この物語はフィクションです。
この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
新人戦優勝のパーティーは総合優勝のパーティーと合わせて行われることになった。
一つには代役としてモノリス・コードに出場し、競技優勝と新人戦優勝を決めた三人が決勝戦で肉体的に大きなダメージを受けていて、ドンチャン騒ぎができる状態ではないという事情もあったが、それよりも大きな理由は、総合優勝がかかった明日のミラージ・バットの準備でそれどころではなかったのである。
新人戦優勝により、一高と三高のポイントは更に差が開いていた。
その差、百四十ポイント。
明日のミラージ・バットの成績次第で、最終日を待たずに一高の総合優勝が決まる。
選手とエンジニアはコスチューム(モノリス・コード選手は防護服)とCADの仕上げ調整に余念が無く、手の空いたメンバーも様々な形で彼らを手伝っていた。
右耳鼓膜破裂をわざと「修復」せずに医務室で通常の魔法治療を受けた達也は、その後、自己修復術式を発動して完治させた耳を医療用のイヤー・パフで隠して、深雪とマンツーマンで明日の準備に当たっていた。
チームのメンバー、特に上級生が、既に治っている右耳を、そうとは知らず気遣ってくれるのが、達也としても少し心苦しくはあったが、彼にも隠さなければならない事情がある。
真夏には暑苦しい覆いを耳に被せたまま我慢することを代償に、なけなしの良心には目を瞑らせることにした。――そんなことは代償になどならないと、分かってはいたが。
もっとも、「余念が無い」とは言っても、前日にじたばたしなければならない事はほとんど無い。
いや、全く無いと言った方が良いかもしれない。
昨晩の、いきなり二人分――自分の物も含めれば三人分――のCADを白紙の状態から仕上げなければならない様な慌ただしさは、滅多に起こらない異例の事態。
新人戦から本戦への鞍替えはあったものの、深雪がミラージ・バットに出場するのは予定されていたことであって、その為の準備は抜かり無く進めて来ている。
一日、予定外に別件で塞がってしまったからといって、それで大した影響を受ける訳でも無いのである。
「無理をせずに休んで、達也くん。
貴方は昨日から散々無理をしてるんだから」
「深雪さんも、もう休んで下さい。
貴女が頑張っていると、怪我人が何時までも無理を止めようとしませんので」
CADのフルチェックを手際よく終わらせた達也は、真由美や鈴音から、深雪込みで、半ば追い立てられる様にして本日の活動に終止符を打った。
◇◆◇◆◇◆◇
しかしその一方で、この同じ夜、一睡も出来ないほど追い詰められていた者たちもいた。
「……第一高校の優勝は最早確定的だ……」
「馬鹿な! 諦めると言うのか?
それは座して死を待つということだぞ!」
「このまま一高が優勝した場合、我々の負け分は一億ドルを超える。
無論、ステイツドルで、だ」
「これだけの損失、楽には死ねんぞ?
良くて生殺しの『ジェネレーター』、適性が無ければ『ブースター』として死んだ後まで組織に搾り取られることになる」
テーブルを囲んだ男たちは、おぞましい物を見る目で、部屋の四隅にボンヤリと立ち尽くす四人の男を順番に窺い見た。
「……手段を選んでいる場合では無い」
「そうとも! 多少客に疑いを持たれたところで、証拠は残らんのだ。
この際、徹底的にやるべきだ」
「協力者に使いを出そう。
明日のミラージ・バットでは、一高選手の全員に途中で棄権してもらう。
――強制的にな」
狂気を孕んだ含み笑いが、同意の印に投げ交わされた。
◇◆◇◆◇◆◇
大会九日目は、前日までの好天から打って変わって、今にも雨が降り出しそうな分厚い雲に覆われた、薄暗い曇天だった。
もっとも、眩しい日差しの無い、夜明けを随分と過ぎても尚薄暗い空は、ミラージ・バットにとって滅多に無い好条件であり、この競技に出場する深雪たちにとっては寧ろ「好天」と言えた。
「ミラージ・バットにとっては試合日和、なんだろうけど……どうも、波乱の前触れに見えるな」
空を見上げて独り言の様に呟いた達也の言葉に、深雪は眉目を曇らせた。
「まだ何か起こるのでしょうか……?」
「狙いが分からないからな……起こるという確証もないし、起こらないという保証も無い。
まあ……深雪が心配する必要はないよ。何があろうとお前だけは、俺が守ってやるから」
達也の言葉に他意は全く無い。
達也としては、深雪だけを守れれば良いのだ。
本音を突き詰めれば、他の選手が犠牲になっても自己責任であり自分の関知するところではないと達也は考えている。
だが――偶々、二人の会話を誰も見聞きしていなかったことを、達也は天に感謝すべきかもしれない。
もしこの場に第三者が居たなら……尚も空を見上げる達也の傍ら、彼の視界の外側で恥じらい俯きながらも至福の微笑みを浮かべて身を寄せる深雪の姿を見ていた者が居たなら、「悶え殺し」という世にも奇妙な罪状で、彼ら兄妹は告発されることになったかもしれなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
深雪の出番は第二試合に決まった。
本当は休息時間をたっぷり取れる第一試合が良かったのだが、そう何もかも都合良く運ぶはずはない、第三試合にならなかっただけ吉としよう、と達也は考え直した。
二人は第一試合を競技フィールド脇のスタッフ席で観戦することにした。
第一試合終了から第二試合開始まで四十五分のインターバルがあるとはいえ、一々客席からフィールドへ移動するのは時間が勿体ない。
他校の選手は、と見れば、やはりフィールド脇に、皆揃っていた。
「小早川先輩、随分気合いが入っているご様子ですね」
湖面に突き出た円柱の上で開始の合図を待つ先輩選手を、深雪はそう評した。
達也の目にもそう見えた。
小早川は気分屋だ、と摩利がこぼしていたが、もしかしたら自分の手で総合優勝を決められるかもしれない、となれば気を抜く方が難しい事だろう。
勝敗は相手のあることだが、この分なら大丈夫だろう、と達也は思った。
観客が、スタッフが、チームメイトが注目する中、始まりを告げるチャイムが鳴った。
◇◆◇◆◇◆◇
第一ピリオドは順位が目まぐるしく入れ替わる接戦となったが、小早川が僅かな差でトップに立った。
我知らず息を詰めていたエリカは、ホッと力を抜いて、隣席の美月に話し掛けようとして――いつもと違う友人の姿に目を瞠った。
「美月……メガネを外して大丈夫なの?」
霊子視覚過敏症の魔法師がオーラ・カット効果の施されたメガネを掛けているのは、活性化したプシオンの影響でその場を覆う激しい感情に巻き込まれるのを防ぐ為だ。
今のこの状況、大勢の観客が昂奮をぶつけ合っている中でそのメガネを外しては、精神に大きな負荷が掛かってしまうはずだ。
「正直……チョッと辛いかな」
膝の上に置くメガネに添えた美月の両手が、時折、微かに震えているのに、エリカは気付いた。
「でも、いつまでも自分の力から逃げてるだけじゃダメだと思うから」
「……美月は別に、逃げてる訳じゃないと思うけど」
彼女が魔法科高校に進学した理由をエリカは何度か聞いている。
勿論、主な理由は、魔法の素質という希な才能を活かす為であり、具体的には魔法大学に進学し魔工師になる為だ。
だがそれと同時に、視えすぎている「眼」をコントロールする技術を学び身につけるという目的も持っている。
二科生に許されている範囲で最大限、その為の指導も受けている。
未熟であっても自分の「力」にキチンと向き合っているのだから逃げているのではないし、未熟な内は道具の助けを借りるのも寧ろ当然のことだとエリカは思う。
だから、だろう。
「無理したって良いことはないと思うけど。
一足飛びに技術が身に付くことは無い、とは言わないけど、身体を壊しちゃうことの方が多いんだから。
美月の場合は、もっと取り返しのつかないことになる可能性があるんだよ?」
少し厳しい言い方になってしまったのは。
「うん……でも、見なくちゃいけないときに、見えている物から目を逸らすのは、やっぱり間違っていると思うの……」
それでも美月は、メガネを膝の上に置いたままだった。
「渡辺先輩が怪我したときも、私がちゃんと見ていることが出来たら、少しは達也さんたちの役に立てたと思うから」
「……だから今回は、何か起こったときに備えて、見張っているつもり?」
「うん、あのね……深雪は大丈夫だと思うの。だって、深雪に何かされるのを達也さんが見逃すはずはないもの。
でも今日は、他の選手まで、手が回らないと思う。
昨日もあんな無理をしたばかりだし。
そしてもし」
「他の選手が犠牲になった場合、達也くんが知らん顔するはず無い、か。
まあそうだろうねぇ……冷たいように見えて、意外とお人好しだから」
「達也さんは仲間思いの凄く暖かい人だよ……!」
「ハイハイ、分かってるって」
(「仲間」じゃなきゃ、トコトン冷酷になれる人のような気もするけどね)
後半の本音は心の中だけに止め、エリカは手振りを併せて少しムキになっている美月を宥めた。
「エリカが柴田さんを心配するのは分かるけど、もし達也の考えているとおり、妨害工作に精霊魔法が使われているなら、柴田さんの『眼』が一番頼りになるのも確かだ。
一応、霊子光の刺激を緩和する結界を僕らの周りに作っておいたから、後遺症が残るようなことにはならないと思う」
美月の向こう側の席から挿まれた幹比古の言葉に、エリカは意地の悪い笑みを浮かべた。
「フ〜ン……?
ミキが美月を守ってあげるんだ?
じゃあ美月に何かあった時には、ミキが責任を取りなさいよ?
もちろん、男の子が女の子に対して取る責任だからね?」
「なっ、今は、そんなことを言ってるんじゃないだろ!」
顔を赤くして反論する幹比古は、愛称に対するいつもの抗議も忘れている有様。
美月はと言えば、顔を茹で上がらせて抗議すら出来ない状態だ。
「……お前ってホント、意地の悪い女だな」
そしてエリカはといえば、隣の席からもたらされた溜め息混じりの非難を、何処吹く風とばかり黙殺していた。
◇◆◇◆◇◆◇
無視されたレオと知らん顔をしたエリカの間でいつものにぎやかな掛け合いが続いている内に、第二ピリオド始まりのチャイムが鳴った。
二人は「物足りない」と表情で語り合いながらも、選手と他の観客の邪魔にならないよう口を閉ざした。
そして、第二ピリオドが始まって程なくして、それは起こった。
◇◆◇◆◇◆◇
緑色の光球に向けて、小早川と、もう一人、同時に跳び上がった。
優先圏内への到達は、残念ながら相手が僅かに早かった。
跳躍の勢いを止める魔法を、小早川が行使した。
彼女の身体が空中で静止する。
続けて、元の足場に戻る魔法を編み上げようとして、その足場が別の選手に使われているのに気付く。
彼女は慌てず、一番近い、空いている足場へ着地する為の魔法に魔法式を切り替えた。
重力を無視して、真っ直ぐ斜めに、ゆっくり空中を滑空する移動魔法。
だが、斜めに降りるはずの彼女の身体は――重力に引かれて、真っ直ぐ落ちて行った。
真下に感じる浮遊感(この場合、落下感と表現すべきか?)に、小早川の表情が引きつったのが、観客席からもハッキリ分かった。
驚愕。
恐慌。
恐怖。
彼女の身体を支えるはずの魔法が発動しない。
これまで彼女の人生を支えてきた魔法から示された、突然の裏切りに、藻掻くことすら忘れて湖面に落ちて行く。
水面とはいえ、十メートルの高さだ。
落ち方が悪ければ、致命傷ともなり得る。
そして小早川は、落下に備えた姿勢を取る素振りも見せていない。
だが幸いこれは、二重、三重に安全を考慮されたスポーツ競技だ。
選手が魔法のコントロールを失って落下するという事態には当然、対策が為されていた。
立ち合いの大会委員が減速の魔法を放った。
小早川が落ち始めてから、大会委員の魔法が彼女の身体を受け止めるまで、実際には一秒も掛かっていないだろう。
それでも、水面まで残すところの高度は半分近くしか残っていなかった。
それは、彼女の心を打ちのめすのに十分な時間、十分な道程だった。
◇◆◇◆◇◆◇
時計が止められ、担架で運ばれていく上級生を、達也は痛ましげな眼差しで見送った。
魔法を学ぶ少年少女が魔法を失う原因の内、最大を占める理由は、魔法の失敗による危険体験、それによってもたらされる魔法に対する不信感だ。
魔法は世界を偽る力。
魔法それ自体が、世界の理からはみ出した偽りの力。
それでも達也自身のように、魔法を「眼」で見ることが出来れば、偽りであっても確かにここにある力だと信じることも出来る。
だが、多くの魔法師(の卵や雛鳥)にとって、魔法は目に見えない、あやふやな力。
――自分が使っている魔法は、本当に自分の中からもたらされた力なのか?――
この疑問は、魔法を学ぶ過程で誰もが、と言っていい程、ほとんどの魔法師が一度は抱く疑問、否、疑念。
そして、発動するはずの魔法が効果を顕さず、魔法によって避けられたはずの危険に直面した時、この疑念が確信に変わる、ことがある。
――やはり、魔法など無いのだ――
という、確信に。
この確信に取り憑かれた魔法師は、二度と魔法を行使することが出来なくなる。
魔法は、それ程までに脆く危うい、精神の微妙なバランスの上に成り立っているのである。
(……小早川先輩はもう、ダメかもしれんな)
青ざめた深雪を励ますように、その肩を抱き寄せながら、達也は心の中でそう呟いた。
重力に囚われた瞬間、それを自覚した瞬間に小早川の表情を塗りつぶした、恐怖。
他人だ、と割り切っていても、貴重な才能が失われるのは、矢張り、寂しいことだった。
そんな彼の感傷を断ち切るように、胸ポケットの通信端末が振動した。
ピタリと身体を密着させていた深雪が物問いたげに見上げる前で、達也は折りたたみ式の音声通信用ユニットを開いて耳と口元に当てた。
『達也、幹比古だけど、今、話しても大丈夫かい?』
「……ああ、大丈夫だ」
音声通信ユニットの音波干渉消音機能が作動していることを作動ランプで確認して、達也はそれでも尚、声を潜めて応えた。
『今の事故のことなんだけど、残念ながら僕の方では、術の兆候を見分けられなかった』
「そうか……」
『ゴメン、期待してくれたのに、応えられなくて……』
「いや、捉えられなかったのは俺も同じだ」
『でも、柴田さんが、達也に話したいことがあるって』
「美月が? もしかして、メガネを外していたのか?」
達也の口調に、演技ではない、驚きが混ざる。
だが、幹比古はそれに、直接は答えず、
『達也さん、美月です』
通話相手を交代することで答えにした。
「美月、何か視えたのか?」
大丈夫なのか、という言葉も達也の喉元で待機していた。
だがそれは、美月の心意気に失礼だと達也は思った。
彼女は自分の「視力」を、魔法に携わる者として、自分の意思で行使したのだ。
ならばその成果を問うのが、同じく魔法の世界で生きる自分の返すべき言葉だ、と達也は思った。
『ええ、その……小早川先輩の右腕で……多分、CADをはめている辺りで、SB、いえ、「精霊」がパチッと弾けたみたいに、その、視えました』
「そうか……視えたのか。
それで、その『精霊』は弾けて散ってしまったんだな?」
『えっと……ええ、そんな感じでした。こう、とても古い電化製品が、パチッと火花を散らして止まってしまう、みたいな……』
「そうか。
なるほど、分かった……そういうことか」
達也は朧気ながら、「敵」の仕掛けたカラクリが見えたような気がした。
『あの、達也さん……?』
彼が頷く雰囲気が、音声通話越しにも分かったのだろうか。
おずおずと、ではあったが、少し、期待の込められた声が、受話器から流れ出した。
「良くやったな、美月。
今の情報は、とても役に立った」
『ありがとうございます!』
美月が訊きたいことを、聞きたかったことを先取りして答えた達也の台詞に、声を弾ませた美月の声が返って来た。
◇◆◇◆◇◆◇
第一試合、第一高校の成績は、残念ながら途中棄権。
重苦しい雰囲気に包まれた一高テントを抜け出して、達也はCADチェックを行っている大会委員のテントへ赴いた。
深雪は選手控え室――テントの中でも一応は「部屋」だ――に残して来た。
今までのやり方を見る限り、二試合連続で手を出してくるとは思わなかったし、選手に直接暴力的な手段を用いることは無いだろうが、試合前の選手は試合に集中すべきで、機器のチェック等という雑事に煩わされるべきではない、と達也が同行を押し止めたのだ。
それはここ数日で何度も繰り返した手続きであり、何事もなく進み、何事もなく終わるはずだった。
しかし、そんな彼の楽観的な見通しは、CADを検査装置に掛けた瞬間、彼の脳裏から蒸発して消えた。
それは完全に、衝動的な行為だった。
異常を感知した、という認識が彼の意識に届いた時には、既に、
彼の手は、
係の委員をテーブルの向こう側から引きずり出し、地面に叩きつけていた。
悲鳴が上がった。
続けて、怒号が――正確には怒号を上げながら警備担当の委員が――駆け寄って来た。
だが、そんなものは、彼の耳には届いても、彼の意思には届かない。
一切の手加減無く放射した殺気が、足音を止め、喧噪を静寂に塗り替える。
それは、彼に唯一残された「本気」の発露。
「……嘗められたものだな」
苦鳴が上がったのは、組み伏せた胸を抑える膝の圧力を高めた結果の、生理的反応か。
彼が叩きつけた係員は、苦痛に呻きながらも、達也の放つ鬼気に、歯の根が合わず、歯を鳴らすことも出来ず、口元と頬を痙攣させていた。
「深雪が身につける物に細工をされて、この俺が気付かないと思ったか?」
そんなことを言われても、彼の家族事情を知らない第三者に分かる訳がなかった。
だが同時に、何も分からないまま、誰もが理解せずには、いられなかった。
彼が漏らした不吉な含み笑いに。
一方的な暴行を受けているこの係員は、決して触れてはならぬ物に、竜の逆鱗に触れてしまったのだと。
達也の右手が、組み伏せた男の喉元へゆっくりと近づいて行く。
それを見ていた者たちは、目を逸らすことも出来ず、何故か同じことを思った。
同じ光景を想像した。
この少年の指は、容易く喉を突き破り、首をへし折り、血溜まりの中に羅刹の裁きを執り行うだろう……
「何事だね?」
だがその避け得ない破局は、穏やかな老人の声によって、回避された。
威圧感も厳しさもない、春風のようなその声が、その声に含まれた波動が、その場を蹂躙していた殺意を柔らかく呑み込み、中和した。
「――九島先生」
憑き物が落ちたように鬼気を収めて、達也は手を離し、膝をどけ、立ち上がって九島老人に一礼した。
「申し訳ありません。見苦しい姿をお見せしました」
「君は――第一高校の司波君だな。
昨日の試合は見事だった。
それで、一体何事かね?」
達也の鬼気が収まったのを肌で感じて、狼藉を働いた彼を取り押さえようという動きを見せた者もいたが、九島老人の邪魔をするのは僭越と考えた同僚に制止された。
「当校の選手が使用するCADに対する不正工作が行われましたので、その犯人を取り押さえ背後関係を尋問しようとしておりました」
「そうか」
その場にいた者は皆、彼の鬼気、彼の殺意に凍り付いていた者は誰もが、その言葉を嘘だと感じた。
尋問だけで、済ませたはずがない、と。
だが九島老人は、彼が放っていた鬼気については何も追求せず、達也の言葉に頷いた。
「不正工作が行われたCADというのはこれかね」
「そうです」
かつて「最高にして最巧」と謳われた老魔法師は、検査機械からCADを取り外して目の前に持って行き、繁々と見詰め、頷いた。
「……確かに、異物が紛れ込んでおるな。
これは、見覚えがある。
私が現役だった頃、広東軍の魔法師が使っておった電子金蚕だ」
そう言って、地面から立ち上がれぬままの男へ冷ややかな視線を投げた。
ヒッ、と声を上げて、男が腰を抜かしたまま後退る。
「有線回線を通して電子機器に侵入し、高度技術兵器を無力化するSB魔法。
プログラムそれ自体を改竄するのではなく、出力される電気信号に干渉してこれを改竄する性質を持つ為、OSの種類やアンチウイルスプログラムの有無に関わらず、電子機器の動作を狂わせる遅延発動術式。
我が軍は電子金蚕の正体が判るまで、随分苦しめられたものだが……
君は電子金蚕のことを知っておったのか?」
「いえ」
九島老人の問い掛けに、達也は身振りを伴わず、「休め」の姿勢を保持したまま言葉だけで答えた。
「電子金蚕という言葉は初めて伺いました。
ですが、自分の組み上げたシステム領域に、ウイルスに似た何かが侵入したのはすぐ分かりました」
「そうか」
達也の言葉に、九島老人は楽しげな笑みを浮かべた。
しかし視線が告発を受けた検査係へ向けられた時には、その笑みは、歴戦の魔法師が敵を見下ろす際に浮かべる笑いに変わっていた。
「では君は、一体何処で電子金蚕の術式を手に入れたのだね……?」
悲鳴を上げ、四つん這いでその場を逃れようとする工作員は、達也を取り押さえようと集まっていた警備員に拘束された。
「さて、司波君。君もそろそろ競技場に戻った方がよかろう。
CADは予備の物を使うと良い。このような事情だ、改めてチェックは必要ない。
そうだな、大会委員長?」
突如掛けられた声に、背後に付き従っていた老人――と言っても、九島老人より一回り以上若い――は、大急ぎで頷いた。
「運営委員の中に不正工作を行う者が紛れ込んでいたなど、かつて無い不祥事。
言い訳は後でじっくり聞かせてもらおうか」
今にも卒倒しそうな顔で、それでも何とか肯定の応えを返す大会委員長とその取り巻きたちから目を背け、九島老人は再び楽しげな眼差しを達也へ向けた。
「司波達也君、君にもいずれ、話を聞かせてもらいたい」
「ハッ、機会がございますれば――」
「フム、ではその『機会』を楽しみにしていようか」
これが達也と九島烈の、最初の直接遭遇だった。
◇◆◇◆◇◆◇
選手「控え室」のある天幕へ戻ってみると、自分に向けられる視線が、そこに込められた感情が、微妙に、だが確実に変化していることを、達也は敏感に感じ取った。
――あるいは、「元に戻った」と言うべきかもしれない。
微妙であるのは、隠そうとして隠し切れていない為。
見る目を変えることに後ろめたさを覚えながら、そうせずにはいられない心の揺らぎ。
達也は決して鈍い人間ではない。
情緒に偏りがあるだけで、その偏っている部分では、寧ろ、極めて鋭敏であると言える。
感が鈍いのは、好意。
鋭にして敏であるのは、悪意。
今、彼に向けられている眼差しは、彼にとってお馴染みのもの。
得体の知れぬ異質な存在に対する戸惑いと恐れ、そして、忌避。
「お兄様……」
そして、その中でただ一人、彼を忌避していない少女は、眉と声を曇らせて彼を出迎えた。
「すまんな、心配掛けて」
そしてその、唯一つの眼差しだけが、彼の心に鈍い痛みをもたらす。
「そんなこと!
だってお兄様は、わたしの為に怒って下さったのでしょう?」
勢い良く首を振ったはずみに、結い上げている途中の髪が、少し解れた。
「早いな。もう事情を聞いたのか?」
零れ落ちた髪をすくって頭をそっと撫で上げた手に、深雪は恥じらい、俯き、それでもシッカリと、兄の問い掛けに答えた。
「いいえ。
ですが、お兄様が本気でお怒りになるのは、いつも……わたしの為、ですから……」
シッカリと答えながらも、徐々に涙声に変わっていく妹の頬に手を添えて、達也はそっと、上を向かせた。
「……そうだな。
俺は、お前の為にだけ、本当に怒ることができる。
でもね、深雪。兄貴が妹の為に怒るのは当たり前なんだ。
そしてそれは、俺の心に唯一つ残された『当たり前』だ。
だから深雪、お前は哀しまなくても良いんだ」
達也は開いている右手でハンカチを取り出して、涙をたたえた妹の目元にそっとあてがった。
「それに……折角綺麗にメイクしたのに、涙で汚してしまっては勿体無いよ?
今日はお前の為の、晴れ舞台になるんだから」
「もう……お兄様ったら。
試合に出るのはわたしだけではありませんのに。
それは身贔屓というものですよ」
苦笑い気味ながら、それでも深雪の笑顔は誰よりも輝いていた。
少なくとも達也にはそう見えた。
妹が笑顔を取り戻したことに安堵と満足を覚え、頬に当てていた手をそのまま肩に移して、一緒に中へ入ろうと天幕の方へ顔を上げた達也は、彼を取り囲む視線が再び、そして今度は奇妙な、変化を遂げていることに気がついた。
息を潜め身を縮めて物陰からこっそりと窺い見る視線から、ウンザリしながら無視することも出来ずにいる生暖かい眼差しへ。
「あら、達也くん」
こんな時でも、生徒会長は生徒たちの代弁者、と言わんばかりに、真由美が一際生温い視線と薄ら寒い声で達也を迎えた。
「大会本部から『当校の生徒がいきなり暴れ出した』と言われたときには一体全体何事かと思ったのだけど……
とってもシスコンなお兄さんが、大事な大事な妹にちょっかいを掛けられそうになって怒り狂っていただけだったのね」
極めて不本意な言われよう、だったが、台風接近間近の如きじっとりと湿った生温い風が吹き付けてくる中、兵数の圧倒的劣勢を悟った達也は、戦略的撤退を選択した。
つまり、エンジニアに割り当てられた作業室へ、こそこそと逃げ込んだのである。
こうして達也は一高の中で、忌み嫌われ孤立する、という事態を免れたのであるが、それが彼の本意だったかどうかは……本人に訊いても、分からなかったに違いない。
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