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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第二章・新人戦編
2−(28) 番外編〔夏の休日〕
『海に行かない?』
 ――発端は雫のそんな一言だった。
「海って、海水浴?」
 雫、ほのかと電話で井戸端会議を楽しんでいた深雪がそう訊ねると、
『うん』
 雫から端的な肯定の返事があった。(現代のテレビ電話システムは標準仕様で十人まで同時通話が可能となっている)
『あっ、もしかして雫のお家の?』
『うん、そう』
「えっ、もしかしてプライベートビーチを持っているの?」
『うん、小笠原に……』
 深雪の質問に、雫が再び頷く。
 その表情は少し恥ずかしそうだ(慣れていない者には全くのポーカーフェイスに見えるだろうが)。
 最近、小笠原の無人島に別荘を持つのが資産家の間で流行っており、口汚いことが知性の表現と勘違いしている無知な評論家から僻みを込めて「自然破壊の成金趣味」と誹られている。
 別荘を建てられるような無人島は無人化した元有人島ばかりであり、人が住まなくなったことによって土地が荒れているのが実態だ。そこにゼロエミッションを実現している(エネルギー源に太陽光を利用しているからエネルギー面を含めれば完全なゼロエミッションではないが)高級別荘を建てることは、自然破壊どころか国土の有効利用であって、恥じる必要は全く無いのだが。
 ただプライベートビーチ付きの別荘を持てるのは資産家と呼べる富裕層の中でもほんの一握りであり、北山家の実力が垣間見える話だった。
『……父さんが、「お友達をご招待しなさい」って。
 どうやら深雪と達也さんに会いたいみたい』
 気を取り直して(これまた、付き合いの浅い者には分からないだろうが)背景を説明した雫の言葉に、ほのかが少し引き気味に呟いた。
『今年は小父様がご一緒なんだ……』
『安心して。
 顔を見せるのは最初だけ。
 なんか、仕事が山積みで、数時間空けるだけで精一杯みたいだから』
 ディスプレイの中で、ほのかの顔が安堵に緩んだ。
「わたしは構わないけど……何時にするの?」
『決めてない。達也さんの都合の良い時で、って思ってる』
 表情で「お兄様のご都合を伺わないと」と付け加えた深雪に、雫は実に良く理解している答えを返した。

◇◆◇◆◇◆◇

「……ということなんですが」
 達也がこの話を聞いたのは、次の日の朝食の後だった。
 まず最初に、「夜中までそんな話で盛り上がっていたのか」と達也は思ったが、口にしたのは当然、別のことだ。
「メンバーは雫とほのかと俺たちだけかい?」
「エリカと美月と西城君と吉田君も誘いたい、と雫は言っていました。
 ただ、わたしたちほど親しくないので、エリカたちはわたしから誘ってもらえないか、ということでしたが」
 達也はコーヒーを口に含み、頭の中にスケジュール表を広げてみた。
「……来週の金、土、日は空いてるよ。
 それ以降は一寸難しいな」
 魔法科高校の夏休みは八月末まで。(理科高校や文科高校は八月中旬で夏休みが終わるところも多く、芸術科高校や体育科高校は九月の半ばまで夏休みというところが多い)
 去年、一昨年の達也の夏休みは、独立魔装大隊の訓練と、研究所通いでほとんど丸々潰れた。(去年の夏はこれに加えて受験勉強――主に、深雪の家庭教師役――で埋まっていた)
 今年は前半に九校戦があった所為で、余計タイトなスケジュールになっている。(発売が来月に迫った「飛行魔法専用デバイス」の開発がそれに輪を掛けていた)
 彼にとって、夏休みは今年も「休み」では無かった。
「それでは来週の金曜日から日曜日にかけての二泊三日で。
 雫に連絡して参ります」
 だからこそこういう機会は逃してはならないと、深雪は張り切っていた。
 彼女としては、二人きりでないのが少し残念だったが、自分の欲求よりも兄のリフレッシュの方が当然優先されるのだった。

◇◆◇◆◇◆◇

 雫の方はどうやら本当に達也の為に予定を空けていたらしく、深雪からの電話に二つ返事で頷いた。
 ほのかには雫から日程を連絡し、エリカと美月には深雪から、レオと幹比古には達也から誘いを掛けたのだが、誰一人として都合の悪い者がいなかったのは、果たして本当に偶然なのかどうか、達也は眉に唾を付けてみたくなった(実際には、やらなかったが)。
 そしてあれよあれよという間に旅行当日。(それまでに女性陣の買い物に付き合わせられて、デパートの水着売り場で注目を集めまくったというイベントもあったが、このイベントは達也が記憶の引き出しの奥にしまいこんで、その引き出しを溶接してしまったのでここでは割愛する)
 指定された集合場所は何故か、空港ではなく葉山のマリーナだった。
「わぁ……素敵なクルーザーねぇ」
 今回は場違いでないショートパンツから、すらりと形の良い脚を惜しげもなく露出させたエリカが、目を輝かせて白い船体を見上げている。
「エリカのお家でもクルーザーくらい持ってない?」
 微妙に照れた顔で(達也にも大分、雫の表情が解るようになってきた)問い掛けた雫に、エリカは苦笑いを浮かべて首を振った。
「船は持ってるけど、あれは『クルーザー』とは言えないよねぇ……ってか、言いたくない。
 普段はスタビライザーをオフにしてるから乗り心地最悪だし」
「……もしかして、訓練の為?」
「そうよ」
「徹底してるのね……」
 深雪が呆れ顔で呟く隣では、美月がどういう顔をしていいか分からない、とばかり曖昧な笑みを浮かべていた。
「フレミング推進機関か……このサイズでまさか核動力じゃないだろうから、光触媒水素プラント+燃料電池かな?」
「念の為に水素吸蔵タンクも積んであるよ」
 一方、男の子らしく(?)メカニック面に興味を引かれて、推進機関を(つぶさ)に見ながら独り言を呟いた達也に、予想外の答えが返って来た(答えが返って来ること自体を予想していなかった)。
 振り返るとそこに、「船長」がいた。
 ギリシャ帽を目深に被り飾りボタンの付いたジャケットを着込み、ご丁寧にパイプまで咥えている。
 ただ少し、恰幅が足りない気がする。
 肥満は治療薬の普及によって二十年前に社会から駆逐されているが、船長のコスプレをするならもうチョッと肩幅が欲しいところだ。
 達也が困惑顔のままそんなことを考えていると、「船長」の方から握手を求めてきた。――ちなみに左手は、クラシカルなパイプを如何にもな手つきで握っていた。(良く見るとパイプの中は空だった)
「司波達也君だね?
 映像で見るより好い男だ。実に頼り甲斐のありそうな風貌をしている。
 私は北山潮(きたやま・うしお)、雫の父親だ」
 予想よりかなり気さくな人柄に戸惑いを禁じ得なかったが、達也は普通の高校生より遥かに社会経験が豊富だ。
 戸惑いを(おもて)に出すようなことはせず、そつのない挨拶を返した。
「初めまして、司波達也です。
 ご高名はかねがね承っております。
 この度は妹共々、よろしくお願い致します」
「こちらこそよろしく。
 うん、雫の目は確かなようだ。
 我が娘ながら、なかなかシッカリしてるじゃないか」
 いきなり繰り出された親バカ発言に、達也は「これがあの『北方潮』か……」と心の中で溜息をついた。
 名前を以前から聞いていた、というのは単なる社交辞令ではなかった。
 企業の経営層がプライバシー防衛の目的で、本名ではなくビジネスネームを使用するのは、今では寧ろ普通のことだ。
 彼の父親も本名の「司波龍郎(しば・たつろう)」ではなく「椎原辰郎(しいばら・たつろう)」の名前でFLT開発本部長の職についている。
 雫から父親が会社を経営していると聞いた時にはピンと来なかったが、その後にビジネスネームを教えて貰って、そんな大物が出て来るとは、とその時はかなり驚いたものだ。
 晩婚だった所為で(魔法師との結婚に関わる様々な障碍を乗り越えるのに歳月を要したのだ)、もう五十歳を超えているはずだが、この気さくな、というより寧ろ剽軽な雰囲気は、四十歳前後にしか見えなかった。
「――深雪!」
 目礼で断りを入れて、達也は妹を呼んだ。
 小走りで駆けて来た深雪は、すぐに状況を察して、雫の父親に向かい淑やかに腰を折った。
「初めまして、司波深雪です。
 この度はお招きいただきまして、ありがとうございます」
「ご丁寧にありがとう、レディ。
 北山潮です。
 貴女のように美しいお嬢さんを迎えられるとは、この船にとっても当家のあばら屋にとっても望外の栄誉と申せましょう」
 胸に手を当てて芝居っ気たっぷりに一礼した潮に対し、深雪も付き合いよくニッコリ笑って洋風に膝を折って見せた。
「あら、小父様。私の時はそんなことは仰らなかったと思いますが?」
「お父さん、みっともないから鼻の下を伸ばさないで」
 そこへいきなり、言葉の矢玉が飛んで来た。
「いやいや、私は鼻の下を伸ばしてなど……」
 娘一人なら適当に誤魔化すことも出来ただろうが、小学生の頃から知っていてもう一人の娘のように可愛がっているほのかとのツープラトンは、敏腕実業家にも捌き切れなかったようだ。(ちなみに潮が来ると聞いてほのかが躊躇を見せたのは、本当に娘と勘違いしている節があるのか、毎回少なからぬお小遣いを渡されるのが心苦しい所為だったりする)
 少し距離を置いてついて来たエリカたちへ大袈裟な身振りを交えて話し掛けたのは、明らかに話を逸らす為だった。
「――おお! 君たちも娘の新しいお友達だね?
 歓迎するよ。楽しんでいってくれたまえ。
 残念ながら私はもう行かなければならないが、自分の家と思って寛いで下さい」
 取引先相手と娘相手では勝手が違うのだろう。言葉遣いが不統一な辺り、動揺が見え隠れしている。
 そそくさと大型乗用車に乗り込んだ雫の父親を見送りながら「船に乗らないならあの格好は何だったんだろう?」と、達也は誰にも聞こえないように呟いた。

◇◆◇◆◇◆◇

 別荘がある聟島列島まで約九百キロ。実際最高時速百ノットのフレミングシップでおよそ六時間の船旅である。
 何を好き好んで飛行機ではなくわざわざ船を使うのか(プロペラのVTOLは自家用機として今や珍しい物ではないしフレミング推進のクルーザーより寧ろ安い)、達也には今一つ理解出来なかったが、レオやエリカに言わせると、「これぞ旅の醍醐味」なのだそうである。
 目的は旅じゃなくて海水浴だろう、と思わずツッコミを入れそうになったが、「やはりこの二人は息が合う」と心の中で呟くにとどめた。
 まあ、連れて行ってもらう立場ではあるし、船酔いをする訳でもない。移動時間を考慮して朝六時などという早い時間に集まったのだ。さっさと出発できるよう、達也は船へ乗り込んだ。
 外から見ても大きかったが、甲板は外から見た以上に広かった。流石にプールがあるとかシアターがあるとかいうことは無かったが(「豪華客船」ではなく「クルーザー」なのだ!)、八人がデッキチェアを並べて更に釣り糸を垂れてもまだまだたっぷり余裕がある広さだった。――もっとも、空気抵抗を考慮して甲板全体が流線型の透明なドームで覆われているから、実際に釣り糸を垂れることは不可能だが。
「でも、低速航行時は側面を開くんですよ」
 そう説明してくれたのはこのクルーザーの操舵手であり、行き先の別荘では彼らの身の回りの世話もしてくれるというマルチなハウスキーパー、黒沢女史だ。
 彼女の外見は……ハウスキーパーというより、もっと適切な単語があるような気もするが。年齢もせいぜい二十台半ばにしか見えないし。
 と言ってもほわほわ、っとしたイメージではなく、テキパキという擬態語が似合いそうなタイプだが、真夏の太陽が照りつける海の上、いくらドームで過剰な光線がカットされているとはいえ、あの格好は暑いのではないだろうか。いや、本人よりも見ている方が。
 もっとも、サマージャケットとはいえ長袖の上着を今もシッカリ着込んでいる達也に、そんなことを考える資格は無いかもしれない。
 船のデザインは船首上部に操舵室、その下にキャビン、操舵室の天井から透明なドームが伸び、後ろ半分が甲板となっている。
 黒沢は全員乗船を確認してすぐ操舵室に引っ込み、間も無く船は岸を離れた。

◇◆◇◆◇◆◇

 途中嵐にあうこともなく、波はそこそこ荒かったがスタビライザーと揺動吸収システムのお陰で揺れに苦しめられることも無く、船は無事、別荘のある媒島へ着いた。
 この島の珊瑚礁は野生化した山羊が原因で前世紀後半に死滅の憂き目を見ている。
 その後、人工的な珊瑚礁回復も図られたが、結局上手く行かず、赤土を浚渫した後の海岸は別荘を建てた民間資本により埠頭と砂浜に作り変えられた。所謂「知識人」に「自然破壊」と誹られる所以である。
 しかし、ここが有人島だった当時は珊瑚礁破壊は起こっていないし、野生化した山羊を駆逐したのも人の手だ。
 人間がいるから自然破壊が起こるのか、人間がいなくなったから自然破壊が起こったのか。
 ついついそんな、皮肉な思考に沈んで行きそうになったが、現実に今、遊ぶ為にここへ来て埠頭と砂浜を使っている自分が偉そうに批評できることではないな、と達也は思い直した。
 彼の独白からも分かるとおり、達也たち一行は到着もそこそこにビーチへ来ていた。
 白い砂、眩い太陽。
 しかしビーチは、それ以上に眩しかった。
「達也く〜ん、泳がないの〜〜?」
「お兄様ぁ〜〜、冷たくて気持ちいいですよ〜〜」
 砂に刺したパラソルの日陰で、達也は曖昧な笑顔で手を振った。

 ――それにしても、眩しい。

 何が眩しいかというと、波打ち際で戯れる少女たちの水着姿が、である。
 まず目を惹くのが、派手な原色チェックのワンピースを着たエリカ。余計な飾りが無いシンプルなデザインは、彼女のスレンダーなプロポーションを更に引き立たせている。
 その隣で手を振る深雪は、大きな花のデザインがプリントされたワンピース。日に日に女性らしさを増して行くプロポーションを派手な絵柄が視覚的に(ぼか)し、生々しさの希薄な、妖精的な魅力を強調している。
 意外だったのが美月。
 細かな水玉模様のセパレート。ビキニというほど露出は無いが、胸元の深いカットに豊かな胸が強調されて、いつもの大人しいイメージからは想像出来ない艶かしさだ。ただ、肩幅、腰幅が狭い所為か、ウエストの曲線が足りないのはご愛嬌と言うべきか。
 同じくセパレートながら、ワンショルダーにパレオを巻いたアシンメトリーなスタイルで大人っぽく決めているのがほのか。
 単なる大きさではなく凹凸でいうなら、この中で一番プロポーションが良いかもしれない。
 雫は逆に、フリルを多用した少女らしいワンピースだ。こんな時でも表情に乏しい大人びた顔立ちの雫が着ると、何やら倒錯的な、妖しい魅力があった。
(……いかん、洗脳されてしまいそうだ)
 何に、と問われても今の達也には答えられなかっただろうが、とにかくそういう気分になって視線を横にずらした。
 結構沖の方で、派手な水飛沫が上がっている。
 レオと幹比古が競争(競泳)しているのだ。
 達也の見るところ、レオは素ではしゃいでいるのだが、幹比古はかなり煮詰まって自棄になっていた。
 ……一人だけでも同士がいるのは心強い。
 達也は水平線へ目を向け、抜けるような蒼穹にボウッと心を委ねた。
 ふと、間近に人の気配を感じた。
 そちらに目を遣り――声を出さなかった自分を、達也は褒めてやりたかった。
 五人が、腰を屈めて彼の顔を覗き込んでいる。
 普段ならともかく、今の格好でこの体勢は、些かならず拙かった。
「達也さん、考え事?」
「お兄様、折角海に来たのですから、泳ぎませんか?」
「そうですよ。パラソルの下にいるだけじゃ、勿体無いです」
 両サイドに膝をついた深雪とほのかが、左右の腕を取って立ち上がらせようとする。
 体格的に仕方の無いことだが、腕に胸を押し付けるような持ち方で。
「いつまでパーカー着てるの?
 海なんだからさ、脱いじゃえ脱いじゃえ!」
「あっ、エリカちゃん、ダメだよ!」
 そこへエリカが参戦した。
 立ち上がってもまだ両腕を拘束されたままで抵抗できない達也のパーカーの、前ファスナーを遠慮なく引き下げる。
「わっ……」
 そして真っ先に声を上げたのは、制止していたはずの美月だった。
 ――パーカーの下には、鍛え上げられた鋼の肉体が隠れていた。
 筋肉の太さ自体は驚くほどではない。
 成人の身体ほどのボリュームは無い。
 だが、少年らしさを残しながらも、腹筋も胸筋もみっしりと重く硬く引き締まり、ルネサンス彫刻のような筋が刻まれている。
 ただ彫刻と違って、幾つもの傷跡が皮膚に印されていた。
 その傷跡を見て、エリカの顔色が変わる。
 今までのふざけ半分から一転して、引き締まった顔つきでパーカーを一気に脱がせた。
 両腕を掴まれたままでは、袖で引っ掛かって全部は脱げない。
 半袖のパーカーは今までとは逆に、肩と上腕を剥き出しにし、前腕を隠した状態で止まった。
 肩も腕も、可動性を損なわないように、太くなり過ぎない範囲で鍛え上げられている。
 そしてやはり、数々の傷跡が残っている。
 一番多いのが切り傷。
 同じくらい多くの刺し傷。
 所々に細かな火傷の痕。
 不思議なことに骨折の痕は見当たらなかったが、それを差し引いても、尋常な育ち方で出来上がる肉体ではない。
 普通に鍛錬しただけでは、こうはならない。
 単に血の滲む様な鍛錬を積んだ、というだけでは、こういう風にはならない。
 実際に斬られ、刺され、焼かれて、血を流しながら拷問のような、あるいは拷問そのものの鍛錬を積んで、はじめて、こういう身体になる。
 長兄の身体と次兄の身体の違いを記憶の淵から呼び出して、エリカはそう思った。
「達也くん……貴方、一体……」
「やれやれ。
 そういう顔をされるから、脱ぎたくなかったんだがなぁ」
 頭を掻きたいところだったが、未だ両腕を拘束されたままの達也は、口調だけで困惑を表現した。
 エリカの当たり前な反応より、この傷跡を見てまだ手を抱きかかえたまま離さないほのかの方に、達也はより強い困惑を覚えていた。
「……海に来たのですからそれは無理ですよ、お兄様。
 このメンバーならば見られても構わないと、そうお思いになったから、雫の誘いを受けたのでしょう?」
「そりゃそうだ」
 確かに今更なことを指摘され、達也は苦笑するしかなかった。
 彼が笑ったのに合わせて、エリカも照れ笑いを浮かべた。
「んーっ、今のはあたしが悪かった。
 ゴメンね、達也くん。変なこと言っちゃってさ」
「いや、気にしてない。そっちも気にするな」
「オッケ〜。じゃあ……行こっか!」
 その瞬間、達也は自分の身体がフワッと浮かぶのを感じた。
 完全に無警戒だったので、重量軽減の術式を掛けられていたのに気付かなかったのだ。
 それでもCADを使っていれば達也に分からないはずは無かったが、どうやら深雪とほのかが両脇から抱きついたのは、口の中でブツブツと「呪文(スペル)」――ヘブライ語やサンスクリット語や古ノルマン語を使った伝統的な呪文ではなく、連想法で魔法式のパーツを無意識領域に呼び出す為のキーワード群――を呟いていた雫から達也の意識を逸らすという目的もあったらしい。
 深雪とほのかが、胸に抱いていた彼の両腕を「せーの!」という感じで振り回した。
 ややぎこちなく、雫の魔法の次工程が作用する。
 海に向かって放り投げられた達也の身体は、軽く十メートル以上を飛んで派手な水飛沫を上げた。
「ブハッ!」
 水深がもっと深ければ問題なかった。
 だが精々腰の高さまでしかない水嵩では、衝撃の緩和には役に立たない。
 落下のショックを和らげるため、達也は自ら海水の中で前転受身をする羽目になってしまった。
「こらーっ! もっと状況を考えろぉ!」
 中途半端に脱がされたパーカーの所為で、本当に頭から海水に突っ込まざるを得なかった達也は、抗議の声を張り上げた。
「きゃ〜、ごめんなさい、おにいさまぁ〜」
 この台詞は深雪のものではない。
 わざとらしく棒読みの、エリカの声だ。
「こっ、こっ、こっ……」
 達也は激しい情動を生み出す精神領域を失っている。
 だが本物の怒りではない、悪ふざけの範囲で逆上することは可能だ。
「こら待てエリカ! こっちへ来い!」
 背を向けて別荘の方に走り出したエリカの身体が空中に吊り上げられた。
「えっ!? チョッと!?」
 魔法式を丸ごと暗記している達也は、CAD無しの条件で五工程までの魔法なら、この中の誰よりも上手く、速い。
「何であたしだけーーっ!」
 重量軽減、加速、減速の三工程の魔法が、エリカの身体を弾道飛行させた。
 どぼん、と優しい水音がした。
 達也が落ちた場所の、二倍の先で。
「安心しろ! 着水速度はほぼゼロだし、お前一人じゃないからな!」
 その言葉を聞いて、女性陣が震え上がった。
 蜘蛛の子を散らすように、慌てて思い思いの方向へ走り出そうとした、が、
「わわっ!?」
「キャーーッ!」
 雫、ほのかの順番で、飛び込み台なしのダイビングが敢行された。
 そして最後の一人。
「ムッ、やるな、深雪!」
「負けませんよ、お兄様!」
 達也の魔法を、深雪が広域干渉で防ぐ。
 深雪の広域干渉を、達也が術式解散で無効化する。
 次の瞬間、深雪が広域干渉を再展開する。
 見物人のことを忘れた、マル秘も極秘もへったくれもない白熱した兄妹喧嘩だった。
「もぉ〜〜、達也さん、酷いですよ……」
 だがその均衡は、達也の背後で上がった、情けない抗議の声に崩された。
「ほのかっ!?」
 ひっくり返った声で深雪が叫ぶ。
 完全に慌てふためいている声だった。
「隙あり!」
 達也の魔法が深雪の身体を捉えた。
 飛んで行く妹の身体を、魔法の最終工程が優しく受け止めたのを確認して、達也は満足げに頷いた。
 そして、気付いてしまった。
 深雪が何に慌てて、何に我を忘れたのか。
 元々本当に泳ぐことを考慮していないデザインだったのだろう。
 ほのかの水着は、トップが捲れ上がっていた。
 達也は新たな魔法を発動し、自分の身体を遥か沖へと、遠く遠く放り投げた。
 ほのかは今更のように悲鳴を上げて、両手で胸を押さえ水の中にしゃがみこんでいた。

◇◆◇◆◇◆◇

「ヒック、ヒック、エグッ……」
「ゴメン、ほのか! 本当にゴメン!」
「大丈夫よ、ほのか! ほら、その、ちょうど波の高さでほとんど見えなかったし!」
「そ、そうですよ! ほとんど見えていませんでした! 本当です!」
 砂浜にペタンと座り込んでしゃくり上げるほのかの前で、何度も土下座を繰り返す達也。
 その両側では深雪と、そして唯一人罰ゲームを免れた美月が必死でほのかを慰めていた。
「えっと……あたしたちもふざけてたんだし……」
 この騒動の発端を作った(達也に対する悪戯の首謀者という意味で)エリカが、バツ悪そうに方向性の違う慰めを口にする。
「ほのか……」
 そして雫に耳元で何やら囁かれ、ほのかはようやく顔を上げた。
「……本当に悪かったって思ってますか……?」
「思ってる! 本当に、悪かった!」
 再び砂浜に額を擦り付けた達也の後頭部を見下ろしながら、ほのかは「じゃあ……」と呟いた。
 ガバッ、と顔を上げた達也へ涙の残った目を向けながら、ほのかはもう一度「じゃあ」、と言った。
「……今日一日、私の言うことを聞いて下さい」
「えっ……?」
「それで、許してあげます。
 ダメですか……?」
 達也は深雪と顔を見合わせた。
 深雪は「仕方ないですね」という顔で苦笑している。
「えっと……それで良いのなら……」
 言うことを聞け、と言われても、何十年も前に流行った「王様ゲーム」のような悪質な要求をしてくる少女でないことは分かっている。
 達也が躊躇いがちに頷くと、「約束ですよ!」とほのかが満面の笑顔で頷いた。

◇◆◇◆◇◆◇

 レオが長〜い(長距離かつ長時間の)競泳を終えて海から上がって来ると、バルコニーは丁度ティータイムだった。
 テーブルの上には冷たい飲み物と彩り豊かなフルーツ。
 給仕を務める黒沢はエプロンこそ付けているもののその下は流石に例の制服(コスチューム)ではなく、薄手のミニワンピースだった。
 肩が剥き出しの丈の短いワンピースの上に、ワンピースそれ自体より大きな白いエプロン、そこから覗く細い手足。
 ティーンの男の子なら目が釘付けになっても仕方が無い色気を漂わせていたが、今はもっとパワフルな水着姿が四つも並んでいる。成熟度、という点では一歩譲るものの、ルックスそのものは抜群の美少女二人と水準以上の美少女二人。色とりどりの水着姿を前にして「色気より食い気」を実践できるレオにとっては、黒沢の放つ「大人の魅力」もそれ程手強い相手ではなかった。
 ただ、全く無関心という訳でもない。
 水着姿が四つ、と認識したところで、レオは「おやっ?」と首を捻った。
「達也と……光井はどうしたんだ?」
「向こうで、ボートに、乗ってるよ」
 答えはテーブルからではなく、背後から返って来た。
 全身から疲労を滲ませ海水を滴らせた幹比古が、息も切れ切れに答えて指差した先では。
 達也とほのかの二人が、手漕ぎボートで沖へ向かっていた。
「……どうなってんだ、ありゃ?」
「色々あったのよ、イロイロ」
 レオの問い掛けに、エリカがそっぽを向きながら答える。
 その表情は素っ気無いというより「決まりが悪い」が半分、「拗ねている」が半分で、そっぽを向かれたレオも気分を害するより「おや?」という好奇心が先に立った。
 傍で見ていた幹比古も興味深げな表情を見せたが、彼の関心はすぐに海上の二人へ向いた。
 麦藁帽子を被った達也の表情は、帽子の作り出す陰に隠れてよく見えない。
 日傘を差し、背中を向けているほのかの表情は尚更のこと、こちらからでは分からない。
 だがそれでも、浜辺から遠ざかる小さなボートから、和やかで浮き浮きした雰囲気が伝わってきている、と幹比古は感じた。
「……結構良い雰囲気じゃない?」
「こっ、コラッ、」
 バカ、という台詞は言えなかった。
 焦りまくったエリカの台詞は、向かいの席から伝わって来るヒンヤリとした空気に()った斬られた。
 シャリシャリシャリシャリ……という、真冬の深更にでも聞こえてきそうな不吉な音を、幹比古は隣に座る少女の手元から聞き取った。
「吉田君、良く冷えたオレンジは如何かしら?」
 愛想良く話しかけられて、幹比古はカクカク頷きながら深雪から冷え過ぎたオレンジを受取った。
 計ったようなタイミングで、黒沢からスプーンが差し出される。
 幹比古は機械的に、シャーベット用のスプーンを手に取った。
 深雪は新たなフルーツを手に取った。
 再び、シャリシャリシャリシャリ……という音が聞こえ、(たちま)ちの内に、マンゴーの生シャーベットが出来上がる。
 冷ややかな目で見詰めていたフルーツから目線を外し、愛想の良い微笑みを浮かべて向かいの席へ差し出す。
「西城君も如何?」
「あ……どうも……」
 流石のレオもそう答えるのが精一杯だ。
 深雪は再度、フルーツの山に目を向けたが、八つ当たりに飽きたのか、詰まらなさそうに目線を外した。
「雫、悪いけどわたし、少し疲れてしまったみたい。
 お部屋で休ませてもらえないかしら?」
「良いよ、気にしないで。
 黒沢さん?」
「はい。
 深雪お嬢様、ご案内致します」
 黒沢の後に続いて、深雪が別荘の中に姿を消した。
 縮こまっていた美月のホッとした顔と、常と変わらぬ雫のポーカーフェイスが好対照だった。

◇◆◇◆◇◆◇

 夕食はバーベキューだった。
 八人は和気藹々とバーベキューコンロを囲み、テーブルとコンロを行ったり来たりしていた。
 深雪も一休みして落ち着きを取り戻したのか、ほのかが甲斐甲斐しく達也の世話を焼いている姿を目の前にして、エリカや雫と楽しげにお喋りしている。
 美月は昼のティータイムが軽いトラウマになっていたのか、深雪たちと少し離れた席で、幹比古と遠慮がちな会話を交わしている。
 レオは専ら食べる方に口を使っていた。黒沢はほとんどレオ専属の給仕係と化している。
 無論、ハッキリとグループ分けがされている訳ではなく、時に、ほのかは深雪たちの輪に加わり、時に達也は、レオとフードファイトを繰り広げたりした。
 ただ、何となく――いつもに比べて何となく、ぎこちない空気が彼らの間に流れていた。

◇◆◇◆◇◆◇

 嵐の前の静けさ。
 何が起こるか分からない、でも何かが起こりそうな気がする――そんな空気を破り、波乱の幕を開けたのは、意外な人物だった。
 女の子五人で遊んでいた古典的なカードゲーム「バチェラー」(ジジ抜きのこと。「ババ抜き」や「オールド・メイド」の名称は蔑視のニュアンスがあるとして現代では好まれない)が美月の負けで決着してすぐ、雫が深雪に「少し外に出ない?」と誘いをかけたのだ。
「……いいわよ」
 戸惑いは一瞬のこと。
 深雪はすぐに、ニコッと笑って頷いた。
「……えっと、お散歩ですか? じゃあ、私も」
「美月はダメよ。罰ゲーム、あるんだから」
「えぇ!? 聞いてないよ!」
「敗者に罰ゲームは付き物なの。
 じゃ、そういうことで、二人とも気をつけて」
 空気が読めているのか読めていないのか微妙な美月を拘束し、エリカは二人の間に漂う張り詰めた空気に気付かぬふりで、深雪と雫に手を振った。
「…………」
「これで、必至だ」
「ええっ、もう!?」
 将棋の傍ら、女性陣のやり取りを盗み見ていた幹比古は、達也の無慈悲な一言に悲鳴を上げた。

◇◆◇◆◇◆◇

 別荘を出て、波打ち際を左へ。
 無言で歩む雫の後を、深雪が無言で続く。
 そのまま、別荘の灯りが届かなくなる所まで進んで、雫はようやく振り返った。
 雫はいつも以上に無表情、というより、緊張に顔が強張っている。
 深雪は柔らかな笑みをたたえているが、その笑顔は、感情の読めないアルカイック・スマイルだった。
「つき合わせてゴメン」
「いいのよ。何か話があるのでしょう?」
 そう深雪に促されても、すぐには話を切り出さなかった。
 砂浜を洗う波の音を十、数えたところで、雫はようやく口を開いた。
「教えて欲しいんだ」
「何を?」
「深雪は達也さんのことをどう想ってる?」
 歯に衣どころかオブラートにも包んでいない、質問の意図も理由も何の説明もない、端的過ぎる雫の問い掛けに、
「愛しているわ」
 僅かな躊躇も動揺も無く、深雪は一言、答えた。
「……それは、男の人として、ということ?」
 動揺は寧ろ、雫の側に見られた。それでも取り乱したりしなかったのは、彼女のパーソナリティの故か。
「いいえ」
 深雪の答えには、一分の揺るぎも見られなかった。
 彼女の表情には寧ろ余裕のようなものまで見られた。
「わたしはお兄様を誰よりも尊敬し、誰よりも愛している。
 でもそれは、女として、ではないの。
 わたしのお兄様に対するこの想いは、決して、恋愛感情ではないわ。
 わたしとお兄様の間に、恋愛感情はあり得ない」
 深雪は雫と視線を合わせて、ニッコリと笑った。
「雫が何故そんな質問をするのか、わたしにも分かっているつもりよ。
 大丈夫。わたしに、ほのかの邪魔をするつもりは、無いから。
 ……ヤキモチは焼くけどね?
 だから、安心して、って言っても無理かもしれないけど」
 くすっ、と笑った深雪に、雫は泣きそうな表情を浮かべた。
「……何故」
「何が?」
「何故……そんな風に、割り切れるの?
 だって深雪、こんなに達也さんのこと、好きなのに」
 深雪は一歩、雫の方へ足を踏み出した。
 雫の身体が強張った、が、後退りはしなかった。
 深雪はそのまま雫の横を通り過ぎて、背中合わせの位置で止まった。
「……わたしたち兄妹の関係を他人に説明するのは難しいわ。
 余りにも沢山の思惑が絡み合っているから。
 わたしのお兄様に対する想いも、本当はそんなに単純なものじゃないのだけど……やっぱり、愛してる、って言葉が一番シックリ来るわね」
「……本当の、兄妹じゃないの?」
 振り向いた雫に、
「随分踏み込んだことまで訊くのね?」
 振り向いた深雪が問い返した。
「……ゴメン……」
「ううん、責めてる訳じゃないのよ?」
 首を横に振る深雪は、屈託の無い笑みを浮かべていた。
「いいわね……そんなに一所懸命になれる友達がいるなんて」
「……私は……深雪のことも、友達と思ってるよ」
「知ってるわ。
 だから気になるのでしょう?
 友達同士が、傷つけ合わないように」
 優しい眼差しを向けられて、雫が恥ずかしそうに俯いた。
「……話を戻すけど……
 わたしとお兄様は実の兄妹よ。
 少なくとも記録上はそうなってるし、DNA検査でも血縁関係を否定する結果が出たことは無いわね」
「でも……」
「言いたいことは分かるわ」
 口ごもる雫の前、深雪は訳知り顔で頷いた。
「わたしがお兄様に向けている感情は、兄妹の範囲(レベル)を超えていると自分でも思うもの」
 雫は困惑顔で黙り込んでしまった。
「わたしね……本当は、三年前に死んでいるの」
「えっ!?」
 しかし流石に、この告白を前に、声を抑えることは出来なかった。
「死んでいるはずだった、って言うべきなのかな?
 でもわたしはあの時、自分の命が消えていくのを確かに実感したから、『本当は死んでいた』でもきっと、間違いじゃない。
 わたしが今、ここでこうしていられるのはお兄様のお陰なの。
 わたしが泣いたり笑ったり出来るのも、こうして雫とお喋りできるのも、全部お兄様のお陰なの。
 わたしの命はお兄様に頂いたもので、だからわたしの全てはお兄様のものなのよ」
「それって……」
 どういう意味?、という言葉にならない質問に、答えは無かった。
「わたしのお兄様に対する想いは、恋愛感情じゃないわ。
 恋愛って、相手を求めるものでしょう?
 わたしのものになって、って求めるのが恋じゃない?
 でも、わたしがお兄様に求めるものなんて、何も無いわ。
 だって、わたしはもう、わたし自身をお兄様から貰っているのだもの。
 わたしはこれ以上の何も、お兄様に求めない。
 わたしの気持ちを受け取って貰うことさえ、求めはしない。
 この想いを表現する言葉は……やっぱり、愛しています、以外に無いんじゃないかしら」
「…………参った」
 深雪の告白に、雫は白旗を揚げる以外、出来なかった。
「深雪って、本当に、大物」
「自分でも、歪んでいると思うんだけどね」
 ただただ頭を振る雫に、深雪は悪戯っぽく片目を閉じた。

◇◆◇◆◇◆◇

 別荘を出て波打ち際を右へ進んだところでは、ほのかが達也と向かい合っていた。
 別荘の灯りは届かない。
 夜の闇の向こう側で交わされる言葉も、波の音にかき消されてここまでは届かない。
「達也さん……」
 何度も口を開け閉めして、ほのかはようやく、それだけを口にした。
「うん、なに?」
 いつもより柔らかい口調、柔らかい言葉遣いで達也が問い返す。
「あの……その……
 私、達也さんのこと好きです!」
 逡巡の末に搾り出した台詞は、もしかしたら、闇の向こう側に届いたかもしれなかった。
 しかし、そんなことに思いを致す余裕は、ほのかには無かった。
 今、彼女にとって世界は、達也と自分の二人だけで形作られるものだった。
「――達也さんは私のこと、どう思ってますか!?」
 達也と視線を合わせることが出来ず、瞼をギュッと閉じてしまったほのかに、答えは中々返らなかった。
「……ご迷惑、でしたか?」
 恐る恐る目を開け、恐る恐る涙声で問い掛けたほのかに、達也は笑って首を振った。
「迷惑じゃないよ。
 いつかは、そう言われるかもしれないと、思ってもいた。
 予想より早かったけど」
 達也と目を合わせて、哀しげな瞳をしている、とほのかは思った。
 押し寄せてくるであろう悲しみに耐えるべく、ほのかはギュッと手を握った。
 だが達也の答えは、ほのかにとって良い方の予想にも悪い方の予想にも当てはまらない、予想外のものだった。
「……ほのか、俺はね、精神に欠落を抱えた人間なんだ」
「……えっ?」
「子供の頃、魔法事故に遭ってね……精神の機能の一部を消されちゃったんだよ」
 ほのかの顔がサッと蒼褪めた。
 夜の闇の中でも分かるほど、蒼白に。
 大きく目を見開き、のろのろと上げられた両手で口元を覆い、「そんな……」と呟きを漏らした。
「俺はその時、多分、恋愛という感情も無くしてしまっているんだ。
 閉ざされたのではないから、解き放つことも出来ない。
 壊されたのではないから、治す(直す)ことも出来ない。
 消し去られたものは、取り戻せない」
 達也の語り口は、他人事のようだった。
「俺には恋愛という感情が分からない。
 人を好きになることは出来ても、恋をすることが出来ない。
 一応、知識だけはあるからね。
 自分の心を診断してみて、俺にはそれが欠けていると分かった。
 卑怯な言い方かもしれないけど、俺は、ほのかのことも好きだよ。
 だけどそれは、他の友達と同じように、なんだ。
 ほのかがどんなに一所懸命になってくれても、俺はきっと、ほのかのことを特別な女性だと想えない。
 それはきっと、ほのかにとって辛いことで――ほのかを傷つけてしまうことだから」
 そう言って、達也は無力感の漂う笑みを浮かべた。
「今のうちに、嫌いになってくれるとありがたい」
 達也は口を閉ざした。
 ほのかも、何も言わない。
 寄せては返す波の音だけが、夜の闇を満たした。
 少しずつ波が近づいてきて、
 遂に、二人の足元へ届こうか、というだけの時間が過ぎて、
 ほのかが、顔を上げた。
「怒らないで下さいね?
 私、達也さんって、深雪のことが好きなんだと思っていました。
 妹としてじゃなく、女の子として」
「……いや、それは誤解だって……」
「ええ、そうみたいですね。
 達也さん、頭が良いですから……嘘をつくなら、もっと信憑性のある嘘をつくはずですから。
 精神の機能を部分的に消去する魔法なんて聞いたこともありませんけど、だから余計に、信じられます。
 でも、ということは、達也さんは、私以外の女の子を恋人にすることも無いんですよね?」
 何だか思いがけない雲行きに戸惑いながらも、達也は「まあ、そうだけど……」と頷いた。
「……だったら、良いです」
「?」
「これからもずっと、達也さんには恋人がいないんでしょう?
 だったら、私が達也さんのことを好きでいても、横恋慕にはなりませんよね?」
「それは……そうかもしれないけど……」
「じゃあ、問題ないです。
 私はこれからも、達也さんのことを好きでいることにします!
 他に好きな人が出来るまで、ですけど!」
 明るく、乗り換え予告つきの宣言。
「まあ……ほのかがそれでいいのなら……」
 達也は苦笑しながら頷いた。
 わざわざ「他に好きな人が出来るまで」と付け加えたほのかの意図が分からぬほど、達也も鈍くは無かった。

◇◆◇◆◇◆◇

 次の日も、朝から太陽が激しい自己主張を繰り広げていた。
 早朝から、気温は三十度を超えていた。
 ただでさえ汗ばむ暑気に覆われた砂浜で――
 熱い熱い闘いが繰り広げられていた。
「お兄様、お背中を。日焼け止めを塗りますので」
「達也さん、ジュース、飲みませんか?」
 とか、
「雫がジェットスキーを貸してくれるそうです。乗せていただけませんか?」
「少し沖に出るとダイビングスポットがあるそうですよ?」
 とか、第三者には鬱陶しい熱気が発散されている。
「……深雪、昨日は相当、我慢してたのね……」
「……ほのかさん、何だか随分と吹っ切っちゃってる感じ……」
 そんな、小笠原気団より熱い高気圧(好気圧?)に挟まれて、火傷しそうな熱風に晒されている達也は……
 何だか昨日よりも、いつもよりも、リラックスして、楽しげに見えた。

 次週から第二章と第三章の間に位置するエピソードを『間章〔生徒会長選挙編〕』として全三話予定でお送りします。
 その後に第三章となりますが、第三章の開幕には少しお時間を頂くことになると思います。
 第三章のスケジュールについては、間章最終話の後書きでお知らせしたいと思います。


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