この物語はフィクションです。
この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
今日は論文と発表原稿とプレゼン用データを学校へ提出する日。
と言っても、鈴音も五十里も達也も直前までガリガリやる趣味はないので、提出用のデータディスクは昨日の内に仕上げている。
昼の休み時間にこうして集まっているのは、最後の見直し、それも内容ではなく主に提出要項に関わる形式点検を行う為だ。
三人で分担してチェックした後、遥の助言に従い鈴音が廿楽に直接手渡すことになっている。
「小野先生がオンラインで送るなって助言してくれたのは、昨日のことと関係あるのかな?」
自分の割当分を終わらせたところで、五十里がポツリと呟いた。
「そうかも知れませんね」
既に自分の作業を終わらせていた(一年生ということもあって最も分量が少なかった)達也が、鈴音の邪魔にならないよう小声で答えた。
「学内ネットを覗こうと思ったら、校内から侵入するのが一番簡単だからね」
「それでも簡単ではありませんけどね」
達也の指摘に、五十里は肩を竦めた。
と同時に、カチッと古風な打鍵音を立てて――鈴音愛用のクラシカルなメカニカルキーボードの音だ――鈴音が身体ごと振り向いた。
「それは本当に本校の生徒だったのですか」
チェック作業を終わらせて、提出物を揃えながら鈴音が会話に加わった。
「いえ、『多分』としか言えません」
「制服も、手に入れようと思えば、入手できないものではありませんから」
達也と五十里の答えを聞いて、鈴音は少し、考え込む仕草を見せた。
「……五十里君も千代田さんも生徒名簿を閲覧できるはずですが」
五十里は生徒会役員、花音は風紀委員長として、生徒名簿のデータベースを閲覧する権限が与えられている。無論、本当のプライバシーに関わるような立ち入った情報はブロックされているが、顔写真と全身写真をチェックするくらいは簡単に出来るはずだった。
「顔を見たのは花音だけですし……横顔をチラッと見ただけですから、モンタージュ作成までは。
一口に女子生徒といっても三百人近くいるわけですから……ある程度絞込みが出来なければ特定は無理です」
五十里は可能性を口にしているのではなかった。
今朝実際にやってみて、花音が音を上げてしまったのだった。
「それに昨日は、こちらが追いかけたから逃げただけ、とも言えますからね。
誰だか分かっても出来るのは精々監視を付けることくらいで、それだって問題無しとはしませんから」
達也の言っていることは鈴音にも五十里にも分かっていた。
何も悪いことをしていない生徒に――逃走の際に閃光弾を使用したことを問題視することも出来ない訳ではないが――監視を付けたりすれば、こちらが逆にストーカーということにもなりかねない。
今の段階では、受身で警戒している以外に手は無いのだった。
◇◆◇◆◇◆◇
達也が教室に戻ると、彼の席にエリカが座っていた。
「あっ、今日は早かったのね」
彼女は達也の姿にいち早く気付いて、すぐに立ち上がった。
図々しく居座ろうとしなかった代わりに、達也が腰を下した直後、彼の机の端に腰掛けたのは、プラスマイナスで微妙なところだ。
「何の話をしていたんだ?」
もっとも今日は、エリカの言う通りまだ少し時間がある。
すぐに端末へ向かうのではなく、横向きに座りなおして美月に話し掛けた。
相手が美月だったのは、彼女が何やら不安げな顔をしていたからだ。
「視線を感じるんだってさ」
だが答えを返したのはエリカだった。
「視線?」
改めて美月へ問いを向けると、彼女は躊躇いがちに頷いた。
「最近何だか、嫌な視線を感じるんです。
物陰からこっそり隙を窺っているような、気味の悪い視線で……」
「ストーカーか何か?」
とりあえず一番ありそうな例を挙げてみたが、美月はハッキリ、首を横に振った。
「いえ、私を狙っているんじゃなくて、もっとこう、大きな網を構えているような……」
曖昧な口調は、自分の言いたいことが上手く表現できないもどかしさ故なのだろうか。
達也の方では、彼女が言わんとするところを十分に理解出来ていたが。
「つまり狙いは俺たちの誰か、又は当校の何か、ということか」
「え、ええ……私の勘違い、かも知れないですけど」
自信なさげな態度は、性格的なものもあるし、確証も無いことだし、仕方がないかもしれない。
「いや、柴田さんの勘違いじゃないと思うよ」
だがまるで美月の自信欠如を補うように、歩み寄って来た幹比古が確信を込めて断言した。
「少し前から校内で精霊が不自然に騒いでいるのを見掛けるようになった。
誰かが、式を打っているんだと思う」
「シキって、式神とかってSB〔スピリチュアル・ビーイング〕のことか?」
レオの質問に幹比古が頷く。
「僕たちが使う術式とはタイプが違うみたいで、上手く捕まえられないんだけど、何処かの術者が探りを入れてきているのは間違いない」
「珍しくも無いんじゃないの?」
エリカの疑問にも一理ある。
高校とはいえ魔法大学へのアクセス端末を持ち自身も貴重な文献を数多く所蔵し、多くの有能な魔法師が教師として集う第一高校は、常日頃から魔法技術を狙う輩の標的となっている。
「探られること自体は確かに珍しくないだろうけど、こんなに頻繁に式が打ち込まれた兆候を見るのは、少なくとも僕が入学してから初めてだよ」
しかし幹比古はエリカの反論をやんわりと、だから余計に自信の感じられる口調で否定した。
「……幹比古、今、自分たちとは違う術式と言ったよな?」
「うん、そうだけど」
達也の声に深刻な懸念を感じ取った幹比古は、緊張した面持ちで達也の問いを肯定した。
「それは神道系とは違った術式ということか?
それとも、この国の古式魔法とは異なる術式ということなのか?」
自分が何気なく漏らした一言の意味を改めて突きつけられて、幹比古の表情が厳しく引き締められた。
「……我が国の術式じゃない、と思う」
「えっ、それって他国のスパイってことか?」
「そういうことなんじゃない?」
目を丸くしたレオと軽く流したエリカの口調は対照的だが、心の中はそれほど差があるようには見えなかった。
「随分派手に動いているんだな」
「やりたい放題ね。警察は何してるのかしら」
達也の一言で、エリカの矛先は警察に向いた。
公権力の怠慢に憤っているというより、身内のだらしなさに苛立っているようなその声音に、達也と幹比古は「おやっ?」と思った。
◇◆◇◆◇◆◇
丁度その時、神奈川県警の――正確には警察省から神奈川県警に出向中の――千葉警部が派手なくしゃみを炸裂させた、というお約束は起きなかった。
「……どうしたんです、警部。急にキョロキョロしたりして」
コンビを組んで聞き込み捜査中の稲垣巡査部長が、上司の挙動に不審の目を向ける。
「いや、何だか急に悪寒が……」
「大丈夫ですか? この忙しい時に、仮病になんか罹らないで下さいよ」
「いや、仮病に罹るって、キミね……」
千葉警部の声にも流石に非難の色が混じったが、稲垣は何処吹く風とばかりそっぽを向いた。
「……稲垣君はもう少し、階級秩序というものに留意する必要があるよ」
千葉の言葉に、稲垣は白い目を向けた。
その顔にはありありと「アンタが言うな」と書かれていたが、口に出したのは別の台詞だった。
「それより、聞き込み、続けますか?
これ以上歩いても目撃者が出るとは思えないんですが」
稲垣の指摘通り、連日の聞き込みにも関らず、密入国者に関する証言は全く得られていない。
部下と言うより相棒である稲垣の指摘に、千葉はシニカルな笑みを浮かべた。
「目撃者はいるさ。ただ喋らないだけで」
「警部、まさか……」
上司の飄々とした口調にキナ臭さを感じて、稲垣は目を鋭く細めた。
「おいおい、おっかないなぁ」
「怖いのは警部の方ですよ。何をする気なんです?」
「心配しなくても違法捜査はしないって。
ほら、蛇の道は蛇ってよく言うだろ。
だから蛇の穴蔵に入ってみようと思ってさ」
千葉の方針を聞いて、稲垣は嫌そうに顔を顰めた。
「……裏取引だって違法捜査ですよ」
「その程度は許容範囲だろ? そんな事言ってられる場合じゃ無くなって来てるし」
「まあ……そうですが」
行儀良く有料パーキングに駐めた覆面パトに乗り込み、二人は外国人が多く住む高級住宅街へ向かった。
◇◆◇◆◇◆◇
千葉警部と稲垣巡査部長を乗せた覆面パトカーが向かった先は、山手の丘の中程にある喫茶店の駐車場だった。
水素エンジンを止めた千葉の方へ、稲垣は苦い顔を向けた。
「警部……時々休憩を入れるのが悪いとは言いませんが、『蛇の穴蔵』へ行くんじゃなかったんですか?」
いきなりサボリですか、という非難の目を向けてくる部下を、千葉警部は心外な、という顔で見返した。
「ここがその『蛇の穴蔵』だよ」
「えっ?」
車の外に出た上司を慌てて追いかけ、ドアをロックしている千葉に並んで、稲垣は改めて喫茶店へ目をやった。
落ち着いた感じの、ごく普通の店構えに見える。
山小屋風のデザインで窓には観音開きの鎧戸がついているが、今は全て開け放たれていて少しも秘密めいたところがない。
「まあ、蛇ってのはマスターに失礼だけど。
ここのマスターは凄く情報網が広いってだけで、犯罪歴は無いから」
「……我々に尻尾を掴ませない程の大物、ってことですか……?」
「大物っていうより、職人と言うべきだろうね」
千葉警部は軽く肩を竦めて見せると、「ロッテルバルト」と書かれた扉を開けた。
平日の昼間、ランチタイムも既に過ぎている時刻だが、人気の観光スポットが近いという立地もあってか、結構客が入っていた。
しかし、賑わって、はいない。
店の雰囲気かマスターのキャラクターか、客は皆、静かにカップを傾けていた。
観光客が多いというのは思い違いで、常連が多い、通好みの店なのかもしれない。
全体に年齢層が高い中で、独りだけ、カウンターに座った若い女性が目を引いた。
パッと見には、美人という印象は無い。
身に着けているものも平凡なブラウスとスカートだ。
しかし良く見れば、顔立ちは整っているしスタイルも良い。
わざと地味に見えるようなメイクをしていると、千葉には感じられた。
カウンターには彼女一人。テーブルの空きは二つ。
千葉は椅子を一つ空けて、カウンターに座った。
「マスター、ブレンドを二つ」
先に注文を済ませ、指で稲垣に隣へ座るように指示する。
そして、さり気なさを装ってその女性へ目を向け――
――それが彼の限界だった。
「…………」
彼は何も言えないまま、視線を正面に戻した。
ヘタレ、と誹ることなかれ。
ただ目立たないようにしているという理由だけで職務質問も出来ないし、自分がしようとしていることはまるきりナンパではないか、と思い至ったのだ。
稲垣の向けてくる疑惑の眼差しが痛い。
マスターは渋い外見に相応しく無口で、ただ黙々とカップの準備をしている。
千葉はひたすら、コーヒーが出てくるのを待った。
不意に、クスクスと小さな笑い声が聞こえた。
目だけを動かして確かめてみると、予想に違わず、彼女が俯いて肩を震わせていた。
「……ごめんなさい。
いつ話しかけてくるかと思ったのに、前を向いて固まっているんですもの。
女は苦手ですか、千葉の御曹司?」
千葉警部が絶句したのは、自分の素性を言い当てられて驚いたからではなかった。
彼が千葉一門の総領だということは、特に秘密でも何でもない。
だが積極的に顔写真を公開してPRしている訳でもない。
顔なら、弟の方が売れているはずだ。
彼の顔を見ただけで、彼が千葉寿和だと分かるのは、犯罪者と警察関係者を除けば特定の世界に生きている人間に止まる。
即ち、実戦魔法に生きる者だ。
「貴女は……」
「はじめまして、千葉寿和警部。
私は、藤林響子と申します」
今度こそ、驚きの故に、千葉は絶句した。
古式魔法の名門、藤林家の令嬢……そして同時に、日本魔法界の長老である九島烈の孫娘が、彼の目の前で屈託の無い笑みを浮かべていた。
◇◆◇◆◇◆◇
達也たち八人が揃って一緒に校門を出るのは久し振りのことだった。
「達也さん、準備はもう終わったんですか?」
八人揃っては久し振りでも、生徒会で深雪と帰りが一緒になる、つまり達也とも毎日一緒に帰っているほのかが、そんなことを何故か真っ先に訊いて来た。
「一段落、というところかな。リハーサルとか発表に使う模型作りとかデモ用の術式の調整とか細々としたことは残ってるけど」
「大変そうねぇ……そう言えば、美月のところで模型作りを手伝ってるんだっけ」
生徒会にも部活連にも所属していないのに妙に事情通のエリカが、ポニーテールを揺らして美月の顔を覗き込んだ。
「あっ、うん、二年の先輩が。私は何もしていないけど……」
「模型作りは五十里先輩に任せっきりだから、自然と二年生が中心になるんだろうね」
「ふ~ん……じゃあ達也は何をしているんだ?」
美月をフォローした達也に、自然な流れとも言える質問をレオが投げ掛けた。
「俺はデモ用術式の調整だ」
「……普通、逆だと思う」
誰もが思い浮かべたツッコミを真っ先に入れたのは雫だった。
「そうかな? 物を作ることにかけては、俺より五十里先輩の方が数段上だと思うんだが」
「まあ……確かに啓先輩は『魔法使い』って言うより『錬金術師』みたいなイメージあるし……適材適所かもね」
首を捻った達也に、苦笑交じりでエリカが同意を示した。
「錬金術師? RPG?」
「その喩えで行くと達也さんは何になるのかな?」
美月がふと呟いた疑問は、
「そりゃあもう、マッドサイエンティストでしょ」「エリカ、それ、RPGじゃないよ」「じゃあ、人里離れた山奥で秘術を伝授してくれる世捨て人の賢者」「賢者っつーには武闘派だけどな」「密かに世界征服を企む悪の魔法使い?」「そこは素直に魔王とか」「いやいや、一緒に魔王を倒した後で、実は俺様黒幕だぜ~と主人公の前に立ち塞がるラスボスなんて似合いそうじゃねえか」「みんな、なぜ勇者様という発想が無いの?」「いいんだ、ほのか。きっと悪役のイメージなんだろ、俺って」「お兄様、力こそ正義です」「うわっ、流石大魔王の妹」
……このように、大きな盛り上がりを招いた。
そんな風に学生らしく賑やかに騒ぎながら歩いていても、達也は警戒を忘れてはいなかった。
行きつけの店の看板が見えたところで達也は、尾けてくる気配へ顔を向けないように振り向いた。
「チョッと寄っていかないか?」
彼は寄り道をして尾行をやり過ごそうと考えたのだ。
「賛成!」
「達也は明日からまた忙しくなりそうだしな」
「そうだね、少しお茶でも飲んで行こうか」
達也の誘いに対するエリカとレオと幹比古の反応は、少し積極的過ぎる気もしたが、三人もそれぞれに思うところがあるのだろう。
達也は何も気付いていない風を装って馴染みの喫茶店に入った。
◇◆◇◆◇◆◇
残念ながら、いつもの四人掛け席二続きは空いていなかったので、八人はカウンターとカウンターに一番近いテーブルに分かれて席を取った。
カウンターに達也、深雪、ほのか、美月。(座っている順番は美月、深雪、達也、ほのか)
テーブルはカウンター側にエリカと雫、向かい側にレオと幹比古。
……第三者からしてみれば、達也は美少女を何人も侍らせるハーレム野郎に見えているに違いない。
「やあ、いらっしゃい。相変わらずモテモテだね、達也くん」
いや、第三者だけでなく、彼らの関係をそれなりに把握しているマスターも、カウンターの向こう側からそんな冷やかしを投げて来たくらいだ。
「マスターもその髭を剃ればモテモテですよ、きっと」
敢えてモテモテ、などという死語(?)をそのまま使って達也が反撃すると、
「そうですね……マスター、その髭は勿体無いです。老けて見えますよ」
美月が天然故の(?)遠慮無さで援護射撃を畳み掛けた。
「ふ、老けて……美月ちゃん、容赦ないね」
無精髭ではない、キチンと手入れされた灰色の顎鬚を撫でながらマスターが嘆いた。
灰色、といってもこのマスターが美月の言うように老けている訳ではない。
寧ろ若い。まだ三十になるかならないか程度だろう。
髪の色も髭の色も灰色なのは、遺伝による生まれつきの色だ。
マスターは北ドイツの血を四分の一、引いているのである。(店の名前も「アイネブリーゼ(ドイツ語で「微風」の意味)」で、親近感を覚えたレオが通い始めたのが常連になったきっかけだ)
といっても異民族の特徴が表れているのは体毛の色だけで、瞳の色は黒、顔立ちは線の細い東洋系。
優男系のハンサムフェイスなのだが、マスターは自分の顔に何やらコンプレックスがある模様。
綺麗に形が整えられた口髭と顎鬚は、少しでも男らしく見えるように、らしかった。
この髭については余り似合っていない、というのが達也たちの感想なのだが、コーヒーの味はそれを補って余りあるものだった。
当然の様に、八人全員のオーダーはコーヒーだった。
「へぇ……魔法論文のコンペティションに出るんだ」
サイフォンの中でお湯が煮立っている内に、しばらく顔を見なかった理由を聞いたマスターは、お世辞ではなく感心しながら頷いた。
「今年は横浜で開催される番だよね? 僕の実家も横浜にあるんだよ。
会場はいつも通り国際会議場? だったら実家のすぐ近くだ」
フラスコに溜まったコーヒーをカップに注ぐ合間にもマスターのお喋りは続く。
「横浜のどちらなんですか?」
ウェイトレスの代わりに四人分のコーヒーをテーブル席へと運ぶ為に立ち上がった美月が、マスターからトレーを受け取りながら訊ねた。
「山手の丘の中程にある『ロッテルバルト』って名前の喫茶店だよ」
「ご実家も喫茶店だったんですね」
「そうなんだ。時間があったら寄ってみてよ。親父と僕と、どっちのコーヒーが美味しいか、忌憚の無い意見を聞かせてくれると嬉しいな」
「マスター、商売上手」
美月と交替でトレーを戻しに来た雫がボソッとツッコみ、カウンターの両側で笑い声が上がった。
◇◆◇◆◇◆◇
達也のカップが残り三分の一となったところで、エリカがクイッ、とカップを傾け一気に中身を飲み干すと、音もなくソーサーに戻して(こういうところは逆の意味で育ちを隠しきれないのだろう)スッと立ち上がった。
「エリカちゃん?」
「お花摘みに行ってくる」
顔を上げた美月にそう答えて、軽やかな足取りで店の奥へ向かう。
「オッと」
その直後、今度はレオがポケットを押さえて立ち上がった。
「わりぃ、電話だわ」
そう言ってレオは表へ出て行った。
「……幹比古、何やってんだ?」
意外とお行儀が良いレオへ向けていた目を戻して、達也は幹比古が手許でノート(というより小さめのスケッチブック)を広げているのに気がついた。
「んっ、チョッと、忘れない内にメモっとこうと思って……」
そう言いながら幹比古は、筆ペンを動かす手を止めようとしない。
「……程々にしておけよ」
達也は鋭く目を細めて幹比古の背後――手許ではなく――を視た後、カウンターに背を向けたまま何事も無かったかのようにカップに口を付けた。
◇◆◇◆◇◆◇
「オジサン、あたしとイイコトして遊ばない?」
人の少ない裏通りとはいえ、まだ日も沈まない内からそんなことを言われて、男は手にしたテイクアウトのドリンクカップを危うく落としそうになった。
振り向いて見れば「美少女」と形容することに何の躊躇いも後ろ暗さも抱える必要の無いポニーテールの少女が、両手を背中に回してニコニコと微笑んでいる。
しかしその顔を確認した途端、男は別の意味で焦りを覚えた。
「何を言ってるんだ。もっと自分を大切にしなさい」
「アレッ? あたしは『イイコト』って言っただけなのに、一体どういう意味に取ったんだろ?」
罪の無さそうな笑顔で、チョコンと小首を傾げて見せる少女。
それは間違いなく、彼が尾行していた男の連れだ。
「大人をからかうんじゃない。寄り道してないで、さっさと帰りなさい」
心の裡では冷や汗が止まらなかったが、プロとしての面子にかけて、「子供の悪戯に気分を害して立ち去る大人」を演じ続ける。
「もう日も暮れる。こんな人通りの少ない所にいたら、通り魔に襲われないとも限らないぞ」
そう言って、男は少女に背を向けた。
しかし彼は、次の一歩を踏み出せなかった。
「……通り魔、ってのは、例えばこんなヤツのことか?」
振り向いた先には、両手に黒い手袋をはめた体格のいい少年が、拳を自分の掌に打ちつけながら笑っていた。
「知らないの? 通り魔っていうのはね、『通り』すがりの『魔』法使いのことなのよ」
少年に応える少女の楽しそうな声に、舌なめずりするような響きを感じて、男は再度振り返った。
少女の手には伸縮警棒が臨戦態勢で握られていた。
少女が、警棒を握る手を無造作に突き出した。
その瞬間、抗い難い圧力が少女から押し寄せて来た。
少しでも気を抜くと膝が震えてへたり込んでしまうかもしれない……男はその「圧力」の名前を知っていた。
これは、闘気だ。
殺気、即ち相手を殺すという結果を望む意志ではなく、純粋に、ただ闘うという意志の波動。
「怖いねぇ……こういうトコだけは大した女だぜ」
背後から楽しそうな声が聞こえた。
背中を向けているから見て確かめることは出来ないが、背後の少年はきっと、歯を、牙を剥き出して笑っているに違いなかった。
「助けてくれ! 強盗だ!」
男は形振り構わず叫んだ。
彼にも、腕に覚えはある。
いくら手錬れであったとしても、十五、六の子供にむざむざやられるとは思わない。
しかし今現在遂行中の任務は、リスクを避けなければならない種類のものだし、彼らに敵対するのは作戦上拙かった。
「……うわ~、情けな……」
「いやいや、この素早い決断力は評価すべきじゃねーの?」
男のとった手段に、少女も少年も気を殺がれた様子だった。
しかし少女は警棒を下ろさず、少年は体を開いて拳を掲げた。
――そして、助けを求める男の叫びに、応えた者は皆無だった。
「あっ、言い忘れてたけどよ、助けを呼んでも無駄だぜ?
今は、誰もここには近づかない」
「っていうか、近づけないんだけどね。
あたしたちの『認識』を要にして作り上げた結界だから、あたしたちの意識を奪わない限り抜け出すことも出来ないよ?」
少女の言葉に、男は改めて、先程から通行人が全く途絶えていたことに気がついた。
気づかされた。
彼には、選択肢が一つしか残っていないということを。
男は今更の様にドリンクカップを投げ捨て、アップライトな構えを取った。
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