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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第三章・横浜騒乱編
3-(4) 忍び寄る影
 学校に対する論文提出を三日後に控えた夜、自宅のワークステーションでデータ処理をしていた達也は、ホームサーバーがアタックを受けているのに気がついた。
 複数経路からの同時アタックは、素人ハッカーの手並みではない。
 情報窃取を生業とするプロの仕事だ。
 ならばおそらく、たまたまアドレスを発見したのではなく、この家のグローバルアドレスを狙い撃ちしたものだろう。
 何度撃退されても、しつこくアタックを繰り返している。
 相当な執念だった。
 またアドレスを変更しなければならないな、と口に出さずにぼやき、ため息を吐きながら、達也は逆探知プログラムを立ち上げた。

◇◆◇◆◇◆◇

 翌日の昼休み。
 達也はカウンセリング・ルームを訪れていた。
 話している相手は遥。
 無論その内容は、思春期の悩みなどではない。
「……ですが、途中で接続を切られてしまいましてね。
 結局、攻撃元は掴めませんでした。」
 嫌がっていることを隠そうともしていない――あるいは、殊更嫌がって見せている――表情はカウンセラーにあるまじきものだが、達也の用事がカウンセリングにないことを考えれば、そして過去の経緯を考慮すれば、遥を一概に責めることは出来ないだろう。
「……それで? 言っとくけど、私にはネットワークチェイスなんて出来ないわよ」
 遥のふて腐れた声に達也は失笑しかけたが、これ以上ヘソを曲げられると困るので顔には出さなかった。
「分かっていますよ、先生の得意分野は。そこまでお手間を取らせるつもりはありません」
「じゃあ何?」
 遥の顔に警戒の色が浮かんだ。
 達也がこういう風に、殊更もっともらしいことを口にする時はかえって何か裏があるのではないかと、すぐさま疑ってみる程度には彼女も学習しているのだ。
「最近、魔法関係の秘密情報売買に手を出している組織について、ご存知の範囲だけでも教えて頂けないかと思いまして」
 達也が「まあまあ」という感じの愛想笑いを浮かべているのを見て、遥は嫌そうに顔を顰めた。
「……あのね、司波君。私にも守秘義務があるんだってことは、分かってくれてるのよね?」
「無論です」
「…………」
 遥の唇が「い」の形を作って止まった。
 多分「いけしゃあしゃあと……」と言いたかったんだろうな、と達也は思った。
 何故なら、彼自身、そう思っていたからである。
 だからといって、心は痛まないのだが。
「……先月末から今月の初めにかけて、横浜、横須賀で相次いで密入国事件が起こっているわ」
 大きな溜め息が聞こえてきそうな口調で遥が話し始めた。
 一度甘い誘いに乗ってしまうと中々縁を切れないもの。それは諜報に携わる者にとって情報提供者を作り上げるための初歩的なノウハウだった。
 それを自分が仕掛けられるなんて……と、遥は内心、そう(ほぞ)を噛んでいるに違いない。
「県警と湾岸警備が合同で捜査しているんだけど、目立った成果はあがっていないようね。
 それと時期を同じくして、魔法関係の記事を多く扱っている出版社を狙った窃盗事件が相次いで起こっている」
「無関係とは思えない、ということですか」
「その連中だと、決まった訳じゃないけどね。
 司波君。
 論文の提出はオンラインじゃなくて、ディスクに入れて持っていった方が良いと思うわ」
 その最後のアドバイスだけは、投げやりな心情が混入していなかった。
 改めて真意を確認しようとした達也から、遥はスッと目を逸らしてデスクに向かった。
 これ以上は話せない、という意思表示。
 達也も引き際は心得ていた。

◇◆◇◆◇◆◇

 放課後の風紀委員会本部で、達也は五十里相手に、昨晩の不正アクセスの顛末を話していた。
「……それで、被害は無かったのかい?」
「それは大丈夫です」
 心配そうに身を乗り出した五十里の身体を押し止める様に両手を前に翳して、達也は苦笑気味に首を振った。
 制服を換えればそれだけで「背の高い中性的な美少女」に早変わり、の五十里に迫られるのは、それが物理的な距離としての意味しか持っていなくても、余り居心地のいいものではない。
 無論、そんな内心を表には出せないので、不自然に仰け反らないよう、注意が必要だったが。
「それより、五十里先輩の御宅は大丈夫ですか?」
 五十里は一瞬キョトン、とした後、眉と声を顰(潜)めた。
「……それってもしかして、クラッカーの狙いは……」
 囁く声が妙に色っぽかった。
 同性の友人が少ないのが悩み、と以前に聞いたことがあるが、これは嫌われているのではなく敬遠されているのだろうな……と、口に出す答えとは別に、達也は思った。
「クラッカーのコマンドを見ると、どうやら魔法理論に関する文書ファイルを狙っていたようです。
 時期的に言って、コンペ絡みの可能性を否定出来ません」
 時期的に、と言えば、本当はもう一つの要因の方が可能性が高いのだが、そこまで正直にはなれなかった。
 それに、用心するに越したことは無いのだ。
 達也の言葉に五十里は益々眉を顰め、その類の兆候が無かったかどうか考え込む素振りを見せた。
「……今のところ心当たりは無いけど……その話、市原先輩にもしておいた方が良くないかな」
「そうですね」
 達也も元よりそのつもりだったので、五十里の提案に即、頷いた。
「啓、お待たせ~」
 そこへ語尾に音符が踊っていそうな上機嫌な声が割って入った。
 返事を待たずにドスンと音を立てて五十里の隣に座り、彼の腕を抱え込んでじゃれ付き始めたのは、言うまでも無く花音だった。
「達也くん、久し振りだね」
 仕方が無いな、という苦笑交じりで達也に声をかけてきたのは、一緒に入ってきた摩利だ。
 約十日ぶりの再会が「久し振り」に該当するかどうかは微妙なところだと思うが、先月まで学校がある日は毎日の様に顔を合わせていたことを考えれば、久し振りと感じるのも当然かもしれない。
「ええ、お久し振りです」
 達也は立ち上がり、今まで自分が座っていた席を摩利に勧めた。
「おや、ありがとう」
 摩利は席を譲り合ったりせずに、ニッコリ笑って腰を下した。
 相変わらずハンサムな女性(ひと)だな、と思いながら「どういたしまして」と応え、自分は椅子を一つ運んで来て摩利の横に座った。
「それで達也くん、花音の仕事ぶりはどうだい?」
 いきなり予想外の質問だった。
 まあ、前委員長としては現委員長の仕事ぶりが気になるのも無理ないかもしれないが、彼が五十里と共に呼び出されたのはそんな話をする為ではないはずだった。
「摩利さん!?」
 しかし花音の慌てぶりを見れば、質問の意図も分かろうというものだった。
 実に微笑ましい先輩後輩関係ではないか。
「一緒に巡回するのは既に止めていますから、そちらの方は存じませんが……」
 あんまり微笑ましかったので、達也も二人の関係に倣うことにした。
「整理整頓はキチンとやって頂いています。特に捨てるのがお上手ですね。時々思い切りが良すぎると感じることもありますが」
 真面目くさった表情、抑揚の無い口調で達也が告げると、摩利と花音が揃って居心地悪そうに身動ぎした。
「……司波君はああ言ってくれてるけど、花音はもうチョッと自分で事務処理もしなきゃダメだよ?
 僕を頼るだけならまだしも、そうでない時はほとんど司波君に押し付けてるじゃないか」
「……だって苦手なんだもん。そういうのって適材適所だと思うんだよ」
 拗ねた口調と甘えた仕草がいつもの――五十里と一緒にいない時の――凛々しい姿と大きな落差(ギャップ)を作り出している。それを見て、達也と摩利は苦笑を漏らした。
「……さて、その話は又、別に機会を設けるとして……」
 もうこの辺でいいか、という気分になった達也は、「本題に入りましょう」と摩利を促した。
「フム、そうしようか。
 実は、論文コンペの警備の相談なんだが」
「警備? もしかして風紀委員会が警備を担うのですか」
「そうだ」
 学外で行われるイベントに、生徒による「警備」というのは奇妙に思えたが、違和感を表しているのは達也だけだ。おそらくこれは、毎年のことなのだろう。
「警備と言っても、会場の警備ではないよ。そっちは魔法協会がプロを手配する。
 相談したいのは、チームメンバーの身辺警護とプレゼン用資料と機器の見張り番だ。
 論文コンペには『魔法大学関係者を除き非公開』の貴重な資料が使われるからね。そのことは外部の者にも結構知られている。
 その所為で時々、コンペの参加メンバーが産学スパイの標的になることがあるんだよ」
 随分とタイムリーな話題に、達也は少し驚いてしまった。可能性があるとは思っていたが、正直なところ意外感を禁じ得ない。
「……例えば、ホームサーバーをクラックするとかですか?」
「……いや、所詮は高校生のレベルだからな……スパイと言っても、チンピラが小遣い稼ぎを企むくらいでネットワークに侵入なんて大それた真似をしでかした例は聞かないが……」
 摩利の答えに、それはそうだろうな、と達也は思った。
 現代において、ネットワークの不正侵入はそれだけで重罪だ。ネットワーク内の情報の窃取は強盗よりも重い刑罰が科せられている。データの改竄は殺人未遂と同レベルだ。
 ネットワークのセキュリティが強化されたことも相俟って、ネット犯罪は職業犯罪者にとって、割に合わない商売になっているのである。
「むしろ警戒すべきは、置き引きや引ったくりだ。四年前には、会場へ向かう途中のプレゼンテーターが襲われて怪我をした例もある。
 そこで各校では、コンペ開催の前後数週間、参加メンバーに護衛を付けるようになったんだよ。
 当校でも無論、毎年護衛をつけている。
 護衛のメンバーは風紀委員会と部活連執行部から選ばれているが、具体的に誰が誰をガードするかについては当人の意思が尊重される」
「啓はあたしが守ってあげるから」
 ここで当然! と言わんばかりに花音が口を挿んだ。
 実に微笑ましい、と達也は思ったが、今回は苦笑も失笑も漏らさずに済ませた。
「……まあ、五十里も異論は無さそうだし、そっちは決まりだな。当然、補佐は付けるが……花音、自分が馬になって蹴飛ばしたりするなよ?」
「ひどっ! しませんよ、そんなこと。あたしはそこまで子供じゃありません」
 ぷくっ、と頬を膨らませた顔を見ると、「子供じゃない」という発言は今一つ説得力に欠けたが、「子供じゃない」三人は暖かい目でスルーした。
「市原には、服部と桐原がガードにつくことが、既に決定している」
「部活連会頭自ら護衛ですか」
「市原に頭が上がらないんだろ、服部は」
 達也の棒読み質問に、摩利が人の悪い笑顔で答えた。
「さて……問題は、君をどうするか、なんだが」
「必要ありませんよ」
 人の悪い笑顔のままで訊ねた摩利に、達也は一瞬も迷わず即答した。
「まあ、そうだろうな」
 そして摩利も、再考を促す素振りも無く頷いた。
「君に護衛を付けたって壁役にしかならんだろうし、寧ろ足手纏いになる可能性の方が高いからな。
 分かった。服部の方にはあたしから伝えておこう」
 摩利の答えに、達也は今更ながら首を傾げた。
「ところで、何故渡辺先輩がそのようなことを?」
 敢えて声に出さなかった部分を補うと、何故、現委員長の花音ではなく、引退した前委員長の摩利が風紀委員会と部活連の調整で骨を折っているのか、という問い掛けだった。
「……いや、何故ということはないが……」
 言葉を濁した摩利に向けて、達也は軽く眉を上げて見せた。
 過保護ですね、という彼のメッセージはキチンと伝わったらしく、摩利は決まり悪げにそっぽを向いた。

◇◆◇◆◇◆◇

 第一高校の購買部の品揃えは「高校の売店」のレベルを大きく上回っている。
 魔法科高校九校はどこも言えることだが、一般の商店で入手困難な魔法実習関係の機材を生徒が苦労せず手に入れられるように、必要に迫られて拡充されたのだ。
 それでもやはり学校の売店であることに変わりはなく、校内でどうしても手に入らないものは外に買い出しに出なければならない。
 そしてこれも九校に共通のことだが、魔法科高校にはその門前町とでも言うべき商店街が形成されており、校内の購買部で揃わない機材、消耗品、書籍、雑貨もここでほとんど買いそろえることが出来る。
 一高前の商店街が特に充実しているのは既に触れたとおりだ。
 達也と五十里は、購買部で偶々在庫切れを起こしていた3Dプロジェクター用の記録フィルムを購入する為、駅前の文具店へ向かっていた。
 原稿の校内提出日が明日とあっては、購買部の入荷を待ってはいられなかったのだ。
「わざわざ先輩たちについて来て貰わなくても大丈夫でしたが……」
 既に半分以上の道程を消化しているにも関わらず達也がこう言ったのは、上級生の手を煩わせるのが申し訳ないという気持ちも確かにあったが、その一方で人目を憚らずベタベタしている花音に辟易しているという面もあった。
 隣の芝生は青い、というのは、逆もまた真であるらしい。あるいは、誰しも他人のことは良く分かるということか。
 いちゃついているのが花音だけで、五十里はどちらかと言えばそれを持て余し気味に見えるのでまだ救いがあるのだが。
 ちなみに深雪は学校に残してきている。花音には五十里の護衛という大義名分があるが、深雪は達也が一時的に外出するからといって生徒会の仕事を放り出す理由がない。今頃は、花音が同行していることを知っているから余計に、苛々しながら端末を叩いていることだろう。
「いや、やっぱり悪いよ、司波君だけに任せちゃうのは。
 僕もサンプルを確認しておきたいし」
 そして基本的に生真面目な五十里がこう答えるのも予定調和だった。
 まあ達也も、今更二人を追い返せるとは思っていない。今の台詞は一種、愚痴の様なものなので、それ以上押し問答したりせず、メゾソプラノの不気味な含み笑いを聴覚からシャットアウトすることにした。
 一旦無視すると決めてしまえば楽なもの。この辺りは達也のお得な部分だろう。
 どうしても遅くなりがちな歩調でそれから五分を費やして、目的の店にたどり着いた。
 そこでもさっさと買い物を済ませ、ついでに買いたい物があるという花音を五十里に預けて店の外で待つ。
 ようやく独りになって清々しているところで、達也は自分を窺い見る視線に気がついた。
 尾行された覚えはない。高校生らしい(?)睦言に煩わされていても、周囲への警戒は怠っていなかった。
 どちらかと言えば、先回りされていた感じだ。
 この店は学校から駅への一本道の途中、寧ろ駅前と言っても良い所にある。
 駅で張り込んでいたのだろうか。
 どうしようか、と迷ったところに、買い物を終えた五十里と花音が出て来た。
「お待たせ……どうしたんだい?」
 出て来るなり即、訊ねた五十里の感性に、達也は舌を巻いた。
 そんなに分かり易い顔はしていなかった。
 その証拠に、花音は「んっ?」という感じで小首を傾げている。
 五十里は遅延発動術式や条件発動術式のような設置型魔法が得意ということだが、この観察力、本当は作用系よりも知覚系の方が向いているのかもしれない。
「いえ、どうも監視されているようなので、どうしようかと」
 特に隠す必要は感じなかったので、達也は五十里の問いに正直に答えた。
 だが、その答えを最後まで言い切ることは出来なかった。
「監視? スパイなの!?」
 どうしようかと、の次に「思いまして」を続けようとしたタイミングで、花音が割り込んできたのだ。
 大声で。
 それは曲者に対してわざわざ「逃げろ」と呼び掛けているようなもので、案の定、監視の視線が外れ、気配が遠離(とおざか)っていく。
 しかし花音も、流石は摩利から後釜に選ばれるだけのことはある。
 短く「どっち?」と訊いただけで、達也が目を向けた方へ迷う素振りも見せず駆け出した。
「花音、魔法は」
「分かってる! あたしを信用しなさい、啓」
 信用できないからこそ念を押したのだろうが、出遅れた五十里と一時的に花音の代理を務めなければならなくなった達也は、遠ざかる声を見送るしか出来なかった。

◇◆◇◆◇◆◇

 花音は同世代トップクラスの魔法師であると同時に、陸上部のスプリンターでもある。
 流石に非魔法師のトップアスリートと対等に競う脚力は持っていないが、一般的な高校生が相手なら、相手が男であっても、そうそう引けを取るものではない。
 スカートを翻して疾走する花音は、すぐに、逃げて行く小柄な人影を視界に捉えた。
 その少女は、彼女と同じ制服を着ていた。
 その事に意外感を覚えながらも、案ずるより産むが易し、考え込むよりまず動くがモットーの花音だ。
 追いかける脚は鈍らない。
 たちまち距離を詰めて、あと十メートル、まで迫ったところで、逃走する少女が肩越しに振り返った。
 マスクもサングラスもない、素顔。
 僅かに覗いた横顔を記憶に焼き付けるべく、花音は少女の頭部を凝視した。
 視点の固定、それは少女が企んだものではなく、偶然の賜物だった。
 しかしそれは、意図の有無に関係なく、花音の警戒心に穴を開けた。
 少女が後ろ手に放った小さなカプセルに花音が気づいたのは、少女が再び前を向き、カプセルが二人の中間に落ちようとしている時だった。
 マズイ、と花音は思った。
 反射的に脚を止め、目を閉じる。
 両腕で顔面を庇おうとしたが、それは残念ながら間に合わなかった。
 翳した腕の隙間から差し込む、瞼越しでも眼底を痛めつける、激しい閃光。
 二人の追走劇を何事かと見ていた通行人からいくつもの悲鳴が上がった。
 花音は庇い損ねた左目を閉じたまま、被害を免れた右目を開いた。
 少女はスクーターに跨って逃走しようとしている。
 花音の右手が左腕へ走った。
 手首のやや下側に巻いたブレスレットにサイオン粒子が吸い込まれ、素早く入力されたキーに従い起動式を展開する。
 しかし、その起動式は、花音がそれを取り込む前に、彼女の身体を舐める様に背後から回り込んだサイオンの銃弾によって破壊された。
「何をするの!」
「花音、ダメだ!」
 タイミングは全く同時。
 振り返った花音と走り寄る五十里の、叫んだ言葉が二人の中間で重なり合った。
 五十里の後ろに、拳銃形態のCADを構えた姿勢で達也が立ち止まっていた。
 恋人の叱責に驚いて振り返ったまま硬直した花音に、五十里が並ぶ。
 走りながらCADを操作していた五十里は、魔法式の構築を終えている。
 既に発進しているスクーターへ向かって、彼は放出系魔法「伸地迷路〔ロード・エクステンション〕」を発動した。
 逃走を始めたばかりのスクーターの両輪が空回りを始める。
 幾らモーターを回しても、前に進まない。
 真っ直ぐ続いているのに、抜けられない路。直線の迷路。
 その秘密は、タイヤの接地面と道路の電子の分布を操作することによりクーロン力を斥力に偏倚させ、摩擦力を近似的にゼロとすることにある。言葉にすればそれだけの魔法だが、実行するには恐ろしく複雑な魔法式を必要とするテクニカルな術式だ。
 複合的に放たれた、ジャイロ力を増幅する魔法により倒れることも出来ず、僅かな初期加速もクーロン斥力により食い潰されて、少女の跨ったスクーターは立ち往生することになった。
 最早逃れられない。
 五十里も、花音も、達也でさえも、そう思った。
 それは無理のない思考で、当然の判断だった。
 常識的に考えて、この状態から抜け出すことは出来ない。
 だが彼らは知らなかった。
 この少女は、荒事について全くの素人だということを。
 そして追い詰められた素人は往々にして、常識外れの行動を取るものだ。
 破れかぶれ、と言ってしまえばそれまでだが、その破れかぶれが八方塞の局面を打開することは意外と多い。
 少女は左のグリップ脇にある、プラスチックカバーに覆われたボタンを親指で押し込んだ。
 普通のスクーターには、こんな場所にボタンはない。
 そもそも非常ベルに採用されているようなカバー付のボタンは、一度きりの使用を想定したもので、そのボタンは、「一度きり」に相応しい「使い捨て」のギミックを作動させた。
 突如、シートの後ろが爆発した。
 座席後部のカバーが飛び散り、ニ連装のロケットエンジンが噴炎を吐き出し始めた。
 弾き飛ばされたように、スクーターが急発進した。
 それに跨る少女は、身体を仰け反らせながらもハンドルをしっかり握り締めている。
 達也は見る見る小さくなるその後姿を唖然として見送った。
 ハンドルから手が離れなかったのは、そういう機能のついたグローブをはめていたからだ。その程度のことは考えていたらしい、と達也は思った。
 しかし、液体燃料ロケットをシートの下に仕込むなど、正気の沙汰とは思えない。
 あの燃焼時間から推定される燃料の量なら、万が一転倒した拍子に引火した場合、通行人を巻き込んで爆死確実だ。
 ロケットに点火して、転ばずに真っ直ぐ走れたこと自体、奇跡のようなものだった。
 普通なら発進時の急加速でハンドルが取られて転倒する。
 偶々ジャイロ力を増幅する魔法が働いていなかったら、前輪の摩擦係数が限りなくゼロに近づいていなかったら、おそらくそうなっていただろう。
 もしも五十里の魔法ではなく花音の魔法で止めていたら、スクーターは転倒し大惨事になっていたに違いなかった。
「……何考えてるの、あの子……」
「……お互いに運が良かった、と言うべきだろうね……」
 どうやら二人の先輩も、達也と同じ事を考えているようだった。

◇◆◇◆◇◆◇

 改造スクーターを乗り捨てた少女は、協力者が用意したボックスワゴンに転がり込んで大きく肩を上下させていた。
 自分のすぐ後ろで炎が噴き出している、というのがこれ程恐ろしいものだとは想像していなかった。
 スカートが、ブレザーの背中が、髪の毛が燃え上がっている幻覚が走っている最中、幾度となく襲い掛かって来た。
 ボックスワゴンの運転者は無言のままだ。
 彼女に対する慰めの言葉はない。
 当然だ。
 彼らは仲間ではなく、単なる協力者なのだから。
 少女は自分の肩を自分の腕で抱き締めた。
 そうやって耐える以外に、彼女に術は無かった。
 スモークガラスで薄暗くなったワゴンのシートの上で、じっと(うずくま)る少女。
 やがて、恐怖が薄れてくるに連れて、ジワジワと後悔が湧き上がり、彼女の心を苛んだ。
 追いかけられて反射的に逃げてしまったが、冷静に考えてみればそんな必要は全くなかったのだ。
 自分はただ、あの男を見ていただけなのだから。
 後ろめたさが冷静な思考を奪っていた、それを自覚して、自分が後ろめたさを抱いているという事実に少女は遣り切れない怒りを感じた。
 自分がこういうことに向いていない、ということを少女は自覚していた。
 彼女は自他共に認めるインドア派で、今までそれを改める必要を感じていなかった。
 敬愛する姉も、そうだったから。
 学究肌の姉が彼女の目標で、ただ姉ほど優秀でなかった彼女は、趣味の機械いじりを活かした技術者の道に進もうと思っていた。
 その自分が何故、こんな怪しげな連中と行動を共にしているのだろう、と彼女は自問した。
 答えはすぐに返って来た。
 彼女の心の中から。
 それは、あの男を許せないからだった。
 成功の報酬になど、彼女は興味が無かった。
 ただあの男の悔しそうな顔が見られれば、それで良かった。
 少女は不意に笑い出した。
 その点、今日は上手く出し抜けたようだ、と思い至ったからだ。
 バックミラーを見ている余裕は無かったが、きっと、まんまと逃げおおせた自分を唖然とした顔で見送っていたに違いない……
 少女の笑い声は陰気で自虐的で、狂気を孕んでいた。
 笑い続ける程、少女は壊れて行く。
 しかしこのワゴンの中に、彼女を止める者はいなかった。


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