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長くてすみません。ご意見をくださった方々に感謝します。 わたなべさん、 項目整理してくださった意図は理解しました。どうもありがとうございます。 baud rate R.A.さん、こんにちは。 >玲奈さんの書き込みの中の「「言論に対して言論で応じること」の衰退」 >「勢力をもってきている」などに少々違和感を覚えているのですが、 私自身も違和感がないわけではありません(笑)。いかにも紋切りな表現で あること、そして、ほんとうにそうなの?という気持ち。 それでもこのように書いたのは、おもにここ数ヶ月のあいだに読んだ本で 知った、「うっそー!」と言いたいようなたくさんの話をふまえています。 ほんの一例ですが… 1987年、ルイジアナ州の「公立学校教育法における創造科学と進化科学の均衡的 取り扱い」という法律が、最高裁で審議されたとき、複数の裁判官が違憲判決に 反対し「価値ある信念をそうでない信念から選り分ける第一の基準は、苦痛を 与えるな、苦痛が生じるのを許すな、であるべきである。しかも特に政治的に 弱い立場にある人たちに対してである」と主張した。 1989年、講義のなかで「ある集団を傷つけるようなことをいっさい持ち出しては ならない」「人種に対する気遣いのなさから起きうる苦痛のほうが、教授の学問 の自由よりもはるかに重大だ」と述べたハーバード大学の教授。 「差別的」だと疑いのある本の出版の是非をめぐってなされたMLの討論 ――参加者は日本の大学の心理学者と学生で、本にまとめられている――で、 「その本を読んで傷つく人がいるなら出さないほうがよい」という意見が 少なからずあったこと。 ……私のウェブサイトの書籍リストにもその一端を紹介していますが、とくに 差別問題にからむ論議には、「人を傷つける自由は、誰にもない」といった 主張がひんぱんに出てきます。 >かつてはそうでもなかったけど状況がどんどん悪化してきているというご意見なのでしょうか? それはわかりませんし、そういうことを言いたいわけでもありません。 「言葉の暴力」という表現が発見?されたことで、ある種の感情が説明できる ようになったことは、よい面もあったと思うし、ひとつの「進歩」でもあった と思います。そのあまりに、濫用され、「相手に苦痛を生じさせる言葉はただ それ自体で誤りである」という主張を正当化するために使われている場面を よく見かけるということです。 むしろ気になるのは、「人を傷つける言葉」を非難する人たちが、その種の 言葉がなくなれば「もっと世の中がよくなる」と信じていることです。 最近の事件で、「心のぶつかい合い」という言葉がありますが、驚いたのは、 専門家(なんの?)のコメントで、「この言葉は衝撃でした。心は心はぶつ かったりしないものです。ぶつかったらつぶれてしまいます。これは怖いこと ですよ」とコメントしていたことです。比喩としてとらえていないんですね。 ブタネコさん、どうもありがとうございます。 >自分がそういう心の状態にあることをあからさまにいうことは少なかったような? 上に書いた「よい面」につながりますが、そのように率直に自分の気持ちを あらわす傾向は――私も例外ではありません――なんていうか、らくになれて いいよね、と思っているし、どちらにせよ、あともどりはできないでしょう。 だからこそ、不快を感じることとその人の正しさとはなんの関係もない、という ことがあいまいになってはまずいと考えます。 いなばさん、 >「線引き」ですが、私は線引きはどれほど困難であっても必要だと思います。 >オールオアナッシングの発想は採るべきではない。どっちにしても余りにも危険です。 ですから私は最初に、いわゆる「言葉の暴力」と「物理的暴力」のあいだに 線引きをすべきことを主張したつもりです。それ以外のところに線を引く 妥当な方法――誰が引くかを含めて――があれば教えていただきたいです。 福田さん、はじめまして。 「問題意識としては別箇のトピック」です(引用発言があった頃から以降は、 もう件の掲示板は読んでいません)。 >どう「問題視」したいのかが、まだよく分かりません。 「言葉の暴力」と言ってしまうことで、批判と暴力とを同列に置き、自分の 考えと異なる人を封殺しようとすることについての危惧、ではどうでしょうか。 ご意見をお聞かせください。 崎山さん、はじめまして。 アメリカの例に偏ってはいますが、多くの大学で、人を傷つけるような言辞を 暴力行為と規定した学生向けの行動規範が作られているそうです。アメリカ人 に「同化」してきた日本人がそれにならう可能性もなくはないかと。
「言葉の暴力」と「肉体的暴力」の同一視を「言論に対する肉体的暴力での 復讐」の肯定という文脈で行うというのは、そういう人はいるとか、そういうことを 平気でやる国が世界のなかにはまだまだあるとかいう議論はできると思いますが、 とりあえず日本を含む多くの国の体制では認めていないとは言えるでしょうね。
ただ、「言葉の暴力」と「肉体的暴力」の同一視を、「言葉の暴力」を「悪いこと」 として捉え、抑圧していこうという文脈で行うというのは、結構広がっているなぁという 印象があります。そして、相手を特定しない言論が「言葉の暴力」と呼ばれるとき、 その「被害者」は不特定多数であるということで、それらを代表すると自称する少数の人が 実際の抑圧を発動させる、という感じでしょうか。
で、上記で「言葉の暴力」の中身を定義せずに話をしていますが、 「相手に苦痛を生じさせる言葉はただそれ自体で誤りである」というスタンスは、 例えば、「ネチケット」だとか、 「情報倫理」だとか 「電子商取引普及のための安心できるネットワーク環境整備」 (いわゆる B2C (Business To Consumer) のE-Commerce普及のためには 「一般市民」が「ネットでこわいめに遭う」なんてことはあっちゃいけない、というストーリー) だとか言っている人達の間では結構広がりを持っているようだ、 という印象を私は持っているのですけど、実際のところはどうでしょうかね。
FOM とは Steve Simpson が運営している Foundations of Mathematics に関するメーリング・リストです。
Langlands program の周辺を FOM の視点から眺めたい人に説明するにはどうすれば良いのだろう? 暇があれば日本語でちょっと解説を付けるところですが、忙しいので存在を忘れないようにメモ代わりに利用するだけで済ませてしまいます。
なんでも 2 のほうに書き込むのは、たぶんはじめてです。こんにちは (_ _)
。
あの、玲奈さんの書き込みの中の「「言論に対して言論で応じること」の衰退」「勢力をもってきている」などに少々違和感を覚えているのですが、わたなべさんを含め、かつてはそうでもなかったけど状況がどんどん悪化してきているというご意見なのでしょうか?
「暴力はよくない」に対して「言葉の暴力というものもあるのだ」と返すというのは、かれこれ 25 年も前、私の祖父が言っていたりしました。それも、物理的な暴力の擁護といった文脈で。片田舎の 70 前後の人間が口に出すくらいだから、庶民もいいところのレベルにすでに浸透していたと思います。漫画なんかでも、「暴力反対」なんて言うのは、ひ弱で金持ちで嫌みなやつと決まっていて、それを殴り倒す主人公はどちらかというと正義の側に設定されていて、それが周囲にも支持される――という話もかなりたくさんありました。(小説の形式だと、たとえば手袋を投げて決闘だ! とか、一応社会的な手続きが入るところが、漫画だとすっぽり抜けていたような。)
そもそも、「話せばわかる」に対して「問答無用」で叩き切るのが (ご本人に実行能力があるかどうかは別にして) 何か格好良いように感じる人たちにとって、「言葉の暴力」という概念があろうがなかろうが、あまり関係がないのではないかという気がします。人権主義者 (?) がその手の人たちに力を与えているというより、その手の人たちや彼らに拍手を送る人たちを抑止する力が足りないのがむしろ問題ではないかと。
……それで、のこのこ書き込んでいるのは、友人が通信教育でとろうとしていたコースのなかに、この「話せばわかる」「問答無用」をテーマにしたコミュニケーション論があって、面白そうだなと思ったのを思い出したためです。(結局、友人は履修しなかったんですが)。どなたか、これについて何かポインタだけでも教えていただければ、うれしいです。
2 には異論もあるかと思いますが、3 については法に基いた国家による暴力 (名誉毀損に対する刑罰とか) はともかく、少なくとも個人のレベルでは論外 だと私も思います。 で、玲奈さんが「言葉の銃弾には本当の銃弾で対抗」という言うまでも無いで あろう例を持ち出したので、「相手に苦痛を生じさせる言葉はただそれ自体で 誤りである」の是非 (私の項目でいうところの 4) が焦点である事がぼやけて しまって、いなばさんの「では 1 が問題なのか?」に関するコメントが出て きたのではないかと。 んで、 言論の中身如何を問わず 「相手に苦痛を生じさせる言葉はただそれ自体で 誤りである」という解釈が、 すでに「ばかげたこと」として退けられない ほど勢力をもってきている、 というのが私の認識であり、問題視している 点です。 だからまず、そのルーツを知って、勢力拡大の変遷を追ってみた いと思いました。 については私も同様の認識を持っています。
私の疑問がどうして最初のいなばさんのコメントを引き出したのかわからない点が 多いので、どこまでかみあっているか不安ですが。
>この推論には論理の飛躍があります。
ええ、そういう共通了解がほとんどすべての人にあれば問題ないわけです。ですから、
>私は、比喩的にであれば、「人を傷つける言葉は銃弾である」と言ってよい場合は明確にあると思います。
「比喩的」であればかまわないのです。けれどもそれを誰が正確に判定できるでしょうか。 ラシュディーに対する「死刑宣告」は「比喩」なんかではありませんでした。 両発言が地続きであり、けっきょくのところ、明確に線を引けないのだということは 理解されておいてよいことだと思います。
私はそこに、「言論に対して言論で応じること」の衰退を見てしまうし、 実際に、「言葉の暴力を受けた」「傷ついた」という主張のほうがてっとり早く 優性に立てる――相手に反論しにくくさせるとか、第三者の同情なり共感なりを得られる―― 場面が増えているように思われ、そのことがますます、その「比喩」に逃げる人を 増大させているからです。
言論の中身如何を問わず 「相手に苦痛を生じさせる言葉はただそれ自体で誤りである」という解釈が、 すでに「ばかげたこと」として退けられないほど勢力をもってきている、 というのが私の認識であり、問題視している点です。 だからまず、そのルーツを知って、勢力拡大の変遷を追ってみたいと思いました。
わたなべさんが整理してくださった項目ですが、
これはまた別の話し。法理論でいう刑罰の根拠のひとつとしての復讐主義というのは,いなばさんが言われるように抑止力として 働くことを期待してのものですが,これはあくまで個人による報復,私刑を許さないという立場のものですね。 (かみさんの法律の勉強を横目で眺めながらの素人勉強です)私的な復讐の許容はむしろ 報復の果てしない繰り返しや激化につながることが多いと思います。むしろ反復のたびに徐々に緩めていくように 報復は被害よりも小さ目に設定するというのが,社会的な知恵として推奨されているのではないんでしょうかね。
で,被害に遭ったら軽く報復しつつ,けじめのラインを調整するようにする,みたいな日和見的な成り行きが私には望ましく見えるんだけど。 とはいえ,口の悪いのと底意の悪いのとを見分けられない人には,率直な物言いの人間が歩み寄れるわけはないのも明らかです。 とくに山形さんみたいな人はこりゃ悪い奴だと思われるでしょうなあ。でも嫌なら付き合わなきゃいいってのが,世間が広ければ通用する ってこともある。逃げ切れないときにはいろいろ大変だから,かえって調整能力を身に付けられるかもしれない。 と,最後はオッサン的な結論を安直にq$$$?$1$I!$$$$J$P$5$sE*$K$O$I$&$J$N$+$*J9$-$7$?$$$H$3$m$G$9!#
玲奈さん本人に解説して貰うのが一番確かだとは思うのですが、玲奈さんの掲 示から読み撮れる問いとしては以下のようなものがあるかな。 1. そもそも「言葉の暴力」なんてあるの? 2. 「言葉の暴力」というのがあるとして「物理的な暴力」と同等なの? 3. 「言葉の暴力」には「物理的な暴力」で仕返ししていいの? 4. 批判的な言辞は「言葉の暴力」なの? 3 は 2 に「暴力には暴力で対抗しても良いのか?」という疑問が加わった問 いですね。 で、私はあまり 1 のニュアンスは感じず、2〜4 が混然一体となっているよう に感じたのですが、いなば説では 1 の問いも含まれているのではないかとい う事ですね。 でまぁ 1 については置いといて、私は「人種的なあだ名で呼ばれて傷ついた からって相手を銃殺しちゃいかんだろう」ってのと「自分に対する批判を言葉 の暴力呼ばわりして被害者ヅラするのはいかがなものか」ってのは問題の性質 がやや異なるように感じられて気になったわけです。 「言葉の暴力」と「物理的な暴力」が同等か?というのは、「言葉の暴力」も 「物理的な暴力」もピンからキリまであるので、ケースバイケースとしか言い ようが無いような。 ちなみに批判と言葉の暴力の違いがどこにあるのかというのは正確にはわかり ませんが、玲奈さんも(そして私も)いなばさんと同様に「山形式言説は暴力に は該当しない」と考えているように思えます。
玲奈さんが問題視しているのは、「人を傷つける言葉」に対して文字通りの 「暴力」で応じる事というよりも、自分にとって都合の悪い(不快な)批判的 言辞を全て暴力扱いしてしまう事なのだと思うのですが、違うでしょうか?
は確かにおもしろいですね。みほさんありがとうございます。 時間が立つと、いろいろなものが滑稽に見えてしまうのは なぜなんですか?みほさん、分かったら教えてください。
それから山形さんのページから、最近、青空文庫というオンラインの 「図書館」もしったのですが、そこに「セメント樽のなかの手紙」という 私がかつて高校生くらいのころ教材として読んだ、たしかプロレタリアート 文学(どうも大正のころそういうのがあったらしい)の傑作を見つけ、そこにある 同じ作者(名前は失念)の作品を読んで、ほんの数十年前の日本の話しなのに まるで別世界なのに改めて驚きました。
オンラインは私のような怠け物でもいろいろ楽しめて重宝です。草食動物の 私には、オンラインはおもしろい物を見つけてこっそりみる、そんな場なのかと 思います。
「言葉の暴力」という言い方・考え方はいつごろどのように出てきたのでしょうか? 人を傷つける言葉が一種の暴力であるという観念は、人道主義的な見地から好んで採用され 広まっているような気がしますが、その危険性が見落とされているのではないでしょうか。
言葉の上での攻撃と物理的暴力を同等だとする論理の、つい最近見かけた例では、 「私にとって人種的あだ名は言論ではない。それは銃弾である」と述べたアメリカの 大学の法学教授、掲示板での言葉による「殴り込み」が「不快感という意味では、 肉体的暴力以上に被害は尾を引く」と述べた新聞記者、など。
「人を傷つける言葉は銃弾である」のあとに来るものは、私がもしも言葉で傷つけられ たら銃弾で応酬する、しかもこれで五分五分の交換である、というものでしょう。 「言葉による殴り込み」を受けたと述べた人が、その相手を「ぶん殴る」と書いたのも、 それが正当な仕返しだとみなしている証です。
ファンダメンタリストのイスラム教徒がラシュディーを非難したときの論理は、 「邪悪な言葉、不敬な言葉でもって我々イスラム教徒を傷つけた」というものであり、 それは相手の「死」に匹敵したわけです。そして実際に日本語版の翻訳者は殺されました。 これは極端な例外にすぎないと楽観できるでしょうか。
言論と実際の暴力とが同一視され、その区別が消し去られるとき、 言葉によって「傷ついた」と称する誰かによってそれは容易に「暴力事件」になります。 その人にとってつらい批判もまた暴力だと主張できます。 そうすると、科学それ自体が一種の暴力になりうるということです。 創造論者が進化論者によって傷つけられた、と訴えたら?
批判的言辞が――たとえそれが罵倒によってなされるものであっても――決して 暴力と同じではない、ということを確認しておくことは、科学者や研究者、そして その恩恵をこうむっているすべての人々にとって、大切なことだと思うのですが、 いかがでしょうか。
内容もさることながら,スタッフロールのアイディアがおもしろかったです.
もちろん、ぼくのこの前の書き込みも、失格です。 建設的な発言ができない・する余裕がないので黙っていたのに、 つい発言している。 殺伐としている。 読んで、愉しくない。 言い訳はしません(できません)。
特に、粗雑な言説そのものへの批判と混同されやすいので注意深く説明しなくてはならないことは知識としては知っていたのだけど、実践できませんでした。それも反省します。
ところで、田崎さんの批判は、鴨への批判としては同意でき、反省するのだけど、では、批判の論点を田崎さんの批判に適用するとどうなのかという点で、納得できないものがあります。そのあたりについて田崎さんの見解を聞かせていただけると、反省を具体化して今後の糧にできるのですが、乗りかかった船で助言いただけますか?
「棲み分け」という言葉は(もともと今西生物学用語だけど、情勢論に用いられると)大東亜共栄圏的な感じがしますねえ。満州も日本も一つの帝国だけど、別々の国家でもあるという排除と統合の理論。 崎山さんの善意には感心するんですが、棲み分けがなくなると困る人たちが存在することは承知しておかないとならないでしょう。(端的にいえば、「彼らは異なる世界に住んでいる人だからああするのだ」と人を叩いて商売をしている人たちです。)
しかし「彼らは異なる世界に住んでいる人だから反論するにすぎない」といった議論を唱える人たちが、自分たちをアレントの public に引きつけて考えているのはすごい。 アレントの本をこれから読むみたいだけど、個人個人の語り口を「アカデミズム的」「理系的」(あるいは「ユダヤ的」とかね)というカテゴリーに還元すること自体、そもそもアレント的でないということをわかってくれることを願っております。 『全体主義の起源』なんかに注目してくれるといいなあ。そういいう悲惨なところを経由してアレントは公共性とか言い出すわけで、その態度はあいつの語り口が容認できないといったぬるい態度とは断固として区別しなければならない。
結局、私の書ける範囲で于論茶の掲示板で みのりある結果をもたらすことは不可能だと思ったので、 個人的には幕引きの記事を書いて終わりにしちゃいました。 最後の最後までコミュニケーションが成り立たなかった。
以上、ご報告まで。
崎山さん、快く于論茶氏に謝罪して頂き、どうもありがとうございました。
「学者 vs 一般市民」という対立図式の妥当性を暗に認めているかのような発言は私にとって非常に迷惑なので、崎山さんは、そのような単純な対立図式の妥当性を認めた上での議論をしたいのではなく、単に今そこにある于論茶氏の側から見た対立の構図に対して批判的な論評をしていたことがわかり安心しました。 (私自身は誤解してなくても、他の読者が誤解することを心配してました。)
なお、言うまでもないことだと思いますが、やっぱり「棲み分け」は嫌ということに私も同感です。
しかしながら、私が今ここで展開している「自分の言葉で語ることの重要性」に関する発言は、「ジャーナリズムの批評」と「アカデミズムの批評」のどちらからも外れています。私にとっては、「ジャーナリズムとアカデミズム」という議論の枠自体が狭苦しく感じられます。私の居場所はその枠の中には存在しません。だから、そういう枠を一旦破壊した上で議論を展開する必要があると思う。
もしも崎山さんが于論茶氏と議論を続行されるのであれば、この点についても注意を払って下さると嬉しいですね。
P.S. Axe さん、「棲み分ける批評」に関する情報どうもありがとうございました。
P.P.S. 柏木亮二さんの記事は私好みの内容でした。立場を明確に公開した上で、自分自身の意見を自分の言葉で述べている。柏木さん、今後もよろしく。
鴨さんの相変わらずの、論理的には整合しているものの何ら生産性のない毒舌には、 うんざりします。 あなたが頭がいいことはよくよくわかりますが、 それならば、相手を巧みに誘導して議論を有益で、 そして何よりも楽しい方向に導くことに頭を使ってみたらどうなのだろう? あなただって自分の頭を使ってものを考え何かを見出すことが楽しいからこそ、 学問の世界で生きているのでしょう? あなたの書き込みからは、悲しいかな、その空気は伝わってこない。
頭がよければ誰でも思いつくけれど、それを言ったところで誰一人いい気持ちにならないような意見は、 自分の中にしまっておけばいいと、ぼくは思います。 それとも、鴨さんのああいう書き込みを読んで、胸がすっきりすると思っている読者が たくさんいらっしゃるのですか? もし、そうなら、ぼくも、いろいろな意味で考えを変えないといけないだろうな。
もちろん、こう書いたからと言ってぼくが bon さんのご意見(といっても 詳しく読んでいない)を支持するというわけでは、ありません。 低次元な、刹那的な反応とご理解ください。 失礼します。
一応あちらにお詫びは書いておきました。「棲み分ける批評」については、 Axe さんの解説の通りで、さらに付け加えるなら、
「学者 vs 一般人」という対立図式の妥当性(のなさ)は脇においておくにしても、 于氏と(于氏から見た)「黒木掲示板」という対立の構図は(参加者の意図にかかわらず) 今ここにあるものであって、 その構図はまさに「棲み分ける批評」での「加藤 vs 高橋」についての議論をなぞっている ような気分にさせられるようなものだという意味において、 「苦笑い」をしちゃった、
ということです。 私の議論参加への動機というと、やっぱり「棲み分け」は嫌ってことなんですが、 なかなか難しいですね。
よく読んでないのに、余計な口出しかも知れませんが、 『非線型』という、 数学や物理で,よく出て来る言葉が, その世界で話題になっていることは, もしかしたら,その本質的な概念が, 一般の人たちにも,役に立つかも知れないという事は ありうる話だと思います。 いきなり哲学へ行ってしまうのも,いいかも知れませんが 哲学よりは,実際の技術への応用などの方が 現実味のある話ですし, また,抽象的な所へ行くなら, 実際に,数学者や物理学者がやってる ここの様な所で,『非線型』って何ですか? と聞いた方が,おもしろいと思います。 哲学者に聞くのでは,また聞きですから, 本物に触れるのが,一番おもしろいし, また,役に立つとしたら, そっちの方が,確実だと思います。 役に立たなくても,SF的に,自己満足してるだけで いいなら別ですが... なんか,書いてて,自分の反省になってしまいました。
の議論は、それこそ乱暴にまとめれば、 - ジャーナリズム(広く伝わるが知的テンションが低い)の批評と - アカデミズム(厳密だが流通可能性が低い)の批評が、 互いにぶつかるという よりは並立して「棲み分け」してしまう状況を分析し、そのすみわけ状況を 前提としなければ不毛な党派性に陥った議論になってしまうだろう、とまず 東は警告しています。 (ちなみにジャーナリズムもアカデミズムも、ある程度は比喩として用いられて いることにご注意) 次に東は、加藤氏が「語り口」を問題にすることを取り上げ、分析を加えています。 語り口を問題にすることにより、実は加藤自身がこの批評における 党派的な議論、つまりジャーナリズム的な批評(加藤氏の言葉で言えば「文学の言葉」)がアカデミズム的な語り口よりも優越しているということ、を自明視してい るわけで、これはまずいのではと懸念を示しています (党派的になにを言い合ってもしょせん「すみわけ」の力学が働いてしまう状況では無効である) 実際、加藤典洋氏は高橋哲哉氏との論争で、「わたしの高橋の考え方への最大の 疑念は、その語り口(tone)にある」と裁断しています。哲学の助教授である 高橋氏がつかうアカデミズムよりな言葉に「鳥肌が立つ」と述べ、そのかわりに 太宰やサリンジャー、はてはアーレントの読解から導かれる「文学の言葉」の 優位を唱えます。しかし、なぜその「文学の言葉」がアカデミズム的な語り口 より優位であるのかは全く説明されていない、そうです(以上、東論文の乱暴 要約) この掲示板の一連のスレッドは、興味をもってフォローしていました。ウ氏の 加藤典洋と「語り口」の問題への言及から、東の「棲み分ける批評」を想起する 崎山さんのセンスはなかなか鋭いなぁ、と私は思いました。 ただ、インターネット上で公開されている加藤典洋氏のインタビュー(すいませ んURLが思い出せません)では、加藤氏は東浩紀の論文にふれてなかなか鋭い、 みたいなことを言っていたような記憶があります。駒場の表象はひどいものだが 彼は別だ、みたいな誉め方だったかな?
崎山さんへ
ううう。「黒木掲示板から一撃離脱:-)」というような態度で他人の掲示板に書き込むのは書き込まれた方も名前を出された私の方も迷惑なので止めて下さい。できれば、私の名誉のためにも于論茶氏に何らかの形で謝罪してもらいたいです。黒木掲示板で議論が続いているのでそちらも参照して欲しいと言いたいのなら、単に URL を入力しておけば良いだけのことでしょう。あと、内容的にも説明不足で何を言いたいかもわからないので、崎山さんにも「自分の言葉で語りましょう」と言いたくなりました。
bon さんへ
申し訳ないですが、メールでの議論はメリットが感じられないし、しんどそうなので応じられません。 bon さんはこの議論をどのような動機で続けているのでしょうか? すでにもともとの動機から離れてしまった状態に$J$C$F$$$k$J$i!"$9$Q$C$HM>7W$J$3$H$r8@$o$:$KE0B`$7$F$7$^$&$N$,NI$$$d$jJ}$@$H;W$$$^$9!#
これは bon さんだけではなく、崎山さんとかもさんにも言いたいことですが、どのような動機で議論に参加しているかをもっとはっきりさせた方が良いと思います。不当な非難に抗議したいとか、自分の友人を掩護したいとか、自分自身が大事だと思っている意見を他人に伝えたいとか、……。動機をある程度はっきりさせておかないと、なぜそこまで批判しようとするのか、読者にとってわかり難いと思います。
私自身が議論を続けている理由は、私自身が大事だと思っている「自分の言葉で語ること」について自分の言葉で表現しておきたいということと、それを「学者 vs 一般人」という類の単純な対立図式に押し込められることは大変迷惑なので皆が見ている場で抗議しておきたいということの2つでした。この議論においては、私が他の方の意見について批判的に論評しているのは、この2つの動機に関係あることにできるだけ限ろうと努力して来たつもりです。
ここで、 于論茶の掲示板の
再び「語り口の問題」について、 投稿者:于論茶 投稿日:11月26日(金)13時40分10秒
での加藤典洋の『敗戦後論』への言及をふと思い出して、東浩紀氏の「棲み分ける批評」 (『郵便的不安たち』収録)を読み返して、苦笑いをする私がここにいる:-)
bonさんは、自分の掲示板から関連スレッドを削除したようですね。
うーん、社会学素人の私が言うのもナンだけど、社会学って「ふつう」の自明性を 疑ってかかるものだと思ってたんですが...。
PS:黒木さんへ。黒木さんとのメールのやり取りには応じます。
柏木亮二といいます。 以前Id: #b19990830151942 Date: Mon Aug 30 15:19:42 1999の「見てはい けない?」で簡単な自己紹介をやっていますが、今回問題の発端が発端だけ にもう一度自己紹介をしておきます。 私は、現在火付け役の山形さんと同じ会社の同じフロアにいる、いわゆる 「同僚」です。山形さんと親しい付き合いをやっているといっていい状態だ と思います。ただ、心情的・対人的には山形さんよりはずいぶんとマイルド なほうだと思っていますが、この背景をbonさんやその他の方々がどう取るか はご自由に。 #別に関係ないと思うのですが、一応念のため。 #b19991126204431 Date: Fri Nov 26 20:44:31 1999の崎山 伸夫さんの 発言に対する反論だと思いますが。 >> 「○○さんの言う、△△」という表現をとっていることと、 >> 「自分の言葉」であるか否か、というのは全く別の問題です。 > 何の話し?? そんなこと、どこからでてきたの? お忘れのようなので、確認しました。 Id: #b19991126105725 Date: Fri Nov 26 10:57:25 1999のbonさんの発言で は、以下のような内容が書かれています。(引用ではないですよね?) >ぼくの論点は、体感型の理解をしている場合に、自分の言葉で語 >ることは難しいだろう。どうしても、「○○さんの言う、△△」 >というような言い方になってしまうと言うことです。 つまり、体感型の理解をしている人は(于論茶さんを想定されているのでは ないかと想像しましたが)、「自分の言葉」ではなく、「○○さんの言う、 △△」という表現をすることになりやすい、という風に理解できます。 一つ疑問なのは、その発言を生む感情なり、思想はどこから生まれているのか という点です。発言を生む土壌である感情や思想までも、まったく自分の言葉 ではない、というような人を私は想像できません。誰にでも必ず、何らかの 「自分の言葉」があるはずです。ただ、その感情を他人にもわかるように説明 できるかどうかはその人の言語的な才能や能力に関わるかもしれません。 于論茶さんご本人が「私は体感型な理解しかできない」というふうに、 おっしゃられたのであれば、この文章は好奇心の対象にはなっても、説明を求 められる性質のものではなかったのではないかと思います。ただ、ここでの発 言を見る限り、社会学的な背景をお持ちではないかと、読み手に想像させるよ うな発言を繰り返していらっしゃるbonさんが、このような安直な発言を行った ことが、質問の対象になっているのです。 以前の議論を見ていただければ(「いやというほど見た」とおっしゃるので あれば、残念ながらbonさんの読解力を疑わざるを得ません)、実は「自分の 言葉」で語ることに対して、黒木さんおよびその他の方は、別になんの定義 も行っていないわけです。さらにいえば、その内容に関しても別になんらの 反感や制限を加えようとも思っていないという風に理解できる内容です。 ただ、「体感型」という言い方が理解しがたい(というよりはご自分の言葉に なっていない)という点に対して疑問を投げかけているわけです。 「説明してほしい」と。 仮にbonさんと同じ内容の発言を<<于論茶さん>>がされたのであれば、これは 別に問題にはなっていなかったのではないかと思います。ただ、于論茶さん にかわって(と私には読み取れました)説明を試みようとしたわりには、bon さんの説明は説明になっていないのではないかという印象を受けました。 #だって「体感型」がなんたるかの説明をしないまま、その言葉に対する 「共感」のみを語っているんですから。 私は誰かが自分なりの信条やポリシーを持つことを否定するつもりは「さら さら」ありませんが、それに対する批判は受けてもしょうがないケースは 多々あるとおもいます。たしかに、一見人畜無害の信条かもしれません,!" 特定の層からみれば、非常に抵抗を感じる信条にとられるかもしれないと いうリスクは、現在ではほぼすべての日本人が多少なりとも持っているもの ではないでしょうか? 特にこのような*メディア*上では。 # ただ私はbonさんや于論茶さんの信条のほうが、黒木さんの信条よりは、 (相対的な意味で)有害だという立場に立っています。それは、ある時 点を境に一方的にコミュニケーションを断つやり方を見て生じた感情 です。(その割にはまだ登場するあたりが不思議といえば不思議なんで すが・・・) その批判に対して「反論する and/or 無視する and/or 攻撃する etc.」とい う様々な対処法があると思うのですが、bonさんの行っている対処法は、私に は「論点をずらす/別の話にすりかえる」行為に見えてしょうがありません。 「私には説明できないけど、いままでの于論茶さんの言説は非常に私の好みだ」 ともし一言いっていれば、この問題はここまで大きくなるようなものではない のではないでしょうか? 「君らにはわからないだろうけど、私には理解できる」ということを、いくら 繰り返しても、何の相互理解も生まないのではないでしょうか?(いや、「相 互理解なんて生みたくもない」というのでしたらそう言って、この掲示板への 書き込みを止めればいいのではないかと思ってしまうのです。それもある意味 「自分の言葉」だと思いますが。(共感は得ないでしょうが)) 「私の理解はこうだ!」という点を一度でいいからいっていただければ、理解 はできなくても少なくとも「納得」はできます。「とにかく好きなんだよ!」 とか、「普段からお世話になっているんだよ!」とかでも一向に構わないので はないかと思うんですが・・・
本人が「学問的的厳密性に精通して」いないなら、「学問的的厳密性に精通して」いる人に協力を求めれば良いだけである。特に、「学者と一般読者をつなぐ」とは、まさに、そういうことである。したがって、「学者と一般読者をつなぐのが仕事」であることは、だから、いい加減な言葉使いをすることの言い訳にはならない。したがって、于論茶の主張は通らない。
これに対して、bonさんからの反応は全くありません。肯定も否定もせず、ただ、無視しているだけです。
無視することそのものはbonさんの固有の権利なので、それを非難するつもりはありません。非難する人がいたら、その人を私が非難しましょう。その一方で、無視している事実を指摘することそのものは、私も含めて、すべての人の固有の権利です。ということで、無視されている事実のみ指摘させていただきました。
ところで、最新の反応で于論茶なる人物とbonさんの違いは明確になりました。黒木さんと鴨の違いを認識していることが表明しています。于論茶なる人物が「論敵は皆一緒」な反応をしているとのは、明らかに違う。
于論茶なる人物の言動が本人の主張する「学者と一般読者をつなぐ仕事」に反しているとの私の分析に、bonさんは肯定も否定もしていない状況は、これからも変化しないのかな。
かもさんへ、
つまらない茶々入れてないで、ちょっとくらいまともなこと答えたら? あなたも、たいがいぼくのいいたいこと外してるんだけど。いいねえ、茶々入れるだけの人は。すごく楽だよね。それに何でぼくが、みなみなさまの違いまで念頭に入れてしゃべらないといけないわけ? ぼくは、自発的に参加させていただいているというよりは、呼ばれて断罪される役割で来さされているようなものなのに。そんな義理ないよ。
黒木さんへ、
歩み寄りかけては離れ、歩み寄りかけては離れ、…ですね。それに、われわれの歩み寄りの努力を妨げるべく、つまらないことしか言えない人も何人かいるようですし、ぼくは、もうイヤになりました。やっぱり、メールでやり取りしたいですね。如何? もしダメだったら、ともかく、こんな嫌悪の固まりのようなところでは、ばかばかしくてしゃべれません。
「○○さんの言う、△△」という表現をとっていることと、 「自分の言葉」であるか否か、というのは全く別の問題です。 (あえて具体例をあげたりして書かないので、ご自分でお考えください)。
最初の挨拶は 結構昔にした つもりなんですが、注目されなかったし間があきすぎていたでしょうか(^^;
批判の応酬を好まない、というのはENCもそうなんですが、 大学でもそういう傾向は結構あるようですね。 ちょっと長いですが、 早稲田のMNCの紀要に載ってるシンポの記録 から引用してみます。
.3^86@h@8$N$*OC$N$J$+$G!"%"%+%G%_%C%/$J3hF0$@$1$K8BDj$7$F$$$/!"$3$l$O$$$^$NN) 教の方向なんですが、 そのときにセキュリティはどうするか。 あるいはセキュリティというのはいろいろな意味がありますが、 例えば名誉毀損的なことが起こらないか。 大学の先生同士の論文なかには、ちょっとこれはひどいんじゃないか というのがあります。それがもとでもう口を聞いてくれない人もいます。(笑) 現に、立教大学には情報監査委員会というのが情報企画委員会と別にあって、これの役 目はこういうトラブルをどうするか。 あるいは倫理というものはどうなるかを考えていくんですが、 これがなぜ発足されたのかという経緯をいろいろ聞いたところ、 ある先生のホームページ上では、ある別の先生の教育活動 および学術的なものについて非常に批判的に書いてある。(笑) それが名誉毀損にならないか。 つまりアカデミックな問題に絞ったからといって、 問題が解決されるわけではないのではないか。むしろタチが悪いかもしれません。
ここの流れでは、学術的批判をすることも、「倫理的によくないこと」のように 捉えられているふしがあります。
社会学者なら、あっち側にいっちゃった人が「自分の敵は皆一緒」という発想をするもんだということは、当然、知ってるものだと思っていたけど、あたしゃ、社会学というものを誤解していたかな?
「学者 vs 一般市民」というような事実に反する単純な対立図式をでっちあげ、宣伝するのは勘弁して欲しい、とおっしゃるのは、おそらく、ご自覚がないからですね。ぼくは、根拠なくしゃべっているわけではないと思いますけど。
ぼくは、学者と一般市民で、使う言葉が違うということが示せればそれで十分だと思うんです(もちろん、両者に共通することはたくさんあるでしょう)。それは、ブルデューの文化資本や知識社会学を持ち出すまでもなく、イギリスだとジリー・クーパー(作家・ジャーナリスト)の『クラース:イギリス人の=階級=』とか、アメリカだとポール・ラッセル(英文学者)の『階(クラス)級:「平等社会」アメリカのタブー』とかに、使用言語の差があることは示されており(学術用語の使い方には限定されてはいませんが)、ぼくの図式もべつに外しているとは思われません。それに、生きていて、両者では違うという実感もありますけど。
それから、逆にこちらから質問すると、自分の言葉でしゃべることに、どんなメリットがあるのだろう。ぼくには、そのへんがよく分からない。それが、ぼくが話を逸らしたり、黒木さんらの主張点にまともに言及しなかった原因になっているのかもしれないと思ってきました。これは、素直な疑問です。ぼくは、これまで、通常の生活をする上で自分の言葉で語ることがそんなに重大であると自覚したことはなかったからだと思います。だから、そんな些末なことにいちいち返事をする必要はないと思っていたのかもしれません。そのへんの簡単な説明をしていただけると嬉しいです。
小波さんがおっしゃる通りで、なぜこうも単純な対立図式を描いて、そこに様々な事柄を根拠も示さずに合てはめようとするのか?
しかも、「遠回り」と称して、相手の強調点について全く触れようとしない。
どうしてそれができないかというと、私や山形氏が強調している点が「厳密な言葉遣いで語ること」ではなく「自分自身の言葉で語ること」であることを認めた途端に、「学者 vs 一般市民」という類の単純な対立図式にのっとった論旨が出発点においてすでに崩解していることがばれてしまうからじゃないですかね?
実際、私は、「十分な理解が伴なってなくても、謙虚でかつ正直であれば、それを利用して構わない」という意味のことを 11/24 にはっきり述べています。 (文章のレベルで謙虚さと正直さを発揮すれば、おのずから自分自身の言葉遣いに近付いて行くものだと思う。)
私はこちらの主張を全面的に認めてもらわなくても良いと思っているのですが (それは普通無理というものでしょう)、「学者 vs 一般市民」というような事実に反する単純な対立図式をでっちあげ、宣伝するのは勘弁して欲しいのだ。 bon さん、この点に関してだけは、どうかよろしくお願い致します。
やはり、友人をかばうときに、対立図式をでっちあげて煽るようなことをしちゃいかんでしょう。しかも、御自身の専門の社会学の素養を利用して、そうしてしまっているわけですよ。本人にはそういう事態になってしまっているという自覚がないようですけどね。私はそういうのはかなりやばいと思いますけどねえ。
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ですから、ぼくの論点は、体感型の理解をしている場合に、自分の言葉で語ることは難しいだろう。どうしても、「○○さんの言う、△△」というよう な言い方になってしまうと言うことです。すると 体感型の理解というのは,「言葉にできない理解の仕方」ということのようですね。 それを対象化して言語なりなんなりの表現を形作るべきだという要求は,いわば 中村氏の語法における非線形なものを線形にしろという要求のように取られるのかな? 期せずして bon さんの「体感型理解」と「言語的理解」?とが,私が前にみなさんに例を求めた「非線形」と 「線形」といった対立図式にのってしまっているようです。
まあこれは皮肉な見方です。でも,言語化するための努力こそが物事を明r$K$9$k$?$a$N=EMW$J%W%m%;%9$J$s$@$H$$$& 私の信念からすると,体感型だから他人の言葉を借りるしかなかったんだろうというのは, 甘い態度のような気がしますね。自分の言葉を発見しない間は,しょせん分かっちゃいないんだよ, と言ったら怒られるかな。
> そういうまとめ方をするから、こちらの主張を全く聞いてないという印象を私に与えてしまうのです。
> これで何度目の説明になるかわかりませんが、私と山形氏の強調点は「言葉に意味をはっきりさせて使うこと」よりも「自分の言葉で語ること」にあります。他人の権威を理解もせずに利用して「学生のあなたに云々」などと言ってはいけないのは当然のことでしょう。自分自身の言葉で語ったがために、言葉の意味がはっきりしなかったというなら、このようなタイプの非難は不必要でした。他人の権威を一切あてにせずに、自分自身の言葉で語ることの方がどんなに説得力があることか。
ですから、ぼくの論点は、体感型の理解をしている場合に、自分の言葉で語ることは難しいだろう。どうしても、「○○さんの言う、△△」というような言い方になってしまうと言うことです。これがわからないというのであれば、もうぼくも、これ以上申し上げることはありません。世の中には、そういうのを解しない人がいるのだということが分かったことが収穫だとしておきたいと思います。
一つだけ全面的に賛成しておけば、「学生のあなたに云々」発言はまずいと思うし、その点は、ぼくもどこぞやで彼に言ったことがあり、彼もそれがまずかったことを認めています。それは、もう、ぼくには終わったことで、その主張を黒木さんや山形さんが、ぼくに対していくら主張されても、どうにもしようがありません。また、この件については、彼は、beingさんに謝罪されています。ここで混ぜ返す問題ではありません。
それから、学者、一般市民という言い方をそのままの形で受け取られるというのもやや驚きです。いや、それは、むしろここの趣旨に添っていると見るべきでしょうか。崎山さんもおなじような理解のようですね。もう少し(ぼくが思うに)理解してもらいやすそうな言い方をしますと、言葉を厳密に(特に操作的定義の意味)使うという訓練を受けている人は、それに従えばよい、いや、従うべきだ。しかし、そういう訓練を受けていなければしょうがない。ということです。新聞記者が、ある意味プロフェッショナルというのは当たり前のことですが、それと、ここで言うところの厳密な言葉遣いというのは、全く別個の話でしょう、と少なくともぼくは思っているのです。 言葉遣いには、レベルがあるでしょう。定義が簡単にできるものもあるでしょうし、「木」などのように定義してみても仕方ないとされている語もあります。また、「社会」などのように、いろんな人がいろんな定義をしている語もあります。また、「非線形の知」のように「ファッションとしての知」かと思えるようなものもあるでしょう。そういう違いを一緒にして、より定義の難しそうな錯綜したような言葉を「自分の言葉で語れ」というのは、できそうだけどもっと難しいのだろうということです。それが、「○○の言う△△」になってしまっても、ぼくはそれがダメだとは思いません。
> この論点を無視し続ける bon さんはこちらの主張をはなからねじ曲げ理解を拒否しているのです。そして、それを正当化するために、様々な理屈を積み上げようとした。
というか、ぼく自身は、ねじ曲げているつもりではなく、遠回りをしても、その方がわかってもらえると踏んでいたのですが、どうもそういうわけでもないようです。ぼくも、これ以上は、お手上げかもしれません。
崎山さん、ここであらためて、あいさつをしたことはありましたっけ?
実は秘かに崎山さんのサイトの「電子ネットワーク協議会レーティングデータ一覧について」にお世話になっています。もちろんやってみたことは皆と同じで、登録されてしまっている近所もしくは知り合いのサイトの検索です。 math.tohoku.ac.jp 内にも一件ありましたが、その内容は単におたく系なだけで、何が問題なのか、さっぱり理解できませんでした。 (そのページは現在存在してない。)
他にも色々登録されていて面白かった。あまりのおそまつさに大笑い。まだ遊んでない方は遊んでみると面白いかも。
bon さん曰く、
ぼくは、ここの掲示板で于さんが追及されていた、言葉の意味をはっきりさせて使うべきだという趣旨には、その通りだと思っているのです。
そういうまとめ方をするから、こちらの主張を全く聞いてないという印象を私に与えてしまうのです。
これで何度目の説明になるかわかりませんが、私と山形氏の強調点は「言葉に意味をはっきりさせて使うこと」よりも「自分の言葉で語ること」にあります。他人の権威を理解もせずに利用して「学生のあなたに云々」などと言ってはいけないのは当然のことでしょう。自分自身の言葉で語ったがために、言葉の意味がはっきりしなかったというなら、このようなタイプの非難は不必要でした。他人の権威を一切あてにせずに、自分自身の言葉で語ることの方がどんなに説得力があることか。
この論点を無視し続ける bon さんはこちらの主張をはなからねじ曲げ理解を拒否しているのです。そして、それを正当化するために、様々な理屈を積み上げようとした。
私が、なぜ、
このサイトを安易に、「権威」とみなしたり、「ac.jpサイト」だから「学究的なサイト」であるなどとみなしてしまうのも誤りです。そのように思ってしまう方は、その思い込みが何に由来し、自分の意見にどのような影響を与えてしまっているかをよく考えてみるべきだと思う。ひとりひとりをよく見ているか、相手をよく理解した上で肯定的に評価しようとしているか、勝手に権威を自分の心の中に作り上げてびびってないか、……。
と言わねばならなかったのか、よく考えてみて下さい。
もしかして、山形氏まで「科学者」もしくは「学者」と思っていたりしませんか? 私自身の「自分の言葉で語ること」の重要性の強調も私自身の本業とは何も関係ありません。
ところで、bonの思想的立場を読むと、「簡単に言うと、ぼくの思想的立場は、基本的にはマックスミン(maxmin)原理だと思う。最低ラインをボトム・%"%C%W$7$F$$$3$&$H$$$&N)>l$H8@$($PJ,$+$j$d$9$$$+$J!W$H=q$$$F$"$j$^$9!#
さて、「自分の言葉で語ること」の重要性を説く相手の主張を無視し、それなりの社会的地位に立っている方が、他人の権威を借りて「学生のあなたに云々」などと「若い人」を攻撃しておきながら、実際には理解が全く伴なってない、というような態度を、「体感型の言葉」として擁護することが、「最低ラインをボトム・アップするという立場」とどう整合するというのでしょうか?
私は、誰もが自分の言葉で語り、それで他人に認めてもらえるという状態を目指す方が、「最低ラインをボトム・アップすること」に繋がると思います。
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