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 この物語はフィクションです。
 この物語の舞台はこの世界とよく似た別の世界であり、実在もしくは歴史上の人物、団体、国家、領域その他固有名称で特定される全てのものとは、名称が同一であっても何の関係もありません。
第一章・入学編
1−(23) 剣と魔法
 紗耶香は目の前で行われている作業を、複雑な心境で見詰めていた。
 機密文献――この国の魔法研究の、最先端を収めた文献資料にアクセスできる校内唯一の端末に、ハッキングを仕掛けている同士――「ブランシュ」のメンバー。
 しかし、魔法による差別の撤廃を目指しているはずの自分たちに、何故、魔法研究の最先端資料が必要となるのだろうか。
 リーダーは、魔法学の研究成果を広く公開することが、差別撤廃の第一歩になると言っていた。
(でも、魔法を使えない人に魔法理論を公開することに、意味があるとは思えない……)
 何度も心の中でリフレインされた疑問が、再び脳裏に蘇る。
 魔法を使えない人に、魔法学は役に立たない。
 ある意味即物的な魔法理論には、宗教的な精神性も無い。
 最先端の魔法研究の成果を欲しがる者がいるとすれば、それは、魔法を利用しようとしている者たちではないか……?
(ううん、きっと、魔法が使えない人たちにも役に立つ研究成果が、秘匿されているのよ……)
 自分を納得させる為に考えた理屈。
 だが、何度心の中で繰り返してみても、自分を納得させる事は、出来なかった。
「……よし、開いた」
 小さく、ざわめきが走る。
 慌しく準備される記録用ソリッドキューブ。
 同士の――彼らの顔に、確かに「欲」が過ぎったような気がして、紗耶香は目を背けた。
 扉の方へ。
 だから、気がついたのは、彼女が一番早かった。
「ドアが!」
 彼女の悲鳴に、残りのメンバーが一斉に振り向く。
 その視線の先で、四角に切り取られたドアが、内側に倒れた。
「バカな!?」
 驚愕の叫びは、事実に照らせば、控え目なものと言えただろう。
 物理的に強固な物体は、エイドスの可変性も小さい。
 対戦車ロケットの直撃に耐える複合装甲の扉を魔法で破壊する事は、確かに、不可能では無い。
 だがその為には、加重に依るにせよ振動に依るにせよ溶解に依るにせよ、同一の工程を幾重にも重ねた、大規模な魔法式を構築しなければならないはずだ。
 こんな一瞬の、静かな(・・・)破壊など、あり得るはずが無い!
 常識外の光景に意識も動作も凍りつかせた男たちの手許で、記録キューブが砕け散った。
 続いて、ハッキング用の携帯端末が、製造工程を高速逆回転させたかの如く分解した。
 接続されたデバイスからの信号が突如途絶え、閲覧用端末がロック状態になる。
「産業スパイ、と言っていいのかな?
 お前たちの企みは、これで潰えた」
 銀色に輝く拳銃形態の特化型CADを右手に構え、淡々とした口調で終わりを告げる、見知った人影。
 その背後には、携帯端末形態のCADを構えた華奢な人影が淑やかに控えている。
 彼ら兄妹の表情には少しも興奮の色が無く、自分たちが犯罪行為を働いている最中ということを、忘れそうになる。
「司波君……」
 呟いた紗耶香の隣で、右腕を上げる動き。
 降参のサイン、ではなく、実弾銃を後輩へ向ける、仲間の男。
 この男は第一高校生では無い。
 学生ですらない。
 リーダーが連れて行くように指示した男だ。
 その、リーダーが直接指名した仲間が示した、明白な、殺人の意思。
「っ!」
 だが、人の命を容易く奪う弾丸は、発射されなかった。
 声にならない悲鳴を上げて、男が床をのた打ち回る。
 その右手は拳銃を握ったまま、いや、拳銃が、その手に貼りついていた。
 男の右手は、紫色に腫れ上がっていた。
「愚かな真似はお止めなさい。わたしが、お兄様に向けられた害意を見逃すなどとは、思わないことです」
 その口調は静かで、丁寧で……威厳に満ちていた。
 余りにも、格が違う。
 何をしても、敵わないと分かる。
 耳にするだけで、反抗の意思が凍り付いてしまいそうな声だった。
「壬生先輩。
 これが、現実です」
「えっ……?」
 焦点の合っていなかった目が、焦点を結ぶ。
 彼女を正面から見詰める、後輩の無表情な目の中に、微かに見える感情は、
「これが、他人から与えられた、耳当たりの良い理念の、現実です」
 憐れみ?
「どうしてよ!?
 何でこうなるのよ!?」
 そう感じた瞬間、紗耶香の中で、彼女自身にもよく分からない感情が、爆発した。
「差別を無くそうとしたのが、間違いだったというの!?
 平等を目指したのが、間違いだったというの!?
 差別は、確かに、あるじゃない!
 あたしの錯覚なんかじゃないわ。
 あたしは確かに、蔑まれた。
 嘲りの視線を浴びせられた。
 馬鹿にする声を聞いたわ!
 それを無くそうとしたのが、間違いだったというの!?
 貴方だって、同じでしょう!?
 貴方はそこにいる出来の良い妹と、いつも比べられていたはずよ。
 そして、不当な侮辱を受けてきたはずよ!
 誰からも馬鹿にされて来たはずよ!」
 紗耶香の叫びは、確かに、心からの嘆きだった。
 心の底からの絶叫だった。
 だがその叫びは、達也の心には届かない。
 達也はただ、彼女が叫んでいる言葉の「意味」、彼女が叫んでいるという「現象」を認識するだけだ。
 そこに、嘆き叫ぶ少女がいると、認識するだけだ。
 紗耶香の見た憐れみの光は、彼女の自己憐憫が作り上げた錯覚でしかない。
 紗耶香の叫びは、それを浴びせかけた少年の心に届かず――その傍らの、少女の心に届いた。
「わたしはお兄様を蔑んだりはしません」
 静かな声だった。
 だがその声には、紗耶香の嘆きを沈黙させる感情――怒りが込められていた。
「仮令わたし以外の全人類がお兄様を中傷し、誹謗し、蔑んだとしても、わたしはお兄様に変わることのない敬愛を捧げます」
「……貴女……」
「わたしの敬愛は、魔法の力故ではありません。
 少なくとも、俗世に認められる魔法の力ならば、わたしはお兄様を数段上回っています。
 ですがそんなものは、わたしのお兄様に対するこの想いに、何の影響力も持ち得ません。
 そんなもので、わたしのお兄様に対する想いは、微塵も揺らぐものではありません。
 そんなものは、お兄様の、ほんの一部に過ぎないと知っているからです」
「…………」
「誰もがお兄様を侮辱した?
 それこそが、許し難い侮辱です。
 お兄様を侮辱する無知な者共は、確かに存在します。
 ですが、そのような有象無象の輩と同じくらい、いえ、それ以上に、お兄様の素晴らしさを認めてくれている人たちがいるのです。
 壬生先輩、貴女は、可哀想な人です」
「なんですって!?」
 声だけは、大きかった。
 だがそこに、力は無かった。
「貴女には、貴女を認めてくれる人がいなかったのですか?
 魔法だけが、貴女を測る全てだったのですか?
 いいえ、そんなはずはありません。
 そうでない人を、わたしは少なくとも一人、知っていますから。
 誰だと思いますか?」
「…………」
「お兄様は、貴女を認めていましたよ。
 貴女の剣の腕と、貴女の容姿を」
「……そんなの、上辺だけのものじゃない」
「確かにその通り、上辺だけのものです。
 でも、それも確かに、先輩の一部であり、先輩の魅力であり、先輩自身ではないのですか」
「…………」
「上辺なのは当たり前です。
 お兄様と貴女が直接顔を合わせたのは、まだこれで、四回目なのですよ。
 たった四回、会っただけの相手に、貴女は何を求めているのですか」
「それは……」
「結局、誰よりも貴女を差別していたのは、貴女自身です。
 誰よりも貴女のことを劣等生と、『雑草』と蔑んでいたのは、貴女自身です」
 反論は、出来なかった。
 反論しようという考えすら、浮かばなかった。
 その指摘は、思考が漂白されるほどのショックを、紗耶香に与えた。
 考えることを止めたとき、
 人は、自らの意思を放棄する。
 棄てられた意思の抜け殻に、悪魔の囁きは忍び込む。
 否、この場合は、傀儡師の囁きか。
「壬生、指輪を使え!」
 今の今まで、無様にも、十六歳の少女の背中に隠れていた男。
 その男が突如叫んだ。
 悲鳴にも似た叫び声と共に、床に向かって腕を振り下ろした。
 小さな発火音と、白い煙。
 同時に広がる、耳障りな不可聴の騒音。
 それはサイオンのノイズ。
 魔法の発動を阻害する、キャスト・ジャミングの波動だった。
 三つの足音が煙の中から聞こえた。
 達也は二度、手を突き出した。
 煙の中の掌底打ち。
 彼の目は閉じられている。
 鈍い、肉を打つ音が二度、床を叩く音が二度、鳴った。
「深雪、止せ」
 指示を出したのは、その合間。
 深雪が編纂していた魔法式は、すぐに別のものに変わった。
 風が渦を巻き、白い煙を吸い込んで行く。
 ピンポン球の大きさまで圧縮された煙は、空中に出現したドライアイスに閉じ込められて床に落ちた。
 視界が回復した部屋に、三人の男が横たわっている。
 凍傷の激痛に転げ回る一人の男と、
 顔面に痣を作って昏倒した二人の男。
「お兄様、壬生先輩を拘束せずとも良かったのですか?」
 深雪が不思議そうに訊ねた。
 そこに、達也の下心を疑う憶測はない。
 達也の女性関係を深雪が勘繰ってみせるのは、兄妹の他愛もないコミュニケーションに過ぎないのだ。
 達也がその手の私情を差し挟まないことを、深雪は良く知っている。
「お前の腕を疑う訳ではないが、不十分な視界の中では思わぬ番狂わせもあり得る。
 お前がリスクを冒さなくても、壬生先輩はエリカが確保してくれるさ」
「エリカがそこまで熱心になる理由は無いと思いますが……」
「相手が壬生先輩でなければな」
 深雪には、特定の敵に拘る気持ちというのは、良く分からない。
 彼女にとって戦いはまず避けるべきものであり、次に、勝利すべきものだからだ。
 相手が誰であろうと、それは同じ。
 相手が何者であろうと、敵であるということ以外は、無関係。
 だが、仕合う相手に拘る者もいることを、知識としては知っていた。
「そうですか。エリカならば大丈夫でしょう」
 だから彼女のことはエリカに任せ、深雪はテロリストにして窃盗犯を拘束する兄を、手伝うことにした。

◇◆◇◆◇◆◇

 紗耶香の行動は、ほとんど反射的なものだった。
 アンティナイトの指輪は、逃走用に貸し与えられた切り札。
 彼女も「魔法遣い」としての教育を受けている者として、キャスト・ジャミングの性質と限界は知っていた。
 いや、これを実際に使用するに当たり、普通の魔法師候補生より詳しい知識を身につけた。
 この指輪に、魔法師を倒す力は無い。
 魔法を妨害するだけのキャスト・ジャミングは、魔法による攻撃を避けることにしか、役に立たない。
 あの一年生には、それでは勝てない。
 あの時見せられた、見たこともない、鮮やかな技。
 あの一年生の武量は、目に焼き付けられている。
 指輪を貸し与えられたとき、リーダーにも、何度も、念を押されていた。
 この指輪は、逃走の為に使え、と。
 目に焼き付けられた光景と、耳に刻み込まれた言葉が、彼女の四肢を操っていた。
 背中越しに聞こえた床を叩く音。
 彼女の後に続く者は無い。
 仲間が打ち倒されたのは分かっていた。
 だが、思考が麻痺した彼女には、助けに戻るという選択肢も思い浮かばない。
 ただ、計画失敗時のマニュアルに従い、組織の中継基地へ帰還する、という強迫観念に支配され、廊下を走り階段を駆け下りる。
 そこで、足が止まった。
「セーンパイ♪
 はじめまして〜」
 一人の女子生徒――紗耶香を「先輩」と呼ぶからには一年生だろう――が、両手を後ろに組んで、ニコニコと微笑みながら彼女の前に立ちはだかったからだ。
「……誰?」
 警戒心をむき出しにした声。
 だが、一年生の朗らかな表情に、変化は無い。
「1−Eの千葉エリカです。
 念の為に確認させて頂きますが、一昨年の全国中学女子剣道大会準優勝の、壬生紗耶香先輩ですよね?」
 正体不明の衝撃が、紗耶香を襲った。
 意識の陰、自分では見えない心の何処かに、竹刀で打ち据えられたような痛みが走った。
「……それがどうかしたの」
 その衝撃を、痛みを隠して、問い返す。
「いえいえ、どうもしませんよ?
 ただ確認したかっただけです」
 エリカは相変わらず、両手を背中で組んだままだ。
 だが、隙が無い。
 彼女のスレンダーな身体は、廊下を塞ぐには程遠いが、すり抜けて通る「隙間」が見当たらない。
 それに……背後に隠されたその両手は、素手なのだろうか?
 何も、持っていないのだろうか?
「……急いでいるの。通してもらえないかしら」
 背後から、追いかけてくる気配は無い。
 だが彼ならば、気配を隠して近づくことなど朝飯前かもしれない。
 紗耶香は焦る気持ちを抑えて、できるだけ穏便に話しかけた。
 ――もっとも、このままここを通り抜けられる可能性は、ゼロに等しいことも分かっていた。
「一体どちらへ?」
「貴女には関係ないでしょう」
「答えるつもりは無い……ということですね?」
「そうよ」
「交渉決裂ですね♪」
 楽しそうに告げるエリカ。
 無茶苦茶な言い分だが、最初から彼女を通すつもりの無い事は、紗耶香にも分かり切っていたことだった。
 紗耶香は素早く、左右を見た。
 生憎彼女は、得物を持っていない。
 CADは身につけているが、魔法を使うつもりなら、自分が有する唯一のアドバンテージである、キャスト・ジャミングは使えなくなる。
 視界の隅に、銀灰色の棒が転がっていた。
 彼女の仲間が持ち込んだスタンパトンだ。
 少しリーチが短いが、慣れ親しんだ得物の代用にはなる。
 紗耶香はゆっくりと、悟られないように重心を落とした。
 身体の力を足に集め、
 一気に、跳躍。
 転がるようにしてバトンを拾い上げ、すかさず、道を塞ぐ女子生徒へ向けて構える。
 エリカはそのさまを、呆れ顔で眺めていた。
「そんなに慌てなくても、得物を手に取る間くらい待ってあげるのに……」
 かぁっ、と紗耶香の顔に血が上った。
 一人芝居ならぬ、一人アクションの気まずさと気恥ずかしさを誤魔化すように、エリカを鋭く睨みつけて叫んだ。
「そこをどきなさい! 痛い目を見るわよ!」
「これで正当防衛成立かな。
 まっ、そんな言い訳をするつもりも無いけど」
 エリカは興が醒めたような声で呟くと、背中に隠していた手を前に回した。
 右手には伸縮式の警棒、左手には本身の脇差。
 そして、左手の得物をポイッと投げ捨てた。
「じゃあ、やりましょうか、先輩」
 そう言って、エリカは右手を前に掲げた。
 紗耶香もまた、構えを取った。
 得物を正面に、右手に左手を添える。
 諸手中段の紗耶香と、片手半身のエリカ。
 始まりは唐突だった。
 切っ先(剣先)合わせも気合も無い。
 動いた、と見えた瞬間、エリカの警棒が紗耶香の首筋に迫っていた。
 咄嗟に手を撥ね上げる。
 身体に刷り込まれた、反射的な防御によって、辛うじてその攻撃を防ぎ止めた、と思った次の瞬間、相手は紗耶香の背後に回り込んでいた。
 振り向きざま、勘だけでバトンを縦に立てる。
 弾き飛ばされそうな衝撃を、手の内を締めて持ちこたえ、鍔迫り合いに持ち込もうとしたが、その瞬間には、相手の身体は間合いの外だった。
「加速術式……?」
 呟く紗耶香。
 エリカは応えない。
「……渡辺先輩と、同じ?」
 だが、続いて放たれた言葉が、エリカの足を止めた。
 それは一瞬の停滞、だが、転機を作り出すには十分な、間。
 再び踏み出しかけたエリカの足を、廊下を満たした耳障りな騒音が止めた。
 耳には聞こえぬ、サイオンのノイズ。
 顔を顰めたエリカへ向けて、紗耶香が攻勢に転じる。
 息もつかせぬ連続攻撃。
 面、面、小手、胴、袈裟切り、切り上げ、面、逆袈裟……
 その剣筋は、スポーツとしての剣道だけでなく古流もしっかりと学んでいることを窺わせるものだった。
 攻めること、火の如く。
 風林火山の金言のままの、まさしく、烈火の如き攻撃。
 いつの間にか、サイオンのノイズは消えていた。
 それは当然のことだった。
 キャスト・ジャミングは、アンティナイトにサイオンを注入することで発動する。
 サイオンの注入が止まれば、ノイズの発生も止まる。
 屋内を満たすノイズも、やがては減衰し消滅する。
 剣撃に全精力を注ぎ込んでいる今の紗耶香に、キャスト・ジャミングを維持できるはずも無かった。
 いつでも魔法を発動できる状態、そして、如何に鋭く、激しい攻撃であっても、魔法を併用したスピードについていける程のものではない。
 それなのに、エリカは魔法を使おうとしなかった。
 魔法式を編み上げる余裕が無いのだろうか?
 エリカはコンパイルの実技に苦労していた二科生だ。
 しかし、エリカのCADは高速化に優れた特化型で、エリカはこの特殊な形状のCADに習熟している。
 それに刻印術式の方には、キャスト・ジャミングの影響下においてすら、サイオンが安定的に供給されていた。
 突き放して距離を取れば、得意魔法の発動は十分可能なはずだった。
 突き放すことも出来ないほど、追い詰められているようにも見えない。
 烈火のように、という賛辞とは裏腹、紗耶香の攻撃はガムシャラとも言えるものだった。
 それをエリカは、無駄のない動きで、受け止め、捌いている。
 その目に、焦りは無い。
 呼吸に、乱れは無い。
 先に乱れたのは、攻め疲れの見えた紗耶香の方だった。
 瞬転。
 攻守が、入れ替った。
 切り上げの一撃を擦り上げ、棒立ちとなった紗耶香のバトンへ横薙ぎに叩きつける一閃。
 根元を狙った一撃は、木刀や棍棒に比べて造りの脆いスタンバトンをへし折った。
「…………」
 眼前に突きつけられた警棒を、紗耶香は怯まず睨みつける。
 その目には、強い怒りがこもっていた。
「拾いなさい」
 得物を動かさず、エリカが告げる。
「…………」
 意味を理解できなかった紗耶香は、何も、応えない。
「そこに転がっている脇差を拾って、貴女の全力を見せなさい。
 貴女を縛るあの女の幻影を、あたしが打ち砕いてあげる」
 突きつけられた警棒に構わず、膝を屈める紗耶香。
 脇差を拾い、再び、構えを取る。
 と、何を思ったのか、構えを解いて左手を右手に添えた。
 右手中指に光る、真鍮色の指輪。
 それを抜き取って、床へ投げ捨てた。
「こんな物には頼らない。
 あたしは自分の力で、その技を打ち破る」
 紗耶香が、刃を返した。
 峰打ちは刀の構造を無視した打撃であり、徒に刀を折るリスクを増やすものだ。
 そのリスクを負っても、人を殺すことへの躊躇いが剣尖を鈍らせてしまうことを嫌った、構え。
「あたしには解る」
 構えを取って向き合い、
「貴女の技は、渡辺先輩と同門のものだわ」
「あたしの技は、あの女のものとは一味違うわよ」
 互いに一言ずつ、言葉を交わす二人。
 それきり、沈黙が支配する。
 沈黙が、緊張に替わり、緊張が、緊迫に席を譲る。
 そして緊迫が最高潮に達した瞬間、エリカの姿が消えた。
 刹那の、交差。
 甲高い、金属音が響く。
 視認することも困難な、魔法で加速されたエリカの一撃を、紗耶香は確かに、受け止めた。
 その、一の太刀を。
 紗耶香の手から、脇差が落ちる。
 紗耶香が右腕を押さえて膝をついたのは、その直後だった。
「ゴメン、先輩。
 骨が折れているかもしれない」
「……ひびが入っているわね。
 いいわ、手加減できなかったってことでしょう」
「うん。
 先輩は、誇ってもいいよ。
 千葉の娘に、本気を出させたんだから」
「そう……貴女、あの千葉家の、直系だったの」
「実は、そうなんだ。
 ちなみに渡辺摩利は、ウチの門下生。
 あの女は目録で、あたしは印可。
 剣術の腕だけなら、あたしの方が上だから」
 その言葉に、紗耶香は小さく微笑んだ。
 それは儚くも、屈託の無い笑顔だった。
「そう……
 ねえ、虫が良いお願いなんだけど、担架を呼んでもらえないかしら。
 何だか、気が、遠くなって、ね……」
 そのまま紗耶香は、がっくりと倒れこむ。
 エリカはその身体を、丁寧に抱き起こした。
 気を失った紗耶香に、こっそり、囁きかける。
「大丈夫だよ、先輩。
 優しい後輩が、先輩を運んでくれるから」

◇◆◇◆◇◆◇

「で、俺に壬生先輩を運んで行け、と?」
 達也の当然とも言える疑問に、エリカは一欠片の悪びれた様子も無く頷いた。
「大丈夫、そんなに重く無かったよ」
「いや、そういう問題ではなくてだな」
「可愛い女の子を大義名分つきで抱っこできるんだから、ここは喜ばなきゃ」
「そんなことで喜ぶ趣味は無い……いや、そういう問題でもなくてだな」
「……薄々思ってたんだけど、もしかして達也くんって、女性に興味ないの?
 まさか、そっちの趣味?」
「そっち、って、どっちだよ?」
「ゲイ」
「んな訳あるか!
 だからそういう問題ではなくてだな、担架を呼べばいいものを、何故俺が抱えて行かなきゃならんのだ」
 深雪はクスクス笑っているだけだ。
 達也は蓄積していく徒労感と戦いながら、エリカに常識論を理解させるべく試みる。
 ――ここに至り、既に諦めの心境が相半ばしていたが。
「そんなの、壬生先輩が喜ぶからに決まってるじゃん」
 不覚にも達也は、返す言葉を失ってしまった。
 ここまで理不尽になられると、論理立てた説得は困難だ。
 途方に暮れてしまう、と言ってもいい。
「良いではありませんか、お兄様。
 一刻を争う傷ではないとはいえ、治療は早いに越した事はありませんし。
 お兄様が抱きかかえて行かれるのが、一番手っ取り早いと思います。
 とにかく、このままでは埒が明きませんよ?
 相手はエリカなんですから」
「チョッと深雪、それ、どーゆー意味かな?」
「やれやれ、それもそうだな。仕方ない」
「チョッと達也くん、なにその便乗攻撃?
 二対一なんて卑怯じゃない!」
「あら、わたしはエリカに味方してあげたつもりなのだけど」
「ウソ!
 ぜ〜ったい、ウソ!」
 ギャーギャー騒ぐエリカと涼しい顔で受け流す深雪の微笑ましい(?)コミュニケーションをBGMとばかり聞き流しながら、達也は紗耶香をそっと抱きかかえた。
 勢いをつけて揺すり上げるような真似はしない。
 何処に力が入っているのか分からない、滑らかな動作だった。
「うん、やっぱ、達也くんは凄いワ」
 何をそんなに感心しているのか、エリカは何度も頷いていたが、取り合うとまた長くなりそうだったので、達也はそのまま歩き出した。
 気を失っているはずの紗耶香の顔は、ぐっすりと眠っているように見えた。
 心から、安心して。


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