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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第二章・新人戦編
2−(21) 天才児の実力
「……おい達也、顔色が悪いぜ? 大丈夫かよ?」
「何だか随分疲れてるようだけど……」
 一般用観戦席でレオ、幹比古と落ち合った達也は、開口一番、口々にそう問われてしまった。
「少し、気疲れすることがあってな。
 なに、精神的な疲労というより情緒的な疲労だから、試合で気合が入れば大丈夫だ」
 達也がなんでもない、という風に手を振る背後で、何事も無かったように深雪とエリカが腰を下した。
 その後ろで美月が少しばかり挙動不審になっていたが、関心がこれから始まる試合の方へ行っているのか、レオも幹比古も気付かなかった。
「……悪いね。達也ばかり矢面に立たせて」
 幹比古は何か、好意的な(好都合な?)誤解をしたようだ。
「いや、そんなことはない。大丈夫だから気にするな」
 この「そんなことはない」は、本当にそんな事ではなかったという意味なのだが、敢えて曖昧な言い方をする辺り、達也もいい性格をしている。
「大丈夫ってんならいいけどよ。
 達也は今回、散々無茶してるんだから、これ以上の無理はするなよ?」
「分かっている」
 何とも自分には勿体無い善良な友人だ、と達也は思った。
「そっちも含めて大丈夫だ」
 そんな善人を心配させるのは彼としても本意ではないので、努めて力強く頷いて見せた。

 もっとも、試合が始まってみれば、多少顔色が悪い程度のことはどうでもよくなる。
 彼らの関心は――無論、達也も含めて――「岩場ステージ」で繰り広げられる三高と八高の試合に吸い寄せられた。
 試合は予想以上の一方的な展開となっていた。
 独り舞台になっていた、という表現の方が適切かもしれない。
 カルスト地形を模した「岩場ステージ」は「平原ステージ」に次いで障碍物が少ないステージだ。
 所々に遮蔽物となる大きな岩が突き出し、転がっているものの、高低差は少なく、視界を遮る木立は無い。
 その岩と岩の間を三高陣地から悠然と歩いて進む一人の選手。
 一条将輝は堂々とその姿を曝して「進軍」していた。
 八高もそれを黙って見ている訳ではない。
 将輝へ向けて、次々と魔法を繰り出す。
 岩陰を伝って三高陣地へ進んでいたオフェンスの選手までが、その集中砲火に加わっていた。
 だが。
 将輝の歩みは、止まらない。
 移動魔法で投げつけられた石や岩の欠片は、より強力な移動魔法で撃ち落とされた。
 彼に直接仕掛けられた加重魔法や振動魔法は、身体の周囲一メートルに張り巡らせた「広域干渉」によって無効化された。
 その「無駄な努力」を嘲笑うように、将輝の歩みは、速まらない。
「……『干渉装甲』か。移動型広域干渉は十文字家のお家芸だったはずだが」
 レオも、幹比古も、その圧倒的な技量に絶句する中、達也は手放しで将輝の実力を褒めちぎっていた。
「あれだけ継続的に魔法を使いながら少しも息切れしないのは、単に演算領域の容量が大きいだけではないな。
 余程『息継ぎ』が上手いんだろう。
 ああなるともう、センスとしか言いようが無い」
 息継ぎ、というのは同種の魔法を連続使用する場合の、一つの魔法が終了し、次の魔法を発動する、その切替を指している。
 前の魔法と次の魔法の重複時間が少ない程、魔法師に掛かる負担は小さい。
 この重複時間が短い魔法師のことを「息継ぎが上手い」と形容するのだ。
 深雪も非常に「息継ぎが上手い」魔法師だが、達也の見たところ、将輝は深雪に匹敵するセンスを持っている。
 途絶えることの無い強力な防御に、八高のオフェンス選手が攻撃を止めた。
 身を隠すこともそこそこに、三高陣地へ走り出す。
 将輝を撃退することを諦め、先に相手陣のモノリスを攻略することに活路を見出そうとしたのだろう。
 だが残念ながら、その行動は迂闊だった。
 パニック行動だったのかもしれない。
 注意が前方へ向いて無防備になった背中を、将輝が見逃すはずも無く、
 至近距離で生じた爆風によって、八高オフェンスは前のめりに吹き飛ばされた。
「収束系『偏倚解放(へんいかいほう)』か。単純に圧縮解放を使えばいいものを……結構派手好きなんだな」
「へんいかいほう、ですか? その魔法は存じませんが」
「手間の割に効果が少ない、マイナーな魔法だからね。
 円筒の一方から空気を詰め込んで蓋をして、もう一方を目標に向けて蓋を外す、というイメージかな。解放された面から高圧の空気が噴出して、普通に圧縮空気を破裂させるより威力を出せるのと、爆発に指向性を与えることが出来るというのがメリットだが、威力を高める為だけなら普通の空気圧縮で圧縮する空気の量を増やせば良いし、攻撃に指向性を持たせたいなら圧縮空気を直接ぶつければ良い。
 ……いや、殺傷性ランクを下げる為に、敢えてどっちつかずの術式を使っているのか。
 力があり過ぎるというのもこういう場合は一苦労だな」
 皮肉な笑みを浮かべる達也。
 深雪に「それはお兄様も同じなのでは?」という目を向けられたが、それには気付かなかったフリをした。
 達也が薀蓄を傾けている間も、将輝は着実に八高陣地へ近づいている。
 このままではジリ貧と思ったのか、ディフェンスに残っていた八高の選手が二人掛かりで将輝へ挑み掛かった。
 岩が砕かれ、その欠片が将輝へ襲い掛かる。
 将輝の足下の地面が細かな火花を散らし始めたのは、放出系魔法による鉱物からの電子強制放出か。
 前者は規模で、後者は改変難度で、いずれも上級、と言っても差し支えない魔法だった。
 達也たちが八高に、一見あっさり勝利したのは、相手に実力を出させなかったからに過ぎない。
 正面から魔法をぶつけ合っていたなら、もっと苦戦しただろう。
 だが将輝は、この二人掛かりの攻撃を、真正面から本当にあっさりと無効化した。
 石飛礫の散弾は将輝を中心に発生した球状の力場に撥ね飛ばされ、放電は未発のまま抑え込まれた。
 空気塊の槌が八高選手に叩き込まれる。
 接触と同時に解放された圧搾空気が、二人の戦闘力を容易く奪った。
 試合終了の合図が鳴る。
 吉祥寺も、もう一人の選手も、試合開始から試合終了まで、三高陣地から一歩も動かず、遂に何もしなかった。

◇◆◇◆◇◆◇

「……予想以上ね、一条の『プリンス』は……」
 ディスプレイから視線を外し、真由美は克人に話し掛けた。
 いつもの相方である摩利は、ここにいない。
 摩利は今、邪魔をすると馬に蹴られる類の取込中だ。
 彼女は本来、ベッドで安静にしていなければならない重傷者なので、真由美も他の幹部たちも、固いことを言いはしなかった。
「何だか、十文字くんのスタイルに似ていた気がするんだけど」
 自分のスタイルに似ている、と言われても、克人としては答え難いだろう。
 果たして、彼が返事をする前に、鈴音が会話に加わった。
「おそらく、意識してのことでしょう。
 一条家の戦闘スタイルは本来、中長距離からの先制飽和砲撃だったはずです。
 現に予選リーグでは遠方からの先制攻撃でディフェンスを無力化しています。
 根拠はありませんが……これは、一条選手の挑発ではないかと」
「挑発?」
 首を傾げた真由美に、
「俺のスタイルを意識しているのかどうかは分からんが、これは司波に対する、正面から撃ちあってみろ、という挑発だろうな」
 克人が答えた。
「はぁ……気持ちは分かるけど」
 随分子供っぽいことを、と真由美の表情は語っていた。
 達也の武器は機動力と洞察力、そこから導かれる意外性。
 魔法力よりも戦闘技術にあるということは、ここまでの二試合で明らかだ。
 その達也が、そんな見え透いた誘いに乗るはずが無い、と。
 だが、克人はその無言のメッセージに、同調しなかった。
「司波はこの挑発に乗るだろう」
「えっ、達也くんが?」
「本来の距離では勝ち目が薄い。
 これは、数少ない勝機だ」

◇◆◇◆◇◆◇

「参ったね、これは……」
 一般客席から遠く離れた本部天幕で行われた克人の指摘は、当然達也の耳に届きはしなかった。が、克人が指摘したことは、達也にも十分理解できていた。
 そして第三高校の、おそらくは吉祥寺真紅郎の本当の狙いが、敢えて隙を見せることで彼を真っ向勝負へ誘い出すことにある、ということも分かっていた。
 更に性質(たち)が悪いことに、この誘いに乗ることが第一高校にとっても最も勝利の可能性が高い。
(大したものだよ、「カーディナル・ジョージ」……)
「まったくだぜ。何だよ、あの防御力は」
「結局、一条選手以外の手の内が全く見られなかったのも痛いね。これじゃあ、対策の立てようが無い」
 達也のボヤキを、レオと幹比古は違う方向へ勘違いしてくれたようだ。
 二人とも将輝の強さに呑まれている様だが、逃れようの無い蟻地獄の様な策略に呑み込まれていると分かってしまうよりはまだ、精神的な被害が少ないだろう。
「吉祥寺選手の方は大体予想出来る。もう一人の方は分からないが」
「えっ、そうなのかい?」
 達也は二人が誤解した方向で、会話を収拾することにした。
「吉祥寺真紅郎が発見した『基本コード』は加重系統プラスコード。出場した競技はスピード・シューティング。
 ならば得意魔法は作用点に直接加重を掛ける『不可視の弾丸(インビジブル・ブリット)』だろう」
「基本コード?」
「対象物の個体情報を改変するんじゃなくて、部分的に加重を掛けるなんて出来るのかい?」
「そうか……少し長い説明になるが、いいか?」
 達也の念押しに、レオは躊躇いながら、幹比古は躊躇い無く、頷いた。
「魔法式の研究分野には『基本コード仮説』と呼ばれる理論がある。
 それなりに広く支持されている仮説で、『加速』『加重』『移動』『振動』『収束』『発散』『吸収』『放出』の四系統八種にそれぞれ対応したプラスとマイナス、合計十六種類の基本となる魔法式が存在していて、この十六種類を組み合わせることで全ての系統魔法を構築することができるという理論だ。
 この基本となる魔法式が『基本コード』。
 結論から言うと……全ての系統魔法を構築できる、という点でこの仮説は間違っているんだが、『基本コード』は実在する」
「……間違っているのに実在する?」
「……すまん、早くも混乱してきた」
「安心しろ、ちゃんと説明するから。
 系統魔法には、どう組み合わせたって十六種類の『基本コード』だけでは構築できない魔法がある。だから基本コード仮説は誤りだ。だが、基本と呼ばれるだけの特徴を持つ魔法式は存在する。
 系統魔法は、改変後の事象の状態を定義することで様々な作用力を発生させる。
 改変を生じさせる為の作用力は魔法式の中に定義されているが、それは魔法が作用した結果を定義すること無しに発生しない。
 だが基本コードは、作用力そのものを直接発生させることが出来る。
 つまり基本コードとは、『加速』『加重』『移動』『振動』『収束』『発散』『吸収』『放出』の作用力そのものを定義した魔法式のことなんだ。
 だから、個体のエイドス全体に働きかけるのではなく、個体上の一点に直接力を及ぼすという魔法が可能になる。
 現在発見されている基本コードは、加重系統プラスコードの一つだけ。
 それを発見したのが三高の吉祥寺真紅郎、『カーディナル・ジョージ』だ」
 最後の言葉に、幹比古が怯んだ表情を見せた。
「吉祥寺真紅郎、って、どっかで聞いた名前だと思ってたけど……『カーディナル・ジョージ』だったのか」
 彼の顔色を見て、達也は「拙ったな」と思ったが、口にしてしまった以上は仕方が無い。
「そう。だから一条選手だけ警戒していれば良い、って訳じゃない。
 優れた研究者が優れた実行者であるとは限らないが、『基本コード』はそれを使えるというだけで厄介な代物だからな。
 幸い、『不可視の弾丸(インビジブル・ブリット)』は作用点を視認しなければならないという欠点がある。
 エイドスではなく対象物に直接作用させる為に生まれた皮肉な欠点だが、『不可視の弾丸』による攻撃は遮蔽物で防げるはずだ。
 広域干渉でも防御可能だが、情報強化では防げないから注意しろよ」
「分かった。気をつけるよ」
「なあ……一つ、疑問があんだけど」
「何だ、レオ」
「試合にゃ関係ねえんだけどよ……達也、さっき『十六種類の基本コードだけでは構築できない魔法がある』って言ったよな?
 てことは、達也は十六種類の基本コードを全部知ってるってことなんじゃねえか?」
 態度や言動に誤魔化されてしまいそうになるが、レオは決して馬鹿ではない。
 知識はともかく、知力は寧ろ高いと言える。
 達也はそれを知っていたはずだが、それでもこの鋭い指摘に驚かされてしまった。
「……吉祥寺選手の名誉の為に言っておくが、基本コードを発見したのは現時点で彼一人だけだ。
 俺はただ、基本コード仮説では理論的に構築できない系統魔法を知っているというだけだよ」
「お兄様、そろそろ移動するお時間では?」
 レオが口を開きかけたところで――更に質問を重ねようとしたところで、深雪が会話に割って入った。
「そうだな。
 そろそろ次のステージが決まる頃だ。本部へ移動しようか」
 立ち上がった達也の背中は、それ以上の追及を拒んでいた。

◇◆◇◆◇◆◇

 第九高校との試合は「渓谷ステージ」で行われた。
 「く」の字形に湾曲した人工の谷間。水が流れていると上流・下流で有利・不利が生じるので、実態は渓谷というより崖に囲まれた細長い「く」の字形の湖だ。いや、湖というほど水深は無いので(最も深いところで五十センチ前後)、細長い「く」の字形の「水溜り」か。
 この試合は幹比古の独擅場だった。
 左右が塞がった細長いフィールドを白い霧が覆った。
 試合状況が全く分からなくなった観客からはブーイングが生じたが、それはすぐに静まった。
 観客は魔法競技を観戦に来ているだけあって、これだけの面積に魔法を及ぼし維持することの難易度を、程度の差はあれ理解していた。
 しかもその霧は、一高選手には薄く、九高選手には濃く纏わりついていた。
 九高の選手は霧に邪魔をされて、一高のモノリスへ近づくことが出来ない。
 何度も霧を消し去ろうとするが、また実際に何度も吹き飛ばしているが、白いヴェールは彼らの努力を嘲笑うように、すぐにその視界を奪う。
 風を起こして霧を吹き払っても、代わりに流れ込んでくる空気までが霧に染まっていては意味がないし、気温を上げて飽和点を引き上げても「湖」からの蒸発を促進して徒に不快指数を増進させるだけだ。
 霧を発生させている「結界」の古式魔法は、飽和水蒸気量に関係なく空気中の水蒸気を凝結させる魔法であり、気温を上げても供給される水蒸気が増えて霧を濃くするだけの結果になるし、「結界」の魔法は当然に「閉鎖」の概念を含むから、気流を起こしても霧に満たされた空気が循環する結果にしかならない。
 元々、曖昧な対象に継続的な作用を及ぼし続けることは、現代魔法の苦手分野。
 現代魔法でこの「霧の魔法」を打ち消す為には、幹比古の魔法作用エリア――「結界」を認識しない限り有効な対抗措置は取れないのだが、九高の新人は古式魔法について勉強不足のようだ。
 この霧は分布が人為的に均一でない点を除けば、自然現象以上の効果は無い。
 幻惑作用もなければ、衰弱効果もない。閉じ込める効果もない。
 だが視界が効かないというだけで、人間の行動を制限するには充分なのだ。
 崖に沿って恐る恐る進む九高オフェンスを尻目に、達也は霧に紛れて易々と九高陣地へ到達した。
 意図的に彼の周囲だけ薄くなった霧は早足で進む程度なら十分な視界を与えていたし、仮に視界ゼロメートルであっても達也には何の障碍にもならない。
 観客から見られる心配のないこの状況なら、存在認識の視力を遠慮なく使うことが出来るからだ。
 相手に気付かれることなく九高ディフェンダーの背後に回り、達也は「鍵」を撃ち込んだ。
 コードを隠していた「蓋」が剥がれ落ちた轟音に、ディフェンダーは慌てて振り返ったが、達也は既に離脱している。
 今回は達也が精霊を喚起する必要もない。
 霧の結界を維持しているのは幹比古がコントロールしている精霊であり、この霧の中には至る所に幹比古の「眼」が潜んでいるのと同じ。
 一高対九高の試合は、一度も戦闘を交えることなく、一高の勝利で幕を閉じた。

◇◆◇◆◇◆◇

 決勝戦は三位決定戦の後に行われる。
 モノリス・コードの試合時間はどんなに長くても三十分以上掛かることはないが、決勝開始時刻は余裕を持って今から二時間後、午後三時半と決定された。
 CADの調整も担当している達也は、二時間のインターバルを競技エリアで過ごすことにしたが、幹比古とレオは一旦競技エリアから出て寛ぐことにした。
 ――また兄妹の睦み合いを見せつけられてはたまらない、と思ったかどうかは定かでないが。
 集合時間を試合開始一時間前に決めて、それぞれ思い思いの場所へ足を向ける。
 レオは食堂で軽く腹ごしらえしてから部屋で休むと言っていた。
 彼ほど健啖家でない幹比古は、ホテル最上階の展望室に来ていた。
 富士裾野演習場に建てられたこのホテルの展望室は、富士山を間近に仰ぎ見ることが出来る。
 吉田家の「神霊魔法」は、出自由来の系統で分類すれば、地祇神道系(国津神を祀る神道系の意味)に属する。
 神道系古式魔法の術者にとって、富士山は特別な意味を持っている。
 富士山の祭神は天津神(の嫡孫)に嫁いだ国津神であり、富士信仰は天神地祇を問わない。
 またそういう教義的な意味合いを抜きにしても、「霊峰富士」は魔法的な力の巨大な集積地である。
 展望室のバルコニーに出れば、霊峰の気吹(いぶき)を直に浴びることも出来るだろう、そう考えて最上階へ上がってきた幹比古を、予想外の人物が出迎えた。
「あら、幹比古君、こんな所にどうしたの?」
 麦藁帽子で日差しを遮り、バルコニーの手摺に肘をついて富士山を眺めていた姿勢から、顔だけを彼の方へ向けてエリカがそう話し掛けてきた。
「僕は富士山を見に……エリカの方こそ、独りでどうしたの?」
 幹比古の言う様に、展望室――バルコニーも含めた最上階――には、エリカ以外の人影が無かった。
 いや、今は幹比古が来たから二人きりか。
 それも当然で、今日ここに集まった人々は、全員が九校戦目当てと言って過言ではない。
 今はインターバルとはいえ、三位決定戦も間も無く始まることだし、わざわざホテルまで戻って来て、富士山以外見えるものも無い展望室にわざわざ上がって来るのは、幹比古の様に特別な目的を持つ者か、余程の変人かのどちらかだろう。
「あたしは、独りになりに、かな」
 視線を景色に戻したエリカの横顔は何処か寂しげで、幹比古は軽い狼狽を覚えた。
 だからと言って立ち去ってしまうことも出来ず、立ち尽くしているのも不自然で、仕方なく――少なくとも彼が意識している限りでは「仕方なく」――幹比古はエリカの横に並んだ。
「幹比古君」
 相変わらず、視線を日本最高峰に固定したまま、話しかけて来るエリカ。
「えっ、なに?」
 ――違和感。
「感じる?」
「えっ?」
「気吹を浴びに来たんでしょ?
 ちゃんと感じてる?」
 いつもと同じ言葉遣い、いつもと違う声音。
 いつもどおりでいつもと違う口調。
 手摺から身体を起こしたエリカの表情は、この四ヶ月、否、ここ数年で見たことのない真摯なものだった。
 彼女が髪を短くする前、春から伸ばし始めた髪がもっと長かった頃。彼女が一時(ひととき)も刀を手放すことが無かった、ずっと、以前のこと……
「……幹比古君?」
「あっ、ごめん。えっと、そう、エリカの言うとおりだよ」
 しどろもどろで答えながら、幹比古はようやく違和感の元に気がついた。

 ――エリカが彼のことを「幹比古」と呼んでいる――

「気吹を浴びに来たんだ」
「そうじゃなくて」
「えっ?」
「あたしが訊きたかったのはそこじゃなくて。
 ……霊峰の気吹を、ちゃんと感じられてる?」
 思いがけず真剣な眼差しに気圧されながら、幹比古は姿勢を正し呼吸を調えた。
 深く息を吐き出し、吸い込む。
 リズムを保つことは重要だが、それ以上に大切なのはイメージだ。
 呼気と共に器を作り、吸気と共に器に取り込む。
 吸って、吐く、のではなく、吐いて、吸う。
 二回、三回と「呼吸」を繰り返すうちに、幹比古の身体に「生気(イキ)」が充溢していく。それはサイオンやプシオンのような「粒子」ではなく、もっとエネルギーそのものに近い波動、「プラーナ(気息)」とも呼ばれている「力」。
 霊峰の気吹を幹比古がキチンと受け止めている、それをその目で確かめて、エリカは彼女らしからぬ、控え目な笑みを浮かべた。
 ――それは少し、寂しそうな笑みだった。
「エリカ……?」
「何だ、やっぱり出来てるじゃない」
「……ごめん、何のことだか分からない」
 相手のことを考えていない、自己完結型の省略が多い物言いはいつものことだが、今は、それを理解できない自分が間違っているように幹比古は感じていた。
「幹比古君、気づいてる?
 貴方は以前と同じように、あの事故に遭う前の、『吉田家の神童』と呼ばれていた頃と同じように、魔法を使えてるんだよ」
「えっ?」
「ううん。以前と同じ、じゃなくて、それ以上、かな。
 感覚の同調も霧の結界も気吹の取り込みも、それこそ息をするように自然に出来てる」
 まさか、とは言わなかった。
 何故そんなことが言える、とも幹比古は口にしなかった。
 エリカが、「千葉の剣士」がどんな「眼」を持っているのか、彼も知らない訳ではなかった。
「良かったじゃない!」
 いきなり「バンッ!」と背中を叩かれて、幹比古は半歩ほど蹈鞴を踏んだ。
「ミキがこの調子なら、三高だって恐るるに足らずね!
 決勝、頑張んなさいよ」
「僕の名前は幹比古だ!」
 突然いつもの調子を取り戻して、返事も待たずに去っていくエリカの背中へいつもの台詞を投げつけながら、幹比古はホッと胸を撫で下ろしていた。
 自分が何故、何に安堵したのか、幹比古は意識していなかった。

◇◆◇◆◇◆◇

 妹と睦み合っているはずの(とチームメイトに勝手に思い込まれていた)達也は、二人と別れてすぐ、会場のゲートへ呼び出されていた。
「小野先生、ご苦労様です」
 彼を呼び出したのは遥だった。
「コラッ、目上にご苦労様とは……分かってて言ってるのね?」
 達也が人の悪い笑みを浮かべ、遥はガックリと肩を落とした。
「……私の立ち位置なんてこんなものなのね……ネタがばれたサブキャラなんて、こうして『その他大勢』に埋もれて行くだけなんだわ……」
「何をメタなこと仰っているんですか。ほとんど意味不明ですよ」
「いいの。どうせ私は意味不明な女なの」
「……そろそろ預かって来ている物を渡して頂けませんか。俺の方も、時間に余裕がある訳じゃないんで」
 達也が手を差し出すと、遥はこれ見よがしに溜息をついた。
 口には出さず表情で「ノリが悪いわね」と非難しながら、それでも時間が無いということは理解しているのか、引っ張ってきた電動バッグ(電動アシストキャスター付スーツケース)を大人しく達也に渡した。
「まったく……少しは労わって欲しいわ。私はカウンセラーであって、使い走りじゃないのよ」
「先生に運搬を依頼したのは師匠であって俺じゃありませんよ。
 でも……そうですね。雑用がご不満なら、本来の仕事をお願いすることにしましょうか」
「いえ、無理に仕事が欲しい訳じゃないんだけど」
「税務申告が必要ない臨時収入……欲しくないですか?」
 遥の目に、分かり易い動揺が走った。
 ……こんなに人が善い性質(「性格」ではない)で諜報員が務まるのだろうか、と達也は野次馬的にそれを眺めていた。
 待ち時間は、それほど長くなかった。
「……仕方ないわね、不安を抱えた生徒の力になるのは私たちの務めだもの。担当外とか時間外とか言ってる場合じゃないわね」
 なるほど、そういう名目で折り合いをつけたのか、と達也は思った。
 しかし――
「残念ながらそちらの仕事ではなく、もう一つの方の仕事です」
「……何をさせる気?」
 途端に強い警戒を示す遥。
 こんなに分かり易くて大丈夫か? と今度は結構本気で、達也は心配してしまった。
 まあ、彼女がドジを踏んで捕まって「あんなこと」や「こんなこと」をされても、彼としては一向に構わないのだが。
「ノー・ヘッド・ドラゴン……無頭竜のアジトの所在を調べて下さい」
 遥は慌てて左右を見回し、抱きつくようにして達也との間合いを詰めた。
「……何を企んでるの?
 今回の件は『公安』も『内情』も既に動いているわ。
 司波君が手出しする必要は無いのよ」
 傍から見れば結構問題のある構図で遥が囁き掛ける。
 深雪はもちろんだが、ほのかにも雫にも他の皆にも見られていなければいいが、と達也は思った。
「今のところ何もするつもりはありません。
 ただ、反撃すべき時に、反撃する相手の所在が掴めないというのはそれだけで不安ですので。
 ……ところでこの体勢は、誤解を招くと思うんですが」
 勢い良く遥の体が離れた。
 年上のプライドか、誤魔化し笑いで恥じらいを隠そうとしている。
 そろそろ真剣に、諜報の世界から足を洗うことを達也は勧めたくなって来た。
 ……だからと言って、自分の依頼を取り下げようなどとは思わないのだが。
「……保険、なのね?」
「そう取って頂いて構いませんよ」
 探る視線に、即、頷く。
「……分かった。一日、頂戴」
「素晴らしい。一日ですか」
 これは裏の無い、手放しの称賛。
 遥はまんざらでも無さそうに、照れ笑いを浮かべた。

◇◆◇◆◇◆◇

 電動バッグを引っ張ってテントに戻った達也は、残っていたスタッフ全員から向けられる興味津々の視線を全て無視してバッグの中身を取り出した。
「……コート?」
 一際遠慮のない態度でわざわざ彼の傍に近寄って達也の手元を覗き込んでいた真由美から、そんな質問が投げ掛けられた。
「いえ、マントです」
 達也は黒い布地を掲げ上げて、広げて見せた。
 それは彼の身長でも地面に引きずりそうな、洋風の長いマントだった。
「そっちも?」
「こちらはローブですよ」
 黒いマントを机に置き、今度は灰色の布地を広げて見せる。こちらも裾を引きずりそうな、フード付のローブだった。
「一体……何に使うの、それ?」
 テントの中を「?」マークが盛大に飛び交う中、独り深雪だけが訳知り顔で笑いを噛み殺していた。
「決勝戦で使います。いや、間に合って良かった」
「お兄様、ルール違反にはなりませんか?」
 話に付いて行けない真由美たちを他所に、深雪は少し真面目な顔で達也にそう問い掛けた。
「大丈夫だとは思うが、試合前のデバイスチェックには提出するよ。
 ルールブックには魔法陣を織り込んだ衣類を着用してはならない、とは書かれていないけどね」
 深雪に対する回答を聞いて、真由美が頭上に「?」を追加しながら達也に訊ねた。
「魔法陣を織り込む?」
「ええ。古式の術式媒体で、刻印魔法と同じ原理で作動します。このマントとローブには着用した者の魔法が掛かり易くなる効果を付与しています」
「補助効果か……それ自体に特定の術式が組み込まれているのでなければ問題ないかな……」
 真由美の視線を受けて、鈴音が頷いた。
「ルール上の問題はありません。
 ルールはそこまで想定していない、というのが正確なところですが」
「まあ、ダメだと言われれば諦めますよ。
 これが無きゃ戦えない、って訳でもありませんし」
 真由美は少し、眉を曇らせて達也に向き直った。
「ねえ、達也くん」
 彼女の声には、不安よりも心配が色濃く混ざっていた。
「まだ試合中だからお祭り騒ぎは控えさせてるけど、決勝戦に進んでくれた時点で新人戦の優勝は決まっているのよ。
 あまり無理をしなくて良いんだからね」
「分かっています」
 言われなくても、達也は半分以上、勝負を諦めていた。
 ――この時点では、まだ。

◇◆◇◆◇◆◇

 五十里にマントとローブのチェックを依頼して(というのも、五十里家は刻印魔法の権威として知られており、五十里本人も興味を隠そうとしていなかったからだ)、達也は身体を(ほぐ)しにテントの外へ出た。
 代役を任命された時に真由美から与えられたミッションは、第一高校の新人戦優勝。
 決勝戦まで進んだ時点で――つまり現時点で、ミッションは完遂したと達也は考えていた。
 入念なストレッチは怪我をしないためのもの。
 擦り傷や打撲程度ならともかく、骨を折ったり動脈を切ったりすれば、秘密にしなければならない彼の能力が自動的に発動してしまう。
 意識的に止めることは出来るものの、それが間に合うかどうかは微妙だ。
 彼の自己修復能力は損傷の度合いが酷ければ、意識が追いつく間も無く一瞬で彼の肉体を修復してしまうのだから。
 九校戦は映像を記録されている。
 例え人の意識が捉えられない一瞬の出来事であろうと、映像記録を後から分析することは可能だ。
 改めて自分にそう言い聞かせながら、ストレッチというよりヨガのような運動を続けている途中、深雪がテントから出て来たが、特に急ぎの用という気配もなかったので、そのまま一通り試合前の準備運動を終えた。
「お兄様、タオルをどうぞ」
 よく冷えた濡れタオルが差し出された。
 深雪が真夏の熱気の中に出て来てから短くない時間が経っていたが、冷蔵庫から取りだしたばかりのような冷え具合は……彼女の得意魔法を知っていれば不思議ではなかった。
 こういう何気ない一つ一つも、本当に自分には過ぎた妹だと達也は思う。
 世が世であれば、この妹の為なら命も惜しくないという男たちが群れをなしていることだろう。
 いや、今の世の中でも、わずか一言で男に命を懸けさせることが、この妹には可能かもしれない。
 真っ先に命を懸けるであろう自分のことは棚に上げて、妹の将来に薄ら寒い戦慄を達也は覚えた。
「お兄様、わたしの顔に何かついていますか?」
 本当に自分の顔に何かつけていると思った訳ではないだろうが、自分を見詰める兄の名状し難い表情に、深雪としては他に訊きようがなかったのだろう。
 ――達也の方にも答えようが無く、言葉を濁すことしかできなかったが。
「お兄様……」
 達也が誤魔化したことについて、深雪は追求して――来なかった。
「……いよいよ決勝戦ですね。
 次の相手は、相当手強いと思われますが……?」
「……そうだね」
 強がってみても仕方がない。
 もしこれが試合ではなく実際の戦場で、お互いに何の制約もなくぶつかり合ったとしても、あの二人を同時に敵にして、否、相手が一条将輝だけであったとしても、「勝てる」と言い切るだけの自信は達也には無かった。
「力も技も制限された状態で……制限した側の人間であるわたしがこの様なことを申し上げるのは、筋違いでありご不快かもしれませんが……」
 躊躇いがちに、俯き加減にそう言って、また実際そこで深雪の台詞は一旦途切れた。
 しかしすぐに顔を上げて、はにかみながら、こう言った。
「……それでもわたしは、お兄様は誰にも負けないと信じています」

 達也に返事の(いとま)を与えず、ツバメのように素早く軽やかに身を翻してテントの中へ戻っていった妹の後ろ姿を見送った姿勢で、達也は暫し立ちつくしていた。
(参ったね、本当に……)
 深雪本人が言っていたように、達也の力を制限しているシステムに、彼女は重要な役割を果たしている。
 彼が本当の力で本当の技術を使えない理由の一端は、間違いなく深雪にある。
 しかし達也は――深雪のことを、自分勝手だとは思わなかった。
 誰にも負けないと信じている、それは、誰にも負けて欲しくないという願望でもある。
 そうした機微が完全に理解できるほど、達也も精神的に大人ではない。
 だがそのことを達也は、感覚的に理解していた。
 彼にそう願った相手が深雪だからこそ、理解できた、と言うべきかもしれない。
 そして達也は、深雪の願いを無視できない。
 これは誰に命じられたとか誰に仕組まれたとかではなく、そういう風に出来ているとしか言えない彼の心理特性だ。
 参った、とはそういうこと。
 次の試合、どうやら負けられないらしい。
 だが、言うは易く、行うは難し。
 どう計算しても目処が立たない勝算に、達也はため息をついた。


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