日本文明論への視点 第3講

 拓殖大学日本文化研究所主催の公開講座「日本文明論への視点」の第3講を聴講しました。今回は埼玉大学教授の長谷川三千子先生が、「日本語の哲学へ」と題してお話しされました。

1. 日本語の哲学へ
 『日本語の哲学へ』を出版したが、大量に売れると思っていたら誤算であった。日本語ブーム、またマイケル・サンデルに代表される哲学ブームが続いており、両方を組み合わせたら売れるのではないかと思った。だが、ここにはマーケティングの理論が欠けてしまっていた。例えるならば、チョコキムチの失敗のようである。ではなぜ、日本語の哲学なのか。哲学者を相手にして、日本語に哲学を持ち込む必要があることを分からせるためである。

2. 学問と哲学
 哲学とは変な学問である。西洋ではPh.D(哲学博士号)が無いと、科学、生物、物理、政治などの学者として認められない。これは、中世の大学制においては、神学か哲学しか無かったことに起因する。哲学病者が書いているようなものが正しいものであると認識されがちであるが、哲学は偉い学問なのか。否、その考えを捨てなくてはならない。ではなぜ、哲学はあらゆることを引き受けているのか。それは、古代最大の哲学者の一人であるアリストテレスが、様々な学問の集大成として哲学をまとめ上げたからである。アリストテレスはあらゆることを勉強した。物理学、生物学、天文学、歴史学、文学、哲学である。これらをまとめたものが哲学である。アリストテレスの師はプラトンであり、その師はソクラテスである。ソクラテスは本も書 いておらず、街行く人に問答を繰り返していた。だがその問答では「分かっていたつもりのことが分からない」のである。変な人である。変な人の教えを受け継いだ哲学なので、哲学は変な学問なのである。

3.「ある」と仏教
 「あたたかいもの」と「つめたいもの」は、誰もが区別することが出来る。ソクラテスは、どちらも「ある」ということに対し、疑問を抱いた。アリストテレスもつまずいた。「ある」というものを支えているのは何かということについてである。これを表すことばとして「ヒュポケイメノン」という言葉を生み出した。日本語で言えば「基体」で、直訳すると「下におかれたもの」である。「ある」を支えているのは一体何だろうか。それは、色や形や材質ではなく、色も形も材質もないただの「皿」のようなものである。ただそこに「ある」ものが支えているのである。
 動物の雄は変なことをする。例えば、雄の鳥はダンスをする。もちろん人間の雄も例外ではない。これに対し、雌は実用主義である。哲学とは、男らしい学問である。男女共同参画も、女性が入るのは似合わない。今はある種の祖先祀りとなってしまっているが、日本人は1000年前に「変てこな学問」である仏教を取り入れた。「仏」とはサンスクリットにおけるブッダのことである。仏教の悟りとは、「ある」ものをはぎとり、そこに「ある」ヒュポケイメノン(基体)を見出すことである。

4.「差別(しゃべつ)」と「平等」、「ある」と「ない」
 仏教のヒュポケイメノンは「差別(しゃべつ)、平等」である。だが、「平等」という生ぬるいことを行っていていいのか。平等とは、人間も石ころもリラックマも同列に扱うということである。フェミニストは「実践哲学」などと言っているが、平等とは変てこな考えである。
 「差別(しゃべつ)」によって、ものを区別することができる。これにより「ある」ということが分かる。仏教はインドの「劫」くらいのタイムスケールで考えなければならないのである。
 「ある」の対義語である「無い」とは、「差別(しゃべつ)」の無い世界のことである。無差別平等の世界から差別に戻るのが大事なのである。日本文化は様々な方面から影響を受けて形成されている。
 
5.「こと」と「もの」
 「差別(しゃべつ)」とは「こと」という言葉で表される。「こと」には、「事」「言」「異」など、はっきりとした輪郭を与えることが出来る。また「今日は暑いこと、暑いこと」といったようにも使うことがある。
 これに対し「平等」は「もの」で表される。事物の「もの」は、差別(しゃべつ)によって見分けられるのだろうか。源氏物語の中には「ものさびし」「ものかなし」「もののあはれ」などという言葉が出てくる。これにより、言葉にベールがかったようになる。世の中全体に染みて、無限大に広がるようにもなる。「もののひきずっている無の影」という言葉で表される。これは、仏教観に近い。
 「こと」と「もの」、どちらが正しいというわけではない。「ものごと」ということばがあり、「夏は暑いものだ」という表現もある。仏教が日本に定着した理由は、仏教と日本語は相性が良かったからである。だが、ヒュポケイメノンは日本語と相性が悪い。哲学においては「基体」と訳され、言語学においては「主語」と訳される。そんな長さも深さも形も色もないけれどそこに「ある」というものは表現しづらいのである。
 主語に対し述語は「カテーゴリア」と訳される。これを日本語に直すと「告訴」である。アリストテレスは“This is a dog.” という文を使い、“This”が“a dog”を支配し、“a dog”が“this”によって告訴されるという関係から主語述語を発明した。“This”が受け皿となり、“This”をもって“a dog”が成り立つという関係である。
 では、究極の“This”とは何か。「あるもの」である。即ち、主語とは成り得るが述語とは成り得ないものである。単なる指示語でしかないようなものがヒュポケイメノンと表されるように、西洋の哲学は言葉の理論と結びついている。では、日本語に主語はあるのか。江戸時代、本居宣長の国学以降未開発である。そこに西洋の学問が入り込んでしまっているのである。
(感想)
 哲学、仏教、歴史、日本語の視点から日本の在り方を広く問い直していたことにより、また違った視点で勉強をしていこうという気持ちになりました。

(報告・木村恵一朗)

活動報告・活動予定に戻る。

inserted by FC2 system