この物語はフィクションです。
この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
昼食時の学生食堂。
その様相は魔法科高校だからといって、文科高校や理科高校と変わるものではなく、中学校ともそれほど差異は無い。(上流階級子女の教育を目的とした教養一貫校ならば趣も異なるかもしれない)
無秩序なざわめきが重なり合って一つの喧噪を作り出している。
しかしそのカオス空間の一部が、突如として一つの秩序を帯びた。
一瞬、シンと静まり返り、それが指向性を持つさざめきに変わる。
広い学生食堂の、ほんの一エリアとはいえ、場の雰囲気を変えてしまう影響力――あるいは支配力――を振るったのは、最近ますますその美貌に磨きが掛かった(迫力が増した、と言う者も少なくない)深雪だった。
すれ違い行き過ぎる人々の注視を例外なく浴びながら、表面上は全く気にした様子を見せずに、深雪は真っ直ぐ迷い無く、達也の待つテーブルへ向かった。
「お兄様、お待たせしました」
律儀にお辞儀する深雪に、達也は笑って手を振った。
達也たちが席取りをして、深雪たちが後から合流する、というのは、実を言えば決まったパターンではない。この逆も普通に見られるのであって、大体六・四くらいの割合だ。
しかし、深雪が達也の居る所に来ない、というパターンはほとんど無い。
「あっ、深雪さん。来てたんですか」
「今来たところよ、美月」
そこへ、食べる物を取りに行っていた美月と幹比古がやって来た。
「じゃあ、行ってくる」
腰を下ろした美月たちと入れ替わりに達也は立ち上がり、「行こうか」と目で促す。
三人の美少女を引き連れて配膳台へ向かう達也に、先程まで深雪が浴びていた眼差しとは全く種類の異なる視線が突き刺さった。
配膳台から戻って来た四人(達也、深雪、ほのか、雫)を迎えたのは、美月と幹比古の二人だけだった。
「エリカと西城君はまだ履修中なんですか?」
姿の見えない二人について、ほのかが何気ない口調で訊ねた。
それほど本気で気にしている訳でもなかった。
彼らの場合、昼食時はいつも全員が揃っている、というものでもなく、例えばここ数日は達也が舞台装置作り(正確にはそのプログラム調整)に忙しくて学食には顔を見せないという状態が続いていた。(深雪は当然の様に達也にくっついていた)
ある意味時間にルーズな現代の授業システムで、生徒によって終わりの時間がバラバラになるというのは寧ろ普通に見られること。
ほのかの質問は「今日はいい天気ですね」に近い、単なる会話のきっかけを探るものだった――のだが。
「ああ、あの二人、今日は多分休みだよ」
達也の回答に、ほのかの目がキラリ、と光った。
「えっ、二人一緒にですか?」
「二人揃って」
達也はほのかが何を誤解(?)したのか、彼女の期待に満ちた眼差しを見てすぐに理解した。
その上で、人の悪い笑みを浮かべながら、あえて少し言い回しを変え、勿体ぶって頷いた。
「意外……でもないかな?」
雫が小首を傾げ、独り言じみた呟きを漏らす。
口調は淡々としたものだが、目付きは興味津々だ。
「えっ、そうなんですか!?」
「美月、貴女がわたしたちに訊いてどうするの」
目を丸くして尋ねる美月に、深雪が苦笑しながら反論した。
美月は二人のクラスメイトで深雪たちはそうではないのだから、深雪の言い分は当然だった。
「あうっ、そうですね……」
困惑した美月は助け船を求めて目線を泳がせ、
「っと……」「…………」「…………」「…………」
「えっ? いや、特にそんな素振りは無かったと思うけど……」
女子四人の目が申し合わせたように幹比古へと集まり、幹比古は慌て気味に答えを返した。
「そういえば、昨日は二人で帰っていたな」
そこへ達也が再度燃料を投下。
わっ、とか、きゃっ、とかはしゃいでいる友人たちを横目に、深雪は少し生暖かい目を兄へ向けた。
もしかしてストレスが溜まっているんですか? と視線で問われて、達也はさり気なくそっぽを向いた。
「でもエリカちゃんとレオ君、本当にどうして休んだんでしょう?」
「そうだよね。あの二人に限って、急病ってこともないだろうし……」
全員のトレーから食べるものが片付き食後のお茶に移ったところで、一旦は沈静化したに見えた「二人が一緒に休んでいる」疑惑が再燃した。
「それは言い過ぎだ、と言いたいところだが……同感だな。昨日まで、体調を崩している様子は特に見られなかったし」
幹比古と達也は揃って「病欠ではない」という結論の模様。
「もちろん、偶然という可能性もあるわけですけど……」
「偶然じゃない、という可能性もあるよ」
「それはそうだけど……」
可能性を可能性で返されて、ほのかは話し掛ける相手を達也から雫へ変えた。
「そもそも『偶然じゃない』というイベントが起こり得る仲なのかしら、あの二人?」
「起こっても不思議じゃないと思う、けど……」
「えっ、あのっ、私もそう思います」
雫に「どう思う?」と目を向けられた美月は、慌てながら同意を示した。
「でも、仮に二人が今一緒にいるとして……一体何をしているのかしら?」
小首を傾げながら深雪が呟く、と、美月と幹比古が時間差で顔を赤らめた。
「……二人とも、何を想像したの?」
「い、いえ、その、何でもありません」
「そっ、そうなの! 何でもないの!」
「……まあいいけど」
お揃いで分かりやすい反応を示した二人にやれやれとため息を吐いて、深雪は兄へ目を向けた。
「そうだね……仮定の上に想像を重ねた、何の根拠もない意見だけど……案外、レオがエリカにしごかれてるんじゃないかな」
これは冗談だよ、と念押しするようにウインクして見せた達也に、
「フフッ、ありそうですね、それ」
と、深雪は顔をほころばせた。
◇◆◇◆◇◆◇
達也のスキルに「千里眼」は含まれていない。
しかし、それと似たことは出来る。
魔法が物理的距離によって直接的には左右されないのと同様に、イデア(情報体次元)を認識する知覚力にも物理的距離は直接の障碍とならない。
情報の海の中で対象を特定できれば、どれだけ物理的に離れていても「視る」ことが出来る。
例えば高々倍率の天体望遠鏡で月を見て、月面着陸船(の残存物)を識別できれば、その月面着陸船の状態を把握することが可能だ。(実際にはそんな高解像度の光学望遠鏡など存在しないが)
しかし今この時は、エリカたちのやっていることをこっそり覗き見していた訳ではなく、全くの偶然だった。
「こらっ! また皺が寄ってる!」
エリカが叱り付けた相手は、彼女の足元で頭を押さえて蹲っていた。
「~~ってぇな……
何度も言ってんだろ!
手を出すより先に口を出せ! 何の為の言葉だよ!」
「アンタが口で言っても分からないからじゃない」
「殴ったら分かるとでも思ってんのかよ……」
レオの抗議は尻すぼみに勢いを失い、そのままフェードアウトした。
今は教わっている立場で強くは出られない、という事情も無論あったが、それ以上に何度繰り返しても上手く出来ない自分に不甲斐無さを感じていたのだった。
「まあ……それもそうね。一休みしよっか」
だがエリカはレオのことを不甲斐無いとは思っていなかった。
新しい技を習得することの難しさは、多分、彼女の方が良く知っている。
「はい」
「お、おう」
板張りの床に胡坐をかいたレオへ、冷え過ぎていないコップを差し出し、エリカはその前に正座した。
「マントの時は上手く出来たのにね……
やっぱり、勝手が違う?」
この台詞、エリカに他意は無かったが、レオは嫌そうに顔を顰めた。
「……九校戦のアレか?」
戦果はともかく、レオにとっては外見的に忘れたい記憶であるようだ。
しかし、教わっている技に関係があることも明白なので、忘れたふりは出来ない。
「あん時は、アイロン掛けたみたいに真っ平に伸ばしてた訳じゃねえよ。
多少細かい皺があっても盾としての役割に支障は無かったからな。
生地自体にも、展伸を補助する術式が組み込まれていたし」
エリカは正座したまま、顎に指を当てて首を傾げた。
「フーン……
補助術式はこっちにも組み込まれてるはずなんだけど……やっぱし、達也くんに相談してみるのが早いかな……」
「いや、止めとけ」
エリカの漏らした独り言に、レオは首を振った。
「今回、達也の手を煩わすのは本末転倒だぜ。
術式が組まれてる、ってんなら、オレがそれを発動させれば良いだけの事だ」
「……オトコノコだね」
エリカが「フフッ」と含み笑いを溢した。
その笑顔が妙に艶っぽくて、レオは噛み付くことも出来ず目を逸らした。
◇◆◇◆◇◆◇
今日は土曜日、だが、学校は休みではない。
魔法科高校は週休二日制を採用していない。
今日もしっかり(実習込みで)授業があるというのに、達也は今朝も八雲の寺を訪れていた。
しかも今日は、深雪も同行している。
実は八雲から「遠当て」用の練武場を改装したので試してみないか、と誘われたのである。
魔法射撃を実弾で練習できる場所は少ない。
特に学校の練習場を使えない(学校で「雲散霧消」を披露する訳にはいかないからだ)達也にとっては、わざわざ土浦まで行かなくても、身近な所で射撃の練習が出来るのはありがたいことだった。
深雪は兄と違って能力を隠さなければならないという事情は無いのだが、クラブに所属している生徒程には練習場を自由に使えない。
それに元々、彼女の得意とする魔法は、点の標的を狙撃するより面を塗り替える性質のものが多い。その所為で普段から射撃練習に余り時間を割かないので、「これは良い機会だ」と達也が引っ張ってきたのだ。
寺の射撃練習場は、本堂の地下に広がっていた。
「――きゃっ! このっ!」
流石に、と言うべきか、忍術使いの秘密修行場は、学校の施設とは一味違っていた。
持ち前の負けん気を発揮している深雪が、こめかみから汗を滴らせ、息を荒げている。
何度か転んだはずみで、アップに纏めていた髪が所々解れていた。
正方形の広いフロア。
その壁四面のうち三面と天井に開いた無数の穴から次々と標的が現れる。(四面全てでないのは、敵の真ん中に孤立するというシチュエーションが寧ろ非現実的な想定で、実戦ではそうなる前に逃げるべきだ、という理由らしい)
しかもターゲットは同時に何十と出現し、一秒で隠れる設定になっている。
それだけならまだ狙いをつけるのに忙しいだけだが、撃ち漏らした的の数に応じて模擬弾が降って来るから始末に悪いのだ。
ムザムザと模擬弾を喰らう深雪ではなく撃ち込まれた弾は全て魔法でブロックしているが、射撃と防御を同時にこなして足元が疎かになり転倒する、というパターンをさっきから何度か繰り返していた。
「はいっ、止め!」
八雲の合図と共に訓練装置が停止し、深雪は思わずへたりこんでしまった。
「お疲れ様」
「あ、お兄様……申し訳ありません」
達也にタオルを差し出されて、深雪は恐縮しながら手を伸ばした。
達也はそのままタオルを手渡す代わりに、反対側の手で妹の手を掴み、その華奢な身体を軽く引っ張り上げた。
「あっ……
ありがとうございます」
「怪我は無いようだね」
薄手のトレーニングシャツと膝上のスパッツに包まれた妹の肢体をざっと見回して、達也は息を弾ませている深雪に笑い掛けた。
深雪の顔が赤く上気しているのは、激しい運動の所為ばかりではなかったが、果たして達也はそれに気づいただろうか?
その答えが示されることはなかった。
妹の「大丈夫です」という返事に短く頷いただけで、達也はフロアの中央へ進んだ。
素っ気ない態度だが、深雪に不満の色は無い。
遊びに来ているのではないのだ。
達也が深雪の事を過剰に気に掛けるようなら、彼女が自ら兄を窘めただろう。
無論、そんな事は起こらないのだが。
達也はスタスタと歩きながら愛用のCADを胸の前に掲げた。
肘を曲げたままの、待機ポジション。
深雪がフロアから退くや否や、何の合図も無しにいきなり訓練メニューがスタートした。
三面の壁にボール状のターゲットが出現する。
その全てが同時に砂と化す。
達也は正面に右手を突き出した射撃姿勢だ。
引き金を引いたのは――CADのスイッチを押したのは一度だけ。
それで十二の標的が分解魔法に撃ち抜かれた。
一息つく間も無く、今度は壁と天井を使ってターゲットが示される。
その数は二十四。
達也は正面の一つに照準を合わせることすらせず、CADを固定したまま引き金を引いた。
落ちてくる合成樹脂の粉末を避けて身を翻す。
ターンしながら右手を真上に突き上げ
引き金を引き絞る。
崩れ去る球体の隙間を埋めるように、次々と小球面が顔を見せる。
引き金が引かれる頻度が、二連続、三連続へと増えて行く。
しかし標的のストックが尽きるまで、遂にペナルティの模擬弾が発射されることは無かった。
「お兄様、すごいです!」
装置が止まり、CADを下ろした達也へ、深雪が飛び付くように駆け寄った。
「やれやれ、完全クリアとはねぇ……
これでもまだ難度が足りないか」
その後ろから、八雲が呆れ顔で歩み寄る。
達也は深雪に笑顔で応えてから、少し苦い顔になって八雲へ向き直った。
「俺の得意分野ですからね、これは……
それでも結構ギリギリでしたが。
人の意識の隙間を突くような、あの性格の悪いアルゴリズムは誰が組んだんですか?」
「制御式は風間君に貰ったんだが」
「なるほど、真田さんですか……」
人当たりの良い笑顔の裏側に独立魔装大隊でも一、二を競う腹黒い素顔を持つ技術士官の顔を思い浮かべて、達也は低く呻った。
それを見て「してやったり」とばかり表情を緩めた八雲の姿を隠すように、深雪が二人の間に割り込む。
「それにしてもお兄様、いつの間に同時照準を三十六まで増やされたのですか?」
しかしそれは兄を気遣って、というだけでなく、寧ろ自分の昂奮をぶつけたいという欲求の方が大きな比重を占めての行為だった。
「三ヶ月前は二十四が上限だったと思いますが」
深雪が言っているのは、同時に狙いをつけて同時に魔法を行使できる対象の数のことだ。
特化型CADは銃の形をしているが、銃口から魔法が飛び出して行く訳ではない。汎用型には銃口に似たものすらついていない。
系統魔法の正体は事象が有する情報の書き換えであり、魔力の弾丸で対象を撃つものではないから、対象を特定さえ出来れば同時に複数の事象に対して同じ効果を及ぼすことが出来る。
ただその為には、同時に複数の座標を定義するという並列思考が要求される。
自然界には似た事象でも全く同じものは存在しないので、標的となる事象同士の細かな差異も認識できなければならない。
対象数が一桁までなら訓練次第で大抵誰にでも習得可能な技術だが、それ以上になると魔法とはまた別種の才能がものを言う世界で、対象を一つ増やすだけでもかなり難しいとされている。
深雪が目をキラキラ輝かせているのも、あながちブラコンのフィルターが掛かっている所為とばかりは言えなかった。
しかし達也は、笑いながら首を左右に振った。
「いや、今回は相手が撃ち返してこない、って言うか、撃ち返すのを待ってくれる設定だったからね。
待った無しの実戦なら、今でも二十四が精々だよ」
「ご謙遜なさらないで下さい。
それを言うなら、わたしなんか撃ち返すのを待ってくれる設定の訓練でも同時に十六しか照準できません。
やっぱり、お兄様はすごいんです」
「こらこら、煽てたって何も出ないぞ。
お前は俺より広いエリアに魔法を作用させられるんだし、常駐で俺に心を配りながらそれだけ出来るんだから、制御面だって本当は俺より上だろう?」
「それを仰るんだったら、お兄様だって本当は、わたしよりもずっと強く、ずっと深い階層まで干渉することが可能ではありませんか」
謎かけのような二人の会話に、八雲が苦笑しながら割って入った。
「コラコラ二人とも、壁に耳あり、だよ?」
二人はしまった、という表情で顔を見合わせ、似たような照れ笑いを浮かべた。
◇◆◇◆◇◆◇
論文コンペ本番まで、あと一週間と一日。
プレゼンテーションのバックアップは全校一丸という表現が誇張でない体制となっていた。
デモ用の装置を作る者、舞台上の演出をプランする者、客席の効果的な応援を指導する者、移動手段や弁当の類を手配する者……
九校戦では出番の無かったインドア派の生徒たちもその才を存分に発揮している。
一方、体育会系の生徒たちも、自分たちの役割を着実に果たす為、準備に余念が無かった。
普通に考えれば準備など必要ないはずの大物が率先して、万が一のトラブルに備えた訓練に汗を流していた。
学校に隣接する丘を改造して作られた野外演習場。
魔法科高校は軍や警察の予備校ではないが、その方面へ進む者も多い為、屋内屋外、多様な用途に応じたこの様な施設が充実している。
その人工的な森林の中で、幹比古は息を殺して訓練相手の上級生を窺い見ていた。
彼は木陰に身を潜め、相手は林間に開けた空き地にその姿を曝している。
堂々と、という形容そのままの姿が、目を向けられている訳でもないのに、幹比古にプレッシャーを与える。
彼が相手をしているのは、部活連前会頭・十文字克人。
今回の論文コンペでは、九校が共同で組織する会場自警団の第一高校代表にして会場自警団総代表を務めることになっている。
他校の代表と会合を持つ傍ら、こうして自ら訓練の先頭に立つことで、警備要員に抜擢された生徒たちの士気を高めているのだった。
幹比古がその練習相手に選ばれたのは、九校戦の活躍を見留められたからだ。
もっとも、克人の相手を務めているのは幹比古一人ではない。
開始当初は十対一だった。
それが開始三十分で既に七名もリタイアしている。
幹比古の方から何度か遠隔攻撃を仕掛けただけで、一度も攻撃を受けていないにも関らず、彼は汗びっしょりになっていた。
それも、冷や汗で。
(……早まったかな)
練習相手の話が来た時には、危うく小躍りするところだった。
一年生の、しかも二科生、何の魔法競技系クラブにも属していないとあれば、十文字家次期当主の練習相手など、こちらから頼んでも本来ならば実現は難しいところだ。
幹比古は話を持って来た沢木に、一も二もなく頷いた、というか勢い良く一礼した。
到底敵う相手ではないと分かっていたから、精一杯闘って良い勉強をさせてもらう、というつもりだった。
だが――
(落ち着け、僕。これは模擬戦なんだ)
克人はちゃんと手加減をしている。リタイアした七人も大きな怪我は負っていない。
しかしそれでも、それにも関らず、このプレッシャーは本物だ。
気がつかないうちに幹比古の息が荒くなっていた。
息を吸い息を吐くその音量が、何時の間にか可聴域まで上昇した。
すぐに気づいて、慌てて息を止める。
音が漏れたのはほんの二息、三息のはずだ。
室内でも一メートルも離れれば聞こえなくなる程度のボリュームだったはずだ。
それなのに、克人の視線は、幹比古が隠れている木の方へ正確に向けられた。
新たな冷や汗が背中を伝う。
息を呑んだまま止まってしまった呼吸を無理矢理再開させて、幹比古は聴覚と触覚に精神を集中した。
魔法的な探査を行う度胸は無かった。
隠れ場所がばれていると分かっていても、こちらから居場所を曝す度胸が持てない。
顔を覗かせるなど以ての外だ。
耳を澄ませて空気の流れをキャッチする。
片膝を突いたそのズボンの生地を通して、地面を伝わる微かな振動を感じ取る。
それだけでは足りなかった。
目は気流の乱れがもたらす僅かな屈折の変化を読み取り、
鼻と舌は空気に紛れた化学物質の比率の変化を嗅ぎ分け味わう。
幹比古は五感を総動員して、第六感がもたらす曖昧な情報を確かなデータへと再構築していく。
克人は一歩一歩、急ぐでもなく警戒し過ぎるでもなく着実な足取りで、幹比古の方へと近づいている。
(……三、二、一、今だ!)
心の中でカウントを取って、幹比古は右手を地面に押し付けた。
地中を通した導火線を伝って、サイオンが呪陣へ送り込まれる。
この木の陰に隠れる前に設置した条件発動型魔法が、トリガーとなる術者のサイオン波動を受けてその効果を表した。
克人を取り囲むように四つの土柱が噴き上がる。
その柱は正確に東南、西南、西北、東北、即ち地、人、天、鬼の四門を頂点とする正方形に配置されていた。
次の瞬間、克人の立つ地面が擂鉢状に勢い良く陥没した。
古式魔法「土遁陥穽」。
自分が土煙に紛れ、地中に隠れる術ではなく、敵に土砂を浴びせ穴に落とし、目くらましと足止めをして逃走の時間を確保する術式だ。
レベルが低い相手ならそのまま動きを封じて捕まえることも出来るが、十文字克人を相手にして時間稼ぎ以上の成果を得られると楽観する程、幹比古は己の技量に自惚れていない。
発動した術の成果を確かめる間も惜しんで、幹比古はその場から全力で逃げ出した。
その判断は、的確だった。
土煙が晴れた後には、円形に押し潰された穴と、円環上に降り積もった土砂と、土埃一つ浴びていない克人の姿がある。
彼の防壁魔法は、土を媒体とした攻撃を完全にシャットアウトしていた。
とは言うものの、視界を塞がれまんまと逃げられてしまったのも事実。
克人はニヤリと笑って、防壁の反発力で僅かに浮き上がっていた空中から、地上へ足を踏み出した。
魔法による模擬戦時には、事故防止と事故発生時の救護活動を目的として、屋内・屋外を問わずモニター要員がつくことになっている。
「へぇ……」
そのモニター画面を見ながら、摩利が感嘆を漏らした。
一年生でありながらここまで生き残っているというだけで、幹比古の技量は賞賛に値する。
彼の技能が一科生・二科生という枠に関係なく優秀なものだということは、九校戦でも確認できている。
しかしこうして、実際に戦っているところを改めて目の当たりにすると、その特異な魔法技術以上に運用の巧みが際立っている。
「達也くんとはまた違った種類の『上手さ』があるわね。
今年の一年生は面白い子が多いわ」
真由美にそう話し掛けられて、摩利は皮肉げに唇を吊り上げた。
「どちらかというと二科生の方に見所のあるヤツが多いのは皮肉な話だな」
その言葉に、真由美は窘めるような苦笑いを浮かべた。
「それは違うわよ、摩利。
総合力で勝っている子は、やっぱり一科生の方が多いわ。
今年は個性的な能力を持つ子が目立っているから、そういう印象を受けるだけよ」
真由美の指摘に思い当たる節があったのだろう。
摩利は「なるほど」と頷いて、再びモニターへ目を戻した。
「……しかしコイツが他の一年生に比べて『使える』ヤツであることは間違いない。
良い意味で類が友を呼んだかな」
「九校戦を経験して吉田君は急激に伸びた、って先生方も仰ってたわね。
こういう良い影響はどんどん広がって欲しいんだけど……」
「アイツは余り、リーダーシップを取るというタイプじゃないからなぁ」
「どちらかって言うと、敵を作りまくるタイプだものね」
摩利と真由美が二人して苦笑している隣では、行き止まりに追い詰められた幹比古が必死の抵抗を繰り広げる姿を、看視システムのモニターが映し出していた。
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