2011-12-25
佐藤秀峰さんの本やマンガへの考え方について
マンガ家の佐藤秀峰さんが、最近話題の自炊代行について、ご自身のブログに記事を書かれています。
この中で、佐藤さんは自炊代行を巡る一連の議論を取りあげながら、ご自身の「本」や「マンガ」への考え方を述べられています。
その、佐藤さんの本やマンガへの考え方について、いくつか違和感を覚えたので、ここに書きとめておきます。
ですが、本は購入した方の所有物ですから、破こうと捨てようと作家は口出しできる立場にはありません。
本は、購入した人の所有物ではありません。そもそも、太陽とか土とか水でできた紙を使ってできた本を、数百円払ったくらいで「所有」しているという考え方がおこがましい。
当たり前ですが、本でも何でも、一個人の完全な所有物となるものなんて、この世にはありません。「物」は、言うならばこの世界そのものの「所有物」であり、人間にとってはむしろ「借り物」という方が近いです。今認められているいわゆる「所有権」とは、その「借り物」の処遇について、他の者よりも比較的多く決められる権利――くらいの意味しかないのです。
ですから、当たり前ですが、それを破いたり捨てたりしたら、作家のみならず、誰でも、この世界そのものの一員として(一部として)、それを咎め立てすることができます。と言うより、咎め立てするべきです。
それは、権利と言うよりは、この世界そのものの一員としての責任です。ぼくは、誰が持っている本であっても、その持ち方や使い方を誤っている人がいれば、行って「誤っている」と勇気を持って指摘してきたいと考えています。
なぜ読者は、購入した本の使い道までを、作家に指示されなくてはならないのでしょうか。
購入した本は購入者の物で、楽しみ方は自由なはずです。
上記でも述べましたが、購入した本の使い道は購入者の自由ではありません。まず、読み方からして「自由」ではありません。例えば「あ」という文字があったとしたら、これを「い」や「う」と読んではいけないのです。
これは冗談ではありません。もし「楽しみ方」が「自由」というなら、「あなたを愛している」と書いてあったとしても、「おまえを殺す」と読むことだってできるのです。そうなると、作中の人物に「あなたを愛している」と言わせただけなのに、「あの作家に殺すと言われた」として、その作家を訴える読者だって、そのうち現れるのではないでしょうか(あるいはもうすでに現れているかもしれません)。
しかし、そういう訴えが認められる世の中には、今のところなっていません。そういう訴えがされたとしたら、諫められるのはその読者の方です。
このこのとからも自明なのですが、読み方や楽しみ方は、そもそも自由ではない。そこには大きな規制があります。その規制がある状態を、「自由」とは言わないのです。
第一、そもそも「言葉」というのは、先人が発明し、発展・継承してきたものです。作者も読者も、それを使わせて頂いているわけですから、これはいわば借り物です。
借り物を自由にしていいわけ、ありません。作家が自由に何でも書いていいわけでないのはもちろんですが、読者だってそれを自由に楽しんではいけないのです。
お年寄りの場合、電子書籍のほうが文字を拡大して表示できるので便利ですし、若者にしても、何冊も紙の本を持ち歩くのは重いので、データを端末に入れておいたほうが、どこでも読書ができて便利ということもあるでしょう。
「便利」というのは、人間にとって逃れられないカルマのようなところがあります。便利になって良いところもあれば、当然のようにそれによって損なわれることもあります。
例えば、移動手段が発達すると気軽に旅行に行けて便利です。しかしそれによって、移動の風情というものがだいぶん損なわれてしまいます。だから便利じゃない方が良いというわけではありませんが、佐藤さんの記述のように、無批判に便利だからいいという物言いには、強い抵抗感を覚えます。
僕は、本を買った後の使い方まで指示されるなら、その作家の本はあまり買いたくありません。
佐藤さんのようなことを言う人が本を買う必要はありません。本はむしろ「買った後の使い方まで指示してほしい」という人が買うべきであり、また読むべきものです。
だから、佐藤さんはもう本を読まない方がいいと思います。
わざわざ自炊をしてまで、自分の著作を読もうとしている人達を、なぜ閉め出そうとするのでしょうか。
作家は自分たちの権利のことばかりを考えて、読者(お客さん)のことを考えていないように思います。
ここには矛盾があります。佐藤さんが言うように、作家が「自分の著作を読もうとしている人達」を「閉め出」してまで自炊を止めようとしているのなら、それはむしろ、「自らが犠牲になってでもそれを止めようとしている」ということで、「自分の権利」は考えの外にあるのではないでしょうか?
僕たち漫画家は客商売をしています。
サービス業です。
読者にお金をいただいて生活をしています。
漫画家様、作家先生ではないのです。
漫画家を「客商売」にしている人もいるでしょうが、そうでない人もいるでしょう。実際、もう一生食べていけるだけのお金を持っているにもかかわらず、マンガを書き続けている人もいます。そういう人は、読者からお金をもらうためにマンガを描いているわけではありません。そういう人は、もっと別の理由でマンガを描いています。
それは、佐藤さんだって十分にご存じのはずです。手塚治虫さんは、読者からお金をいただいて生活していたのでしょうか? もちろん、それで生活している部分もあったでしょうが、『ブラック・ジャック創作秘話』というマンガを読むとよく分かるのですが、彼は命を削るようにして『ブラック・ジャック』を描いていました。
ブラック・ジャック創作秘話?手?治虫の仕事場から? (少年チャンピオン・コミックス・エクストラ)
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ですから、そういう多様な人たちがいる「漫画家」という職業を、上記のようにひとくくりに語ってしまうのは、誠実な態度とは言えません。「漫画家様」はさすがにどうかと思いますが、「作家先生」と尊敬するべき人物は当たり前のようにいるのではないでしょうか。
スキャンされない唯一の方法は、本を販売しないことです。
本はなくなって不利益を被るのは、読者も同じです。こういう言い方は気持ちいいかもしれませんが、「人類が滅亡すればこの世から不幸せがなくなる」と言うのと同じで、ものごとの本質的な解決にはなっていません。
佐藤さんは、本というものの本質を見誤っているように思います。佐藤さんには、下記の本を読むことを強くお勧めします。これを読めば、本という物の本質は何かということが、よく分かるのではないでしょうか。
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そもそも、著作権などというものは百年も経ったら消えます。そして、作者だって死にます。作者は、作者が得た著作権料をお墓まで持ってはいけません。
だけど、作品は残ります。作者が死んだ後も、読み継がれる可能性がある。
だとしたら、そこにまで責任を持つのが作者のあるべき姿ではないでしょうか。商売で本やマンガを描くことも否定はしませんが、それが担う役割は本当に小さなものです。
著作権料は、本来は「作者が本やマンガを描くための環境を整えるためのもの」であるべきです。作者も読者も、それを基準に考えるのがいい。
作者は、いうならば「命をかけた調査隊」のようなものであるべきだと考えています。
例えば絵描きがいたとして、その絵描きがとことんまで美的感覚を突き詰めて、素晴らしい絵を描く。
すると鑑賞者は、それに対して報酬を払うことによって、その美しいものを味わうことができる。
一方絵描きは、その報酬を糧にして、さらなる美を追究することができる。
そういうサイクルが人間社会に必要とされたから、作家は誕生したし、作家を取り巻くビジネスがこれまで続いてきたのです。そこにおいては、それぞれがいくらかの痛みを伴いながら、しかし報酬も得るという循環構造がある。作者は危険を冒すが生活ができ、読者は報酬を支払うが素晴らしいものを味わうことができる。
しかしそこにおいて、例えばマンガ家が提供する「面白さ」というのは、死や狂気に隣接するくらいにぎりぎりに心を研ぎ澄ませて、初めて見えてくるものでもある。だから、それを得るには、一歩間違えば死や狂気にとらわれてしまうという危険も伴うのです。
マンガ家は、その危険な作業に、生きて戻れるという保証もないまま、進みます。もちろんそれは、自らの好奇心が原動力の場合もありますが、一方では、多くの人に美を届けたいという、社会に貢献したいという思いからでもある。
その際に、マンガ家は純粋に「先生」と尊敬されるべき存在となるのではないでしょうか。命の危険を冒してまでつかみ取ってきた素晴らしいものを、ほんの数百円を払えば見ることができる。それが、マンガ出版というビジネスが成立している場なのです。
そこにおいて、危険を冒しているマンガ家を「作家先生」と呼んで尊敬することは、何ら不自然ではないし、もっと言えば、マンガ家も自らの「先生」としての責任を強く感じている方が、そういう危険にあえて飛び込むモチベーションも持つことができ、結果として、より面白い作品を作れるということもあるのではないでしょうか。
それで言うと、作家が自らを「先生」と自認することにもまた、大きな意味があるのです。そしてまた、そういう作家であるからこそ、その読み方についても、「教えてほしい」と教えを乞うのが、一番自然で真っ当な姿勢ではないでしょうか。
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