〜始めに〜
始めに、グラフィティとはアンダーグラウンドな存在であるからして、その確かな発祥時期を特定できる証拠は少ない。しかし、多くのライター達が共通して考える「きっかけ」は存在する。それらは「政治による社会不安」、「スプレー式塗料の発明」、「ギャングによる抗争」などであり、これらをきっかけに人々は都市の壁にスプレーをし始めたと考えられている。1930年頃から、米国内において、反政府活動家達が、社会批判を広めるという目的で、街中に文字や印を主としたメッセージを残した。これが現代のエアゾール・アートの原型となる、グラフィティの始まりと呼べるだろう。そして60年代後半から、グラフィティは時代の流れとともに、「落書き」から「個人の自己表現方法」というアイデンティティへと変化していったのである。
§1942年〜§
エアゾール・アートの前段階のグラフィティで著名なのは、同時代に米国デトロイトの爆弾製造工場で働いていたキルロイという人物が書いた、「KILROY」という文字である。彼は完成した爆弾に白のチョークで「KILROY
WAS HERE」(キルロイはここにいた)と書き残し、それが後にヨーロッパで戦争中発見され、彼は一躍有名となる。

(C)WWII's:Kilroy on Cannon in Kuwait, 1991 (C)WWII's:Kilroy
on Cannon Close-Up
http://www.kilroywashere.org http://www.kilroywashere.org
餓鬼の眼トリビア:実は日本には「Kilroy Hiroshima」というエアーガンを売っているお店が存在します!ロゴマークも同じ。そして、STYXが「Kilroy Was Here」 というアルバムを出し、Larry Kirwanまでも「Kilroy Was Here」 という曲を出しています。みんなキルロイ大好きです。どなたかこの曲を聞いたことがある方、感想など教えてください。やっぱり戦争反対!とかって歌ってるんでしょうかね。
§1950年代〜§
1950年代、偉大なるジャズミュージシャンCharlie “BIRD” Parker(チャーリー・バード・パーカー)が死去する。人々はその悲しみから、国中のジャズクラブに「BIRD LIVES」というスローガンを書いた。これは特にアメリカのNYを中心に広がったとされているが、「KILROY」ほどの影響力は持たず、その流行期間も短かったとされている。

(C)Bird Lives
http://birdlives.co.uk/ThinkingAboutCharlieParker
§1960年代〜§
この頃からグラフィティがアートとして認識され始め、そのアイデンティティが確立する。当時のアンダーグラウンド・アート・ムーブメントで有名だったライターは、米国Pennsylvania Philadelphia(ペンシルバニア州フィラデルフィア)出身のCORNBREADとCOOL EARL (KOOL EARL)である。CORNBREADは当時好きだった女性の気を引くために、自分の名前を書き始めたそうだ。しかし、次第に彼は「個人の自己表現」としてのアートに目覚め、動物園のゾウに自分の名前を書くなどして、世間の注目を集めるようになった。彼らは、地方新聞や地域コミュニティからの注目を集めながら、都市全体に自分達の名前(ペンネーム)を書き残していった。
この時代の人々が目指したゴールの大半は「名声」であり、現代この地は、グラフィティ発祥の地と考えられている。しかし、当時このサブカルチャーの広がりを妨げる問題があった1つあった。それは公共交通手段の未発達であった。グラフィティにおいてより多くの名声を得る方法として、人々の目に触れる公共交通機関に自分の名を刻む事は大変重要であった。主として、人目に付かず簡単に名前を書く事ができた地下鉄等に書いた。そこからライター達は名声を得るため、地下鉄が発達したNYへと活動の幅を広げていった。この事を「Philadelphia movement」(フィラデルフィア・ムーブメント)という。ちなみにCORNBREADは1972年に自らスプレーを置いている。

(C)HIP HOP CULTURE
http://www.geocities.com/laeeque1650/
§1967〜71年§
60年代後半、NYに存在するあらゆる壁に名前が刻まれていた。しかし、まだギャングによる縄張り争いや政治スローガンが目立ち、アートとしての存在価値は小さかった。又、アートとしての存在した作品には “FREE HUEY”や“OFF THA’ PIG”等のメッセージが込められており、主として大学キャンパス周辺に存在していた。そしてそのほとんどには「プエルトリコ自由万歳」という言葉と共に、プエルトリコの旗が描かれていた。
この時代のNYのライター達には共通点があった。それは自分のペンネームの最後に番号をつけた事だ。有名なのはマンハッタンのWashington Heightsに住んでいた“TAKI 183”で、TAKIとは本名(Demetrius)のニックネームで、183とは彼が住んでいたストリート番号である。その他としては“FRANK 207”, “TREE 127”, “JULIO 204”, “CAY 161”, “JUNIOR 161”, “EDDIE 181”等が挙げられ、彼らは皆マンハッタンのアッパー・ウェスト・サイド出身のライターであった。それ以外にも、ブロンクスからは“LEE 163”、ブルックリンからは“UNDERTAKER ASH” や “FRIENDLY FREDDIE”というライターが重要な役割を果たした。
§1971年§
この頃から、エアゾール・アートというサブカルチャーが人々の注目を集めるようになり、スプレー・ペイントを使用した大掛かりな作品が主流となる。仲間同士でクルーを結成するライターも増えた。特に地下鉄は、ライターにとって他のライターとの競争の場、又エアゾール・アートを通じたコミュニケーションの場、という重要な役割を果たしていた。そして中でも「The New York Times」紙は当時、宅配の仕事をしながら、地下鉄に“TAKI 183”というモーション・タグを書いていた少年へのインタビュー記事を掲載した。その事がエアゾール・アート(グラフィティ)というサブカルチャーを世界で一番初めに世の中に知らしめた。これをきっかけにエアゾール・アートが世界中に広がっていく事になる。また世界は“TAKI 183”を「最初のライター」と呼び、以後、彼はKINGとしての「名声」を得る。

(C)HIP HOP CULTURE
http://www.geocities.com/laeeque1650/
これとほぼ同時期に、1970年頃から盛んになっていた地下鉄車内に書く“タギング”や“ヒティング”、あるいは“モーション・タギング”等が1971年頃から地下鉄車外にも書かれるようになった。当時はいかに多くのタグを街中に刻み込む事ができるかが「名声」であった。また、初期の頃は黒マーカーで文字をブロック体で書いていたのが、“LEE 163RD”というライターがタグにスタイルを加えるようになった。彼はアルファベットをくっ付けたり、重ねたりして一つのタグを「ロゴ」として完成させた最初の人物だった。その後、その傾向が広まり“SCOOTER”や,“STAY HIGH 149”, “COOL CLIFF 120”, "TRACY 168", “BUG 170”, “SPIN”, “PHASE 2”といったライターが自分のオリジナリティー溢れたタグを完成させ、シンプルなブロック体でタグを書く時代はここで終ったのである。補足すると、当時最初にブロンクスでKINGの名声を得たのは“LEE”と“PHASE 2”であった。
当時ブロンクスで最初のクルーだとされているのが"THE EX VANDALS"である。彼らはたった一晩で街中をオリジナルタグで埋め尽くし有名になった。又、この年に名声を得始めていたのが、最初の女性ライターだとされる“EVA 62”, “BARBARA 62”であり、後から “MICHELE 62”も加わった。彼女たちもまた他のライターと同じく多くの街や地下鉄に名を刻んだ。
§1972§
この時期になると、ライター達が危険を犯してまで昼間電車にタグを行うよりも、夜中に操車場に忍び込む方が効率的であると気づき始めた。そして同時に、ボミングとしてのコンセプトが出来上がった時期でもある。また、あまりにも多くのライターが出現したため、今までのようなスタイルから違うスタイルへ移行する必要性が、名声を得る為に出てきた。そしてこの頃から次第にオリジナルタグが増える。
最初にタグの周りに雲のようなデザインを取り入れたのは“SUPERKOOL 223”だと考えられている。彼は雲のデザインを、マンガの吹き出しから思いついたという。“BABY FACE 86”はNYでタグに王冠をつけた最初の人物で、“TOPCAT 126”はフィラデルフィアからNYに移り"Broadway style"という手書きのスタイルを最初に考え出した。このころはピースが盛んになり、ライターは作品にドットや星などを加えた。その中でも有名なのは“HONDO 1”である。

(C)Streetsaresayingthings
http://www.saster.org/
さて、それまでのスプレーのノズルは細く、大きなスローアップが描けなかった。しかし、"fat
cap"(ノズルの種類)という太目の線を出す事ができるノズルが誕生し、ライターの作品に大きく貢献する。参考までに、1971年代にマンハッタンに書かれた当初のピースの事を"signature
pieces"という。
§1973§
この年までに、NYにおける落書きがアートとして人々に意識されるようになった。そしてそこからグラフィティ発展は更に盛り上がりを見せ、それは誰にも止められなくなっていた。この頃になると、過去の2Dでは満足できないライターが、ピースに3Dのデザインを用いた。特に“PISTOL 1”, “FLINT 707”の作品は誰も真似する事が出来ないほど複雑なものだった。また、車両の一番下から上まで全てをペイントで埋め尽くすtop-to-bottomや、whole carと呼ばれる車両の幅いっぱいにひとつの作品を仕上げるライターも出てきた。
§1974§
この年、多くのイベントがメディアを通して起こった。代表的なものは、Richard
GoldsteinがNew York magazineにグラフィティについて、“STAY HIGH 149”等のシティーキングの紹介も含めた記事を書いた事が挙げられる。そしてこれが、新世代におけるまだ新しい若手のライター達からの注目を集めた。又、"The
Faith of Graffiti"というピースとタグの写真集も出版された事から、NYでは更に「名声」を得るためのスタイル戦争が繰り広げられた。この時、主に流行の中心はブロンクスであり、
“PHASE 2”, “RIFF 170”, “PEL”, “TRACY 168”, “KING 2” そして“PNUT
2”が有名である。更には、NYのCity College で社会学を学んでいたHugo Martinezが、UGA
(United Graffiti Artists)と呼ばれる、当時のアメリカを代表した選りすぐりのライターを集め、The
Razor Galleryというグラフィティの展示会をひらいた。

(C)Subwyaoutlaws
http://www.subwayoutlaws.com/
§1975§
この年はシティーキングの世代交代があり、以前のキング達は初代キングと呼ばれるようになった。そして新世代における主なキング達は“TRACY 168”, “CLIFF 159”, そして “IN” ( KILL 3 )の3人だった。その実力は駅、バス停、ビルとNYのどこにいようと目を閉じない限り彼らの作品が目の前から消える事はなかったほどである。
§1976§
この年になると、ライター達はピースに漫画のキャラクターを付け加えるようになった。同時に、今までの作品では満足しないライターが、よりレベルの高い作品を残そうと、電車一両全てにペイントするなど、レベルがスケールアップする。“ROGER”, “CHINO 174”, “DIME 139”, “TAGE”, “FLAME “1に至っては、1日にして10両もの電車全てをペイントで覆いかぶせた。この事から今まで以上にエアゾール・アートは注目されるようになり、"Welcome Back Kotter"というテレビ番組でも取り上げられる程のサブカルチャーへと成長した。
§1977〜1980§
この頃、地下鉄におけるセキュリティーが高くなってくる。当時経済難に苦しんでいた市交通局は、問題解決の鍵はグラフィティ対策にあると考え、操車場の管理を厳しくするなど様々な対応策を打ち出した。ただでさえ、ボミングが難しくなってきていたこの頃、さらに、未成年者に対するスプレー・ペイント販売禁止令が提案され、グラフィティを諦めるライターも続出した。だが、すでに町には有名ライターのテリトリーが存在した。地下鉄6番ラインでは“SMILY 149”, “SKULL 2”, “SEEN”, “PJAY”, “DUSTER”が主に作品を残し、2番3番ラインでは“DONDI”,“NOC167”,“COS 207”,“ZEPHYR”,“REPEL”,“AERON”、5番ラインでは“BLADE” & “COMET”, “BOOTS 119”, “MARK 198”, “FRITOS”, “KIT 17”、4番ラインでは“MITCH 77”, “MAX 183”, “2 FAMOUS”, “BOO 2”, “DISCO 92”, “CRASH”, “KEL 1st”, “BAN 2”, “KID 56”そして7番ラインでは“SON 1” & “PRO”, “CHINO 174”, “SKY 2”, “FUZZ ONE”そして “FLAME PIC”が有名であった。なかでもこの7番ラインのライターたちの作品は素晴らしかったそうだ。
そんな中、79年にローマのギャラリーが、“LEE”と“FAB 5 FREDDIE”を呼んで、展示会を行う。翌年からは、“DONDI”、“ZEPHYR”、“LADY
PINK”、“FUTURA 2000”をはじめ、多くのライターが危険な地下鉄から、将来性のあるギャラリーへと活動の場を移し始めた。しかし、NY警察は“vandal
squad”(ヴァンダル・スクワッド)というグラフィティ対策部を設置し、本格的に活動するライターの数はますます減っていく結果を招いた。

(C)Streetsaresayingthings
http://www.saster.org/
§1981〜1983§
この頃になると、地下鉄のセキュリティーレベルが最高になる。以前は簡単に操車場に忍び込むことが出来たのがほぼ不可能になり、入れたとしてもすぐ見つかるので逃げなければならなかった。また、捕まった場合、主に警察に連れて行かれずにその場でボコボコに殴られ、持っていたもの全てを没収された。多くのライターはこれを恐れ、その数は輪をかけて減っていった。しかし、それでも活動を続けるクルーは存在し、以前地下鉄1番ラインで有名だったクルー、“TDS”の後をついで “FBA” が活動を開始する。“AIRBORN”, “SPADE 127”, “TACK”, “KAZE”, “RASK” がそのメンバーであった。
§1984〜1986§
上記のようなクルー達の努力も虚しく、地下鉄におけるグラフィティは終盤を迎える。7番ラインの電車は落書き対策で真っ白になり、最終的に赤色に塗り替えられた。又、ライター達も地下鉄のガードが固くなったため、電車にスプレーする時間が少なくなり、以前まで見られたハードコアな作品が残せなくなった。しかしそんな中、“T-KID 170”, “CEM 2”, “KENN”, “MACK”, “BIO”, “SHAME 125”で構成された“TNB-TAT”というクルーは、誇りあるライターとして、それでも戦い続けるという意志統率のもと、作品を残し続けた。
§1987〜1990年代§
NYでは全ての地下鉄のセキュリティーが強化されたため、多くのライターが消えていった事は既に触れた。作品達は消され、1989年5月12日には、当時NY市長だったジュリアーニが提案したbroken windows theory(割れ窓理論)と他1案を施行したため、NY地下鉄におけるグラフィティは全てなくなった。これを“Clean
Train Movement”という。しかし、“COD”, “TC5”, “AOK”で構成された“RIS”というクルーは、リスク覚悟でwhole
carsなどの作品を残す。また、“KET”, “GHOST”, “VEN”, “SAR”, “VEEFER”,
“CAV”, “MIN 1”, “IZ THE WIZ” & “FUZZ ONE”というライター達も、“TNB-TAT”クルーのように作品を描き続けた。更には、ペイントを諦めたライター達が、エッチング・リキッドを利用してガラスにタグを始めたが、ペイントの様な確実なラインの実現はできないこの方法は、あまり支持されなかった。

TC5:左Doze 右Doves
(C)Streetsaresayingthings
http://www.saster.org/
その後、グラフィティに対する取り締まりはアメリカ各地で強化され始め、ボミングを続けるライターの多くは、警察の目が比較的届きにくい貨物列車や高速道路や建物の屋上にキャンバスを移動するようになり、グラフィティは現在に至る。
|