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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第三章・横浜騒乱編
3-(2) 招かれざる客
 現代の近距離公共交通システムは「カー・シェアリング」の考え方を発展させ、大量輸送機関から少人数小型輸送機関へシフトしている。
 三十年前から始まったこの動きは大都市圏においてほぼ完成し、中小地方都市においても普及率は八割に達している。そして残りの二割は、そもそも公共交通機関が整備されていないマイカー都市だ。
 通勤や通学の近距離輸送に関しては、連結電車や大型バス等の一度に大人数を運ぶ輸送機械はほとんど使用されておらず、中高生が同じ電車やバスを利用して一緒に登下校するという景色も絶えて久しい。
 達也も本当の意味で一緒に登下校する相手は深雪だけだが、校門から駅までの徒歩十分は友人と一緒になることが多い。今日も遅くまで学校に残っていたにも関らず、校門を出る前からいつものメンバーが揃っていた。
 そのまま駅まで直行する日が圧倒的に多いが、たまに途中の喫茶店やファーストフード店に寄り道する日もある。
 学校から駅まではほぼ一本道、道なりでも一キロメートル未満だが、この短い通学路には学生向けの店がビッシリと軒を連ねている。飲食店だけでなく書店、文具店、服飾店も多く、特に魔法教育関係の品揃えは豊富で、第一高校の生徒・教職員だけでなく、わざわざ電車(キャビネット)を使ってやって来る遠方からの買い物客も少なくない。
 その中でも割と本格的な店構えの喫茶店、彼らもそろそろ常連扱いを受ける程度には足繁く通っている店に、八人は腰を落ち着けていた。

「えっ?
 達也、論文コンペの代表に選ばれたんだ?」
 今日の寄り道は、廿楽の呼び出しが何だったのかを幹比古が訊ねたのがきっかけだった。
 オーダーが届くのを待ち切れずに質問を再開した幹比古に、割とせっかちなんだな、と友人の新たな一面を発見した気分になりながら、達也は先程の一幕を説明した。
 それに対する幹比古の反応が、この台詞だった。
 深雪とほのかは生徒会室へ迎えに行った際、既に伝えてあるから別として、幹比古を含めた他の五人は目を真ん円にして驚きを表現していた。
「でも、論文コンペの代表って、全校で三人だけなんじゃないんですか?」
「まあね」
「まあね、って……達也くん、感動薄過ぎ」
 絶句する美月と呆れ顔のエリカ。その隣でレオが楽しそうに笑っている。
「達也にしてみりゃ、その程度は当然、ってこったろ」
「一年生が論文コンペに出場するなんてほとんど無かったことだよ」
「皆無でも無いんだろ?
 職員室だって、インデックスに新しい魔法を書き足すような天才を無視できるはずねえって」
 雫の反論に笑顔のまま再反論したレオ。
「天才は止めろ」
 それに対して、照れているのではなく、本気で嫌そうに達也が釘を突き刺した。
「達也さん、本当に天才と言われるのがお嫌いなんですね……」
「都合の良い言葉だから」
 裏表無く不思議そうに問い掛けたほのかに、達也ではなく深雪が答えた。
 達也は妹の回答に苦笑するだけで、そうだとも違うとも言わなかった。
「いや、やっぱり凄いよ!」
 怪しくなりかけた雰囲気を気にしてか、漂い始めた暗雲を吹き飛ばす勢いで幹比古が力説した。
「あの大会の優勝論文は『スーパーネイチャー』で毎年採り上げられているし、二位以下でも注目論文が学会誌に掲載されることも珍しくないくらいだから」
 スーパーネイチャーというのは、現代魔法学関係で最も権威が有るといわれているイギリスの学術雑誌のことだ。達也も購読しているが、高校生の論文コンペに関するコラム記事など気にしたことがなかったので、幹比古の台詞に「へぇ~」と思った。
「あっ、でも……もう余り日が無いんじゃなかったっけ?」
 ハイテンションから一転、心配そうな表情で幹比古が問い掛けて来る。
 この浮き沈みの激しさ、彼の方こそ何かあったんじゃないかと訝りつつ、達也はその問いに頷いた。
「学校への提出まで、正味九日だな」
「そんな!? 本当に、もうすぐじゃないですか!」
「大丈夫だよ。俺はあくまでサブだし、執筆自体は夏休み前から進められていたんだから」
 笑いながら手を振った達也に、それもそうか、と一同は安堵の息を漏らした。
「しかし、随分急なお話であることに変わりはありません。
 何かトラブルがあったのでしょうか?」
「サブの上級生が体調を崩したらしい」
 眉を顰めた深雪の問いに、達也は笑顔のままで簡潔に答えた。
 先程は説明しなかったが、訊かれれば隠すことでもない。
「それはお気の毒ですが、それにしても急過ぎはしないでしょうか。
 確かにお兄様だからこそ、いきなり論文作成のチームに加われと言われてもすぐに対応出来るのですから、適切な人選とは思いますが」
「そうでもないさ。
 市原先輩の選んだテーマが俺の全く知らない分野だったら、流石に遠慮させてもらったよ」
「へぇ、何について書くんだ?」
 好奇心も露わに身を乗り出してきたレオに、「アンタが訊いて分かるの?」という冷たい眼差しを向けた少女がいたが、質問者も回答者もスッパリ無視した。
「常駐型重力制御魔法式熱核融合炉の技術的問題点とその解決策についてだ」
「……想像もつかねえよ」
 もっとも質問者側はすぐに、ツッコミに対して間接的に回答する羽目になってしまったが。
「……随分壮大なテーマだね」
「達也さんが呼ばれたのですから、てっきりCADプログラミングに関する論文だと思っていました」
「あっ、私もそう思った」
「啓先輩もメンバーに入ってるからねぇ……あたしもそのテーマなら、優勝間違いなしってくらい、凄いのが出来ると思うんだけど」
 どうやら友人たちは、達也の、というか、高校生の手に余るテーマではないかと懸念しているらしい。
 達也もこの場は笑って誤魔化した。
 和やかな笑みの中で、ただ深雪だけが、笑わなかった。
 顔は笑みを作っていたが、瞳が笑っていなかった。
 常駐型重力制御魔法式熱核融合炉の研究が持つ意味を知る彼女は、兄がこの上なく本気であることを知っていた。

◇◆◇◆◇◆◇

 その日、帰宅した自宅の駐車場にシティコミューターが停まっているのを見て、兄妹は顔を見合わせた。
「――っ」
 玄関に揃えられた、地味なデザインの見慣れないパンプスに、顔を強張らせ、息を呑み、立ち竦んだ深雪の肩を、達也は優しく抱き寄せた。
 そのまま背中を押して上がり(がまち)に足を掛けたところで、パタパタとスリッパを鳴らして小走りに近づいてくる足音が聞こえた。
「――お帰りなさい。相変わらず仲が良いのね」
 からかい混じりに投げ掛けられたその言葉に、達也はスッと目を細め、ピクッ、と震えた妹の身体に、肩を抱く手を少し強めた。
「仲が良い、ですか。
 叔母上のご不興を(こうむ)りそうなお言葉ですね。
 とりあえず、今のは聞かなかったことにしておきますよ」
 冷たい眼差しに相応しい、冷却された声。
 今度は出迎えた女性の小柄な体がビクッ、と震えた。
「こちらへお帰りになるのは久し振りですね、小百合さん」
「え、ええ、その、本社に近い方が、どうしても便利だから」
「そうでしょうね」
 九ヶ月ぶりに帰宅した義理の母――兄妹の意識の中では「父親の後妻」――、司波小百合に対し、達也は素っ気無く頷いた。
 帰宅したといっても、この家には彼女の部屋も寝具も無い。彼の父親と結婚して以来、彼女はFLT〔フォア・リーブス・テクノロジー〕本社から歩いて五分の場所にある高層マンションの最上層に近い部屋で、夫婦水入らずの結婚生活を営んでいる。達也の台詞は、再婚後に一度も住んだことも無いこの家が、住民登録上の住所になっているという皮肉に他ならなかった。
 この程度の些細な嫌味に落ち着きを失っている父親の後妻を見て、深雪は逆に落ち着きと精神的な余裕を取り戻した。
 兄に肩を抱かれたまま身体の向きを変えて、正面からしな垂れかかるように達也へ顔を寄せる。他人の視線を完全に無視した所作だ。
 普段は、二人きりであっても、ここまで積極的な――はしたない、とも言う――真似はしない。
 深雪は敢えて、誰も見ていないかのように振舞っているのだった。
「すぐに夕食の支度を致しますので。
 何か召し上がりたい物はありませんか?」
「お前の作るものなら何でも。
 急がないから着替えておいで」
 小百合の方へは目もくれず、自分だけに目を向けて答えた兄の言葉に、深雪はクスッと優越感を漂わせた笑みを漏らした。
「分かりました。着替えの方も、何かリクエストがお有りでしたら。
 お兄様がお望みなら、深雪はどのような格好でも致しますよ」
「こらっ、調子に乗り過ぎだ」
 軽く小突くフリをすると、首を竦めて深雪は軽やかに二階へ駆け上がった。

◇◆◇◆◇◆◇

「では、お話を伺いましょうか」
 深雪の姿が見えなくなって、達也は所在無げに立っている小百合に声を掛けた。
 さっさとリビングに入り、ソファに腰を下して、出入り口でモタモタしている小百合に再度、声を掛ける。
「急かすようで気が引けますが、妹が席を外している間に済ませてしまいたいので」
 遠慮のない物言いにムッと顔を顰めながらも、小百合は勧められるまま達也の対面に座った。
「相変わらず貴方たちは私のことが気に入らないようね」
 取り繕っても無駄だと感じたのだろう。腰を下すと同時に小百合の態度はざっくばらんなものに変わった。
 達也の視線を気にする素振りも無く、ソファに背中を預けて脚を組む。
 研究者気質なのか、飾り気も化粧気も少ないパンツスーツ姿なので、目のやり場に困るということは無かったが。
「深雪はね。
 実の母が死んでから半年で再婚となれば、心の中にしこりを残しても仕方の無いことでしょう。
 大人びて見えてもまだ十五歳の少女ですから」
「……貴方はどうなの?」
「その様な感傷には縁がありません。俺は、そういう風に出来ています」
「……まあ、いいわ。それが本音でも強がりでも、私にはどうしようもないことだから。
 でも、私の言い分も言わせて貰うと、貴方たちにとっては半年でも、私にとっては十六年なのよ」
 そういえば若作りに見えてこの人は親父と同じ歳だったな、と、達也は世の女性を敵に回すようなことを考えた。
 彼女、司波小百合、旧姓古葉小百合は、司波龍郎が四葉深夜と結婚する前、司波龍郎と恋人同士の関係にあり、良質の遺伝子を求めた四葉の横車によって強引に別れさせられたという過去をもつ。その事を知っている達也にすれば、恨み言を口にしたくなる気持ちも分からないではない。
 ただそれはあくまで、父親と母親と彼女の問題であって、彼ら兄妹の関知するところではなかった。
 母親の生前から父親と彼女が愛人関係にあったとなれば尚更、同情の余地は無い。
「それで、本日はわざわざ、何のご用件ですか?」
 無意識の内に本題の先送りを図っていた小百合は、達也の問い掛けにグッと息を詰まらせたが、何とか不自然にならない程度の間で会話を再開した。
「……じゃあ、単刀直入に言うわ。貴方にまた、本社の研究室を手伝って欲しいのよ。
 出来れば、高校を中退して」
「それは不可能です。
 深雪が一高に通っている間は俺も一高生でいないと、ガーディアンの任務が果たせなくなります」
 遠慮のない要求に、遠慮のない拒絶。
「貴方が進学しなければ別のガーディアンが手配されたはずでしょう」
「何処の業界も魔法師は人手不足だ。
 いくら四葉でも、そう簡単に代わりのガーディアンは見つかりません」
「自分ほど優秀な護衛はいない、って言いたい訳?」
「深雪の護衛に限って言えば、その通りです」
 これは、過去何度も繰り返された遣り取りだった。
 ふぅ、と小百合が漏らした大きな溜息は、あながち演技とも見えなかった。
「……貴方の様に優秀なスタッフを遊ばせておく余裕は、うちの会社には無いのだけど」
「遊んでいるつもりはありませんが?
 今期も会社の利益に大きな貢献をしているはずですよ、俺は。
 先日は、USNA(北米合衆国。旧USAがカナダとメキシコを吸収して出来た連邦国家)の海兵隊から飛行デバイスを大量受注しているでしょう。あれだけでも前期の利益の二十パーセントになるはずだ」
 敢えて挑発的に放たれた達也の台詞に、小百合が悔しそうな表情を浮かべた。
 達也の指摘には、反論の余地が無かった。
 FLTは元々CADの完成品メーカーとしてではなく魔法工学関係の部品メーカーとして知られていた会社であり、CAD完成品メーカーとして世間に知られるようになったのは紛れも無くシルバー・モデルの功績、つまりは達也の功績だ。
 特に今回の飛行デバイスは、FLTを特化型CADの世界トップメーカーに押し上げると予想するアナリストもいる程の画期的な新製品。
 元々は研究員として入社しながら、特に目立った成果を上げられずに管理部門へ異動した小百合からすれば嫉妬せずにはいられない実績だ。
 だがそういう個人的感情を別にしても、彼女には「はい、そうですか」と引き下がれない理由があった。
「……じゃあせめて、このサンプルの解析だけでも手伝ってくれないかしら」
 そう言って小百合は、ハンドバッグから大きめの宝石箱を取り出し、慎重な手つきで蓋を開けた。
 中には赤味を帯びた半透明の玉が一つ。
「……瓊勾玉(にのまがたま)系統の聖遺物(レリック)ですね」
 魔法研究に従事する者の間でレリック(聖遺物)とは、魔法的な性質を持つオーパーツを意味する。人工物とは断定できなくても、自然に組成されるとは考え難い物質もレリックと呼ばれており、例えばキャスト・ジャミングを引き起こす性質を持つアンティナイトはレリックに分類されている。
 尚、本物の聖遺物――例えば八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)――には、研究者の手は届かない。
「何処で出土したんですか?」
「知らないわ」
「なるほど、国防軍絡みですか」
 非外資系ではトップクラスの技術を持つメーカーとして、FLTは軍関係の仕事を受託することも多い。
「解析、と仰いましたが、まさか瓊勾玉の複製なんて請け負ったりはしていないでしょうね?」
 小百合の表情が強張ったのを見て、達也は深々と溜息をついた。
「何故そんな無謀な真似を? 現代技術で人工的に合成することが難しいから『レリック』なんですが」
 オーパーツとは“Out Of Place Artifacts”の略。直訳すれば「場違いな加工品」、即ち「出土した時代の科学水準を超えている加工が施されている物」の意味であり、現代の技術で再現できないという意味ではない。
 しかしレリックは現代科学技術でも再現が困難だからこそ、「聖遺物」などと大袈裟な名称で呼ばれているのだ。
「……この仕事は国防軍からの強い要請によるものです。
 断ることは出来ないわ」
 その経営判断は、理解できないでもなかった。
 FLTに限らず、魔法産業に携わる企業は実質的に官公需企業であり、魔法産業は軍需産業と言って良い。
 CADを始めとする魔法工学製品を購入するのは実用レベルで魔法を使用する者、魔法師のみだが、その市場は他の工業製品に比較し極めて小さい。
 魔法師の希少性を考えれば、これは当然のことだ。
 現在国内で実際に魔法を職業としている魔法師の数と、魔法を学んでいる大学生・高校生の数の合計は、およそ三万人と言われている。
 つまり全員が毎年CADを買い換えたとしても、CADの国内市場規模は年間三万台分しかない。(実際の買換えサイクルはもっと長い一方、一人の魔法師が五、六台のCADを所有していることも珍しくは無いのだが)
 しかも、魔法を振興するという国策上、魔法の補助機器は安く購入できなければならない。
 実際にCADの小売価格は、一般家庭の所得水準で子供に高校の入学祝として買い与えることが出来る程度に抑えられている。
 独力では到底一つの産業として成り立たない規模と構造だ。
 故に、魔法産業に対して、国家は手厚い助成措置を講じている。
 例えばCADの購入価格の場合、その九割を国が補助している。
 店頭で売られている価格は企業が売上単価として計上する価格の十分の一なのだ。
 それ以外にも、委託研究の名目で、国は毎年多額の研究費を企業に支給している。
 業界最大手のマクシミリアンやローゼンですら、それぞれの政府に逆らえない。それが魔法産業の抱えている宿命だった。
「瓊勾玉には魔法式を保存する機能のあることが最近の研究で分かってきました」
「まだ実証されてはいないはずですが」
「そうね、まだ仮説の段階です。しかし、軍を動かすには十分確度の高い観測結果が得られています。
 出来ない、では済まされないのよ」
 魔法式を保存する機能の持つ意味は、達也にも理解できている。
 もし魔法式を保存するシステムが普及技術として実用化されれば、現代魔法に真の革命が起こる。
 魔法の自動化も、半永続的な魔法装置も夢では無くなる。
「――魔法式の保存技術に軍が目をつけるのは、確かに当然のことでしょう。
 しかし、今のFLTの業績を考えれば、敢えて火中の栗を拾う必要はないと思いますが……」
「既に賽は投げられているわ」
「何の勝算もなく、ですか」
「勝算ならあります。
 貴方の魔法があれば、解析は可能よ」
 本音があからさま過ぎる小百合の物言いに、達也は失笑を漏らした。
 要するに、彼の頭脳ではなく、彼の異能が目当てという訳だ。
 今まで通りに。
「ならば、解析業務を開発第三課へ回すことですね。
 あそこならば頻繁に顔を出しています。
 そのくらい、ご存知でしょう」
「…………」
 頷けるはずもない達也の提案に、小百合は案の定、奥歯を噛み締める表情になった。
「それとも、そのサンプルをお預かりしましょうか?」
「結構よ!」
 遂に癇癪を起こして、小百合は立ち上がった。
「よく分かったわ! 貴方の力を当てにしたのが間違いだったようね!」
 ハンドバッグに宝石箱を押し込んで、小百合は勢い良くターンした。
 足早に廊下を進む小百合を、達也は玄関まで見送った。
「貴重品をお持ちだ。駅まで送りましょうか?」
「必要ありません。コミューターで帰りますからっ」
「そうですか。お気をつけて」
 継母の刺々しい返事にまるで気を悪くした様子を見せず、達也は慇懃に一礼した。

◇◆◇◆◇◆◇

「深雪」
 達也が玄関から声を掛けると、シンプルな長袖のミニワンピースに着替えた深雪が、恐る恐る下りて来た。
「お兄様、あの、……子供じみた真似をして申し訳ございません」
 目を合わせようとしない妹の頬を撫で、その(おとがい)へと指を滑らせて、達也は人差し指でクイッと上を向かせた。
 癖のない髪がサラリと流れ、目元を赤く染めた瑞々しい美貌が露わになる。
「あ、あの……」
 まるでキスでも迫られているような体勢に恥じらいながらも、深雪は兄の眼差しから目を逸らさなかった。
 頤に当てられていた指が、再び頬を這い上がる。
 深雪はうっとりと、瞼を閉じた。
 そして、
「にゃっ!?」
 くぐもった、短い悲鳴を上げた。
「な、何をなさるのですか!」
「お仕置き」
 一歩下がって真っ赤な顔で睨みつけてくる妹に(いきなり鼻を摘まれたのだから、まあ当然の反応だろう)、達也は笑いながら答えた。
「今回は、これでお終いだ」
「もう……お兄様の意地悪」
 拗ねた顔でプイッとそっぽを向いた妹の可愛らしい仕草に、一頻(ひとしき)り含み笑いを漏らした後、達也は声を改めた。
「少し出て来る。
 しっかり戸締りをして留守番していてくれ」
「お兄様?」
 ただ事ならぬ兄の声音に、自分も表情を引き締めて、深雪は短く問い掛けた。
「危機管理意識の足りない女性(ひと)のフォローに行って来る」
 達也が脱いだ制服のブレザーを受け取って、深雪は不快げに眉を顰めた。
「……どこまでお兄様のお手を煩わせれば気が済むのでしょうか、あの人たちは」
「生憎と、見て見ぬ振りは出来ないよ。それに、何も起きない可能性も半々だ」
「分かりました。
 お兄様、お気をつけて」
 玄関の収納ボックスからグラブとヘルメットを取り出し、コート掛けのブルゾンを羽織り、足元を二輪用のブーツで固めて、手を揃えた丁寧なお辞儀で見送る深雪に、達也はしっかり頷いた。

◇◆◇◆◇◆◇

 自動運転のコミューターの中で、小百合は地球の重力を二倍くらいに感じていた。
 言葉にすれば、「やってしまった……」という後悔。
 管理部門に移って折衝事にもすっかり慣れているはずなのに、いとも容易く逆上してしまった自分が情けなくて、落ち込まずにはいられなかった。
 自分にとって義理の息子に当たるあの少年を前にすると、いつも、平常心を保つのが難しくなる。
 その理由も、彼女は自覚していた。
 恋敵の息子。
 技術者としての才能と実績。
 感情が全く読めない、得体の知れない眼差し。
 あの少年に見詰められると、自分が人間ではなく、単なる観察対象、単なるモノに堕とされてしまった様な気になって来る。
 それは彼を道具として扱っている自分たちの鏡像だ、ということまでは、彼女は理解出来ていない。
 分かっているのは、何としてでも今回の仕事に彼を協力させなければならないということであり、自分が短気を起こした所為で、それが難しくなったということだった。
 小百合は窓の外へ顔を向けたまま、大きく溜息をついた。
 そしてふと目を上げて、妙に交通量が少ないと感じた。
 さっきから対向車と全くすれ違っていないことに気がついた。
 住宅街ではあるが、まだそれほど遅い時間ではない。
 心を覆っていた苛立ちが、不安に替わった。
 コミューターのパネルに交通情報を呼び出す。
 管制センターのインフォメーションは、故障車を避けるため駅から今いるエリアへ向かう車を迂回路へ誘導している旨、告げていた。
 とりあえず合理的な説明がついて、小百合はホッと胸を撫で下ろした。

◇◆◇◆◇◆◇

 大型電動二輪で小百合のコミューターを追いかけながら、達也も交通量が少な過ぎると感じていた。
 ヘルメットのレシーバーから流れて来る音声情報は、小百合の乗るコミューターのパネルに表示されたものと同じ内容を告げている。
 だが達也はそこに、安心できる要素を全く見出せなかった。
 故障車が道路を塞いでいるという情報自体は疑っていない。
 交通管制システムに介入するのがどれほど難しいことなのかを、達也は、真田と藤林が二人掛かりでハッキングを仕掛けた現場に立ち会ったことがあるので良く知っていた。
 しかし、達也たちの自宅から駅までの道、その全てにわたって対向車を無くしてしまう為に必要な全てのポイントで、何台もの故障車が同時に立ち往生しているという状況が偶然作り出されたものだと信じられる程、彼は楽観的ではいられなかった。
 管制システムに載って走行している車の所在を突き止めることは、それ程難しくない。
 特にコミューターは地域社会共有の交通機関として、システムのクラックによる乗り逃げ盗難を防止する為、常時識別信号を出している。
 そしてその信号の見分け方は、特に秘密とされていない。
 達也は家を出たときから、小百合の乗るコミューターの位置をトレースしていた。
 そして遂に継母の乗るコミューターを視界内に捉えて、その背後をピタリと追走する、交通管制システムのコントロール下にない自走車を発見した。

◇◆◇◆◇◆◇

 コミューターのパネルに警告が点った。
 背後から管制下にない自走車が接近していることを示すメッセージだ。
 しかし小百合はそれを、特に気にしなかった。
 ドライブを趣味にする人間は今の時代にも存在する。
 技術畑の彼女は、そういうドライバーが自分の車に交通管制システムの干渉をオフに出来る改造を施したがるものだ、ということを知っていた。
 非管制車の接近を一々気にしていては限がないのだ。
 一応、シートに深く座り直して、小百合は耳障りなアラームを切った。

◇◆◇◆◇◆◇

 非管制状態の黒い自走車が加速したのを見て、達也は一気にモーターの回転数を上げた。
 加速では、達也のバイクが勝っている。
 だが距離と相対速度の関係で、黒い自走車が小百合のコミューターに接触する方が早かった。
 追い越したかと思ったらいきなり鼻先に割り込んできた自走車に、コミューターの衝突回避システムが作動する。
 急停止するコミューターに、同じく急停止した自走車から男が二人、駆け寄った。
 監視カメラが隙間無く設置されている街路上で、余りに大胆すぎる遣り口だ。
 この手口だけで、犯人は密入国者だと検討がつく。市民や正規の入国者なら、画像情報からすぐに素性がバレてしまうからだ。
 達也はヘッドライトの光量を最大にして、コミューターの扉をこじ開けようとしている二人を照らした。
 ライトをつけたままバイクを降り、男たちへと突進する。
 彼らが眩しそうに手を翳した隙に、達也は懐からCADを抜き出していた。
 一拍遅れて、男たちの一人が拳銃を構え、もう一人が拳を達也へ向けた。
 バイクのライトを受けて、その指に鈍く光る、真鍮色の指輪。
 その指輪から耳障りなサイオンの騒音が撒き散らされた。
 キャスト・ジャミング。アンティナイトにより作り出される魔法妨害の波動。
 一人が魔法防御を無効化し、もう一人が拳銃で仕留める。
 少人数の魔法師相手には、教科書の様に有効な戦法だ。
 普通の魔法師が相手ならば。
 拳銃の銃口が達也へ向けられる。
 狙いは心臓。咄嗟に回避行動をとっても完全には避けられない狙いであり、明確な殺意を表す照準だ。
 しかし男は、引き金を引くことが出来なかった。
 引き金を引く前に、拳銃がバラバラになって路上に散らばった。
 立ち竦んだ射手は、何が起こったのかを理解する間も無く、ひっくり返った。
 太腿を押さえ、路の上でのたうっている。
 次の瞬間、指輪の男が肩を押さえてよろめいた。
 声にならない悲鳴を上げ、脂汗を流して膝を突き、そのまま気を失って前のめりに倒れる。
 極細の針で貫かれたような傷の中で、皮膚と筋肉と血管と神経と骨格の全てが崩壊する激痛に意識が耐えられなかったのだ。
 分解魔法・雲散霧消(ミスト・ディスパージョン)による、人体の局所分解。
 何処をどう刺し貫けば意識の耐久力を超えた痛みを人体に与えることが出来るか。
 何処をどう撃ち抜けば四肢を意識の制御から遮断できるか。
 自分の肉体と他人の肉体を使って、達也はそれを熟知していた。
 倒れている二人を迂回して、黒い自走車へ接近する。
 自走車へCADを向けたまま、引き金はまだ、引いていない。
 圧縮ボンベ式の水素燃料車は、迂闊に攻撃すると大爆発を起こしてしまう。無論、燃焼緩和の安全装置が普通ならば組み込まれているが、安全装置を取り外した車両も自爆テロ用に出回っているのが世界の実情だ。
 深雪がいれば爆発など恐れる必要は全く無いが、生憎彼女は留守番中。道路の右手はそれなりに幅のある川だが、左手には民家が立ち並んでいる。家屋や街路への被害を考えれば、強引な手はとれない、と判断したのだ。
 しかしそれは、厳しい言い方をすれば、一種の油断だった。
 不意に右斜め上より照射された殺意。
 達也は半ば反射的に、回避行動を取った。
 その行動には、一瞬の遅滞も停滞もなかった。
 だがそれでも、超音速で飛来する凶弾をかわすことは出来なかった。
 胸に焼け付くような痛みが走った。
 銃弾が彼の左胸を貫き、
 着弾の衝撃が彼の身体を撥ね飛ばした。


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