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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第二章・新人戦編
2−(4) 空を飛ぶ魔法
 いつもどおり兄妹二人きりの夕食を終えた直後、見計らったように、電話が鳴った。
 ところで、ご存知の通り現代の電話機はほとんどが映像を伴う「テレビ電話」であり、電「話」機ではなく電「影(映)」機ではないか、と実にどうでもいい議論が三流文化人の間で(かまびす)しく交わされたことがあるが、結局、立体映像が実用化し始めた今でも「電話機」「電話」と呼ばれている。

 閑話休題。

 深雪は現在、食事の後片付けに台所。
 流石に食器洗いまで手作業に拘ったりせずHAR任せだが、ようやく普及が始まったばかりの3H(Humanoid Home Helper;所謂「お手伝いロボット」)は、この家にはいない。鬱陶しい天井移動マニピュレーターの導入は二人揃って却下した。従って、食器の上げ下ろしは自分でやらなければならないのである。
――その程度の労を惜しんでいては身体が退化してしまいます、とは深雪の弁。

 再び閑話休題。

 達也が電話に出たのは、要するにそういう事情であって、偶然の産物でしかなかった――はずだ。
「お久し振りです。……狙ったんですか?」
『……いや、何のことだか分からんが……久し振りだな、特尉』
 画面に映ったのは不得要領な顔をした、旧知の人物だった。
「リアルタイムで話をするのは二ヶ月ぶりです。
 しかし……その呼び方を使うということは、秘匿回線ですか、これは。
 よくもまあ、毎回毎回一般家庭用のラインに割り込めるものですね」
『簡単ではなかったがな。
 特尉、一般家庭にしては、君の家はセキュリティが厳し過ぎる(・・・)のではないか?』
「最近のハッカーは見境が無いですから。(うち)のサーバーには、色々と見られてはまずい物もありますので」
『そのようだな。今も危うく、カウンターでクラッキングを喰らいそうになった』
「そりゃ、自業自得というものです。余程深い階層までアクセスしようとしない限り、カウンタープログラムは作動しません」
『うちの新米オペレーターにも、良い薬になっただろう』
 画面の中の、日焼けや火薬焼けによってなめし皮の様になった顔面に、人の悪い笑みが浮かんだ。
 それにしても、三年前から少しも老けた様子がない、と、達也はその笑顔を見て思った。
 地位と所属部署からして、相当な激務であるはずだが、微塵の疲れた様子も無い。
 ……脳裏に浮かんだ思惟に促されて、通話相手、陸軍101旅団・独立魔装大隊・隊長・風間玄信(はるのぶ)少佐は、前置きで時間を浪費するのは好ましくない相手だということに、達也は今更のように気がついた。
「少佐、本日はどのようなご用件なのですか?」
『そうだな、前置きはこの位にしておこうか。
 まずは事務連絡だ』
「はい」
『本日、「サード・アイ」のオーバーホールを行い、部品を幾つか新型に更新した。
 これに合わせて、ソフトウェアのアップデートと、性能テストを行って欲しい』
 101旅団の読み方は、イチマルイチ旅団。百一旅団ではない。
 通常の編成とは別系統の、魔法装備を主兵装とした実験的な旅団で、その中にあって更に、独立魔装大隊は新開発された装備のテスト運用を担う部隊。
 機密の度合いが通常の軍事機密から更に五、六段階ほど撥ね上がっており、本来ならば一介の高校生が関わり合うことなど、それどころか部隊の存在を耳にすることすらも許されないはずだ。
 しかし達也は、成り行きとしか言いようの無い事情から、風間の部隊に事実上組み込まれていた。
「分かりました。明朝出頭します」
『……いや、学校を休むほど差し迫っている訳ではないが?』
「いえ、次の休みには新型デバイスのテストで研究所の方へ行く予定ですので」
『本官が口にできることではないのだろうが……高校生になって益々、学生らしくない(・・・・・)生活になったようだな』
「この台詞は好きではないのですが、仕方がありません」
『そうだな……本官が忙しいのも、特尉が忙しいのも、仕方の無いことだ。
 では明朝、いつもの所へ出頭してくれ。生憎本官は立ち会えないが、真田に話を通しておく』
「了解しました」
 事務的に敬礼した達也に、画面の中の風間も事務的に答礼した。
 軍の儀礼的には形のなっていない敬礼だったが、イレギュラーメンバー扱いということもあって、そこまで厳しい要求はされていない。
『では次の話だが、聞くところによると特尉、今夏の九校戦には君も参加するそうだな』
「……はい」
 返事をするのに少しの間を要したが、この場合「少し」で済んだことを、賞賛されるべきだろう。
 彼がエンジニアチームのメンバーに決まったのは、三時間前のことに過ぎない。
 訊くだけ無駄と分かっているので、ニュースソースに関する好奇心は、心の中でねじ伏せた。
『会場は富士演習場南東エリア。これはまあ、例年のことだが……
 気をつけろよ、達也(・・)
 風間の話が唐突であるのはいつもの事だが、今日は唐突の度合いが別格だった。
 階級でもなく苗字でもなく偽名でもなく、本当の名前で呼んだということは、上官としての警告ではなく、旧知の者としての警告ということだろうが、軍の諜報・防諜ネットワークに掛かった情報を警告として民間人、それも何の社会的地位も無い高校生に与えるなど、徒事(ただごと)ではない。
 達也は気を引き締めて、続きを待った。
『該当エリアに不穏な動きがある。
 不正な侵入者の痕跡も発見された』
「軍の演習場に侵入者ですか?」
『実に嘆かわしいことだがな。
 また、国際犯罪シンジケートの構成員らしき東アジア人の姿が、近隣で何度も目撃されている。
 去年までは無かったことだ。
 時期的に見て、九校戦が狙いだと思われる』
 たかが高校の対抗戦に、と言いかけて、達也は思い直した。
 たかが高校生と言っても、この国この年代のトップクラスが魔法の技量を競う為に集まるのだ。
 例えば、表彰式を狙って爆弾テロを仕掛ければ、この国は人材面で大きなダメージを被ることになる。
「国際犯罪シンジケートと仰いましたが?」
 相手がブランシュのようなテロ組織ではなく、犯罪シンジケートならばそのような殺傷そのものを目的とする行動は取らないだろうが、テロ組織ならともかく国際犯罪組織に関して言うならば、軍人の風間は門外漢のはずである。
 どうやって正体を特定したのだろうか。
『壬生に調べさせた。既に面識があると思うが』
「第一高校二年生、壬生紗耶香の御父君ですか?」
『ああ。壬生は退役後、内情に転籍して、現在の身分は外事課長だ。外国犯罪組織を担当している』
「……驚きました」
 達也は素直に驚いて見せた。
 諜報組織に所属する者の素性が電話口であっさり暴露されたことにも驚いたし、ある種、軍の不始末を、文官・武官の常として決して友好的とは言えないと噂される内閣府の情報機関にあっさりリークして協力を仰いだという事実にも驚いたが、それより何より、対外諜報・防諜の一責任者の娘が、外国の工作機関の息が掛かったテロ組織に下請けとはいえ所属していて、それを外事第何課かは分からないが、その課長たる父親が放置していたという非常識な放任振りに最も驚かされた。
『犯罪シンジケートとテロ工作組織は担当が別だからな。
 セクショナリズムは国家機関の業病だ』
 そんな達也の内心を的確に言い当てることが出来たのは、付き合いの長さ故と言うより風間の個人的な洞察力と、少なからぬ共感のもたらしたものだろう。
『だが、自分が掌握している分野の情報は信頼できる。
 壬生の話では、香港系の犯罪シンジケート「無頭竜(No Head Dragon)」の下部構成員では無いか、ということだ。
 目的はまだ不明だが、追加情報が入り次第、連絡しよう』
「ありがとうございます」
『明日は無理だが、もしかしたら、富士で会えるかも知れん』
「楽しみにしています」
『私もだよ。……少し長話をし過ぎたようだ。新米が焦っているからそろそろ切るぞ』
 どうやら、ネットワーク警察に回線割込みの尻尾を掴まれたらしい。
 この場合、ネット警察の技術を褒めるべきか、風間の部下の腕に嘆息すべきか、微妙なところだ。
『師匠によろしく伝えてくれ』
「分かりました」
『ではな』
 応えを返す前に、画面はブツッと暗転した。
 さて、今の話の何処までを明かしていいのやら、正式な僧籍を持っているにも拘らず「似非」という言葉が良く似合う共通の師匠の顔を頭に浮かべながら、達也は小さく息を吐いた。

◇◆◇◆◇◆◇

「お兄様、よろしければお茶にしませんか……?」
 いつの間にか閉められていたリビングの扉の向こうから、深雪の声が聞こえた。
 どうやら達也たちの話が耳に入らぬよう、電話が終わるのをキッチンで待っていたらしい。
 本来ならば、軍事機密だろうが外交機密だろうが遠慮なく話を聞けるだけの、達也より余程強い立場を深雪は有しているのだが、妹がその立場を兄の前で行使することは無かった。
 達也は無言でキッチンの方へ向かい、再び声が掛かる前に閉ざされていた扉を開けた。
 目を丸く見開いて硬直した深雪の手には予想通り、ティーカップとティーポット、それにお茶菓子が載せられたトレー。
「……驚かせないで下さい。
 お返事下されば良いのに……深雪が吃驚した姿をお笑いになる為に足音を忍ばせるなんて、お兄様、意地悪です」
「ゴメンゴメン」
 ふいっ、と拗ねた顔を横に向けた深雪からトレーを取り上げて、達也は笑いながら謝罪した。
「でも、意地悪した訳じゃないよ。
 両手が塞がっているだろう、と思ったから、急いで来たんだ。
 可愛い妹に、いつまでも重たい思いはさせられないからね」
「……嘘だということは百も二百も承知なのですけど……今回は騙されて差し上げます」
 不機嫌な表情を保とうとしても、口元が緩んでしまっている。
 兄の他愛も無い一言で簡単に懐柔されてしまう自分。
 だが深雪には、それが不快ではなかった。
「今日は紅茶か」
「ええ、セカンドフラッシュの良い茶葉が手に入りましたので、たまにはよろしいかと思いまして」
 深雪の言葉に頷いて、テーブルに着くなりカップを顔に近づけて達也は香りを確かめた。
「マスカテルか。珍しい……
 手に入れるのに苦労したんじゃないか?」
「いえ、本当に偶々なのですけど……お兄様に喜んでいただけるのが、深雪には何よりです」
 一口、ゆっくりと含んで、満ち足りた笑みを浮かべた達也を見て、深雪は心から嬉しそうな微笑を浮かべた。
「うん、紅茶も美味しいけど、このショートブレッドもとても美味しい。
 これは深雪が作ってくれたんだろう?」
「はい、あの……少し、不揃いになってしまいましたけど」
「いや、全然気にならないよ。
 本当に美味しい」
 恥ずかしそうに俯いていた深雪は、次から次へとショートブレッドへ手を伸ばす兄の様子に、つられるように顔を上げ、やがて、ニコニコと幸せそうな笑顔になった。
 風間の電話は、達也も話題にしなかったし、深雪も訊こうとはしなかった。
 達也の口は、妹が作ったお茶菓子を食べ、妹が苦労して手に入れた紅茶を味わうのに忙しかったし、深雪のティータイムは、兄の満足げな顔を見るだけで充たされていた。

◇◆◇◆◇◆◇

 改めて明記するまでも無く、深雪は自他共に認める優等生である。
 生来の才能だけでなく、努力も怠らない。
 兄の世話を焼く傍ら、毎晩遅くまで勉学に勤しむ。
 今日もそろそろ日付が変わろうかという時間になってようやく、電子粉流体ディスプレイ(いわゆる電子ペーパー)のスイッチを切り、デスクに収納して立ち上がった。
 今日はまだ、それほど疲れていない。
 このまま神経が興奮した状態ですぐにベッドに入ったのでは、なかなか寝付けないであろうことは、経験則で分かっている。サウンドスリーパーを使えばそんなことにはならないだろうが、今や普及世帯率が国内で七十パーセントに達しているこの機械を、彼女の兄は毛嫌いしている。達也が否定しているテクノロジーを、深雪が使用するはずも無かった。
 気分転換に、紅茶でも淹れよう、と深雪は思った。
 無論、夜更かしをする兄の為に、である。
 散々苦労して、稀少品であるマスカテルの中でも最高レベルの物を手に入れた甲斐あって、今日のお茶は凄く喜んでもらえた。兄の笑顔を思い出すだけで良い夢が見られそうな気もしたが、寝る前にもう一度本物を見て、更に、頭を撫でてでももらえれば言うことは無い。
 キッチンへ向かおうとして、ふと目に入った姿見の前で足を止め、少し、考え込む。
 小さく頷いた深雪の顔に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

◇◆◇◆◇◆◇

「お兄様、深雪です。
 お茶をお持ちしました」
「ちょうど良かった。入って」
 この時間に深雪がお茶やコーヒーを持って行くのはほぼ日課と言ってもよかったが、いつもは済まなさそうに礼を言う兄が見せた、明らかに彼女を待っていたような応答に、深雪は小首を傾げた。
 だが、待っていてもらえたのは、むしろ嬉しいことだ。
 兄がどんな顔をするのか少しわくわくしながら、深雪は達也が研究室に使っている地下室に入った。
「ちょうど、呼びに行こうかと思っ――」
 ――ていたところだ、と続けるはずの台詞は、沈黙に取って代わられた。
 椅子に座ったまま振り返った兄の、まじまじと自分を凝視する顔に小悪魔的な満足を覚えて、深雪はトレーを片手で保持したまま、空いている手でスカートの裾をちょこんと抓み、外連味たっぷりに膝を折って一礼した。
「…………ああ、もしかして、フェアリー・ダンスのコスチュームか?」
「正解です。よくお分かりですね、お兄様」
 ヒラヒラとなびくカラフルなシルクテイスト・オーガンジーが幾重にも重ねられたミニスカートと、綺麗な脚のラインを惜しげもなく見せ付ける薄手のレギンスにエナメル調のタイトなショートブーツ。
 ウエストを絞った後ろ開きのベストは厚みの感じられない光沢素材で作られており、縫製によるものではなく素材自体に曲面を持たせた精確な立体成形で胸をしっかりガードしている。
 ベストの下は、肩の部分に余裕を持たせ腕にピッタリと貼り付くレギンスと同じ柄のシャツ。いや、もしかしたらレギンスとシャツではなく、袖の長いユニタードなのかもしれない。ベストが無ければ女子フィギュアスケートの衣装に似ている。
 そして、長い髪を纏めているのは羽の飾りがついた、イヤーパフのような幅広のカチューシャ。
 この、空気抵抗と胸部保護を考慮しながら華やかさを兼ね備えた装いは、九校戦でも採用されているスポーツ系魔法競技の花形、ミラージ・バット、別名フェアリー・ダンスのコスチュームに違いなかった。
「如何ですか?」
 トレーをサイドテーブルに置き、ニッコリ笑ってクルッと回ってみせる深雪。
 フワッと浮かび上がるスカートが、丈の短さにも拘らず、しなやかになびく髪と相俟って、言いようも無くエレガントだった。
「とても可愛いよ。とてもよく似合っている。それに、ジャストタイミングだ」
 正面を向いたところでターンを止めて、今度は両手でスカートを抓み膝を折る深雪を、達也は手放しで褒め称える。
「ありがとうございます……?」
 兄が褒めてくれることについては、百パーセント確信していた。故に、お辞儀したまま紡ぎ出す台詞も、一種類しか用意しておらず、また、一種類で事足りた。
 だが、達也の台詞の最後のフレーズが理解できず、予定の返礼は、予定外の疑問形になってしまった。
 膝と腰を伸ばし、椅子に座ったままの達也を見上げる(・・・・)
 いつもの目線で「ジャストタイミング」の意味を問おうとして、深雪は強い違和感を感じた。
 正体はすぐに分かった。
 腰を下ろしているにもかかわらず、達也の目がいつもの、立って並んでいる時の高さにある。
 慌てて下を見て、深雪は息を呑むことになった。
 そこにはあるべきものが――椅子が無かった。
 達也は、右脚を上に脚を組み右膝の上に右肘をつき、身を乗り出すような体勢で……何も無い空中に座っていた。
「深雪にも、このデバイスのテストをして欲しかったんだ」
 達也はそのままの姿勢でスーッと滑るように深雪へ近づいた。手が届く距離まで接近して止まり、身体を起こして脚を解き、椅子から立ち上がる時の動作で足を伸ばす。
 そうすることで、彼の身体は自然に床の上へ復帰した。
「……飛行術式……常駐型重力制御魔法が完成したんですね!」
 呆然としたのは僅かな間。
 深雪は抱きつくような勢いで兄の手を取って、歓声を上げた。
「おめでとうございます、お兄様!」
 それは、達也がずっと研究していた魔法だった。
 系統魔法、四系統八種の最初に挙げられる「加速・加重」系統。
 それは単純なサイコキネシスから発展した、現代魔法では最も基本的とされる系統魔法だ。
 だが、加速・加重系統により理論的に実現可能な飛行術式、常駐型重力制御魔法は、その可能性が現代魔法学確立の初期から提唱されているにもかかわらず、公式に発表されている限りにおいて、今日まで実現していない。
 飛行術式は、理論的には可能でも実行は不可能に近いというのが現代魔法学のコンセンサスだった。
 しかし今、深雪の目の前で、現代魔法学の定説がまた一つ、覆された。
「お兄様はまたしても、不可能を可能にされました!
 わたしはこの歴史的快挙の証人になれたことを、この快挙を成し遂げたお兄様の妹であることを、誇りに思います!」
 今にも抱きつかんばかりに彼の右手を握り締める妹の両手を、達也は優しく左手で包み込んだ。
「ありがとう、深雪。
 空を飛ぶこと自体が目的ではなかったし、古式魔法では既に実現している飛行術式だが、これでまた一歩、目標に近づくことが出来たよ」
「古式魔法の飛行術式など、事実上BS魔法師にしか使えない、属人的な異能ではありませんか。
 お兄様の飛行術式は、理論的に必要な魔法力を充たしていれば、誰にでも使えるのでしょう?」
「一応、そういう風に作ったつもりだ。
 それを深雪にもテストして欲しいんだが」
「喜んで!」
 深雪は目を輝かせて、大きく頷いた。

 術式の説明を受けた深雪は、左手に握る、調整を終えたばかりのCADに目を落とした。
 いつも深雪が使っている物と同じ、携帯端末形態のCAD。
 だが大きさは、小型化が進んだ深雪のCADより更に小さく、彼女の小さな掌の中にすっぽり納まる程度。
 似ているのは携帯端末形態という点だけだ。
 このCADは、特化型のデバイスだった。
 特化型は使い慣れていなかったが、操作方法は至極簡単だ。
 オン・オフのボタンがあるだけで、一旦スイッチをいれるとそれをオフにしない限り、バッテリーが尽きるまで使用者から自動的にサイオンを吸い取って起動式を処理し続けるという、ある意味暴力的と言える代物だった。
 但し、サイオンの使用量は限界まで抑えられている。
 ユーザーの負担を最小限のものとする工夫が、設計上の基本コンセプトになっていた。
「始めます」
 抑えきれない緊張に、ごくりと喉が動いた。
 呑み込むべき水分は、口内に残っていなかった。
 手が震えていないのを、自分で褒めてやりたい、と深雪は思った。
 もし自分がこのテストに失敗しても、兄は自分を責めたりしない。
 その代わり兄は一から、この「飛行デバイス」の設計をやり直すだろう。
 自分の力不足で兄にそんな無理をさせるのは、絶対に嫌だった。
 CADのスイッチを入れる。
 何も意識しなくても、自分の身体からサイオンが吸い取られていくのが分かった。
 但し、意識していなければ、気がつかない程の、微量の吸収。
 日常的に放出している、余剰サイオンの流量に毛が生えた程度の規模に過ぎない。
 そう気付いたときには、起動式が魔法演算領域に写し取られていた。
 予め教えられてはいたが、驚くほど小規模な(・・・・)起動式だ。
 深雪の処理能力なら、同じものを数十個同時に処理してもまだ余裕がありそうな程に。
 それでいながら、必要な要素は余すことなく記述されている。
 徹底的に無駄を削ぎ落とし効率化された、洗練の極みにある起動式だ、と深雪は思った。
 起動式の変数部分にデータをインプットして魔法式を構成する。
 通常ならば、このプロセスを魔法師が意識することはない。
 魔法師は現実に対する改変を、言語、数式、若しくは映像により、明瞭にイメージして無意識領域へ送る。
 このイメージを魔法式のインプットデータに変換するのが魔法演算領域の役割であり、イメージを補完するのが起動式の役割だ。起動式の変数部分とは、魔法師が特に強くイメージしなければならない部分を指す。
 魔法師は自分の中に読み込まれた起動式を認識し、自分の中で構築された魔法式を認識することが出来る。しかし、魔法式を構築する処理そのものは、本人の意思が及ばぬ半自動プロセス。
 またそうでなければ、人間の情報処理能力で物理現象を改変するに足る情報体の作成など、出来るはずもなかった。
 深雪は、天井の高さまで浮かび上がる自分をイメージした。
 その途端、重力の束縛が消えた。
 五感から自重という情報が消えて、自分の身体が無くなってしまったような錯覚が、軽いパニックをもたらす。
 しかし、それ以上の快感が深雪の心を満たした。
 空を飛ぶとは、これほどの解放感をもたらすものなのか。
 これと同じ快感を得てきたであろう宇宙飛行士に嫉妬しそうだった。
 同時に、狭い船内やゴテゴテとした宇宙服を着なければこの快感を味わうことの出来ない彼らに、憐れみを覚えた。
 こんな地下室ではなく、大空を自由に飛んでみたい、と深雪は思った。
「どうだ? 起動式の連続処理が負担になったりしていないか?」
 兄の声に、ハッと現実に引き戻された。
 大切な実験中、快感に溺れそうになった自分を、深雪は恥ずかしいと思った。
 だが今は、自己嫌悪に浸っている場合でもない。
 しっかりしなさい、深雪、と心の中で自分を叱りつけて、深雪は兄の質問に答えた。
「大丈夫です。頭痛も倦怠感もありません」
「良かった。
 じゃあ次は、ゆっくり水平移動してみてくれ。
 慣れてきたら徐々にスピードを上げて、思うように飛んでみてくれないか」
「分かりました」
 兄に言われたとおり、ゆっくりと水平に移動する自分をイメージする。
 自動的に展開・複写されている極小規模の起動式から、重力のベクトルを水平方向に改変する魔法式が構築される。
 この飛行デバイスの仕組は、連続的に処理される起動式による魔法の連続発動。
 変数の代入値は、新たなイメージが演算領域に読み込まれない限り、前の値を引き継ぐようにプログラムされている。
 同じ起動式を魔法演算領域内で複製し変数代入のみを求めるループキャストと、いわば対を成すシステムだ。
「魔法の断続感は無いか?」
「ありません。
 流石はお兄様です。
 タイムレコーダー機能は完璧に作動しています」
 このシステムの要は、発動中の魔法の発動時点を正確に記録する機能。
 こういうデジタルな処理は、人間には不向きなもので、機械により補完してやらなければならない部分である。
 魔法技能のみによる飛行に拘っていては、このシステムは到底実現不可能なものだった。
 達也に指示されたように、深雪は徐々に飛び回るスピードを上げた。
 スピードだけでなく、ターン、スピン、宙返りなど、自由自在に空中を舞い踊る。
 軽やかになびくスカートとしなやかに撥ねる長い髪。伸び、反らされたはずみに露わとなる優美なライン。
 いつしか達也は観察者の立場を忘れ、思いがけない天女の舞に忘我となって見とれていた。


※*※*※*※*※*※

◎飛行術式に関する研究ノート(司波達也)

 加速・加重系統を得意とする魔法師は、数十メートルをジャンプすることが出来る。
 世界には百メートルを超える高飛び記録を樹立した魔法師もいる。
 また、空中で落下速度を緩めることも出来る。
 二千メートルの高度から、素潜りならぬ素飛び降りを成功させた魔法師もいる。
 だがこれまで、空を飛ぶことに成功した魔法師はいない。
 短時間、浮かぶことは出来るが、そのまま浮かび続けることが出来ない。
 浮かんだまま移動することも出来ない。
 魔法式は、現実を改変する現象の種類、方向性、強度、座標等と共に、必須項目として終了条件を定義しなければならない。
 現象としての終了条件が定義できない魔法は、時間で終了条件を定義する。
 百メートルを飛び上がる、という魔法は、到達高度という終了条件が決まっているが故に、持続時間の定義が必要ない。二千メートルの高度から飛び降りる、という魔法は、対地高度ゼロの時点で落下速度をゼロにする、という終了条件が定められるから、落下に要する時間を計算する必要は無い。(但し飛び上がる場合は、加速度を定義する代わりに持続時間を定義することで、自動的に加速度を調整することが多い。今日普及している起動式は、持続時間の定義が不要な場合も持続時間を変数としているものが一般的であり、魔法の効率を損なう要因となっている)
 だが浮遊の魔法は、ただ空中に浮かぶことが目的であって、魔法発動時点で目的地が決まっていない。それ故に、時間で終了条件を定義しなければならない。
 既存の浮遊術式は必ず制限時間付きであり、魔法師に余力があっても、発動時点で定義した時間を延長する為には、改変中のエイドスに対して新たな改変を行わなければならない。
 これはつまり、自分の魔法に対して、新たな魔法を上書きしなければならないということだ。
 発動中の魔法に別の魔法を上書きする為には、より強い干渉力が必要となる。
 また、翼も推進機関も無く空中を移動する為には重力の作用する方向と強さを変えるしかない。浮遊という現象改変中に重力のベクトルを変えるという新たな現象改変を付け加える場合も浮遊時間延長と同じく、上書きを可能とする干渉力が必要となってしまう。
 つまり従来のアプローチで飛行魔法を実現する為には、干渉強度を段階的に引き上げながら魔法を発動し続けるというテクニックが必要となる。
 だが、同一の結果を得る魔法を、異なる干渉強度で連続的に発動する、などという職人芸は、現実には不可能だった。
 普通は、エイドスに対する改変の規模に応じて、干渉強度は自動的に決まる。
 広域干渉のように、最大の干渉強度で、という発動の仕方は可能でも、干渉強度を意識的に調整するとなると、使い分けが出来てもせいぜい五〜十段階程度。
 そもそも揚力にも浮力にも頼らず、重力に逆らって空中に浮かぶという現象は、自然現象に著しく反するものであり、強いエイドス干渉力が必要になる。
 ただでさえ強い干渉力が必要となる魔法を、干渉強度を段階的に高めながら連続発動するなど、理論的には可能でも現実には不可能に等しい、というのが今日における魔法学界のコンセンサスだった。
 しかしこれは、魔法を上書きし続けることに限界があるのであって、飛行術式そのものが不可能であることを意味しない。
 そもそも一つの術式は、複数の魔法工程を組み合わせて現象の改変を行うものであり、一つの対象物に複数の魔法を同時に発動することは当たり前に行われている。
 要するに、ある種の魔法工程が発動している最中に、これと相反する現象改変を行う魔法を発動させることに無理が生じているのだ。
 相対高度十メートルの座標に十秒後まで浮かび続けるという術式が発動して二秒後に、相対高度五メートルまで五秒で下降して五秒間静止するという術式を実行しようとすると、定義された現象改変が相克を起こし、より強い干渉力による強制的な魔法の上書きが必要となる。
 では例えば、相対高度十メートルの座標に十秒後まで浮かび続けるという術式が発動して十秒後に、相対高度五メートルまで五秒で下降して五秒間静止するという術式を実行しようとしたならばどうか。
 十秒間経過時点で前の術式は効力を失っており、次の術式発動の瞬間、対象物には何の現象改変も行われていない。対象物はまさに自由落下を開始しようとしている状態にある。五秒間で五メートル下降して五秒間静止するという術式は何の相克も起こさない。
 更に、その術式発動十秒後に、相対高度二十メートルまで二秒で上昇して八秒間静止するという術式も、更にその術式発動十秒後に水平方向へ重力加速度で五秒間移動するという術式も、相克無しに発動する。
 つまり短時間で効力の切れる魔法を途切れ目無く連続的に発動することで、魔法の上書きによる限界に突き当たることなく、自在に空中を浮遊し移動する飛行術式が可能となる。
 試作した飛行術式用のCADは、コンマ五秒毎に起動式が展開され、発動中の魔法の発動時点からコンマ五秒後に継続時間コンマ五秒で作用するよう設定された魔法式が連続して構築されるようになっている。
 即ち、コンマ五秒ごとに新たな術式を発動し、飛行状態を変更する仕様となっている。
 この間隔は、使用する魔法師の処理速度に応じて調整されるべきものである。
 継続時間を極めて短時間に設定すれば、本来ならば負担の大きい重力制御魔法も小さな負荷で発動できるし、他の魔法を多重発動する余裕も生じる。
 変数のインプットはループキャストのロジックを逆転させ、新たな入力が完了しない限り、前の入力値を引き継ぐようにプログラムした。新たなインプットの最中であっても、それが完了していない限り、同じ状態が維持される。空中に静止中は同じ場所に浮かび続け、加速中は同じ加速度で、等速飛行中は同じ速度で飛行を続ける。
 尚、魔法の発動時点とそこからの経過時間を記録するシステムはソフトウェアにより実装しているが、普及にはハードウェアの実装が望ましい。
 また、術者から自動的にサイオンの供給を受けるシステムについても、現在のソフトウェアによる処理からハードウェアによる処理が望ましい。
 この点については、牛山主任に相談してみなければならない。


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