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* 作者注。こちらはこの物語のネタバレを含んだパートです。こちらからクリックされました方は、先に「彼と彼女のせかいせーふく、後編・倉木 優」編を読まれることをお勧めします。 日が沈み、夜が訪れた。 俺の精を身体に浴び、愉悦に浸った後――御門は複雑な表情で、帰っていった。 俺はソファに座っていた。美奈は俺の膝の上に座っている。衣服と呼べるようなものは、つけてはいない。ポニーテールに垂らした黒髪ごしに、首にはめられた黒の首輪が目にうつる。美奈の白い肌の中で、黒髪とその首輪だけが浮き上がるように目立っていた。 夜になったらおしおきすると、優は宣言した。俺は忠実にそれを実行している。 「何日くらいで堕ちる?」 両手でやわやわと2つのまろみをこねあげながら、俺は聞く。2,3年前まではまな板と言っていた胸は、ここ最近である程度の揉みごたえを備えるようになった。 「2週間も…んっ……あれば……」 「そうか」 感情をともなわない、冷たい声。すでに息を荒くしている美奈とは対照的に、俺は冷静だった。 御門に射精してすっきりしたからというわけではおそらく、ない。 「少し顔が固いな。嫉妬しているのか?」 「オホホホホホホホ………まさ…か……ぁ、ぅ…」 乳首をつまむ。美奈は敏感に反応した。背をのけぞらせ、口端からつぅぅと唾液が流れる。俺は指を乳首から離すと、美奈を抱えるように両手を腹にまわし、組んだ。 「俺が許可するまで、逝くのは禁止だぜ?」 耳たぶを舐め上げながら、確認させる。 「はい………ご主人様……」 俺のことをご主人様と呼び、俺の手に自分の手を添える。 ほっそりした手には、無数の傷。実験中の不手際で酸を被り、高圧電流を浴び、誤ってハンダゴテに触れて焼いた。カッターを使った時、危うく指を切り落としかけたこともある。 その手は、天才である美奈の技術的な未熟さと、努力を示す証。俺にとっては、世界で2番目に美しいものだった。 無論、1番目は俺自身だ。これに勝るものなど世の中に存在しない。 「真相を知ったら、御門は俺や優を憎むかな」 他人事のように言う。 「ホホホホ、どうでしょうかしらん……。ご主人様はともかく………優兄様は………あふっ……まだ被害者の1人ですから………」 美奈のうなじに、チロチロと舌を這わす。手は、相変わらず美奈の腹で組んだままだった。 俺の膝の辺りにあった水気が、じわりじわりと広がってゆく。硬くなった俺のモノを、背中越しに美奈も感じているのだろう。俺への妄想だけで逝けるほどにまで調教した身体は、もはや条件反射で俺のモノを受け入れる準備をしている。 「優………か。御門を手に入れたら、また少し変わるかもしれんな」 「んあっ! ご主人様、ちくびぃ…つねつねしたら駄目っ……です」 妹の痴態を間近に見つめながらも、俺の心は別のことに向けられていた。 御門のことだけではない。 もっと先の、俺がうまれた際に思い描いた野望を見据えている。 俺の名は雄。 倉木 雄。 幼い頃、優と美奈は風邪に似た病にかかり、死のふちを彷徨った。 2人とも命は取り留めたが、どうやら脳の一部がその際に逝ってしまったらしい。 美奈は言語中枢の一部に傷を持ち、代わりにわずかな狂気と多大な才能を手に入れた。常人の思考の斜め45度上から生み出される奇抜な発想と、それを形にする能力。それに経済の流れにも変態的に詳しくなり、資金調達の方法もすぐに身に着けた。 そして優は………脳のかなりの部分が寸断され、この俺、雄という人格を生み出した。 優は常識のいくらかを欠落したが、良識は備えている。 雄は良識のほとんどを欠落したが、常識は備えている。 俺は優のことを良く知っている。優は、俺のことを少しだけ知っている。 優は俺のことを、”雄は性欲の化身だ”と誤解しているようだが。 そのほかの評価は、おおむね正しかった。 優が雄になる時、脳内麻薬が多量に分泌され、超人的な筋力と集中力、それに善悪に対するタガが外れる。ただし副作用として、性感が著しく退化する。脳内麻薬の影響か、もしくは性欲を司る脳の部位が優の支配下にあるのだろう。 欲望は、ある。身を焦がすような野心、支配欲という名の欲望が。 SEXの快楽を理解できぬ身体。だが、俺をご主人様と呼び従属する女の姿を見る時………俺の何かが満たされる。 「ごしゅ……ごしゅじんさまぁぁ……」 切羽詰った声。俺の胸にしなだれかかる、美奈の重みが少しだけ増す。逝く2歩手前を見計らい、俺は美奈の首筋から顔を離し、乳首を引っ掻いていた指の動きを止める。 「はぁ、はぁ、はぁ………」 期待が外れたような、ほっとしたような、美奈の横顔。達することができないのが不満だったのだろうが、俺の言いつけを破ればさらに辛いおしおきが来ることを、美奈は身体で知っている。 数秒間待ってやり、美奈の波が去るのを見計らう。 美奈の唇に顔を寄せ、軽く吸う。唇を離し、互いの唾液にぬめった美奈の唇にひとさし指をあて、ぬぐう。美奈は舌を伸ばし、俺の指に絡めようとする。 「ここで、奉仕しろ」 恍惚として俺の指に舌を這わすのをやめ、美奈は嬉しそうに頷いた。 「はい、ご主人様」 俺から降り、美奈はひざまずく。俺によく見えるよう、前髪をかき上げて。 すでに勃起した俺のペニスを優しく握り、親指でカリの部分をなぞるようにする。 ちゅっ……… 醜悪ともいえるペニスに、愛しげに口付ける。鈴口をチロチロと舐めると、美奈はゆっくりとそれを口に含んだ。 「ん〜」 チュパッ………ちゅく……レロッ……ちゅぷっ……ぴちゅ……… 夜ごとに奉仕させ、経験値を積んだ者の手馴れた口使い。喉のかなり深いところまでペニスを含まれ、口内で舌を動かされながら、時折上目遣いで媚びるように俺を見る。 手を使い、俺の玉をやわやわとマッサージする。舌は動かしたままだ。 ちゅく…………ぐちゅ……ペロッ…、クチャ………ぴちゃ……くちゅ…… 触覚からの快感を感じることを出来ずとも、その情景だけでそそるものがある。 手を伸ばし、口はしから垂れた唾液を美奈の頬に擦りつけ、引き伸ばすようにする。 「んっく………は…ァ……」 頬を染め、口を離し、快楽に陶酔した瞳を俺に向ける。 どうした? と、視線で問う。 「いって、しまいそうです………ご主人様の匂いを感じて、ご主人様に奉仕しているだけで、美奈…は…………」 いく、という感覚は俺には分からない。だが、俺の手で開発し、調教してきた証を目の当たりにして、心が満たされる。 美奈は肉体だけではない。精神もまた、俺に支配されている。 「そろそろ、ご褒美をくれてやろうか」 美奈の髪を撫でる。美奈は、はぁ……と熱いため息を吐き、うっとりと俺と、俺のペニスを見た。 ご褒美をやる、という言葉は、逝ってもいいという意味も含んでいる。 幾度となく行為を繰り返してきた俺と美奈との、それは暗黙の了解だった。 「何が欲しい?」 うながす。 焦らしに焦らされた美奈の視線の先には、今まで数限りなく、自分を絶頂へと導いた俺のペニスがある。 欲望が羞恥心を超えて、言葉になる。そういう女の姿こそ、萌えというものだ。そうだろう、優? 「………ご主人様が……ご主人様の逞しいモノが……欲しい……です」 「いいだろう。乗れ」 アゴをしゃくり、自分のひざを示す。 「はい、ご主人様♪」 美奈に尻尾がついていれば、激しく振って喜びを示していただろう。ソファに膝立ちになり俺に身体を向けた体勢で、ゆっくりと腰を下ろしてゆく。期待に濡れそぼった秘裂の下には、俺のペニスが隆々と勃起している。 「んくっ……失礼……いたしま……あッ! ふぁっ……!」 美奈の狭い膣内を掻き分け、俺のモノがズプズプと埋まってゆく。半ばまで入ったところで、美奈はがくんっと身体を振るわせた。挿入れる際の摩擦だけで、逝ってしまったらしい。 美奈の力が抜け、腰が一気に落ちる。俺のモノが奥の子宮口に、こつんと当たった。 「んあぁっ!」 美奈が、首を振る。後ろに結ったポニーテールが美奈の動きにあわせて踊る。苦痛からの反応ではない。経験の少ないうちはひどく痛がっていたそこも、今では美奈のお気に入りの性感帯の1つだった。 「すごっ……すごいですっ………ごしゅじんさまぁぁぁっ」 「なら、もっと凄くしてやろう」 美奈の細い腰を掴み、俺は自分のペニスを動かす。美奈の身体もまた、俺の動きを追いかけるように腰をうねらせる。下から突き上げるようにすると、美奈はおとがいをそらし、俺に助けを請うようにすがりついた。 乳首のコリコリとした感触が俺の胸板にあたり、擦れる。それもまた、美奈の快楽を引き出す。 「あっ……………ダメ……ダメ…おか…美奈、…おかしくなりますっ…………」 その台詞に、俺は思わず笑った。 「異常こそが正常だろ、俺たちにとっては」 「ホホホ、んっ………まさしく………そうですわ…あっ…い、逝ってもよろしいですか……ご主人様……?」 逝って良し。と目で合図し、下から突き上げる動きを激しくしてやる。じゅぷじゅぷと、結合部分から水音が鳴る。 「うぁ、あ、あ、ああっ!」 射精を促すように、美奈の膣がうごめき、締め付ける。俺は日常生活を行う際と同じ瞳でそんな美奈を見つめ、目の前にあった胸を舌でくすぐった。ガクン、ガクンと美奈の身体が揺れるため、小さいながらも震える胸の動きが面白い。 「あ……ごしゅじんさま………」 息を整えながら、俺の命令を待つ。俺は美奈の乳首をちゅうちゅうと吸った。もちろん、母乳は出ない。 「しばらく、このままでいろ」 「はい…」 うっとりと言い、美奈は俺を優しく抱きしめた。 翌日の早朝。 というより夜明け時といった方が良い。日が、ようやく白い顔を覗かせ始めている。 優が御門を抱いた翌日、美奈は”たくさんある秘密部屋”の1つにいた。 美奈は今、刀を持っている。 刀は刃渡り1尺7寸(*およそ51センチ) 備前長船作の銘刀、腹斬丸の複製(*実在しません) 美奈は構えを右肩の脇に寄せ、切先を後上方を向かせる。 武芸書を読み、我流で磨いた示現流八双の構え。 「オホホホホホホホホ」 と、普段ならばやかましく奏でる口は、閉じられている。 鬼気が、瞳を染めている。 目の前には、 「にゃー」 と、猫が心細げにないていた。名は、ハの8号。薬の動物実験用に美奈が拾ってきた、野良である。 天井にフックがあり、紐がかけられている。その紐に縛られ、猫は宙吊りにされていた。 高さは、ちょうど美奈の胸に来るくらい。 「斬るぞ斬るぞ斬るぞぉ!」 女とは思えぬような、腹の底からの叫び。言葉と共に四肢が覚醒し、美奈の全身の血がたぎる。 そして 「ちぇすとぉぉぉぉ!」 示現流独特の掛け声と共に、居合いを放つ。 「に”ゃーーー」 ぱっ、と血煙があがった。 猫、まっぷたつ。 柔らかな腹を狙ったものではない。頭部から尻までをほぼ半分ずつに寸断されている。剣を扱って数年程度の素人がなしえる技量とは、かけ離れていた。 「オホホ」 べっとりと汚れた刀を、あらかじめ備えていた厚紙で拭く。 壁の傍には無造作に、巨大な丸底フラスコが置かれていた。 チンっと鳴る鍔音と共に刀を鞘にしまい、壁に立てかけると、フラスコを手にとってだくだくと流れ落ちる猫の血で満たしてゆく。 この猫、数日前にウィルス入りの注射をされており、今回はその血を採集するために斬った。 殺したのは、気まぐれだ。とはいえ放って置いてもウィルスによりのた打ち回って死ぬだけなのだから、むしろ苦しみが少なかった分幸福であったかもしれない。 「オホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホ!」 笑いと共に鬼気が抜け、いつもの爽やかな狂気が取って代わった。 そしてぴたりと口を閉じ、自分の衣服を見る。上半身はブラをつけずにキャミソールのみが覆い、下半身は薄いピンクの下着であった。共にべっとりと、返り血で汚れている。 「実験用の貴重な資料、感謝いたしますわ」 猫の躯を掴み、片付けながら、美奈は言った。 命を奪う際の高揚は、もはやそこにはない。 血に酔う時間などないのだ。 兄が起きる前に風呂に入り、綺麗な身体で迎えなければならないのだから。 さて。優が御門を抱いた翌日であり、美奈が猫をまっぷたつにして血を採集した5,6時間後のこと。 俺こと雄は、御門を誘って屋上へと来ていた。 びゅうううう、と風が吹きすさんでいる。 足元はコンクリート、見上げた先は澄み渡った青空。 優は今、寝ていた。しばらくの間、優の身体は俺こと雄が使わせてもらっている。 だからこそ、御門を誘ったわけだが。 御門はちらちらと、俺の横顔を見ては目を逸らした。 昨日盛った媚薬によってじわじわと、身体と心を蝕まれているせいだろう。 女として、俺のことを明らかに意識しているようだった。 「オホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホ。遅刻ですわ、葵さん、ご主人様」 相変わらずの笑いを浮かべ、美奈は仁王立ちでふんぞり返っていた。 「威張るな、美奈」 言いながら俺は、こわばった御門の顔と、叱られた犬のようにしゅんとなった美奈の顔を見比べる。 「さて―――昨日のことについて、説明しようか」 俺は御門に身体を向けた。 御門に説明する。優と雄との関係は伏せて。 微妙な間違いを、美奈が指摘してくれた。 ここでは、要点だけかいつまんで話す。 一昨日、俺は美奈に怪しい薬を注射されたこと。 その薬は俺の体質を変化させ、俺が出す体液は特定の女のみに作用する媚薬になるということ。汗も、唾液も、もちろん精液もだ。 特定の女とは、ユウが一定以上の好意を持った相手であること。 もちろん、その特定の女の中に御門は該当していること。 その媚薬の効果は永続的に続き、俺に抱かれたいという欲求が非常に高まるということ。 ちょっと違うが、麻薬のようなものと思えばよいだろう。 1度からめ取られれば、抜け出すのはまず不可能に近い。 そして最も重要なことだが、ユウに心の底から惚れた場合は媚薬の効果は解除される。 心の底から、という基準をもっと詳しく、客観的に言えばこうなる。 ユウのためなら死んでもいい、という状態。 「―――というわけだ。ま、昨日あんなことがあったから信じてくれると思うけどな」 俺が言い終わった時の御門の顔といったら。 綺麗だった。 素晴らしく、綺麗だった。 絶望と憎悪と、それに媚薬のためか、わずかな信じたいという気持ちとがない交ぜになって。 魂の奥深くまでを、俺に向けている。 瞳に炎を灯して、俺を射殺そうとしている。 「………………」 つかつかと無言で近寄り、御門はスナップをきかせて俺の頬を叩いた。 パシーン! いい音が鳴った。 じぃぃんと、頬に痛みが走る。耳がきぃぃんとうなりをあげた。 俺はあえて、避けなかった。 勝者の余裕で、微笑みすらしながら御門を見る。 俺は御門が疑問に思うであろうことを、先に答えてやった。 「優の奴は、御門の意志を尊重したいと思っている。だから話した。これからどうするか、自分で決めてくれ。俺を受け入れるか、自分を殺すか、それとも俺と美奈を殺すか」 俺は背を向ける。いいたいことは言い終わった。もう用はない。 教室に帰ろうとする俺の腕を美奈が掴み、恋人がするように寄り添った。肘に、胸の感触。 俺たちは、歩き去ってゆく。 「卑怯者!」 火を吹くように、御門の言う声が聞こえた。 それから御門が飛び降り自殺をしようとし、優がそれを阻止し、代わりに背骨と両足を折り、内臓のいくつかが逝った。 優と身体が繋がっている俺もまた、病室の身になった。 それから一週間ほどの間に起きたことは、優の視点で起こったことばかりなので割愛させてもらう。 御門が媚薬によって堕ち、優と口付けした。起こったイベントはそのくらいであるし、俺ではなく優の女になってしまった御門個人への興味も失せた。 ただし話の補足をするため、語らねばならぬことがある。 世界を征服するという、言葉の意味を。 御門が堕ちた夜。 今の病室に、御門はいない。両足と背骨の折れた人間が、流石にセックスすることはできなかった。御門もまたキスの1つで満足したようで、面会終了時刻の18時になると、名残惜しげに去っていった。 御門が帰ると、優はすぐに眠った。そして入れ替わるように、彼のもう1つの人格である雄が起きた。 「予定どおりでしたでしょう」 美奈が言う。病院は閉まっているが、入り込むなどこの狂った天才には造作もない。 「ここまではな」 「オホホホ。これからも、ですわ。御門お嬢様と優お兄様の行動については予想外でしたけど」 そう。 これからだ。 御門には、黙っていたことが1つある。 媚薬の作用について。 御門には分かり易いように媚薬と表現したが、その薬の素は、かつて優と美奈に感染し彼らを発狂に至らしめたウィルスであった。 実験に実験を重ね、さまざまな動物の死骸を糧に、ウィルスは形を変えた。 美奈によって改良されたそのウィルスは、死に至ることはないが、脳に浸透し、心を犯す。 御門に感染し、雄もしくは優に従属するのが第一段階。 そして感染した御門から、御門の血縁者を狙い打つように感染するのが第二段階。 感染した者の血族内、9親等にあれば確実に感染する。御門の家の家系図がないので分からないが、人数で言えば200名はくだらないだろう。 現在、御門の祖父が会長に座る葵グループは、親族によって政財界と繋がっている。 政治家、企業の社長、それに有力な者の何十人かが、雄と優によって支配されるわけだ。 そして御門と同様に、雄もしくは優に従属する。少し違うのは、2次感染者の場合、雄との性的な接触を求めない点であろう。もちろん、命ずれば嬉々として股を開くのだが。 「5年以内に、日本くらいは征服したいな」 「ええ、そうですわね」 美奈が、妖艶に笑う。 雄は唯一傷のない右手で自分の顔を撫で……思いついたように、美奈に言った。 「うっとおしいヒゲを剃ってくれないか?」 「はい、ご主人様」 そして、数分後。 湯とナイフとを調達し、美奈は髭剃りを開始した。 「ぴちゃんっ」 滴が、垂れた。 洗面器の水面に、ゆらゆらと波紋が立つ。 「ぴちゃんっ」 また、滴が垂れる。 刃の先端から、滴が落ちてゆく。 研ぎ澄まされたナイフが、青白く光を反射していた。 「ホホホ、オホホホホホホホホホホホホホホホホ」 笑いが、口から出る。何故笑えるのか、自分でも分からない。 刃を、首筋へ。 ゆっくりと、手元を上下に動かす。 しゃり、しゃり、しゃり……と、音が鳴る。 消しゴムで鉛筆のあとをなぞるように、伸び始めた雄のひげが、消えてゆく。 少し、横に滑らせばよい。 ほんの少しだけ刃を立て、横に。 頚動脈はナイフのすぐ近くにある。ご主人様の死がすぐ近くにある。 間近で見るご主人様の血しぶきは、どれほど赤いことだろう。 「オホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホ」 自然と出てくる笑いをそのままに、ゆっくりと綺麗にしてゆく。 それでいて、手元は微塵も狂っていない。 雄は、そんな妹を可笑しそうに見る。 雄は手を伸ばした。いつくしむように、髪を撫でる。 兄が妹に、というより、父が幼い娘にするような仕草であり、表情であった。 そのくせ、口を開いて言った言葉は常軌を逸している。 「俺の血が見たいか?」 ぴたりと、美奈は笑いを止める。 「はい。そのさまを想像するだけで美奈は、思わず絶頂に達してしまいそうになりますわ」 嘘ではない。 この時、実際に美奈の下着は濡れており、履き心地がよろしくなかった。 雄は、目を細める。 瞳に灯った光は、正気ではない。かといって狂気でもいい難い。己の命に対する諦め、己の命に対する無関心、どちらも備えているようであり、そのどちらでもないようにも見える。 極と書く。きわ、と読む。 極――ここでは、正気から狂気の世界へと突き落とされ、そのどちらも超越してしまった者が到達する境地を言う。 おそらく雄は、極に最も近いところにいる。 少なくとも美奈自身よりは、近い。 「オホホホ」 美奈が、笑う。 ごくごく自然な動作で、命を刈り取るように指を動かす。 刃が首をなぞる。そして首筋から吹き上がる、赤い線。 「あぁ………」 美奈の口から漏れる、絶望と歓喜が入り混じった声。 血が、失せてゆく。 雄からではない。 自分の、美奈の首筋から。 雄の喉笛を掻っ切ったはずの刃は、自分の首を傷つけていた。 「本当にやるとはなぁ」 雄が、苦笑混じりに言う。 その声を聞き終えるか終えないかのうち、ぐにゃりと、美奈の視界が歪んだ。 「はっ!?」 美奈は短く叫び、自分の首に手を当てた。 切れていない。 白昼夢かと思ったが、そうでもない。 自分が持っていたナイフが、天井に深く突き刺さっている。 雄の首を掻っ切る動作までは、確かに行ったようであった。 「流石ですわ、ご主人様」 言葉と共に、美奈は、いつもの美奈を取り戻す。 こんなこともあろうかと、代えのナイフは準備してあった。 再び、雄の髭を剃る。 やがて全てのぶしょうひげを剃り終えると、美奈はナイフを洗面器へと落とした。 「お疲れ」 ベッドに臥せったまま、雄は言う。 美奈はじっと、その顔を見る。 雄の瞳は、美しい。 黒い瞳の底に、美奈にも計り知れぬ何かが横たわっている。 美奈は観察する。 雄は、自分よりもさらに深いところに落ち込んでいた。 甘美な、狂気の園を超えた場所へと。 その境地――極に、到達したい。 自分を蝕む狂気を超え、神の視点から世界を見てみたい。 だからこそ、雄に抱かれる。雄に従う。雄と同化したいと願う。 雄は神である。 神だと、美奈は定義する。 神の力とはなにか。 信者の数であり、信者1人1人が持つ影響力である。キリスト教も、イスラム教も多数の信者がいる。だからこそ、彼らのあがめる神の力が強い。逆はない。神の力が強いから、信者が多いという論理は成り立たない。 信者がいるからこそ、神は神たりえる。古今東西どのような宗教であろうと、信者のいない神など存在しない。 美奈は教祖である。 雄という神を神たらしめるための教祖である。神の力を増やすために、教祖は信者を増やさなければならない。 信者で、世界を埋め尽くす。 それが教祖としての美奈の仕事であり、事実、彼女はその仕事のために人生を捧げようとしている。 「何を呆けている?」 焦点をあちらの世界へ彷徨わせた妹へ、雄が問いかける。 「世界が壊した後のことを、考えておりましたの」 壊れた、ではない。 壊した、である。 彼と彼女とで、これから壊すのだ。 < おわり >
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