後期第4回・第5回勉強会

 11月1日に第4回勉強会、11月8日に第5回勉強会を行いました。第4回の勉強会からは、会員各々が1週から2週かけて各自設定したテーマについて発表し、それについて会員相互に補足しあい、議論していくという形式を取り入れました。
 第4回・第5回では、木村恵一朗(筆頭輔)が2週かけて発表しました。

【第4回勉強会発表分】
 タイトル:ナチスドイツの権力掌握
@ ヒトラーの出自の謎(ヒトラーはユダヤ人?)
 1889年4月オーストリアに生まれる。1930年ヒトラーはハンス・フランク(ナチ党法律局長、のちにドイツ占領下ポーランド総督)に出生調査を依頼。(ナチ党は反ユダヤ主義政党)ヒトラーにはユダヤ人の血が混じっているのか?という説が当時の世論に出ていた。ヒトラーの父は非嫡出子。当時の言い方で言えば私生児。分かりやすく言うとシングルマザー。ヒトラーの祖母にあたる人物がユダヤ人の家(と言われる)で家政婦をしていた。そのユダヤ人(と言われる)の家の息子(つまりヒトラーの祖父に当たる人物)と関係を持ち、ヒトラーの父を産んだとも言われている。しかし当時ヒトラーの祖母にあたる人物が勤めていた家の地区にユダヤ人は住むことを禁止されており(グラーツ市歴史年報)、ヒトラーの祖母がそこに勤めていた証拠もない。では誰がヒトラーの祖父だったのか?ヒトラーの祖母は41歳の時、下オーストリア州で5年の交際の後粉ひき職人と結婚した。(ユダヤ人ではない)。結婚前にヒトラーの父を産んだのだ(この時点で「非嫡出子」)が、結婚後も嫡出子として粉ひき職人は認めなかった。経済的な事情もあって、結局嫡出子にはできなかったのだ。しかしこの粉ひき職人がヒトラーの祖父とは断定できない(田舎のため、人間関係が複雑であり、当時のことを調べるのは難しい)。しかしこの地域はユダヤ人の住む地ではなく、ヒトラーの父方の祖父はユダヤ人ではないとほぼ断定できる。なお、母方の祖父母は代々オーストリア在住、父方の祖母もオーストラリア人である。

A ヒトラーの家庭(少年期の思想)
 父は税関職員。小学校しか出ていなかったが、勤勉な勉強と仕事により税関上級事務官になり恩給生活。努力の人である。通説では下級事務官として不遇な生活、怒りっぽい人間として駄目な人物であったと言われるが、前述の通り恩給生活であり、中流階級であった。なお、父はオーストリア民族系官吏としてドイツ民族主義者ではあったが、ヒトラーに極右思想を押し付けることはなかった(ナチス党は極右)。母はおだやかな主婦であり、ヒトラーは恵まれたいたって普通の家庭で育ったと言える。父は非常に厳しく、ヒトラーに鞭を振るうこともあった。しかしそれは当時のヨーロッパではよくあることである。

B 実科学校時代、美大受験
 父はヒトラーを官吏にしようとした。ウィーンで一人暮らしをしていたヒトラーはリンツ実科学校(現在でいうところの高校、ただし大学進学を目指さない人が行く)へ進むも成績優秀ではなかった。最も、直感のみで問題を解き、苦手教科を怠けるということであったと当時の担任が所見に残している。よって成績表には不可がつき、1年生を2度やった。彼は美術を志していた。美術に関係の無い科目をさぼったせいである。再試験を受け2年へ、ふたたび再試験を受け3年に上がるも、学校側から転校を強要された。しかし転校先でも、似た様な結果であり、今度は退学を余儀されなくなった。そのころ父が亡くなり、母は美術の道を認めなかったが、実科学校を退学してからは美術の道を認めざるを得なくなった。しかしヒトラーは美術学校の試験に失敗する。試験対策を怠ったためだ。このこと、母が亡くなり、孤児手当と叔母の遺産で過ごす。再び試験を受けるも失敗、当時の下宿から姿を消した。これは兵役回避をするためであったと言われている。

C 兵役とオーストリア・ドイツ
 彼は決してズボラさから兵役回避した訳ではなかった。彼は実科学校時代より周囲や図書館での勉強で影響を受けドイツ民族主義、社会思想、反ユダヤ主義者になっていった。これには反マルクス主義もかかわっている。一人暮らしの貧しさからも、社会・福祉政策の必要性を実感していた。そうヒトラーは自著「わが闘争」で述べている。当時のオーストリア・ハンガリー帝国政府が劣等民族への弱腰外交をしており、それにヒトラーは我慢ならず、自国での兵役を望まなかった。ヒトラーは1913年、ミュンヘンへ移り、ドイツ帝国(第二帝政)下での兵役を望んだ。1914年に逮捕されオーストリアに送還されるも、兵役検査に不適格と判断され兵役免除。ドイツへ戻り第一次世界大戦へドイツ帝国の兵隊として戦うことを志願した。ドイツでは国王に直接志願し、西部戦線(べルギー南部〜フランス北東部)でを中心に4年間戦った。しかし大戦でドイツ帝国は敗北。ヒトラーにとっては、この4年間の戦いで祖国の誇りを取り戻すために政治家を志した。

D 帝政崩壊、ドレクスラーとの出会い、ナチ党結成
 1918年、総力戦であった第一次世界大戦の敗北が濃厚になったのを受け、経済は混乱、国民は暴徒と化した。総力戦により労働者階級とブルジョワジーとの格差が広まったためと、前年に発生したロシア革命の影響もあり、国民はストライキを行うなど、ますます経済は混乱。軍部は社会民主党政権を樹立させる。しかし以前と何も変わらなかった為、ついに国民が立ち上がった。これがドイツ革命である。革命の結果国王が亡命。帝政は崩壊し、共和制へと移行した。しかし共和制下では、安定多数を得る政党が出ず、政局は不安定であった。ある時、ヒトラーはドイツ労働者党の集会に参加。そこで党の幹部であるドレクスラーの目に止まり、入党することになる。ドレクスラーは「国民社会主義」という労働者の状態を改善して国民としてゆくという考えを持っており、ヒトラーはその考えに共鳴、軍をやめ党務に専念。2人に共通している点はもう1つあった。反ユダヤ主義である。ヒトラーは人を惹きつける演説にて党の重職につき、上層部に圧力をかけ独裁を認めさせた。そして1921年、ヒトラーは党名を国家社会主義ドイツ労働者党(つまりナチ党)と変更し、議長に就任した。

E ミュンヘン一揆
 1923年、ミュンヘン・ルール炭田(たんでん)を第一次大戦の賠償金の滞納を理由にフランス・ベルギー軍が占領。この国家的危機に国民のナショナリズムが高揚した。しかしドイツには戦争による疲弊で軍事的に対抗する力はなく受身の姿勢で行かざるを得なかった。これを受けてインフレも起きた。当時の政府は保守派に期待されていたが、インフレの責任を取り退陣。後継には社会主義派がなり保守派の失望を買った。そこで強硬派であるナチ党に期待が高まったのである。一揆の前年にムッソリーニがファシストを率いたように、ミュンヘンでも期待が高まった。軍部と結託し、ヒトラーはベルリン制圧に向かう。しかし軍部が離反し、ナチスと衝突。ナチスのクーデターは失敗に終わった。実は軍部も独裁を目論んでいたのである。ヒトラーは逮捕された。しかしこれは「政治家ヒトラー」の第2の誕生であったとも言える。また、翌年の選挙では議席を減らす結果となった。

F 権力掌握・組閣へ
 1928年に起きた世界恐慌の影響もあり、社会民主党政権への不満が大きくなっていった。とりわけ極右(ナチ党)及び極左(共産党)への期待が高まった。財界は共産党の躍進を恐れ、ナチ党と保守系政党との連立政権を模索していた。1930年の選挙ではベルサイユ条約の破棄や再軍備のような民族主義的主張、反ユダヤ主義とゲルマン民族の優秀性「血の純潔」をプロパガンダ的に訴え(大量のビラを貼りナチスが上り調子であると錯覚させたり、共産党との抗争を行いもした)改選前の9倍近い議席を獲得し第2党となった。共産党も議席を増加させ第3党に。与党社会民主党は微減した。1932年、ヒトラーは大統領選挙に出馬するも現職に惜敗。1932年末、財界は本来中道政党と保守系政党による政権を模索するも、過半数には届かなかった。そこでナチ党を政権構想に入れることにしたのである。目的は反共産と安定政権である。一方、現行政権(社会民主党系)はこの事態を打開できなかった。ナチス左派の取り込みを図るも失敗。ヒトラーは大統領の承認を受け内閣を組閣した。組閣直後の選挙もナチ党は単独過半数には至らなかった。しかし議員運営規則を改正し、共産党・社会民主党議員で逮捕された者を出席扱いすることにより3分の2の議席を確保することに成功した。1933年、ヒトラーは全権委任法を可決。ナチ党による独裁政権が始まったのである。

G まとめ(ヒトラーと民意、現代に通じるか?)
 幼少期より多くのことを実体的に学んだヒトラーは、自身のカリスマ性と世論の動向をしっかりキャッチして民意をつかみ、権力の掌握に成功した。しかしマスメディアとネットの発達した現代ではこれほど注目をあびるのは難しいかもしれない。しかし理論を原理に基づいて訴えていくということは、現代にも通じるであろう。

【第5回勉強会発表分】
 タイトル:ナチスドイツの権力掌握U
H はじめに
 前回の流れ、まとめを踏まえて今回はいよいよ本質である国民の心をつかんだ方法について。

I ナチズム発展の原因
 第二帝政以来のドイツには支配階級に対する一般市民階級の国家主義、官僚主義、軍国主義、反西欧主義の風潮があった。その風潮の上にナチ党が主張した反民主主義、反議会主義、反国際主義、反社会主義、反平和主義、反合理主義が成り立っていった。それは特に一般大衆特に中流階級(具体的には手工業者、小商人、農民、使用人、官吏、自由職業者など)に浸透していった。第二帝政は権威的で非民主的な性格が強かった。また、「帝政による独裁」の存在は第一次世界大戦の勝利のためだけに許されていたのであり、戦争に敗北した以上はその存在意義を失っていた。「帝政による独裁」が崩壊(といっても民主的な手段=議会に帝政→共和制への移行案が提出で)した。(ポイント:「帝政による独裁」が崩壊した結果帝政も崩壊したのであって、帝政の考え=権威的、非民主的が否定されたわけではない)しかし帝政による独裁が崩壊してもその権威的考えはドイツに残っていたので、共和制へと移行しても考え方はドイツに根づいていた。
 そこをヒトラーは利用したのである。ヒトラーは狂信的に、また極端に宣伝したのではなく、「強大なドイツ」や「新しいドイツへの構成」といったスローガンを「民族共同体」ということばや中産階級に向けて社会福祉政策を行うといったことに結びつけて話していったのであった。その宣伝に対しドイツの市民階級は、ヒトラーを決して革命家ではなく反革命派と思い支持をしたのである。また、支配階級もヒトラーを利用しようと思って支持したのも、市民の支持に一役買った。(上がやれば下もやる。)
 ヒトラーの演説は中産階級にうけた。社民党による社会主義的政策は中産階級の人々にとって生存の基礎を危うくする政策であるとも信じこまれていたし、また、帝政時代は政府によって保護されていたとも信じていた。そしてインフレによって自ら保持している資産価値が大きく減っていくことによって、絶望感を感じ、強力な指導者を求めるようになった(社民党政権は単独過半数ではなく非常に不安定な政権であった)。そのころミュンヘンではナチスの人気弁士たちが中産階級の保護を積極的に唱え、ミュンヘンでは過激な保守主義とインフレの積極的解決を求めるようになってきた。ヒトラーらは、偏執狂的に民族主義救済の思想を説いて人気を博していった。

J ミュンヘン一揆
 なぜヒトラーは一揆を目論んだのか?国民のナショナリズムの高揚の時、失業者(インフレ・世界恐慌によって発生)は極右・極左に期待を高めた。一部は極左に流れたが、大部分は極右を支持した。ヒトラーはバイエルンの極右勢力と結託してベルリン進軍を企てるも、バイエルン側が行動を起こさなかったため、自陣営のみで行動を起こさざるを得なかった。さもないと、自らに期待していた失業者が極左に流れる可能性が大いにあったからである。そしてベルリンへ向かうもついには軍部の離反でヒトラーは逮捕。のちにヒトラーは裁判にかけられるが、その裁判の場もまた、極右ドイツ民族主義の宣伝の場となったのである。

K 北西ドイツ政策
 ミュンヘン一揆のおかげもあり、南ドイツ(バイエルン・ミュンヘン)ではヒトラーへの期待が高まった。しかし、ベルリンを含む北東ドイツ、農村の多い北西ドイツでは、いまだにナチズムは浸透していなかった。そこでナチスは、農村に目をつけた。そのころ農業恐慌が起きていたドイツ農村部では、政府による農業政策が行われていたが成果を収めることが難しいと判断し政府に失望した。そこにナチスは、新しい農業政策のためにはまず現在の政治制度(社民党政権)の打破が必要だと説いた。ナチスはとにかく農業への政策を重視した。1930年、農業綱領を設定し、具体的には(アドルフ・ヒトラー P246)、ということにより農民の保護を訴えた。農民は生活の安定を望み、ナチスに期待した。

L 権力掌握後の求心力
 ヒトラーは全権委任法を成立させることによって自分に対する反対勢力を封じ込めることに成功してしまったのである。しかし自分がかつてしたように、国民や旧勢力のクーデターが起きる可能性もある。しかしそれは起きずに戦争へと突入していった。その背景にはなにがあるのだろうか。
 1939年、ドイツはポーランドに電撃作戦にて侵攻。しかし国民生活は悪くならなかった。1936年より戦争の準備を始めていたということもあり、国民に負担(増税や徴兵など)を課す必要がなかったということである。
ナチスは第1次世界大戦において敗戦の理由として、国内での大衆蜂起があったからという理論を信じていた。それにより、ナチスは国民生活への配慮を怠れば第1次世界大戦の二の舞になると思い、とかく国民生活への配慮を忘れなかった。配給の減少や増税政策は国民に不満が出たため、すぐさま撤回するなどした。また、戦争により軍需品の生産が伸び、賃金も増加するなど、決して国民に不満が出ることはなかった。むしろ食料の配給などはだんだんと増えていったのである。

Mイギリス・ソ連の反撃
 ロシアへと侵攻するも東部戦線は激しく、消耗戦となった。徴兵が盛んに行われるようになり、女性も軍需工場に働くこととなった。また、西からはイギリスがベルリンを空爆し、焼け野原となった。そんな状況にドイツ国民はナチスへの不満を募らせる者もいた。しかし大部分の国民は戦争という国を挙げての状況に熱狂し、一致団結し、なんとしても勝って連合国への恨みを晴らすのだという強い気持ちを持っていた。ベルリン空爆についてヒトラーは、「ベルリンの旧街並みを作り直す」つもりでいたので、寧ろ好都合であると国民へ言った。

N敗戦
 1945年、連合国陸軍がドイツ本土に侵攻する兆しを見せると、国民は震え上がった。ドイツ人は元来スラブ人の残忍さを知っていたのでとりわけ赤軍を恐れた。また、第2次世界大戦の初期にソ連へ与えた侮辱や恐怖の報復も恐れた。多くのドイツ国民は西へと逃れた。しかしドイツ全土が混乱状態にあり、途中で上や寒さに死す者も多く出た。残った者は予想通り赤軍の残虐な仕打ちに遭った。略奪、強姦、虐殺など。4月23日、ついにソ連軍がベルリンを包囲。30日、ヒトラーは自殺した。ベルリンは陥落した。ベルリンでの死者は32万5000人に上った。ヒトラーはこの年に入り発狂してしまっており、ナチ党は統率力を失っていた。

Oまとめ・現代に通じるか
 ヒトラーの強烈なカリスマ性によりナチズムが発展、自身の宣伝能力により多くの国民を虜にした。しかし、無謀な戦争、敵の多さも相まって、悲劇の最期を遂げてしまったのである。現代に通じるところがあるとすれば、政権の矛盾点、間違い、国益にならない行動というものを指摘し、宣伝していくということが大切なのではないだろうか。マスメディアの発展し、多くの反日勢力の配下に置かれてしまった現代ではなかなか宣伝をしていくということは難しいのかもしれない。しかし、身近な人に呼びかけていくことや、ヒトラーのように多くのことを自ら学び、あるいはお互い議論を交わすことによって自己研鑚していけば、おのずとその解決策は見えてくるのではないだろうか。かく言う私もまだまだ未熟な人間ではあるが、ヒトラーのようなカリスマ性を持った人間になりたいと思う。


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