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「風の翼」番外編 |
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空色の花 | ||||
夏心からり | ||||
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草花が生い茂った小高い丘を、小さな女の子が歩いていた。
いや、歩いているという言い方は正しくないかもしれない。
女の子はほんの少しもまっすぐに進んでいなかった。
右に曲がり、左に走り、振り返って逆戻りする。あっちで背伸びしたかと思えば、今度はこっちで屈みこむ。一つに束ねられた黒髪のしっぽが、そんな女の子に置いていかれまいと懸命に跳ねていた。
女の子は歌うように呟く。
「おはな、おはな。しろいおはな、きいろいおはな」
色とりどりの花を指差すたびに、深い海の色をした目がくるんと動く。
女の子はまた走る。髪も一緒に走る。
「おはな、おはな。あかいおはな。えっと……。む、む、む、……むらさき! のおはな」
小さな行進は続く。
どうやら、お目当てのものがなかなか見つからないようだ。
女の子は困った顔をして、ふぅとため息をついた。少し疲れたらしい。
「あ!」
突然女の子は叫んで駆け出した。髪も慌ててついていく。
「おはな、おはな! あおいおはな!」
女の子は早口で言った。
丘の陰になったところに、小さな青い花が一つだけ、隠れるようにして咲いていた。
さっきの疲れはどこにいったのか、女の子は顔中を笑顔にして花に近づいた。
そうっとしゃがんで、小さな手で大事に大事に摘み取る。ぷちん、と茎の折れる感触がその幼い手に伝わる。
それでもう、その花は女の子のものだった。
青い花は、お母さんが一番好きな花だった。
それを見つけて持っていくと、お母さんはとても嬉しそうに笑う。
そして、いつも同じことを同じ口調で言う。
『あなたのお父さんはね、とってもきれいな髪をしていたの。このお花と同じ色よ。お母さんが大好きなお空の色よ』と。
お父さんという人のことを、女の子はよく覚えていなかった。
女の子が生まれたばかりの時に、どこかに行ってしまったのだそうだ。
覚えていなかったから、女の子は寂しいとも悲しいとも思わなかった。
『どこか』というのはいったいどこなのかも、よく分からなかった。
ただ、お母さんがとても嬉しそうに話すので、どうしてわたしの髪はお父さんと同じにならなかったんだろう、と女の子は思ったりした。そうしたら、お母さんはもっと喜んだかもしれないのに、と。
でもそれはしかたない。どうしようもないことだから。
それくらい、まだ小さな女の子にも分かっていた。
それにお母さんと同じなんだからいいや、とも思っていた。
そんなこと考えなくても、青いお花を持っていけば、お母さんは喜んでくれるから。
ただお母さんが笑ってくれるのが嬉しくて、お母さんにありがとうと言われるのが嬉しくて、女の子はいつも青い花を探してくるのだった。
ただ――それだけだったのに。
「おかーさぁーん!」
大声で叫びながら、女の子は丘を登った。
息をはずませながら、さっき見つけたばかりの青い花をその手に持って。
後ろのしっぽも女の子の首筋を叩いては、早く早くとせかした。
女の子の母親である女性は、いつもこの小高い丘の一番上にいた。
なぜ彼女がこの場所にいるのか、女の子は知らなかった。訊いても答えてくれなかった。しかし、とにかくそこにいるのだ。そこに行けば必ず会えるのだ。
その日ももちろん、母親はそこにいた。
高く結んだ長い黒髪を風になびかせながら、たたずんでいた。
その背中が見え始めると、もうそれだけで女の子は嬉しくなってしまった。
「おかあさん! はいっ、あおいおはな! みつけたの!」
上がった息を整える間も惜しんで、女の子は言った。
母親の前にまわって、精一杯手を伸ばして、つま先立って、手に持った花を差し出して。
お母さんに喜んでもらえる。お母さんに誉めてもらえる。
ただ――それだけだったのに。
その時の顔を、女の子はずっと大きくなってからも覚えている。
優しく細められるはずだった黒い目は大きく見開き、柔らかく笑みを作るはずだった口元は呆けたように開いていた。
女の子はわけが分からず、出した手を引っ込めることもできないまま、呆然とした。
そしてやがて、母親が凝視しているのは自分の手に持った物などではないことに気がついた。
視線の先は、女の子自身だった。
急に、母親が手を伸ばした。
顔がそのままだったので、女の子はびっくりしてしまい、はじかれたように身をすくませた。しかし逃げることはできなかった。
細長い手が、女の子の頭の後ろに触れた。
瞬間。
青い花が、視界の横一面におおい被さった。
女の子は驚いてあたりを見回したが、青い花などどこにも咲いていなかった。
そして、ようやく気がついたのだ。
自分の身に起こった異変に。
女の子は、そっと手を伸ばしてそれに触れた。
それは、視界を横切ったのは、花ではなく――自分の髪だったのだ。
母親と同じように真っ黒だったはずの髪が、いつの間にか透けるように輝く青色に変わっていた。
それは、女の子が手に持っている花と同じ色だった。
母親が大好きだと言っていた、空の色。父親と同じ髪の色だ。
――おとうさんとおなじ!
女の子は嬉しくなって、自分の髪を何度も何度も確かめるように手ですいた。
これできっとお母さんに喜んでもらえる。お母さんが笑ってくれる。
そう確信して母親を見上げて――愕然とした。
泣いていた。
顔を悲痛に歪めて、大粒の涙をこぼしながら、母親が泣いていた。
生まれて初めて自分の母親が泣いているのを見た女の子は、あっけにとられてしまった。
母親はなにも言わずに顔をおおい、その場に崩れ落ちた。
女の子はもう、なにがいけなかったのか、どうしていけなかったのか、なにがなんだか分からなくなってしまった。小さな頭の中はそれだけでいっぱいになってしまった。
だから泣いた。
一緒に泣いた。
いっぱい泣いた。
泣いて泣いて、どうして泣いているのか分からなくなるぐらい泣いて、咽が痛くなって、涙が枯れて、ようやく泣きやんで、しゃくりあげながら見上げると――目のふちを赤くした母親が、女の子の頭をそっと優しくなでてくれた。
大きくて温かい手だった。
女の子は、また泣いた。
◇◆◇
草花が生い茂った小高い丘を、一人の少女が歩いている。
立ち止まることなく、まっすぐ西に向かって。
首筋が見えるほど短く切られた髪は、はるか頭上に広がる空と同じ色をしている。
「――あ」
少女はふと足を止めた。
「青いお花」
口に出して呟いてみて、そっと笑った。
少女の足元に、小さな青い花が一つだけ咲いていた。
あれから何年か後に、女の子は母親から本当のことを聞かされた。
自分は生まれた時には髪が青かったこと。もしそれを誰かに知られたら悪いことが起こるかもしれないからと、父親が魔法で髪の色を変えたこと。父親は旅の魔導士で、とても強い力を持っていたこと。出て行く時に、小さなペンダントを置いていったこと。
そして――これは後から分かったことだったが――髪の色が元に戻ったのは、父親がかけてくれた魔法が消えてしまったからだということ。
それらの全てをきちんと理解して、母親が涙を流した理由が分かるようになるのは、それから約十年後――小さかった女の子が、少女へと成長した後のことだった。
少女は花をじっと見つめた。
空の欠片を花びらにしたような、青い花。
小さかったあの頃は、今よりもずっと近くにこの花が見えていた。
今は、手を伸ばせば届く距離にあっても遠く感じる。同じ言葉を口にしても、あの頃とは全く違う言葉に聞こえる。
もう、この花を摘もうとは思わない。
あの人はもういないし、それに今の自分にはもうそんなことはできない。できなくなってしまった。
青い花に向かって、少女は小さく手を振った。
そして再び歩き出した。
風が吹いて、青い花を小さく揺らした。
それはまるで、少女の背中に向かって手を振り返しているようだった。
遠ざかる少女の髪は一面の緑の中で鮮やかに青く、やがて空に溶けるように消えていった。
かつて小さな女の子だったその少女の名前は――リリアといった。
FIN
掌編 |
空色の花 |
夏心からり | ||
番外編紹介: |
あの頃、小さな女の子はいつもその花を探していた――。 | |||
注意事項: |
注意事項なし |
(本編連載中) |
(本編注意事項なし) | |
◇ ◇ ◇ | ||||
本編: |
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