ジャパン女子プロレスで、キューティー鈴木がブレイクし始めた当時
熊本と山陰地方の一部地域をプロモーターとして上田さんがジャパン女子の興行を手掛けていた
元々、大プロレスファンからリングアナになった自分はジャパン女子の地方会場に上田さんがいるのにビックリ
営業社員に聞くと、今日の興行のプロモーターだという
上田さんの第一印象は、とにかく怖かった
あの当時金髪に染めている人というのは滅多にいなかったので もう、それだけで物凄いインパクト
その上、昭和のレスラーは皆、体が大きくてオーラが半端じゃない
普通の表情の時でも近寄り難いのに 時折り見せるあの眉間にしわを寄せた、どこか苛立っているような表情はリング上となんら変わらない
正にあの「まだら狼」が目の前に現れたわけで、興行スタッフとして現場にいる自分は 当日の進行などをどう上田さんに話しかけていいものか、かなり戸惑った記憶がある
だが、その反面 上田さんのその在り様のリング上となんら変わらぬ凄味にプロレスファンとしては、とても嬉しかったのも良く覚えている
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さて ジャパン女子プロレスと言うのは、兎に角ダメな団体だった
何が、ダメかというといろいろあるが
ただ単にビューティーペアやクラッシュギャルズの人気に乗っかれば「女子プロレスは金になる」と考え、単純に金儲けの為だけに出資したオーナー連中から派遣された社員達の殆どに プロレスへの愛情や「これを勉強しよう」という意識が決定的に欠けていた事がまず挙げられる
それでもジャパン女子が(当時は数少ない)プロレス団体である事に変わりはないので、自然と旧来の新日本や全日本系の興行師や関係者達と交流やビジネスが行われていかざるを得ない展開になる
結果、どの地方に行っても 現地のプロモーターや主催者とは大なり小なりトラブルが派生していた
お金の事、段取りの事、大会マッチメイクの事ETC・・・
始めて、上田さんとお話しさせて頂いた時の上田さんの第一声も「お宅の会社はどうなってんの?」だった
「キューティー、キューティーって、キューティーがなんぼのもんよ?」
おそらく営業部か会社の上層部がキューティー鈴木の人気度の高さをビジネスに替えて 興行代金を、かなり高めに設定したのだろう
また、彼女達のレスリングのスキルがまだまだ未熟で、観客からお金を取るに値しなかった事も、上田さんにとっては許せなかったと思う
そうした上田さんのクレームの数々に いちリングアナとして、どう応対していいかもわからず ただただ上田さんの話を聞きながら、小さくなるのみの自分
以来、上田さんからは、とにかく説教や苦情を聞かされる事が多かった
しかも、誰もが知る大悪役のあの上田馬之助本人からなのだから 例え発言に疑問を感じたとしても、業界経験の少ないジャパンのスタッフが反論など出来ようもない
自然、その後 何度も興行を上田さんが買ってくれても、現場で上田さんに積極的に話しかける選手やスタッフは殆どいなかった
だが、やはり大プロレスファンの自分にとっては 例えそれが文句やクレームであっても それ以上に、あのヒールのトップスターの上田馬之助が自分に向って直接語りかけてくれている事実のほうが大きく、また嬉しかった
そして何よりも上田馬之助という人物の実像とは、一体どんなものなのか?と言う興味が多いにあった
結果、熊本県立体育館などの上田さんのテリトリーに行くと 自分ばかりが上田さんの文句の聞き役となって かなり多くの時間を上田さんと過ごす事になる
いつもただただ小さくなって、うなづくだけの自分だったが とにかく懲りずに話を聞き続けるので上田さんも「こいつは珍しい奴だな」と思ったのだろう
スタッフ・選手との食事会とは別に、一度だけ自分を呼びつけて飲みに連れていってくれた事がある
そこは、とても小さなスナックで カウンターの横には上田さんがグラスを傾けながら何とも言えないいい笑顔を浮かべている写真と、ブルーザーブロディーが来店した時の写真もあった
熟女のママは、とても愛想が良くて気さくに話しかけてくれる人で、接客以上の包容力を感じたが
そのヴィジュアルからはもの凄いフェロモンを発散していて 一目見て、この女性はただ者ではないと思った
後日わかった事だが、そのママこそが上田さんの後妻となった方で おそらく今回の上田さんの最期も彼女が看取ったと思われる
二人で飲みに言っても、上田さんはあまり喋らず カウンターの一番端の席で、ただただ水割りを飲んでいる
それを横目にママが自分に話しかける
「あらそう、リングアナウンサーなのね まあそうなの・・・」
そんな中、上田さんが言った数少ない言葉で忘れられないのは
「あのね、あんたね 興行とかプロレスっていうのは、いろんな人が協力してくれて いろんな人が動いてくれて、それでなきゃ出来ないいんだよ それで初めて出来るんだよ それを絶対に忘れちゃいけないよ」
その時は当たり前の事だなあと思っていたが、こうして上田さんが亡くなって振り返ると、それはとても重い言葉であって 上田さんのおかげで自分は本当に貴重な時間を過ごさせて頂けたと心から感謝している
今、自身が古い人間だと思われたり、若者に嫌われるのが嫌で 自分の感性に合わない事でもなるべく寛容に受け入れようとする年長者の方が多い
でも、そればかりだと時代は受け継がれていかずに そこで、止まる
どんなに少数でも 上田さんのような方がいないと、みんな結局は困る事になるのじゃないだろうか
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そう言えば
上田さんが、1981か1982年ごろの新日本の後楽園大会で
当時「ニューリーダー対ナウリーダー」なる世代闘争の渦中にあった前田日明の試合後に、突如リングに現われ「前田!何がニューリーダーだ、お前らの立場を考えろ!」というマイクアピールを行った事がある
あれは上田さんの性格を考えれば、100%ガチの発言であり行動だったのだと自分は確信している
また、猪木VS藤波の横浜文体での60分フルタイムドローの後に、私服でリングに現れて 突然の事態に戸惑う猪木さんと、藤波さんに何の説明もなく
上田さんが二人の中央に立ち、二人の手を上げて「素晴らしい試合だった」と称えたあの事も 予め予定された事ではなく、上田さんの本音・衝動から出たアドリブだったに違いない
と、僕は思う