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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第二章・新人戦編
2−(6) 神霊魔法
 学校において、決まった教室を割当てることの利点は、人間関係の構築・醸成を促進するという点にも見られる。
 昔から血縁と並んで地縁が強力な人間的結合をもたらしてきたことからも分かるとおり、場所的な所属が組織的な帰属につながるのは、フォーマルグループ、インフォーマルグループに共通の傾向だ。
 つまり、何が言いたいのかというと、
「おはよう。聞いたぜ、司波。凄いじゃないか」
「おはよう、司波君。頑張ってね」
「おはようございます、司波くん。応援しています」
「オッス。頑張れよ、司波」
……こんな具合に、普段それほど親しくない相手でも、挨拶のついでに激励してくれる程度の友好関係は作り出せるということだ。
「みんな、情報が早えなぁ」
「本当ですね。まだ先週決まったばかりで、正式発表にはなっていないのに」
 月曜日、教室に到着してから、達也は次々とクラスメイトのエールを受け取っていた。
 何について、といえば勿論、九校戦のチームスタッフに選ばれたことについてである。
「ホント。一体、何処から聞き出してくるんだろうね?」
 真剣に首を捻っているところを見ると、エリカたちが宣伝して回っているということでもなさそうだ。
 まあ、緘口令が敷かれている訳でもない。
 会議の場には上級生しかいなかったが、クラブの先輩辺りから聞いたのだろう。
「そう言えば今日が正式発表じゃなかったっけ?」
 首を傾げたまま問い掛けるエリカに、達也は冴えない表情で頷いた。
 九校戦のメンバー選定は、エンジニアチームを含めて先週の金曜日にようやく、完了した。
 本来のスケジュールでは、先々週にメンバーの選定を終わっているはずだったのだから、少なからぬ遅れが出ている。
 幸い、と言っていいのか、選手の方は先に選抜が終わっていた為、競技用CADやユニフォーム等、準備に最も時間を要する道具類の手配は進んでいるが、納入された機器のチェックや実際の作動テストはエンジニアが固まっていなかった為、ほとんど進んでいない。
 自身も選手でありながら準備にすっかり手を取られている深雪の為にも、相当骨を折ることになるだろう、と達也は覚悟を決めている。ただ、不本意だという思いは拭えずにいるのだった。
「確か、五限目が全校集会に変更されていましたよね」
 午前三時限、午後二時限の時間割は全学年共通のもの。
 とはいえ、実験と実習以外は各生徒が個別に割当てられた端末を使って自分のペースで学習を進める現代式の学校では、各時限の始業、終業はそれ程厳密に守られていない。
 上の学年になる程、授業時間と休み時間の区別を無視する傾向が強い現代(いま)の学校で、高々代表チームの発足式の為に全校生徒を集めるというのは、それだけで学校側が如何にこのイベントを重要視しているかを示していると言える。
「達也さんも発足式に出るんでしょう?」
「うん、まあ……」
 実はそれこそが、彼が浮かない顔をしている最大の理由だった。
「一年生じゃ達也だけなんだろ?」
「ブルームの連中、か〜な〜り、口惜しがってるみたいよ」
 レオの言うとおり、技術スタッフに選ばれたのは、一年生では達也のみ。
 CADの調整には経験が不可欠なので、ある意味これは、当然の結果だ。達也のスキルの方が異常なのである。
 無論、彼がCADソフト開発の分野で第一線のプロとして活躍していることを考えれば、高校の大会のエンジニアなど役不足とすら言える。
 しかしそのことは、同級生も上級生も、誰も知らないこと。
 妹の深雪だけが知っていることだ。
 つい先日、定期試験でプライドを盛大に逆撫でされた一科生が、この抜擢に苛立ちを募らせているのは、確かめるまでも無く明らかだった。
「選手の方は一科生だけなんだがな……」
 達也の言い分はこの通り。
 新人戦の代表選手は全員一科生なのだから、彼がスタッフに選ばれたからと言って目くじらを立てる必要はないはずなのだ。
 ――もっとも、これは選ばれた側の理屈。工学系志望の一科生にとっては、慰めにもならない。
 達也は嫉妬される側に立つことが少ない。
 嫉妬心も乏しい。
 この辺りの機微を察するには、まだまだ人生経験が不足していた。
「仕方ないですよね。嫉妬は理屈じゃありませんから」
 だから、美月にズバリと指摘されて、達也は一言も返せなかった。
「大丈夫よ。今度は石も魔法も飛んでこないから」
 そして、エリカの極端過ぎる慰めには、苦笑することしか出来なかった。

◇◆◇◆◇◆◇

 四時限目終了後、指定された時間に講堂の舞台裏へ出頭すると、先に来ていた深雪から薄手のブルゾンを差し出された。
「これは?」
 何となく、見たままの物の様な気もしたが、確認の意味を込めて一応、訊ねてみる。
「技術スタッフのユニフォームよ。
 発足式では、制服の代わりにそれを着てね」
 回答は真由美から返って来た。
 ――予想通りの回答だった。
 当の真由美は、テーラード型スポーツジャケットを羽織っている。
 こっちは多分、選手のユニフォームなのだろう。
 制服のままの深雪が、期待に満ちた笑顔で両手を達也の方へ差し出している。
 一瞬、天邪鬼な衝動が意識を過ぎったが、抵抗には何の意味も無いと分かっていた。
 達也は素直にブレザーを脱いで、用意してあったハンガーに掛けた。
 深雪が広げたブルゾンに、膝を軽く屈めて袖を通した。
 伸び上がるように手を伸ばして襟を整え、後ろに回りこんで肩を合わせて、再度前に回りこんで襟と裾を整え、一歩下がって達也の上半身を視界に収め、深雪は満足げな笑みを浮かべた。
 妹が上機嫌な理由は達也にも見当がついている。
 多分、ブルゾンの左胸に縫い付けられているエンブレムを見るのが嬉しいのだろう。
 その図案は、八枚の花弁。
 彼女の制服にも、同じ物がついている。
 第一高校の校章。
 補欠でない、第一科生の象徴。
「よくお似合いです、お兄様……」
 学校同士の対抗戦、ユニフォームの形状にそれ程バリエーションがある訳でもないので、どの学校のメンバーであるかを識別する為には当然のデザインだ。
 だが深雪にとっては、在るべきものが在るべき場所にようやく収まった、そんな感慨を抱かせる姿だった。
 達也本人にとってはどうでも良いことだが、どうでもいいからこそ、水を注す必要も無い。
「お前は着替えなくていいのか?」
「わたしは進行役ですので」
「そうか、大役だな」
「プレッシャーを掛けないで下さい……」
 この程度のことで気後れなど感じるはずも無いのに、そんな台詞で心細げに瞳を揺らして見せる妹の頭に、達也は笑いながら手を置いた。
 ――そんな二人に、周囲の人間は冷たい眼差しを突き刺した。

◇◆◇◆◇◆◇

 発足式という名のお披露目は、つつがなく始まり、つつがなく進んだ。
 達也が壇上に上がっても、石も魔法も飛んでこなかった。――まあ、当たり前のことだが。
 しかし彼にとって、居心地は非常に悪かった。
 選手とエンジニアは分かれて列を作っており、エンジニアチームは彼以外上級生ばかりだから仕方の無いことだ。
 準備会議で一応の腕前は見せているので、変に敵視されたり蔑視されたりということは無い。
 だが、好意的に迎えられているとも言えない。
 好意的な評価と、好意そのものは、イコールでは無いのである。
 色んな意味で彼のチーム入りは、異例の抜擢であり特別扱いだ。
 そして今、彼は二科生でありながら、八枚花弁のエンブレムをつけている。
 挑発された、と受け取る者もいるだろうし、反感を持たれても仕方が無い、と彼は眩しい照明の中で他人事のように考えていた。
 その間にも、一人一人、選手の紹介が進んでいる。
 プレゼンターは真由美だ。
 紹介を受けたメンバーは、競技エリアへ入場する為のIDチップを仕込んだ徽章をユニフォームの襟元につけてもらう。
 その役目には、舞台栄えがするという理由で、深雪が選ばれていた。
 選手だけで四十名(深雪と真由美を除いて三十八名)だからかなりの手間なのだが、淑女教育の成果か、にこやかな表情を崩さず器用な手つきで徽章を取りつけて行く。
 息遣いの聞こえてきそうな至近距離で深雪から笑顔を向けられた男子生徒は、ほとんどが顔を紅くして崩れそうになる表情を懸命に引き締めていた。
 それだけなら全校の女子生徒から後々嫌がらせを受けそうな光景なのだが、同じように徽章を取りつけて貰った女子生徒まで、半数以上が顔を赤らめて照れ臭そうに、あるいは落ち着きをなくしているものだから、観衆、特に上級生の微笑みを誘っていた。
 徽章は選手だけでなく、スタッフにも同じものが配られる。
 作戦スタッフの紹介が終わり、いよいよ技術スタッフの順番になった。
「何だか緊張するね」
 不意に隣から話しかけられ、達也は目立たぬように顔を動かした。
 同じように小さく顔を動かしてこちらを見ている、男子生徒と目線が合う。
 目の位置は少し、達也の方が高い。
 確か、五十里啓(いそり・けい)という名の二年生だ。
「そうですね」
 彼は達也に明らかな好意を向けて来る少数派の一人だ。
 中性的な優しいイメージの容貌を持つ美少年であり、華奢な体格も相俟って、スラックスをスカートに履き替えればそのまま「背の高い女子生徒」で通りそうな外見の持ち主だが、魔法理論の分野では二年生トップ、実技の成績も上位をキープしている猛者である。
 改めて間近でその美貌(・・)を見ると、人は見掛けによらないと、達也でもしみじみ思ってしまう。
 舞台の上ということもあり、会話はそれきりで終わった。
 だが、曖昧な悪意の中で示されたさり気ない好意は、彼のように鈍感な(・・・)人間にも、心を軽くする効果をもたらした。
 靄々としたものが晴れた気分で、舞台の下を見渡す余裕が生まれた。
 相変わらず席割りは自由で、相変わらず一科生が前、二科生が後ろと自然分裂している。
 だがその前半分の人の列に、異分子が紛れ込んでいた。
 達也の視線に気がついたのだろう。
 何と、前から三列目、ほぼ最前列と言っても過言で無い席で、エリカが手を振っている。
 達也もこれには、ギョッとした。
 更に目を凝らしてみれば、エリカの隣には美月、その逆側にはレオ、更にその隣には幹比古、その後ろにも見覚えのある顔が並んでいる。
 1−Eのクラスメイトが、一科生の白い目にもめげず、一塊に陣取っているのだった。
 達也が彼らの勇気ある行動に目を奪われているうちに、深雪の押すワゴンが目の前まで来ていた。
 選手四十名、作戦スタッフ四名、技術スタッフ八名、マイナス、プレゼンター二名、計五十名の内、四十九人まで紹介及び徽章授与が終わった。
 いよいよ五十人目、最後の一人。
 つまり、達也の番である。
 真由美が彼の名を告げた。
 その声に、随分と力が入っているように感じたのは、彼の意識過剰だろうか?
 一歩前に進み出て一礼する。
 深雪が蕩けそうな笑みを浮かべて――達也が妹の精神状態に少しばかり不安を禁じ得なかった程の笑顔だった――達也の前に立った。
 深雪がブルゾンの襟に徽章を付け終えると同時、
 大きな拍手が起こった。
 目を向けるまでも無い。
 エリカとレオに煽られたクラスメイトが一斉に手を打ち鳴らせたのである。
 進行役の真由美や深雪にとっては、予定外の騒動だ。
 だが1−Eの暴走に、同じ一年生の一科生クラスからブーイングが起こりかけた、寸前。
 その機先を制するようなタイミングで、真由美と深雪が計ったように同時に、舞台の両脇から手を叩き始めた。
 最後のメンバーの紹介が終わった直後の拍手。
 それは、選ばれたメンバー全員に対する拍手にすり替わって、講堂全体に広がった。

◇◆◇◆◇◆◇

 発足式が終わり、九校戦へ向けた準備が一気に加速した。
 出場種目も決まり、深雪は雫、ほのかと共に、毎日閉門時間ギリギリまで練習している。
 達也はCADの調整と深雪の仕事の肩代わりで、これも毎日遅くまで駆けずり回っている。
 運動部に所属しているエリカとレオも、色々と下働きを仰せつかっている様だ。
 文科系クラブは美月だけなので、この一週間は彼女が一人で他のメンバーを待っていることが多い。
 先週の発足式は、彼女にとってドキドキものだった。
 席は自由、とは言っても、暗黙のルールを踏み倒すには勇気が必要だった。
 彼女だけでは到底無理だった。と言うより、エリカがいなければ他のクラスメイトが一緒でも到底無理だった。
 引っ込み思案という自覚があるだけ余計に、あの友人が眩しく、また羨ましく思えてしまう。
(でもエリカちゃんは何故あんなに一所懸命だったのかな……?)
 美月自身は、エリカに引っ張られての行動だった。
 無論、達也を応援したいという気持ちは強かったが、後ろの方で拍手しているだけで自分なら満足だったと思う。
 エリカには愉快犯的な気質もあるので、一科生のエリート意識を逆撫でしてやりたい、という動機もあったことだろう。
 だが同時に彼女は、気まぐれで刹那的な気質の持ち主でもある。
 面倒ごとに首を突っ込むのは好きでも、面倒ごとを自分から積極的に企図する方ではないと美月は見ている。
 自分たちだけならともかく、他のクラスメイトまで動員した熱心さは、単なる悪戯心だけでは説明できない気がするのだ。
(やっぱりエリカちゃんって、達也さんのこと……なの、かな……?)
 エリカと一番仲が良い男子といえば、彼女の見た限り、レオだろう。
 定期試験で理論三位を取った吉田とも、浅からぬ縁があるようだ。
 しかし、達也に対するエリカの感情は、また別の種類、別の重さがあるように美月には思えた。
 それを、思考の中でさえ、明確に言葉で定義することが、美月には何故か(・・・)憚られた。
 昇降口に立って、まだ五分も経っていない。
 待ちくたびれるには早過ぎる時間だ。
 しかし同時に、思惟が取り留めを無くすには十分な時間だった。
 考えるとも無しに、色々なことを思い浮かべる美月。
 それは、ぼんやりしている、とも表現できる状態だった。
 そうして、知覚が何か一つのことに集中していない状態、感覚が開放されている状態で、彼女は見慣れぬ(・・・・)波動に気がついた。
 悩んだのはちょうど、一秒。
 美月は思い切って、メガネを外した。
 その途端、色の洪水が押し寄せた。
 視界に様々な色調の光が溢れる。
 目を痛めつける刺激に、美月は少しの間、じっと耐えた。
 彼女にとってメガネを外す行為は、暗室からいきなり真夏の太陽の下へ連れ出されるようなものだ。
 見えないようにしていたものがいきなり見えるようになる。
 自分でもコントロールできない感覚がもたらす過剰な情報に、それを処理する視覚神経と脳が、悲鳴を上げる。
 しかし、普通の人間ならそのまま意識を失ってしまうような情報量の暴虐も、彼女にとっては生まれたときから付き合って来た「もう一つの世界」だ。
 人の目は、照り付ける最盛の陽光にも、しばらく待てば慣れるもの。
 強い光に適応した、濃い色の瞳を持つ種族なら、時間を置かずとも、すぐに慣れる。
 美月もギュッと瞼を閉じた後、二、三回瞬きするだけで、普通の魔法師が見ているものの何十倍ものサイオン光と、並みの魔法師では色を見分けることも難しいプシオン光(霊子放射光)に目を馴染ませた。
 メガネを丁寧にケースへ仕舞ってから、先程違和感を覚えた波動へ目を凝らす。
 コーティングレンズに遮断された状態でさえ目に付いた光は、すぐに見つかった。
 呼吸音のような、揺らぎを持ちながらも規則的なプシオンのシグナル。
 光源の方向までハッキリ分かる。
 美月は誘われるように、波動の発信源、実験棟へ足を向けた。

 実験棟に近づくにつれて、ひんやりとした空気が漂い始めた、ように感じた。
 季節は真夏、夕陽は山や丘の稜線によって凹凸に切り取られた、地平線ならぬ地「曲」線に近づきながらも、尚、汗ばむ熱量を届けている。
 これは錯覚だ。
 真夏の熱気に、偽りの冷気を紛れ込ませる「何か」。
 その「何か」は、引き返せと命じているような気がした。
 近づくな、と脅しているような気がした。
 未知のモノに対する不安で、身が竦んだ。
 それなのに、足は止まらなかった。
 理性は引き返せと告げていたが、魔法に携わる者としての、魔法と共に生きることを運命付けられた者としての直感が、この先に待つものを、この「眼」で確かめるべきだと言っていた。
 実験棟の入り口は、軋みを上げたり哄笑を響かせたりといった効果音も特に無く、静かに開いた。
 天井の照明パネルが、細かい文字を追うにも不自由の無い明るさを保っている。
 何もかも、いつも通り。
 いや、ここは魔法を教える学校で、利用者の多い実験棟だ。
 何か異常があれば、教師や上級生が気付かないはずは無い。
 魔法科学校には、普通科学校よりも、怪談の入り込む余地は少ないのである。
 何の警報も出されていない以上、彼女の感じている異変は何らかの魔法による現象なのだろう。
 あるいは――現代魔法が検知出来ない、本物の怪奇現象か。
 心を(かす)めた不吉な思惟にゾクッと背筋を震わせながらも、美月の足は止まらなかった。
 駆り立てられるように、あるいは引っ張られるように、前へ前へと進む。
 導かれるままに階段を上がると、空気に僅かな香気が混じった。
 この香りは、魔法薬学の実験で嗅いだ覚えがある。
 鎮静効果を持つという複数の香木をブレンドした香りだ。
 彼女がここまで追いかけて来た波動は、薬学実験室へと続いている。
 異常な霊子放射光は、生徒の誰かが行っている魔法実験の産物らしい。
 少なくとも未知の怪奇現象では無いと見当がついて、美月はホッと一息ついた。
 そうすると、今まで不安の陰に隠れていた好奇心が頭をもたげた。
 他人が魔法実験を行っている場に、招かれず立ち入ってはならないというのは、魔法実験の実習で最初に教わる注意事項だ。
 発動中の魔法と招かれざる闖入者の魔法領域の干渉により、思わぬ魔法の暴走が生じる危険性があるからだ。
 特に、未熟な魔法師――例えば、彼女たちのような新入生――の魔法実験に飛び込む行為は、大きな危険を伴う愚行だと繰り返し注意を受けている。
 しかし今、美月の意識から、その警告がスッポリ抜け落ちていた。
 方向性を取り違えた警戒心は、彼女の足音を殺し、閉ざされていた実験室の扉にそっと、覗き見る隙間を作った。
 物音を立てないように細心の注意を払いながら、僅かに開けた隙間に目を当てる。
 美月は、危ういところで悲鳴を呑み込んだ。
 いや、悲鳴というより、それは単なる驚きの声か。
 薬学実験室の中では、青や水色や藍色の光の球がいくつも、空中を踊り回っていた。
 一つ一つの光には「力」があり「意思」があった。
 自然界のエネルギーの分布は均質ではなく、均質化する一方でもなく、散ったり集まったり絶えず流動しているということを、彼女は「見て」、知っていた。
 自然現象を引き起こすの「力」の塊が泡となって漂う姿は、美月にとって馴染みの光景だった。
 彼女の「眼」に映る森羅万象のエネルギーは、人の心から流れ出すプシオンの輝きに良く似ていた。
 だが、漂い、飛び交うその塊に「意思」を感じたのは、今日が初めてだった。
(……精霊……?)
 これが精霊というものだろうか、と彼女は思った。
 それ以外の思考が飛び去ってしまうほどの衝撃を――感動を、彼女は覚えていた。
 そして、その精霊を呼び出しているのは――
「吉田くん……?」
 なけなしの警戒心も忘れて、美月は呟いていた。
 全く意識に無い、行動。
 だが名前を呼ばれた方は、そうは行かなかった。
 特に、誰も来ないはずの(・・・・・・・・)場所で、誰も見ていないはずの「術」の行使を見られた方としては。
「誰だ!」
 条件反射に等しい誰何。
 そこに込められた反射的な怒りに、「光」たちの「意思」が反応した。
「きゃっ!」
 押し寄せる光の球に、美月は悲鳴を上げて目を閉じた。
 そしてその直後、横合いから吹き抜けた「突風」に、彼女は思わずしゃがみこんでしまう。
 髪も揺らさずスカートもなびかせない、サイオンの奔流。
 それが彼女へと押し寄せる光の球を押し流し、彼女を守ったということに、目を閉じた美月は気づいていない。
 恐る恐る瞼を開けた彼女が目にしたものは、憎悪に等しい激情をたたえて睨みつける幹比古と、その視線を無表情に受け止める達也の姿だった。
「……落ち着け、幹比古。
 今、ここで、お前とやりあうつもりは無い」
 何も持たない掌を開いて両手を挙げる。
 それは魔法師にもそうでない者にも共通する、戦意の無い(しるし)だ。
 幹比古はハッとした表情を浮かべると、それまでの敵意が嘘のように消えた。
「……すまない、達也。
 僕も、そんなつもりじゃなかったんだ」
 悄然と項垂れたその姿は、居場所を無くした子供のようだった。
 衝動的に「慰めてあげたい」と思いながら、適当な言葉が出てこない自分が、美月は歯痒かった。
「気にしていない。
 だからお前も気にするな。
 元はと言えば、SB魔法の発動中に術者の心を乱すような真似をした美月が悪い」
「ふえっ!?
 私ですか!?」
 慌てて振り返り、達也が人の悪い笑みを浮かべているのを見て、本気で責められているのではないと理解し、美月は胸を撫で下ろした。
「いや、彼女は悪くないよ」
 だが幹比古は、そうは取らなかったらしい。
 少し早口に、達也の言葉を否定する。
 達也の指摘が一面の事実なだけに、余計慌てたのだろう。
「声を掛けられたくらいで心を乱した僕の未熟の所為だ。
 ……それから、ゴメン、大事なことを忘れてた。
 ありがとう、達也。
 君のおかげで、柴田さんに怪我をさせずに済んだ」
「俺が手を出さなくても、怪我には至らなかったさ。
 俺には、SBは見えないが、術の制御が効いていたのは分かる。
 それに、人払いの結界の中に踏み込んでこられては、驚くなと言う方が難しいだろうな」
「何故、結界のことを……そうか、達也は古式魔法も学んでいるんだったね。
 それに、術が効いているかどうかまで分かるなんて……君は色々な面で、非、いや、僕の理解を超えているようだ」
「素直に『非常識』と言ってくれても構わないが?」
 からかうように笑いながら達也が言うと、幹比古も苦笑いを浮かべた。――喰いしばっていた口元を緩めて。
「まあ……いくら見られたくないからと言って、学校の実験室に結界を敷く方も相当非常識だとは思うが」
「違いない」
 二人の笑い声が、張り詰めた空気を拭い去った。

「今のは自然霊の喚起魔法か?
 実際に見るのは初めてだが」
「……今更隠しても仕方が無いね。
 達也の言うとおり、水精を使って喚起魔法の練習をしていたんだ」
 達也の問いに、香木を()べていた卓上炉を片付けながら、幹比古は答えた。
 美月は幹比古の隣で、灰の落ちた机に雑巾を掛けている。
 幹比古は当然遠慮したのだが、生真面目な美月はこういう所で頑固だった。
「水精ね……残念ながら俺には、プシオンの塊があるということしか分からなかったんだが……
 美月にはどう見えたんだ?」
「えっ?
 あっ、私も同じようなものですよ。
 青系統の色調の光の球が見えただけですから」
 美月は曖昧な笑みを浮かべながら両手を目の前で振った。
 雑巾を持ったままそんな真似をした所為で、汚れた水滴が幹比古の顔に飛んだりしたのだが、急に話を振られて慌てていた美月は気付かなかった。
 一方、汚水を浴びせられた幹比古の方はと言うと……これも、気付いていないようだった。
 彼は目を大きく見開き、顔を強張らせていた。
「色調……?
 ……色の違いが、見えた……?」
「あの、えっと、……はい」
 美月には、幹比古が何故(美月の主観的に)怖い顔をしているのか分からず、少しビクビクしながら答えた。
「あの……青とか水色とか藍色とか……
 ああっ!」
 真っ直ぐに幹比古を見ることが出来ず、チラチラと覗き見しながら答えていた美月は、幹比古の顔についた水滴に気付いて奇声を上げた。
「ごごごめんなさい!
 ええと、そうだ!
 ハンカチハンカチ」
 慌てて鞄からハンカチを取り出し、幹比古の頬を拭こうとする。
 その伸ばされた手を、幹比古は乱暴に掴んだ。
 驚きに顔を強張らせた美月を、そのまま手元に引き寄せる。
 バランスを崩した美月を受け止め、キスを迫るように顔を寄せて、
 幹比古は美月の目を覗き込んだ。
「あっ、あの……」
 当惑と焦りで声が言葉にならない美月の意思は、幹比古に届いていない。
 そのままじっと視線を動かさない幹比古と、パニックで顔を背けることも出来ない美月。
 図らずも、見つめ合う二人。
「……合意の上なら席を外すが、そうでないなら問題だぞ?」
「わわっ!」
「きゃっ!」
 呼吸すらも忘れてしまったかの如く、無言で固まっていた二人だったが、達也の呆れ声でようやく我に返ったのか、弾き合うように身体を離した。
「……ごめん」
「い、いえ……こちらこそ」
 良く分からない遣り取りだった。
 幹比古が謝罪したのは分かるが――あんなセクハラまがいの行為、頬を張り飛ばされても文句は言えないところだ――、何故美月が謝る必要があるのか。
 多分、混乱しているんだろう、と達也は取り敢えず納得することにした。
「それで、急にどうしたんだ、幹比古?」
 となると、次なる興味は幹比古の突然の乱心。
 一体、何が原因なのだろうか。
「ごめん、一寸、吃驚して……」
「いや、俺に謝る必要はないが……
 吃驚したって、一体何に?」
「そうだね……」
 達也にそう言われて、幹比古はもう一度、美月に頭を下げた。
「本当にごめん。
 まさか、精霊の色を見分けられる人がいるなんて思ってもみなかったから……
 もしかして、水晶眼の持ち主かと思ったら、いてもたってもいられなくなって、思わず……
 言い訳にしかならないけど、決して不埒な真似をしようとしたんじゃないから。
 本当に、ただ、確かめたかっただけなんだ」
 本人も言っているとおり、これは言い訳でしかない。
 それはあくまで幹比古の好奇心、幹比古の事情であって、美月には何の関係もない。
 だが、必死で言い訳をする幹比古を見る美月の眼差しは、柔らかく微笑んでいて、彼の行いをもう咎めてはいないと物語っていた。
「もう、いいですよ、吉田くん。
 私も、ビックリしただけですから」
 そう言って、相手を和ませる笑顔でニッコリ微笑んだ後、小さく早口で「でも、恥ずかしかったんですから、もうこれきりにしてくださいね」と囁いた。
 赤面しながらも、何度も頷く幹比古。
 どうやら先ほどのセクハラ未遂は、平和的に解決したようだ。
「ところで幹比古、何をそんなに驚いていたんだ?」
 それを待っていたかのように、達也は幹比古に質問を繰り出した。
「精霊の色を見分けられるのが珍しいみたいなことを言っていたようだが?」
 達也の問い掛けに、美月も同調の視線を幹比古へ向けている。
「それに、水晶眼というのは……?
 差し支えなければ教えてくれないか」
 自分もそれを訊きたかったと、美月は眼差しで語っていた。
「……いいよ、それほど秘密って訳じゃないし。
 精霊には色がある。僕たち精霊を使役する術者は、色で精霊の種類を見分けている。
 でも、それは本当の意味で見えている訳じゃないんだ」
 美月が首を捻っていた。
 達也にも幹比古の言葉の意味は分からなかったが、性急に問うことはせず、目線で続きを促した。
「実は、精霊の色というのは決まったものじゃないんだ。
 術の系統、式の流派によって、術者が『見る』色は変わってくる。
 例えば僕の流派では、水精は青色をしている。
 でも欧州には、水精の色は紫だと明言する流派もある。
 大陸系の流派には、黒に近い紺色だとするものもある。
 これは、場所によって、使役する術によって、精霊の波動に違いがある訳じゃない。
 術者の認識の仕方が違うから、違う色に『見えて』いるんだ」
「……つまり、視覚的に捉えているのではなく、術を介して波動を解釈しているということか?」
「ご名答。
 僕たちは、精霊を見分ける便宜上、その波動を色で解釈している。
 精霊に色を付けている、と言えばいいのかな。
 だから僕たちの認識する精霊の色は画一的だ。
 僕の流派では、
 水精は青。
 火精は赤。
 土精は黄色。
 風精は緑色。
 そこに濃淡はないし、明暗もない。
 頭の中で分類して色を塗っているんだから、色調の違いが生じるはずもない。
 水精はどんなものでも青一色。
 認識のシステム上、水色とか藍色とかに見えるはずがないんだ」
「……だが美月には、それが見えた」
「多分彼女は、水精の力量の違い、性質の違いを色調の違いとして知覚している。
 本当に、精霊の色が見えているんだ。
 そういう眼のことを、僕たちの流派では『水晶眼』と呼んでいる。
 他流派では別の意味で使われることもある単語だけど、僕たちの流派では『神』を見ることの出来る眼、とされている。
 精霊の色を見ることが出来る者は、精霊の源であり集まりである、自然現象そのものである『神霊』を見て、認識して、そのシステムに介入する為の鍵を見つけることのできる存在だと伝えられている。
 僕たちにとって、水晶眼の持ち主は、神霊というシステムにアクセスするための巫女(シャーマン)なんだ」
「……つまり、お前たちにとって、美月は喉から手が出るほど欲しい人材だということだな?」
「そうだけど……そんなに警戒しなくても良いよ。
 今の僕に神霊を御する能力など無い。
 半年前の僕なら自惚れて、有頂天になって、強引に彼女を自分のものにしたかもしれないけど、今の僕にはそんな欲も気概もない。
 だからといって、他の術者に神霊へつながる鍵の存在を教えてやる気にもなれない。
 他の術者が神霊魔法を極めるのを、指をくわえて眺めているなんて、たとえそれが親兄弟であったとしても、真っ平ごめんだ。
 柴田さんの水晶眼のことは、誰にも言わないよ」
 幹比古の強い眼差し。
 それはどこか、狂おしい光をはらんでいた。
 達也はそこに、変質した独占欲を見て取った。
 自分だけのものにしたい、ではなく、誰のものにもしたくない。
 幹比古は美月をそんな目で見ている。
「……そうだな。俺も、今の話は、胸の裡にしまっておこう」
 友人を利用させないという点において、達也の利害は幹比古の想いに一致していた。
 だから彼は、そう言って、頷いて見せた。
 幹比古に対して。
 美月に対して。
 美月はそんな達也のサインをキョトンとした顔で見返して、その意味を理解できないまま、慌てて曖昧な笑みを返した。


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