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トップページ > ニュース > 「けんせつ」記事 > 2007年8月20日 第1864号 > 戦争体験 少年も国のため死のうと覚悟した時代
 
  戦争体験 少年も国のため死のうと覚悟した時代
 
海底から人間魚雷となる幻の伏龍特攻隊
  「教育は恐ろしい」元隊員の川合さん
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川合逸夫さん
 重さ約70キログラムの潜水服を着て、機雷の棒を持って海底に50メートル間隔で待機、日本本土に侵攻してくるアメリカ上陸艇の底に機雷を突き上げて爆破する。「本土決戦」の特攻部隊「伏龍」の任務です。
  滋賀県大津市にすむ川合逸夫さんは第15期海軍予科練から特攻部隊「伏龍」に志願、横須賀で訓練をうけました。
  「私は昭和2年生まれで、軍国時代に成長しました。昭和19年に志願して予科練に入り、20年に第71突撃隊‖「伏龍」に選抜されました。特攻に選抜されたのは名誉と思いました」と当時の心境を語ります。
  「伏龍」が戦う前に戦争が終ったのですが、訓練中犠牲者がでました。苛性ソーダを使っての空気清浄缶の不備や、鼻で息を吸い、口から吐く、不自然な呼吸法のまちがいによるガス中毒死です。
  「戸板に運ばれていく隊員の遺体を見て、これはえらいところにきたと思いました」。志願した特攻隊員といっても、川合さんはまだ18歳の少年でした。しかし、その少年たちにも「伏龍」の漫画的発想はわかりました。「アメリカの上陸艇は左右に爆弾を落としながら、猛スピードで進んでいくのですから、棒を船艇の底に突き立てるなどとても無理だと思いました」。
  万が一成功しても、爆発させた本人はもとより、爆発の水圧によって隣りにいた隊員の機雷が誘爆し、次つぎに起こる誘爆によって全滅する危険性も高かったのです。

  死ぬことしか教えない教育
  それでも「一人百殺」が合言葉の特攻で死ぬことが、川合さんの支えでした。「終戦後、半年は愛知県半田市の実家で何をする気もなくぼうっとしていた」といいます。
  「息子からも、どうして予科練を志願したのか、特攻に志願したのかときかれますが、死ぬことは教えても、生きることの大切さを教えなかったのが戦前の教育。お国と違うことをいったら『非国民』といわれ、村八分にされた社会だったのです」。
  川合さんにはこんな後悔もあります。「予科練受験の際、姉のように慕っていた近所の女性から2次試験に落ちたら、お母様も、私もうれしいという手紙をもらいました。しかし私は入隊しても便りをください、という彼女の願いに応えませんでした。死を覚悟の入隊、士気が落ちてはいけないと思ったのです。結局、二度と会えませんでした」。
  終戦後、「伏龍」関係の書類はすべて焼却を命じられました。川合さんも予科練入隊以来の日記を焼かされました。いまだに「伏龍」の隊員数も、訓練の犠牲者も不明の「幻の特攻隊」です。
  「私たちの世代は何もわからぬまま特攻志願したが、世の中のことを知っていた年代が上の学徒出陣の人たちは苦しんだと思う。戦時教育のこわさ、戦争をくり返さないために、次の世代に体験を伝えたい」、川合さんはこう語り、集会などで語り部をつとめています。
 
原爆製造へウラン掘り
  福島県石川町の有賀究さん
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ウラン採掘した場所をしめす有賀究さん
 世界唯一の被爆国である日本が戦時中、戦局打開の起死回生策として、原爆開発を行なっていたことはあまり知られていません。
  「けんせつ」では当時勤労動員で、原爆開発に必要なウラン鉱堀りに従事をしていた有賀究(ありがきわむ・77歳)さんに当時の様子をお聞きしました。
  福島県南部、阿武隈高地の西側にある石川町は、明治時代から日本の三大鉱物地として全国に名を知られ、希元素鉱物(ウラン鉱を含む)の産地として有名でした。
  そのため、昭和19年12月陸軍は原子爆弾の原料となるウラン鉱の採掘を、石川町で行なうことを決定しました。
  そして昭和20年4月、有賀さんを含む旧制石川中学(現・学法石川高校)の3年生約160人は一日の休みもなく、毎日4キロの道を歩き、採掘場である石川山で、朝8時30分から午後4時まで、作業にあたりました。
  大人に石の掘り方、モッコ(石をいれる袋状のもの)のかつぎ方を教わり、くる日もくる日も指示された希元素鉱物(当時はウラン鉱という言葉は使用せず)を掘りましたが、でてくるのは石英や雲母ばかりで、目的のものはなかなか出てこなかったといいます。
  腹をすかせ、肩のくいこむ石の重さに歯を食いしばり、作業を続け一カ月もたったころ、現場に訪れた将校らしき人がいいました。「諸君たちが掘り出した石を使って爆弾を作れば、マッチ箱一つの大きさでニューヨークを破壊できる、がんばれ」。なので、8月6日に広島に新型爆弾が落とされたというニュースを聞いたとき「ピンときた」といいます。
 
「平和こそ大切だ」教え子にくり返し語る
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石を運んだモッコ
 酷な質問と知りながら、「とてつもない爆弾のこと知り、これが完成し、落とされる人のことを考えましたか?」とお聞きすると、有賀さんは「そんな余裕はなかったね」とぽつり。
  時には空襲を受ける中、みんなワラジや裸足で、足に血をにじませ、放射能を含むウラン鉱を必死に掘りました。きっと、当時生徒たちを指揮していた大人も、その危険性は知らなかっただろうといいます。
  そして、終戦の日。天皇陛下の放送は聞きとりにくいものでした。しかし、終了後有賀さんのお父さんの「戦争は終った」という言葉に、日本は神の国だから、絶対に負けるはずがないと教えられたのにまさかと思い、ぼう然自失となったのを今でもはっきりとおぼえています。
  戦後、教師になった有賀さんは教え子たちに「戦争はいけない」と繰り返し教えてきました。
  また、強制採決で行なわれた教育基本法の改正についても、改正前の「平和・民主」の理念を体現しようと40年間教職でがんばってきたのに、退職したあとでのこととはいえ悔しいと話します。
  再三、「平和こそが大事、子や孫たちを戦争にかりたててはいけない、だからこそ自分の体験を話しているのです」と有賀さん。9条が改悪されようとしているこの事態にも胸を痛めています。
  原爆開発の現実性は、必要とされるウランの量、その他の材料、そして技術力不足で、実現はむずかしかったろうというのが現在の結論です。
  それでも、「原爆ができなくてよかった」そう語る有賀さんの言葉に、救われる思いがしました。
 
中国での略奪暴行
  沖縄集団自決強いた原因
 「オレは靖国に祀られている戦友がやったかどうかはいわないがオレは中国で婦女暴行したし、略奪もやった」。埼玉県の施設でくらす元陸軍伍長の鈴木國男さんは名言します。
  鈴木さんは戦場での特異な心理を強調します。「オレがいたのは中国山西省だが、村の誰が匪賊(ひぞく・中国の抗日ゲリラ)か、ただの農民かさっぱりわからない。その中で夜襲されたり、不意討ちを食わされて戦友が死んでいく。次は自分かの恐怖と、姿を見せぬ敵への憎悪、軍隊生活の鬱憤から、見境のない殺戮、略奪、婦女暴行となった」。
  鈴木さんの転属後、部隊は沖縄に送られ、壊滅しました。「自分たちが中国でやった略奪・暴行をアメリカ軍もやると思いこんで、沖縄県民に『そんな目にあう前に自決せよ』と命じたのにまちがいない」、そう推測しています。
 
 
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