この物語はフィクションです。
この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
レオとエリカに挟まれた男は、腕を高く上げて頭部をガードする構えを見せた。
と、思いきや、クルリとレオの方へ体の向きを変え、左腕を直角に曲げて腹の高さまで下ろす。
「フーン……ヒットマン・スタイルってヤツか?
武器くらい持ってると思ったんだけどな……」
「バカ、出さないからって持ってないとは限らないのよ!」
すかさずエリカが飛ばしたアドバイス(?)に、男は舌打ちを漏らした。
それ以上、焦った様子は見せなかった。
見せる時間が無かった。
情けなく悲鳴を上げた中年男が、精悍なファイターと化してレオに急迫したのだ。
低い位置から腕をしならせ、鞭の様なパンチをレオに浴びせ掛ける。
顔の前から弾丸のような拳撃がレオ目掛けて打ち込まれる。
その滑らかで途切れることの無い連続攻撃は、この男が羊ではなく狼であることを雄弁に物語っている。
だが、レオもエリカもその事に意外感は抱かない。
エリカは修練によって身につけた洞察力で、レオは生まれ持った直感力で、この男の正体は狼、否、高度に訓練された狩猟犬だと見抜いていた。
驚嘆すべきはその速さ。
その威力。
そして何より、人間の身体能力を超える速度を発揮しながら、魔法を使用している形跡が皆無であるということ。
十秒に満たぬ時間で何十発というパンチが繰り出され、反撃を許す間もなくガードする両腕を左右に揺らす。
そして遂にレオのガードを潜り抜けた拳撃がその顔面を捉えた。
パン、というゴム風船が割れたような音がして、レオの身体が後方に弾け飛ぶ。
その戦果を確認する間も惜しんで、男はクルリと踵を返した。
振り返った時には既に、回転力を利用して、スローイングダガーをエリカへ向かって投げつけていた。
カンッ、と乾いた金属音がした。
エリカが警棒でダガーを払ったのだ。
内側から外側へ警棒が振られ、正面の防御に穴が開く。
すかさず左のパンチがエリカの顔面に伸び、
男の拳速を超えるスピードで翻った警棒を避けて、途中で引き戻された。
拳を引くだけでなく、男は身体ごと大きく後方に跳び退った。
その直後。
「ガッ!」
背中にカウンターのショルダータックルを喰らって、男は俯せに路面へ激突した。
「……おー痛て。
コイツ、ただの人間じゃないな。
機械仕掛けって感触でもないし……ケミカル強化か?」
背後から体当たりをかましたレオが、殴られた顎を撫でながら路上へ油断の無い視線を向けて呟くと、
「……そう言うアンタも普通じゃないわね。今の、まともに殴られてたでしょ」
呻きながら手をついて身体を起こそうとする男よりも、味方であるはずのレオの方に警戒心を向けてエリカが応えた。
「そりゃ、少なくとも四分の一は研究所がルーツの魔法師だからな。自分の遺伝子が百パーセント天然モノだって強弁するつもりはねえよ」
エリカの鋭い眼差しに苦笑で応えながら、レオは四つんばいになった男の胴体を容赦なく蹴り上げた。
「グホッ!」
「大人しくしてなよ。命まで取ろうってんじゃないんだ。
オレたちはただ、話を聞きたいだけなのさ」
堅気とは思えない荒っぽさに呆れ顔のエリカを横目に、レオは片足を路面から持ち上げた。
その意思表示は明らかだ。
「……待て……分かった、降参だ……
元々私は……君たちの敵じゃない……
こんなことで踏み潰されたのでは……割に合わない……」
「よく言うぜ。
アンタの攻撃、オレとコイツじゃなかったら死んでるぜ?」
「それは君も……同じだろう……」
返事の所々で咳き込みながら、男が身体を起こした。
「私のように肉体を強化していなければ、今の蹴りで内臓が破裂しているぞ」
ようやくダメージが薄れてきたのか、路上に座り込んだままではあったが、男の語り口が滑らかになってきた。
「強化されてると思わなきゃ、あんな真似はしねえよ」
レオの口調には、悪びれというものが皆無だった。
「それより敵じゃないってんなら、手短に説明頼むぜ。
いつまでも結界を張らせとく訳にはいかねーからな」
「いいだろう。人目を引くのは、私も本意ではない」
男は観念したように大きく息を吐いた。
「じゃあまずは自己紹介をして貰おうか。
どうせオレたちの名前は知ってんだろ」
「ジロー・マーシャルだ」
レオの質問にイエスともノーとも答えず、ただ本名か偽名か分からない名前だけを男は告げた。
「詳しい身分は言えないが、いかなる国の政府機関にも所属していない、とだけ言っておく」
「つまりイリーガルってことね」
エリカの断定に、男はこれまた、イエスともノーとも答えなかった。
「……それで? どうせ本当は何処の誰だか、訊いても喋らないんだろうから、何が目的でどういう状況になっているのか聞かせろよ」
「私の仕事は、魔法科高校生徒を経由して先端魔法技術が東側に盗み出されないよう監視し、軍事的な脅威となり得る高度技術が東側へ漏洩した場合はこれに対処することだ」
ウンザリした顔でレオが促すと、ジローと名乗った男は事務的な口調でこう告げた。
東側、というのは前々回の大戦後に使われた用語で、USNAの諜報関係者と軍事関係者が今でも好んで使用している、という程度のことはレオもエリカも知っていた。
しかしその事が即、この男がUSNAの関係者だという証拠にはならない。所属を韜晦する為に、わざとローカルな用語を使っているのかもしれないのだ。
「アンタの雇い主は少なくとも、この国の関係者じゃないんだろ?
何でわざわざそんな手間暇掛けるんだよ?」
信用できない、という感想を言外に込めながらレオが問うと、男は「ヤレヤレ……」という感じに首を振った。
「この国の平和ボケは治ったと思っていたが、ティーンエイジャーにまでそれを求めるのは酷か……
世界の軍事バランスは、一国の問題ではない。
この国の実用技術が東側に渡ることで、西側の優位が損なわれることにもなりかねないのだ。
これまで魔法式そのものの改良に重点を置いていた新ソ連、現代魔法の開発より前近代の魔法の復元に力を注いできた中華連合も、ここに来てエレクトロニクスを利用した魔法工学技術の軍事利用へと急速に傾斜してきている。
この国だけではなく、USNAでも西ヨーロッパ諸国でも魔法工学技術をターゲットにしたスパイが急増しているのだ」
「平和ボケって、何十年の話をしてるのよ」
上からの目線が気に入らないのか、エリカがそう毒づいたが、男の言っていること自体に反論はしなかった。
「そういう訳で、私は君達の敵ではないし、私と君達の間に利害の対立もない」
男は道路から立ち上がると、大袈裟に埃を払う仕草をした。
嫌みなくらい――実際、嫌みも三十パーセントくらいはあったかもしれない――丁寧にズボンの裾を手で払っていた男が再度身体を起こした時。
その手には、掌に隠れる程の拳銃が握られていて、銃口はしっかりとエリカに固定されていた。
「っ!」
「てめぇ!」
「さっきこれを使わなかったのが、敵ではない証拠だ」
「……単に銃の使用が拙かっただけでしょう。色々と手掛かりが残るから」
男はニヤリと笑った。
「それもある。
さて、必要なことは話したと思うが?
では、これにて退散させていただこう。
結界を解くよう、お仲間に言っては貰えないか?」
口調と態度は軽くても、構えに隙はない。
術を使ってその様子を見ていたのだろう。
エリカとレオの二人が何も答えないうちに、幹比古の張った結界は解除された。
「――ではこれにて失礼。
ああそうだ。最後に一つ、助言をさせて貰おうか。
身の回りに気をつけるよう、お仲間に伝えておいてくれ給え。
学校の中だからといって、安心はしないように、と」
そう言って、男はジャケットの内側から小さな缶を取りだした。
蓋に付いたボタンを押し込み、三人が作る三角形の、ちょうど真ん中に放り投げる。
エリカとレオが、同時に後方へ跳び退った。
小さな爆発音と共に、白い濃密な煙が一気に広がる。
目を閉じ口元を抑えていた二人がどうやら毒ではないようだと判断して目を開けた時には、ジロー・マーシャルと名乗った男の姿は影も形もなくなっていた。
◇◆◇◆◇◆◇
待ち合わせをしていた学食でエリカが難しい顔をしているのを見て、深雪は少し、意外に思った。
「エリカ、まだ昨日のことを気にしているの?」
USNA情報部の非合法工作員らしき男に最後の最後で出し抜かれたことを、その後駅に着いても、エリカはとても悔しがっていた。口には出さなかったが、態度で丸判りだったのだ。
いつも悪ふざけの笑顔で本音を隠している様なところのある彼女には珍しいストレートさだったのだが、それを翌日まで引きずっているというのは更に珍しかった。
深雪の問い掛けに対するエリカの回答は、半分肯定で半分否定だった。
「まんまと逃げられたことを気にしているんじゃないよ」
まんまと、などという修辞を付けるところに素直じゃない本心が透けて見えるが、確かにそれだけではないようだ。
「アイツが言ってたことが気になってさ……
学校の中だからといって安心は出来ない、って、まさか生徒に……」
四月の一件に深く関わっていなかった幹比古やほのかには分からなかったようだが、達也と深雪には何がエリカの心に引っ掛かっているのかすぐに思い当たった。
あの時は紗耶香が、テロリストの仮面を被った外国の工作員に利用されていた。
紗耶香はその事を、今でも完全には吹っ切れていない。
「ああいう後味の悪いことを繰り返すのは俺も御免被りたいけどな……」
それを知り、それを理解している達也は、エリカの気持ちを斟酌してか、心にもない台詞を吐いた。
「しかし、まだ何もされていないのに探し出して取っ捕まえるわけにも行かないだろう?」
「それはそうなんだけど……」
拗ねの入った口調は心から納得している訳ではない、という意思表示だろうが、取り敢えず探偵の真似事は断念させることが出来たようだ、と達也は思った。
それにしてもエリカに「お人好し」の属性は無いはずなのだが、親しい友人が絡むと、それが直接的な関連でなくても「話は別」となるらしい。
「でもよ、受け身一方ってえのは分が悪いんじゃないか?
直接殴りかかってくるならどうにでもなるんだろうけど、空き巣とか覗き見とかはな……」
「そればっかり気にしてる訳にもいかないからね……」
レオや幹比古の懸念に、達也は笑って首を振った。
「データを端末に入れて持ち歩いているんじゃないんだから、物理的な盗難に遭うことは無いって。
そもそも校内で置き引きとか引ったくりとかそんな心配をするのはおかしいだろう?
まあ、盗撮って手口はゼロとは言えないが、それは別に、今回のコンペ絡みに限ったことじゃない。
校内でデータを盗もうとするなら、セキュリティの低いディレクトリに放置されたデータを漁るのが一番手っ取り早いだろうけど、そこまでボケてるつもりはないな。
不審人物の怪しげな情報に撹乱されてるんじゃないか?」
「そっか……」
達也の説明で、幹比古は一応納得したようだった。
だがエリカとレオは、まだ何か言いたいことがあるけれども反論できないのでとりあえず黙っている、という風に、達也には見えた。
◇◆◇◆◇◆◇
九校戦代表チーム五十二名に対し、論文コンペは三名。
比較するのが最初から無意味に思えるほど規模が違う。
にも関らず、論文コンペは九校戦に匹敵する重要行事と見做されている。
それは一つには、この催し物が実質的に魔法科高校九校間で優劣を競う場であるからだ。
特に九校戦で成績が振るわなかった学校は、その雪辱戦という意識で盛り上がる。
そしてもう一つには、チームメンバーに選ばれた三名だけでなく、多くの生徒が直接関わることが出来るという性質にその理由が求められる。
非魔法科高校を対象とした弁論大会や研究発表会と「全国高校生魔法学論文コンペティション」の最大の違いは、発表内容の実演がプレゼンテーションに含まれるという点にある。
つまり論文の発表には、魔法装置を作って壇上で魔法を実演することが含まれる。
発表用の模型といっても、張りぼてでは評価されない。
実際に作動するか、実際の動作をシミュレートするものでなければならない――それが、魔法科高校の論文コンペだ。
その為の魔法装置の設計から術式補助システムの製作、それを制御する為のソフト、搭載する為のボディ、ターゲットが必要な場合はその作成、テスト要員とその補助要員、安全を確保する為のシールド生成要員……コンペ直前の時期ともなれば、技術系クラブ、美術系クラブはもちろんのこと、純理論系のクラブや実技の成績上位者も本番の成功へ向けて総動員される。
プレゼンテーション準備に関与する人数は、九校戦より寧ろ多いくらいなのだ。
本番が次の次の日曜日に迫り、校内では放課後だけでなく本来授業に割り当てられている時間も「自主制作」「自主演習」の名目で侃侃諤諤、ならぬカンカン(工作機械の音)ガタガタ(魔法行使に伴う騒音)の大騒ぎに満たされていた。
「あっ、いたいた」
その喧騒の中心に、エリカの探す人影はあった。
「おーい、達也くーん」
大声で手を振るエリカの隣では、レオが身体ごと明後日を向いていた。
全力で他人の振り、というところだろうか。
「エリカちゃん、邪魔しちゃダメだよ……」
レオほど図太くなれない美月は、効果が無いと知りつつ友人の袖を引っ張らずにはいられなかった。
――予想通り、効果は無かったが。
悠然と歩み寄るエリカを、手を止めて待っていた達也は「仕方ないな」とばかりに苦笑いを浮かべていただけだが、実験を中断されて苦虫を噛み潰している者も当然いた。
「千葉……お前、チョッとは空気を読めよ」
護衛役として立ち会っている桐原も苦虫を噛み潰している一人だった。
「あれっ、さーやも見学?」
しかしエリカが答えた、というか、話し掛けた相手は、桐原の隣に立っている紗耶香だった。
「お前な」
「エリちゃん……」
脱力する桐原と苦笑する紗耶香。まあ逆上しないだけ、桐原も人間が練れてきたということだろうか。
「エリカは見学という訳じゃ無さそうだな。何か用か?」
ただ桐原ではなく他の上級生も堪忍袋の尾を切らしそうになっているのを見て、達也が機先を制すように話し掛けた。
「美月がお手伝いに呼ばれたから、その付き添い」
声の調子で釘を刺されたことを察して、エリカは無駄口を叩かず簡潔に答えた。
なる程、と思って目を転じると、美月は美術部の先輩の前でペコペコ頭を下げていた。
「エリカ、こちらへいらっしゃい」
その隙に、というのも変だが、深雪が横から手を伸ばしてエリカを見物人の輪の中へ連れて行く。
紗耶香も桐原から離れてエリカの隣へ行き、一時的な中断を強いられた魔法装置の作動実験は五十里の合図で再開された。
「あれ、何の実験してるの?」
台座と四本の腕で支えられた直径百二十センチ程度の透明な球体は、一見すると巨大な電球に見える。
「プレゼン用の常温プラズマ発生装置よ」
「常温? 熱核融合ですよね?」
レオと同じく赤の他人を貫いていた幹比古が、意外な言葉に他人の振りを忘れて訊ねた。(なお幹比古は、深雪を相手にする時、未だに丁寧語が抜けない)
エリカも理科の知識をひっくり返してみたらしく、一拍遅れて頭上に疑問符を浮かべている。
「熱核融合というのは反応のタイプであって、超高温であることは必ずしも必要ではないみたい」
「……」
「……ごめんなさい、吉田君。わたしも詳しいことは理解していないから、後でお兄様に訊いてみる方がいいと思うわ」
幹比古が不得要領な顔をしているのを見て深雪がそう付け加えると、幹比古は「滅相も無い」と言わんばかりにブンブンと首を振った。
そんな幹比古へジトッとした目付きをチラチラと向けながら、エリカは紗耶香とヒソヒソ話をしていたが、深雪がニッコリ笑いかけると(但し目は笑っていなかった)慌てて口を噤んだ。
レオは最初から、好奇心に目を輝かせて無言で実験装置を見詰めている。
意図せず静粛が保たれた中で、五十里が鈴音へ合図を送った。
達也がモニターしている据え置き型の大型CADへ、鈴音がサイオンを注ぎ込む。
身に着けて携行する小型のCADより遥かに高速な術式補助機能が作動し、工程が幾重にも積み重なった複雑な魔法式が発動した。
高圧の重水素ガスがプラズマ化し、分離した電子が発光ガラスに衝突して光を放つ。
「……やっぱり電球?」
エリカが漏らした失礼な呟きは、幸いなことに(?)、実験成功の歓声にかき消された。
エリカの周りでも、成功して当然とばかり静かに微笑んでいる深雪は別にして、レオは胸の前で拳を握り締め幹比古は腕組みしてウンウンと頷き紗耶香は跳び上がって手を叩いている。
ガラス容器の発光は十秒間にわたり持続した。
光が消えると同時に、興奮の潮も引く。
これは単に、大道具が一つ出来上がったというに過ぎないのであって、組み上げなければならない物はまだまだ残っているのだ。
実験に集まっていた助っ人がバラバラと持ち場へ戻って行く、その一角を紗耶香がジッと見ているのにエリカは気づいた。
「さーや、どうしたの?」
「あの子……」
返って来たのは返事ではなく独り言だった。
「って、どうしたの!?」
「おい、壬生!?」
いきなり駆け出した紗耶香を追って、エリカと桐原がスタートを切った。
一歩遅れてレオが続く。
目を丸くしてその様を見送っていた深雪は、紗耶香が御下げ髪の女子生徒を追いかけているのに気がついた。
◇◆◇◆◇◆◇
「待ちなさいっ!」
すぐ後ろで呼び止める声を聞いて、足の速さでは敵わないと観念したのか、女子生徒は芝生の敷き詰められた中庭で立ち止まった。
「何ですか?」
振り向いて、硬い声で反問する。
それは聴きようによっては、ふてぶてしい口調だった。
「貴女、一年生ね?」
一高の制服には、学年による差異は無い。
紗耶香の問い掛けは、顔立ちや身体つきから推測したものだった。
「……そうです。先輩は二年の壬生先輩ですよね?」
「ええ。二年E組の壬生紗耶香。貴女と同じ二科生よ」
制服の違いは、エンブレムの有無。
一科生と二科生の違いを示すもののみだ。
「……一年G組、平河千秋です」
上級生から言外に自己紹介を要求されて、女子生徒は渋々名乗った。
背後で立ち止まる足音が聞こえた。
エリカたちが追いついてきたのだ。
今の自己紹介も聞こえているだろう。
現に、背後で「平河?」という桐原の呟きが聞こえた。
その苗字に紗耶香は心当たりがなかったが、桐原は聞き覚えのある姓なのだろう。
もっとも、紗耶香がこの一年生を放っておけなかったのは苗字の所為でも名前の所為でもないから、聞いたことが無くても一向に構わなかった。
そんな事を気にしている余裕は、紗耶香には無かった。
「平河さん、貴女が持っているそのデバイス……無線式のパスワードブレーカーでしょう」
紗耶香の指摘に平河千秋は顔を青ざめさせて、手に持つ携帯端末を慌てて背中に隠した。
「隠しても分かるわ。
あたしも同じ機種を使ったことがあるから」
紗耶香の言葉に、千秋が目を大きく見開いた。
パスワードブレーカーはパスワードを盗み出すマルウェアをハード化したもので、名称に反してパスワード認証に限らず様々な認証システムを自動的に無効化し情報ファイルを盗み出す機械だ。
その用途は犯罪目的以外にあり得ない。
つまり、この機械を使ったことがあるということは……
「……そうよ。あたしもスパイの手先になったことがある。
だから忠告するわ。
今すぐ手を切りなさい。
付き合っている時間が長ければ長い程、後で苦しむことになる」
「……あたしがどれだけ苦しんだって、先輩には関係のないことです」
顔を背け、ぶっきらぼうな口調で言い放つ。
明らかな、拒絶。
だがそれは、千秋にとってみれば逆効果でしかなく、紗耶香を怯ませることなど出来なかった。
「放っておけるわけ無いでしょう!
半年が過ぎた今でも、あたしは時々身体の震えが止まらなくなるわ。
自分でも気が付かないうちに、唇を噛み切っていたことも、爪を掌に食い込ませていたこともある。
貴女がどんな連中と付き合っているのか知らないけど、これだけは断言できる。
相手は貴女のことなんて、これっぽっちも考えていないわ。
ただ利用して、使い捨てるだけよ」
「そんな事は分かっています!」
捨て鉢な声と憎々しげに睨み返す瞳に、紗耶香は息を呑んだ。
「マフィアやテロリストが利用する相手のことを考えていないなんて当然じゃないですか。
先輩はそんなことも分からずに手を組んでいたんですか?
失礼とは思いますけど、先輩は随分子供だったんですね」
揶揄する乾いた口調に、この一年生は自分とは違うと、紗耶香は理解させられた。
紗耶香には達成したい目的があって、でもその為に何をしたら良いのか分からなくて、そこに付け込まれた。
確かに自分は、どうしようもない子供だった。
だがこの一年生が自分より大人だとも、紗耶香には思えなかった。
この一年生からは、そういう自分の未来につながる展望、言うなれば「希望」が感じられない。
今の彼女はただ、他人の声を頑なに拒んでいるだけだ。
「自棄になったって、何も手に入らないし、何も残らないのよ!?」
それでも紗耶香は、言わずにいられない。
時には無理矢理にでも誰かが止めてあげなくてはならないこともあると、彼女は自身の経験から確信していた。
「先輩には分かりませんよ。
あたしは別に、何かが欲しくてアイツらと手を組んだんじゃないんですから」
しかし返ってくるのは、当然のことながら、強い拒絶。
彼女が説得に応じるはずがないということも、紗耶香には薄々分かっていた。自分も、そうだったのだから。
説得は、後回しで良い。ここで逃がしたら、この子はもう「こちら側」へ戻って来れない。それを思えば、多少手荒になっても仕方が無い。
――紗耶香はそう心を決めた。
「桐原君」
「ああ」
紗耶香の意図を、桐原はすぐに理解した。
生憎二人とも得物を持って来ていないが、不安は感じなかった。
この一年生には武術・格闘術の心得が無い。その程度のことを見て取る眼力は、二人とも備えている。
二人掛りなら、取り押さえることは容易なはずだ。
紗耶香と桐原の判断に、誤りは無かった。
相手が武器を持っていなかったのなら。
紗耶香と桐原が同時に踏み込んだ瞬間、それに同調するようにして、千秋が小さなカプセルを投げた。
「伏せて!」
いち早くそれに気づいたエリカが叫ぶ。
咄嗟に二人は、目の前に腕を翳した。
激しい閃光が腕の隙間から瞼を通して眼底を焼く。
その光の中で視力を保っていられる者がいたならば、千秋の瞼が黒く塗られていることに気づいただろう。
マスカラとアイシャドウに偽装した遮光塗料で閃光弾によるダメージを防いでいるのだ。
千秋が右手を紗耶香へ向けた。
袖口からバネ仕掛けの投げ矢が飛び出す。
閃光の遮断に成功していたエリカが、細長い紡錘形の投げ矢を何処からか折り取って来た木の枝で打ち落した。
割れて飛び散った胴体から薄っすらと紫がかった煙が広がる。
エリカは咄嗟に得物を手放し、紗耶香を突き飛ばし、ブレザーの袖で自分の口元を押さえた。
閃光弾のダメージから回復し切っていない桐原が、拡散してほとんど透明になった煙をまともに吸い込んだ。
ふらり、と身体を揺らしたかと思うと、ガックリと膝を突く。
(神経ガス!?)
口を開けぬまま、エリカは心の中で舌打ちを漏らした。
相手は予想以上に周到だ。
CADの携行が許されない校内では、自己加速魔法も満足に使えない。
人数で勝っていても、武器有りと武器無しでは勝負にならない……
しかし、そんな理屈に縛られない男が、ここにはいた。
芝生に伏せていた(エリカの警告を文字通りに実行した結果だ)レオが、千秋に向かって猛然と突進したのである。
その迫力に、千秋が「ヒッ!」と悲鳴を漏らした。
右手を慌ててレオへ向ける。
仕掛け矢が連装式になっていたのか、それとも別の飛び道具も仕込まれていたのか。
この場でそれを確認することは出来なかった。
千秋の視界から突如、レオの姿が消えたからだ。
立ち竦んだ千秋は次の瞬間、強烈な衝撃を下半身に受け、為す術も無く押し倒され、後頭部を打って気を失った。
「……やり過ぎたかな」
千秋に正面からの両手タックルを決めたレオは、身体を起こしながら振り返り訊ねた。
「そうね。
……それより、さっさと立ち上がりなさい。それじゃあまるで、強姦しようとしているみたいに見えるわよ」
「バッ……! そんなんじゃねえよ!」
「ハイハイ、分かってるって」
呆れ顔で見下ろしながら、エリカの瞳は真剣そのものだった。
それは、プロのギャンブラーがダービーに臨んでサラブレッドの仕上がりを推し量るような、そんな目付きだった。
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