握った。
 声にならないどよめきが伝わって来て、ようやく自分たちがどんな目で見られているのか気づいたが、ここで恥ずかしがって手を引っ込めるのは負けのような気がするし、そもそも手を握ったのは必要あってのことだ。
 誤解されても仕方の無い表情を浮かべている妹に、達也は努めて真面目な表情で――野次馬に対しては完全に逆効果なのだが――囁きかけた。
「このままラボまで連れて行くのもよろしくない」
「…………」
「深雪?」
「えっ、あっ、はい、そうですね」
 尚も目を潤ませてボンヤリしている妹に、達也は何だか頭を抱えたくなったが、その衝動は気力で捻じ伏せた。
「化成体の座標はここだ」
 魔法を発動する際、魔法師は改変対象の座標を変数として魔法演算領域に送り込む。
 この変数は個々の魔法師が心の中で形成するイメージを記号化したものなので、通常、魔法師間で共有することは出来ないが、達也と深雪は四葉家の特殊な魔法技術(秘術と言っても良い)によって、サイオン信号化されたイメージを身体的な接触により遣り取り出来る仕様になっている。
「深雪、お前が撃ち落せ」
 短い命令。
 これには流石に、深雪の表情も引き締まったものへと戻った。
「……分かりました」
 短い逡巡の後、深雪は兄の言葉に頷いた。
 元より達也の命令に背く選択肢を深雪は持ち合わせていない。
 それでも躊躇いを覚えたのは、魔法狙撃が兄の得意分野であり、自分が兄ほど上手く狙撃できないという自覚があるからだった。
「この状況で俺の力を知られたくない。
 エミュレーターではCADを準備している間に逃げられてしまう。
 深雪、お前が頼りだ」
「はい!」
 深雪の顔に軽い興奮が満ちた。
 兄に頼られて、張り切らずにいられるはずが無かった。
 深雪は腕をそっと引き、両手をテーブルの下に隠して――その仕草が少女の恥ずかしがっている姿に見えて格好のカモフラージュになっていたのは、兄妹にとり皮肉なことだろう――密かに素早く、CADを取り出し操作した。
 彼女の魔法発動にタイムラグは存在しない。
 達也の「視力」は、使い魔の身体が瞬時に凍り付き、同時にその仮初めの身体を維持していた術式が凍結して、化成体を構成するサイオン粒子が散り散りに拡散していく様を捉えていた。

「どうも中途半端だな……」
「えっ、何がですか?」
 達也の呟きに、タンデムシートの深雪が問い返した。
 彼女の姿勢は相変わらず、兄の腰に手を回してしっかりしがみつき、胸と顔を背中に押し当てたスタイルだ。
 喫茶店で尾行の使い魔を見事に潰して、兄から好きなだけ褒めて貰った深雪はウキウキ気分で、近距離無線からデコードされた声も嬉しそうに弾んでいた。
 今の状況に照らし、客観的に見れば不謹慎な態度だが、今この場にそれを咎める者はいなかった。
「尾行があれ一つだけということがだよ。
 今日だけじゃない。
 家に仕掛けられたハッキングも一回()りだし、学校でも今のところ見つけてくれと言わんばかりに周りをチョロチョロしただけ。
 どうも、本気で何かを盗み出そうというには、遣り口が中途半端な気がする」
「お兄様のガードが堅いからではないのですか?」
 深雪の回答は何時ものブラコンフィルターが自動的に作用した、強い思い込みに基づく反射的なものだった。
 しかし何気なく返された深雪の答えが、今回の一連の事件の、本質の一端を捉えているように達也は感じた。

◇◆◇◆◇◆◇

 この朝、FLT本社の技術者から「キャプテン・シルバーとその一味」という蔑みだかやっかみだか判断がつきにくい通称で呼ばれている開発第三課のラボは、いつもと違う喧騒に包まれていた。
「――グズグズ悩む前にさっさと回線を切れっ!
 バックアップだ? そんなもん、出来てるとこまでで十分だろが!」
「十番台、切断完了しました。再接続に入ります」
「阿呆! 侵入が続いてるのに勝手に再接続するヤツがあるか!」
「よしっ、侵入経路、確定したぞ!」
「カウンタープログラムを起動します!」
 飛び交う怒号をオペレーションルームの入り口で聞いていて、何が起こっているのか達也は大体把握した。
「あっ、御曹司!」
 一分程そこに立っていて、ようやく牛山が彼ら兄妹に気づいた。
 他所ならいざ知らずこの場所で、達也が十秒以上放置されたのは初めてだ。
 つまりそれくらい、非常事態な訳である。
「スンマセン! おいでになってることに気付きませんで……
 おいっ! 御曹司がいらっしゃたのを知らせなかった間抜けは何処のどいつだ!」
 今までで一番大きな怒鳴り声を牛山は上げた。
 細身の身体に似合わぬ、割れ鐘のような大音声だ。
 その声に、室内で端末と格闘していた所員の半分が竦み上がった。
 その様を見て、達也の顔色が変わった。
「手を止めては駄目だ! モニターを続行!」
「は、ハイ!」
 牛山の声に劣らぬ迫力の叱咤を達也が放ち、それに応ずる声が返った。
 再び必死の形相で端末との格闘を再開した所員たちに安堵して達也が視線を戻すと、何故か牛山が恐縮していた。 
「ハッキングですか?」
 牛山の意識内でどういう思いが飛び交ったのか、正確なところは分からないが、それを話題にするのは達也にとって、それ以上に牛山にとって、愉快なことでは無いような気がした。
 達也が前置きを一切省いたのは、それを回避する為だった。
「はぁ、まあ……」
 牛山の返事は大層歯切れが悪かったが、達也の出しゃばりに腹を立てているという風でもない。
 一体どうしたのかと考えていると、然程待つことなく、牛山が説明を始めた。
「ハッキングはハッキングなんでしょうが……どうも様子が変でして。
 侵入技術自体はかなりのものなんですが、何を知りたいのかがさっぱりなんでさあ。
 特に対象を絞り込んでいる様子が無くてですね、全くの手当たり次第、っつう感じなんですよ」
「本物の興味本位(ハッカー)ということでしょうか」
「個人の仕業とは思えませんね。
 侵入の手口は、かなりの人数を組織的に運用しなきゃあ出来ないものです。
 相手が国家組織って言われても違和感はありませんな」
「組織的に、手当たり次第、ですか……」
 達也の中で、思考の歯車がカチッと噛み合った。
「不正アクセス、停止しました!」
「油断すんなよ! 今日は一日、今の監視体制を維持する!
 ……っと、失礼しました。
 それで、今日は一体どんなご用件なんです?」
 達也はサンプル返却の件を、経緯を含めて説明しながら、最近身の回りで起こっている一連の情報盗難未遂事件を意識の別領域で整理していた。

◇◆◇◆◇◆◇

 日曜日ではあるが、学校へ行く以上、私服のままという訳にも行かない。
 普通科高校(文科高校と理科高校を合わせた総称)の中には私服登校も可、という所もあるが、それは普通科高校の中ですら少数派だ。
 魔法科高校は授業の有無に関わらず、登校時には制服着用。
 達也たち兄妹は着替えの為に一旦、家へ戻った。
 と、自宅の電話にメッセージが入っていた。
 非転送設定のメッセージだ。
 携帯端末への転送を制限する設定は、他人に覗き見されるリスクを防止する為のもの。
 つまりこの設定がされているということは、送り主がそのメッセージを守秘性が高いものと考えているということを意味している。
「お兄様、どうなさいました?」
 一足遅れて着替えを終えた深雪が、電話機の前で立ち止まっている達也へ歩み寄って来た。
 そのままディスプレイを覗き込む。
「伝言ですか?
 どなたからです……って、平河先輩!?」
 深雪は当然、未遂に終わった妨害工作事件の顛末を知っている。
 その話を聞いた時、平河姉妹に一切同情的な素振りを見せなかったのが印象的だった。
「折り返し電話が欲しいそうだ」
 メッセージの内容で答えると、深雪が何か言ってくる前に達也は返信ボタンを押した。
 コールは一回で、つながった。
『もしもし、司波君?
 ごめんなさい、わざわざ電話して貰って……』
 平河小春は九校戦代表チームの中でも、達也に対して最初から友好的な方だった。
 対立を好まず常に自分以外の人間に気を遣っている、あずさとは種類の異なる「気の弱さ」が目立つ少女だ。
 しかしその気の弱さは、見る目が変われば「優しさ」や「包容力」と評価されるもの。
 寧ろそういう見方をする者の方が多いかもしれない。
「いえ、こちらこそ遅くなりまして。少し家を空けていたものですから」
 現在時刻は、普通に学校に通うにはやや遅い時間だ。
 休日だから家にいても不思議はないが、平河は達也の電話をずっと待っていたのだろう。
 ワンコールで応答があったことも、それを裏付けていた。
 映像はオフにしてある。
 テレビ電話が普及したと言っても、それは技術上の変化。
 無頓着に家の中を他人の視線に曝す程、部屋着姿を誰にでも躊躇いなく見せる程、人の情緒は変化していない。
 専用の電話室を作っている家もあるが、リビングに電話を置いている家庭は相手先番号通知で映像のオン・オフを切り替えるのが多数派だ。
 暗い画面に平河の顔は映っていない。
『ううん、あたしの方が電話してってお願いしたんだから……』
 だがその声を聞くだけで、彼女が暗い顔で俯いているのが分かった。
『この前は、その……妹が迷惑掛けてごめんなさい』
 いや、暗い顔、ではなく、蒼い顔、かもしれない。
「未遂です。結局何もされていませんので、気にしないで下さい。
 俺も気にしていません」
 これは相手のことを気遣った台詞ではない。
 達也の、全くの本心だった。
『でも、色々と騒がせちゃったし……
 ただでさえ司波君にはいきなり代役なんて迷惑掛けてるのに……
 あたしが不甲斐ないばかりに、あの子がとんでもない考え違いをして。
 大事な時期に気持ちを乱すような真似をしただけで、もう未遂なんて言えないわ。
 あたしには謝ることしか出来ないけど……本当にごめんなさい』
 繋がっていないカメラの向こう側で、深々と頭を下げているに違いない。
 そんなイメージが自然と浮かぶ声だった。
 しかし達也の本音は「謝って貰ってもなぁ……」というものだった。
 彼は謝罪など望んでいなかったし、グダグダと自虐の言葉を聞かされても寧ろ鬱陶しいだけだった。
 彼は千秋のしたこと、正確には「しようとした」ことなど、本心から気にしていない。
 何とも、思っていない。
「分かりました。平河先輩に免じて、全て水に流します」
 だからこの電話を早く終わらせたい一心で、心にもない慰め(?)をかけた。
『……ありがとう。司波君ならそう言ってくれると思っていたわ』
 この台詞が達也の本音を見抜いた上でのものなら、大したものだ。
 しかしおそらくは、都合のいい、大きな誤解に基づくものだろう。
「いえ……それでは」
『あっ、待って』
 平河の気が済んだとみて電話を切ろうとした達也だったが、少し早計だったようだ。
「何でしょうか」
 彼は色んな意味で暇ではない。
 暇が無い、と言った方が適切かもしれない。
 達也は声に不機嫌が滲み出ないよう、注意しなければならなかった。
『えっと、こんなことでお詫びになるとは思わないし』
 またか、と達也は思った。
 無限ループに付き合わさせられるのは心底勘弁して欲しかった。
『司波君の役に立つかどうかも分からないんだけど』
 しかし幸い、今回は杞憂だった。
『千秋が窃盗団とコンタクトしていたログを見つけたの。
 あの子のプライベートデータも含まれてるんだけど……司波君に預けます。
 司波君の自由にして下さい。
 えっと、忙しい中、本当にごめんなさい。話を聞いてくれてありがとう。それじゃ』
 電話がプツッと切れた。
 達也の応えを待たずに。
「いくら姉妹の間でも、ハッキングは犯罪ですよ……」
 隔離ボックスに振り分けたログファイルのアイコンを見ながら、達也は平河に言うつもりだった台詞を呟いた。
「お兄様、どうなさいました?」
 達也の独り言を聞き付けたのだろう。
 少し心配そうな顔で、深雪が戻って来た。
「さて、どうしようか」
 微妙に噛み合っていない答えを返しながら、達也は平河の意図について考えを巡らせた。
 彼女はお詫びの代わりに、と言った。
 直接そう言った訳ではないが、あの言い方は他に解釈のしようが無い。
 しかし本音が別にあることも、ほとんど確実だ。
 平河が妹の通信ログをハッキングしたのは、妹を悪の道に引きずり込んだ輩を何とかしたかったのだろう。
 しかし、彼女の手には負えなかった。
 そこで達也に情報をリークすることで、自分の代わりに報復して欲しかったのだ、と達也は推理を纏めた。
(悪知恵が働くと言うべきか……)
 女の狡さ、というフレーズを思い浮かべるには、人生経験が不足していた。
 しかし同時に、そういう「狡さ」を忌避する程、彼は純粋でもなかった。
「……まあいいさ。使える物は使わせて貰おう」
 不得要領な表情を浮かべながら彼を見ている深雪をそのままに、達也は別の番号をプッシュした。
 既に放棄されたであろうアクセスポイントのログファイルだけを手掛かりに、ネットワークの中で狐を狩り出す自信は彼にも無かった。
 だが、それが可能な人物の心当たりはあった。

◇◆◇◆◇◆◇

 二人が学校に到着するのと同時に、雨が降り出した。
 二十一世紀末になっても、天気予報の的中率は九十パーセントに至っていない。
 まあ、百パーセント的中する天気予報の実現は、天候制御技術が完成するか、地球環境が死に絶えて天候の変動が完全に無くなるかのどちらかしか無い訳だから、的中率八十パーセント以上というのは満足すべき値なのかもしれない。
 残念ながら、雨に降られた身としては、気休めにしかならないが。
 幸い濡れたのはほんの少しだ。
 そして深雪は校内でCADの常時携行を許された生徒会役員。(常時携行を許されているのは達也も、だが)
 濡れた服は深雪の魔法で、たちどころに、何の痕跡も残さず乾いた。
 しかし――
「この雨では、野外作業は無理ですね……」
「こればっかりは、仕方ないね」
 眉目を曇らせた深雪に、達也は肩を竦めて見せた。
 ここまで準備は順調に進んでいる。
 屋内での作業となれば少々手狭感はあるが、それでも間に合わなくなるということはないはずだ。
 もっとも彼自身に限って言えば、今日は最初からロボ研のガレージでデバック作業の予定だ。
「じゃあ、行ってくる」
「はい。頑張ってください、お兄様」
 生徒会室で仕事が待っている深雪は、名残惜しそうに達也と別れた。

◇◆◇◆◇◆◇

 ロボ研は「ロボット研究部」の略だ。
 ガレージは彼らが大小様々のロボットや機械式パワードスーツを製作したりテストしたりする小さな実験棟。
 そこには機体制御用の大型計算機も据え付けられており、(論文コンペ)準備期間中は起動式のデバック、術式シミュレーションに提供されている。
 プレゼンの中心になるプラズマ核融合のデモ機は、計算機に接続済みだ。
 そしてこのセッティングを手伝ってくれたロボ研の部員は、既に別の機械の組み立てで出払っている。
(少し遅すぎたかな……?)
 今、ガレージにいる人間は達也一人。
 いくら始業時間の無い休日だからといって、これでは重役出勤過ぎるか、と達也は苦笑いを浮かべた。
「お帰りなさいませ」
 ガレージにいる「人間」は彼一人だが、彼の入室から一拍遅れて、彼を出迎えた「人影」があった。
 黒を基調とした膝下十センチのバルーンスリーブワンピースにフリルのついた白いエプロン。
 白のストッキングに黒のローファー。
 頭にはこれまたフリルのついたホワイトブリム(頭飾り)。
(良い趣味してるよ、全く……)
「1-E、司波達也」
 苦笑を浮かべたまま、達也は短く名乗った。
 出迎えた「少女」が半秒ほど直立姿勢で動きを止め、その後、深々と腰を折った。
 動きを止めたのは声紋認証に要した時間。
 顔認証と声紋認証により、達也はようやくこの部屋のセキュリティをパスしたことになる。
「コーヒーをご用意・いたします」
 少しぎこちない口調と少しぎこちない動作。
 だがその「ずれ」は、注意して観察しなければ気にならない程度。
 彼女の名前は「3HタイプP94(3Hパーソナルユース九十四年型)」。
 ロボ研では型番を縮めて「ピクシー」と呼ばれている。
 ロボット研究部に所属するHumanoid Home Helper、3Hと呼ばれる人型家事手伝いロボット。
 それがこの「少女」の正体だった。
 どうも、当代のロボ研三年生にHARの大手メーカーの関係者がいるらしく、AI改良目的のモニター用に貸し出されているのだ。
 通常3Hの外見は二十代後半の女性に設定されているが、この個体は校内で違和感を少なくするという目的から十代後半の外見に設定されている。
 確かに、一高の制服を着せて教室に紛れ込ませても、黙って座っている限り「無表情な女子生徒」で通りそうだ。その上に「クールビューティーな」という形容詞を付けることも可だろう。
 ――その拘りも、メイド服を着せている時点で台無しだが。
 この「メイドロボ」の出迎えには達也も流石に驚きを禁じ得なかったが、最近では慣れたものだった。
 コンソールデスクの前に座り、端末を立ち上げたところで、サイドテーブルにコトリ、と小さな音を立ててコーヒーカップが置かれた。
(マニュピレーターの制御ソフトに改良の余地があるな……)
 チラッとそんなことを考えながら、達也はカップに手を伸ばした。
 一口含んで、まあまあだな、と頷く。
 最新の3Hであるピクシーには自動カスタマイズ機能があり、顔認証システムで識別したユーザーの嗜好を五十人分まで学習することができる。
 達也が何も言わない内に、彼の好みに合わせたコーヒーが出てきたのはこの機能によるものだ。
「ピクシー、サスペンドモードで待機」
 背後に控える3Hに達也はそう命じた。
 ロボットと分かっていても、ここまで人間そっくりに作られている物が背後に立っていると落ち着かないからだ。
「かしこまりました」
 こういう定型文句の発声はスムーズだ。
 P94は機械であることを感じさせない滑らかな動作で一礼して、入り口脇の椅子へ向かった。
 腰を下ろし、背筋をピンと伸ばす。
 そして、そのまま微動だにしなくなった。
 3Hの動力はダイレクトメタノール燃料電池。
 メタノールを自律的に補給する――具体的には口から飲む――機能があるので、ユーザーが燃料切れを意識する必要は余り無い。
 だが、燃料を無駄に使う必要も全く無いのであり、立っているだけでも電力を消耗するので(二本の足で立つということはそれだけ高度な運動なのだ)、用が無い時はこうして座らせておくのだ。
 達也はぐるっと首を回して(特に意味はない)、キーボードに指を置いた。
 軽快な打鍵音が奏でられる。
 達也は左手をキーボードから離し、真珠色のパネルに置いた。
 これは、デモ機に組み込まれた大型CADと術者が交信する為のインターフェイス。
 このパネルを通じて術者は起動式の形成に必要なサイオンを送り込み、起動式を組込CADから受け取る。
 右手のキー入力でCADをワンステップずつ作動させ、左手で一工程ずつ形成された起動式を受け取り、魔法式に変換して送り出す(但し魔法式の送信は、物理的接触を通じて行うものではない)。
 彼が行っているのは魔法式の動作シュミレーション。
 通常の手順は、ワンステップごとに分解された魔法式を全て未発の段階で解除し、事象改変の反動の兆候を観測して意図したとおりの効果が得られているかどうかを検証する。
 彼も表面上はその手順をなぞっていたが、実際には魔法式の動作状況を直接観察しながらチェックを進めていた。
 彼の魔法開発効率が異常に高いのはこの裏技のお陰であり、魔法開発者としてはズルをしているとも言える――が、そんなことを気にするほど彼は正直者ではなかった。
 肉眼でディスプレイを見詰め、心眼で情報体次元を見詰める。
 そのまま、およそ一時間が経過した。
 ふと、彼は身体に不調を感じた。
 突然睡魔が襲ってきたのだ。
(根を詰めすぎたかな……)
 外で一休みするか、と考えて、達也は立ち上がろうとした、が――
 手足が重い。
 身体が覚醒しない。
 それなりの訓練を受けた者なら、肉体的な睡眠欲求を意思の力でコントロールすることは可能だ。
 何日も徹夜続き、というような状況なら話は別だが、彼にはそんな不規則な生活をした覚えがなかった。
 脳裏を危険信号が貫いた。
 自分の体調は明らかに、不自然に、異常だ。

 〔身体機能 異常低下〕

 眠る、という状態そのものは、戦闘能力を損なうものではない。
 だが自分の意思で覚醒できない、強制的な睡眠は、戦闘を阻害する要因。

 〔自己修復術式:半自動(セミオート)スタート〕

 自己修復能力が、修復の必要を認め、

 〔魔法式:ロード〕
 〔コア・エイドス・データ:バックアップよりリード〕

 活動を開始する。

 〔修復:開始……完了〕

 彼の身体は、瞬時に「眠気に囚われる前の状態」に戻った。
 しかしまだ、問題は解決していない。
 ラボに向かう途中の喫茶店以降、今日は飲み食いしていないから、薬物を盛られたとしたらガスしかない。
 空調システムに細工をされたのだろう。
 実際に「視て」、毒性が低く持続時間も短い代わりに即効性が強い睡眠ガスが、この部屋の空気中に混入していることを確認した。
 しかし、そこから先が手詰まりだった。
 彼の「分解」でガスを無害化することは簡単だ。
 しかし校内の至るところで魔法を観測する機器が稼働している今の状況で、この広いガレージの室内空間全部を対象とする「分解」を発動すれば、秘密にしなければならない彼の魔法がばれてしまうこと請け合いである。
 深雪やほのかや雫なら、有害ガスだけを選別して室外に排出することも可能だろうが、彼には少しばかりハードルが高い技術だった。
 とにかく、息を止めているにも限界がある。
 今、彼に出来るのは、この場から逃げ出すことだけだ。
 デモ機はこのままでも問題ない。
 計算機をロックして、達也は出入り口へと振り返った。
 だが――その前に、華奢な人影が立ち塞がっていた。

 ピクシーはPCゲームによく出て来る人型少女ロボットではなく、株式会社ココロさんのアクトロイドにインスパイアされました。
 動作面は産業技術総合研究所のHRP-4Cが随分人間に近いところまで再現していると聞きます。本当に「メイド・ロボ」が実現する日も遠くないかもしれませんね。


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