南相馬市立総合病院の動きは、住民のためとはいえ、総務省―都道府県―市町村の権威勾配を脅かすものでした。
村田副市長は、自分がどのように見られているかを考慮しつつ、注意深く対応すべきでしたが、総務省の権力を客観視できず、当然のものと思っていたので、ただただ不愉快に感じて抑制を失ったのかもしれません。
いずれにしても、福島県の機嫌を損ねたことを理由に、震災で大活躍した南相馬市立総合病院を非難してよいものでしょうか。原発事故後、南相馬市立総合病院の常勤医師は12人から一時は4人にまで減少し、看護師も半減しました。
医師、看護師が中心になって、給食や清掃の外部委託職員がいなくなった中、入院患者を守り抜きました。被災地の病院としては、最も早くから、WBCを導入して内部被曝の検査を行ってきました。
これに対し、福島県は、これまで述べてきたように、不適切な対応が目立ちました。福島県への機嫌の取り繕い方よっては、南相馬市立総合病院を貶めることになりかねません。これは市民を貶めることに他なりません。
戦後制定された日本国憲法が、最高の価値として掲げているのは個人の尊厳です。日本国憲法は、国家権力を制限して、個人の自由を実現するという基本構造を持っています。
これは、立憲主義と呼ばれ、近代憲法の基本的な考え方です。日本国憲法92条にある「地方自治の本旨」は、地方自治を、個人の尊厳を守るという目的に奉仕させるための文言と理解されています(高橋和之『立憲主義と日本国憲法』有斐閣)。
このため、住民が、首長や地方議会の議員を選挙します。県という大きな単位があるのは、市町村では国に対抗できず、個人の尊厳を守れないからとされています。
しかし、この建前は実態と異なり、今も、総務省が、県を通じて市町村を支配する状況が続いています。明治憲法下では、県知事は勅任官であり、選挙されていませんでした。県庁は、内務省の出先機関でした。内務省が県を通じて全国をくまなく支配しました。
立憲主義を基本とする近代憲法は、市民革命から生まれましたが、日本には、市民が君主と対峙して権利を勝ち取る歴史はありませんでした。市民階級の自立の弱さが、戦後も旧内務省的支配を存続させたのではないでしょうか。
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