第22回
深夜アニメ前史 |
|
[ 0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ] |
斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5) 斉藤守彦 [後編の前に…] 早速「復活編」のオフィシャルサイトから、プロモーションDVDのプレゼントに応募してみると、6月上旬に現物が到着した。差出人を見ると「西崎義展」と、個人名。1977年の「宇宙戦艦ヤマト」公開にあたり、「まず、ファンのためのインフォメーションを行った」西崎プロデューサー。今回もまた、そこからスタートするようだ。 個人的にも記憶しているが、この時我が国は「実態のないSFブーム」のまっただ中にいた。1977年5月25日にアメリカで公開された「スター・ウォーズ」が大ヒットを記録するものの、日本公開は翌78年の夏。これは映画館の編成の都合によるものだが、「スター・ウォーズ」を配給するフォックスとしては、この1年間、なんとか「スター・ウォーズ」の話題を盛り上げて、期待感を持続させなくてはならない。 そうした徹夜組の観客が出現した理由のひとつに上げられるのは、アニメ制作に使用したセルロイドの原画=セル画を「初日から3日間、各劇場70名様にプレゼントします」と告知したことだ。「当時はセル画なんて、捨ててたわけだからね」(徳山)。 第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)「宇宙戦艦ヤマト」=後編-1 [筆者の紹介] |
animeanime00:33 | (0) | (0) |
[ 0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ] |
斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5) 斉藤守彦 【売店で関連商品がバカ売れ!】 映画館にとって、鉱脈の発見 実際、「ヤマト」を上映した映画館は、潤った。儲かった。通常映画を上映した場合発生する興行収入のうち、約半分が映画館=興行サイドの収入として計上されるのだが、「ヤマト」の場合はこれに売店売り上げが加わった。 シネコン全盛の現在ならば、映画を見ながらポップコーンとコーラ、という鑑賞スタイルが定着しているが、32年前の時点では、売店の扱い商品は、せいぜいパンフレットぐらいであり、それも映画館にとって大きな収入をあげるものではなかった。 例えば、今年ゴールデン・ウィークに公開された「交響詩篇エウレカセブン/ポケットが虹でいっぱい」のオープニング成績が、「ヤマト」と同じ6館で、2日間計6484名、興収1049万9200円。同じく今年G.W.に公開された「劇場版天元突破グレンラカン 螺巌篇」のオープニング成績が、20館(スクリーン)計1万8000名、2784万円だ。 この勢いに乗って、都内では上映館が2館追加された。洋画ポルノ路線から残酷もの(ダイアン・ソーン主演作など)に流れ、一般映画への転身を図っていた、新宿東急と丸の内東映パラスが戦列に加わり、2週目の8月13日からは、実に都内8館での拡大上映となった。 当初7月30日より公開されるはずだった、アメリカ映画「ブラック・サンデー」が、その題材からか配給会社に「上映を実行した場合、劇場を爆破する」などの警告状が舞い込み、配給サイドと興行サイドが検討した結果、上映中止を決めたのだ。 「僕が『ヤマト』を見た浜松の映画館も、数日前まで『ブラック・サンデー』が、次回上映作品としてポスターが貼られていました。要するに『ブラック・サンデー』が中止になったことで、急遽『ヤマト』の上映が決まったわけですね?」「その通りです。ローカルでの上映に関しては、そういう映画館が、いくつかありました」とは、これまた当時の興行状況を知る関係者との会話。 第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)「宇宙戦艦ヤマト」=後編-1 |
animeanime00:32 | (0) | (0) |
[ 0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ] |
斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5) 斉藤守彦 【「さらばヤマト」、前作の2倍の大ヒット】 ティーン向けアニメの路線化 翌1978年。8月5日から公開された「さらば宇宙戦艦ヤマト・愛の戦士たち」は、入場者数400万名、興行収入43億円、配給収入21.2億円という、前作の2倍以上の大ヒットとなる。こうなると、大手配給会社としても放っておけない。 以来松本零士原作、東映洋画部配給、メイジャー宣伝によるティーン向けアニメ映画が、夏休みにこのチェーンで公開されるのは、一種の路線として定着。「銀河鉄道999」は配収16.3億円と、同年における日本映画の最高を記録。以来80年「ヤマトよ永遠に」13.7億円、81年「さよなら銀河鉄道999 -アンドロメダ終着駅-」11.5億円、82年「わが青春のアルカディア」6.5億円。 「面白いのは、『ヤマト』と『さらばヤマト』が当たったのに、西崎Pの新作ではなく、松本零士原作作品を続けて制作するあたりですね」「だって、『さらばヤマト』でヤマトは終わるはずだったからね」(徳山)。 今回色々な関係者を取材して感じたのは、「我々のヤマトは、最初の『宇宙戦艦ヤマト』と『さらば宇宙戦艦ヤマト』だけ。そこで終わっている」という意識の強さだ。確かに「新たなる旅立ち」「ヤマトよ永遠に」以降の同シリーズは、第1,2作には及ばずとも、興行的な成果を果たしたが、さてそれが本当にファンから望まれて製作した作品かどうかは、疑問が残る。そのジレンマは、内部で仕事をしていた徳山たちも同じように感じていたようだ。 「ヤマト」上映時東急名画座の副支配人だった会田は、後に東急レクリエーション興行部の部長となり、堀江、武舎の後を受けて直営館の上映番組編成をハンドリングした。90年代の後半、会田は1本のアニメ作品の存在を知った。 「あの時、なぜ堀江さんは『ヤマト』を、東急の劇場で上映しようしたんでしょう?」。会田に疑問をぶつけると、「そりゃあカンでしょうな。カンで番組を決めるのは、東急レクリエーションの伝統みたいなもんだよ」と、豪快に笑う。 低視聴率に終わったTVシリーズの総集編を、独立プロデューサーが配給会社を通さず、興行会社に直接持ち込み、あれよあれよという間に大ヒットしてしまった。暗中模索の70年代を迎えて久しかった当時の日本映画にとって「宇宙戦艦ヤマト」の存在は、紛れもなく光明だった。そして「宇宙戦艦ヤマト」のヒットは、それに携わった人たちの運命を、大きく変えたのであった。 (文中敬称略/取材にご協力下さった方々に、心から感謝します) 第9回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(5)「宇宙戦艦ヤマト」=後編-1 |
animeanime00:31 | (0) | (0) |
[ 0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ] |
斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4) 斉藤守彦 クールアニメの原点「宇宙戦艦ヤマト」は、1977年夏に劇場公開された作品だ。そのバックグラウンドについては、数々のエピソードが残されている。低視聴率に終わったテレビ・シリーズを再編集したバージョンを、西崎義展プロデューサーが映画館で上映しようと企て、渋谷の東急名画座を1週間だけ貸して欲しいと、同館を経営していた東急レクリエーションにオファー。だが試写を見た東急サイドは、夏休み番組として都内4館での上映したい旨を西崎Pに伝えてくる。 西崎Pが「ヤマト」のオファーを行い、東急レクリエーションのために試写を行ったのは、1977年の5月。ゴールデン・ウィーク開けのことだと言われている。この試写会には東急レクリエーションから、堀江鈴男興行部長と武舎忠一編成課長(いずれも当時の役職)が出席。ふたりとも「ヤマト」をたいそう気に入り、鑑賞後の評価も高く、自社陣営での上映を希望する。 東急レクリエーションは、1977年当時、東京都内に渋谷パンテオン、新宿ミラノ座といった、座席数1000席以上の大劇場を所有していた。パンテオンのある渋谷東急文化会館には、渋谷東急、東急レックス(後の「渋谷東急2」)、東急名画座(後の「渋谷東急3」)が、歌舞伎町の新宿東急文化会館にはミラノ座(現「新宿ミラノ1」)の他新宿東急(現「新宿ミラノ2)」、名画座ミラノ(現「新宿ミラノ3」)が、それぞれ営業中。また銀座東急、池袋東急、上野東急と、山手線内の各地区にロードショー劇場、名画座を擁していた。 こうした映画館チェーンには、中心となる「チェーンマスター」なる映画館が存在し、その映画館を経営する興行会社が上映作品を選択・決定していた。例えば松竹・東急系の丸の内ピカデリー系では丸の内ピカデリーがチェーンマスターで、同館を経営する松竹が上映番組を決定するが、パンテオン系の場合は渋谷バンテオンを経営する東急レクリエーションが、チェーンの上映番組を決定し、松竹・東急委員会で調整を行うという具合だ。 銀座東急系とは、銀座8丁目で営業していた銀座東急をチェーンマスターに、渋谷・東急レックス、池袋東急、新宿東映パラスで編成されるチェーンであった。ただしこのチェーンの場合、パンテオン、ミラノ座のような大作ではなく、どちらかといえばB級作品が年間番組の大半を占める劇場網だ。「ヤマト」上映の前年「恐竜の島」「地底王国」といったB級SF映画を上映して好成績を上げるが、それでも配給収入1.3〜1.5億円といったレベル。つまり、東急レクリエーションとしても「ヤマト」の上映を決めたものの、興行価値はその程度と判断していたのである。 現在は同社も各地にシネコンを持ち、つまり全国規模の興行網を所有する立場故、プロデューサーが直接持ち込んだ作品を、配給会社を通さずに上映することは、まず不可能であろう。ましてや低視聴率で打ち切りになったアニメ・シリーズの再編集版が受け入れられるとは、とうてい考えられない。 この“英断”に対して、こんなことを指摘する御仁もいる。 いずれにせよ、配給会社がラインアップした作品を待つばかり。受け身の姿勢になりがちなのが興行会社の宿命的な欠点だが、映画館や興行会社が配給会社を通さずに、直接プロデューサーとの間で作品上映を決定してはいけないという法はない。もちろん「商習慣」として、そのようなことは敬遠されてはいたが。1977年当時の東急レクリエーションは、そうした習慣を打ち破り、自ら主体性を持って作品を受け入れ、その興行価値を判断し、ヒットさせるべくプロデューサーと万全の手を尽くした。当時としてはきわめて珍しいことである。 第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)「宇宙戦艦ヤマト」=前編-1 [筆者の紹介] |
animeanime12:01 | (0) | (0) |
[ 0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ] |
斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4) 斉藤守彦 【“仕事だから”引き受けた、徳山雅也の「ヤマト」宣伝】 とにかく商業劇場で作品を公開する以上、宣伝が必要だ。東急レクリエーションの堀江部長は、西崎Pに対して、メイジャー・エンタープライズ(現・メイジャー)宣伝部に所属する、徳山雅也を紹介。彼を「宇宙戦艦ヤマト」の宣伝担当に起用することを進言した。 その広告を、国立国会図書館のマイクロフィルムから発見することが出来た。1977年6月16日付のスポーツニッポン14面。「日本中のヤマト・ファン全員集合!」と大きく書かれた惹句の下には「『ヤマト』のファン・クラブとファンの方々のために事務局を設立いたします。活動状況を、手紙又は電話でお知らせ下さい。(セル、その他資料の提供を考えております。)」との一文。さらに下の部分には「お申し込み・ご連絡は」として、当時西崎Pの事務所であった、株式会社アカデミーの所在地と電話番号が書かれている。まさしく「ファンに向けての広告」だ。 「で、なんだって?」 正確に言えば、セル画プレゼントには、ある条件があったはずだ。 「宣伝として、次の一手は?」 今となっては信じられないことだが、1977年における世間の認識は、そういうレベルであった。中学や高校に進学してもアニメに熱中しているのは、「未だまんがから卒業できない、幼稚な連中」とのレッテルを貼られていたのは、筆者も同じだ。 7月18日の読売新聞夕刊に、広告を掲載。東急レクリエーション上層部が懸念した配給会社不在の件も、東急系列にある東映の洋画配給部が引き受けることになり、都内は西崎のアカデミー、それ以外の都市は東映洋画配給部の扱いとなった。初日も8月6日と決定。徳山による宣伝活動も、いよいよ終盤に突入した。 第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)「宇宙戦艦ヤマト」=前編-1 |
animeanime12:00 | (0) | (0) |
[ 0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ] |
斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)前編 誰もがこの映画の幸福を願い、ベストをつくした「時をかける少女」。 斉藤守彦 【ミニシアターでのアニメ映画興行】 都内に複数の興行事業場を持つ東京テアトルは、直営館・テアトル新宿で、日本のインディペンデント(独立系)作品を中心とした番組編成を試みていた。これは「映画作家との対話が出来る映画館を目指す」というポリシーを通して、他のミニシアターとの上映番組の差別化を図ったものだ。その戦略は成功し、テアトル新宿は日本の独立系映画の名門とまで認知されるようになっていた。 とは言うものの、夏休み作品の上映を年明けの段階でオファーすること自体、かなりの遅れをとっている。この種の単館ロードショー館の上映番組は、早いところでは1年先まで内定していることも少なくない。細田監督とはおつき合いがあるという沢村としては、テアトル新宿に「時をかける少女」をブッキングしたいのは山々だが、現実的には困難が伴った。 アニメ映画ではありがちなケースだが、作品の完成が公開1週間前という事態は、興行サイドにとってもリスクを伴う。通常の映画の宣伝プロセスから言えば、製作宣伝から配給宣伝に移行する際、完成した作品をメディア関係者に見せるための試写会の開催が必須であり、作品を見せた上で、そこからプロモーション、タイアップなどへと発展させるのがセオリーだからだ。 第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)中編 [筆者の紹介] |
animeanime16:03 | (0) | (0) |
[ 0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ] |
斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)中編 誰もがこの映画の幸福を願い、ベストをつくした「時をかける少女」。 斉藤守彦 【夏の映画にこだわりましょう」という決定のバックグラウンド】 P&Aとは、プリント・アンド・アドバタイジングのことを指す。一般的には、完成した映画は自動的に映画館で上映されると思われているようだが、それは違う。まずマスター・フィルムから上映用のプリントを焼かなければならない。 外国映画ならば10億円前後の宣伝費をかけ、日本映画では製作委員会のメンバーたるテレビ局の手によって、連日電波を私物化したスポット攻勢や出演者たちの番組出演によって大規模なパブリシティが行われるのが常である。テレビ局が出資しているわけでも、旬の俳優が出演しているわけでもない(アニメだから当然だが)、「時をかける少女」の旗色は明らかに悪かった。 一方角川ヘラルド映画では、7月15日から、テアトル新宿など6スクリーンでスタートという決定に対して、当時社長だった黒井和男が異論を唱えていた。 第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)後編 |
animeanime16:02 | (0) | (0) |
[ 0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ] |
斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)後編 誰もがこの映画の幸福を願い、ベストをつくした「時をかける少女」。 斉藤守彦 ☆テアトル新宿でのオープニング興行成績は、入場者数3103名、興行収入465万4400円(3日間集計)。第1週目の週計成績は、5151名、744万9700円と好調なスタート。 プロデューサー、監督がこだわった「夏休みでの上映」で、「時をかける少女」は、9月1日までに、累計1億4529万1560円をあげることが出来た。このうちテアトル新宿での週計成績は、第5週の8308名、興収1238万900円が最高。最も低かったのは、なんと第1週の5151名、興収744万9700円であった。 ★ロビーにて「私がタイムリープできたら」短冊(出演者、試写観客による) 展示(7月15日〜) 【10月の時点でプリント本数17本。都内5スクリーンで上映続行】 また「時をかける少女」を高く評価したのは、観客たちだけではなかった。フジテレビの亀山千広(現・執行役員常務映画事業局長)が作品を鑑賞し、絶賛。即座に地上波TV放映権を獲得し、2007年7月21日の「土曜プレミアム」枠、08年7月19日と、2回に渡ってオンエアした。東京テアトル・沢村敏によると「テアトル新宿で単館上映された日本映画が、ゴールデン・タイムで全国放映されたのは、初めてのケース」とか。 3年前にあがった数字を見つめながら、ぽつんと荻野が言った。「こんな経験は、初めてだったよ…」。 第6回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(3)前編 |
animeanime16:01 | (0) | (0) |
[ 0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ] |
斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第5回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(1)前編 斉藤守彦 【ホワット・イズ・クールアニメ?】 その「ヤマト」のヒットから1年余。東京ムービー新社(現・トムス・エンタテインメント)が初の本格的長編劇場用アニメ映画として「ルパン三世」(ここでは他のシリーズ作品と区別するために、「ルパンVS複製人間」と呼称する)を製作。1978年12月16日より東宝配給によって全国公開される。 【故・藤岡豊が目指した、“大人のためのアニメ「ルパン三世」】 「ストーリーも、絵の展開も、いかにスケールアップ出来るかが映画のポイントとなった。つまりテレビ・シリーズとの差別化を第一義に考えた」とは、「ルパンVS複製人間」当時、東京ムービー新社で宣伝・営業担当を、現在はトムス・エンタテインメントのスーパーバイザーを務める熊井良助の証言だ。 実際に、この“原点回帰”を目指した劇場版の監督候補には、ファースト・シリーズ初期編を演出した、大隅正秋(現・おおすみ正秋)の名があがったという。ところが「映画としての新しい魅力を構築する意味から、吉川惣司監督が劇場用として打ち出した、“クローン”に勝負を賭けた。 当時のマーケット環境も考慮した上で、「ルパンVS複製人間」という作品のビジネス・パワーを検証すると、いくつかのユニークなマーケティング戦略を発見することが出来る。 そうしたマーケット環境を考えても、親会社と子会社という関係こそあれ、違う配給会社同士が2本立てを組むという事態は、極めて珍しい。当時の配給関係者によれば、この2本立てを提案したのは、親会社である東宝とのことだ。つまり、1979年の時点では、現在とは逆にマーケットでは洋画の力が強く、東宝としては洋画系に邦画、それも未経験の“大人向けアニメ”を公開することに不安があったのだろう。女性をメインターゲットに据えた「ナイル殺人事件」とのカップリングは、「ルパンVS複製人間」にとっても有効であり、豪華2本立てというお得感を与えることも出来る。 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(1)後編 [筆者の紹介] |
animeanime14:04 | (0) | (0) |
[ 0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ] |
斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第5回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(1)後編 【豪華2本立て番組は、その後のシリーズでも継承された】 配給を手がけた東宝と東宝東和が、この2本立てとその興行成果を高く評価したことは、「ルパンVS複製人間」に続いて製作された「カリオストロの城」が「Mr.Boo!/ギャンブル大将」、「バビロンの黄金伝説」が「ランボー・怒りの脱出」と、いずれも東宝東和配給の外国映画とのカップリングで公開されたことが証明している。 こうした「ロードショー公開時には話題にならなかったが、下番線で人気を集める」、いわゆる“名画座ヒット作”が、当時は存在した。ジョージ・ルーカスの「アメリカン・グラフィティ」しかり、タイムトラベルSFの名作「ある日どこかで」しかり。「カリオストロの城」の場合、その後押しをしたのは、アニメ雑誌での記事や、宮崎駿監督の特集でその面白さを、遅ればせながら知った観客たちの存在であることは間違いない。 当時の新聞広告を見ると、東宝邦画系のメイン館である千代田劇場こそ「零戦燃ゆ」を続映したものの、渋谷、上野、新宿といった都内をはじめ、川崎、小田原、横須賀、甲府、静岡、浜松あたりまでこの番組の公開が告知されていることから、全国的に上映されたと判断して間違いないだろう。 【映画のマーケティングとは、作り手の「意思」を拡大していく作業】 「ルパンVS複製人間」は、配給・興行各社のマーケティング戦略によって、商業的には成功を収めることが出来た。しかし、その成功は、果たして藤岡の「意思」を充分に反映したものであっただろうか? 原作者モンキー・パンチから、映像化にあたっては全権を委託されている、東京ムービー新社の経営者としての藤岡の「意思」は、成功を収めたが、クリエイターとしての思いはどうであったのだろうか? クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(2)前編 |
animeanime14:03 | (0) | (0) |
[ 0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ] |
斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第5回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(2)前編 斉藤守彦 「皆さん、心地よい疲労感をお感じになっているようで…」。 今でもはっきりと覚えている。1988年7月。公開直前に行われた「アキラ」の披露試写会。それに続いて帝国ホテルで開催された、完成記念パーティ(バブル時代は、何かにつけてこの種のパーティが行われていた)における、松岡功東宝社長(現・会長)の、これが乾杯の挨拶であった。 −原作者の大友克洋さんを監督に起用したのは、当初から決まっていたのでしょうか? −こだわりのある原作者ですもんね(笑)。 −とにかく「監督に叱られないように」という気持ちで(笑)。 −当時「アキラ」は連載中でしたが、大友監督としては、映画版はどのようなストーリーにしようと考えたのでしょうか? −そうですね。山形が金田を迎えに来る。 −上映時間が、どれだけになるのか(笑)。 −「アキラ」が従来のアニメ映画と異なる、例えば声優さんたちの声を最初に録音するプレスコ方式や、芸能山城組の起用、CGの使用など、新しい方法論のすべては、大友監督の意向と見て良いのでしょうか? −その一言を言ったが最後(笑)…。 たかがポスターと言うなかれ。映画のマーケティング戦略上、ポスターは非常に重要な役割を果たすアイテムなのである。映画を製作する人々、配給に携わる人々、実際に映画館で観客に接する興行の人々。この三者が、どのような映画を作り、どのような映画でビジネスを行うのか。ポスターはそのシンボルであり、フラグシップなのである。 それでも宣伝プロデューサー一年生の芝には、ある種の確信があったという。 その芝が、「アキラ」の観客対象としてターゲティングしたのは、中高生から大人という層だった。さて実際にはどのような客層だったのか?芝が当時、上司に報告するために作成した「アキラ・レポート」には、客層や興行概況が詳細に記されており、このレポートの冒頭には、次のようなことが書かれている。 「心地よい疲労感」とやらを感じつつ、今ひとつ懐疑的な東宝のお偉方を尻目に、「アキラ」は絶好調のスタートを切ったのだ。芝の目論見は当たった。いや、実際は彼女が想定した以上に、大人の観客が多かった。都内上映館である渋谷パレス座(現・渋谷シネパレス)では、一般券の売り上げ枚数が全体の51%を占め、高校・大学は29%、中学は7%という比率であった。 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(2)後編 |
animeanime14:02 | (0) | (0) |
[ 0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ] |
斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」 第5回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(2)後編 斉藤守彦 【“アニメに強い”名古屋だけの逆転現象】 ■ 第1週(7/16〜22)=一般72%、学生23%、中学生4% この傾向は、他の大都市においても、名古屋を除いて同様の現象を見せている。 名古屋だけが大学・高校生の比率が60%を占めたのは、特にアニメが強い地域であり、「アニメ・ファンの高校生をよく集客したということか」と、レポートには記されている。観客の男女比は7対3で男性有利と、これまた芝が事前に予想した通りとなった。 また翌89年3月、“国際映画祭参加バージョン”と銘打った「アキラ・完全版」がテアトル新宿で公開されており、これが配収1億円をあげたと、当時業界紙記者であった筆者は記憶しているが、あいにくそれを証明する資料が見あたらない。 −結局「アキラ」の製作費は、いくらかかったんですか? −アメリカで、「アキラ」のリメイクが計画されているという情報が、何度か入ってきたのですが、現在の進行状況は? 最後にした質問から得られた回答は、実に意義の深いものだった。 −なぜ講談社は、大友克洋という作家を、そこまで守ったのですか?アニメ制作中にも、色々とトラブルや行き違いがあったと思います。しかし御社は、大友克洋の意向のみならず、全人格さえ尊重したように見えます。 作家の意向を尊重し、守る姿勢。「出版社とは、そういうものだ。それは映画を作る時でも変わらない」というこの意見を、筆者は以前も耳にしたことがある。それは、宮崎駿監督のアニメ映画を作り続けた、徳間書店の総帥である故・徳間康快にインタヴューした時だ。 いかにテクノロジーが発達した世の中になろうと、映画をオートメーションで作ることは出来ない。そこには血が通った人間の主義主張、思想感情が宿ってこそ、初めて人の心を打つことが出来るのだ。コンテンツ・メーカーたる作家を守る姿勢を、映画製作においても曲げなかった出版社に対して、プロデューサーが圧倒的な権限を持つテレビ局は、映画製作の面でも監督よりも出資企業、製作者の意向を最優先しているのは対照的だ。 (取材・資料提供にご協力いただいた皆様に、心から感謝を捧げます) 次回「特殊映像ラボラトリー」クールアニメ・マーケティング・ヒストリー その3に続く!! クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(1)前編 |
animeanime14:01 | (0) | (0) |