この物語はフィクションです。
この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
新学期が始まって一週間が過ぎた。
いよいよ生徒会長選挙が公示されるとあって、関心の薄かった一年生(特にE組からH組)の間でも、誰が立候補するか、誰が有力か、といった話題が聞かれるようになっていた。
教室でクラスメイトと朝の挨拶を交わし、自席の端末を立ち上げたところで、達也は、先に来ていた幹比古に声を掛けられた。
「おはよう、達也」
「おはよう。いつも早いな」
「ハハッ、そうだね。
最近ようやく、朝の勤行に加えてもらえるようになったから、本当はもう少しゆっくりしたいんだけど……習慣かな」
勤行は元々仏門修行を指す言葉だが、神仏混淆の影響か、神道系の幹比古の実家でも「勤行」という言葉を使っている。「朝の勤行」とは要するに、早朝の修行のことだ。
幹比古は「加えてもらえるようになった」と表現したが、「また参加することが出来るようになった」が正しいということを、幹比古本人やエリカから聞いた話の断片から達也は把握していた。
着実に力を取り戻し、更に向上させている友人が、嬉しくもあり羨ましくもある。以前、摩利から一科生に転籍、というジョークを振られたことがあったが、幹比古は本当に二科生から一科生への転籍第一号になるかもしれないな、と達也は思った。
「ところで達也、変な事を訊くヤツだ、と思われるかもしれないけど……」
「変な事なのか?」
そんな身も蓋もないことを、という呟きが外野から聞こえたが、律儀に反応していると話が前に進まなくなるということは二人とも学習済みだったので、黙殺で足並みを揃えた。
「僕はそんなに変じゃないと思ってるんだけどね。
達也が生徒会長に立候補する、って本当かい?」
「……何だって?」
「いや、だから、達也が生徒会長に立候補する、って噂が流れているんだよ」
「噂……?」
先週、達也が立候補しては、と言い出したのは幹比古だったはずだ。
「僕じゃないよ!」
達也には特に目つきを鋭くしたつもりも無かったが、幹比古は身振り交じりの大慌てで潔白を主張した。
「昨日の放課後、実習室で廿楽先生に訊かれたんだ。
司波達也が生徒会長に立候補するというのは本当か?、って」
廿楽教諭は魔法幾何学が専門で魔法工学にも造詣が深く、今は二年生を教えている。
本職は魔法大学の講師だ。
学界では優秀な若手研究員として知られ、助教授の座も近い、と評価されていたが、考え方――だけならともかく言動にも少々自由過ぎるところがあって、懲罰人事的な意味合いで附属高校に飛ばされた、のだが……本人は気にするどころか却って「自由に研究できる」と喜んでいる困り者だった。
そういう気質の所為か、彼は二科生に対して特に面倒見のいい教師の一人であり、担当する学年が違うにも関らず、達也も何度か声を掛けられたことがあった。
「そんなデマが広まっているのか……?」
「あっ、やっぱりデマなんだ?」
拍子抜け、という顔をした幹比古に、達也は憮然とした表情で答えた。
「この前も言った通りだ。俺が立候補しても票が集まるとは思えないし、それ以前に立候補するつもりもない。
何故先生方の間でそんな噂が広がっているんだ?」
「さあ……?」
職員室の内情を幹比古が知っているはずもなく、案の定、彼には首を傾げることしか出来ない。
達也も答えを期待して訊いた訳ではなく、いうなれば愚痴の一種だ。
「先生だけじゃないぜ」
だが期待に反して、かなり嫌な方向の証言が耳を欹てていた傍聴人からもたらされた。
「部活中も、先輩たちがポツポツ噂してるな。
意外と皆、好意的だったぜ」
「あ、そういえばあたしも、昨日小耳に挟んだよ。一年の風紀委員が今度生徒会長選に出るって。
あれってどう考えても達也くんのことだよね?」
だよね?、と言われても達也としては頷きたくないが、諸々の情報を総合すると、そう考えざるを得ないだろう。
「私も……」
おいおい美月もか、と達也は机に突っ伏したくなった。
「昨日、カウンセリングの時に、チラッとそういう話題が出たような記憶があります」
が、噂話の相手を聞いて「前向きに対処してみよう」という気持ちが生じた。
具体的には、遥を問い詰めてみよう、という気持ちだ。それを「前向き」と表現して良いかどうかは、異論の残るところだと思われるが。
◇◆◇◆◇◆◇
達也の行動方針を「前向き」と表現することに対して、最も声を大にして異議を唱えたかったのは彼女だろう。
「まだ一時限目の途中よ」
カウンセラーにあるまじき態度だが、カウンセリングルームを訪れた達也に対して、遥は嫌そうに顔を顰めた。
どうやら、無頭竜の情報を騙し取った(!?)件で気分を害しているらしい。
――達也にしてみれば、買い取った情報の使い途まで拘束を受ける「契約」ではなかったのだが。
「一時限目の課題は終わらせました」
もっとも遥に嫌われたところで、達也はさしたる痛痒を感じない。
お互いに秘密の一部を共有しているとはいえ、持っているカードは達也の方が強いのだから。
「……これだから優等生は」
「劣等生ですよ。実技試験は赤点ギリギリでしたから」
「……それ、君が言うと嫌味にしか聞こえないんだけど」
――お互い、遠慮が要らないくらい親密だ、という言い方も、もしかしたら出来るかもしれない。
「事実ですからね。
まあ、そんなことより、一つ悩んでいる事がありまして、相談に乗っていただきたいんです」
達也がそう切り出すと、遥は目を丸くして、条件反射なのか背筋をピンと伸ばした。
「何でも相談して頂戴」
中々立派なプロ意識だが、学習能力が少し不足している感もある。
達也の持ち込む「悩み事」がカウンセラーの守備範囲外であることを、遥はそろそろ学んでもいい頃だった。
「悩みというのは、月末の生徒会長選挙のことなんです」
「今回は立候補者の募集に難航しているらしいわね。
それで? 妹さんの出馬説得でも依頼されたの?」
「ああ、確かにそれも悩ましそうですね。
しかし本日相談に乗って頂きたいのは、別の『噂』に関してなんです」
「噂?」
「ええ。
俺が生徒会長に立候補する、と職員室で噂になっているそうですが、何かお心当たりはありませんか?」
達也が真正面から遥の瞳を覗き込んでそう切り出すと、遥は一瞬、本当に一瞬だけ「しまった」という表情を見せた。
「昨日、柴田さんにその話をされたそうですね。
俺にも詳しいことを教えて頂きたいのですが」
どれほど短い時間であろうと、表情の変化を見逃すまいと凝視している目の前だ。
達也がそれを、見落とすはずも無かった。
「まさかとは思いますが、小野先生が率先して、噂をバラ撒いている、なんてことはありませんよね?」
遥の顔面筋が、目まぐるしく緊張と弛緩を繰り返した。
結局、表情として完成したのは、平凡な愛想笑いだったが。
「イヤねぇ、それこそ本当に『まさか』よ。
そんな無責任なコト、するはず無いじゃない」
唇の端が引き攣っている、ということもない。
彼女の表情作りは、顕著に進歩しているようだ。
「……一体どういう経緯でそんなデマが流れているんですか?」
「何だ……やっぱりデマなの。
まあ、そうよねぇ……司波君は矢面に立つより、黒幕・秘密工作タイプよね」
「否定はしません」
二人は顔を見合わせて、人の悪い笑みを交わした。
もしかしたら共通の師匠に影響されているのかもしれない。
だが、その程度の共通点は、馴れ合う理由にはならない。
「それで、一体どういう経緯で、俺が生徒会長に立候補するなんてデマが流れているんですか?」
「ゴメンなさい、私も良く知らないのよ」
「そうですか。
それでは知っている部分だけで結構です」
「…………」
達也は至極当たり前、という顔で遥の答えを待っている。
此処でとぼけても何の益にもならない、と遥は悟った。
そもそも、訊かれていること自体は、とぼける必要の無いことなのだ。
「……誰が言い出したことなのかはハッキリしないんだけど……
一種の伝言ゲーム状態、と言えばいいのかな?
服部君が立候補しないらしい。
中条さんが立候補しないらしい。
生徒会は立候補者探しに困っているらしい。
司波さんなんか面白いんじゃない?
……という話が何時の間にか、
司波さんが立候補するらしい、
から、
司波君が立候補するらしい、
えっ、司波君って?
ほら、あの風紀委員の、
ああ、新人戦にも出てた?
ふ〜ん、面白いんじゃない?
……という話に化けちゃっているのよ」
遥の話を聞いて、達也は椅子から滑り落ちてしまいそうなくらい、脱力してしまった。
「……そんないい加減な噂が、何故先生方の間で信じられているんでしょうか?」
まあ、噂というのは元来、無責任でいい加減なものなので、同級生や上級生が井戸端会議の肴にする程度ならば、達也もいちいち気にしない。いちいち気にしていては限がない、と弁えている。
しかし、職員室で、廿楽のように優秀な――少なくとも知的には優秀な――教師まで本気にしている節がある、というのは看過しかねる現象だった。
達也はまだ、誰かが意図的に情報を操作している可能性を捨てきれていなかった。
「本気にしてる人が多いのは、生徒より寧ろ先生の方ね。
四月の顛末、生徒に対しては情報が統制されているけど、職員室は事実を知ってるから」
「……『ブランシュ』の件ですか?」
「そうよ。あの一件を司波君が中心になって解決した、ということを高く評価している先生も少なくないのよ」
不覚にも、予想外の話だった。
あの一件がそんなに目立っていたとは……自分の認識が甘かったと言わざるを得ない、と達也は思った。
「具体的にどうやったかは十文字君が握り潰しちゃったから分からないけど、力ずくでテロリストを追い払った、ということだけは分かってるから、その点も高く評価されているポイントね。
それで、魔法科高校の生徒会長というのは時に実力行使も求められる役職だから、それだけの制圧力を持っているなら一年生でも面白いんじゃないか、って考えている先生、結構いるわよ?」
……拙いことになっている、と達也は思った。
遥に謝辞を告げながら、何とかしなければ、と達也は考えた。
――カウンセリングルームを出て行く直前に、情報収集の手段については詮索しない、と付け加えることも忘れなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
しかし、実態の無い噂話に打てる手立てなど限られており、しかもそれは彼の一存で実行出来る類のものではなかった。
だから、事態を打開する足掛かりになる、という意味では、彼女の来訪は歓迎すべきこと、なのかもしれなかった。
――そういう風に考えて自分を慰めてみても、今この時の煩わしさは少しも目減りしてくれなかったが。
一クラス二十五人というのは結構少人数だ。誰が何をしているのか、一目で把握できる程度には。
だから、と言うべきか、それまで彼と授業開始前の雑談をしていた四人以外の二十人が、一人の例外も無くこちらを窺い見ながらヒソヒソと噂話をしているのが嫌でも分かってしまう。
断片的に「やっぱり」とか「会長」とか「選挙」とかの単語が漏れ聞こえて来る。
居心地の悪いこと、この上なかった。
「達也くん、お願い。チョッと時間を貰いたいんだけど」
一年生の教室に堂々と入ってきて(と言っても、この時代、上級生はそんなことを余り気にしないものだが)、椅子に座ったまま向き直った彼の前で立ち止まるや否や、可愛らしく(!)目の前で両手を合わせて、真由美はそんなことを言い出した。
彼女の背後で鈴音が呆れた顔をしているのは、この際、横に置いておく。
達也はディスプレイの隅に表示されているデジタル時計にチラリと目を走らせた。
二時限目の開始迄、休み時間は残り五分だ。
二人が三年生の教室へ戻る時間を考えると、話をする時間は一分程度しかない。
「生徒会の公務ということにしておけば、減点されることは無いから」
無言の問い掛けを読み取って、手を合わせたまま真由美は答えた。
ただ、合わせた位置は微妙に下がって来ており、このままだと「合掌」が「乙女の祈り」に変化しそうな、嫌な兆候があった。
胸の前で両手を組んで、瞳を潤ませて、くらいの芸当は、真由美ならばやりかねない。
二時限目は一時限目に引き続き、端末を使った座学だ。二十分や三十分席を外したところで、達也には何の差し支えも無い。
達也は友人たちに目配せして席を立ち、真由美に向かって軽く会釈した。
真由美は入れ替わるように達也の机の前に立つと、生徒会長特権が書き込まれた自分のIDカードをリーダーに翳した。
◇◆◇◆◇◆◇
連行された先は生徒会室。
どうせ昼食時にはここに集まるのだが、と考えて、何故、今、ここに連れて来られたのかを、達也は理解した。
「授業中にすみません。
もう日が無いものですから」
鈴音に謝罪されて、達也は「いえ、構いません」と首を振った。
「ありがとう。そう言ってくれると助かるわ」
ふう〜、と大袈裟に息をついて、真由美が本題を切り出した。
「実は、今度の生徒会選挙のことなんだけど……」
予想通りの用件。
達也の回答は、既に決まっている。
「深雪には、まだ早いと思います」
「深雪さんに……って、何故分かったの?」
目を丸くして「まさか、読心術?」とあたふたしている真由美に、達也は苦笑しながらタネを明かした。
「昼休みではなく、わざわざ授業中に連れ出したのは、深雪のいないところで相談をしたかったからでしょう?
ならば時期的に考えて、生徒会長選挙に深雪の立候補を、というお話だと考えました」
達也は別に、推理力を誇示する為に台詞を先取りしたのではない。
真由美一人ならばともかく、鈴音とのタッグが相手では、出鼻を挫いておかないとこちらが説き伏せられてしまう、と恐れたのだ。
先制攻撃の狙いは今のところ的中している。
相手が――特に鈴音が態勢を立て直す前に、達也としては畳み掛けておかなければならない。
「一年生の生徒会長という例が世間的に皆無ということは無いでしょう。
ですが、深雪にはまだ早過ぎます。
アイツにはまだ、組織のトップは務まりません」
「……中学校時代は、生徒会長のような役職には就かなかったのですか?」
「俺が止めました」
「しっかりしている様に見えるけど……」
「深雪はまだ子供です。
俺が世話を焼き過ぎるという面もあるのかもしれませんが。
アイツはまだ、自分を上手くコントロール出来ていない。
せめて、魔法を暴走させるようなことが無くならなければ」
真由美も鈴音も色々と言いたい事がありそうな顔をしていたが――主に、「世話を焼き過ぎ」なのは「かもしれない」じゃなくて「事実」、と言いたかったのだが――魔法を暴走させるという欠点は、生徒会長として目を瞑っていられるものではない、という指摘に反論は出来なかった。
「――でも、困ったわね。
明日には選挙が公示されるのに、立候補者がいないなんて……」
「立候補の締め切り迄は、一週間あると思っていましたが?」
それまでに立候補者が現れればいいのではないか? という達也の「そもそも論」に、真由美は暗い顔で首を振った。
「次期会長候補の絞り込みも生徒会の役目なのよ。
そうじゃないと、候補者が乱立して収拾がつかなくなるから」
「……候補者が大勢立つのは選挙のあり方として健全だと思いますが」
「例えそれが、魔法の撃ち合いに発展しても?
相手は生徒会長になろうという猛者ぞろいよ?」
確かにそんなことになったら、新入生勧誘週間以上の大騒動だろう。
「……幾ら何でもそれは……それこそ、生徒会長になろうという人たちですよ?」
しかし生徒会長になろうというのだから、ああいう騒ぎを起こさせないようにする側のはずだ。
「甘いわね、達也くん」
だが達也の常識論は、真由美によってバッサリ切り捨てられた。
「当校の生徒会長には大きな権限がありますし、卒業後も高く評価されますから。
現に四年前、『民主的で自由な選挙』を標榜した当時の生徒会は、重傷者が二桁に達した時点で『自由な選挙』の看板を下ろし、生徒会長が副会長を次期会長に強く推薦することでようやく事態を収拾した、という記録が残っています」
「……何処の発展途上国にあるんですか、この学校は」
「魔法という大きな力を持って完全な自制心を発揮できる程、高校生は大人じゃない、ってことよ。
だから、ね? 達也くんから見ればまだまだ子供なのかもしれないけど、深雪さんだってきっと大丈夫よ。
地位が人を育てる、って言葉もあるんだし」
そう来たか、と達也は思った。
伊達に一年、生徒会長は務めていないな、と思わせる中々の粘り腰だ。
しかし――
「深雪に拘らなくても、中条先輩が立候補すれば済む話だと思いますが?
順番から言っても実績から言っても、次の生徒会長は中条先輩の方が相応しいのでは?」
達也がこう指摘すると、真由美は苦い顔で黙り込んでしまった。
「…………確かにその通りなのですが…………」
鈴音も言葉が続かない様子だった。
そう、これは、言われなくても分かり切った事なのだ。
あずさがどうしても首を縦に振らないから、達也のところにこんな話が持込まれたのだということは、改めて説明するまでも無く明白だった。
だが達也の次の台詞は、真由美にも鈴音にも完全に予想外だった。
「――何なら、俺が中条先輩を説得しましょうか?」
「えっ? ……達也くんがあーちゃんを説得してくれるの?」
「ええ」
真由美は意外過ぎてどんな顔をしていいか分からない、という様子だったが、ジワジワと達也の言葉が意識へ浸透して行ったのか、不意に、ガッシリと彼の手を掴んだ。
「本当にやってくれるの?
だったら是非!
是非お願い!
ヤッパリ達也くんは頼りになるわ!」
彼の手を掴んだままブンブンと上下に振り回し始めた真由美に、達也と鈴音は顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
◇◆◇◆◇◆◇
その日のランチタイムは、小動物的な危険予知が働いたのか、あずさは生徒会室に来なかった。
この分では放課後も何かと理由をつけて休むかもしれない、と考えた達也は、五時限目終了直後、あずさの教室に乗り込むことにした。(魔法科高校の時制は午前三時限、午後ニ時限の五時限制)
教室の出入り口から中の様子を窺う。
あずさはそそくさと帰り支度をしているところだった。
彼女としては捕まる前に逃げ出す算段だったのだろうが、授業時間の最後まで端末の前から離れない生真面目さが災いしたようだ。
彼と一緒ならばルールの棚上げを厭わない――重大犯罪に手を染めることすら躊躇わないだろう――妹を引き連れて、達也は2−Aの教室に踏み込んだ。
何だコイツ、という視線が、主に男子生徒から達也へ向けられたが、下級生が教室に入って来ただけで突っ掛かっていく様な幼稚なメンタリティの持ち主は流石にいなかった。――女子生徒から達也へ向けられた、ブランド物を品定めするような興味津々たる視線の圧力を前にして、直接的な行動に出ることは困難だった、という事情もあったようだが。
達也は可愛げ無く、両方の視線を黙殺して、真っ直ぐあずさの席へ向かった。
あずさは途中で達也が歩み寄ってくるのに気付いていたが、「逃げ出すのも変だし」と迷っている内に目の前へ立たれてしまった。
おどおどした愛想笑いを浮かべながら、あずさが立ち上がった。
その手にはしっかり鞄が握られていたが、足は動かなかった。
達也とあずさの身長差は約三十センチ。
普段は威圧感を与えないよう距離を置いて相対するし、近くで話をするときは腰を下すようにしているが、今は敢えて、間近で見下ろすようにポジションを取っている。
顔には爽やかな(?)笑みを浮かべているが、達也の目は、あずさの瞳を射竦めて逃さなかった。
「中条先輩」
達也の容姿は飛び抜けて整っている訳ではなく、声も聞き惚れるほどの美声ではない。
だが戦闘訓練で鍛えられた喉と肺活量のお陰か、徹りが良く深みのある声をしている。
若い女の子であれば、「渋い」とか「大人っぽい」とかいう感じ方をするかもしれない声だ。
「少しご相談したいことがあるんですが」
そして気の弱い少女であれば、抗い難い圧力を感じるかもしれない声だ。
「あの、わたし、今日はチョッと……」
「それほどお手間は取らせませんから」
それでも何とか逃げ道を探すあずさの退路を断ち切るように、少しばかり語調を強めて達也は言葉を重ねた。
思い掛けない強引さにあずさが目を白黒させる一方で、二人を見ていたあずさのクラスメイトたち(主に女子生徒)は目と目の会話からヒソヒソ話に移行していた。
断片的に漏れ聞こえてくる「意外と強引」とか「野生的」とか「チョッと良いかも」とかの台詞と共に、粘りけのある眼差しが投げ掛けられる。
兄に向けられた視線に意識的・無意識的な媚を感じて、深雪は急速に機嫌を傾けていた。
そして達也の背後から――つまり深雪から漂ってくる「不機嫌のオーラ」も、あずさには多大なプレッシャーになっていた。
「五分で結構ですから」
「……本当に、五分だけなら……」
キャッチセールスの常套文句じみた台詞に乗せられて、と言うより無理矢理頷かせられて、あずさは達也の背中に続いた。
手錠も引き縄も無く手を繋いでさえいなかったが、それはどう見ても「連行」されている構図だった。
◇◆◇◆◇◆◇
「手短に言います」
カフェの片隅の席で、腰を下すなり、達也はそう切り出した。
「中条先輩。会長選挙に立候補して下さい」
「やっぱりその話……会長からわたしを説得するよう、依頼されたんですか?」
「ええ」
最初は「あずさの説得」ではなく「深雪の説得」を依頼されたのだが、達也はその事をおくびにも出さなかった。
「……わたしには無理です。生徒会長なんて大役、務まりません」
膝の上に置いた両手をギュッと握り締め、俯いたまま首を横に振る。
あずさの態度は予想以上に頑なだった。
今にも泣き出しそうな気配がある。
追い詰め過ぎると、本当に泣き出してしまうかもしれない。否、「かもしれない」ではなく、その可能性が高い。
だがその程度で諦めるなら、達也も最初から説得を請け負ったりはしなかった。
「服部先輩は次期部活連会頭に推されているので、生徒会長選挙には立候補しないそうです。
中条先輩が立候補しなければ、生徒会によるコントロール無しの選挙になってしまいます」
「それでも良いじゃないですか。わたしより生徒会長に相応しい人は一杯います」
あずさの居直り気味な答えを受けて、達也は深々と溜息をついた。
「…………」
「…………」
沈黙が十秒も続かない内に、あずさはソワソワと落ち着かない素振りを見せ始めた。
チラリ、と達也に目を遣って、何の反応も得られない、と分かるや、今度はチラリと深雪の方を窺い見る。
深雪は感情の読めないアルカイックスマイルを浮かべてあずさを見詰めている。
その笑みに引き込まれていきそうな錯覚を覚えて、あずさは慌てて顔を逸らした。
達也の方へ。
そして、バッチリ目が合った。
あずさは「あうう」とでも言い出しそうな顔で硬直した。
達也はもう一度、溜息をついた。
「本当に、良いんですか?
――四年前の悲劇を再現することになっても」
悲劇だなんて大袈裟な、と傍で聞いていた深雪は思ったし、達也自身も大袈裟だと感じていた。
だがあずさは、と見ると、まともにショックを受けて顔を蒼褪めさせていた。
「当時は、重傷者が十名を超えたそうですね。詳しい記録は中条先輩の方が良くご存知だと思いますが」
可哀想に、あずさは動揺の余り唇が細かく震えていた。
しかし達也は、
「当時の映像記録も残っているんでしたっけ?
魔法による重傷……出来れば見たくない代物ですね」
更に追い討ちを掛けた。
生徒会書記の主な仕事は、生徒会の記録の管理。
それだけの大事件の記録であれば、整理する都合上、触りだけでも視聴しているはずだ。
案の定、あずさは唇だけでなく、身体ごとブルブル震え出した。
「歴史は繰り返すということでしょうか……」
「……わっ、わたしに、どうしろと……」
切羽詰った表情を浮かべるあずさに、カフェに着いてからずっと沈黙を守っていた深雪が、優しい声で答えた。
「中条先輩が生徒会長選挙に立候補されれば、そのような事態を招かずに済みますよ?
大丈夫です。先輩ならきっと上手くやれます」
あずさの眼差しが、大きく揺らいだ。
兄が脅し、妹が手を差し伸べる。
実に見事なコンビネーションだった。
「ああ、そう言えば」
それまでの深刻な――振りをした――表情を緩めて、如何にも「ふと思い出した」という顔で、達也が次の「飴」を持ち出した。
「再来週発売になるFLTの飛行デバイスが、モニター用に二つ、手に入りまして……」
その言葉を聞くや否や、あずさの目が爛々と輝きだした。
蒼褪めていた顔に紅く血の気が差し、俯き加減だった身体をテーブルに乗り出して来た。
「……それって、もしかして、シルバー・モデルの飛行魔法特化型CADですか?
七月に発表されたばかりの飛行魔法を、最も効率的に起動できるという、あの、シルバー・モデルの最新作!?」
頷く達也の顔を、あずさは食い入る様に見詰めている。
彼女の眼差しは「欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい……」と訴えかけていた。
「まあ、モニター品ですから、シリアルナンバーが刻まれていない非売品ですが」
ゴクリ、とあずさの喉が動いた。
彼女の瞳は、熱病に浮かされているかの様に霞が掛かっていた。
「しかし、性能的には製品版と変わりませんので、生徒会長就任のお祝いにでも、と思っていたのですが」
「本当ですか!?」
あずさが歓声を上げて立ち上がった。
椅子が倒れて大きな音を立てたが、あずさは何事かと集まって来る視線をまるで気にしていなかった。
と言うより、気に掛ける精神的な余裕が無かった。
「ええ、中条先輩には深雪がお世話になっていますし、新生徒会長ご就任ともなれば、それ位のお祝いはしなければ、と考えていたのですが……」
「やりますっ!
誰が相手でも負けません!
わたし、絶対生徒会長に当選して見せます!」
まだ見ぬ対立候補の幻影を睨みつけて、あずさは力強く断言した。
そもそも立候補者がいない所為で自分がこうして脅し賺しの説得を受けていたということも、このまま行けば信任投票にしかならないということも、それ以前に自分が立候補を固辞していたということも、あずさの意識からすっかり飛び去っていた。
狂躁状態に陥ったあずさの前で、達也と深雪はこっそり頷き合った。
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