後期第8回勉強会

 11月29日に第8回勉強会、12月6日に第9回勉強会を行いました。成田元一が第8回で発表、第9回で補足をしました。

【第8回勉強会発表分】
 タイトル:世界に誇る日本

Ⅰ)世界の親日国① ポーランド
・ポーランドはなぜ親日か?
 ポーランドが帝政ロシアの支配下にあった時代にシベリアに送られたポーランド人の政治犯や難民の子供たちを日本が救った。ポーランドが独立国となった直後の1919年の話。
・当時の背景
 シベリアはポーランド人が独立を夢見て反乱を起こしては朽ちていった流刑の地。当時帝政ロシアは第一次世界大戦のさなか、ボリシェヴィキによる革命で崩壊したが、ロシア国内は革命・反革命勢力による内乱で混迷を極めていた。そんな中、ソヴィエト政権下のシベリア、極東地域には政治犯の家族や、独立したポーランドに帰りたくても帰れずに混乱を逃れて東に逃避した難民を含む十数万人のポーランド人がいたといわれている。彼らはウラジオストクなどでポーランド人社会を形成して住んでいたが、極東地域にいた人々の生活は飢餓と疫病の中で凄惨を極めていた。その中でも特に親を失った子供たちは悲惨な状況に置かれていた。そのような子供たちを救いたいという願いから、ウラジオストク在住のポーランド人によって「ポーランド救済委員会」が設立された。しかし、翌年の1920年春にソヴィエトとポーランドの間で戦争が始まり、ポーランド人たちは一層厳しい立場に置かれることになった。そのような状況下ではシベリア孤児をシベリア鉄道で陸路送り返すことは不可能。戦火で混乱のさなかにあるポーランドへ孤児たちを送り返しても頼れる家族はいない。そのことを案じたポーランド人たちはアメリカ在住のポーランド系移民社会に保護を求めて米国に送り出すことを決意した。そして欧米諸国にその輸送の援助を要請したが、ことごとく失敗。窮余の一策として彼らは日本政府に救助を要請した。そこで、ポーランド救済委員会のビエルキエヴィッチ会長は、1920年6月に日本に到着、早速外務省を訪れて孤児たちの惨状を訴えて救助を懇請した。会長の話と持参した嘆願書は政府関係者の同情を惹き、外務省は直ちに行動を起こした。外務省の救済依頼を受けた日本赤十字社は異例の早さで孤児たちの救出を決定した。会長の嘆願から十七日後のことであった。

・日本の対応
 こうして日本赤十字社の救済活動はシベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て大車輪で動き出した。救済決定から2週間後の7月下旬には56名の孤児第一陣がウラジオストクを発ち東京に到着。渋谷にあった孤児養育を事業とする慈善団体の宿舎に収容された。それ以後翌1921年7月まで5回にわたり、全部で375名の孤児たちが日本に運ばれてきた。日本側の手厚い看護により、孤児たちは急速に元気を取り戻した。この時、腸チフスにかかった子供を必死に看病していた日本の若い看護婦が伝染し、殉職している。やがて、孤児たちの健康が回復し帰国船の目途がつくと、準備の整った子供から次々に日本船に乗り横浜港から米国に向かった。1920年9月から翌年の7月まで8回にわけて全員がアメリカ経由で祖国に向かった。しかし、救済を必要とする孤児はまだ2,000人以上おり、日本政府は1922年3月、再度訪日したビエルキエヴィッチ会長の要請に応じて2回目の救済事業を決定。同年夏には、3回にわたって390人の孤児を大阪の私立公民病院看護婦寄宿舎に収容。この子供たちも同じように病気治療や休養の後、この年の初秋に神戸からロンドン経由で祖国に送り返された。このように日本に連れてこられた孤児は765人に及ぶが、日本赤十字社は風俗や言語が違う孤児を世話するにはポーランド人の付き添い人を付けたほうがよいと考え、孤児10人に1人の割合でポーランド人の大人を招くという手厚い配慮をしている。

・送還
 横浜港から出発した際、孤児たちは親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、ポーランド人の付き添い人に抱かれて乗船するのを嫌がったという。埠頭の孤児たちは「アリガトウ」を連発し、「君が代」を斉唱して別れを惜しんだ。神戸港からの出発のときも同様で、帰国する孤児たち1人1人にバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りたちも船が見えなくなるまで手を振っていたという。

・参考図書
 兵藤長雄『善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心』 文藝春秋 1998年版

Ⅱ)世界の親日国② トルコ
・トルコはなぜ親日か?
 1890年9月16日、親善大使を乗せたトルコのエルトゥールル号が紀伊半島の沖の熊野灘で台風に遭遇して沈没し、600人以上の死者を出した。現場となった紀伊大島の村民たちは村をあげて乗組員の救出活動を行った。

・事件の背景と村民の対応
 大島村の樫野埼灯台というところに1人の異国の男が助けを求めに来たのを灯台の職員が発見した。男はほぼ全裸で、血を流していた。職員は「海難事故だ」と直感し、隣接の官舎にいる主任を呼んだ。主任も男を見て事態を把握したが、言葉が通じなかった。そこで世界の国旗が載っている「万国信号ブック」を見せたところ、男はトルコを指し示した。このことにより、彼がトルコ人だと判明した。しかし、判明したのはそれだけで、事故の規模や状況は何も分からない。ともかくこの男の手当だけでもしようとしたところに、同様の男が次々と灯台に現れた。最初の男も合わせて10人、重傷者もいた。まだ遭難者はたくさんいるだろうが、まずはこの男たちの手当が先決だと判断し、傷薬を塗ったり衣服をまとわせたりした。落ち着いた男から嵐の中岩礁にぶつかってしまったことを聞いた職員は、灯台のある樫野区長にこのことを知らせた。知らせを出した後も53人ものトルコ人が灯台にやってきた。村民たちも負傷した男に遭遇し、手当を行っていたという。樫野区長は村民を動員し、海岸まで走った。そこには船の残骸や死体が浮かんでいる無残な光景が広がっていた。村民たちは陸に辿り着いた生存者たちの救出活動を開始。この海岸は崖であるにも関わらず、村民たちは懸命に彼らを救助した。その結果、生存者は6人。灯台にも遭難者がいることを知った区長は、村民を灯台に動員した。灯台だけでは窮屈なので、灯台の生存者63人のうち、軽傷で歩ける25人を近くのお寺に移した。村民の中にはトルコ人がどういう人たちなのか、トルコという国がどんな国なのか知らない人たちが多かった。それにもかかわらず、村民たちは男女問わず懸命に手当を行った。

・エルトゥールル号について
 日本とオスマン・トルコはロシアを挟んで東と西に位置する国だが、日本が鎖国政策をとっていたため、関係は希薄であった。しかし明治維新後は両国とも南下政策をとるロシアに悩まされている点や、列強との間に結ばれた不平等条約に苦しんでいた点から親近感が沸き、関係が接近しつつあった。エルトゥールル号が来日するきっかけになったのは、1887年、小松宮彰仁親王がイスタンブールを訪問したことだった。小松宮親王はアブデュルハミト2世と国際情勢について熱く語り合い、盛大な歓迎の宴が張られた。小松宮親王が明治天皇からの贈り物である梅模様の硯箱を贈呈すると、アブデュルハミト2世は大変喜んだという。小松宮親王帰国後、明治天皇はアブデュルハミト2世に対して感謝状を贈呈した。小松宮親王のトルコ訪問と明治天皇からの感謝状や贈り物への答礼として、アブデュルハミト2世はエルトゥールル号の日本派遣を決めた。親善大使をはじめとする乗組員を乗せたエルトゥールル号は11ヶ月かけて日本に到着、熱い歓迎を受けた。日本出発時、乗組員にコレラを患った者がいたことから出港が遅れ、台風の時期と重なった。しかしエルトゥールル号側は日本の静止を振り切り出港。そしてこの事件へとつながるのである。

・送還後
 事件に心を痛めた明治天皇による政府からの援助などで生存者は回復し、事件から20日後の10月5日、日本の軍艦の「比叡」「金剛」で送り返された。この事件のことはトルコの新聞社によって大きく報道され、トルコ人は日本や日本人に対して好印象を抱いたという。その後の日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎にちなんで、子供にトーゴーと名付ける人が多かったといわれている。また、トルコとの友好関係について忘れてはならないエピソードがある。イラン・イラク戦争のとき、イラクのフセイン大統領はイラン上空を飛ぶすべての飛行機に対して無差別攻撃を行うとの声明を出した。イラン国内には様々な国の外国人が取り残されていた。取り残された人々がいる国は、それぞれ自国民を救出したが、日本人だけは取り残されてしまった。というのも、当時の自衛隊には海外派遣不可の原則があったため、政府は日本航空に救出の依頼をしたが、帰りの安全が保証されていないため日本航空側は飛行機を出すことができなかった。イランの日本大使がトルコ大使にこの状況を訴えたところ、トルコ大使は日本人の救出を快諾した。この背景には、やはりエルトゥールル号事件のことが大きく関わっているに違いない。

・参考図書
山田邦紀・坂本俊夫『東の太陽、西の新月 日本・トルコ友好秘話「エルトゥールル号事件」』 現代書館 2007年版


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