この物語はフィクションです。
この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
「優勝おめでとう、ほのか」
先に部屋へ戻っていた雫は、レース終了後のメディカル・チェックを終えて着替えに戻って来たほのかを、立ち上がって祝福した。
「ありがとう……雫は残念だったね」
「うん……悔しいよ」
淡々と語られた声音は「本当に悔しいのか?」と、その発言内容を疑わせかねないものだったが、小学校からの親友であるほのかは、雫の本音を誤解するはずも無かった。
「雫……」
ほんの少し、自分より低い雫の頭を、ほのかは胸の中に抱え込んだ。
雫はダラリと手を下したまま、ほのかの胸に頭を預けた。
「最初から、勝てるとは思ってなかった」
「そう……」
「でも、手も足も出なかった」
「…………」
「悔しいよ、ほのか……」
「……残念だったね」
そのまま、幾何かの時が過ぎた。
「……ありがとう。
……もう、大丈夫」
そう言って、身体を離す雫。
彼女の顔に、涙の跡は無かった。
「そう……?
ねっ、お茶に行かない? 少しお腹が空いちゃったの」
「……うん」
「じゃあ着替えるから、チョッと待っててね?」
明るく振舞うほのかに、雫は少し恥ずかしそうな笑顔で頷いた。
◇◆◇◆◇◆◇
ティーラウンジに足を踏み入れてすぐに、ほのかは立ち尽くす羽目に陥ってしまった。
先客――深雪と、バッチリ目が合ってしまったのだ。
そのまま踵を返すことなど出来ようはずもなく、かと言っていつものように気軽に同席することも出来ず。
余りのタイミングの悪さに、ほのかは泣きたくなった。
「ほのか、優勝おめでとう」
その気まずい空気を断ち切るように、達也がいつも通りの口調で声をかけた。――それは同時に、彼女の逃げ道を塞ぐ行為でもあったが。
「あっ、その、ありがとうございます……」
「達也さん、同席しても良い?」
進むに進めず、退くに退けず、の状態を打開したのは、雫だった。
「良いよ、もちろん」
そう言いながら立ち上がって、達也は空いている椅子の背後に回り、深雪はソーサーごとカップを持って達也の向かい側から隣の席へ移動した。
「どうぞ」
「ありがとう」
達也が引いた椅子――深雪の向かい側に、雫は躊躇わず腰を下した。
達也の向かい側の席には、同じように椅子を引いてもらって、ほのかが頬を染めながら腰掛けた。
丁度通りかかったウェイトレスを呼び止め、ほのかと雫がケーキセットを注文し終えてから、達也は改めて二人へ目を向けた。
「優勝と準優勝のお祝いだ。ここは俺がご馳走するよ」
「えっ、良いんですか」
「……じゃあここは、遠慮なく」
ほのかは逡巡を見せたが、雫は達也の真意――彼が自分を慰めようとしているということが何となく分かったので、必要以上に遠慮することなく首を縦に振った。
思ったより早く友人が立ち直りを見せたので、ほのかはホッと一息ついて、ようやく自分のことに意識が向き始めた。
「あっ、あの……」
「うん?」
「その、優勝できたのは達也さんのお陰です!
ありがとうございました」
自分のことに意識が向いて、自分がまだ達也に優勝のお礼を述べていないことに気付き、さっきまで以上の動揺に捕らわれたほのかだったが、何とか台詞を噛むこともなく感謝の気持ちを伝えることが出来た。
達也は笑って頷いた。
「少し、だけどな」
謙遜し、否定しなかったのは、大袈裟にしたくないからだ。
少し、という言葉を打ち消したりしなかったほのかは、その笑みの意味を理解できたのだろう。
それを確認した後、達也は雫に目を転じて、笑みを消した。
「雫には悪いことをしたな」
「えっ?」
何の事だが分からない、という表情で、雫は達也の顔を見返した。
「勝敗はともかく、本来ならもっと拮抗した試合になったはずなんだが……俺の判断が甘かった。
たった二週間で『フォノン・メーザー』をものにするのは、流石に無理があったと思う」
「あっ、そのこと……ううん、達也さんは全然悪くないよ。
そもそもアレがなかったら、反撃の手段すらなかったんだし」
達也が何について謝っているのかを理解して、雫は勢い良く頭を振った。
「マスターできなかったのは私の所為。
私の方こそゴメンナサイ。アレを使いこなせていれば、もっと良い試合が出来たのに……
深雪にも、歯応えが無い相手で申し訳無かったって思ってる」
「そんなことないわ。
本当にビックリしたのよ、あの時は……
いきなりあんな高等魔法が、複数CADの同時操作なんていうオマケ付きで出て来るんだもの」
雫に向かって笑顔で首を(横に)振って見せた深雪は、そのあと冗談っぽく、達也を睨みつけた。
「お兄様、あれは本気で、わたしを負かすおつもりでしたね?」
何とも答え難い質問で、達也もすぐには回答できなかった。
「…………俺は二人のどちらにも、最善を尽くしただけだよ」
結局、そういう建前論しか捻り出せなかったが。
建前と言っても決して嘘はついていない、とは分かっている。
分かってはいるが、深雪にとってそれは、本音の部分で満足できる答えではなかった。
「もう……この人は妹が可愛くないのかしら」
「手を抜いたりしたらそれこそ本気で怒るだろうに」
友人に対して兄のことを愚痴るという、世間的には当たり前でも深雪の場合極めて珍しい姿は、反論した達也ばかりでなく、ほのかと雫の笑いも誘った。
◇◆◇◆◇◆◇
大会七日目、新人戦四日目。
今日は、九校戦のメイン競技とも言えるモノリス・コードの新人戦予選リーグが行われる日だが、観客の関心は花形競技ミラージ・バットに集まっていた。
女子のみを対象とするミラージ・バットのコスチュームは、カラフルなユニタードにひらひらのミニスカート、袖なしジャケット又はベスト。
ファッションショー(コスプレ大会?)と化している女子ピラーズ・ブレイクとはまた、一味違った華やかさがある。
いや、このコスチュームで若い女性が空中を舞い踊るのだ。
華やかさにかけては、魔法競技中随一だろう。
男性ファンの関心(と言うよりも注目)が集まるのも無理からぬことだった。
しかし――達也の気の所為でなければ、少し注目され過ぎている気がする。
それも煩悩まみれの色ボケな視線ではなく、敵意の棘を大量に生やした視線だった。
「……自分のことになると鈍いってのは本当なんだね」
第一試合に出場する為のスタンバイを終えた選手が、からかうように達也へ声をかけた。
「鈍いのは否定しないが……里美には分かるのか?」
「もちろん」
彼女の名前は里美スバル(さとみ・すばる)。里美、というのは実は苗字で、名前で呼ぶほど親しい間柄という訳ではなかった。
「みんなは司波君を見てるんだよ」
彼女は少し、摩利に似ている少女だ。具体的に何処が似ているかというと、異性よりも同性に人気が高いところ、だったりする。
もっとも似ているのはあくまで「少し」であって、二人が並んでいるとだいぶ印象が違うだろう。
例えば二人にタキシードを着せてみるとする。
摩利の方は「男装の麗人」。
スバルの方は「劇団の美少年役」。
おそらく、こんな具合に印象が分かれる。
そんな自分の外見を意識してか、スバルは言葉遣いも立ち居振る舞いも、少年っぽい部分が多い。
もっとも、だからといって「がさつ」ということではなく、現在見せているように、中々鋭い観察眼の持ち主でもあった。
「スピード・シューティングに続いてピラーズ・ブレイクでも上位独占だもんね。
見る人が見れば、高度に効率化されたデバイスソフトの貢献が大きいって分かるだろうし、一体どんなエンジニアが調整したんだ、って考えるのは当然だと思うよ」
「……そりゃあ、担当したエンジニアが誰かなんて、少し調べれば分かるものだが」
「そういうこと。
司波君はさ、各校の警戒の的なんだよ」
もしスバルの言うとおりならば――否定する材料は何も無いのだが――事態は達也にとって、好ましくない方向へ進んでいるということだった。
およそ全ての物事は、準備不足のまま着手することを余儀なくされる。それが「世の常」というものだ。
だがそれにしても、今はまだ、準備不足が過ぎていた。
予定では、「司波達也」の表舞台登場は、高校を卒業した後のこと、のはずだった。
「さてと……今回は僕も、役得で勝たせてもらうとするかな。
このデバイスなら、正直、予選程度で負ける気はしないからね」
競技フィールドへ続く扉の前で立ち止まり、ブレスレットをはめた右腕を持ち上げて朝日にキラキラと光らせながら、スバルは肩越しに不敵な笑みを見せた。
達也は親指を立てて彼女を送り出した。
彼女が自分で言ったとおり、スバルは予選を勝ち抜くだろう。
彼の調整したCADを使って。
目立つのは好ましくない、とはいえ、手を抜くことも出来ない。
二科生――ウィードとして入学仕立ての頃の、ただ一人を除いて誰からも期待されていなかった時分ならいざ知らず、今の彼にはそんな事は許されない。
この九校戦に彼を抜擢した真由美と摩利、それを支持した克人、己の心を押し殺して彼を推した服部と危険を顧みず実験台になった桐原、彼に期待を寄せるほのかや雫や他の女子選手たち、そして――彼を無条件で信じてくれる、力を貸してくれる、深雪。
一度絡み合った人間関係は、彼にも「分解」し難いものだった。
◇◆◇◆◇◆◇
ミラージ・バットは四人一組で予選六試合を行い、各試合の勝者六人で決勝戦を行う。
九校戦で試合数が最も少ない競技だが、それは、選手にとって負担が小さいということを意味しない。
まず十五分一ピリオドの三ピリオドという試合時間が、九校戦中で最長だ。ピリオド間の休憩時間五分を加えた総試合時間は約一時間にも達し、時間制限の無いピラーズ・ブレイクやモノリス・コードに比べても格段に長い。
しかも、その試合時間中、選手は絶え間なく空中に飛び上がり空中を移動する魔法を発動し続けなければならず、選手に掛かる負担はフルマラソンに匹敵するとも言われている。
それが一日に二試合。
スタミナ面では、アクセル・ボールやモノリス・コード以上に苛酷な競技とも言われている。
それ故に、選手の疲労を考慮して予選と決勝のインターバルが長く取られているのも、この競技の特徴と言える。
第一試合の開始時間は朝八時。
二つのフィールドを使用し、正午に予選が終了する。
そして決勝の開始時間は午後七時。
九校戦唯一のナイターとなる。
こんな無理をせずに、予選と決勝を二日に分けて開催すれば良さそうなものだが、こんなスケジュールになっている理由は一応、ある。
ミラージ・バットは空中に投影した球体のホログラム球体(正確には立体映像の球体。現代の空中結像技術は厳密な意味でのホログラフィーとは映像形成の原理が異なる)をスティックで打つ競技。
十メートル上空の幻像が地上から見分けられなければならない。
真夏の明るい日差しの下で行うには向かない競技であり、晴れの日には昼近くの第三試合になると、上空に飛行船で日除けのスクリーンを広げたりもする。
その性質上、ミラージ・バットは本来、ナイターで行われる競技なのである。
立体映像の投影設備自体が、選手の身体で投影の光線が遮られて幻像が消えてしまわないように、フィールドを円形に取り囲む照明塔の頂上に設置されていることからも、この競技がナイターを前提としたものであると言うことが理解できよう。
◇◆◇◆◇◆◇
第二試合を終わって――予定通り、ほのかとスバルは二人とも予選を勝ち抜いた――達也は仮眠を取る為に、一旦ホテルの部屋へ戻った。
選手の二人もそれぞれの部屋に戻ってサウンドスリーパーで熟睡中のはずだ。
この競技に決勝に備えた体力の回復は不可欠。
エンジニアの達也は身体を休める必要も無いのだが、神経を休めておいた方がベターであるのは間違いない。
本当は感覚遮断カプセルを使いたいところだが、あれは選手に優先割り当てされているので、部屋の遮光カーテンを閉め切ってベッドで横になることにした。
今頃ミラージ・バットは第三試合が行われているだろう。
第一試合・第二試合に割り振られたのはラッキーだった。
一時間しか違わない、が、その一時間が体力の回復と精神力の回復に大きく影響することもあり得る。
本戦の予選でも、深雪には早い時間に試合をさせてやりたいが、これは彼の自由になることではない。
考えても仕方が無い、と割り切って、達也はこの思考を中断した。
肉体的に疲れている訳ではないので、無理に眠ろうとせず、意馬心猿に意識を委ねる。
目を閉じたままベッドに横たわる達也の思考は、昨日の朝に跳んだ。
一条将輝と吉祥寺真紅郎――同じ年齢でありながら、魔法師の世界において既に確固たる名声を確立している二人の天才少年。
一条将輝――三年前の中華連合による沖縄侵攻に同調して行われた、新ソ連の佐渡侵入作戦に対し、弱冠十三歳で義勇兵として防衛線に加わり、一条家現当主・一条豪毅と共に『爆裂』を以って数多くの敵兵を葬った実戦経験済みの魔法師。
戦闘自体は小規模だったものの(新ソ連は未だに佐渡へ侵入した武装集団との関係を否定している)、彼はこの実績により「一条のクリムゾン・プリンス」と称せられることになった。(この『クリムゾン(血に塗れた)』という形容詞は、「敵と味方の血に塗れて戦い抜いた」という敬意の表れであり、「血に飢えた」という蔑称ではない)
吉祥寺真紅郎――弱冠十二歳にして、仮説上の存在だった「基本コード」の一つを発見した天才魔法師。本名と彼が発見した「基本コード」からつけられた『カーディナル・ジョージ』の異称は、魔法式の原理論方面の研究者なら、知らぬ者はいないと言われるほど注目されている英才。
あの二人が同じ学校の同じ学年に在籍しているというのは、反則級の偶然だ。
あの二人がチームを組むモノリス・コードは、少なくとも新人戦のレベルでは敵無しだろう。
森崎たちも気の毒にな、と達也は完全に他人事として同情した。
救いがあるとすれば……
(『爆裂』が殺傷性Aランクの魔法だということ……くらいか)
『爆裂』は対象物内部の液体を気化させる発散系魔法。
生物ならば体液が気化して身体が破裂、内燃機関動力の機械ならば燃料が気化して爆散。燃料電池でも結果は同じ。可燃性の燃料を搭載していなくても、バッテリー液や油圧液や冷却液や潤滑液など、およそ液体を搭載していない機械は存在しないから、『爆裂』が発動すればほぼあらゆる機械が破壊され停止する。
純粋に軍事目的で開発された『爆裂』は、当然モノリス・コードのレギュレーションに引っ掛かる。
(とは言っても、『クリムゾン・プリンス』の異名を取る十師族次期当主の手持ちカードが『爆裂』一種類であるはずもない……
……そう言えば)
手綱が外された思考は、モノリス・コードに出場するとわざわざ彼の前で宣言した二人から、モノリス・コードの試合そのものへ移った。
戦力分析や三高対策に取り組み始めた、のではない。
単に、もうすぐ二試合目が始まるな、と思っただけだ。
(一試合目は順調に勝ったということだし、二試合目はここまで最下位の四高だ。流石に取りこぼしはしないだろう……)
達也は目を閉じたまま、ゆったりと押し寄せて来た眠気に身を委ねた。
◇◆◇◆◇◆◇
昼寝を終えて競技エリアに戻った達也は、会場が動揺に包まれているのを感じ取った。
パニック一歩手前の空気が各校の天幕が置かれたエリアを覆っている。
その中心は、第一高校の天幕だった。
「お兄様!」
天幕に足を踏み入れた途端、深雪がお約束のように駆け寄ってきた。その隣には雫の姿もある。
「深雪……雫も、エリカたちと一緒じゃなかったのか?」
ほのかが起きてくるまで――五時から決勝の準備を始めることになっている――深雪と雫はエリカたちとモノリス・コードを観戦している予定だったはずだ。
それが今、ここに居るということは……
「何があったんだ? モノリス・コードで事故か?」
答えを待たずに、達也は更に質問を重ねた。
何かあったのか、とは訊かない。何かがあったことは、この雰囲気から明らかだ。
ただそれが、思った以上に深刻な事態かもしれない、と達也は考えたのだった。
「はい、事故と言いますか……」
「深雪、あれは事故じゃないよ」
言い淀む深雪の横から、雫が強い口調で口を挿んだ。
「故意の過剰攻撃。明確なルール違反だよ」
その口調は抑制を保っているが、雫の目には見間違えようの無い憤りが燃えていた。
「雫……今の段階で余り滅多なことは言うものじゃないわ。
まだ四高の故意によるものという確証は無いんだから」
「そうですよ、北山さん」
二人の背後から、今度は真由美が割り込んできた。
「単なる事故とは考え難い……それは確かですけど、決め付けてはダメ。
疑心暗鬼は、口にすればするほど益々膨れ上がって、それが何時の間にか事実として独り歩きしてしまうのだから」
こういうことを考えては多分、失礼なのだろうが、随分と上級生らしい正論だった。
優しく窘められて反省を口にする雫を傍目に、「生徒会長は伊達じゃないんだなぁ」などと達也は考えていた。
……と、真由美がジトッとした視線で達也を睨みつけた。
「……何でしょうか?」
「……今なにか、とても失礼なことを考えたでしょう」
(す、鋭い……!)
余りに的確な洞察に、達也は動揺を禁じえなかった。
しかしそこは彼も、年齢どおりの人生経験ではない。
「……いえ、流石は生徒会長だ、と考えていただけですが……?」
誠実そうな仮面に、濡れ衣を着せられた人間に標準的な偽りの動揺をトッピングして、相手の表情を窺うような声音で答える。
「……そう?」
尚も疑わしそうな目をしていたが、一応、真由美は矛先を納めた。
達也の演技に穴が見つからなかっただけでなく、今はそれどころではない、という理由もあったのだろう。
「それで、怪我はどの程度のものなのですか?」
「……今の会話だけで森崎君たちが怪我をしたって分かるのね……」
ため息をつく真由美の顔には「やりにくい」と書かれていた。
「……重傷よ。
市街地フィールドの試合だったんだけど、廃ビルの中で『破城槌』を受けてね。
瓦礫の下敷きになっちゃったの」
「……屋内に人がいる状況で使用した場合、『破城槌』は殺傷性ランクAに格上げされます。
バトル・ボードの危険走行どころではない、明確なレギュレーション違反だと思いますが」
『破城槌』は『念爆』と呼ばれるPKの研究から開発された魔法で、対象物の一点に強い加重が掛かった状態に対象物全体のエイドスを書き換える魔法。建物に使用される場合は壁の一面、天井の一面といった、少なくとも柱で区切られた「一つの面」として認識できる広さに干渉しなければならず、大きなキャパシティと強い干渉力が必要になる。
単に建物を破壊するだけなら、移動系でハンマーを飛ばしたほうが簡単に済むという、難度の高い魔法だ。
その能力に特化したBS魔法師でない限り、間違いで発動できるような代物ではない。
「そうね……
いくら軍用の防護服を着けているといっても、分厚いコンクリートの塊が落ちてきたんじゃ気休めにしかならないわ。
それでもヘルメットのお陰と、立会人が咄嗟に加重軽減の魔法を発動してくれたお陰で大事には至らなかったけど……三人とも、魔法治療でも全治二週間。三日間はベッドの上で絶対安静よ」
だがあくまで真由美は、故意か事故かの判断を避けたいようで、話の方向性を微妙に逸らした。
「……想像以上に酷いようですね」
真由美の立場上、不用意な発言は出来ないということは良く理解できたので、達也もそれ以上の追及は控えることにした。
「ええ。不謹慎だけど、治療を見てて気持ち悪くなっちゃった」
本人の言うとおり、これは怪我人に対する問題発言だった。
まあ、それだけ真由美も動揺していて、それだけ達也に心を許しているということかもしれない。
「しかし、状況が良く分かりませんね。
三人が同じビルの中に固まっていたんですが?」
達也が気にすることではないかもしれないが、オフェンス一人とディフェンス二人、あるいはオフェンス二人とディフェンス一人に分かれる戦法が定石となっているモノリス・コードで、チームの三人が同一の攻撃で全員行動不能に陥るというのは、どのような状況だったのか少し理解し難かった。
「試合開始直後に奇襲を受けたんだよ。
開始の合図前に索敵を始めてなきゃ出来ないこと。
『破城槌』はともかく、フライングは間違いなく故意だと断言できる」
答えをくれたのは、憤懣遣る方無いといった雫の声だった。
「なるほど……そりゃあ、大会委員も慌てているだろうね」
「フライングを防げなかったから……ですか?」
人の悪い笑みを浮かべた達也に、深雪が首を傾げながら訊ねた。
素直な深雪には、達也ほど捩じくれた思考は出来なかったようだ。
「それは大した問題じゃないよ。
それより、崩れやすい廃ビルにスタート地点を設定したことが、今回の事故――と一応言っておくけど、事故の間接的な原因だと言えるからね。
大会委員会としては、このまま新人戦モノリス・コード自体を中止にしたいんじゃないかな」
「……そういう考え方もあるんですね」
「確かに、中止の声もあったけど。
結局、うちと四高を除く形で予選は続行中よ。
最悪の場合、当校は予選二試合で棄権でしょうね」
真由美の言葉に、今度は達也が首を傾げた。
「……最悪の場合も何も、選手が試合を出来る状態ではないのですから、棄権するしかないと思いますが……」
「それについては、十文字くんが大会委員会本部で折衝中よ」
「はあ……」
九校戦では予選開始後の選手の入れ替えは認められていないが、相手の不正行為を理由に特例を認めさせる、ということだろうか。
しかし、モノリス・コードのチームは一年男子の実技トップスリーを揃えたメンバー。代わりを出しても、勝ち抜くことは難しい。それより不正が行われたことを理由に、モノリス・コードのポイントを全体のポイント集計から外させる方が有利なのでは?、と歯切れの悪い受け答えの裏で達也は思った。
達也が心の中でそんな腹黒い計算をしていることなど、真由美は勿論知らない。
「――ねぇ達也くん、少し、相談したいことがあるんだけど」
真由美の声に媚びるような響きが混ざっていたのは、立て続けのアクシデントに不安を覚え、無意識に依存の対象を求めているからに違いない。
現在進行形で妹からきつい視線を向けられている達也は、逃避気味にそう思った。――というより、この場合の睨む相手は真由美にしてもらいたかったのだが、そんなことは言えるはずも無かった。
「チョッと一緒に来てくれないかな」
他聞を憚る話、ということだろう。
きつい視線がデュエットになったが、達也は気付かない振りをして真由美の背中に続いた。
◇◆◇◆◇◆◇
奥に、と言っても仕切りはあるが天幕なのでそれは当然、布でしかなく、普通に考えれば遮音性など無いに等しいはずだ。
しかしそこは世界の理を覆す魔法の領分、真由美はチョコチョコ、っという感じでたちどころに外界から音が遮断されたフィールドを作り上げた。
「見事な遮音障壁ですね」
「そう……? フフッ、ありがと」
照れ笑いと共に真由美は腰を下し、達也にも椅子を勧めた。
「それで、早速なんだけど……」
「はい」
「…………」
早速、と言いながら、真由美はなかなか切り出そうとしない。
いつまでもここで二人っきり、というのは流石に色々と具合がよろしくないので、達也は自分の方から話を進めることにした。
「今回の件も、妨害工作と考えられるかどうか、ですか?」
「……ええ。そのことで、達也くんの意見を聞きたかったの。
達也くんはCADに細工をされた可能性を指摘していたわよね?」
「はい」
「今回も同じ手口だとすれば、四高の暴挙も説明がつくんだけど……どうすればそれを立証できると思う?」
「細工の現場を捕まえるしかないでしょうね」
「四高からCADを借りられたとしても……ダメかしら?」
「起動式を入れ替えた痕跡が残っていれば良いんですが……失格になった七高が沈黙しているところを見ると、期待できません」
「そうか……」
テーブルの上で指を組んだ両手に、真由美は視線を落とした。
期待を外してしまったな、と考えながらその姿を見詰めていた達也に、真由美は目を上げぬまま、再度問い掛けた。
「……達也くんの考えているとおり、当校を標的とした妨害工作が行われているとして……目的は何だと思う?
遺恨かな?
それとも、春の一件の報復かな?」
なる程、真由美はそれを悩んでいたのか、と達也は思った。
達也はそれを打ち消すカードを持っている。真由美の心労を減らしてやることが出来る。
だがそれを彼女に明かして良いものかどうか、少しの時間、彼は迷った。
「……春の事件とは別口ですよ」
しかし結局、達也は手札を見せることにした。
「えっ、何故そう言えるの?」
勢い良く顔を上げた真由美の反問は、そう言える根拠があって欲しい、という願望によるもの。
ただ、全てを明かすことは、彼にも出来ない。
「開幕前日……いえ、日付は変わっていましたか。とにかく開幕日直前の真夜中に、ホテルへ忍び込もうとした賊がいたんですよ。
人数は三人、いずれも拳銃で武装していました」
「……初めて聞いたわ」
「口止めされていましたから。
それで、たまたまその場に居合わせた俺は、賊を取り押さえるのに少し協力することになりまして……そいつらの素性も少しであれば知っています。
香港系の犯罪シンジケートらしいですよ。今回の九校戦にちょっかいを出しているのは」
事実を使って、もっともらしい経緯をでっち上げる。
真由美にそれを疑っている様子は無かった。
「……偶然なのかもしれないけど……あんまり危ない真似はしないでね」
「どちらかと言えば、いつも巻き込まれている立場だと思うんですが」
肩をすくめる達也を真由美は疑わしげな目でジーッと見詰めていた。が、そんな場合ではないと、程なく自分で気が付いたようだった。
「そっか……口止めされていたんでしょう? 教えてくれてありがとう」
「その代わり、他言は無用に願います」
「分かってる。約束します」
右手を上げて宣誓の真似をする真由美。
ナチュラルにお茶目なその仕草に、達也は危うく、吹き出すところだった。
「……重ね重ね不謹慎だけど、少し気が楽になっちゃった」
「……他所では聞かせられない台詞ですね」
「大丈夫よ。達也くんの前でしかこんなことは言わないから」
はて、それはどう解釈したら良いのだろうか?
先日の「気の置けない弟」発言をまだ引きずっているのだろうか?
相変わらず真由美の考えていることは、達也にとって謎が多かった。
◇◆◇◆◇◆◇
あの後、一年生の女子に動揺が広がらないよう協力して欲しい、と言われて天幕に居残った達也だが……具体的に何をすればいいか、彼には全く分からなかった。
そもそも女子選手のメンタルケアは、女子の上級生の役目だと思うのだ。
うっかり頷いてしまった自分の迂闊さに内心で臍を噛みながら、表面上「何事も無かったように」、決勝戦に備えたCADの調整に取り組んでいた。
ただそれだけなのに、彼は何時の間にか、一年生の女子選手に囲まれていた。
いや、これは単に、彼の隣に一年生女子のリーダー格である深雪が貼り付いているからだ、と達也としては思いたかった。
無言の視線に囲まれて非常にやり辛かったのだが、まさか威嚇して追い払うことも出来ない。
無駄話を振られて邪魔をされている訳でもないので、彼はいつもどおり黙々と作業を進めた。
いつもと変わらない姿。
いつもと変わらないもの。
その価値を、彼は知らない。
万物流転の理を直視し続けることを、自らの能力により強制されている達也にとって、変わらぬものなど何一つ無いのだから。
だから、いつもと変わらぬ彼の姿に少し落ち着きを取り戻した少女たちの姿を見て、深雪が兄の代わりに微笑み、頷いた。
彼の平常心――あるいは平常を演じる心――による精神安定の効果が最も大きかったのは、ほのかだった。
最初、森崎たちが「事故」に遭ったのを聞いて顔の色を真っ青にしていたが、何事も無かったかのようにブリーフィングを始めた達也を前に、見る見る落ち着きを取り戻した。
その変わり様に、今度は達也の方が不安を覚えたくらいだ。
「……予選と戦い方が変わる訳じゃない。とにかく持久力勝負だからね、ミラージ・バットは」
だからと言って、今何が出来る訳でもない。
もうすぐ決勝戦なのだ。そんな時間があるはずは無かった。
「気力で勝負、は厳禁だ。必要なのは、あくまで冷静なペース配分」
達也の眼差しを受けて、スバルが大袈裟に首をすくめた。
「余計な細工も無しだぞ、ほのか。
練習でやってたみたいに、幻影魔法でダミーをばら撒くなんて、スタミナの浪費でしかないからな」
釘を刺されて、今度はほのかが首をすくめる。
「二人とも、自分の持ち味を出すことだけを考えていれば良い。
大丈夫、それでワンツーフィニッシュはいただきだ」
達也の大胆な一位、二位独占宣言に、二人は嬉しそうに頷いた。
◇◆◇◆◇◆◇
真夏と言っても一番日が長い時期は過ぎている。
夜七時となれば、日はすっかり落ちきり、青空は星空に変わっていた。
湖面が、照明の光を反射してキラキラと煌めいている。
その中に点在する、足場となる円柱に立つ六人の少女。
身体の線を浮き立たせる薄手のコスチュームは不思議と生々しさが無く、水面に揺らめく光の中で妖精郷の趣を醸し出していた。
――男性ファンが多いのも宜なるかな。
ミラージ・バットは、地上十メートルに投影される立体映像の球体を専用のスティックで叩いて消し、その数を競う競技だ。
叩くと言っても手応えは無いし、球体が割れたり散ったりするわけでもない。
選手の持つスティックが出す信号と球体の投影位置を演算機で分析し、両者が重なった時点でその球体の投影が終了しスティックの信号から選手が判別されてポイントが加算される、という仕組みだ。
この競技に勝利するためのスキルは二つ。
如何に速く球体に接近するか。(最初に一メートル以内に接近した選手に優先権が与えられる)
如何に早く球体の投影位置を把握するか。
この二つのファクターのうち、二番目のファクターは意外に見落とされがちだ。
光より速いものは無いのだから、立体映像の光を確認してから動くのが結局は一番早い、と考えられているからだ。
だがここにも例外がある。
空中立体映像は、結像するまでにコンマ数秒のタイムラグがある。
この結像中の光波の揺らぎを知覚できれば、ほんの一瞬ではあるが、実際の光を確認するより早く光球の位置を把握することが出来る。
光波に――正確には、光波の発生を意味するエイドスの変化に鋭敏なほのかの感覚は、予選に続いてこの決勝でも、彼女に大きなアドバンテージを与えていた。
頭上に赤い球体が結像する一瞬前に、ほのかの術式が発動した。
他の選手は諦めを以ってそれを見送っている。
次の光球が結像した。
色は青。光っている時間が最も長く、その分、最もポイントをゲットしやすい球体だ。
五人の選手が一斉に起動式の展開を始める。
最初に跳び上がったのは、スバル。
同時に起動処理を始めて、その処理が最初に完了するのは常に第一高校の二人だった。
選手よりも、それを見ていた技術スタッフが唇を噛み締めている。(比喩であって実際に血を流しているスタッフはいないが)
ここまで安定的に差が生じている以上、CADの性能差を認めぬ訳にはいかないからだ。
各校ともレギュレーションの上限ギリギリの機種を選んで来ているはずだから、ハード面の性能は同じ。
残るは、ソフト面の性能差。
エンジニアの腕の違い、ということになる。
「クソッ、何であんなに小さな起動式で、あんなに複雑な運動が出来るんだ!」
何処かで、そんな声が上がった。
キルリアン・フィルター(サイオンの濃度と活性度を可視化するためのフィルター)付のカメラで、ほのかやスバルの起動処理(起動式の展開から読み込みまでの処理)を撮影していたのだろう。
一直線に――重力加速度の影響を無視して――立体映像へ向かって飛び、光球の前で静止、得点後に放物線を描いて足場へ戻り、慣性をキャンセルして着地。
この一連の運動中、ほのかもスバルも一度もCADを操作していない。
つまり、跳び上がる時点で使用した起動式に、着地までの工程が全て記述されているということだ。
起動式が小さいほど、起動処理は早く終わる。
起動処理の回数が少なければそれだけ、魔法師の負担は軽くなる。
最小の魔法力で、最速の事象改変。
「……まるでトーラス・シルバーじゃないか!」
誰かが、舌打ち混じりにぼやいた。
「あーちゃん、どうしたの……?」
あずさがハッと振り向くと、目を見開いて突然硬直してしまっていた彼女自身を、真由美が不思議そうに見ていた。
「いえ……何でもありません」
俯いて縮こまるあずさに、「そう?」と応えて真由美は観戦に戻った。
あずさのこういう反応はいつものことだから、余り気にならなかったのだろう。
だがあずさの心中は、いつもと違って、羞恥心とは別のもので占められていた。
(……まるで、「トーラス・シルバー」みたい……?)
先程、誰かがぼやいた声。
歓声と悲鳴に紛れたその言葉が、あずさの耳には何故かハッキリと響いた。
(あの起動式の完全マニュアルアレンジ……汎用型のメインシステムと特化型のサブシステムをつなぐ最新研究成果の利用……汎用型CADにループ・キャストを組み込んだ技術力……『インフェルノ』……『フォノンメーザー』……『ニブルヘイム』……どれも起動式が公開されていない高等魔法のプログラム……)
同じ魔工師を目指す者として、この大会で度肝を抜かれ続けた数々の「離れ業」が、あずさの脳裏をグルグルと駆け回る。
(まるで? トーラス・シルバー「みたい」?
ううん、これって……シルバーじゃなきゃ……不可能なんじゃ……)
――俺たちと同じ日本人の青少年かもしれませんね――
不意に、あずさの中から、彼の声が聞こえた。
「……ホント、どうしたの?
具合が悪いんだったら休んでてもいいのよ?」
「いえ、本当に、何でも……」
いきなり跳び上がったあずさを怪訝と心配が綯い交ぜになった眼差しで真由美は見詰めていたが、あずさにそれ以上の取り繕う余裕は無かった。
記憶の中から蘇った声。
もしかしたらあれは、推測なんかじゃなくて……
(まさか? まさかまさか? まさかまさかまさか?)
そのフレーズだけが、今のあずさの意識を占めていた。
遠ざかった現実の中で、二人の下級生が圧倒的リードを奪って、第一ピリオドの終了を迎えていた。
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