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2009.06.26
0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ]
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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」

第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)
ティーン向けアニメ映画の路線化 「宇宙戦艦ヤマト」=後編-1

斉藤守彦

[後編の前に…]
 前回のこの連載で「宇宙戦艦ヤマト」について原稿を執筆していたちょうどその頃、東宝が「宇宙戦艦ヤマト・復活編」の配給と12月公開を発表。同時に「復活編」のオフィシャルサイトがオープンした。
 この件、タイミング的に見ると、いかにもこの「クールアニメ・マーケティング・ヒストリー」が「復活編」のプロモーションのように見えるかもしれないが、当方にはまったくそうした意図はない。掲載のタイミングが「復活編」の発表と重なったのは、まったくの偶然である。

 早速「復活編」のオフィシャルサイトから、プロモーションDVDのプレゼントに応募してみると、6月上旬に現物が到着した。差出人を見ると「西崎義展」と、個人名。1977年の「宇宙戦艦ヤマト」公開にあたり、「まず、ファンのためのインフォメーションを行った」西崎プロデューサー。今回もまた、そこからスタートするようだ。
 
【話題性を中心にした宣伝。】 徹夜組の存在など社会現象に。
 
 公開をいよいよ間近に控えた「宇宙戦艦ヤマト」のために、メイジャー・徳山雅也は奔走した。本来の映画宣伝とは、作品の試写を見せて、その紹介や批評記事をメディアに露出してもらうのが仕事だが、「『ヤマト』の場合、マスコミ試写は行いましたが、ほとんどその成果は期待しませんでした」という。「ヤマト」という作品の内容よりも、その存在がティーンの間で大きなムーブメントとなりつつある。いわゆる“話題性”を広めることで、「ヤマト」の知名度の浸透と拡大を狙おうというのである。
 新聞、雑誌などへのアプローチの結果が出始めたのは、7月も半ばに入ってからだった。「“戦艦ヤマト”ヤングに過熱」という見出しで、「ヤマト」のファン・クラブ動向や映画公開、TVシリーズのサントラ盤(当時はまだ、レコードであった)の売れ行きなどを取り上げたのが、7月19日付の読売新聞(夕刊)だ。続いて公開前日となる8月5日(夕刊)には、朝日新聞が「異常人気『宇宙戦艦ヤマト』」の見出しで、読売同様、映画の公開やサントラ盤の売れ行き、TVシリーズ再放送の人気をレポートしている。

 個人的にも記憶しているが、この時我が国は「実態のないSFブーム」のまっただ中にいた。1977年5月25日にアメリカで公開された「スター・ウォーズ」が大ヒットを記録するものの、日本公開は翌78年の夏。これは映画館の編成の都合によるものだが、「スター・ウォーズ」を配給するフォックスとしては、この1年間、なんとか「スター・ウォーズ」の話題を盛り上げて、期待感を持続させなくてはならない。
 フォックス日本支社宣伝部としては、「スター・ウォーズ」を筆頭に、当時まだ日本未公開だったアメリカのSF映画を一緒くたにして、「今、世界的なSFブームが到来している!」と、メディアにアプローチしたのである(このあたりの経緯は、「スター・ウォーズ」関係書籍などで、当時の宣伝関係者が語っている)。 
 ところがメディアとしては、「スター・ウォーズ」をはじめとするアメリカ製SF映画は、日本で見ることが出来ない。何か手近な題材は…という時に「ヤマト」があった。つまり、「スター・ウォーズ」のために仕掛けられた、にわかSFブームが、「ヤマト」が登場することで実態化し、メディアの手で本格的なブーム現象と化して行ったというのが、この時代を経験した筆者の実感だ。
 
【徹夜組とファンの自主的管理】 初日セル画プレゼントなど…
 
 後にアニメ映画が公開される際、ほとんどレギュラー的に行われるようになったいくつかの現象やイベントは、すべてこの「ヤマト」公開の時に行われた試みが原型となっている。いずれも、それまでのアニメ映画ならぬ“まんが映画”の興行では、考えられなかったことの数々だ。
 まずは「ヤマト」公開初日を待つファンたちが、銀座東急など都心の映画館前に数日前から行列を作り、徹夜も辞さない姿勢で上映開始を待った。ただしこれは、映画館サイドとしては決して歓迎すべきことではない。「数年前『エクソシスト』の公開時、徹夜組が出て、当時の新宿ピカデリーの外部ガラスが割れたりの騒動が起こり、警察が介入した事件があった。だから徹夜組が出ることはうれしかったけど、その対応をどうしたら良いのか分からなかった」とは、当時の興行を知る関係者。
 ところが並んだファンのうち、大学生や高校生が、自発的に大学ノートを回して、初日を待つ観客たちの名前や住所などを記載し、ファンの自主管理を始めたというのだ。これもまた、従来の映画興行には見られなかった光景だ。すかさず徳山が、そうした様子をメディアに売り込んだのは言うまでもない。

 そうした徹夜組の観客が出現した理由のひとつに上げられるのは、アニメ制作に使用したセルロイドの原画=セル画を「初日から3日間、各劇場70名様にプレゼントします」と告知したことだ。「当時はセル画なんて、捨ててたわけだからね」(徳山)。
 サントラ・レコードなども含め、初期の入場者にはプレゼントを進呈するという、この戦略の発案者も東急レクリエーションの堀江興行部長であった。これが「さらば宇宙戦艦ヤマト」以降になると、人気声優による舞台挨拶なども加わり、公開初日のイベント化は、さらに過熱して行く。

第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)「宇宙戦艦ヤマト」=後編-1
第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)「宇宙戦艦ヤマト」=後編-2
第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)「宇宙戦艦ヤマト」=後編-3

[筆者の紹介]
斉藤守彦

1961年生れ。静岡県浜松市出身。
映画業界紙記者、編集長の経験の後、映画ジャーナリスト、アナリストとして独立。「INVITATION」誌で「映画経済スタジアム」を連載するほか、多数のメディアで執筆。データを基にした映画業界分析に定評がある。「宇宙船」「スターログ日本版」等の雑誌に寄稿するなど、特撮映画は特に得意な分野としている。

"特殊映像ラボラトリー 第9回 「クールアニメ・マーケティング・ヒストリー」「宇宙戦艦ヤマト」=後編-1" »
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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」

第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)
ティーン向けアニメ映画の路線化 「宇宙戦艦ヤマト」=後編-2

斉藤守彦

【売店で関連商品がバカ売れ!】 映画館にとって、鉱脈の発見
 
 「あの時のことは、よく覚えているよ。渋谷の東急文化会館の中の映画館を2館開けたにも関わらず、観客の行列が宮益坂のほうまで伸びていた。凄いことになったな、と思ったね」。こう語るのは、当時渋谷東急名画座で副支配人を務め、現在は配給会社ゴー・シネマの社長である会田郁雄だ。

 実際、「ヤマト」を上映した映画館は、潤った。儲かった。通常映画を上映した場合発生する興行収入のうち、約半分が映画館=興行サイドの収入として計上されるのだが、「ヤマト」の場合はこれに売店売り上げが加わった。
 「キャラクター商品やグッズ類を売店で販売したんだけれど、当時はそんなものを扱ったことがなかったんですよ。特にハンカチの売り上げがやたらに良くて、どんどん追加が必要になる。なんでこんなに売れるんだ?と思ったら、ひとつの袋に20枚入ってるのを、1枚分の価格で売ってたんだ。ちゃんと袋から出して、1枚ずつ売らなくちゃいけないのに(笑)。それほど慣れてなかった」と語る会田。

 シネコン全盛の現在ならば、映画を見ながらポップコーンとコーラ、という鑑賞スタイルが定着しているが、32年前の時点では、売店の扱い商品は、せいぜいパンフレットぐらいであり、それも映画館にとって大きな収入をあげるものではなかった。
 ところがヤマトのキャラクター商品の売り上げは凄まじく、「興行収入の40パーセントぐらいの額を、売店だけで上げていたんじゃないかな」(会田)という。ティーン向けのアニメ映画は、オイシイ」。映画館にとっても、興行収入以外の、新しい収入源が開拓されたのであった。
 
【1週目で、都内2館追加上映決定】 最終的に、配収9億円を計上
 
 映画業界では、映画の公開がスタートする土曜と日曜の興行成績で、その作品の興行力を評価する習慣がある。1977年8月6日にスタートした「宇宙戦艦ヤマト」のオープニング成績は、当事者の予想を大幅に覆したものであった。
 「キネマ旬報」1977年9月下旬号「興行街」によれば、「ヤマト」は都内6館において、2日間計4万5336名、興収4615万3435円と「今夏の洋画チェーンの興行としては、最高の数字を記録し、上映6館ともに動員・興行の新記録を樹立した」とある。この成績が、いかに凄まじかったことか。

 例えば、今年ゴールデン・ウィークに公開された「交響詩篇エウレカセブン/ポケットが虹でいっぱい」のオープニング成績が、「ヤマト」と同じ6館で、2日間計6484名、興収1049万9200円。同じく今年G.W.に公開された「劇場版天元突破グレンラカン 螺巌篇」のオープニング成績が、20館(スクリーン)計1万8000名、2784万円だ。
 32年間のタイムギャップや入場料金などの違いがあるとはいえ、同じ6スクリーン上映、初日から2日間、全回満席だったという「エウレカセブン」と比べて、「ヤマト」は7倍以上の観客数、4倍以上の興行収入をあげたのだ。今日のアニメ映画の興行に比べて、この時代のそれは、とてつもない勢いがあったことがうかがえる。

 この勢いに乗って、都内では上映館が2館追加された。洋画ポルノ路線から残酷もの(ダイアン・ソーン主演作など)に流れ、一般映画への転身を図っていた、新宿東急と丸の内東映パラスが戦列に加わり、2週目の8月13日からは、実に都内8館での拡大上映となった。
 また27日からは、さらに横浜ピカデリー、川崎グランドの2館での上映も決定。一方ローカル都市でのブッキングも、徐々に伸びていった。パブリシティ面での話題が「スター・ウォーズ」のおかげでピークを迎えたのと同様、劇場展開の面でも、思わぬ事件が上映館の拡大に繋がった。

 当初7月30日より公開されるはずだった、アメリカ映画「ブラック・サンデー」が、その題材からか配給会社に「上映を実行した場合、劇場を爆破する」などの警告状が舞い込み、配給サイドと興行サイドが検討した結果、上映中止を決めたのだ。
 夏休み映画、それもアメリカ映画の大作の上映中止は、この後も例がないほどだが、「ブラック・サンデー」の前番組で6月下旬から上映されていた「サスペリア」が、予想以上の好成績を上げていたことで、都心の映画館では8月以降も「サスペリア」が続映された。ところがローカルで「ブラック・サンデー」の上映を予定していて映画館のうち、「サスペリア」をそれまで上映していなかったところは、「サスペリア」の続映で乗り切ることが出来ない。

 「僕が『ヤマト』を見た浜松の映画館も、数日前まで『ブラック・サンデー』が、次回上映作品としてポスターが貼られていました。要するに『ブラック・サンデー』が中止になったことで、急遽『ヤマト』の上映が決まったわけですね?」「その通りです。ローカルでの上映に関しては、そういう映画館が、いくつかありました」とは、これまた当時の興行状況を知る関係者との会話。
 あらゆる面で「ヤマト」はツイていた。興行的な意味では、本来敵であるアメリカ映画のアクシデントが、逆に「ヤマト」の知名度を拡大し、上映館の拡大にまで間接的に貢献した。ブッキングは全国に広がり、最終的には、入場者数230万名、興行収入21億円、配給収入9.3億円(このデータは、徳間書店が昭和58年1月に発行した「ロマンアルバム・エクストラ53/「宇宙戦艦ヤマトPERFECT MANUAL 1」に記載されたもの。
 資料協力として、当時の西崎氏の会社ウエスト・ケープ・コーポレーションが名を連ねていることから、最も信頼性の高い数値であると判断する」を記録する。これは1977年に公開された(正月映画含む)日本映画のうち、「八甲田山」「人間の証明」などに続く第9位、1977年時点でのアニメ映画歴代配収では、トップの成績である。

第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)「宇宙戦艦ヤマト」=後編-1
第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)「宇宙戦艦ヤマト」=後編-2
第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)「宇宙戦艦ヤマト」=後編-3

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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」

第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)
ティーン向けアニメ映画の路線化 「宇宙戦艦ヤマト」=後編-3

斉藤守彦

【「さらばヤマト」、前作の2倍の大ヒット】 ティーン向けアニメの路線化

 翌1978年。8月5日から公開された「さらば宇宙戦艦ヤマト・愛の戦士たち」は、入場者数400万名、興行収入43億円、配給収入21.2億円という、前作の2倍以上の大ヒットとなる。こうなると、大手配給会社としても放っておけない。
 「さらばヤマト」を配給した東映は、同じ松本零士原作、東映動画制作による長編アニメ映画「銀河鉄道999」を、翌79年8月4日より公開する。上映系列は、銀座東急の閉館によって、新たに編成された渋谷東急=丸の内東映パラス=新宿東急=東急レックス=池袋東急=新宿東映パラス=上野東急の、東急レクリエーションがハンドリングする渋谷東急チェーンだ。

 以来松本零士原作、東映洋画部配給、メイジャー宣伝によるティーン向けアニメ映画が、夏休みにこのチェーンで公開されるのは、一種の路線として定着。「銀河鉄道999」は配収16.3億円と、同年における日本映画の最高を記録。以来80年「ヤマトよ永遠に」13.7億円、81年「さよなら銀河鉄道999 -アンドロメダ終着駅-」11.5億円、82年「わが青春のアルカディア」6.5億円。
 夏休みではないが「宇宙戦艦ヤマト・完結編」「1000年女王」などが公開され、松本零士原作のアニメ映画は、すっかり渋谷東急系の恒例番組として定着した。こうしたティーン向けアニメ映画の流れが、やがて「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」など、宮崎駿監督作品へとシフトしていく。

 「面白いのは、『ヤマト』と『さらばヤマト』が当たったのに、西崎Pの新作ではなく、松本零士原作作品を続けて制作するあたりですね」「だって、『さらばヤマト』でヤマトは終わるはずだったからね」(徳山)。

 今回色々な関係者を取材して感じたのは、「我々のヤマトは、最初の『宇宙戦艦ヤマト』と『さらば宇宙戦艦ヤマト』だけ。そこで終わっている」という意識の強さだ。確かに「新たなる旅立ち」「ヤマトよ永遠に」以降の同シリーズは、第1,2作には及ばずとも、興行的な成果を果たしたが、さてそれが本当にファンから望まれて製作した作品かどうかは、疑問が残る。そのジレンマは、内部で仕事をしていた徳山たちも同じように感じていたようだ。
 徳山が所属したメイジャーは、いちやく“アニメが得意な宣伝代理店”との評価を業界内で受け、「ヤマト」以降もアニメ映画の宣伝を続々と手がけて行き、“アニメイジャー”とまで呼ばれるようになっていった。現在同社では宣伝業務を行っていないが、「ナウシカ」以降の、「となりのトトロ」「火垂るの墓」を除く「ハウルの動く城」までの、いわゆる“宮崎アニメ”=スタジオジブリ作品の宣伝は、すべて同社が手がけたものである。

 「ヤマト」上映時東急名画座の副支配人だった会田は、後に東急レクリエーション興行部の部長となり、堀江、武舎の後を受けて直営館の上映番組編成をハンドリングした。90年代の後半、会田は1本のアニメ作品の存在を知った。
 配給会社としては都内単館上映、きわめて小規模な公開でビジネスを終えようと考えていた作品であったが、「これは映画として、絶対にイケる」と感じた会田は、配給会社の営業部長を説得し、渋谷東急系の春休み番組に編成した。無論全国公開を前提としてだ。その映画こそ「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」であった。堀江と武舎が敷いた、クールアニメの路線を、会田が引き継いだわけだ。

 「あの時、なぜ堀江さんは『ヤマト』を、東急の劇場で上映しようしたんでしょう?」。会田に疑問をぶつけると、「そりゃあカンでしょうな。カンで番組を決めるのは、東急レクリエーションの伝統みたいなもんだよ」と、豪快に笑う。
 シネコン全盛の昨今では、映画館の上映番組を、担当者は配給会社がかける宣伝費の額で決めるという。そこには堀江が「ヤマト」や「食人族」を「何かありそうだから」と、カンだけで上映を決めた、そんなアナログな良さが感じられない。「エヴァンゲリオン」に可能性を見いだした会田は、後に「シュリ」「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」といった作品を東急系の映画館で上映していずれもヒット。堀江譲りの“カン”の鋭さを証明した。

 低視聴率に終わったTVシリーズの総集編を、独立プロデューサーが配給会社を通さず、興行会社に直接持ち込み、あれよあれよという間に大ヒットしてしまった。暗中模索の70年代を迎えて久しかった当時の日本映画にとって「宇宙戦艦ヤマト」の存在は、紛れもなく光明だった。そして「宇宙戦艦ヤマト」のヒットは、それに携わった人たちの運命を、大きく変えたのであった。
 
 1977年のことである。

(文中敬称略/取材にご協力下さった方々に、心から感謝します)

第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)「宇宙戦艦ヤマト」=後編-1
第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)「宇宙戦艦ヤマト」=後編-2
第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)「宇宙戦艦ヤマト」=後編-3

"特殊映像ラボラトリー 第9回 「クールアニメ・マーケティング・ヒストリー」「宇宙戦艦ヤマト」=後編-3" »
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2009.05.25
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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」

第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)
興行会社が主体性を持って上映を決めた「宇宙戦艦ヤマト」=前編

斉藤守彦

 クールアニメの原点「宇宙戦艦ヤマト」は、1977年夏に劇場公開された作品だ。そのバックグラウンドについては、数々のエピソードが残されている。低視聴率に終わったテレビ・シリーズを再編集したバージョンを、西崎義展プロデューサーが映画館で上映しようと企て、渋谷の東急名画座を1週間だけ貸して欲しいと、同館を経営していた東急レクリエーションにオファー。だが試写を見た東急サイドは、夏休み番組として都内4館での上映したい旨を西崎Pに伝えてくる。
 今回は、この「ヤマト」上映までのエピソードを、映画館を経営する興行関係者の動きと、そこで行われた宣伝展開などについてスポットを当て、当時を知る関係者の証言などをもとに検証してみたいと思う。
 
【東急レクリエーションの“身軽な位置”が、「ヤマト」上映を可能にした】

 西崎Pが「ヤマト」のオファーを行い、東急レクリエーションのために試写を行ったのは、1977年の5月。ゴールデン・ウィーク開けのことだと言われている。この試写会には東急レクリエーションから、堀江鈴男興行部長と武舎忠一編成課長(いずれも当時の役職)が出席。ふたりとも「ヤマト」をたいそう気に入り、鑑賞後の評価も高く、自社陣営での上映を希望する。
 まずはこのエピソードを検証する前に、東急レクリエーションという興行会社の、当時の映画市場における位置について説明する必要があるだろう。

 東急レクリエーションは、1977年当時、東京都内に渋谷パンテオン、新宿ミラノ座といった、座席数1000席以上の大劇場を所有していた。パンテオンのある渋谷東急文化会館には、渋谷東急、東急レックス(後の「渋谷東急2」)、東急名画座(後の「渋谷東急3」)が、歌舞伎町の新宿東急文化会館にはミラノ座(現「新宿ミラノ1」)の他新宿東急(現「新宿ミラノ2)」、名画座ミラノ(現「新宿ミラノ3」)が、それぞれ営業中。また銀座東急、池袋東急、上野東急と、山手線内の各地区にロードショー劇場、名画座を擁していた。
 映画館で上映する作品は、すべて支配人やオーナーが決めていると思われがちだが、それは違う。個人経営の座館ならばいざしらず、松竹、東宝、東映、東急レクリエーションのように、複数の営業拠点を持つ場合、上映作品(番組)は、原則的に経営する会社の番組編成担当者によって決定する。またいかなる場合においても、興行会社の取引相手は配給会社であり、配給会社からフィルムの供給を受けることで、映画館は初めて営業が可能になるのである。
 東急レクリエーションが所有するパンテオン、ミラノ座といった大劇場で上映される新作は、全国公開を前提とした作品であることが多く、東京以外に直営館を持たない同社は、ローカルでの展開に関して松竹と提携し「松竹・東急委員会」を結成。東急と松竹の映画館をチェーン化し、配給会社の要望に応えていた。よく「全国松竹・東急系にて公開」というフレーズを広告などで目にするが、その「全国松竹・東急系」の実体が、両社が経営する映画館のチェーンなのである。

 こうした映画館チェーンには、中心となる「チェーンマスター」なる映画館が存在し、その映画館を経営する興行会社が上映作品を選択・決定していた。例えば松竹・東急系の丸の内ピカデリー系では丸の内ピカデリーがチェーンマスターで、同館を経営する松竹が上映番組を決定するが、パンテオン系の場合は渋谷バンテオンを経営する東急レクリエーションが、チェーンの上映番組を決定し、松竹・東急委員会で調整を行うという具合だ。
 当初東急名画座(当時はその名の通り、旧作を上映する名画座で、時折拡大上映の際にロードショー番組の上映に援用されていた)で、1週間のイベント上映を希望した西崎Pに対して、東急レクリエーションの堀江部長が提案したのは、銀座東急系4館での上映であった。

 銀座東急系とは、銀座8丁目で営業していた銀座東急をチェーンマスターに、渋谷・東急レックス、池袋東急、新宿東映パラスで編成されるチェーンであった。ただしこのチェーンの場合、パンテオン、ミラノ座のような大作ではなく、どちらかといえばB級作品が年間番組の大半を占める劇場網だ。「ヤマト」上映の前年「恐竜の島」「地底王国」といったB級SF映画を上映して好成績を上げるが、それでも配給収入1.3〜1.5億円といったレベル。つまり、東急レクリエーションとしても「ヤマト」の上映を決めたものの、興行価値はその程度と判断していたのである。
 それでもチェーン公開、夏休み上映というあたりは英断と言える。都内にのみ直営館を持つ東急レクリエーションとしては、それらの映画館から上がる収入が、会社経営に大きな影響を及ぼしがちだ。作品選択の失敗は、イコール減収につながる。だが逆に考えれば、直営館が都内にしかないことは、全国規模の興行を想定しなくても良い、ある意味身軽な立場だということをも意味する。これが当時、有楽座、日比谷映画といったA級ロードショー劇場を経営していた東宝や、東急レクリエーションと提携関係にある松竹となれば、最初から全国規模での上映が前提となってしまう。「ヤマト」の場合、東急レクリエーションの、その身軽な立場が意思決定に反映されたのである。

 現在は同社も各地にシネコンを持ち、つまり全国規模の興行網を所有する立場故、プロデューサーが直接持ち込んだ作品を、配給会社を通さずに上映することは、まず不可能であろう。ましてや低視聴率で打ち切りになったアニメ・シリーズの再編集版が受け入れられるとは、とうてい考えられない。
 また東急レクリエーションがアニメ映画について理解を示したのは、1960年代にパンテオン、ミラノ座でウォルト・ディズニーの「101匹わんちゃん大行進」「眠れる森の美女」を上映していたことに加え、日本ヘラルド映画配給による虫プロダクション作品「千夜一夜物語」「クレオパトラ」など、大人をターゲットにしたアニメ映画を上映した実績から、アニメ映画の持つビジネスとしての可能性に、注目していたからだろう。
 
【10代と40代が、「ヤマト」の熱烈な支持層だった】 

 この“英断”に対して、こんなことを指摘する御仁もいる。
 「あの頃堀江さんたちは、確か40代だったはず。戦争も経験されていただろうから、戦艦大和が空を飛ぶことに対して、きっと思い入れがあったんだよ」と、当時の興行事情を知る関係者。
 なるほど。堀江と武舎が試写を見て「面白い!!」と評価したのは、確かにそういう背景もありそうだ。「ヤマト」が大ヒットした後、「キネマ旬報」に掲載された西崎Pと黒井和男編集長(当時)の対談でも「この作品を見た人の感想を集めると、不思議なことに20代の人間は、まあまあですね、みたいな話しかしない。それに反して、10代と40代以上が圧倒的におもしろいと支持しているという、ジェネレーションの差が出てくる。私も同じ年配ですから(対談当時、西崎Pと黒井氏は、ともに42歳)、分かるんですが、この映画の発想そのものが、私たちの世代のものですね」と、黒井が語っている。「宇宙戦艦ヤマト」の劇場公開を可能にしたのは、戦争経験者たちの思い入れであるという指摘は、的を得ているように思う。

 いずれにせよ、配給会社がラインアップした作品を待つばかり。受け身の姿勢になりがちなのが興行会社の宿命的な欠点だが、映画館や興行会社が配給会社を通さずに、直接プロデューサーとの間で作品上映を決定してはいけないという法はない。もちろん「商習慣」として、そのようなことは敬遠されてはいたが。1977年当時の東急レクリエーションは、そうした習慣を打ち破り、自ら主体性を持って作品を受け入れ、その興行価値を判断し、ヒットさせるべくプロデューサーと万全の手を尽くした。当時としてはきわめて珍しいことである。

第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)「宇宙戦艦ヤマト」=前編-1
第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)「宇宙戦艦ヤマト」=前編-2

[筆者の紹介]
斉藤守彦

1961年生れ。静岡県浜松市出身。
映画業界紙記者、編集長の経験の後、映画ジャーナリスト、アナリストとして独立。「INVITATION」誌で「映画経済スタジアム」を連載するほか、多数のメディアで執筆。データを基にした映画業界分析に定評がある。「宇宙船」「スターログ日本版」等の雑誌に寄稿するなど、特撮映画は特に得意な分野としている。

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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」

第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)
興行会社が主体性を持って上映を決めた「宇宙戦艦ヤマト」=前編-2

斉藤守彦

【“仕事だから”引き受けた、徳山雅也の「ヤマト」宣伝】

 とにかく商業劇場で作品を公開する以上、宣伝が必要だ。東急レクリエーションの堀江部長は、西崎Pに対して、メイジャー・エンタープライズ(現・メイジャー)宣伝部に所属する、徳山雅也を紹介。彼を「宇宙戦艦ヤマト」の宣伝担当に起用することを進言した。
 「僕はそれまでアニメというものを、あまり見たこともないし、仕事でも携わったことがありませんでした」という徳山。彼はそれまでメイジャーで「タクシー・ドライバー」「未知との遭遇」といった、外国映画のパブリシティを担当していた。
 「では、なぜ『ヤマト』の宣伝を引き受けたのですか?」という、こちらの質問に対して「仕事だからです」と、徳山はきっぱり言いきった。「もっとも、当時は映画の宣伝代理店ってメイジャーぐらいしかなかったんですけど(笑)」。
 ともかくも堀江の進言を西崎Pも受け入れ、宣伝作業の実務は徳山とメイジャーが行うことになった。
 「最初にやったことは、どんなことですか?」
 「まずは広告出稿を行いました。ただしそれは、一般の観客にではなくて、全国にいる『ヤマト』のファンを対象とした広告です。新聞に出稿するほどの資金的余裕がありませんでしたので、スポーツ新聞、当時のスポーツニッポンに下3段の広告を、6月ぐらいに出しました」

 その広告を、国立国会図書館のマイクロフィルムから発見することが出来た。1977年6月16日付のスポーツニッポン14面。「日本中のヤマト・ファン全員集合!」と大きく書かれた惹句の下には「『ヤマト』のファン・クラブとファンの方々のために事務局を設立いたします。活動状況を、手紙又は電話でお知らせ下さい。(セル、その他資料の提供を考えております。)」との一文。さらに下の部分には「お申し込み・ご連絡は」として、当時西崎Pの事務所であった、株式会社アカデミーの所在地と電話番号が書かれている。まさしく「ファンに向けての広告」だ。
 実はこの時16歳だった筆者は、故郷で友人たちと「宇宙戦艦ヤマト・ファンクラブ『アルカディア』」なるFCを結成し、同人誌の発行などを行っていた。ある夜、FCの中心だった友人から電話があり、「今、西崎さんの会社から電話がかかってきた!」と、興奮した声でまくしたてる。「ええっ!!??」
 自分たちが夢中になっている作品の、プロデューサーが所属する会社から電話があった。地方の高校生たちにとって、それは天地がひっくり返るほどの衝撃であったのだ。 

 「で、なんだって?」
 「ヤマトのセル画をあげますって言われた・・」
 「セル画ぁ?」

 正確に言えば、セル画プレゼントには、ある条件があったはずだ。
 「雑誌に“こんど「ヤマト」の映画が公開されるんです”といったことを投稿して欲しい。あるいはラジオ番組に主題歌や挿入歌のリクエストをしてくれといったことを、それこそ何千通という数の手紙を書いて、全国のファンに依頼するわけですね」と徳山。つまり、当時全国5万人と言われた「ヤマト」ファンによる、草の根作戦だ。
 「当時の西崎Pは、とにかくファンを大切にしました」という徳山の証言を裏付けるように、ファンに向けた広告出稿、そして配給会社の表記がない(「提供・株式会社アカデミー」とのクレジットのみ)映画広告は、当時としては珍しく、またアニメ制作に使用したセル画や資料をファンに放出し、それを広告で告知することも、前例のない手法であった。
 そして西崎Pとメイジャー・徳山の狙いは当たった。広告が出るやいなや、前売り券の売れ行きが爆発的に伸びたのである。
 
【「まずアニメという言葉を認識させる」ことを目的に、記者会見を開催したが…】

 「宣伝として、次の一手は?」
 「はい。記者会見を開こうということになりました」
 「記者会見?」
 「今でこそアニメという言葉は一般的に使われていますが、当時は“まんが”だったわけです。子供が見るもの、という認識しかない」
 「分かります。僕も『もう大きくなったのだから、まんがは卒業しなさい』って、中学の頃親に言われて、無理矢理『卒業』させられました(笑)」
 「でも『ヤマト』は明らかに違っていたわけです。この作品のターゲットは子供じゃない。中学生や高校生の、いわゆるティーンエイジャーだと我々は考えました。だから『まんが』ではなく『アニメ』。『これからは、アニメ映画の時代だ!!』とブチ上げ、東京・九段グランドパレスを皮切りに、5大都市で記者会見を行い、そこで西崎Pに大いに語っていただいたんです」

 今となっては信じられないことだが、1977年における世間の認識は、そういうレベルであった。中学や高校に進学してもアニメに熱中しているのは、「未だまんがから卒業できない、幼稚な連中」とのレッテルを貼られていたのは、筆者も同じだ。
 徳山の記憶によれば、これも1977年の6月、東京を始め複数の都市で記者会見を開催したとのことだが、あいにくその痕跡が見あたらない。「記者会見の会場で、当時の日刊スポーツのベテラン記者から“ちょっと徳さん、この『アニメ』って何なのよ?”と聞かれた」とのことなので、当時の日刊スポーツのマイクロフィルムを探索したのだが、残念ながらそれらしい記事は発見出来なかった。
 唯一6月27日付の読売新聞夕刊「娯楽」欄に、「テレビの人気アニメ…『宇宙戦艦ヤマト』 劇映画で八月公開」という記事が、事実関係のみを記述した形で(いわゆる「ベタ記事」)、小さく掲載されている程度だ。その記事の上には「『ジョーズ』をしのぐ出足」との見出しで、「惑星大戦争」「八甲田山」の、当時日米で大ヒットしていた2作品の話題が、大きく写真付きで扱われていた。「惑星大戦争」とは、後に「スター・ウォーズ」として公開されるジョージ・ルーカス監督のSF映画だが、アメリカでは77年夏に公開された「スター・ウォーズ」の日本公開が、翌78年夏と1年遅れになることが、「ヤマト」にとって追い風になろうとは、この時点では知るよしもなかった。

 7月18日の読売新聞夕刊に、広告を掲載。東急レクリエーション上層部が懸念した配給会社不在の件も、東急系列にある東映の洋画配給部が引き受けることになり、都内は西崎のアカデミー、それ以外の都市は東映洋画配給部の扱いとなった。初日も8月6日と決定。徳山による宣伝活動も、いよいよ終盤に突入した。
 (以下、後編に続く!)
 
 (文中敬称略/取材に応じて下さった皆さんに、心より感謝します)

第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)「宇宙戦艦ヤマト」=前編-1
第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)「宇宙戦艦ヤマト」=前編-2

"特殊映像ラボラトリー第8回「クールアニメ・マーケティング・ヒストリー」「宇宙戦艦ヤマト」前編-2" »
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2009.03.25
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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」

第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)前編

誰もがこの映画の幸福を願い、ベストをつくした「時をかける少女」。

斉藤守彦

【ミニシアターでのアニメ映画興行】
 「宇宙戦艦ヤマト」のヒットから10年。1980年代半ば、我が国における映画マーケットに、ある変化が訪れた。ミニシアターと呼ばれる、その名の通りの小座席数の映画館が渋谷、六本木、銀座などに出来、従来のチェーン編成化された映画館では上映出来ない、アート作品を上映し始めたのだ。
 この流れは、数年のうちに変化して行った。国内の配給会社が折からのビデオ・ブームとバブル経済に乗って、ミニシアターの主力商品であったヨーロッパ映画を買い漁った結果、買付価格は上昇。小規模資本の配給業者は、目先を変えて日本映画の単館ロードショーを試みる。その中に、アニメ映画が入っていても、何ら不思議はなかった。

 都内に複数の興行事業場を持つ東京テアトルは、直営館・テアトル新宿で、日本のインディペンデント(独立系)作品を中心とした番組編成を試みていた。これは「映画作家との対話が出来る映画館を目指す」というポリシーを通して、他のミニシアターとの上映番組の差別化を図ったものだ。その戦略は成功し、テアトル新宿は日本の独立系映画の名門とまで認知されるようになっていた。
 またアニメ映画の上映に関しても、東京テアトルはテアトル新宿で1989年春に「アキラ・完全版」、97年春に「攻殻機動隊/インターナショナル・バージョン」などを上映する他、池袋の直営館・テアトル池袋を「アニメシアター」とし、ビデオ発売のためのプロモーションと連動した上映・イベント展開を80〜90年代に見せていた。
 テアトル新宿における、日本製アニメ映画=いわゆるクールアニメの新作上映は、2000年6月の「人狼」(監督:沖浦啓之)が最初。この場合も、他の日本映画同様、作家性を重視した作品選択の結果であり、アニメ映画といえども、テアトル側はその方針を貫いたのである。
 
【「条件はひとつ。完成は公開1週間前」】
 現在も東京テアトルで番組編成の業務にあたる沢村敏が、角川ヘラルド映画(現・角川映画)から「時をかける少女」についてオファーを受けたのは、2006年の年明けのことだった。
 「『時をかける少女』には、注目していました。僕はイベントなどを通して細田守監督と知り合い、彼がこの映画を手がけていることは、知っていましたから」(東京テアトル映像事業本部 番組編成日本映画担当・沢村敏)。

 とは言うものの、夏休み作品の上映を年明けの段階でオファーすること自体、かなりの遅れをとっている。この種の単館ロードショー館の上映番組は、早いところでは1年先まで内定していることも少なくない。細田監督とはおつき合いがあるという沢村としては、テアトル新宿に「時をかける少女」をブッキングしたいのは山々だが、現実的には困難が伴った。
 「社内でシナリオを回し読みしましたが、そのリアクションも今ひとつで、“なぜ、今さら『時かけ』なのか?”という声が多かったですね。でも僕は、細田監督がフリーになって最初の作品だから、気合いが入ってないわけがない。もう、ほぼ盲目的に“この作品で夏休みに勝負をしたい”と主張しました」。ほどなくして沢村の意向は、テアトル新宿の夏休み番組に反映されることになる。
 「ただし、角川ヘラルドからひとつだけ条件を提示されました。それは『作品の完成は、公開の1週間前』ということでした」。

 アニメ映画ではありがちなケースだが、作品の完成が公開1週間前という事態は、興行サイドにとってもリスクを伴う。通常の映画の宣伝プロセスから言えば、製作宣伝から配給宣伝に移行する際、完成した作品をメディア関係者に見せるための試写会の開催が必須であり、作品を見せた上で、そこからプロモーション、タイアップなどへと発展させるのがセオリーだからだ。
 「時をかける少女」の場合、確かに原作の知名度はあるが、なにしろ約40年前に書かれた小説である。初のアニメ映画化という話題こそあれ、それがいかなる成果を収めたかについては、やはり作品を見せてアピールすることが、宣伝の常道だ。また「時をかける少女」の製作の中心が角川書店であることから、角川書店の雑誌媒体には、製作中からレギュラー的に情報が掲載されはするものの、公開となった際には、より大規模な媒体露出が必須とされるところだ。そうした宣伝面での事情を考えると、作品完成の遅れが大きな障害となるのは明らかだった。

第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)中編
第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)後編

[筆者の紹介]
斉藤守彦

1961年生れ。静岡県浜松市出身。
映画業界紙記者、編集長の経験の後、映画ジャーナリスト、アナリストとして独立。「INVITATION」誌で「映画経済スタジアム」を連載するほか、多数のメディアで執筆。データを基にした映画業界分析に定評がある。「宇宙船」「スターログ日本版」等の雑誌に寄稿するなど、特撮映画は特に得意な分野としている。

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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」

第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)中編

誰もがこの映画の幸福を願い、ベストをつくした「時をかける少女」。

斉藤守彦

【夏の映画にこだわりましょう」という決定のバックグラウンド】
 「この映画は夏に公開しよう。夏の映画ということにこだわりましょう、ということを、細田監督とプロデューサーが合意した」という有名なエピソードが、「時をかける少女」には存在する。作品が完成して、わずか1週間後の公開。なぜそこまで、慌ただしく事を運ぶのか。それは、「時をかける少女」という作品がそうさせたと言える。息を切らして全力で走るヒロイン・真琴の姿は、落ち葉が舞い散る秋口ではなく、太陽が照りつける夏こそが相応しい。つまり、作品の持つ「季節感」を重視すれば、この決定は絶対に譲れないものだったのだ。
 数種類刊行されている「時をかける少女」の関連書籍に掲載された、細田監督やプロデューサーのコメントを読むと、その決定は彼らだけではなく製作委員会そのものの合意として貫かれたという。では作品を実際に映画館にセールスし、ブッキングする立場である配給会社はどうであったのか?
 「夏休みに、テアトル新宿を中心にした、小規模公開から徐々にブッキングを広げていく。それは、そういう方法論しかとれなかった、という事情もあるんだよ」。
 そう語るのは、当時角川ヘラルド映画で映画営業を統括していた、荻野和仁(現・角川映画常務取締役営業統括)だ。
「『時をかける少女』の製作費は2億7000万円。しかしP&Aは5000万円しかなかったんです。製作委員会の意向としては、全国50ブックでの上映だったけど、夏休みシーズンに、このP&Aでは難しい。それでああいうやり方を提案したわけです」

 P&Aとは、プリント・アンド・アドバタイジングのことを指す。一般的には、完成した映画は自動的に映画館で上映されると思われているようだが、それは違う。まずマスター・フィルムから上映用のプリントを焼かなければならない。
 現像所に発注して、2時間の映画のプリントを1本焼いた場合、その費用は30万円ほどだという。そのプリント代に加えて、アドバタイジング、つまり広告出稿のための費用も必要になる。映画の宣伝手法は、アドバタイジング、パブリシティ、プロモーションの3つに大別されるが、このうち中心になるのがアドバタイジングによる作品の公開告知であり、新聞・雑誌への広告出稿やTVスポット放映などを行わずに商業映画を公開することは、通常あり得ない。 
 「5000万円のP&Aならば、20〜30スクリーン程度のマーケットが適正規模」とは、他の配給関係者の弁。だがそれも、映画館のスケジュールが空いていれば、という前提の上でだ。夏休みのように、各社の目玉作品がシネコンにズラリと並んでいる状況では、その中に割り込むことは困難だ。2006年の夏休み興行はといえば、まさに群雄割拠。「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」「M:i:iii」、ピクサーのアニメ映画「カーズ」、日本映画では「ゲド戦記」「ブレイブストーリー」「劇場版ポケットモンスター」、そして「日本沈没」といった、そうそうたる大作・話題作が揃っていた。

 外国映画ならば10億円前後の宣伝費をかけ、日本映画では製作委員会のメンバーたるテレビ局の手によって、連日電波を私物化したスポット攻勢や出演者たちの番組出演によって大規模なパブリシティが行われるのが常である。テレビ局が出資しているわけでも、旬の俳優が出演しているわけでもない(アニメだから当然だが)、「時をかける少女」の旗色は明らかに悪かった。
 結果的に「時をかける少女」は、都内はテアトル新宿のみ(これはテアトル側から、当面都内はテアトル新宿の独占上映という形をとることを提示された事情もある)、9大都市では名古屋・ゴールド劇場のみ。ローカルではシネプレックス平塚、京成ローザ10、シネプレックス幕張、シネプレックスわかばの計4スクリーンで、7月15日からの上映が決定した。このうちシネプレックスは、角川グループのシネコン会社である角川マルチプレックス・シアターズの経営だ。
 7月15日の初日を目指して、全国6スクリーンという規模とはいえ、入れ物は揃った。あとは肝心の中身がどうなるか…。
 
【七夕の夜の、感動と衝撃】
 筆者は「時をかける少女」を、2006年7月7日夜、なかのZEROホールで行われた、完成披露試写会で見ている。作品を鑑賞した後の、心地よい、されど重量級の衝撃と感動は、未だ忘れることが出来ない。小学生時代、NHKの少年ドラマ「タイムトラベラー」と出会い、その原作とノベライズ小説も読破し、もちろん大林宣彦監督版の実写版「時をかける少女」もリアルタイムで鑑賞している。そうした“歴代「時かけ」”の、どれにも似ていない、まったくオリジナルな内容。しかしその根底に流れる少女の思いは、まさしく筒井康隆のジュブナイル小説「時をかける少女」だった。
 この披露試写会の、内外での反響は、それは凄まじかったようである。しかしメディアがこぞって「時をかける少女」の話題を取り上げ、月刊誌や週刊誌に好意的な記事が掲載された時、すでに映画は上映中であった。

 一方角川ヘラルド映画では、7月15日から、テアトル新宿など6スクリーンでスタートという決定に対して、当時社長だった黒井和男が異論を唱えていた。
 「社内では有名なことだけど、公開時期をめぐって、僕と黒井との間で意見が分かれ、怒鳴り合いのケンカにまでなっちゃったんだ」と、荻野。7月15日公開で手はずを整えた荻野に対して、黒井社長の意見は「秋になってから、もっと多くのスクリーン数で上映したほうが良い」というものだった。劇場公開時の興行収入の最大化を目的とする、配給会社の立場からすれば、これはもう圧倒的に黒井の主張のほうが正しい。2億7000万円の製作費を投じた作品を、都内単館ロードショーから展開する方法では、原価回収さえもおぼつかないことが予測できるからだ。少しでも投下資本を早く回収し、リクープの確率を高める意味でも、公開時期をズラし、より大きな市場に出すべしという理論は、ビジネスとしては、すこぶる真っ当だ。
 しかし、「時をかける少女」の場合は違った。製作委員会の「夏にこだわる映画」との主張は強く、最初はこの映画の存在そのものに疑問を抱いていた荻野が、今度は委員会の意向を代弁する形で、夏公開の正当性を黒井に説明。結果的に、黒井が主張を曲げることとなった。

第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)後編
第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)前編

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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」

第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)後編

誰もがこの映画の幸福を願い、ベストをつくした「時をかける少女」。

斉藤守彦
 
【夏休み期間中、最低だったのはオープニング・ウィーク】
 7月15日の公開以降の様子は、あえて記すこともないだろう。ここはデータを中心に「時をかける少女」の興行面での足跡を追ってみることにしよう。

☆テアトル新宿でのオープニング興行成績は、入場者数3103名、興行収入465万4400円(3日間集計)。第1週目の週計成績は、5151名、744万9700円と好調なスタート。
☆また第1週目における、全国6スクリーン計成績は、7774名、1123万6000円。
☆第2週目にあたる7月22日からは、プリント数が13本に増え、新たに大阪、神戸、福岡、札幌とローカル3スクリーンが戦列に加わった。このおかげで全国週計成績は 1万2102名、興収1780万700円をマークする。
☆第3週目もこのマーケットは維持され、全国週計成績は1万6992名、興収2341万7900円と、前週対比31.5%の伸びを見せた。
☆第4週目になって、稼働プリント数(=上映スクリーン数)は9本。全国週計成績も1万3723名、興収2004万8400円とダウンするが、第5週目には池袋・テアトルダイヤでの上映がスタートしたことと、最稼働期であるお盆シーズンにかかったことから、全国週計成績は、これまでで最高の1万8694名、興収2724万500円を記録する。
☆第6週はプリント本数も12本に増え、全国週計成績1万4624名、興収2321万860円と2000万円台をキープ。さらに夏休み最終週となる第7週は、プリントが14本に増え、全国週計成績1万7245名、興収2321万860円を記録した。

 プロデューサー、監督がこだわった「夏休みでの上映」で、「時をかける少女」は、9月1日までに、累計1億4529万1560円をあげることが出来た。このうちテアトル新宿での週計成績は、第5週の8308名、興収1238万900円が最高。最も低かったのは、なんと第1週の5151名、興収744万9700円であった。
 これは実に興味深い推移である。通常、全国規模で公開する作品は、オープニング・ウィークである第1週の成績が最も良く、以後ダウンを続けていく傾向にあるからだ(特に派手なオープニングを飾る、ハリウッドの大作映画はこの傾向が、特に顕著)。第1週より2週、3週と、上映を重ねるごとに観客数が増え、興収がアップするということは、まさしくクチコミの効果と言うほかない。
 
【パンフレット購買率31%、メガネ女子祭り…イベント連打】
 メイン館であるテアトル新宿の売店における、物販のデータを見てみよう。まず商品別の売上個数では、ダントツでパンフレットがトップ。12週間の上映期間中、1万6199冊を売った。これは観客全体の31%が購入したことになる。続いて人気があったのはCDの類で、主題歌CDが925枚、サントラCDは862枚が売れている。さらには絵コンテ集570冊、文庫本558冊、コミック344冊と、書籍類も健闘。クリアファイルセット350、マグカップ80、携帯ストラップ195、公式ノートブック159。中には全商品を大人買いしたファンもいたことだろう。
 なお話題作りとファンサービスのために、上映中には数々のイベントやサービスが行われた。こうしたことに対して即座に対応し、宣伝サイドと協調出来るのも、イベント興行が多い同劇場の強さと言えるだろう。テアトル新宿で行われたイベント、サービスの類は次の通り。

★ロビーにて「私がタイムリープできたら」短冊(出演者、試写観客による) 展示(7月15日〜)
★初日来場者ブレゼント(ポストカード)
★7月29日に「細田守×時かけオールナイト」開催
★スタンプ3つで、非売品B2ポスターをプレゼントする、スタンプラリー開催
★8月8、18,28日の「8のつく日」3日間限定で、眼鏡着用女性観客にポストカードをプレゼントする「メガネ女子胸キュン祭り」サービス実施
★奥華子ミニライブ(8月8日)開催
★ヒット記念ポストカードを来場者にプレゼント(10月1日〜)

【10月の時点でプリント本数17本。都内5スクリーンで上映続行】
 評判が評判を呼び、じわじわと観客数を増やしていった「時をかける少女」は、夏休み終了後も安定した成績を見せ、実に第13週にあたる10月7日からは、最多本数であるプリント17本が稼働。この時点において都内だけでもテアトル新宿、テアトルダイヤ、渋谷Q-AXシネマ(現・シアターTSUTAYA)、キネカ大森、ユナイテッド・シネマ豊洲の5スクリーンで上映が続行されるという、根強い人気を見せていた。
 上映スタート当初には、後続作品が決まっていることで、観客動員が良いにも関わらず、上映を打ち切らなければならないケースもあった。例えばシネプレックス平塚は、第1週入場者数465名、第2週483名、第3週943名と、週数を追うごとに観客の数が増えている(特に第3週の伸び率には目を見張る)。にも関わらず、前述の理由で上映は3週間で終了した。観客数の増減に柔軟に対応出来るはずのシネコンが、番組数を抱えすぎたことで、そのメリットが活かされていないという問題を感じずにはいられない。

 また「時をかける少女」を高く評価したのは、観客たちだけではなかった。フジテレビの亀山千広(現・執行役員常務映画事業局長)が作品を鑑賞し、絶賛。即座に地上波TV放映権を獲得し、2007年7月21日の「土曜プレミアム」枠、08年7月19日と、2回に渡ってオンエアした。東京テアトル・沢村敏によると「テアトル新宿で単館上映された日本映画が、ゴールデン・タイムで全国放映されたのは、初めてのケース」とか。
 ちなみにフジテレビは「時をかける少女」の1週前に、長編アニメ映画「ブレイブストーリー」を製作しており、これは米メジャー系であるワーナーが、いわゆるローカル・プロダクションの1本として配給、全国363スクリーンで一斉公開した。単館ロードショーからスタートした「時をかける少女」とは、対象的なマーケティングだ。最終的に「ブレイブストーリー」は、興収20億円をあげたが「フジテレビが本格的な長編アニメに挑戦したことが大きな話題になった割には、物足りない成績」との声が当時多かった、と筆者は記憶している。
 
【最終入場者数18万8092名、興収2億6439万40円】
 2007年1月26日までにおける「時をかける少女」の総興行成績は、入場者数計18万8092名、興行収入計2億6439万40円。述べブッキング数(総上映スクリーン数)は102で、興収のうち9大都市のシェアが74.5%を占める都市型の展開であった。仮にこの作品を、充分なP&Aをかけて最初から全国公開をしたならば、9大都市とローカルのシェアは逆転しなければならないだろう。
 前述した通り、製作費2億7000万円、P&A5000万円(後に1000万円増額して6000万円)に対して、興収2億6439万円は、配給会社としては成功とは言えない。興収の約半分は興行サイドの収入となり、残った額(いわゆる「配給収入」)からP&A、配給手数料などを差し引いた場合、製作委員会に還元される額は、おそらく1億円を下回ったであろう。ただし、DVDなどのパッケージ・メディア、あるいは地上波・衛星放送などへの放映権セールスなどからの収入によって、現時点ではリクープしたものと推定できる。

 3年前にあがった数字を見つめながら、ぽつんと荻野が言った。「こんな経験は、初めてだったよ…」。
 あくまで夏休み公開にこだわった製作委員会、その希望を現実的なマーケティングに反映させた配給会社、そしてリスクを承知でスケジュールを空けた映画館。誰もがこの映画の幸福と成功を願い、その実現のために、それぞれのポジションでベストをつくした。その方法論と結果については様々な評価があるだろうが、それは今後の課題だとは言えないだろうか。少なくともこうしたやり方を通して「時をかける少女」が投じた一石は、これからのアニメ映画、とりわけクールアニメのマーケティングに反映されるはずだ。
 細田守監督の新作「サマーウォーズ」はワーナーの配給で、この夏公開される。マーケット・サイズは全国100スクリーン前後の予定だという。
(文中敬称略/取材・資料提供に応じてくださった方々に、心より感謝します) 

第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)前編
第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)中編

"「特殊映像ラボラトリー」第6回クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)後編" »
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2009.02.25
0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ]
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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」

第5回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(1)前編
TVセカンド・シリーズとの差別化を目指した「ルパン三世(ルパンVS複製人間)」は、「ナイル殺人事件」とのセットで全国を席巻した。

斉藤守彦

【ホワット・イズ・クールアニメ?】
 それにしても「クールアニメ」とは、よくぞ命名したものである。現在テアトル新宿で開催中の「クールアニメ・セレクション」における「クールアニメ」の定義とは、「コアから派生する一般アニメで、作家性の強い作品」とのことだが、我が「特殊映像ラボラトリー」では、これにマーケティング的要素を加えたい。
 つまり、従来のファミリー向けアニメ映画が、いわゆるブロック・ブッキング=邦画系で上映されてきたことに対して、クールアニメは洋画系=フリーブッキングでの上映が中心である。マーケティング的な視点で両者の最も大きな違いを述べるとすれば、邦画系での展開は特定期間、特定の映画館での上映であることに対して、洋画系では作品の成績本意で上映期間は柔軟に延長(あるいは短縮)することが出来、また上映館も同様に作品の興行力を反映したスケールになり得るあたりだ。
 
【「宇宙戦艦ヤマト」のヒットが、アニメ映画のマーケティングを変革した!】
 「東映まんがまつり」を代表とする、我が国のアニメ映画といえば、幼児層を狙ったファミリー向け番組として邦画系で上映というパターンが、それまでの主流であった。ところが1977年8月公開の「宇宙戦艦ヤマト」が洋画系での展開で配給収入約9億円を計上。また観客の中心もファミリーではなくティーンエイジャーと、アニメ映画の新しいサクセス・パターンを創り上げた(それ以前も、手塚治虫の「千夜一夜物語」「クレオパトラ」「哀しみのベラドンナ」など、大人向けアニメ映画を洋画系で上映した前例はあったが、「ヤマト」ほどの興行的成功は見られなかった)。

 その「ヤマト」のヒットから1年余。東京ムービー新社(現・トムス・エンタテインメント)が初の本格的長編劇場用アニメ映画として「ルパン三世」(ここでは他のシリーズ作品と区別するために、「ルパンVS複製人間」と呼称する)を製作。1978年12月16日より東宝配給によって全国公開される。
 興行展開の中心となる、いわゆるチェーンマスターは、東宝洋画系の丸の内東宝で、独自のチェーンを形成するこの劇場網は「グレート・ハンティング」「アドベンチャー・ファミリー」など、エンタテインメント要素が濃厚な作品をヒットさせていた。その正月番組に起用された「ルパンVS複製人間」だが、この作品には興味深いメイキング・エピソードが存在する。まずは、それをひもといてみよう。 

【故・藤岡豊が目指した、“大人のためのアニメ「ルパン三世」】 
 「ルパン三世」はファースト・シリーズ23本が1971〜72年にオンエアされたものの、低視聴率で終了。ところが再放送で人気シリーズとなり、1977年10月からはセカンド・シリーズがオンエアされたことは広く知られるところだ。視聴率的にも前シリーズの汚名を挽回したセカンド・シリーズ。その支持層は、主に中・高校生のアニメ・ファンだった。
 ティーンエイジャーの人気を得た「ルパン三世」の映画化といえば、テレビと同様、十代の観客を狙うのがビジネス上のセオリーだが、当時の劇場版スタッフは、セカンド・シリーズの人気に便乗するのではなく、むしろセカンド・シリーズとは異なる内容で、より高い年齢層を狙った。これは東京ムービーの創設者である、故・藤岡豊が「色気のある、大人のアニメを作りたかった」との意向が、大きく反映された結果だという。

 「ストーリーも、絵の展開も、いかにスケールアップ出来るかが映画のポイントとなった。つまりテレビ・シリーズとの差別化を第一義に考えた」とは、「ルパンVS複製人間」当時、東京ムービー新社で宣伝・営業担当を、現在はトムス・エンタテインメントのスーパーバイザーを務める熊井良助の証言だ。
 「クローンの登場には、賛否両論があったが、前述の理由(テレビとの差別化)の理由で採用が決定。また、劇場用アニメ化が決定した1977年当時は、007シリーズが絶好調で(77年12月に公開され、配収31.5億円の大ヒットを記録した「007/私を愛したスパイ」と思われる)、「ルパンVS複製人間」も相当に意識し、息をもつかせない、観客の想像を絶するアクションに、スタッフは苦心した」。

 実際に、この“原点回帰”を目指した劇場版の監督候補には、ファースト・シリーズ初期編を演出した、大隅正秋(現・おおすみ正秋)の名があがったという。ところが「映画としての新しい魅力を構築する意味から、吉川惣司監督が劇場用として打ち出した、“クローン”に勝負を賭けた。
 SFタッチの内容にしたことも、テレビとの差別化を図ったことが最大の理由」と熊井は言う。どこまでも東京ムービー新社が目指したのは、“ヒットしたTVアニメの劇場版”ではなく、“1本の映画として、オリジナルな魅力を持つ、大人の観客向けの作品”であったのだ。
 
【配収9.15億円の背景にある、絶妙なマーケティング戦略】 
 さてそうした製作サイドの意気込みは、マーケティングに反映されたのだろうか?データをもとに、多角的に検証を行いたいところだが、なにしろ30年以上前の作品とあって、興行成績などの詳しいデータが残されていない。加えて東宝は旧作の興行成績とその推移を現在一切公表していない。それ故断片的なデータから全体像を類推するしかない事情を、お察しいただきたい。
 結果から言えば、「ルパンVS複製人間」の配給収入(現在では興行収入=興収が映画の収入を表す単位となっているが、1999年までは配給収入=配収であった。興収は入場料金のトータル額で、配収は、そこから配給会社が得る金額を意味する)は、「キネマ旬報」780号によれば9.15億円あり、これは1979年(78年12月に公開された正月映画は、精算のタイミングから79年作品として扱われる)に東宝が配給した作品(番組)中、第4位の成績。1位は「あ々野麦峠」(14億円)、2位「ベルサイユのばら」(9.3億円)、3位「炎の舞」「ピンク・レディーの活動大写真」(9.2億円)で、5位は「ホワイト・ラブ」「トラブルマン・笑うと殺すゾ!」(8.6億円)であった。10億円の大台を超えずとも、大健闘の成績と言える。東宝としては「チャンピオンまつり」などでファミリー・ターゲットのアニメ映画は扱い慣れていたものの、大人をターゲットにしたクールアニメは初めての経験であった。

 当時のマーケット環境も考慮した上で、「ルパンVS複製人間」という作品のビジネス・パワーを検証すると、いくつかのユニークなマーケティング戦略を発見することが出来る。
 まず第一に、「ルパンVS複製人間」の配収の成り立ちについて検証してみよう。前述した通り、「ルパンVS複製人間」は、丸の内東宝をチェーンマスターとした、東宝洋画系で公開された。メイン館である丸の内東宝は、「公開前日から熱狂的なファンが押し寄せ長蛇の列を作り、丸の内警察署の警官までが、観客整理に参加する結果となった」とは、これまた熊井の証言。
 ユニークなのは、この映画のローカルでの上映方法だ。東宝は子会社である東宝東和が配給するイギリス映画「ナイル殺人事件」との2本立て番組で、「ルパンVS複製人間」を上映したのだ。映画のマーケットは、9大都市(東京・大阪・名古屋・札幌・川崎・横浜・神戸・京都)とローカル地域に大別されるが、この9大都市のうち名古屋・福岡・札幌と、ローカルが「ルパンVS複製人間」「ナイル殺人事件」を2本立てで上映した。当時は映画館数の少なさをカバーする意味でも、ローカルでは2本立て興行が主流であった。

 そうしたマーケット環境を考えても、親会社と子会社という関係こそあれ、違う配給会社同士が2本立てを組むという事態は、極めて珍しい。当時の配給関係者によれば、この2本立てを提案したのは、親会社である東宝とのことだ。つまり、1979年の時点では、現在とは逆にマーケットでは洋画の力が強く、東宝としては洋画系に邦画、それも未経験の“大人向けアニメ”を公開することに不安があったのだろう。女性をメインターゲットに据えた「ナイル殺人事件」とのカップリングは、「ルパンVS複製人間」にとっても有効であり、豪華2本立てというお得感を与えることも出来る。
 その狙いは当たった。「ルパンVS複製人間」が配収9.15億円をあげたのに対して、「ナイル殺人事件」は、実に19億円を計上した。これは1979年における、洋画配収第2位(第1位は「スーパーマン」の28億円)にあたる成績だ。つまり「ルパンVS複製人間」「ナイル…」の2本で、計28.15億円の配給収入をあげたことになる。この番組配収28.15億円を、いかにして各作品に配分したかといえば、これは東京と大阪のロードショーの成績を基準にして比率を決定する(配給関係者が言う「アロケーション」)。

クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(1)後編
クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(2)前編
クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(2)後編

[筆者の紹介]
斉藤守彦

1961年生れ。静岡県浜松市出身。
映画業界紙記者、編集長の経験の後、映画ジャーナリスト、アナリストとして独立。「INVITATION」誌で「映画経済スタジアム」を連載するほか、多数のメディアで執筆。データを基にした映画業界分析に定評がある。「宇宙船」「スターログ日本版」等の雑誌に寄稿するなど、特撮映画は特に得意な分野としている。

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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」

第5回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(1)後編

斉藤守彦

【豪華2本立て番組は、その後のシリーズでも継承された】 
 製作サイドでも、この2本立てが「ルパンVS複製人間」の観客層の拡大に貢献したことを認めており、「ローカルの映画館では、午後2時までが『ルパン…』の観客で、夕方以降は『ナイル…』目当てのカップルが来館。
 結果的に『ナイル…』を見に来たカップルにも、『ルパン…』を見てもらうことが出来、映画館としては昼間から客席が埋まった、と千葉の劇場から感謝されました」(熊井の証言)。

 配給を手がけた東宝と東宝東和が、この2本立てとその興行成果を高く評価したことは、「ルパンVS複製人間」に続いて製作された「カリオストロの城」が「Mr.Boo!/ギャンブル大将」、「バビロンの黄金伝説」が「ランボー・怒りの脱出」と、いずれも東宝東和配給の外国映画とのカップリングで公開されたことが証明している。
 では、もし仮に「ルパンVS複製人間」が現在のように、全国1本立てで公開された場合、9.15億円という配給収入(今日の興行収入に換算して、約18.3億円)をあげることが出来ただろうか?
 正直なところ、それには疑問が残る。「ルパンVS複製人間」の東京地区の興行収入は2.53億円で、これは80年における洋画系上映作品では第19位にあたる。18位の「ディア・ハンター」が都内興収2.79億円、配給収入4.4億円だったことから、「ルパンVS複製人間」はかなりローカルでの上映で“得をした”ことになる。また90年代に公開された「ルパン三世」シリーズの劇場用映画「くたばれ!ノストラダムス」「DEAD OR ALIVE」が、それぞれ全国1本立てで上映され、配収5億円以下しかあげられなかったことを考えると、ローカル地区における「ルパン…」「ナイル…」の2本立ての強さを、改めて思い知らされるというものだ。
 
【1983年にリバイバル公開された「ルパンVS複製人間」】
 「ルパンVS複製人間」に続いて1979年12月に公開された、シリーズ第2作「カリオストロの城」は、当初の想定を下回る興行成績に終始した。この時代、都内ではロードショー劇場、邦画封切館の他、二番館や名画座といった映画館が点在した。下番線と呼ばれるそうした映画館では、「ルパンVS複製人間」と「カリオストロの城」の2本立てが、当時頻繁に上映されたことを、筆者は記憶している。
 私自身が「ルパンVSクローン」と「カリオストロの城」の2本立てを鑑賞したのが、記録によると1981年7月24日。池袋の名画座・文芸地下であり、夏の暑さをさらに倍加させるほどの混雑ぶりを、はっきりと覚えている。

 こうした「ロードショー公開時には話題にならなかったが、下番線で人気を集める」、いわゆる“名画座ヒット作”が、当時は存在した。ジョージ・ルーカスの「アメリカン・グラフィティ」しかり、タイムトラベルSFの名作「ある日どこかで」しかり。「カリオストロの城」の場合、その後押しをしたのは、アニメ雑誌での記事や、宮崎駿監督の特集でその面白さを、遅ればせながら知った観客たちの存在であることは間違いない。
 この傾向は大都市の下番線だけのものと思いきや、それが全国に拡大したのには驚いた。時に1984年秋。同年8月に東宝が公開した「零戦燃ゆ」が、予想以下の成績となったことで、急遽「ルパンVS複製人間」「カリオストロの城」のリバイバル公開が、東宝邦画系の映画館で行われたのだ。9月15日から3週間、「アニメージュ」のアニメ・グランプリベスト1受賞記念、という名目での上映で、ルパン2作品と「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」(地域によっては「超時空要塞マクロス」)がセットされた、アニメ・ファン狂喜、まさに夢のような番組であった。

 当時の新聞広告を見ると、東宝邦画系のメイン館である千代田劇場こそ「零戦燃ゆ」を続映したものの、渋谷、上野、新宿といった都内をはじめ、川崎、小田原、横須賀、甲府、静岡、浜松あたりまでこの番組の公開が告知されていることから、全国的に上映されたと判断して間違いないだろう。
 こうした下番線上映、大規模なリバイバルまで行われた「ルパンVS複製人間」の、今日までの配給収入は、初公開時の9.15億円を上回り、現在では10億円に達していることは、想像に難くない。

【映画のマーケティングとは、作り手の「意思」を拡大していく作業】 
 いかなる映画においても、その源泉は「意思」である。「作品」を創るという作業は、その「意思」に形を与えることに他ならない。「ルパンVS複製人間」の製作にあたり、故・藤岡豊は、当初から目論んでいた「大人向けのアニメ」を目指し、ティーンから支持されていた、セカンド・シリーズとは明確な差別化を行った。
 そうした「意思」の中で、吉川監督は「クローン」というSF的な要素を「ルパン三世」というフォーマットに込めた。「作品」を「配給」「興行」といった手段で、「商品」として流通していくことは、つまり、形を持った「意思」の拡大作業に他ならない。

 「ルパンVS複製人間」は、配給・興行各社のマーケティング戦略によって、商業的には成功を収めることが出来た。しかし、その成功は、果たして藤岡の「意思」を充分に反映したものであっただろうか?
 「『ナイル殺人事件』との2本立てがティーン層を集めて成功したことが、『カリオストロの城』では観客の対象年齢を下げることにつながった」との指摘も無視することはできまい。

 原作者モンキー・パンチから、映像化にあたっては全権を委託されている、東京ムービー新社の経営者としての藤岡の「意思」は、成功を収めたが、クリエイターとしての思いはどうであったのだろうか?
 もしもそれが全う出来なかったとするならば、その「意思」を実現して成功に導くことは、今日でも新作を作り続けている「ルパン三世」シリーズに関わる者たちの責務ではないかと思うのだが、いかがだろうか。

クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(2)前編
クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(2)後編
クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(1)前編

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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」

第5回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(2)前編
クールアニメの代表作「アキラ」は、“作家を守る”出版社の姿勢を活かして作られた。

斉藤守彦

「皆さん、心地よい疲労感をお感じになっているようで…」。

 今でもはっきりと覚えている。1988年7月。公開直前に行われた「アキラ」の披露試写会。それに続いて帝国ホテルで開催された、完成記念パーティ(バブル時代は、何かにつけてこの種のパーティが行われていた)における、松岡功東宝社長(現・会長)の、これが乾杯の挨拶であった。
 今やクールアニメの代表作と言っても良い「アキラ」だが、そのメイキング・エピソードはほとんど明らかになっていない。そこで「アキラ」に製作担当として参加した講談社の角田研に、映画化に至る経緯などを聞いてみた。
 
【「アキラ」の監督候補には、押井守の名前も挙がっていた】 
 
−そもそも、なぜ講談社が製作委員会を組成して、「アキラ」をアニメ映画化しようとしたんですか?
角田
80年代の半ば、講談社は映像分野への進出を試みていました。「アキラ」の前には「SF新世紀・レンズマン」というアニメ映画や、記録映画「東京裁判」などを製作しています。 

−原作者の大友克洋さんを監督に起用したのは、当初から決まっていたのでしょうか?
角田
いいえ。最初は別の監督をたてる予定で、候補者の中には押井守監督もいました。ただ、どの監督にしても原作者が納得しない。ついには「自分でやるしかないか」と言い出して…。

−こだわりのある原作者ですもんね(笑)。
角田
でも「アキラ」では、それが良いほうに出ました。大友さんご本人はいたって気さくな方なのですが、スタッフは最初「とっても厳しい人らしい」とビビってました。
まあこういうのは、よくある「気の使いすぎ」なんですが、でもそういう緊張感を持っていたので、スタッフがみんな、最初から全力を出してくれたんですよ。

−とにかく「監督に叱られないように」という気持ちで(笑)。
角田
だからクォリティは、最後まで落ちなかったですね。

−当時「アキラ」は連載中でしたが、大友監督としては、映画版はどのようなストーリーにしようと考えたのでしょうか?
角田
大友監督の書かれたプロットだと…あの、「アキラ」って春木屋のシーンからドラマが始まるじゃないですか? 

−そうですね。山形が金田を迎えに来る。
角田
あそこへ行くまでに、大友監督の当初のプロットだと50分かかるんです。

−上映時間が、どれだけになるのか(笑)。
角田
それで、当時「スケバン刑事」などのシナリオを書かれていた、橋本以蔵さんを起用しました。東京ムービー新社の推薦です。
彼にストーリーの中心を、金田VS鉄雄の、いわば“個人対個人”の戦いに絞ってもらい、出来上がったプロットを大友監督が直す…というやりとりを7〜8回しました。

−「アキラ」が従来のアニメ映画と異なる、例えば声優さんたちの声を最初に録音するプレスコ方式や、芸能山城組の起用、CGの使用など、新しい方法論のすべては、大友監督の意向と見て良いのでしょうか?
角田
その通りです。プレスコは、録音の前に画コンテが上がらず、結局4回に分けて行いました。それでもコンテの完成は、録音前夜でしたが(笑)。また芸能山城組の起用にあたって、製作の代表だった、うちの鈴木(鈴木良平プロデューサー)が、山城祥二さんに「予算はいくらでも使って良い」と言ってしまったんです。
その瞬間、山城さんの眼がキラっと光り(笑)、彼は即座にビクターのスタジオを半年間押さえてしまいました(笑)。

−その一言を言ったが最後(笑)…。
角田
そのせいで、サザンオールスターズから苦情が来たそうです(笑)。
 
【東宝のお偉方は、「アキラ」に対して懐疑的だった】 
 「アキラ」に関する角田の話を聞いていると、公開後21年という年月を経た今日でも、未だ上映され続ける傑作を作り上げたという誇りと、その製作に携わったことの喜びが、ひしひしと伝わってくる。ところが公開時の状況は、必ずしも恵まれてはいなかったようだ。「アキラ」の宣伝プロデューサーを務め、現在トムス・エンタテインメントに在籍する芝裕子によれば、「アキラ」について当時の東宝のお偉方は、自信を持っていたようではないらしい。
 「『アキラ』は、私の宣伝プロデューサー・デヴュー作なので、当時のことを色々と覚えています。私が若かったせいもあり、関西支社のエライ人から、まずポスターについてお説教されました。最初に作った、ネオ東京の中心に黒い球体があるポスターは“暗すぎる”、バイクに乗ろうとする金田の後ろ姿を描いたものは“客に背中を向けるとは何事だ”と」。

 たかがポスターと言うなかれ。映画のマーケティング戦略上、ポスターは非常に重要な役割を果たすアイテムなのである。映画を製作する人々、配給に携わる人々、実際に映画館で観客に接する興行の人々。この三者が、どのような映画を作り、どのような映画でビジネスを行うのか。ポスターはそのシンボルであり、フラグシップなのである。
 「宇宙からのメッセージ」を撮影していた深作欣二監督は、広告代理店が作った、宇宙空間に宇宙船が浮かんだポスターを見て「俺たちは、こんな映画を作ってるんじゃない!竹槍でSFやってるんだ!!」と怒ったという。また「アキラ」と同じ年、東宝が配給した「となりのトトロ」と「火垂るの墓」のポスターを見て、東宝の重役が「暗すぎる。こんなポスターでは客は来ない!」と指摘し、徳間書店の鈴木敏夫と口論になり、「観客ってのは、映画を腹で見るんだ」との名(迷?)言を残している。
 ポスターとは、それほどまでに重要な役割を果たすのだ。当時の東宝のベテランたちが、まだ若い芝にそのことを諭したのも分からない話ではない。が、その後に作られた、おそらくは東宝のお歴々の意向も反映したであろう2種類のポスターは、最初のものに対して、あまりに見劣りする絵柄であったが…。

 それでも宣伝プロデューサー一年生の芝には、ある種の確信があったという。
 「当時の東宝宣伝部では、アニメ映画のパブリシティは、宣伝プロデューサーが自分でやっていました(実写映画の場合、パブリシティはパブリシティ室のスタッフが担当する)。なので多くのマスコミの方と接する機会があり、彼らと話していると、“あの『アキラ』が映画になるんだってね!!”といった、熱い反応をよく目にしたんです。ですから社内のお偉方が何と言おうと、私はこの映画の成功を信じていました」

 その芝が、「アキラ」の観客対象としてターゲティングしたのは、中高生から大人という層だった。さて実際にはどのような客層だったのか?芝が当時、上司に報告するために作成した「アキラ・レポート」には、客層や興行概況が詳細に記されており、このレポートの冒頭には、次のようなことが書かれている。
 「アニメ・イコール子供向き、という受け止められ方が公開まで、映画会社である東宝にも上映劇場にもあった。蓋を開けてみて、初めて観客の年齢層の高さに仰天したという。」

 「心地よい疲労感」とやらを感じつつ、今ひとつ懐疑的な東宝のお偉方を尻目に、「アキラ」は絶好調のスタートを切ったのだ。芝の目論見は当たった。いや、実際は彼女が想定した以上に、大人の観客が多かった。都内上映館である渋谷パレス座(現・渋谷シネパレス)では、一般券の売り上げ枚数が全体の51%を占め、高校・大学は29%、中学は7%という比率であった。
 芝はレポートで「一般客のほとんどが、大学を卒業したてのヤングサラリーマンで、原作『アキラ』の連載中からのファン(連載は昭和57〜61年だから、当時16〜18歳の人達)も多い。したがって、ロードショー期間中は最終回が混雑する。
 またオールナイトは、渋谷パレス座においてアニメ新記録を作った」と述べ、「劇場は『子供向きのアニメばかりではない。大人のアニメもある。』と、アニメへの認識を改めたということだが、一方では一般の観客の多さを『嬉しい誤算』だった、とも言う。しかし、宣伝的には“誤算”ではなくて、想像以上に良く来た、と見るべきだろう」と結んでいる。

クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(2)後編
クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(1)前編
クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(1)後編

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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」

第5回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(2)後編

斉藤守彦

【“アニメに強い”名古屋だけの逆転現象】 
もう少し、データをあげてみよう。
 芝のレポートに書かれた、チェーンマスターであるニュー東宝シネマ1(現・TOHOシネマズ有楽座)での観客構成にも、“大人の観客”の優勢ぶりが現れている。

 ■ 第1週(7/16〜22)=一般72%、学生23%、中学生4%
 ■ 第2週(7/23〜29)=一般65%、学生25%、中学生6%

この傾向は、他の大都市においても、名古屋を除いて同様の現象を見せている。
 ■ 札幌プラザ2=一般46.3%、大学・高校生35.8%、中学生13.2%、小人4.7%
 ■ 札幌ポーラスター=一般55.0%、大学・高校生32.0%、中学生10.0%、
    小人3.0%
 ■ 名古屋名宝シネマ=一般35.6%、大学・高校生59.7%、中学生4.7%
 ■ 大阪三番街シネマ3=一般50.0%、大学・高校生40.0%、中学生・小人10.0%
 ■ 福岡シネマ2・3=一般46.2%、大学・高校生31.0%、中学生15.4%、小人7.2%
                                  (1988年9月1日現在)

 名古屋だけが大学・高校生の比率が60%を占めたのは、特にアニメが強い地域であり、「アニメ・ファンの高校生をよく集客したということか」と、レポートには記されている。観客の男女比は7対3で男性有利と、これまた芝が事前に予想した通りとなった。
 1988年7月16日より、ニュー東宝シネマ1、大友監督の希望によって1週間だけ70ミリ・バージョンを上映した日劇プラザ(現・TOHOシネマズ日劇3)をはじめとする、全国78館で公開された「アキラ」は、ムーブオーバーなども含め、配給収入7.5億円を計上した。東宝としては、経験のないタイプのアニメ映画だったが、これは充分にヒットと形容出来る成績である。

 また翌89年3月、“国際映画祭参加バージョン”と銘打った「アキラ・完全版」がテアトル新宿で公開されており、これが配収1億円をあげたと、当時業界紙記者であった筆者は記憶しているが、あいにくそれを証明する資料が見あたらない。
 なおこの「完全版」は「本編の数カ所、数カットと編集を直して、サウンドをつけ直したバージョン」で、劇場公開後に発売されたビデオ、LD、DVDなどのパッケージ・メディアはこのバージョンをマスターにしているとのことである。
 
【大友克洋を守り抜いた、講談社の“出版社としての姿勢”】 
再び角田との会話。

−結局「アキラ」の製作費は、いくらかかったんですか?
角田
当初の予算は5億円でしたが、最終的に7億円になりました。ただ、最近ブルーレイ・ディスクになったように、新しいメディアが登場すると、必ず商品化されるタイトルです。そういう意味では、息の長いビジネスを展開しています。

−アメリカで、「アキラ」のリメイクが計画されているという情報が、何度か入ってきたのですが、現在の進行状況は?
角田
ワーナーで作るとの話を耳にしましたが、現在どうなっているかは分かりません。おそらくシナリオの段階まで行ってないのではないでしょうか?
個人的な意見ですが、「アキラ」の舞台になっている2019年とは、つまり第二次世界大戦直後の日本をイメージしているんですね。オリンピックを間近に控えて、高度成長が始まろうという時期。そうした時代背景が、敗戦を経験していないアメリカ人では分からないと思います。
ですから、もしアメリカ版を作るのであれば、ワーナーのようなメジャーではなく、インディペンデントの会社のほうが相応しいでしょうね。

最後にした質問から得られた回答は、実に意義の深いものだった。

−なぜ講談社は、大友克洋という作家を、そこまで守ったのですか?アニメ制作中にも、色々とトラブルや行き違いがあったと思います。しかし御社は、大友克洋の意向のみならず、全人格さえ尊重したように見えます。
角田
それは、この会社が出版社だからでしょうね。事実、製作委員会の中でも、大友監督については様々な意見がありました。
ですが、その都度我々が大友監督の立場とその意向を守りました。出版社とは、作家を大切にし、守るところなのです。ただ…正直なところ、大友さんの個性を把握している私でも、数回彼に本気でアタマに来たことがありました(笑)。

 作家の意向を尊重し、守る姿勢。「出版社とは、そういうものだ。それは映画を作る時でも変わらない」というこの意見を、筆者は以前も耳にしたことがある。それは、宮崎駿監督のアニメ映画を作り続けた、徳間書店の総帥である故・徳間康快にインタヴューした時だ。
 「俺は、宮崎が頼んできたことに、NOと言ったことはないんだ」。生前の徳間氏は、そう胸を張った。それはまさしく、作家を大切にする、出版社を代表する者の姿勢であった。

 いかにテクノロジーが発達した世の中になろうと、映画をオートメーションで作ることは出来ない。そこには血が通った人間の主義主張、思想感情が宿ってこそ、初めて人の心を打つことが出来るのだ。コンテンツ・メーカーたる作家を守る姿勢を、映画製作においても曲げなかった出版社に対して、プロデューサーが圧倒的な権限を持つテレビ局は、映画製作の面でも監督よりも出資企業、製作者の意向を最優先しているのは対照的だ。
 いかに優秀なマーケティング・チームが携わろうと、クリエイターの息吹を感じられないソフトは、しょせんその時だけの流行りモノ。製作・公開後21年。多くの人々を魅了してきた「アキラ」は、これからもクールアニメの代表作として、輝き続けることだろう。
 大友克洋が描いた2019年まで、あと10年…。

(取材・資料提供にご協力いただいた皆様に、心から感謝を捧げます)

次回「特殊映像ラボラトリー」クールアニメ・マーケティング・ヒストリー その3に続く!!

クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(1)前編
クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(1)後編
クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(2)前編

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