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帝国電網省 ―――――――――― by 竹下義朗さん

この記事中の画像は全て「帝国電網省」の該当ページより転載しています。
☆ 天皇は朝鮮人の子孫?日本人も朝鮮の王だった ―― 2009/09/11
                        原著 2009/09/01

「桓武[かんむ]天皇の生母は百済[くだら]の武寧王の子孫であると『続日本紀
[しょくにほんぎ]』に記されている事に、韓国との所縁[ゆかり]を感じていま
す」

これは平成13(2001)年12月23日、天皇陛下が69歳の御誕生日に先立つ
記者会見の席に於いて、翌年開催予定だったサッカー・ワールドカップ日韓共
催に関するコメントの中で口にされたお言葉です。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/graphics/photo/kanmu1.jpg
桓武天皇↑とは第50代の天皇(在位781―806)で、延暦3年に平城京=現奈良
県奈良市及び大和郡山市一帯)から、長岡京=現京都府向日市・長岡京市・京
都市西京区一帯)へ、

延暦13年には、後に千年の都と称される事になる平安京=現京市中心部)へ
遷都した事で知られ、平安時代の幕を開いた天皇として夙[つと]に有名です。

その桓武天皇を引き合いに出して、母親が百済武寧王の子孫──つまりは朝鮮
人の子孫だと現役の天皇=今上天皇が発言した訳で、日本国内では大した反応
はなかったものの、

韓国のマスコミでは大々的に取り上げられ、「天皇家は韓国人の血筋を引いて
いる」「日本皇室の起源は百済にある」などと、まさに鬼の首でも取ったかの
ように話題となったものです。

桓武天皇の生母であった贈太皇太后・高野朝臣新笠[たかののあそみにいかさ]
が渡来人の子孫だったのは確かです。彼女については、先述のとおり日本書紀
[やまとのふみ]に次ぐ勅撰史書、続日本紀に、百済第25代武寧王=在位 502
―523 諱[いみな]を斯摩[しま]といい、日本書紀にも「嶋君[しまのきみ]」と
して登場する)

10世の子孫(武寧王から4代、和氏[やまとのうじ]となって6代)として記述
されており、祖先が半島の出身だったであろう事は疑うべくもないでしょう。

しかし、高野朝臣新笠の代で既に10代目ともなれば、相当以上に日本に同化
していた筈で、祖先の出自は兎も角として、当の本人を「百済人=朝鮮人」と
果たして呼べるか否か、はなはだ疑問です。

----ロシア人の血が16分の1身体の中に流れている私はロシア人なのか?
いや、そうではないでしょう。これでも、れっきとした日本人です。

例えば、戦国時代、周防国[すおうのくに]=現山口県東部)を拠点に、九州北
部から、東は京都府南部までをも領した西国随一の大大名、大内氏(多々良氏)
は、百済武寧王の子、第26代聖明王の第三王子・琳聖[りんしょう]太子の子
孫を称していましたが、だからといって彼らは「百済人」でしょうか?

「大内義隆公像(大寧寺蔵)」
http://chinachips.fc2web.com/tiny/090911a.html

その出自がどうであれ、彼らはれっきとした日本人の大名であり、誰もがその
事に何らの疑問も抱いていませんでした。日本に帰化後も、百済人同士で何世
代にもわたって通婚し、百済人の血(の濃さ)を保ったというのであれば百済人
ともいえるでしょうが、

他の日本人との通婚を重ね同化していったのであれば、例え祖先が百済人だっ
たとしても、それはもはや日本人、百歩譲ったとしても、百済系日本人という
のがせいぜいではないでしょうか?

さて、ここまでは、日本の皇室に百済(朝鮮)の血が入っていたという話でした
が、それとは反対に、朝鮮のある王朝に日本人の血が流れていた、という話を
したいと思います。

古代朝鮮には、満洲から半島北半に掛けての地域に夫余[ふよ;大夫余]とその
後身である高句麗[こうくり];高麗[こま]、南半に三韓=馬韓・弁韓・辰韓を
経て、西側に百済、東側に新羅[しらぎ]、そして南岸に伽耶[かや;加羅]諸国
が林立していました。

この内、夫余→高句麗→渤海[ぼっかい]と、南扶余[みなみふよ]→百済が、実
は日本と兄弟関係にある国だった事は以前の小論で述べましたが、今回取り上
げるのは、高句麗でもなければ百済でもありません。

百済、次いで高句麗を、虎の威たる唐の軍事力を背景に滅亡させ、676年、
遂に朝鮮半島の統一を果たした新羅の王朝についてです。

新羅の王朝は、朴[ぼく、パク]・昔[しゃく、ソク]・金[きん、キム]の三姓か
らなる複雑な王統を有し、朴姓の王統が滅んで昔姓の王統に、更に昔姓の王統
が滅んで金姓の王統に交替した訳ではありません。

金姓王統の継続継承確立以前は、姻戚関係と国人の推挙を基本とする「王位の
持ち回り」だった観があります。この三姓王統の内、昔姓王統の祖が実は日本
人だったのです。ーーーしかもその事は、朝鮮側の史料にきちんと記述されて
いるのです。

昔姓王統の祖は、新羅第4代の王、脱解尼師今[だっかいにしきん]=タレ・イ
サグム;在位57―80)と言います。

ちなみに新羅では、初代・赫居世[かくきょせい]=ヒョッコセ;在位前69―後
04)は、王号を居西干[きょせいかん]=ゴソガン、

第2代・南解[なんかい]=ナメ;在位04―24)は、王号を次次雄[じじゆう]=
チャチャウン、

第3代・儒理[じゅり]=ユリ;在位24―57)から第18代・実聖[じっせい]=
シルソン;在位402―417)までの王号は尼師今、

第19代訥祇[とつぎ]=ヌルジ;在位417―458)から第22代智証[ちしょう]
=チジュン;在位500―514)までは王号を麻立干[まりつかん]=マリッカン
と、別々の王号が用いられ、

初めて「王」を称号として用いたのは第23代・法興王[ほうこうおう]=ポッ
プンワン;在位514―540)とされています。----日本の天皇が、当初「大王
[おおきみ]」や「主明楽御使[すめらみこと]」を名乗っていたのに相通じる。

話が横道に逸れてしまいましたが、この、昔姓王統の祖である脱解尼師今につ
いて、現存する朝鮮最古の史書『三国史記[サムグク・サギ](1145年完成)』の
新羅本紀・脱解尼師今紀に、以下のような記述が残されています。

┌──────────「原文」

原文省略。原文をご覧になりたい方は ▼ こちらで。
http://chinachips.fc2web.com/tiny/090911c.html

└──────────
┌──────────「和訳」

脱解尼師今が立った。一説に吐解と云う。時に年62歳、姓は昔。妃[きさき]
は阿孝夫人。脱解、本[もと]は多婆那国[たばなこく]で生まれた。その国は倭
国の東北一千里に在る。初め、その国王は女国(場所不明)の王女を娶[めと]っ
て妻とした。懐妊から7年、大きな卵を産んだ。

王が言うには「人にして卵を生むのは不祥である。適当に廃棄せよ」と。その
王女は忍び難く、絹布に卵を包み、宝物と一緒に棺の中に安置し、海に浮べ、
その行く先任を(潮流に)任せた。

初めは金官国(現韓国慶尚南道金海市)の海辺に着いたが、金官人はこれを怪し
んで取得せず。また、辰韓の阿珍浦海岸(現韓国慶尚北道慶州市)に漂着した。
是[これ]は始祖・赫居世の在位39年=紀元前19年)のこと也。

その時、海辺の老婆が(船を)縄で引き寄せて海岸に繋留させた。これを開けて
見ると、一人の童児が中にいた。その老婆はこれを拾得して養育した。成長す
ると身長9尺、風貌は秀逸で明朗、智識は人に優れていた。

或いは曰[いわ]く「この児の姓氏は不明。初めて来た時、一羽の鵲[かささぎ]
が飛来し、鳴きながら随伴したのだから、鵲の字を省略して、昔を以って氏と
為す。また、解[と]いて出てきたのだから、脱解と名付ける」。

脱解は初め、漁釣[さかなつ]りを生業[なりわい]と為しその母を供養し、いま
だかつて懈怠[けたい]の様子はなかった。母が言うには「汝は常人に非ず、骨
相は特異、宜[よろ]しく学修し、功名を立てなさい」と。

是[ここ]に学問に専念し、地理にも通じ、楊山の麓の瓠公[ひょうこう]の居宅
を展望して、吉運を生む地勢と観た。詭計[きけい]を設け、詐取[さしゅ]して
ここに住む。その地は後に月城と為す。

南解王の治世5(08)年、彼が賢人であるとの噂を聞き、娘を彼の妻にした。治
世7(10)年には大輔に登用して、政事[まつりごと]を委ねた。

儒理(尼師今)が死に際して「先王は遺命に曰く、私の死後、無論息子や女壻を
問わず、年長の賢者を以て王位を継がせよ、と。これを以って私が先に立った
が、今度は宜しく(脱解に)王位を相伝する」と。

(即位)2(58)年春正月、瓠公に大輔を拝命。
2月、親[みずか]ら始祖廟で祭祀。

3(59)年春3月、王が吐含[とがん]山に登ると、黒い雲が蓋のように王の頭上
に現れ、しばらくして霧散した。夏5月、倭国と通好を結び、交互に使節を往
来させる。

5(61)年秋8月、馬韓の孟召[もうしょう]将軍が覆巌[ふくがん]城で降伏。

7(63)年冬10月、百済王が領土を広げ娘子谷[じょうしこく]城にまで至る。
遣使が会談を請うが、王は行かなかった。

8(64)年秋8月、百済が兵を送り込んで蛙山[けいさん]城を攻撃。冬10月、
また狗壌[くじょう]城を攻撃してきたので、王は騎兵2千を派遣してこれを撃
ち敗走させた。

9(65)年春3月、王は夜、金城[きんじょう]=新羅の王都)西の始林の木々の
間から鶏の鳴声を耳にした。夜明けを待って瓠公を遣わしこれを視察させた。
金色の小函が木の枝に掛かっており、白い鶏がその下で鳴いていた。

瓠公が帰還して報告すると、王は取りに行かせ、小函を開けた。小さな男児が
その中にいた。容姿は大変立派で、王は喜んで左右の臣に曰く「これはきっと
天神が私に後胤[こういん]として授けたに違いない」。そこで、収容して養育
した。

成長すると、聡明で智略に富んでいたので、閼智[あっち]と名付けた。彼が金
の函から出てきたので姓を金氏とした。始林を鶏林[けいりん]と改名し、因っ
て国号と為した。

10(66)年、百済が蛙山城を攻め取り、守備のため2百人を留めたが、取り返
した。

11(67)年春正月、朴氏は貴い外戚なので、国内の統治を州郡で分け、州主、
郡主と号するようにした。2月、順貞を伊伐[いばつ]と為し、政事を委ねた。

14(70)年、百済が侵攻して来た。

17(73)年、倭人が木出島に侵入したので、王は角干[かくかん]の羽烏を送っ
てこれを防衛させたが、勝てなかった。羽烏はここで戦死した。

18(74)年秋8月、百済が辺境で寇盗[こうとう]するが、兵を送ってこれを阻
止した。

19(75)年、大旱魃で民は飢餓状態となったので、食糧倉を開いて存分に与え
た。冬10月、百済が西鄙[せいひ]の蛙山城を攻撃、これを抜いた(敗った)。

20(76)年秋9月、派兵して百済を討伐し、再び蛙山城を取り返した。百済か
らの移住者2百余人を虐殺した。

21(77)年秋8月、阿吉門は加耶[かや]兵と黄山津[こうさんしん]の川岸で戦
い、獲首1千余級。吉門を波珍[はちん]にして論功を賞した。

23(79)年春2月、慧星が東方や北方でも観測された。20日で消えた。

24(80)年夏4月、都城で大風が暴れ、金城の東門が自壊した。秋8月、王が
薨[こう]じた。城北の壌井丘[じょうせいきゅう]に葬る。
 
└──────────

『三国史記』の記述を素直に受け取れば、昔姓王統の祖である脱解尼師今は、
朝鮮半島で出生した生粋の朝鮮人ではなかった事になります。

しかも、その生国は、倭国の東北一千里にある「多婆那国」とされ、彼は多婆
那国の王と、女国から嫁いだ王妃との間に出生した多婆那国の王子だったとい
う事になります。

さらに、彼は朴姓の王・南解次次雄の王女(阿孝夫人)を娶って王室に連なり、
王の信任を背景に大輔の要職に就いて政務全般を取り仕切り、遂には朴姓王統
に代わって新たな王統を打ち立てるまでになりました。

そして、彼の王統=昔姓王統)は、彼を含め8人の王を輩出したのです。
「下記系図の内、赤色が昔姓の王」
http://chinachips.fc2web.com/tiny/090911b.html

ところで、

昔姓王統の祖・脱解尼師今の出身地とされる「多婆那国[たばなこく]」は一体
何処なのか? これについては倭国=日本列島内の「丹波国[たんばのくに]」
という説が有力です。

丹波国は、7世紀から8世紀に掛けて、現在の京都府中部と兵庫県東辺の一部
及び大阪府高槻市の一部・大阪府豊能郡豊能町の一部に当たる地域に確定する
までは、但馬国[たじまのくに]=現兵庫県北部・丹後国[たんごのくに]=京都
府北部をも包含する山陰道の上国=現在「三丹」と称される地域;下地図)で
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/graphics/map/santan.gif

古くは「田庭・谷端・旦波」等と表記され、「たには」と呼ばれていました。

そして、太平洋側が海の表玄関とされる現在とは逆に、日本海側が大陸・半島
との往来を担う海の表玄関として機能していた古代に於いて丹波国は、その中
でも極めて重要な位置を占めていました。

また、第52代・嵯峨天皇の勅命により編纂された日本古代の氏族名鑑『新選
姓氏録[しんせんしょうじろく](弘仁6=815年成立)』の、右京皇別下新良貴条
[うきょうこうべつのげしらきのくだり]には、以下の記述もあります。

┌──────────「原文」

新良貴彦波瀲武{盧鳥}{↑茲↓鳥}草葺不合尊男稲飯命之後也。是出於新良国。
即為国主。稲飯命出於新羅国王者組合。日本紀不見。

└──────────
┌──────────「現代訳」

新良貴[しらき](氏)は、彦波瀲武[盧鳥][↑茲↓鳥]草葺不合尊[ひこなぎさた
け・うがやふきあえずのみこと]の男[むすこ]である稲飯命[いなひのみこと]
の後[のち]也。是[これ]新羅国に出ず。即[すなわ]ち国主なり。
稲飯命は新羅国に出て、王は祖合す。日本紀[やまとのふみ]には見えず。

└──────────

ここには、日向三代の彦波瀲武{盧鳥}{↑茲↓鳥}草葺不合尊の皇子[みこ]で、
神日本磐余彦尊[かむやまと・いわれひこのみこと]=後に大和国畝傍橿原宮=
現奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮)に於いて初代・神武天皇として即位──の

兄宮に当たる稲飯命[いなひのみこと]が、新羅王の祖先になったと書かれてお
り、多婆那国から朝鮮半島へと渡り、新羅の王となった脱解尼師今の説話に相
通じるものがあります。

いずれにせよこれらの点からすれば、日本(倭国)の王子であったか否かは別に
しても、古代丹波地方の出身者=日本人(倭人)が朝鮮半島西南部を占めた新羅
に渡り、彼の地の王になったと記す『三国史記』の説話も、あながち架空とは
いえないのです。

以上のように、日本人が新羅の王になったという話をしてきましたが、この事
を現代のコリア人は一体どれ程、認識しているのか?

天皇陛下の御発言を鬼の首でも取ったかのように引き合いに出し「天皇家は韓
国人の血筋を引いている」「日本皇室の起源は百済にある」などという前に、

先ずは、朝鮮半島を初めて統一した王朝・新羅の第二の王統(昔姓王統)の祖が
実は日本人だったという伝承こそ、民族の歴史として認識すべきではないか?

ーーーそう私は思うのです。

                        = この稿おわり =
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