記事を書く、時刻順、目次、スレッド、検索、過去ログ、最近の記事
各記事の Id ヘッダー行の # から始まる文字列をクリックすると、その記事自身にジャンプします。その記事自身の URL を知りたい場合に利用して下さい。さらに、括弧の中の reply をクリックするとその記事に返事を書くことができ、 thread をクリックするとその記事を中心としたスレッド形式の目次を見ることができます。
この文脈で、「一般市民だから学者とは違う」、といってみたりするのは、 単なる甘え(bonさんが というより于論茶氏がということ)でしかないのではないかと思いますが? 職業的なことをいえば、于論茶氏は「訓練を受けてない」で通る立場ではない (新聞記者というのは、論理的な文章を書くということについて 一種のプロフェッショナルであるはずです。「一般市民」とは言えません)はずです。 また、それをおいておくにしても、 「体感」とか「共感」といったところで、その質の問題というのは問われてきます。 率直に言って于氏の「体感」とか「共感」の質が高くないことも、 ここまで于氏が批判されてる要因ではないかという気がします。
(bonさんが書かれていることにも ツッコミをいれたい気分はあるけど今軽くやると半可通な感じになりかねないから保留)。
なお、bonさんは私をご存じないでしょうから一応申し上げとくと、 私は電機メーカーの研究所にいる単なる技術者です。それこそ「一般市民」です。 (嘘はついてないつもり)。
> しかし、 bon さんの曖昧な態度にはまだ納得できません。なぜなら、 bon さんは御自分のサイトで社会学者として発言されているように見えるし、御自分の掲示板に掲載された私に対する批判も明らかに社会学者としての素養を利用して書かれた文章のように見えるからです。この件は、于論茶氏の件とは独立に、 bon さん自身の学者としての誠実さが問われるという事態になっていると思います。
黒木さん、ぼくがここに書いたことは、確かに社会学的知識をいくぶん使ったかもしれない。まず、この文の意図を説明します。雑文になりますが、お許し下さい。
ぼくは、ここの掲示板で于さんが追及されていた、言葉の意味をはっきりさせて使うべきだという趣旨には、その通りだと思っているのです。しかし、一方で、ここの掲示板での彼の評価は低いかもしれませんが、ぼくは、なお于さんが知的に優れた人であると思っているのです。彼は、新聞記者としていろいろな現場を歩いてきた人でもあります。彼は、きっと、いろんな社会現象を生で見ながら、それをどんなふうに説明したら納得できるだろうかということを考えて来られたように思います。彼は、言葉の厳密な定義をして使う人ではないかもしれない。しかし、彼は、さまざまな概念を「体感する」人とでも言うのでしょうか。あのとき見たあの事件は、この概念と「ぴったりだ」というような体感をされるのだと思うのです。そこでは、概念の厳密な定義を意識せずとも体感できるのです。この間、音楽の良さを体感できるという例を出しました。例えば、バッハが好きな人は、実は、多用されるディミニッシュコードにぞくっとするのかもしれませんが、そんな和声理論を知らなくても、誰かが「バッハ的なコード使い」とか「バッハ的音楽」とか言ったとすると、「そうそう、ああいうバッハ的コード使いいいよね」なんて言っちゃうわけです。ところで、于さんは、特定の思想家を好まれる傾向にあります。それは、おそらく、その思想家の言葉に「共感」されたのだろうと思います。そして、「そんな素敵な言葉を掲示板で披露してみたい」と思われているのだと思います。そのような言葉の使い方が、定義が不明で、「ファッションとしての知」などと一くくりで言われると、どうにも説明のしようがない、やる方ない思いに陥られたのだと思います。それが、黒木さんには暴言のように思われた、于さんの発言に現れていると思うのです。ぼくが「学問的知に基づいていても、なお日常知」で言いたかったのは、そういうことです。(うーん、情報量が増えてないかな?) でも、やりとりが続くうちに、どうも、やっぱり、ぼくの言いたいことが理解されないらしいということが分かってきたので、さらに、これを書いたわけです。自分のサイトで書き込んだのは、ぼくのいじけた気持ちからだと思います。ここでの意図は、やっぱり于論茶さんは、一般の人である。しかし、会社に行って帰ったら風呂入って飯食って寝るのではなく、ずっと読書されてきている。そういう意味で、一般市民であっても知的な市民だと思うのです。ところが、言葉を厳密に定義して理論を構築する、というような科学的手法には馴染まれていないために、体感型の言葉の使用になってしまうのだと思います。しかし、これは、科学者が、厳密な言葉を使うべきであるにもかかわらず、怠慢でいい加減な使い方をしているという、(おそらくこれが黒木さんたちが言う)「ファッションとしての知」とは、違うものではないかと、私は主張したかったのです。実質的に、ちゃんと定義されていない言葉を用いるという意味では、同じなのかもしれない。しかし、訓練を受けてきているのに怠慢でちゃんとしない学者と、そんな訓練を受けなかったけど頑張って勉強している市民を、同じ土俵で論じるのはまずいのではないか。それがぼくの主張の中心点です。(ああ、こういう言葉がさっと出てくればよかったのにな。)私の主張が、どのように評価されるのかには、ぼくにはすごく興味がありますが、残念なことに、ここの掲示板では、(まあ、ぼくがいらぬ火種を作ってしまったことも事実ですが)于さんを受け入れかねるというような雰囲気を感じます。だから、ぼくは、関心があっても、ここで議論をし続けるのには耐えられないという思いなのです。
これで、ざっと、ぼくのこの記事の意図を述べました。あとは、煮るなり焼くなり捨てるなりして下さい。
于論茶さんについては、残念なことですが、于論茶の掲示板の11月25日(木)12時06分40秒の記事を見ればわかる通り、もはやまともに相手をしてもらえる状態ではないようです。ああいう状態なので、そちらの件については興味は失せています。
しかし、 bon さんの曖昧な態度にはまだ納得できません。なぜなら、 bon さんは御自分のサイトで社会学者として発言されているように見えるし、御自分の掲示板に掲載された私に対する批判も明らかに社会学者としての素養を利用して書かれた文章のように見えるからです。この件は、于論茶氏の件とは独立に、 bon さん自身の学者としての誠実さが問われるという事態になっていると思います。
于論茶氏を友人としてかばおうとしている bon さんは大変苦しい状況に追い込まれているのはわかります。それは非常によくわかる。このサイトに集まって来て下さっている方々を全てひっくるめて無用な暴言を吐くような方であっても bon さんにとっては大事な友人なのですから。
もしも bon さんが、最初から最後まで社会学者ではなく于論茶氏の単なる一友人として、「確かに于論茶さんが言っていることはおかしいと思うし、こちらの方々に吐き続けているあの行き過ぎた暴言も止めて欲しいと思う。でも、于論茶さんは私にとって大事な友人だ。ああいう口の悪い人ではあるけど、いい人なんです。これ以上非難するのは止めて下さい。お願いします!」のように言ってくれれば、個人的には大納得だったんですがね。 (これが権威の力を借りないその人自身の言葉の威力でしょう。まだ bon さん自身の本音もよくわからないんですがね。)
しかし、実際には全然そうではなかったわけですよ。
bon さん、「これで最後にします」と言っていても、再登場された場合は歓迎致します。 (メールによる議論はしんどいので応じかねます。)
以上、厳しいことを書いてしまいましたが、それは bon さんの今後に期待しているからです。だからこそ曖昧に誤魔化して欲しくないと思いました。
P.S. 皆忘れていると思いますが、山形氏の削除された記事の最後の段落は bon さんへの質問になっていますよね。山形氏の記事の内容は誰もが感じる疑問というやつですよね。
まず、かもさんへ。
サイトの形式については、当初よりいろいろと考えてはいるのですが、今のところああいうスタイルです。職なしの身としては、時間はあるけど金がないので、できることには限界があります。もちろん、コンピュータ関連の技能にも大きな限界があります。いまは、その不適切な状態でバランスしている状態とでも言いますか…。
それから、今もそうですが、ac.jpに入れたとして、その後、今のサイト自体をどうするかは、考えどころだと思っています。
それから、いなばさんへ。
おっしゃること、やや理想論的なところはあるとは思いましたが、もっとじっくりと考えてみます。急にはお返事できそうにもないです。
建設的な意見をありがとうございました。
最後に。
ぼくも、于さんやbeingさんと同様、こちらからはそろそろ退室したいと思います。
いろいろとかき混ぜてしまったり、(「いつも」はどうなのかは存じませんが)雰囲気が悪くなってしまってごめんなさい。
以降は、メールででもお願いします。
以後、うちからも、自分からこちらを参照することはしません(少なくともこの一連の件に関しては)。申し訳ないですが、こちらでも、うちへの参照は控えていただけるとうれしいです。
友のことを批判されると、つい腹を立ててしまったり大人げなかったですが、それでも何人かの方からは、有意義なご意見もいただきました。これについては感謝いたします。ではみなさん、$4$-$2$s$h$&!#
ついでに公開お節介。公衆の面前で発言するからには、公衆からの反応が当然あるものとして、それなりの覚悟と準備をしておかないと、ac.jp で職を得てから困ることになるよ。
ジャーナリストは、学者なんかよりも、そのことがずっとわかっているもんだと思っていたけど、于論茶なる人物はそうではないようだな。ジャーナリストにもいろんなのがいるということを学ばせていただいて、有意義でした。
> 本人のに頼まれもしないのに言い訳して、それが思いっきり的を外しているんだから、みっともないことこの上ない。
はい、その通り。まぁ、それが于さんに対する私の関係を表していますね。「コミットメント」ができちゃうと、ついこういうとんちんかんと思われるようなこともしたくなっちゃうんですね。一応、はずし方も考えたんですけどね。でも、言ってるじゃないですか、あそこは、そういう「内輪のサロン」だって。ね。もうお許し下さいよ〜。I give up!! ね、ね。
「いぢめる?」 by bonbon.
要は、言行不一致を責めているのですから、「専門知」と「一般知」など関係ありません。問題の頓珍漢な反応は、本人のに頼まれもしないのに言い訳して、それが思いっきり的を外しているんだから、みっともないことこの上ない。
>> 繰り返しになりますが、私が言いたいことはこうです。自分の意見を、権威がありそうな人の小難しそうな言葉を使って語るのではなく、自分自身の言葉で語って欲しい。他人の言葉の内容ではなく権威のみを借りて、自分の意見を語ることのバカバカしさに気付いて欲しい。 (私が于論茶氏へのメールにおいて山形氏の発言に示した共感は自分のことばで語ることについてでした。このことに関してはずっと一貫しています。)
> これについては、痛いほど了解しました。先の私の=q$-9~$_0J9_!"9uLZ$5$s$,!"$\$/$N$^$H$a$KBe$o$k$^$H$a$rDs<($5$l$?$H$-$K!"G ついでにもう一つ。ぼくは、師匠から、中学生にでも分かるように説明できるかどうかが、本当に(自分が)分かったどうかの目安になる、というようなことを言われ続けてきました。そういうふうにありたいとは、思っているのですが。 > 実際にここに全くとんちんかんな驚き方をしている人がいるようなので、もう一度強調しておこうかな。 > 私と山形氏は「学者と一般読者をつなぐ仕事」について語っているわけではありません。おそらくそれが無理だと思われる方にそれを御願いしても無駄でしょう。 あのですね、ぼくを批判されても困るんですけど。というのは、「学者と一般読者をつなぐ仕事」という言葉を使ったのは、ぼくではないんですよ。ぼく自身は、今回の中村氏の言うところの「非線形の知」に関しては、最初から今まで何のことか全然分からなかった。これは、于さんの掲示板でも自分のところでも述べてきていることです。私も、それが何であるかさらさらっと説明できるようであれば、于さんのところであんなに執拗な発言はしませんよ。ぼく、そんなイヤなやつじゃないですから。学生相手だったら、「何やってんだ、調べてこい」と言うかもしれませんが、ぼくは、あそこの語らいを楽しんでいるので、ぼくに分かることであれば、説明しているつもりです。
ことのついでですが、ぼく自身は、「学者と一般読者をつなぐ仕事」は、難しいですがやっていこうと思います。
「学者と一般読者をつなぐ仕事」という意味は、学生に講義するというレベルから、社会に応用するというレベルまであると思いますが、いずれにせよ、そんな簡単ではないと思うし、特に実社会への応用というのは、ことのほか難しいと思います。Paul Lazarsfeld (1967) が語った社会学の応用の難しさは、30年経った今でも、ちっとも色あせず変わっていない。そのまま使えると思われます。Lazarsfeld は、わざわざ、社会学者とクライアント(政策決定者や一般市民)をつなぐために middle-man という職業を置くように主張しています。ぼくが、現在のサイトを立ち上げたのも、そんなに難しいことなのか実践的に試してやろうと思ったのでした。結果は…、あの通り。評価は自分からはしません、今のところ。Lazarsfeld の原著に関心のある方は、"The Uses of Sociology" New York: Basic Books をご覧下さい。
> 繰り返しになりますが、私が言いたいことはこうです。自分の意見を、権威がありそうな人の小難しそうな言葉を使って語るのではなく、自分自身の言葉で語って欲しい。他人の言葉の内容ではなく権威のみを借りて、自分の意見を語ることのバカバカしさに気付いて欲しい。 (私が于論茶氏へのメールにおいて山形氏の発言に示した共感は自分のことばで語ることについてでした。このことに関してはずっと一貫しています。) これについては、痛いほど了解しました。先の私の書き込み以降、黒木さんが、ぼくのまとめに代わるまとめを提示されたときに、納得いたしました。すぐに納得した旨を書くべきだったのかもしれませんが申し遅れました。ぼく自身は、そのように心がけてきたつもりですし、これからもそうありたいと思っています。 > ついでに述べておけば、このサイトを安易に、「権威」とみなしたり、「ac.jp サイト」だから「学究的なサイト」であるなどとみなしてしまうのも誤りです。そのように思ってしまう方は、その思い込みが何に由来し、自分の意見にどのような影響を与えてしまっているかをよく考えてみるべきだと思う。ひとりひとりをよく見ているか、相手をよく理解した上で肯定的に評価しようとしているか、勝手に権威を自分の心の中に作り上げてびびってないか、……。安易に他人のサイトを「権威」とみなすのは、自分自身の考える能力の一部をどぶに捨てているようなものです。そして、他人を勝手に「権威」呼ばわりすることによって、大変な迷惑をかけていることに気付くべきですね。 迷惑をおかけしているとは思いもよりませんでした。どんなことだか全然分からないのですが、あまり重大な迷惑でないようでしたら、謝っておきます。それから、ac.jpの件に関しては、お察しの通りびびっています。ここのソーカル関係の掲示板は、この問題に関心を持った頃から時折拝見させていただいていました。しかし、めちゃくちゃ関心があったわけでもなかったので、そればかりに時間をかけている間はない(おそらく、本格的に参入しようと思うと莫大な時間とエネルギーが必要だと直観した)と思い、自ら書き込みをすることはありませんでした。しかし、そこでのみなさんの真摯なやり取りを拝見していると、「権威」という言葉がふさわしかったかは分かりませんが、ある種の羨望と同時に拒否感があったことは確かです。そのことで自分の意見にどのように影響があったかはよくわかりませんが。 さらに、ぼくが、bonなどという名前で書き込みをしているのは、現在経営しているサイトが、学究的な目的ではない、肩の力を抜いたサイトだからなのですが、だからこそ、真摯に意見が交換されているソーカルの掲示板に参入するのは失礼だろうと思っていたことがあります(ちなみに、こちらの掲示板は覗いたことはありませんでした)。思いもよらず、どういう風の吹き回しか、ここでこんなふうに語ることになってしまって、何だか宙に浮いたような(どっちつかずの)思いです。もし参入するならば、実名でちゃんと参入したかったです。ただ、現在、ac.jpに求職中でして、参入するにしても、それ以降にいたします。 実際にここに全くとんちんかんな驚き方をしている人がいるようなので、もう一度強調しておこうかな。 私と山形氏は「学者と一般読者をつなぐ仕事」について語っているわけではありません。おそらくそれが無理だと思われる方にそれを御願いしても無駄でしょう。 繰り返しになりますが、私が言いたいことはこうです。自分の意見を、権威がありそうな人の小難しそうな言葉を使って語るのではなく、自分自身の言葉で語って欲しい。他人の言葉の内容ではなく権威のみを借りて、自分の意見を語ることのバカバカしさに気付いて欲しい。 (私が于論茶氏へのメールにおいて山形氏の発言に示した共感は自分のことばで語ることについてでした。このことに関してはずっと一貫しています。) ついでに述べておけば、このサイトを安易に、「権威」とみなしたり、「ac.jp サイト」だから「学究的なサイト」であるなどとみなしてしまうのも誤りです。そのように思ってしまう方は、その思い込みが何に由来し、自分の意見にどのような影響を与えてしまっているかをよく考えてみるべきだと思う。ひとりひとりをよく見ているか、相手をよく理解した上で肯定的に評価しようとしているか、勝手に権威を自分の心の中に作り上げてびびってないか、……。安易に他人のサイトを「権威」とみなすのは、自分自身の考える能力の一部をどぶに捨てているようなものです。そして、他人を勝手に「権威」呼ばわりすることによって、大変な迷惑をかけていることに気付くべきですね。 beingさんは知らないでしょうね、「岸辺のアルバム」なんて
ドラマは。さっきから、その挿入歌、shall we dance ?っていったかな、
が頭の中でなってます。杉浦直樹と八千草薫が両親役、国広富行と中田喜子が
子ども役で、もう20年以上も前に随分話題になった山田太一のドラマです。
筋を一言でいうのは難しいけど、陳腐にいうなら、エリート商社マンの父親に反発する息子を
通して家族について考えたドラマだったのかな。
そのドラマに有りそうな場面;
私は別に馬鹿にしたり、冷やかしで書いてるのではないです。家族や恋人同士
みたいな親密な仲なら、感情的になって怒鳴り合ったり、それが、けろっと
直ったり、そんなことは、だれでも
経験があるだろうし。それを窓から覗き込んで、他人に言いふらす
奴がいたら、そいつの趣味は悪いですよね。
でも、もしそれを人通りのある道の真ん中でやっていたら、やっぱりみっともない。
上の二つ(家の中と道の上)のどっちにネットの掲示板が近いのか、それは
掲示板にもよりますよね。being さんからみたら、家の中が、他の人から
見たら公道の上かもしれないし。
もってまわった言い方をしたくてこう言ってません。being さん
がいうように、客観性なんてなかなか望めませんよね。私もあれこれ考えているのです。
being さんが、前向きで一生懸命な人だというのは多くの人に分かっているだろうし。
ただ思いつめてますね。言っている事が右に左にちょっと極端な気がします。
それで、最後に真意が通じたらっていっても、なかなかコミニケーションは難しい
かもよ。
たしかにそんな時、好きな詩でも読むのはいいのかも知れません。私も
「二十億光年の孤独」(だったかしら)は中学生の時によんで、その詩の中の
孤独に共感した記憶があります。
中村雄二郎というと「述語集」「哲学の現在」(ともに岩波新書)くらいしかてもとにないんですが、
後者の「さまざまな知」という章を軽く参照した上で思ったことは、
「学者(中村雄二郎)と一般読者をつなぐ」ことすら「于論茶」氏ができていない可能性が結構高い
(黒木さんの挙げた
「于論茶氏$,2L$?$7$FCfB<;a$,2?$r8@$C$F$$$k$+$rM}2r$7$?>e$GCfB<;a$N8@@b$rMxMQ$7$F$$$?$N$+
という問題」と同じところです)かな、ということです。
「于論茶」氏がインタビューだけであんまり読み込まずに書いた雰囲気。 ところで「述語集」の「35 弁証法」の項では、この言葉があまり使われなくなった
ことについて、(マルクス主義の退潮を挙げた上で)次のように書かれています。 それよりも大きな理由は、弁証法ということばがかつてあまりにもあいまいなまま
使われたためではなかろうか。内容がたえず問いなおされ深められることなしに、
述語が符牒となり、ムード的に使われることが多かったからではなかろうか。
その特徴と有効範囲を明らかにすることなく、万能薬のように使われたからではなかろうか。
中村氏はこういう意識を持って言葉を使うはずのひとであろう、というのはあるんですが、
さて実際のところは原典にあたらないとわからないですね。 今回の件を含むより広い話題として、「ファッションとしての知」の問題があると思います (これは私が勝手に作った言葉)。 まあ確かに知的に見えることは格好良いことではありますが、問題はそこで「知」とみなされている言説の内容とその宣伝者の責任です。ファッションとして広まっている「知」の内容に実はデタラメが含まれていたとしたらどうか? ファッションとして広まってしまった「知」がデタラメを含んでしまっているとき、その「知」の元祖として世間的な権威を得てしまった人にはどのような責任があるのか? 私自身は様々な事例を思い浮かべつつこれを書いているのですが、これに関して今この場で議論を始めてしまうと本業に響きかねないので、それらについては何も書かないことにします。このことについて考えるには、伝言ゲームの末端にどのように情報が伝わっているかを調べることは必要なことだと思います。 P.S. そう言えば、ソーカルとブリックモンの共著のタイトルも『ファッショナブル・ナンセンス』でしたね。 bon さんへ。私も山形さんも日常の常識レベルの話しかしてません。私は肩書上は「学者」ということにされてしまうかもしれませんが、専門家として詳しいのは数学の中でもほんの一部に過ぎませんし、山形さんは肩書の上でも学者でもなんでもない。そのような二人の共通の論点について、二人が学問的厳密性を求めているかのように言うのは完全に的を外しています。 私の言いたいことは、誤解を恐れず要約すれば、「有名人の権威に頼った議論をするのはみっともないので止めた方が良い」ということです。もちろん、単に権威に頼るのではなく、十分な批判的考察によって、自分の言葉に焼き直した上で利用するなら構わないと思います。もちろん、できることなら、最初から最後まで、有名人の言葉など引用せずに、全てを自分自身の言葉で語るべきだと思いますね。 まあ、有名人の権威を利用することが恥ではないと思っているなら、個人の責任でそうしても構わないと思いますが、それをおおっぴらにやってしまった場合は、どこかで誰かに批判されてしまうということがあっても仕方がないでしょう。批判を禁止する権利など誰にもありません。 なお、ここで誤解して欲しくないのは、有名人の主張に共感を示すことを禁止するという類の主張をしているのではないということです。 「どうしてそんな不遜なもの言いができるのか、○○氏は学生のあなたに……と言われるような陳腐な存在ではない」という類の権威的に聞こえる非難の仕方をして良いのは、その学生の主張を論証によって明確に否定できる程度にその○○氏の主張を理解している場合に限るべきです。 (まあ、そうだとしても、そのような権威的な言い方は止めた方が良いと思うが。論証によって否定してみせれば十分。) これに対して、十分な理解が伴なってなくても、謙虚に「正直なところ私は○○氏が何を言っているかよく理解できないし、本当に良いことを言っているか理解できない面があるのだが、少なくとも××について……と言っている点に私は共感せざるを得ないのだ」と述べるのは構わないと思います。 (ある人物の意見があらゆる事柄に関して正しいということもあり得ないので、他人の考え方をそう簡単に理解できるということなどないので、こういう形式で共感を示すのは良いやり方だと思う。もちろん、どんなに謙虚に発言しようとも、誰かに間違っていると批判されることはあり得ます。) P.S. 向こうの掲示板はもはやこんなことを言っているのはのんびりし過ぎだという感じになってますよね。できれば私もこれ以上不毛な議論は避けたいです。中村雄二郎氏の主張の内容に踏み込んだ議論やその周辺の雑談ならば歓迎します。意見よりも情報を募集したいですね。ただし、こちらもしくはあちらで名前の出ている方がこちらに反論・批判・回答を書き込むことは禁止しません。私もそうする権利を留保しておきたいですし。 これまでのこの掲示板上のやり取りの傾向を、それは誤解だと言われることも覚悟して、エイヤっとまとめると、于論茶さんは、「年長者面して叱責した」ことに対しては謝罪しておられるが、中村氏の「線形」「非線形」という言葉を含めた言説に対して、ご自分の言葉で説明できるほどに理解していると言えるのか問題だ、ということになるでしょうか。 このまとめを良しとしていただいたとして話を進めます。 われわれ学問をやる者にとっては、言葉の定義というのは重要で、ましてそれがある人の学説を理解する上で重要なキーワードになっているとすれば、それが何であるかをまず理解することが必要だと考えるでしょう。そして、それをもとに理論は組み立てられて行くわけです。 ところが、われわれ、学問の世界に飛び込む前から、そういうことができたでしょうか? いや、そういう方もいらしたかもしれませんが、少なくともぼくなんかは、そういう人ではありませんでした。学部・大学院を通して、次第に身についてきた習慣みたいなものだと思っています。 ぼくは、于論茶さんは、そのような訓練を受けてきていない人であると思っています。彼は、人文・社会科学についての専門書も多く読まれていますが、これまでしばらく掲示板等を通してお付き合いさせていただいている印象では、科学的方法論については(私の誤解かもしれませんが)あまりご存じないようです。ですから、「操作的定義」という言葉1つにしても、その意味はご存じかもしれませんが、それを意識的に使って文章を書くという訓練は、なされていないように思うのです。 そんなわけ$G!"P2O@Cc$5$s$N=qJ*$N!VFI$_J}!W$d!VM}2r$N;EJ}!W$,!"2J3X 音楽を聴いていて、その背景や理論や楽器などについての知識がたとえなくても、いい音楽だと思えればそれで素人としての聴き方としては十分なのと同じように、専門書(例えば中村雄二郎氏の書物)を読んで、「線形」とか「非線形」というものについて、説明はできないけど何か分かる・共感するとかいうことは、あることだと思うのです。(この比喩がおかしいという場合は、何か適当な事例を想像していただけるとうれしいです。) 日常知には、そういう「○○みたいなもの」というような理解の仕方に基づくものがたくさんあって、それは、必ずしも「△△学」で扱う学問的知による理解と同じではないかもしれない。でも、それで生きている人がいるのだから(さらに言えば、おそらくそういう人の方がずっと多いのだから)、それを非難してみても仕方ない。むしろ、ぼくなんかは、そういう日常知の中味について関心があります。 ぼくは、以上のような点から、于論茶さんが、ある書物のある言葉から得た「感じ」を、ご自分の言葉に置き換えるのが難しく、「中村雄二郎の言う非線形」というような言い方でくくられたとしても、あそこが彼の「サロン」(決して「学術発表の場」ではない)だという性質上、問題ないことだと思います。 もし、あのサイトが、意図的に人心を惑わせて宗教にでも勧誘しようとかいうのであれば、実質的な損害を受ける可能性のある人が出てくるかもしれないので、抗議すべきかもしれませんが、私が思うに、あそこはそういう性質の掲示板ではないので、これ以上お構いなしで終わらせていただけると嬉しいです。 いなばさん、読み易くするために、改行位置を勝手に変えました。 なるほど、于論茶の掲示板における最近の于論茶氏の記事「言葉の暴力」 (11月23日(火)12時43分45秒) を見ました。于論茶氏も大人気ないことしてますなあ。「言葉の暴力」を真にふるっているのは誰なんですかねえ。于論茶氏がどこまで調べた上でああいうことを述べているのか知りませんが、于論茶氏は山形さんの実生活に理不尽な悪影響が及ぶようなことがあったとしたら、どのように責任を取ってくれるのでしょうかね? 于論茶氏は実名と所属を公開してましたっけ? 最後に、私もいなばさんの意見に賛成であるということを表明しておきます。私は、もちろんのことですが、山形氏の文章も『聖母エヴァンゲリオン』もどちらも参照した上で意見を述べています。 正確でない引用が (私にもその責任がある、于論茶さん申し訳ありません)、このまま流布するのは嫌なので、于論茶氏の being さんに対する発言を正確に引用しておきましょう: bon さんへの回答部分は引用を略しました。 このように、于論茶氏は「不遜」と決め付けた上で中村氏の権威を利用し「学生のあたなに」てな言い方で being さんを非難しています。しかし、 being さんが指摘しているように、その件に関して being さんには次のように謝罪しています: これは「私の破綻」の最後の段落です。引用を略した部分に書いてある于論茶氏の言い訳については原文の方を参照して下さい。 このように、于論茶氏は being さんに対して「年長者面して叱責した」ことについては確かに明確に謝罪しています。この点において、于論茶氏は立派だと私も思います。 しかし、これとは別に、于論茶氏が果たして中村氏が何を言っているかを理解した上で中村氏の言説を利用していたのかという問題は残ります。しかも、そちらは議論の本論に関わることです。感情的になったことを謝罪するのは、本論に関する議論を正常な状態に戻すために行なわれるなら素晴しいと思いますが、実際にはそのように議論は進みませんでした。 もしも、于論茶氏が中村氏の主張をほとんど理解せずに利用していたとすれば、その点において大変不誠実であったということになります。理解が伴なわないまま「自分のフィールドとは異なるところから言葉を借りる」のはよろしくないという類の批判は誰にでもいつでも適用可能なのです。 以上の論点に関して、私と山形氏の間で意見は完4$K0lCW$7$F$$$^$9!# スタイルは違いますが、内容的に同じことを言っているのは一目瞭然でしょう。 being さん、「年長者面して叱責した」ことについては確かに明確に謝罪していることを以上においてきっちり宣伝したということで納得してもらえないでしょうか? 繰り返しますが、于論茶氏はその点においては誠実であったと思います。これで納得してもらえるなら嬉しいです。そして、以上で述べた私と山形氏の共通の論点についてもコメントして頂けたらさらに嬉しい。 于論茶氏の「私の破綻」というのは于論茶の掲示板に11月16日(火)14時18分03秒に投稿された記事ですよね。そこで于論茶氏は bon さんに対して、 と議論の相手を貶めるようなことを言っているので、ふじわらさんによる批判的な感想は「私の破綻」のあとでも有効さを失なってないと思います。言い訳が多過ぎて、とても素直に謝罪しているようには見えないのだ。 あと、「アンフェア」だとかそういう類の話は感情的で非建設的でつまらない議論になりがちです。もっと別のやり方があると思います。 例えば、中村雄二郎氏の考え方を借り物の言葉ではなく自分自身の言葉によって解説することを誰かが試みるとか、あのような「非線形」という言葉の用法の由来を調べてみるとか、色々なやり方があると思います。 (ここで現在進行しているように、議論にするのではなく、「その手の言葉」に関する雑談にしてしまうという手もある。) 特に、中村氏の権威に頼った物言いをしてしまった于論茶氏は、自分自身の名誉を挽回するために、中村氏の考え方の解説を自分自身の言葉で (ただし勝手な解釈はまずいので正確な引用などの論拠込みで) 示すべきだと私は思いました。 それができないのなら、中村氏などの権威を利用するのは止めた方が良い。権威に頼るのではなく、自分自身の言葉で正々堂々と意見を述べ、相手を納得させるよう努力するのが本筋だと私は考えています。本筋から外れるなら、それなりの見識と教養を示してもらわないとね。 まだくすぶり続けているようですが、于論茶氏への返事を資料として公開しておきます。煮るなり焼くなり御自由にどうぞ。 あのですねbeingさん、あなたは決定的なまちがいをしている。ふじわらもぼくも、ここにいるその他の人も、ウーロン茶個人にはなんの関心もないのです。かれの発言がある種の症例として興味深かったというだけです。メディアでの発言に対しては、その発言そのものに対してフェアであることは求められるけれど、現時点でのその人物がなにをどう考えているかについてまでいちいち検証する責任はありません。ふじわらは、そういう意味ではちゃんとフェアにやっている。
「その後謝罪したからそれについて書くのはフェアじゃない」なんてこたぁないのです。
たとえば、ぼくは昔サンタクロースが実在すると思ってそれを日記に書いていた。それを見て「サンタクロースが実在すると思っている子どもがいる。ほほえましい(困ったものだ)」と書くのは、別にぼくに対してアンフェアではない。いまはぼくはサンタがいるとは思っていないけれど、昔そういうことを信じていた自分がいるのは、謝罪しようと転向しようと否定できない事実だから。
次に、かれは本当に謝罪したか? あの居丈高で権威主義的な物言いについては、あなたとかれとの間でどんな裏のやりとりがあったか、われわれにはわからないのです。かれが謝罪したと言われても、こっちにはなんの判断材料もない。それにどう謝罪しても、かれがある状況下で逆上してそういう破綻をきたす人だという事実は変えられないことにもご留意ください。
サンタクロースの例でいえば、いまのぼくがサンタクロース信仰を糾弾されたら「いやいや、一晩で世界の子どもにおもちゃを撒くのは物理的に不可能だし、ぼくのところにはぜんぜんきてくれないし、その他かくかくしかじかで現実的にありえないから、もうサンタクロースがいるなんて思ってませんよ」といえば、謝罪なんかしなくても、十分に説明として納得されるはずです。
かれはそれをやっていない。だからここにいる多くの人にとっては、ウーロン茶という人は未だに『「線形」「非線形」をいい加減に使う、よくいる困った人物で、しかもすぐに逆上して居丈高になる人』でしかない。あなたがかれを(なにが悲しくてか)いくらかばっても、かれがきちんとした説明をするまで、これは変わらないのです。ついでに言えば、その説明を逃げて「あれはわたしの引用が悪かった」とか引っ込めるだけでは、単に自分の発言に責任の持てない、つつかれるとすぐ逃げる人物、という印象も否めないでしょう。
そしてぼくが指摘して(かれがあわてて削除したように)かれはその直後にまた「身体性」ということばでまったく同じことをやっている。「謝罪」したって、その端からまた同じことやってたら、謝罪の意味がないでしょう。さらに批判されるのは歓迎と言いつつも、実は歓迎どころか、気にくわないものは即削除でオッケーと思ってることも暴露されましたね。
そういうことです。あなたのやっていることは健気だと思いますが、もうちょっとよく考えてみてください。あなたがここでなにを言っても、ウーロン茶氏が公開の場で作り上げた自分のイメージはかれ自身の公開の場でのふるまいによってしか改善されないのです。が、いまんとこ、改悪される一方ですねえ。 「非線形微分方程式」と無関係な意味での「非線形」 (非線型、nonliear、non-linear) という流行語の意味は「リゾーム」 (根茎、rhizome) にかなり近いですよね。 それにしても、こんなのがなぜ流行るんでしょうかねえ。私なら流行中の言葉を安易に取り入れると薄っぺらなものを書いているという印象を読者に与えてしまうような感じがするんだけどね。 まあ、世の中には、自分自身にとっては意味不明の流行語を使いこなしている人を見ると「おお、すげえ」と思ってしまう人も多いようだから、その手の流行が生じるのは仕方がないことだと思いますけどね。内容じゃなくて、キーワードだけに反応するのって楽ですからねえ。 今更書くこともないのかも知れませんが、私の要約
が being さんにアンフェアで不注意に見えたことを残念に思います。
私としては、フェアにするよう注意したつもりです。ただ
結局主観的なことですから、beingさんがそうとらえても
驚きません。真っ只中から見ている being さんと、掲示を見ている
だけの人の差も多少はあるでしょうし。bonさんは、よくまとめている
とおっしゃって下さっていますが。
御自身で要約を試みられれば、管理者の方とのメールでのやりとりなど
自分だけ知っている知識や、これとは直接関係ない今までの印象
に要約が頼りがちな事に改めて気が付かれるかとも考え、
「being さんがフェアに要約するとどうなりますか」と聞いてみたい
気もしましたが(意地悪からではないですよ)、建設的な展開になるわけでもないですしね。
being さんが言われるように掲示板はその後も流れ続けているようですし、
私もやれやれと思っています。これからも頑張ってください。
かもさんに引き続いて。ちと陳腐ですが (いや、陳腐だから例になるのか)。 なんかいくらでも出て来そうだな。
Id: #b19991125105729
(reply,
thread)
Date: Thu Nov 25 10:57:29 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991125084354
Name: bon
Subject: 雑感
Id: #b19991125084354
(reply,
thread)
Date: Thu Nov 25 08:43:54 1999
Name: くろき げん
Subject: 他人の言葉の内容ではなく権威のみを借りることのバカバカしさ
Id: #b19991125011741
(reply,
thread)
Date: Thu Nov 25 01:17:41 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991124034824
URL: http://www.lares.dti.ne.jp/~sakichan/
Name: 崎山伸夫
Subject: 訂正
「述語集」→「術語集」(メールで指摘をうけました)
Id: #b19991124155722
(reply,
thread)
Date: Wed Nov 24 15:57:22 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991124003240
Name: 鴨 浩靖
Subject: わはは
「学問的的厳密性に精通しているわけではない」のなら精通している人に協力を求めれば良いだけのこと。それが、「学者と一般読者をつなぐ仕事」ってもんでしょ。つっこまれるってのは、知識の提供で飯を食っている人がわざわざ無料で情報を提供してくれている滅多にない好機なのに、罵り返して対話拒否に出てやんの。どの辺が「学者と一般読者をつなぐ仕事」なんだろう?
Id: #b19991124153323
(reply,
thread)
Date: Wed Nov 24 15:33:23 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123221935
Name: 鴨 浩靖
Subject: Re: 学問的知に基づいていても、なお日常知
偉そげなことを書いておいて、つっこまれると、私は専門家ではないからええかげんなことを書いてもしゃあないんだと開きなおるってのは、角栄裁判論争の時に渡辺昇一がとった態度だったなあ。
弁護するふりをして、実は、「この人物は角栄裁判論争の時の渡辺昇一と一緒だ」とけなす、一種の褒め殺し?
Id: #b19991124150924
(reply,
thread)
Date: Wed Nov 24 15:09:24 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991124141551
Name: いなば
Subject: なぜ俺が山形氏の弁護をせにゃならん
柳下さんは山形さんのぽんゆうで、一方俺は山形氏と直接会ったことも電話で話したこともないのだが。
俺自身は山形式罵倒は三枝貴代式罵倒とちがって許容範囲だと思う。まあ俺が直接罵倒されたことがないからかもしれないが。
俺の知人が、俺から見てもこれはちょっとという感じの山形氏の罵倒というか辛らつな批判を浴びたこともある。具体的には俺の伝言板での俺の同居人とか、今はなきみほボードでの加藤秀一とかだ。前者の場合にはやんわりと反論し、後者の場合には「まあまあ」的な弱腰のフォローを入れた。
山形氏の罵倒は俺が知る限りでは基本的には人畜無害のバカをいじって遊ぶというより、バカのくせに無自覚なえらそな半可通を罵倒する、というもので、それはやっても構わないことだと俺は思う。半可通は人畜無害ではないのだから。
俺が気になった加藤秀一への辛辣な物言いについていえば、そこからちょっと逸脱するところはあったが、理解もできる。山形流にいえば森岡正博氏は「立ち止まって誠実に悩む」というポーズでもって、「善意で敷き詰められた地獄への道」を回避したつもりがその入り口に既に立っていることになるわけだ。そして加藤秀一も「少しはましだが五十歩百歩」であるわけ。忖度するに多分山形氏は俺に対しても似たような警戒心をもっているのではないだろうか。この判断は俺としてはあまり公平ではないしやや過剰に辛辣だとは思うが、根拠はある。
山形氏や黒木氏には評判の悪い永井均氏のえらさというのは俺の理解するところでは、一切の言い訳なしに、善意も悪意もなしに、そこに立ち止まってうだうだ考えることが純粋に楽しいから立ち止まっている、というところであって、そこに「善意」のエクスキューズを込めてしまいがちな俺とか、あるいはおそらく加藤とかは不徹底なのだろう。山形氏にはそういう永井氏のスタンスも我慢ならないのかも知れないが、そうだとしたらそこんところについては俺は反対だがね。
俺の同居人への罵倒については、まあ純粋なフライング、まさに勇み足のミスと理解している。
だから俺としては山形氏の罵倒の基本姿勢は許容範囲だし、場合によっては公益にかなう場合も多し、と判断しているのだが。
Id: #b19991124144301
(reply,
thread)
Date: Wed Nov 24 14:43:01 1999
Name: いなば
Subject: ええと、
まず素朴な疑問から。
中村雄二郎は何から読めばよいのか? 私は学部生の時分、『魔女ランダ考』と『哲学の現在』を買って読み、あまりのくだらなさに怒って古本屋にたたき売った過去があります。(でも『哲学の現在』はなかなかひきとってもらえなかった。)
今ではどんな内容だったか記憶にありません。もちろん、たたき売った私がおろかだったのかも知れない。しかし、その時分(80年代)はまって、後にちょっと距離を置くようになった論者というのはいっぱいいるし、その時は敬遠していたが後にだんだんその有り難みがわかるようになった論者もいっぱいいるけれど、中村雄二郎については読み直す気が起こらなかった。
というのも、中村氏の断片的な発言を読むにつけ、于論茶氏の記事と同程度のことしか言っていない、つまり「雑駁な図式を振り回す大風呂敷野郎」「ファッションとしての知の先駆者だがその流れの中でも時代遅れになったオヤジ」という以上の印象を受けなかったのです。最初は軽薄なだけに見えたがだんだんにそのすごみが増してきた浅田彰なんかとは全然違う。
守備範囲の広さはさすがだと思いますが、レトリック先行の連想ゲームはいただけない。守備範囲の広さでは川本隆史氏と似ていますが、川本氏は少なくとも安易な連想ゲームや大風呂敷には禁欲的です。大風呂敷のダボラという点では山之内靖氏、池田清彦氏にも相通じますが、独創性で負けてます。
日頃親しくしている哲学、倫理学関係の知人(たしか中野敏男氏かあるいは大庭健氏だったかと思いますが、記憶が定かではありません。間違っていたらごめんなさい。どちらにせよ、アクチュアルな問題意識を過剰なほど持ち合わせているが、それでもって学問的厳密性をおろそかにすることはせず、トンデモを嫌う方であることはいうまでもありません)に、「中村雄二郎ってどこがいいんですか?」と聞いて、「うーん、わからん、初期のパスカル研究とか明治法政思想とかはちゃんとしてたんだけど……。」といった答えが返ってきました。
哲学の仕事のひとつは大風呂敷を拒否して物事を具体的に考えることの指南であると解釈する私にとっては、私の記憶にある限りの中村氏は哲学者ではないです。
Id: #b19991124141551
(reply,
thread)
Date: Wed Nov 24 14:15:51 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991124003240
Name: 柳下毅一郎
Subject: 山形の発言スタイル
「もうここには書かない」という人に対してリプライを付けるのが正しい行為なのかどうかはわかりませんが、一言だけ。
ぼくは中村雄二郎についても「線形と非線形」についても語るほどの知識を持ち合わせているわけではないので、その点に関しては特に言うことはありません。しかし、「95年秋に書いた原稿だから」「非線形の知」という言葉について特に検討しなくてもかまわない、という態度はあまり賞賛されるべきではない、とは思います。
もうひとつ、この掲示板に集まる人たちを「あなたがた学者」「あなた方」と乱暴にくくってしまうのもどうかと思います。別に$3$3$K=8$^$C$F$$$k?M$,9uLZGI$N?.
ひとつ、山形に言っておくべきことがあるとすれば、山形は人の発言の真意を読みとろうとするのは控えるべきだと思う。どうも山形の発言スタイルを見ていると、相手の発言の裏まで読んで、(手続きをはぶいて)そこに直接意見をぶつけることが多いような気がする。たしかに話は早いかもしれないが、それは無用なトラブルを呼ぶことでもある。実際、裁判を起こされるほど嫌われるのは、必ずしも罵倒語が豊かだからではないでしょう。むしろ、「あなたはこういうことを考えているから、こう言っているんでしょう」と最初に言い切ってしまうからだと思うのだけど。
で、山形は一発殴られるべきか? いや、そういうことを言う人はこれまでも多かった。「ボランティアでもして人の心の痛みを知れ」と言われたこともあったはず。でも、どうですかね。それも経験だろうとは思うけれど、たぶん殴られても変わらないと思うな。
Id: #b19991124130432
(reply,
thread)
Date: Wed Nov 24 13:04:32 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991124125303
Name: being
Subject: 本当にこれでおしまい
すいません、ちょっとふざけ過ぎて筆が滑りました。
悪意はありません。ごめんなさい。
ふじわらさんの冷静な対応には感謝しています。
Id: #b19991124125303
(reply,
thread)
Date: Wed Nov 24 12:53:03 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991124070859
Name: being
Subject: これでおしまい
<もう書き込むのはやめるつもりでしたが、突然いなくなるのも失礼なので、最後に一言書きます。>
思い詰めてるかな?そうでもないんですが、そう見えるかな。まあ真実内面的にはそういう性質ではあり
ますが(→「書く」という行為ではそういう性質が出やすいですからね)、リアルワールドの私本人はか
なりちゃらんぽらんな楽天家です(関係ないか)。
で、私の最大の欠点はやり過ぎちゃうところなんですね。今回も中原中也に留めておけばよかったんで
すがね(苦笑)。中原中也の方は努めて意味のなさそうなただ美しいという詩を選んだんですが、谷川俊
太郎の方は何かいかにも意味ありげでまずかったですね。でもただ好きな詩を書いたっていうだけで、
(これが言いたくて書いているんですが→)特に他意はありません。悪しからず。
あと、詩とか書くとセンチメンタルになってる(:思い詰めてる?)感じがどうしてもしますけど、実
際はそうでもないんですけどね。皆さんが数式を扱うときセンチメンタルになってるわけじゃないのと同
じかな(って違うか)。まああれは、言ってみれば、「どちらかと言えば”こういうもの”の方が私の性
には合ってるな」という宣言みたいなものでした。煙に巻いちゃえ作戦でもあったんですが(笑)。詩は
縦に長いので。
というのは悪い冗談ですが、ふじわらさんが言われていることは私も考えました。難しい問題です。
ただ一つ言えることは、私個人としては、「かくて、人間、ひとりびとり、/こころで感じて、顔見合わ
せれば/につこり笑ふといふほどの/ことして、一生、過ぎるんですねえ」というスタンスは保ちたいな
あ、っていうことです。こんなの全然建設的でも何でもないまぜっかえしでここに書くのは憚られますが。
それでは、失礼しました。
Id: #b19991124070859
(reply,
thread)
Date: Wed Nov 24 07:08:59 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123145439
Name: ふじわら
Subject: being さんへ2
ちょっとどこかで知恵をつけて父親を批判する娘に、「まだ大学生のくせに何いってんだ」って怒鳴る父。
「父さん、それはないよ」って言う兄に、「この半人前が、だまってろ」って言ってると、
騒ぎを耳にした野次馬が集まってくる。それに気が付いた娘はあわてて
「みんな、なに見てるの!私たちはけんかなんてしてない。
私はお父さんが好き。仲のいい家族なんだから。もうみんな帰って!」。それを見た
誰かが「あの子けなげだね」って言う。そのそばから
口の悪い野次馬のひとりに、「このガキ、ぶんなぐるぞ!」って、また言うお父さん。
「とにかく、僕が悪いんですから、みなさん帰ってください」って野次馬に
必死で頭を下げる兄。
でも弟は、「姉さん、こんな家いつまでもいると自分がだめになるぞ」って言って家出。
で、山田太一のやりそうな風に展開させると(別に山形さんを擁護する
ための付け足しではないですよ、念の為。山田太一のドラマを一つでも
見たことのある人なら、いかにも展開だって分かってくれると思いますが)
その口の悪い野次馬は、実は意外にちゃんとした奴だったりして(山崎努あたりが
演じたりして)、家出した弟はなんとなく話しを聞きに行く。。。
Id: #b19991124034824
(reply,
thread)
Date: Wed Nov 24 03:48:24 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991124003240
Name: 崎山伸夫
Subject: Re: 非線形の知について
Id: #b19991124025541
(reply,
thread)
Date: Wed Nov 24 02:55:41 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123012629
URL: http://www.lares.dti.ne.jp/~sakichan/
Name: 崎山伸夫
Subject: ツリーとリゾーム
ほとんどチャチャですが、
ツリーとリゾームというのを最初に聞いたときに連想したのは
「ササラとタコツボ」(丸山真男「日本の思想」から)でした。
Id: #b19991124003240
(reply,
thread)
Date: Wed Nov 24 00:32:40 1999
Name: 于論茶
Subject: 非線形の知について
bonさんお気遣いありがとう。本人を抜きにしての議論がどんどん進行し、そのきっかけを作ったと気に病むわたしの掲示板の若い常連たちを、これ以上苦しめたくないので、この場を借りて少し説明とお断りをします。
「非線形の知」について、私自身が95年当時東京新聞(中日新聞)に掲載した私自身の署名記事を以下に転載しておきましょう。わたしは当時東京新聞文化部次長。この記事は小浜逸郎「弱者とはだれか」の読後感を話し合うために、とくに後段の「弱さの思想」について中村さんが語った部分を、参考資料としてわたしの掲示板にそっくり転載したのですが、掲示板の展開が早く今は消滅しています。
その後のやり取りのなかで、本来の趣旨から離れて、「非線形」という言葉の解釈だけが一人歩きし始め、この騒ぎに広がっている。
ここでお考えいただきたいのはこれが95年秋の原稿であること。その後、線形―非線形」の語義解釈について、どんな議論が物理・数学者と哲学者の間で交わされたか、わたしはすでにアカデミズムをフォローする立場にもなく、ソーカル事件についても詳しい内容は知らなかった。その問題で盛り上っているこのサイトに、突然、わたしのこの記事の一部とそれに関するやり取りの要約が掲載された。
わたしは黒木さんと同じで、ネットで公開された情報に著作権も転載禁止も主張したことはありません。ただ、わたしの掲示板に書きこんでくる山形さんに再三注意を促しているように、コンテキストの捏造はいけないということは言っている。
とにかく、「非線形の知」については、あたかもいまわたしが発言し、しかも私自身が中村氏の代弁者であるかのように要約されてここで議論がはじまったことに異議を唱えたのがこじれたわけです。
自分の言葉で語っていないとみなさんおっしゃるが、新聞記者は学者ではありません。bonさんのいうように、もとより学問的的厳密性に精通しているわけではないし、もちろん文学者でも思想家でもない。bonさんのいう「日常知」わたしは「世間知」といっているが、あなたがた学者と一般読者をつなぐのが仕事です。
その理解において、わたしは中村氏が5年前にわたしのインタビューに対して、語った「非線形の知」という言葉の意味は、記事の中で説明した通りでいいと思っています。
本当は中村氏のその著作「21世紀問題群」のなかで、私の要約でなく、氏がどう書いているかを、ご紹介し、あなた方にはそこから中村氏自身の定義による「非線形の知」については議論していただきたいと思いますね。
わたしがハンドルネームでネットに参加しているのは、ホームページを開いたときからの行きがかりと言うもので、別に逃げ隠れしているわけではありません。探していただければHPのなかで実名も公開しています。ただ新聞記者が開いているホームページは数少ないので、昨年の秋「反マスコミ」のネット愉快犯のかっこうの標的にされました。その痕跡はいまもinfoseekの検索画面に残っているほどです。家族にも身の危険が及びかねない事態になり、今も警戒を解いていないことは事実です。
そのために掲示板への書きこみについてはかなり神経を使っているところへ、今回の山形さんのあの登場のし方は、去年の掲示板荒らしそっくりで、寡聞にしてわたしは山形さんを存じ上げていないので、あの対応は致し方なかったと言っておきましょう。わたしはあなた方ともうかかわりを持ちたいとは思わないので、今後は書きこみをすることはありません。わたしの掲示板にも登場はご無用に願いたい。
メールにはお答えします。
・………以下転載
00002 中日新聞 夕刊 19951014 文化面 006頁 1958字 00 CH19951016064200
土曜訪問/ 非線形の知で21世紀問題群を考える 哲学者 中村雄二郎さん
いま千年紀の節目 弱さで生き延びる 951014-ETBK000000-0602
阪神大震災やオウム真理教事件が、終末論と結びつけて語られ、社会主義の崩壊から冷戦終結とともに始まった民族紛争や、人口爆発、環境汚染の問題が世紀末を象徴する。こんな不安の時代に人はどう生きればよいのか。哲学書ブームの中、刊行が始まったシリーズ「21世紀問題群ブックス」(岩波書店、全24巻)の緒巻『21世紀問題群』で人類の行く末を問う哲学者・中村雄二郎氏(70)に聞いた。
「“世紀末”というのは、問題を百年単位でとらえる考え方なのでしょうが、十二世紀ルネサンス以来の西洋近代が問われているという意味で、今の時代はむしろ“千年紀”の節目でとらえた方がいいと思うのですね」
かつて十九世紀末をもって語られた“世紀末”は、主に甘美で退廃的な風俗、芸術の分野について言われ、たかだか個別文明の滅びにとどまるもの言いでしかなかった。中村氏は、今世紀末の深刻さは、とても“世紀末”レベルにとどまるものではなく、西欧が千年がかりで築き上げた“近代原理”の総体が問われるところまできたという意味で、“千年紀”の問題だというのだ。
西欧文明を成り立たせた“近代原理”とは、「近代科学、宗教改革、資本主義」の三位一体を指す。その展開は「神の死、個我の不安、科学の細分化」となって人類に“コスモロジー(宇宙観)”の喪失をもたらし、今世紀には「情報科学の誕生、社会主義の実験、第三世界の人類史への新たな登場」という課題を突きつけた。
失敗から学ぶ
「ソ連の崩壊の後、だれも社会主義のことを言わなくなったのがおかしい。社会主義は、人類にとって永遠のテーマである“個と共同体”のあり方を解決する夢に満ちた実験だった。その失敗から何を学ぶかは今なお大切な問題で、今の宗教の問題にもつながっている」
そして今、人類は二十一世紀に向かって「地球環境、高度情報化社会、高齢化社会」という、さらに深刻な問題群を抱え込むことになった。それが今回のシリーズで、中村氏が他の二十三人の執筆者たちとともに解き明かそうという「21世紀問題群」なのだ。
「今という時代は、既成の知識が役に立たないし、どう書いても先のことは分からないのかもしれないが、私はこう見ているという全体像を示すことは、私のような仕事をしてきた者の責務です。これはまた自分自身への課題設定でもあります」
中村氏は八六年、旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故に慄然とした。閉じた社会主義の問題点、制御なき科学技術の限界を目の当たりにして、ここに人類が陥った“千年紀の困難”が集約されていると見た。三年後、カナダで開かれたユネスコ主催のシンポジウムで、同じ問題意識に立つカナダ王立アカデミー総裁、ディグバイ・マクラーレンの報告「二十一世紀へのサヴァイバルのための諸問題」に深く共感する。
マクラーレンは、その中で「地球の新しい見方」として、「地球は本質的に変化する宇h6u4V$NCf$KEj$2=P$5$l$?0l$D$N>.$5$JOG@1$G$"$j!"2J3X$K$h$C$F$=$N>-Mh$rL@3N$KM=B,$9$k$3$H$O$G$-$J$$!W$H$$$&?7$?$J%3%9%b%m%8!<$r@_Dj$9$k!#
本来、自然は予測不能な複雑な相互作用で成り立っているのに、近代科学はリニアー(線形)な一対一の因果関係の連鎖によって、法則的にのみ自然をとらえようとした。チェルノブイリはまさにそうした“近代の知”の破綻の象徴だったのだ。
マクラーレンはこうした近代の「普遍的、論理的、客観的」な“線形の知”に対して「場所的、多義的、相互的」な“非線形の知”を対置することで二十一世紀を生き延びる方法論を探ろうとしたのだった。
この“非線形の知”こそ、中村氏がこれまで様々な著作の中で論証してきた「パトス(受動)の知」や「臨床の知」「演劇の知」に通じるものだった。
「非線形の知は“弱い思想”でもあるが、実は強い。本当の強さとは何かが今問われているのです。このあたりはわかってもらいにくいが、近代の知が若さや能動性、効率性に価値を置く“青壮年男性モデル”であるとすれば、非線形の知は受動的で、経験を重んじ、相互依存的な“老少年女性モデル”であるといえる。その弱さが他人の痛みを理解させ、自発性につながり、対価を求めない無為の共同体をつくる」
先端科学は人間を遺伝子レベルで解明する「ヒト・ゲノム計画」までを現実化した。人工知能によって生まれた高度情報社会は、国家の枠を超えた。そこに生まれた情報ネットワークは普通の人たちにも開放され、権力の分散に役立つだろう。
中村氏はベルリンの壁を崩した衛星放送や、阪神大震災で活躍したパソコン通信によるボランティア・ネットワークに、非線形の知の持つ新たな可能性を見いだす。東と西、そして第三世界。いま世界のいろんな問題が一番見える立場にある日本こそが、21世紀問題群の解決に貢献できるとも言う。(田島力)
最終ページです。
Id: #b19991124001728
(reply,
thread)
Date: Wed Nov 24 00:17:28 1999
Name: くろき げん
Subject: 「ファッションとしての知」問題
Id: #b19991124000128
(reply,
thread)
Date: Wed Nov 24 00:01:28 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123221935
Name: くろき げん
Subject: 有名人の権威を利用するのを止めれば良いだけのことだと思う
Id: #b19991123221935
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 22:19:35 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123163223
Name: bon
Subject: 学問的知に基づいていても、なお日常知
Id: #b19991123170455
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 17:04:55 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123163511
Name: くろき げん
Subject: なるほどねえ
Id: #b19991123163511
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 16:35:11 1999
Name: いなば
Subject: 私も大人げないかなと思いつつ
以下のごとき投稿を于論茶掲示板にしてしまいました。もしこれが削除されるようだったらもうどうしようもないですね。
------------------------------
私自身は小谷・山形係争を以下のように理解しています。
(以下引用)
Thu Jan 29 16:12:44 JST 1998
From いなば () :
小谷真理自爆事件について知りたい人は、朝日新聞の文化欄の「小谷真理≠巽孝之訴訟」を読もうね。小谷真理氏は山形浩生氏に「小谷真理は巽孝之のペンネーム」と書かれて、「これは理論的なものは女には書けないという女性蔑視だ」とバカなことを言ってるが、真相は問題の文章をよく読めば分かるように、山形氏は「小谷も巽もどっちも似たようなことばっかりかいてる上に、どっちも全然ダメだ」と言ってるだけのこと。小谷氏の主張は、『聖母エヴァンゲリオン』はまともな理論書であり、かつ巽氏がまともな理論を展開てきる論客である、と山形氏が認めている場合にしか成り立たないけど、山形氏はどっちも全然認めてないものね。
小谷氏は山形氏と版元に修正や謝罪を要求している。それなら、小谷氏も自著のなかでの死海文書についての軽率な記述を改めるべきだ。
(引用終わり)
出典は
http://www.e.okayama-u.ac.jp/~sinaba/cgi-bin/comments9801.html
です。
参考資料として
http://www.e.okayama-u.ac.jp/~sinaba/cgi-bin/comments9710.html
http://www.post1.com/home/hiyori13/friday.html
http://www.post1.com/home/hiyori13/friday2.html
もご覧下さい。
個人的には小谷氏の方がフェミニズムを辱める行いをなさっていると思います。
Id: #b19991123163223
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 16:32:23 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123154201
Name: くろき げん
Subject: 私と山形氏の共通の論点
まず、beingさんへ、
>哲学者にしろ何にしろ、自分のフィールドとは異なるところから言葉を借りるのは極力
>慎んだ方がいいのではないか、とは思えます。どうでしょうか?
どうしてそんな不遜なもの言いができるのか、中村氏は学生のあなたに「哲学者にしろなんにしろ」と言われるような陳腐な存在ではないし、「何にしろ」の「何」が新聞記者の私をさしているのなら、慎む必要などないと答えておきましょう。じゃ、あなたやbonさんにどんなフィールドがあるというのか。実のないレトリックだけの文章をもてあそぶのはおやめなさい。ここの掲示板はそういう議論のための議論はしない。それはそちらでおやりになればいい。
(于論茶の掲示板における于論茶氏の「噛み間違える議論」 (11月15日(月)16時40分26秒) より)
そのあとはわたしが感情的になりすぎた。その点は私の落ち度、これは謝らねばなりません。特に、間に入ってうまく調整なさろうとしたbeingさんを誤解して年長者面して叱責したのはもっと恥ずかしい。これもごめんなさいです。というわけなんですが。掲示板というのは難しいですね。もうやめたくなった。
(于論茶の掲示板における于論茶氏の「私の破綻」 (11月16日(火)14時18分03秒) より)
さらにそんな部分の「謝罪」なんか、ほとんどの人はどうでもいいんです。ここでの関心がむしろ「線形・非線型」のいい加減な使われ方にあることに気がついていますか? 単に「ごめんなさい」とか「不適切な部分がありました」とか言われたってしょうがない。ほしいのは説明です。引用が不適切なら、じゃあかれの言っていた中村式の「線形」「非線形」というのがどういう意味であって、それがどのように重要か、というのをきちんと説明することです。かれは一回もそれができていません。あなたも結局、線形とか非線型とかわからないでしょう。
Id: #b19991123154201
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 15:42:01 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123153644
Name: being
Subject: ひとこと
私が書いているのは、「学生のあなたになにが言えるのか」という趣旨の発言に
ついてですので悪しからず。
Id: #b19991123153644
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 15:36:44 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123122032
Name: くろき げん
Subject: Re: 「私の破綻」
数理社会学を専攻なさるあなたは、「非線形」ということばでご自分の方法論
を全否定されたように受け取られ、ファイトを燃やされたたのかもしれません。
Id: #b19991123150819
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 15:08:19 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123150153
Name: being
Subject: さらに訂正
>ふじわらさんも黒木さんも書かれていた「学生のあなたに何が言えるのか」とい
>う私に向けられた発言に対する批判
この部分については、「黒木さん」のままです。
Id: #b19991123150153
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 15:01:53 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123145439
Name: being
Subject: 訂正
すみません。一つ訂正させてください。先の投稿で「黒木さん」と書いたのは、
「山形さん」の誤りです。投稿者が黒木さんだと勘違いしていました。すみませんでした。
ともあれ、私は、私にも関することでしたので少し説明を加えたかったというこ
とです。その真意をご理解頂ければ有り難いです。
Id: #b19991123145439
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 14:54:39 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123133500
Name: being
Subject: 私の力点
>あのですねbeingさん、あなたは決定的なまちがいをしている。ふじわらもぼく
>も、ここにいるその他の人も、ウーロン茶個人にはなんの関心もないのです。か
>れの発言がある種の症例として興味深かったというだけです。メディアでの発言
>に対しては、その発言そのものに対してフェアであることは求められるけれど、
>現時点でのその人物がなにをどう考えているかについてまでいちいち検証する責
>任はありません。ふじわらは、そういう意味ではちゃんとフェアにやっている。
>「その後謝罪したからそれについて書くのはフェアじゃない」なんてこたぁない
>のです。
「その後謝罪したからそれについて書くのはフェアじゃない」とは言っていませ
ん。というか、そもそも私の力点と黒木さんやふじわらさんの力点とが違っている
ために誤解が生じていると思います。「ふじわらもぼくも、ここにいるその他の人
も、ウーロン茶個人にはなんの関心もない」ということも分かっています。ただ、
私はそうではないということです。以下で説明します。
>次に、かれは本当に謝罪したか? あの居丈高で権威主義的な物言いについては
>あなたとかれとの間でどんな裏のやりとりがあったか、われわれにはわからない
>のです。かれが謝罪したと言われても、こっちにはなんの判断材料もない。それ
>にどう謝罪しても、かれがある状況下で逆上してそういう破綻をきたす人だとい
>う事実は変えられないことにもご留意ください。
一つ言っておきますが「私の破綻」というのは、私と于論茶さんとの1:1のや
りとりの中での言葉ではなく、あの掲示板上でなされた発言のことです。だからこ
そ「客観的事実」という言葉を使ったのですから。
> さらにそんな部分の「謝罪」なんか、ほとんどの人はどうでもいいんです。こ
>こでの関心がむしろ「線形・非線型」のいい加減な使われ方にあることに気がつ
>いていますか? 単に「ごめんなさい」とか「不適切な部分がありました」とか
>言われたってしょうがない。ほしいのは説明です。引用が不適切なら、じゃあか
>れの言っていた中村式の「線形」「非線形」というのがどういう意味であって、
>それがどのように重要か、というのをきちんと説明することです。かれは一回も
>それができていません。あなたも結局、線形とか非線型とかわからないでしょう。
「あなたがかれを(なにが悲しくてか)いくらかばっても」とも書かれています
が説明します。「ここでの関心がむしろ『線形・非線型』のいい加減な使われ方$K
ある」ということは承知してます。それなのに何故こんなに書き込むのか。それは
ふじわらさんも黒木さんも書かれていた「学生のあなたに何が言えるのか」という
私に向けられた発言に対する批判に対して、説明したいと思ったからです。私にと
っては「線形・非線形」という話などどうでもいいのです。
線形・非線形という話や、身体性の話については、ここで批判されていることを
批判した/するつもりは一切ありません。私が拘っていたのは「学生のあなたにな
にが言えるのか」というような趣旨の感情的な発言について、于論茶さんご本人が
掲示板上で破綻だと認められ、謝罪されたという事実があるということです。その
ことをここに「書き添えておきたかった」ということです。これは線形・非線形と
は異なるレベルの話です。線形・非線形とか身体性は、「考え方」であり、当然謝
罪して消えるものではないでしょうし、「于論茶さんが謝罪された」と私が言って
いるのもそういう意味での「謝罪」ではありません。私が言う于論茶さんの謝罪と
は、「学生のあなたに何が言えるのか」(正確にはこの通りの発言ではありません
が)というような感情的な発言に対する謝罪であり、そういった感情的な発言に対
する謝罪は認められるべきだと私は思っています。だから、書き込んで説明したと
いうことです。それだけです。
Id: #b19991123145010
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 14:50:10 1999
In-Reply-To: b0015.html#b19991117055958
Name: くろき げん
Subject: 于論茶氏による山形氏に関する問い合わせへの返事を公開
Id: #b19991123133500
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 13:35:00 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123122032
Name: 山形浩生
Subject: フェア・アンフェア
さらにそんな部分の「謝罪」なんか、ほとんどの人はどうでもいいんです。ここでの関心がむしろ「線形・非線型」のいい加減な使われ方にあることに気がついていますか? 単に「ごめんなさい」とか「不適切な部分がありました」とか言われたってしょうがない。ほしいのは説明です。引用が不適切なら、じゃあかれの言っていた中村式の「線形」「非線形」というのがどういう意味であって、それがどのように重要か、というのをきちんと説明することです。かれは一回もそれができていません。あなたも結局、線形とか非線型とかわからないでしょう。
Id: #b19991123122032
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 12:20:32 1999
Name: being
Subject: ふじわらさんへ
>ただ結局主観的なことですから、beingさんがそうとらえても驚きません。真っ只
>中から見ている being さんと、掲示を見ているだけの人の差も多少はあるでし
>ょうし。bonさんは、よくまとめているとおっしゃって下さっていますが。
そうですね。真っ只中にある者の中でさえも捉え方の違いはあるでしょうし。い
くら客観的な視点から書く努力をしても、結局は主観に過ぎませんね。だからこそ
私達は、永遠に埋まらないその「主観の溝」を埋めるために説明し続けるんでしょ
うね。
>御自身で要約を試みられれば、管理者の方とのメールでのやりとりなど自分だけ
>知っている知識や、これとは直接関係ない今までの印象に要約が頼りがちな事に
>改めて気が付かれるかとも考え、「being さんがフェアに要約するとどうなりま
>すか」と聞いてみたい気もしましたが(意地悪からではないですよ)、建設的な
>展開になるわけでもないですしね。
思い返せば、私が何か言おうとした契機の中心にあったのは、ふじわらさんの、
于論茶さんの発言に対する感想・意見だったと思います。発言者である于論茶さん
ご本人が「私の破綻」としてその発言の非を認めておられるのに、そのことには触
れずに、当の発言を批判するのはどうかと思われたのでした。
ネット上で発言している以上、自分の発した言葉に対する責任を負わねばならな
いのは当然だと思えます。過去の発言についても批判する権利はあるし、また批判
される責任もあるでしょう。ただ、発言者自身がその発言を謝罪しておられる場合
少なくともその旨を書き添える配慮があるべきだ、というのが私の立場です。そう
でなければ非を認めたはずの発言だけが一人歩きし、その発言があたかも発言者の
真意・本意であるような印象を与えてしまいます。「掲示板は流れ続けている」、
「アンフェアだ」と言ったとき、私が意図していたのはそういうことでした。
こういう考え方についての意見の相違はあるでしょうが(:そんな配慮は必要な
いという方もいるでしょうから)、少なくとも発言者本人が発言の非を認めている
か否かについてはR4QE*;vl9g$O!"!V;d$NGKC>!W$H$$
う明らかな言葉がある以上、ご本人が非を認めておられることは明らかです。すな
わち私の主観的立場としては、今回の件は、「配慮」がなされるべきだと判断する
だけの客観的事実が存在する事例だったというわけです。
配慮をするか/しないかという段階での意見の相違はやむを得ませんが、私の真
意はこういうことでした。
Id: #b19991123113538
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 11:35:38 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991123012629
Name: くろき げん
Subject: 「非線形」と「リゾーム」
Id: #b19991123084754
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 08:47:54 1999
In-Reply-To: b0015.html#b19991122050933
Name: ふじわら
Subject: > being さん
Id: #b19991123012629
(reply,
thread)
Date: Tue Nov 23 01:26:29 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991122162042
Name: 山形
Subject: ああまったく、裁判はよ終われ
男性(原理)と女性(原理)なんてのもありますねえ。
人工と自然とか。ツリーとリゾーム、なんてのはなつかしいですねえ。
Id: #b19991122182044
(reply,
thread)
Date: Mon Nov 22 18:20:44 1999
Name: 大豆生田
Subject: Re: そういえば
ガルブレイス著『不確実性の時代』ですね。
家に講談社文庫版が積読中。
(私は見たことないが、TBSブリタニカ版もあって、
こちらは訳が悪いという噂である。)
岩波から出ていたガルブレイスの別の本は読んだことあるんだが、
題名が思い出せない。
Id: #b19991122173607
(reply,
thread)
Date: Mon Nov 22 17:36:07 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991122162042
Name: みほ
Subject: 家電
ひとむかし前だけど、「ファジー」とか「ゆらぎ」とかも。
Id: #b19991122162042
(reply,
thread)
Date: Mon Nov 22 16:20:42 1999
In-Reply-To: b0016.html#b19991122154142
Name: くろき げん
Subject: 線形・非線形ワールド2
Id: #b19991122154142
(reply,
thread)
Date: Mon Nov 22 15:41:42 1999
In-Reply-To: b0015.html#b19991121232853
Name: かも ひろやす
Subject: 非線形と同じような状況で使われている他のキーワード
「デジタル」と「アナログ」。
Id: #b19991122064412
(reply,
thread)
Date: Mon Nov 22 06:44:12 1999
In-Reply-To: b0015.html#b19991121232853
Name: ふじわら
Subject: そういえば
かなり前ですが(でも「がきでか」よりは後だと思う)、
本(多分、世界的な(やや経済からみの)政治の話しだった
と思う)のタイトルで「不確定性の時代」とかいうのはありませんでしたっけ?
それとも、「不確実性の時代」かなあ。まあ科学用語ともいえませんね。
それこそ「流行語大賞」(あったかどうか知らないですが)にでも
なるくらい、はやったような記憶が
1つ前の記録:黒木のなんでも掲示板2 (0015)
管理者: 黒木 玄
<kuroki@math.tohoku.ac.jp>
(Web Site)