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2011年12月 6日 (火)

亘理・イチゴ農家の挑戦

20111206_181139_3宮城県亘理町で約5カ月間のボランティア活動の中で知り合ったイチゴ農家の丸子忠志さん(白長靴の方)は、希望と不安の格闘の中で、着実に再建に向けて取り組まれている。忠志さんの亘理町長瀞の農地約50アールは、津波に襲われ、ハウスは潰され、ガレキで埋め尽くされた。家族で住む家も、かなりの被害を受け、私たちボランティアと丸子さん一家と息子裕人さんのサーフィン仲間が集まり床下の泥をかき出した。朝早くから夜遅くまで、がれきを取り除き、ハウスを建て、一歩ずつ再生の道を進まれている姿を見て、ボランティアセンターを抜きにして、個人的にも手伝わずにはいられなかった。日々のボランティア活動後や休日などを利用して、自転車で忠志さん宅に向かい、夜遅くまで家の修理やビニールハウス再建を手伝わせていただいたことを懐かしく思う。12月5・6日の河北新報のニュースに丸子さんの記事を見つけた時は、本当に嬉しかった。人の心とともに大きく傷ついた「ふるさと」を、どのように再生させ、未来に向けて守っていくのかという思いの中で、家族が離ればなれに暮らし、未知なる土地で再建を目指す姿に胸が熱くなる。私の亘理滞在中に裕人さんの送別会が開かれ、私も参加させてもらったことを思い出した。下の写真はその時のものである。

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20111206009jd_2宮城県亘理町から移住したイチゴ農家6戸のうち、丸子裕人さん(32)は、妻子を連れて北海道に移り住んでいる。保育所に子どもを預け、夫婦でイチゴ作りに日々、取り組んでいるようだ。移住の話が舞い込んだとき、裕人さんは迷っていたという。伊達市の申し出はうれしかったが、両親を残して古里を離れる不安や後ろめたさがあった。忠志さんは「おまえの判断に任せる」というが、応募締め切り直前まで気持ちは揺れた。「原発事故で風評被害が起きるかもしれない。亘理と伊達にリスク分散できれば共倒れを防げる」。最後はそう決め、家族別々の再起を誓った。実家のビニールハウス再建にめどを付けた8月末、裕人さんは移住第2陣として北海道に入った。裕人さんは移住後、インターネット電話「スカイプ」を使って、仮設住宅に住む父、忠志さんと週に1回連絡を取っている。互いのイチゴの育ち具合、長女ひかりちゃん(2)の様子などを報告し合っているという。

亘理から移った農家は、この温室でイチゴ栽培をスタートさせた。11月下旬、北海道伊達市大滝区(旧大滝村)にある農薬製造会社所有のガラス温室。丸子みどりさん(35)が、赤20111205007jdくなったイチゴの実を手にしてほほ笑んでいる。7月に苗を植え付け、10月に始まった収穫は3日に1回のペースで行われた。11月25日までの収量は約50キロになった。ただ、試験栽培で量も少ないことから、市場へは出荷していない。利用を検討する市内の製菓業者に提供したり、支援してくれた団体に贈ったりしている。「まずはお世話になった人たちに食べてもらうのが恩返し」とみどりさんは言う。

伊達市は東日本大震災4日後の3月15日、亘理町のほか、同じ姉妹都市の山元町などに先遣隊の職員3人を送った。産地の壊滅的状況を知り、5月にはイチゴ農家の受け入れを決めた。民間企業が社宅を無償提供するなど、受け入れ農家への支援はイチゴ栽培に限らず生活全般に及ぶ。菊谷秀吉市長は「被災地を気の毒に思い、同情するだけでは支援は続かない」と言い切る。

亘理町と南隣の山元町産の「仙台いちご」は11月、収量こそ少ないものの、震災を乗り越えて出荷にこぎ着けている。

復興に向けて、まさに数年、数十年後を見据える農家の闘いである。

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