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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第二章・新人戦編
2−(24) フェアリーダンス
 夜明け前からどんよりと曇った空は、二試合目の始まる九時半になっても一向に回復へ向かう気配は無かった。
「今日は良い天気だな……出来れば、夜までこのままの天気が続いて欲しいところだ」
「夕方から晴れるそうですよ」
「星明りも結構邪魔になるんだが……まあ、雨が降るよりマシだろうね」
 予選を通過し夜の決勝へ進むことを完全に前提としている兄妹の会話を、少し離れた椅子で聞いていたあずさは、それを「暢気だ」とは感じなかった。
 一般に、一年生と二年生以上の実力差は、二年生と三年生の実力差よりも大きい。
 魔法の専門教育は、高校課程から本格化するものだからだ。
 だから仮に新人戦がなくとも、本戦に一年生がエントリーするケースは僅かだろう。
 普通なら、大会期間中にいきなり新人戦から本戦へコンバートされても、上位進出どころか予選通過も難しい。
 だが――
(深雪さんにそんな常識は通用しないでしょうね……司波くんまでついているんだし)
 あずさは気が弱いところを除けば、同年代の少年少女の中で間違いなくトップクラスにランクされる魔法師(の雛鳥)だ。
 これだけ気の弱い性質で第一高校の生徒会役員に選ばれていること自体が、彼女の能力を逆説的に証明している。
 そのあずさが見るところ、深雪には本気で優勝を狙える実力がある。
 妹単独でもそれだけのずば抜けた力があるのに、それをあの兄が全力でサポートするのだ。
 例え優勝候補筆頭だった摩利が万全の状態で出場していたとしても、勝てないかもしれないとさえ思えてしまう。
 心の中で、そんな、第三者的な論評を加えていたあずさだったが、実は彼女も第三試合を担当するエンジニアであり、今ここに居るのは少し早めにCADの最終システムチェックを行う為だった。
 本戦のモノリス・コードとミラージ・バットは九校戦男女それぞれの最終競技とあって、どの学校もスタッフをフル稼働で貼り付けている。
 第一高校では、選手一人にエンジニア一人体制で両競技に臨んでいた。
 だからこの競技に限っていえば、司波兄妹はあずさにとってライバル。
 同じエンジニアとして、達也があずさのライバル、と言った方がより正確かもしれない。
 だが――あずさは始まる前から、勝ち負け以前に、競い合うという気持ちすら持てなくなっていた。
 さっきの出来事。
 大会本部から達也が係員に暴行を働いている、と一報されたときには驚くよりも「怖い」と思った。
 意外感はなく、逆に「彼ならば」と心の何処かで納得していた。
 まだそれほど長くも深くも無い付き合いだが、「彼は理由なく暴力を振るうような男の子じゃない」とあずさは思っている。だが同時に、理由があれば暴力に訴えることも躊躇わないだろう、とも思っている。
 そして暴力に躊躇いを持たない心が、あずさには恐ろしかった。
 魔法が軍事目的で開発され、今でも戦力・抑止力としての役割が魔法の用途の中で大きな比率を占めていることは、あずさも当然、弁えている。
 だが軍事力にしろ警察力にしろ、それは行政システムに組み込まれた「暴力」だ。
 その行使には、決定する者、命令する者、実行する者、監督する者、多種多数の人間が責任を分かち合う。
 だが彼はきっと、自分一人で決定し、実行し、その責任を負う。
 おそらくはそれが、相手の死――殺人という結果につながるものだとしても。
 その冷たい鋼のような心のあり方が、恐ろしく感じられた。
 驚きは、彼の口から詳しい経緯を聴くことでもたらされた。
 CADに不正な工作を加えていた現場を見つけ出し、取り押さえたという事情説明。
 小早川を担当していた技術スタッフの、泣き出しそうに歪んだ表情が、あずさの瞼に焼き付いている。
 悔しかったのだろう、とは、容易に想像出来る。容易に共感できる。
 自分にはCADに細工されたことが分からなくて、それで選手が事故を起こして、その結果、特に優秀な同級生が一人、再起不能になってしまうかもしれないのだから。
 達也が二科生であり「劣等生」であるというのは、紛れも無い事実だ。
 彼の実技成績は、ギリギリで赤点を取っていないというレベルのもの。
 入学直後の実技試験で赤点を取る生徒は毎年五人以下だから、彼の成績は「良くない」ではなく「悪い」と評価されても仕方の無いものだ。
 だが現実は――テストという作られた状況下における「実力」ではなく、魔法師が現実に直面する諸状況への対応能力で見たならば、その評価は、まるで逆。
 開発においても、分析においても、調整作業においても、
 そして、戦闘においても。
 彼の力量は「超」が付く位、一流だ。
 魔法という能力だけを切り取って評価するのではなく、魔法が活用されているシーンで評価するならば、彼はトップクラスの「優等生」だと言える。
 ならば――
(わたしたちの「成績」って……「一科生」って、なに? 「一科生」と「二科生」の区別に意味なんてあるの?)
 この九校戦で、達也のことを間近で見ていて、あずさはそんなことを考えるようになっていた。
 それは、迷い。
 今まで当たり前のこととして、疑問を抱いたこともなかった価値観が、俄かにあやふやで頼りなく思えてしまう不安感。
 あずさは自らを「ブルーム」と誇り、二科生を「ウィード」と見下すような、虚飾に侵されたエリート意識は持ち合わせていない。
 少なくとも、意識していない。
 だがそれでも、自分の魔法技能が優れたものであり、それ故に自分は優秀な魔法科高校生であるという「自負」に縁がないという訳ではない。
 自分の魔法技能に対する自信は、未だ深い霧に閉ざされた魔法師としての、魔工師としての未来を切り拓く勇気を与えてくれる、大切なパートナー。
 あずさ自身がそれを意識していなくても、魔法師としての自信が彼女の背中を押しているのは紛れも無い事実だった。
 それは何も魔法に限ったことではなく、「未来」や「将来」に対して期待と同じくらい大きな不安を抱えている若者は、自分を支える「経験」や「実績」が不足している分、「自負」や「自信」に依存している部分があるものだ。
 それがあずさにとっては、彼女のような「魔法科高校の優等生」にとっては、「魔法」に由来する、ということ。より正確には、「魔法の成績」が、自負を生み出し自信を作り出している。
 しかし達也を見ている内に、その自負が、自信が、何だか根拠の無いものに思えてきたのだ。
 試験の成績は自分が一年生だった当時の方が間違いなく上なのに、実戦魔法師としても、魔工技師としても、魔法研究者としても、全く勝てる気がしない。自分の持つレアスキル、これだけは真由美にも摩利にも負けないと密かに思っている特殊な魔法でさえも、達也の前では意味を為さないように思えてしまう。
 それでもまだ、自分はそれほど劣等感に悩まされずに済んでいる方だろう、とあずさは思っている。
 彼女は達也が「彼」であると、最早九割以上、確信している。
 「彼」が相手なら、敵わないのは当たり前だ。
 「彼」を相手に、劣等感を覚える方がおこがましい。
 あずさは自分をそう、納得させていた。
(だけどみんなは、まだ知らない……)
 知らないから余計に、思うはずだ。
 感じるはずだ。
 彼と同じ一年生は、特に。
 二科生に劣る一科生の自分たちは――自分たちの「成績」は何だったのか、と。
「あーちゃん、あんまり思い詰めない方がいいわよ?」
 背後から不意に声を掛けられて、跳び上がる様にして振り返ると、真由美が苦笑を浮かべながらあずさを見ていた。
「アレはね、特別(と・く・べ・つ)
 後輩を「アレ」呼ばわりした声は、その語句に反して暖かかった。
「納得できない子もいるでしょうけど……高校生にもなったら、納得できなくても受け容れる、ってことも覚えなきゃ、ね。
 二科生が魔法技能で一科生に劣っているのも事実なら、達也くんが私たちのレベルを超えてるのも事実なんだから」
「えっ、でも……」
 意外な台詞を聞かされて、あずさは絶句してしまった。
 確かに達也のレベルは自分より数段高いところにある、とあずさは思う。――いくら「彼」であるといっても、少し残念に感じてしまうのは否めないが。
 だが真由美のレベルもまた卓越した水準にあり、達也にそうそう劣っているとは思えなかった。
「全部負けてるって訳じゃないけどね」
 そんな戸惑いを読み取ったのか、真由美はもう一度苦笑いを浮かべた。
「総合的な魔法技能なら私の方が上だろうし、魔法の撃ち合いになっても距離を取れば私に分があると思うし。
 でも、間違いなく負けてる面もある。
 CAD関係の技術はとてもじゃないけど敵わないし、悔しいことに魔法に関する知識もあっちが上」
 上級生の面目丸潰れよね、と真由美は他人事のように付け加えた。
「誰にだって得意、不得意があるんだから、全部が全部相手より勝っていることなんて滅多に無いわ。
 達也くんのレベルが上、っていうのは、魔法工学面の知識と技術ではとても敵わない、ってこと。
 その代わり魔法実技の成績では私もあーちゃんも達也くんよりずっと上なんだから、悲観する必要なんて全く無いの。
 魔法実技の試験の内容はちゃんと意味のあるものだし、試験の成績だけが人間の価値じゃないのと同じように、試験の成績も人間の価値の一つなんだから」
「…………」
「ところが、ね……
 得てして、『自分の方が上』って思い込むと、全部勝ってないと耐えられなくなっちゃうのよ。
 実際には、一科生と二科生の違いなんて、実技の授業の都合上、実技テストの成績で分けてるだけに過ぎないんだってことを忘れてしまって」
 あずさは、知らず知らず、目を大きく見開いていた。
 真由美の言葉に、頭の中が真っ白になってしまいそうなショックを受けていた。
「やっぱり、制服がいけないのかしら……
 最初は単に、生徒数を増やす際に、刺繍が間に合わなかったってだけなのにねぇ……」
「えっ、そうなんですか!?」
「あれっ? 知らなかった?」
 初めて聞いた裏話に、さっきとはまた別の衝撃を受けて、あずさは絶句したまま、「そっかぁ、余り知られてないんだね……」と呟く真由美に、ただカクカクと首を縦に振った。
「昔は一高も一学年百人だったのは知ってる?
 外国に伍していく為には魔法師の数を増やさなければならない、ってことで、まず一高の定員が増やされたんだけど、当時の政府は焦ってたんでしょうね。
 新年度から増員すれば良かったものを、年度途中から追加募集を掛けちゃったの。
 でも年度途中から、いきなり教師の数を増やすことは出来ない。
 当時の魔法教育者の人材不足は、今以上に深刻だったから。
 それで苦肉の策として考え出されたのが、途中編入の一年生は進級まで集中的に理論を教えて、実技は二年になってから、という二科生制度。
 ところが、いざ二科生を入学させるという段になって、学校が制服の発注をミスっちゃったのよ。
 その所為で二科生として編入した一年生はエンブレムが無い制服で我慢しなきゃならなかったんだけど、それが思わぬ勘違いを招いちゃってね……
 二科生制度はあくまでも進級までの暫定措置で、二科生は定員増加によって追加募集された生徒に過ぎなかったんだけど、それが補欠と見做されるようになってしまった。
 そして、無理な増員計画に見合う教師が結局は確保できずに、誤解に過ぎなかった『補欠扱い』が追認されてしまったのが、今の二科生制度。
 制服も、この泥縄な追認を取り繕うように、最初から計画通りだったかの如くずっと放置されてる、っていうのが真相よ。
 考えてみれば、制服を二種類作るのも無駄なのよね……どうせ縫製まで一貫自動加工なんだから、一度に作っちゃえばサイズ違いでも同じデザインの方がコストも安いし」
 開いた口が塞がらない。
 それが、あずさの正直な感想だった。
 校内に度々陰湿で深刻な対立を招いて来た「ブルーム」と「ウィード」の由来が、そんなにくだらないものだったとは。
 この話、深雪にはとても聞かせられない、とあずさは思った。――何が起こるか、怖過ぎる。
「……この話、深雪さんには内緒ね?」
 真由美も同じことを思ったらしい。
 あずさは一も二もなく、頷いた。

◇◆◇◆◇◆◇

 生徒会の先輩二人から揃って危険人物扱いされたと知らぬ深雪は、始まりを待つミラージ・バットのフィールドに上機嫌で立っていた。
 九校戦開幕以来、兄の方から自分の為だけに時間を取ってくれるのは、自分だけに構ってくれるのは初めてだったからだ。
 いつもであれば、家に帰れば実質二人暮らし。
 いくらでも二人きりの時間を持てる。
 だが九校戦の宿舎では、そうは行かない。
 決して欲求不満を募らせている訳ではない(と本人は思っている)が、しばらくお預け状態に近かった所為で嬉しさも一入(ひとしお)だった。
 関係者が控えるブースでは、兄が自分を見詰めている。
 自分だけを見詰めてくれている。
 何だか、魔法の力を借りなくても、空に浮かべそうな気分だった。
 身体のラインが丸見えのコスチュームに纏わりつく煩悩剥き出しの視線も、今は気にならなかった。
 特に意識することも無く、達也の眼差し以外の全ての視線をフィルタリングして、ゴミ箱へ放り込んでいるからだ。
 観客はジャガイモと思え――ジャガイモは玉葱でもニンジンでも可――とは、あがり症の人間に対する効果の無いアドバイスとして知られるテンプレートだが(人間をジャガイモに置き換えることが出来る神経の太い人間は最初からあがったりしない)、今の深雪にとっては本当に、達也以外、ジャガイモ同然だった。
 兄は男女を問わず姿勢の良い人間を好むと知っているから、立ち姿にも隙が無い。
 抜群の美少女が見せる、管弦の音を待つ舞手のような佇まいは、客席の青少年に動悸と息切れを引き起こし、このままでは試合が始まる前から担架が呼び出されそうだ、という有様となっていた。
 観客のボルテージに急かされた、という訳でもないだろうが、予定時刻より数秒早く、試合開始のチャイムが鳴り響いた。

 深雪の身体が軽やかに舞い上がった。
 ミラージ・バットの選手は皆、コスチュームを二種類用意している。
 強い日差しの下でも(かす)むことの無い鮮やかな色合いの昼用コスチュームと、
 照明に映える明るい色の夜用コスチューム。
 どちらも選手同士の衝突を避ける為に定着している、経験からもたらされた不文律だ。
 深雪が纏う基調色は濃いマゼンタ。
 一歩間違えばとんでもなく下品な配色だが、深雪が着ると高貴な雰囲気になった。
 白いうなじを覗かせるキチンと結い上げた髪も、艶かしさより気品を強く印象付ける。
 紫外線除けを兼ねる濃い目のメークも彼女の品位を損なうことは無い。
 華奢な身体つきはまだまだ発展途上だが、真っ直ぐに伸びた細く長い手足と、対照的に優美な曲線を描く胸や腰は、動物的な肉感が無い代わりに咲き誇る花樹の様な色香を漂わせている。
 そしてまさしく、花のような美貌。
 誰にも劣らぬ勢いでターゲットへ向かって翔け上がっているのに、一人だけ、「ふわっ」という形容が相応しく見えてしまう。
 観客の目はまたしても、深雪に釘付けだった。
 これが演技の美しさを競う採点競技なら、文句無く一位だっただろう。
 だが流石に本戦の、しかもメイン競技になると、九校戦は甘くなかった。

◇◆◇◆◇◆◇

「深雪さんがリードされるなんて……」
 第一ピリオド終了の合図とともに、詰めていた息を吐き出しながら「信じられない」という感想を声に込めて、美月が呟いた。
「トップに立った二高の選手……BS魔法師と迄は行かなくても、『跳躍』の術式にかなり特化した魔法特性を持っているように見えるな……」
「それだけじゃないわよ。
 跳び上がる軌道を計算して、巧みに深雪のコースをブロックしてる。
 『跳躍』のスペシャリストと言うより、『ミラージ・バット』のスペシャリストと言うべきじゃない?」
 美月と驚きを共有しながら、幹比古とエリカがそれぞれに自分の考えを述べると、
「二高の選手は渡辺先輩と並んで優勝候補に挙げられていた選手だから……」
「あれだけ目立てば、マークされるのも仕方ない。
 三年生の意地もあるだろうし」
 今日は一般客席で応援しているほのかと雫が、異なる角度から賛同を示した。
「まっ、このままじゃ終わらんだろうけどな」
 そして最後にレオが、悲観的な空気を吹き飛ばすように明るく言い放った。

◇◆◇◆◇◆◇

 次のピリオドでは深雪が挽回し、第二ピリオド終了の段階でトップに立った。
 だが、ポイント差は僅か。
 深雪もまだまだ余力を残しているが、相手も第三ピリオドに備えてペースを調整していた節が窺われる。
 勝敗の行方はまだ分からない。
 いくら使用魔法のバリエーションが限定された条件下とはいえ、高校のレベルで深雪と対等に競い合える魔法師がいることに達也は驚きを覚えていた。
「この国も狭いようで広い……」
 腰を下して息を調えている深雪の前で、達也が誰にとも無く呟く。
 彼の視線は妹ではなく、二高のブースへ向けられている。
 ……と、不意に袖を強く引っ張られた。
 眼を下へ向けると、椅子から立ち上がった深雪が、双眸に強い光を(たた)えて達也を見詰めていた。
「――お兄様、アレを使わせていただけませんか?」
 その目が、声が、彼の袖を掴む指が、「負けたくない」という意志を伝えてきている。
 綺麗なだけの、可愛いだけの「お人形さん」ではない、強い意志を宿したこの表情が、達也はとりわけ好きだった。
 自然と唇がほころび、目が愛しげに細められた。
「……いいよ。
 全てはお前の望むがままに」
 本来は決勝戦用の秘密兵器。
 だが、一切の計算も打算も忘れて、達也は頷いた。

◇◆◇◆◇◆◇

「あれっ? 深雪のホウキが変わってる」
 最終ピリオドのフィールドに立った深雪の変化に、エリカが真っ先に気がついた
 さっきまでいつもの携帯端末形態のCADを使っていた深雪が、右腕にブレスレット形態のCADを着けている。
「……でも、左手にもCADを持っているみたいだけど……」
 目を凝らしていた幹比古の指摘に首を傾げた一同の中で、ほのかだけが一人、感慨深げに頷いていた。
「そう……深雪、早くもアレを使う気ね……」
「アレ?」
 雫の問い掛けに、ほのかは憧れと悔しさが綯い交ぜになった表情で答えた。
「達也さんが深雪の為だけに準備した秘策。
 深雪にしか使いこなせない達也さんの秘密兵器。
 驚くわよ……きっと。今ここにいる人たち皆、一人残らず」
 それは一体何か――雫がそう質問する前に、第三ピリオド開始のチャイムが鳴った。

◇◆◇◆◇◆◇

 右腕に巻いたブレスレットは予備。
 本命は左手に握る、携帯端末形態の特化型CAD。
 オンとオフのスイッチしかない単純なコンソールの、オンのスイッチに乗せていた指を、ピリオド開始の合図と共に、深雪は素早く押し込んだ。
 展開される極小の起動式。
 止まることなく、途切れることなく、繰り返される起動処理。
 そして深雪の身体は、フワリと空へ舞い上がった。
 二高の選手がその行く手を遮る。
 左下から交差する軌道。
 相手の方が上昇スピードが速い為、そのままでは深雪の方から当たりに行く形となってしまう。
 深雪は自らの飛翔速度を加速することで、それを回避した。
 客席がどよめいたのは、光球を打ち消した深雪が身体を反転させ、空中に静止した後だった。
 ジャンプしている途中で更に加速する魔法力。
 観客が驚き賞賛したのは、あくまでも魔法の常識の範囲内で示された力量に対してだった。
 しかし、空中で一旦立ち止まった深雪が足場へ降りて行かずに、そのまま次のターゲットへ向かったのを目の当たりにして、歓声は絶句に変わった。
 二つ、三つ、四つ……
 十メートルの高度を往復しなければならない他の選手と、水平に移動するだけで済む深雪とでは、最初から競争にならなかった。
 五つ目のポイントを連取したところで、凍り付いた観客の声帯は、徐々に融け始めていた。
「飛行魔法……?」
 誰かが、そう呟いた。
 今や選手ですらも、呆然と上空を見上げている。
 囁き声に等しい呟きは、離陸・着地のステップの音も消えた、静まりかえった競技場に、不思議なほど響いた。
 スティックを振るう深雪の姿は、戦天使さながらに凛々しく、それでいて優美だった。
「トーラス・シルバーの……?」
 囁きが連鎖し、
「そんなバカな……」
「先月発表されたばかりだぞ……」
 波紋は徐々に広がって行く。
「だがあれは……」
「紛れもなく、飛行魔法……」
 その場に居合わせた全員の目が、一人の例外もなく、空を舞う少女へ向けられていた。
 湖の上空で繰り広げられる天女の舞。
 バランスを取る為に広げられた腕が、姿勢を変える為に振り出された足が、風と手を取り合って踊っているように見える。
 空を飛ぶという現代魔法の革新に、「不可能」とすら言われていた奇跡の実演に、この美しい少女はこの上なく相応しい……年齢を超え、性別を超え、敵味方すら超えて、人々は陶然となりながら空を舞う少女を見上げていた。
 彼らは、彼女たちは、皆、現代魔法でもない、古式魔法でもない、感動という名の魔法に絡め取られていた。
 試合終了の合図が鳴り、少女が地上に戻るまで、その魅了の呪文が解けることはなかった。

――予選第二試合、深雪は大差で決勝へ勝ち上がった。

◇◆◇◆◇◆◇

 選手が退場を始めて、観客はようやく我を取り戻した。
 選手退場に決められた順番はない。
 競技終了時点でゲートに近い選手から順番に退場していく。
 湖の中央に降りていた深雪は、四人中の三番目。
 一高の応援席へ向かい膝を折って一礼すると、フワリと浮かび上がって氷の上をスケート靴で滑っている様ななめらかさでゲートへ向かった。
 その優雅な所作に、客席から大きな拍手が沸き起こった。
 通信端末を慌しく操作している姿も客席のあちこちで見られた。
 興奮のあまり怒鳴りつけるような口調でマイクへ泡を飛ばしている者、上ずった口調で何度も同じ台詞を繰り返して回線の向こう側に呆れられている者、時折頭を掻き毟りながら仮想キーボードに指を躍らせる者、光学認識パネルへ一心不乱にペンデバイスを走らせる者……様々な人々が色々な形で、自分が味わった驚きをこの場に居ない誰かに伝えようとしていた。
 その中に、奇妙な無表情でHMD(ヘッド・マウント・ディスプレイ)に映るメッセージに見入っている男の姿があったが、それを目に留めた者は、ほとんど居なかった。

◇◆◇◆◇◆◇

「十七号から連絡があった。
 第二試合のターゲットが予選を通過した」
「……電子金蚕を見抜く相手だ。順当な結果なのだろうが……拙いな」
「それだけではない。ターゲットは飛行魔法を使ったらしい」
「バカな!?」
「これで力を使い果たしてくれたのなら万々歳だが……虫が良すぎるか」
「最早手段を選んでいる場合ではないと思うが、どうだろうか」
「賛成だ。百人ほど死ねば十分だろう。大会自体が中止になる」
「客に対する言い訳は何とでもなるからな」
「十七号だけで大丈夫か?」
「多少腕が立つ程度ならば『ジェネレーター』の敵ではない。
 残念ながら武器は持ち込めなかったが、十七号は高速型だ。
 リミッターを外して暴れさせれば、百や二百、素手で屠れる」
「異議はないな……?
 では、リミッターを解除する」

◇◆◇◆◇◆◇

 ようやく昂奮の潮が引き、観客が次の試合に備えて三々五々に席を立つ中、男もHMDを外して、のっそりと立ち上がった。
 目が露わになると、益々「無表情」という印象が強まる。
 いや、これは無表情という名の表情ではなく、そもそも表情が欠落しているのではないか?
 そんな風にさえ感じさせる、無機質な「表情」だった。
 不意に、男の身体がびくっと震えた。
 一瞬で発動された自己加速魔法。
 周りにいた魔法師が魔法の気配に気付く前に、男は丁度すれ違った男性へ襲い掛かった。
 鉤爪の如く曲げられた指を無防備な背中へ振り下ろす。
 ――そしてこの事件は、誰にも気付かれないままスタンドの外へと舞台を移した。

 「ジェネレーター」十七号が現状を把握した時には、既に地面まで三メートルを切っていた。
 殺戮の指令を受けて最初に襲い掛かった相手は、背中を向けていたにも関らず、彼の攻撃をかわして見せた。
 例え正面から向き合っていても、人間の知覚能力では反応できないスピードだったのに、である。
 魔法師は自己加速魔法により、筋力で可能な限界を超えたスピードで動くことが出来る。
 だが魔法で加速するのはあくまでも運動速度であり、知覚速度――感覚器の生化学反応速度、知覚神経の伝達速度、大脳の情報処理速度までスピードアップする訳ではない。
 人体の知覚速度は運動速度よりかなり高く設定されており、それ故肉体的な限界を超えた速度で動いてもそれをコントロールできるのだが、それでも生物としての限界というものがある。
 魔法による自己加速に魔法面からの限界はないが、知覚能力の面で制御可能な上限があるのだ。
 故に、化学的に知覚速度を強化された彼のスピードに、普通の人間――魔法技能があっても肉体的には普通の人間――が対処できるはずはない。
 それなのに実際は、振り下ろす腕の上腕を受け止められ、其処を支点として、自らが腕を振り下ろした勢いにより彼の身体は宙に浮かび上がっていた。
 ちょうど鉄棒で前転するように頭から前に回って身体が上下逆さまに向いた瞬間、強烈な衝撃と共にスタンドのフェンスを越えて場外へと吹き飛ばされていた。
 加速工程を故意に省略した移動魔法。
 その衝撃により半ば意識を失い、気が付いてみれば放物線を描いて二十メートルの高さから地面に叩きつけられる寸前だ。
 通常であれば恐怖に竦み、あるいはパニックに陥り、為す術もなく墜落する状況だが、この男は『ジェネレーター』だった。
 脳外科手術と呪術的に精製された薬品の投与により意思と感情を奪い去り、思考活動を特定方向に統制することによって魔法発動を妨げる様々な精神作用――俗に言う「雑念」――が起こらないように調整された個体。
 実戦の中で安定的に魔法を行使できるよう仕上げられた生体兵器。
 魔法を発生させる道具(ジェネレーター)に改造された魔法師。
 道具には、恐怖もパニックも縁がない。
 十七号は冷静に――正確には無感情に、慣性中和の魔法を発動した。
 この時点から減速しても急ブレーキによるダメージは避けられない。
 それより慣性を低減させておく方が、激突のダメージを和らげることが出来るという計算を瞬時に行った結果だった。
 呪薬の効果は意思、感情、知覚能力の調整だけでなく、身体機能の向上にも振り向けられている。
 脚のバネ、腹筋と背筋に両腕まで使って、落下速度を全て吸収する。
「あの段階から間に合わせるとは大したものだ」
 両手両足を地につけたまま声のした方へ顔を上げた十七号は、そこに、自分を投げ飛ばした男の姿を認めた。

「何者だ……?
 ……いや、答える必要はない。
 どうせ答えられないだろうからな」
 唇を歪め人を食った笑みを浮かべて、柳は獣のように両手両足を地面についた十七号を観察した。
「その身体能力、魔法だけではあるまい。
 強化人間か?」
 スタンド席のフェンスを飛び越え、中層ビルに匹敵する高さから投げ落とされたにも関わらず戦闘態勢を解こうとしない相手に、嘲りと感嘆をブレンドした口調で柳は問い掛けた。
「答える必要はない、と言ったのは柳君だよ。
 それに、同じ高さから跳び降りて手もついていない君には、言われたくないんじゃないかな?」
 四つ足の肉食獣そのものの動作で十七号が振り返った。
 そこにはいつの間にか、退路を塞ぐように、真田が立っていた。
 それでも逃げ出すつもりならば、十七号にはそれが可能だったかもしれない。
 単純な加速力なら「ジェネレーター」である十七号は、独立魔装大隊の二人に勝っていた。
 だが十七号に与えられた指令は「観客の殺戮」。
 意思も感情も持たない「ジェネレーター」にとって、組織の命令だけが行動を決定するインプットだ。
 その命令に従い、十七号は「観客」だった柳へと、再度襲い掛かった。
 柳は十七号が飛び掛かってくる前に、右手を前へ差し出していた。
 明らかにスピードで勝っていながら、十七号はその手から逃れられない。
 吸い寄せられるように、掌へ頭から突っ込んで行く。
 柳と十七号が交錯する。
 十七号は柳の身体に触れることなく撥ね返され、元居た場所へ叩きつけられた。
「答えを期待しての問いではない。独り言だ」
 柳は何事もなかったように、真田へ言い返した。
「そういうことにしておこうか。
 しかし、いつ見ても見事なものだね。
 今のも『転』の応用かい?」
 相手の運動ベクトルを先読みして、体術と魔法の連動により、それを誘導、増幅、あるいは反転させる。
 それが柳の得意とする戦法であり、十七号を投げ飛ばし、撥ね返した技だった。
「応用、とは少し違う。
 俺のは元々真似事に過ぎん。
 本物の『転』ならば魔法は要らん」
「僕たちの存在意義に関わる台詞だね。
 隊長に言いつけるよ?」
「……いい加減に下らんお喋りは止めて、そいつを捕らえるのに手を貸せ」
「ふむ……では、そうしようか。
 と言っても、既に藤林君が『被雷針』で確保済みだけど」
「……本当にお二方は仲が良いんですね」
 何の前触れもなく、気配も音もなく藤林が姿を見せた。
 後方スタッフ用のタイトスカートの軍服は、およそ荒事には不向きだ。
 本来であれば格好の獲物であり、格好の突破口になるはず。
 だが十七号は、ビクッ、ビクッ、と身体を痙攣させるだけで、とても抵抗できる状態ではなかった。
 髪の毛のように細い針を何本も突き刺され、そこから電流を流し込まれた結果だ。
 無論、針を飛ばしたのも電撃を放ったのも、藤林の魔法だった。
「藤林、お前、目は良かったはずだが」
「視力よりも感受性に問題があるのかな。
 良いカウンセラーを紹介しようか?」
「ほら、お二人とも息がピッタリじゃないですか」
 十七号を挟んで、柳と真田は顔を見合わせた。
 二人は全く同じように、顔を顰めていた。

◇◆◇◆◇◆◇

 裏で、そんな危険な一幕が行われていたとは知らず、達也は暢気にホテルの自室で少し早めの昼食を取っていた。
 試合の後、深雪がシャワーを浴びている間に、大会委員が飛行魔法に使用したCADを検査させろと言ってきたが、彼には何も疚しいところはない。
 一瞬、九島老人の名前を使って困らせてやろうか、という悪戯心が意識を過ぎったが、虎の威を借りて弱いもの虐めに興ずるのはみっともない、と思い直し、素直にCADを渡した。
 それ以外、特に変な騒動には巻き込まれていない。
 自分と妹を見る、随分と遠巻きな視線を多数感じたが、この手の輩は直接的な害がない限り放っておくのが一番だ。
 委員にCADを預けたまま、達也はプライベートな空間へ引き揚げることにしたのだった。
 もっとも、真田や柳が大量殺人を防ぐため人知れず活躍しているところだと知ったとしても、達也の行動は変わらなかっただろう。
 身も蓋も無い言い方をすれば、何の面識もない観客が何十人殺されようと、達也にはどうでもいいことだからだ。
 もっと言えば、同じ学校の先輩が犠牲になったことについても、達也は「残念だ」以上の感情を持っていない。
 それだけであれば、積極的に動こうとは思わなかっただろう。
 深雪が哀しそうな顔をするから、口や態度には出さないようにしているが。
 無論、今現在進行形で。
 改めて言うまでもないことかもしれないが、達也の目の前には甲斐甲斐しくテーブルの準備をする深雪が立っているのである。
「身の回りをいつもキチンと整理なさっているのはお兄様の美点だと思いますが、わたしとしてはもう少し散らかしておいていただく方がお世話のし甲斐があるような気もしますね」
 今日の深雪は上機嫌だ。
 今も、鼻歌を歌い出しそうな楽しそうな笑顔で、テーブルに布巾掛けをしている。
 この一週間ほど、余り構ってやれなかった反動だろう。
「深雪、何か俺にして欲しいことはないか?」
 だから食事を終えた後にそう訊ねたのは、単なる穴埋め程度の意識から出た言葉で、それ程深い意味は無かった。
「お兄様にして欲しいことですか?」
 ところが、目を丸くし、顔を綻ばせて嬉しそうに考え込むという予想外に大きなリアクションを深雪が見せたものだから、達也も何だか引っ込みがつかない気分になってしまった。
 顎に指を当てたり小首を傾げたりと様々なゼスチャー付きであれこれ考えていた深雪が、何を思いついたか急に頬を染めて、上目遣いに達也の顔を窺った。
「……言ってごらん」
 やや苦笑混じりではあったが、達也に優しく促されて、深雪は怖ず怖ずと切り出した。
「ランチが終わったら決勝まで少し休んでおくように、と先程ご指示を頂きましたが……」
「ああ、今すぐじゃなくても良いが、出来れば睡眠を取っておくべきだ。眠れなければ横になるだけでも良い。
 ベッドに入りたくない、というのは無しだよ?
 身体を休めるのは必要なことだからね」
「いえ、勿論お兄様のお言いつけのとおりに致しますが……その……」
「んっ?」
「その……よろしければ、隣にいて……いただけないかと……」
 流石に恥ずかしかったのだろう。
 深雪は顔を真っ赤にして俯いた。
「……甘えん坊だなぁ、深雪は」
「……いけませんか? 深雪はお兄様に甘えたいのです」
「……いいよ。子守歌は歌えないけどね」
 深雪は上目遣いに達也を睨み、その胸を平手で叩いた。
 彼女の白い肌は、黒髪の間から覗く耳までが、真っ赤に染まっていた。

 兄妹とは言っても年頃の男女、流石に同じベッドを使わせることは憚られた。
 今はシングルとして使っているが、元々この部屋はツイン。
 幸いなことに場所を取っていた機材は、ほとんど会場へ持ち込んでいる。
 壁に収納してあったベッドを出して、手早く使える状態にする。
 ほぼ全面的に自動化されているので、ルームサービスを呼ぶ必要はなかった。(普通のホテルではないので、来てくれるかどうかも分からなかったが)
 ベッドサイドに椅子を持ってきて枕元に座る。
 こちら側を見て恥ずかしそうに微笑む深雪に笑みを返し、達也は妹の髪を優しく撫でた。
 一分も掛からず、深雪は眠りの園へ旅立った。

◇◆◇◆◇◆◇

 決勝戦は、午前中と打って変わって、晴天の夜空だった。
 上弦の月が星の瞬きを圧倒している。
 下から光球を見分けるには、余り良くないコンディションだ。
「体調はどうだ?」
「万全です、お兄様。
 気力も充実していますし、最初から飛行魔法で行きたいと思うのですが」
「良いよ。思い切り飛んできなさい」
「はい!」
 勢いよくフィールドへ飛び出していく深雪を、達也はサムズアップで見送った。

「深雪さん、随分と上機嫌でしたね」
 サポート要員としてブース入りしているあずさが、湖上の足場に立つ深雪を見ながら達也に話し掛けてきた。
 残念ながら、あずさの担当した選手は予選落ちとなった。
 決勝戦進出は一高、二高、三高、五校、六校、九校から各一名ずつ。
 複数名決勝に送り込めた学校はない。
 女子最終競技ということもあり、各学校が意地を見せた形となっていた。
 今この場には、付き添いで病院に詰めている摩利以外の、主立った女子メンバーが顔を揃えていた。
 三高が一名しか決勝に送り込めなかった段階で、深雪が三位以内に入れば第一高校の総合優勝が決まる。
 応援にも力が入ろうというものだった。
「機嫌良く試合に臨めるのは良いことだわ。
 達也くんが上手にケアしてくれたみたいね」
 反対側から真由美が笑顔で話し掛けてきた。
 深い意味はないはずだが、何となくその笑みに含みがあるように見えるのは、達也の方に知られたくないことがある所為だろうか。
「そういえば深雪さんは『カプセル』を使わなかったようですが、十分に休憩は取れているのでしょうか?」
 何気ない鈴音の問い掛けに、達也は思わず、表情を変えてしまいそうになった。
「五時間、睡眠を取らせましたので、十分だと思います」
「そうですか。随分ぐっすり眠れたようですね。
 ホテルのベッドで寝ていたんですか?」
 達也は言葉に詰まってしまった。
 余りにもピンポイントな質問に、分かっていて言っているのか? と勘繰ってしまったほどだ。
「あっ、始まりますよ」
 だが幸い、沈黙が不自然に思われる前に、皆の注意はフィールドへ向いた。
 あずさの無邪気な性質が、今は正直、ありがたかった。

◇◆◇◆◇◆◇

 淡い色のコスチュームが、照明と、湖面に揺らめく反射光に照らされてくっきりと浮かび上がって見える。
 その中で、桜色のコスチュームを着た深雪が一際目を引いていたのは、予選で「飛行魔法」という離れ業を披露した為ばかりではなかった。
 ゆらゆらと揺らめく光の中、少し注意を逸らした隙にフッと居なくなってしまいそうな儚さに、観客は目を離せなくなっていた。
 ミラージ・バットの別名はフェアリー・ダンス。
 少女を「妖精」に例えるのは使い古された定番のレトリックだが、今の深雪を「妖精のような」と形容しても陳腐と(そし)る者はいないだろう。
 ざわめきが潮を引くように静まった。
 競技委員がしつこくメッセージボードを振り回す必要もなかった。
 人々が固唾を呑んで見守る中、ミラージ・バット決勝戦が始まった。

 始まりの合図と共に、六人の少女が一斉に空へ飛び立った。
 跳び上がった、のではない。
 六人全員が、足場へ降りてこなかった。
「飛行魔法!? 他校も!?」
「流石は九校戦。僅か六、七時間で飛行魔法の起動式をものにして来ましたか」
 あずさが裏返った声で叫び、達也が感嘆を口にした。
 とは言うものの、実際には、達也はそれ程驚いていなかった。
 おそらく、大会委員会から各校へ術式がリークされたのだろう。
 不正疑惑の抗議に対する回答、というような形で。
 CADを預けっ放しにしていたから、その可能性は考慮に入れてあった。
「各校ともトーラス・シルバーが公開した術式をそのまま使っているようですね」
「……無茶だわ。あれはぶっつけ本番で使いこなせる術式じゃないのに。
 選手の安全より勝ちを優先するなんて……」
 鈴音が空を見上げ眉を顰めて言うと、真由美が苦々しげに呟いた。
「大丈夫でしょう。
 あの術式をそのまま使っているなら、万一の場合でも『安全装置』が機能するはずです」
 達也の声には「お手並み拝見」と言いたげな余裕があった。

 空を舞う六人の少女。
 それはまさしく、妖精のダンスだった。
 観客は夜空を飛び交うその舞に、心を奪われ見とれていた。
 だが徐々に落ち着きを取り戻した観客は、思いがけない試合経過に別の驚きを抱くことになった。
 同じように空を飛んでいる。
 飛行魔法の、魔法としてのレベルに大差はないように見える。
 だが実際にポイントを重ねているのは一高の選手。
 他校の選手はその動きに全くついて行けていない。
 素早く、なめらかに、優雅に、
 身を翻し、宙を滑り、上昇し、下降する、
 その自由で可憐な舞に、ある者は付き従い、ある者は道を譲る。
 いつの間にか舞い踊る妖精たちは、一人のプリマ・バレリーナと五人のコール・ド・バレエに役割が分かれていた。

 他の選手が飛行魔法を使ったことに、深雪は少し驚いた。
 否、少ししか驚いていなかった。
 兄の作ったあの飛行魔法は、「誰にでも使える」術式であるところに真の価値があるということを、深雪は誰よりも理解していた。
 それに、他校が飛行魔法を使ってくる可能性については、試合前に兄から注意を受けていた。
 誰にでも使える、と、誰もが同じように使える、とでは意味が違う。
 兄は、注意しながら笑っていた。
 それはきっと、自分以上にこの術式を使いこなせる者はいないと信じているからだ、と深雪はその時思った。
 その信頼に支えられて、深雪は自在に夜空を舞う。
 一人、また一人と力尽きて落ちて行く他校の選手を見下ろして。

 最初の一人が空中でグラリと体勢を崩した瞬間、客席から悲鳴が上がった。
 だがその選手がゆっくりと降下していくのを見て、客席全体がホッと息をついた。
 予選でも落下事故があったばかりだ。
 観客よりも大会委員の方が胸を撫で下ろしたかもしれない。
 これは飛行魔法に組み込まれた「安全装置」によるものだ。
 術者から供給されるサイオンの補充効率が半減すると、起動式に予め組み込まれた「変数」が自動的に十分の一Gの軟着陸モードを指定する。
 一高のブースでは、「変なアレンジはしていなかったようだ」と達也が胸を撫で下ろしていた。
 奇しくも九校戦という注目を集める舞台で、飛行魔法の安全性が実証された形だ。
 このツキは宣伝にフル活用しなければな、と人の悪い(あるいは、腹黒い)笑みを心の中で浮かべている視線の先では、また一人、妖精の舞台から脱落者が出ていた。

 結局、第一ビリオドの脱落者は二人だった。
 その二人はそのまま試合を棄権した。
 そして第二ピリオドでも一人脱落。
 最終ピリオドは、三人の争いとなった。
 この時点で深雪が試合を棄権しない限り、一高の総合優勝が決定している。
 一番確実な戦法は、足場の上にとどまって何もしないこと、だ。
 だが一高のブースでは誰も、その「確実な」戦法を提案しなかった。
 ここまでのポイントは、大差で一位。
 無論、深雪が、である。
 総合優勝は勿論大切だが、その為に個人優勝を犠牲にすべきだと考える者は、誰一人いなかったのだ。
 声援と信頼を背に受けて、深雪は最終ピリオドの空に舞い上がった。
 目を向けなくてもハッキリと分かる、自分を見守る兄の眼差し。
 これがある限り、自分の翼が折れることは決してないと深雪は知っている。
 その折れざる透明な羽を広げて、色とりどりの光と戯れる。
 やがて、
 湖上の足場に膝をつき、荒く息を吐く二人の選手。
 夜空をソロの舞台に変えて、深雪は妖精の舞(フェアリーダンス)を舞い踊る。
 大きく広げた腕の先で、最後の光球が姿を消す。
 一拍の静寂。
 一コマのストップモーション。
 試合終了を告げるチャイムは、熱狂的な拍手にかき消された。


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