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日輪の巫女ステラ=マリが慈愛の巫女なら、月の巫女リーゼロッテは強さの巫女だと言われる。 リーゼロッテは、巫女の中で最も幼く見え、最も傲慢で、そして最も戦闘力に秀でた巫女だ。 彼女はこの世で一番自分が尊いと思っている。彼女は市井の人間を軽蔑している。貴族も軽蔑している。聖職者も軽蔑している。彼女は自分以外の人間はすべて見下している。彼女が認めるのはただひとり自分自身だけだった。 まったく巫女らしくない彼女だが、彼女は人々にたった1つのことを教えている。それは強くあることだ。それも身体のみならず、心が。 彼女はこの世で最も尊ぶべきは、自分自身である、と教える。それが、心の強さというものだった。彼女は、自分の頭で考えることをやめ権威に屈服する人間を従順な羊だと軽蔑する。(その権威が世俗の権力ならもちろんのこと、アールマティ聖教であっても例外ではない) 彼女はそうして多くの人々にとって強さの象徴であるのだった。 アールマティ大聖堂。小さな少女が回廊を歩いていた。 銀色の髪と、勝気そうに釣りあがった目。ない胸を逸らせて廊下を闊歩していた。 彼女は聖堂上層部の個室に入った。控えていた女官が恭しく礼をする。 「お帰りなさいませ巫女様。今日もお勤めお疲れさまです」 この少女こそリーゼロッテである。 お付きの女官がハーブティを差し出すと、リーゼロッテは返事もせずにそれをひったくった。 ああ、今日はご機嫌斜めなんだ。と女官は思った。 さわらぬ巫女に祟りなし。女官は黙って彼女を見守ることにした。 リーゼロッテは不機嫌そうな様子でソファに飛び込んだ。華奢な肢体を、豪奢なクッションの中に埋めてふんぞりかえる。拗ねた駄々っ子、あるいは傲慢な王様のようで、およそ神官職の女性が取る態度ではない。 しかし彼女には、どんなに荒々しく振る舞っても隠せない気品と、奇跡を起こす者だけが持つことに許される神聖さがにじみ出ていた。その雰囲気に女官は、ついつい引き込まれてしまう。 普段こんな様子だからこそ、「もし女の子らしく淑やかに振舞ったならば、いったいどんなに美しくなるだろう」と、想像を掻き立てられてしまう。女官はその想像にのめりこんでいった。 「ガキどもが来たのよ」 「……」 「そのガキどもときたら、薄汚い恰好で無作法で――」 「……」 「おい、聞いてるの?」 「は、はい! 申し訳ございません!」 女官は我に帰る。 「お前には激務にくたびれて帰ってきたわたしの愚痴をお聞してさしあげようっていう気遣いはないの?」 「も、申し訳ございません! ええと、ガキどもが謁見に来たんでございますね!?」 「そうよ。薄汚いガキどもよ」 花びらのような唇から、似つかわしくない下品な言葉が飛び出す。 「そいつら、わたしになんてお願いしたと思う?」 「け、見当もつきません……」 「プリムのお姉ちゃんが早く戻ってくるようにお祈りしてくださいとさ!」 「!」 「本当に無事なのか、ヒミツのニンムといってどこで何をしているのか、惨めったらしい目で聞いてくるのよ! ほんっと、鬱陶しいったらなかったわ!」 「巫女様……」 リーゼッテは震える拳を卓に叩きつけた。 「……プリムの大馬鹿者……!」 リーゼロッテの怒りの震えが、悲哀のように変わる。 「子供にあんな辛い思いをさせる奴なんて、最低の恥知らずよ……」 星の巫女プリムローズが模倣者の調査のため旅立ったのは1月前だ。 彼女は戻ってこなかった。 表向きには、秘密の任務のため潜伏中と公表しているが、大聖堂の一部の人間だけは彼女が失踪したことを知っている。 そして、彼女の失踪以後、模倣者の勢力が以前に増して強くなった。 残る2人の巫女たちは最悪の事態を考えていた。 星の巫女は敵の術にかかり、その軍門に下ったのだ、と。 その日のうちに、リーゼロッテは法王の間へ行き、その扉を蹴り開けた。 「おい法王、わたしたちに出陣の命令を出しなさい」 法王にこんな口を利く者は彼女一人だ。 「レンに行って、模倣者どもを操っている邪悪と戦う。場合によっては、相手がプリムでもね!」 「構わぬ。しかし条件がある」 ベールの向こうの影は静かに答えた。 「ひとつは、そなた1人で行くこと。星辰の巫女が3人全員ここを離れることは許されん」 「……」 「もうひとつは、もし敵陣にプリムローズを見つけても、殺さずに保護すること」 法王が言い終わると、リーゼロッテの顔がこれ以上ないほどに歪んだ。 「法王猊下……畏れながら申し上げます。脳味噌が腐っておいでではございませんか?」 リーゼロッテがさらに顔を歪める。 「敵はプリムを倒した強敵だぞ! 加えて今そいつにプリムが味方しているんだぞ? なぜ好き好んで1人きりで戦いに行かなくちゃいけないんだ? そんなにわたしに敗れてほしいのか?」 リーゼロッテがさらにさらに顔を歪める。 「しかも、敵を殺さずに保護しろだぁ? 酔狂極まれり! こんなにも不利なのに、手加減しながら戦えと? 法王猊下はわたしが勝てるかもしれないチャンスを毛ほども残さないつもりなんだな! あんたの言う通りにしていたら、わたしまでプリムの二の舞になってしまう! ま、わたしは万に一つにも操られたりはしないけどね!」 「言いたいことは終いか?」 あくまで冷淡な返事が返ってきた。 「法王の命令は翻らぬ。巫女が全員ここを不在にすることも、仲間同士で剣を交えることも許されん」 次の瞬間、法王の間に喚声が響いた。 「――今日という今日は愛想が尽きた! 世界の危機なのに寝惚けたことばかりほざいてる法王にうんざりした! もうやっていられない! 実家に帰らせてもらうわ!」 「勝手にしなさい」 「ああそうさせていただくわ!」 つかつかと法王の間を去るリーゼロッテ。 と、扉の前でふと振り返った。 「もしも『万に一つ』が起きて、わたしも悪魔に操られることがあったなら、そのときは真っ先にあんたを殺しにくるわ! せいぜい後悔しなさい!」 ややあって、法王の間にもうひとりの巫女が入ってきた。日輪の巫女ステラ=マリだ。 「申し上げます猊下。ロッテは実家に帰ると言っています」 「うむ」 「明朝に出発するそうです」 「そうか」 彼女の故郷とは、ほかでもない。 レンだ。 「彼女1人で敵地に向かわせるわけにはいきません。わたくしも行きます」 (それはならん) 法王は心の声ではっきり拒絶する。 「猊下、もうプリムと同じ過ちをするべきではありません」 (わらわは過ったとは思っておらん。もし3人全員でレンに向かっていたら、今頃3人とも殺されていたかもしれん) ステラ=マリは柳眉をひそめる。 「畏れながら申し上げます、猊下は戦争の開始を先延ばしにしているだけです。もし今回もロッテ単身が敵に襲撃され敗れたら、猊下は今度は、『ステラ=マリだけでも無事で良かった』と胸を撫で下ろすおつもりですか? 2人で戦いに臨んでいれば勝てたかもしれないのに」 (2人とも敗れるかもしれない。そうなったら終わりだ) 「わたくし1人だけ残っても終わりですわ!」 ステラ=マリが声を荒げる。こんなことは初めてだった。 「猊下、すでに戦争が始まっていると認識してください! これ以上戦力を吸収される前に全力で戦うべきです!」 「……そなたまでそんなことを言うのかステラ=マリ……」 ベールの奥のシェルエットが震える。 「そんなに戦争がしたいか。また異端狩りの歴史をなぞれと……言うのか?」 「……」 「戦争はだめだ……。わらわは誰の血も見たくない……」 ベールの向こうで、確かに泣く小さな影があった。 (お願いステラ=マリ……。そなただけは……戦わないで……。わらわのそばにいて……どこにも行かないで……) 「ロッテ、わたくしも一緒に行くわ」 ステラ=マリはすぐにリーゼロッテの部屋に向かった。 頭からポッポポッポと湯気を出していたリーゼロッテは、彼女の発言に目をしばたかせた。 「ん? あのあほう王が許可したのか?」 「いいえ、黙って出発します」 「あらまあ。日輪の巫女様が命令無視とはね」 「あら、わたくしそんなに優等生じゃなくてよ。なんていったって、あなたに育てられたんですもの」 リーゼロッテは破顔した。 「わたくしたちはもう1日たりとも単独行動をすべきじゃないわ。敵は強大、しかもこちらの戦力を吸収する。慎重に慎重を重ねて行動すべきだわ」 リーゼロッテは少し考えていたが、静かに首を振った。 (法王のそばにいてやれ) 「!?」 (どうせあいつは、お前に「そばにいてくれ」とか言っただろ?) 「でもっ」 (なら仕方ないわ。お前にまで無碍にされたら、あいつ死ぬわよ) 「ロッテ……」 (わかったなステラ=マリ、あいつのそばにいてやりなさい) 苛立ちに満ちた口振りからは想像もできない優しさがリーゼロッテの中にあった。 「でも……でもロッテ、あなたがもしもやられたらーー」 「わかってる。だから、わたしがするのは偵察だけだ。悪魔の親玉の姿を確認したらすぐに引き返してくる。上位悪魔の存在が確認できさえすれば、法王も会戦の宣言をするしかないでしょ」 苦肉の策だった。しかしこんな非効率なことも、法王の重い腰を上げさせるためにはやむを得ないことだったのだ。 だからステラ=マリは、不安を残しながらも納得せざるをえなかった。 「ステラ=マリ、最後にひとつ、育ての親として命令よ」 「はい」 (『万に一つ』……いや、一億に一つが起きて、わたしまで悪魔の術中に落ちることがあったら、お前が法王を守るのよ) 「はい」 (わたしを殺してでもね) 「……わかってます」 リーゼロッテは自分より背が高いわが娘を抱擁した。ふたりの巫女はいつまでもかたく抱き合っていた。 翌日、巫女装束を纏ったリーゼロッテは旅立った。 隠密のため、お付きの神殿騎士も伴っていない。しかし、従者を一人連れていた。 「しっかり付いてきなさいポピレア」 「はい」 フードの陰に、蜂蜜色の髪と縦ロールが見え隠れしていた。 レン王女ポピレアが同行することは、彼女たっての願いだった。 もし敵に見つかったとき王女自ら捨石として役に立つから、連れて行ってくれとリーゼロッテに懇願したのだった。 「捨石ということはそのままの意味だぞ? もしお前の命や貞操に危機が迫ることになってもわたしは助けないぞ?」 「はい、そうしてください」 ポピレアには目的があった。母フローラの安否を確かめたかったのだ。 邪悪な者に洗脳されているというのが大方の予想だったが、しかしそれでも母に会いたかった。できることなら説得し救出したかった。 「そんな甘さは命取りだぞ」 とリーゼロッテに呆れられたが、母を想う気持ちを抑えることはできない。 待っていてお母様……ポピレアはもうすぐそこに参ります。 青空の色を閉じ込めたような美しい瞳は、使命に燃えてきらきら輝いていた。 少女たちは、静かにレンへ向かった。見かけは、従者も馬車もない少女たちの簡素な旅。しかしその実は、星辰の巫女と、レンの王女。大陸の行く末を握る2人の旅だった。ふたりは旅の終着地で待つものに、それぞれ思いを馳せていた。 4日目の朝、彼女らはレンの手前まで来ていた。 レンの市内がどうなっているかわからなくなって久しい。模倣者の本拠地になってから、市を囲んで聳える城壁から先は、彼女らにとって未知だった。 「巫女様、わたしは抜け道を知っています。幼いころ何度も通った穴があるんです」 ふたりはそこから市内に潜入した。子供でなければ通れないような狭隘な穴だったが、幸いこの少女2人なら問題なかった。 そして、2人の少女はレンに足を踏み入れた。よく晴れた、春の朝のことだだったという。 「なんていうか……平和そうで安心しました」 そう。レンの人々は今までどおりの生活を送っていた。 路地には子供の笑い声が絶えず、市場に活気が満ちている。国を愛する王女は安堵の気持ちを禁じ得ないのだった。 「この世の地獄のようなことになっていると思いましたが……ホッとしました」 「地獄っていうのはな、たいてい板一枚を被っているものよ。さ、行くわよ」 「はい」 「――と、その前に。ポピレア、これを持ってろ」 「これは?」 三日月をあしらったアミュレットだった。 「お守りだ。多少の催眠にかかっても、これがお前の正気を呼び覚ましてくれる」 「ありがとうございます」 「さ、行くぞ。潜伏している仲間が、わたしを待ってるはずよ」 ローブを深く被り直し、2人は裏路地に入った。 表通りを離れるに従い、たちまちうらびれた町並みになる。どの都市にもある、貧民街だ。 こんなところに頼れるお仲間がいるのだろうか? ポピレアは不安になってきた。 が、ふと気がつくと町並みが変わってきた。うらびれた街には違いないが、不潔さや荒廃さを感じさせず、修験者の住まいのような質素で引き締まった家々になっていた。浮世離れした、巡礼通りのような空気だった。 ポピレアは目を疑う。貧民外の奥まったところにこんな町並みがあったのだろうか? それとも、巫女が歩くから街が秘密の顔をさらけ出してくれるのだろうか? さらに歩くと、瀟洒な館があった。 ほかの家々より遥かに意匠が凝らされた、壮麗優美な館だ。そして、人間の建築とは違う材質でできている。 「……」 ふと、リーゼロッテはその少し前で立ち止まった。 「? 巫女様?」 「なんでもない。久しぶりに帰ってきたから懐かしくなっただけよ」 「はぁ」 ここはエルフの家だ。 そして、リーゼロッテの育った家でもある。 「お待ちしておりましたお嬢様」 2人を出迎えたのは小柄な好々爺だった。 ポピレアはふと思い出した。何百年もレンの国を見守っている老エルフがいると母から聞いたことがある。歴代女王が判断に迷ったとき、彼の意見を仰ぐこともしばしばだと。それがこの人物か。 「40年振りですねお嬢様。お変わりないようで何よりです」 「お前も、まだ当分くたばりそうにないわね」 リーゼロッテたちは老エルフの淹れた茶を受けながら、さっそく作戦会議の卓についた。 「すでにご存知とは思いますが、この国の人間たちはみな模倣者の虜となっております……」 ポピレアはゴクリと唾を飲み込む。リーゼロッテは冷ややかな顔で聞いている。 「しかしそれでも教祖は慎重な男で、決して姿を見せません。彼に会うためには城に侵入する必要があります」 「ふむ」 「そこで侵入の方法ですが……」 「はい! わたしがお力になれると思います! お母様がご無事か、た ………し……かめ……くう……」 と、不意にポピレアがテーブルに突っ伏した。 「くう……くう……むにゃ……」 彼女は寝息を立て始めた。リーゼロッテはそれを依然冷ややかに見つめた。 「睡眠薬か……」 「はいお嬢様」 リーゼロッテは自分に注がれたカップを傾け、中身を床に捨てる。 「さすが、お嬢様は口を付けませんでしたね」 「当然。敵地で出された食べ物を口にするのはよっぽどの馬鹿だわ」 「なら、そうポピレア様に教えてさしあげれば良かったのに」 「こいつは毒味役よ」 「さすがですな、お嬢様」 老エルフは苦笑した。 「気づいておられたのですね、私がすでにあの方のしもべになっていることを」 「そりゃ、館の周りを魔物たちがコソコソ哨戒していればね。まともな神経の奴なら、呑気に館に残ってるはずないもの」 「そこまで気づいておられて、なぜ引き返さなかったのです?」 リーゼロッテは昏睡するポピレアを指差した。 「悲しいかな、この足りない小娘と同じ理由よ」 「?」 すでに老エルフは操られているだろうと思いながらも、実際に会って確かめたかった。無事ならば救出したい、という願いを捨てられなかった。 「なんにせよ、もう逃げられません、お嬢様。館の外にいた魔物たちがあのお方にお報せしました。あのお方が、ここに来られます」 リーゼロッテは不敵に笑った。 「これでわたしを陥れたつもりだとしたら、じつに滑稽よ。わたしはお前たちの親玉のツラを拝むためにここに来た。向こうからご足労いただけるなんて願ってもないことだわ」 「相変わらず強気な物言いですな、お嬢様」 「お前はもう何も言うな、爺や」 リーゼロッテの手に出現した光の剣が老エルフの首を切断していた。痛みも感じる暇もなく、一瞬で。 闇に魅入られた者はもう戻れない。死しか救済はないのだ。 死体の傍らでリーゼロッテは嘆息した。 魔物たちの気配がこの館に迫っているのを感じる。 「すまん爺や。今はちゃんと弔ってやる時間はない」 リーゼロッテは彼の瞳を閉じてやると、自分の指を噛み血を滴らせ、彼の顔にエルフの作法に則った死化粧を施した。 次に、癒しの力で目覚めさせたポピレアに事情を説明した。 「――というわけだ! これから分かれて脱出だ!」 「わ、分かれるって!? なぜです!」 「奴らはわたしの魔力を感知して向かってくるだろうから、一緒にいるよりお前だけ別に逃げたほうがいい。逃げて、大聖堂に危機を伝えなさい!」 「またこのパターンなの!?」とポピレアの口から出かかった。 「さあ、早く行け! 包囲網が狭まる前に!」 裏口からポピレアを送り出すと、リーゼロッテは大きく深呼吸した。 「ふう……」 彼女は覚悟を決めた。敵はもうすぐここにくる。 その数十秒後、月の巫女と邪神は接触を果たした。 月の巫女からの挨拶は、光の剣の、目にも留まらぬ一の太刀だった。 その一撃を、邪神は紙一重で回避する。 「やるな」 「お前もな、月の巫女」 「悪魔、お前の名は?」 「タローマティ」 リーゼロッテの表情が、ひときわ険しくなる。 「ーー笑えない冗談だ! 闇の神タローマティは神話の時代に滅びたはず」 「復活したのさ。つい1月ほど前にな」 「何だそれは。……ますます冗談がかってきたな……」 しかしリーゼロッテは途方もない悪寒を感じ始めた。1月前というと、プリムローズが蒸発したときだ。 彼女は幼いころタローマティの幼生を名乗る悪魔に会ったそうだ。ただの下級悪魔の妄言と思っていたが、そのプリムローズの蒸発と同時にタローマティが現れたのは因縁めいている。ひどくいやな予感がする。 「困惑しているようだな」 「……」 「城に来い月の巫女。最高の歓迎をしよう。そこでお前の疑問を、すべて話してやるさ」 「あいにく。ここには里帰りに来ただけでね。長居するつもりはないわ」 「つれないな」 言い終わらないうちに、タローマティは手から炎を撃ち出した。 「なら、帰れない身体になってもらおうか」 黒い炎がリーゼロッテを襲うーー。 ポピレアは駆けていた。馬に乗り、一目散に市の出口を目指していた。 「お母様……会えなかった……。でも、せめて巫女様のお役には立たなきゃ……。アールマティ大聖堂まで戻らないと……!」 それが母の娘、レンの王女の義務だと思った。 途中、馬を盗めたことは幸いだった。そしてすぐに知っている路地に出られたことも幸いだった。表通りの人ごみに邪魔されることなく、密かに速やかに市の出口へ行くことができる。 と、遠くで教会の鐘の音が聞こえた。 「……?」 はっきりと聞こえなかったが、どこか、彼女が生まれたときから聞いていた鐘の音と違う気がした。しかし今は関係はない。 「あと少し……あと少しで街の外に出られる……」 馬は快調に奔り続けた。門を超えるのも時間の問題に見えた。 しかし、異変は静かに起き始めていた。 「……? なに……?」 彼女は耳を塞いだ。 「……? この音は……?」 耳を塞いでも聞こえてくる、ひどく不快な音があった。 教会の鐘の音だった。 「……?」 なに……これ……。 教会の鐘の音って……こんなに、心をかき乱し、こんなに不安な音だっただろうか? まさか! 耳を閉じても、まるで音の発生源が身体の中に入り込んだように、やむことはない。その音を聞いていると、心が徐々に蝕まれていくような、黒の絵の具で塗りつぶされていくような、得体の知れない恐怖を感じた。 何か変! 急いで街を脱出しないと! 不安と焦燥を抑え切れず、あぶみを踏みしめる足に力がこもる。 お願い! もっと速く……もっと速く走って……! 彼女のその訴えに答え、馬の動きが激しく、速くなる。 しかし。 「はうっ……?」 突然、彼女は体に違和感を感じた。 初めは微々たるものだったが、徐々にそれは顕著になっていく。 「んは……? く……。 んうぅ……?」 何……? なんなの……これ……。 馬が、段差を乗り越えるため軽く跳躍する。 「んっっっっっっ! あ、はああああん!」 彼女は全身を反らし、絶叫した。 深く被っていたローブがはがれ、母譲りの金髪と縦ロールが露になる。そして、劣情に濡れた目と、赤く染まった頬も。 「はぁ……はぁ……いったい……どうなって……るの?」 彼女はこれを知っている。 彼女は自慰も知らない年ではない。しかし、こんな強烈な感覚に教われたのは初めてだった。まして、騎乗中になど、考えもしなかった。 「きゅ……んふぁ……やぁ……」 股間が熱い。まるで何かを強く求めるように、彼女の全身に痺れを送り、抗議する。 原因はすぐ伺えた。 鞍だ。馬の身体が跳ね、鞍が彼女の股を押すたび、彼女の敏感な部分を圧迫しているのだ。 「なんで……なんで? こんなこと……いままでなかったのに……ひゃ……」 いけない……こんなことになってる場合じゃない……! 急がないと……。 しかし、馬の速度を上げ上げればるほど、股間を押し上げる刺激がより強くより頻繁になる。 「はうっ……ひゃ……」 そうこう言っている間にも、股間を襲う感覚はさらに強くなる。これで最大だと思っていた地点から、さらにどんどん強く、未知の領域へ。 「ふぁああっ、ふぁああっ、ふうっ……ひいい……」 馬の息より荒い喘ぎが彼女の小さな口から漏れ始めた。 全身が快感に犯され、筋肉が弛緩する。当然手綱にもあぶみにも力が入らない。落馬しないのが不思議だった。 「ぁ……ん……あ……」 ポピレアは、可憐な顔を不安と劣情に歪めながら、馬の上でうわ言のような声を上げ続けた。 「だ……駄目……駄目……らめらったら……」 彼女は馬の速度を落とした。刺激を押さえ、身体を鎮めようとした。しかし、刺激は収まっても身体の疼きは止まらない。彼女の股間は鞍からの摩擦と圧迫を求めて、けたたましく訴える。欲しい、欲しい、欲しいと。 「や……」 彼女は必死で気を紛らわそうとした。何か別のことを考えようとした。 そこに、あの音があった。 教会からの鐘の音。彼女の中で反響を続けている音。改めて聞いてみると、それはとても心地よい音楽のように聞こえた。 「んぁ……」 ポピレアはその音に身を委ねる。これはいい。身体の力が抜け、気分がとても楽になり、ぼうっとする。半開きの口から、快楽の残滓であるよだれが垂れるのにも気づかなかった。 いい気持ち……。どうしてこの音を不快に思ったのだろう。 彼女は片時でもこの音に嫌悪を感じた自分を恥じた。 とてもいい音……。もっと、ずっと聞いていたい。 その願いは叶えられた。その音は彼女の中で反響を繰り返し、大きく膨張していく。 彼女の身体は、音の波長に完全に共鳴した。身体が音叉になり、身体もまた音を発している気がした。音叉の又が、彼女の股だ。音の振動と、陰部の疼きは完全に共鳴した。 もっと音を大きくしたい……。 彼女は再び馬を駆り立てた。 馬が走り出すと、再び鞍が彼女のふとももの付け根を圧迫し、彼女の身体に快感を与える。そして、同時に頭の中の音が大きくなる。 「ひゃああっ! うううっ!」 彼女は歓喜の声を上げた。 もっと、もっと音が欲しい。 彼女はさらに馬を駆り立てた。 もう、どこに向かって進んでいるのかわからなかった。 やがて音が大きくなるにつれ、はっきり聞き取れるようになった。鐘の音だと思われたそれは、音声だとわかった。 『わたしは……タ……さ……の……ち……べ……』 「しは……タ……さま……の……ち……べ……」 ポピレアはその音声を無意識のうちに復唱した。 もっと声をはっきり聞きたい。そうすれば、もっと気持ち良くなれる。 「はぁっ、はっぁ……うんっ!」 彼女は馬を駆り立て、さらに手綱から片手を離し、秘部を擦り始める。 「はっ……くうっ……ひゃああ」 『わたしは……タロ……ィさま……の……ち……な……しもべ……』 『わたしは……タロ……ィさま……の……ち……な……しもべ……」 ポピレアはその言葉を反芻した。口にするだけではない。心の中で何十回も繰り返した。音声の意味は頭に入らなかった。ただ音と自分が完全に同化する感覚が欲しかった。 「うっ……うふぁあああ、ひ、ひゃああああああっ!」 全身の筋肉が張りつめ緊張する。もう目も開けていられなくなった。 ポピレアが目を閉じている間も馬は駆け続ける。馬の疾走により起きる激しい空気抵抗が彼女の肌を撫でていく。それすら彼女にとって快感だった。 「はぁあ! ぁあ! ああっ!」 ポピレアはどこに向けて走っているのかわからなかった。ただがむしゃらに馬を駆り立て、股間に刺激を送ることしか考えられなかった。 「はっ、ひゃあん! くっぁ」 馬の速度が最高潮に達する。鞍が揺れるたび、彼女の腰が押し上げられ、臀部から下腹部のあたりまでの広範囲に快感が送られる。 「ふふうううっっっ」 鞍の動きに合わせ、彼女の指がショーツ越しに秘部を刺激する。鞍が上にいくとき指は下へ、鞍が下に下がるとき指は上へ。絶妙のリズムで、彼女の女性器に鋭い快感を与えた。 やがて、音は限りなく鮮明になっていった。 『わたしはっ……」 「わたしはっ……」 『タローマティ様のっ……」 「タローマティ様のっ……」 『忠実なっ……」 「忠実なっ……」 『し も べ』 「し も べ」 「わたしは、タローマティ様の忠実なしもべ……!」 そのとき、彼女の全身を、黒い光が駆け巡った。 「っう! だあああああああああああああああああああああ!」 音が、快感が、頂点に達して爆発し、彼女の全身に弾け飛んだ。 「ーーーーーーーーーーうあぁあああぁぁぁ…………」 王女ポピレアは、馬上で絶頂を迎えた。 「はぁ……はぁ……」 彼女の意識が戻ったときは、馬が脚を遅めながら、ついに止まろうとしていたところだった。 「はぁ……ぐ……」 今までとは一転して、全身から力が抜けてた。身体は汗まみれ。自慢の髪もひどく振り乱れながら濡れ、肌に貼り付いていた。下着の中が、なぜか多めの汗で濡れているのがぼんやりわかった。 「う……」 馬の背にまたがっているのも億劫だった。彼女はよろよろと馬から降り、地面に膝をついた。 ポピレアは何も考えられなかった。自分が何をしていたのかも思いだせなかった。 わたし……いったい何を……。 ポピレアは霧散した思考を再びつなぎ合わせようとしていた。そう……わたし……あの音に心乱されてーー音はなにか人の声に聞こえたけどなんて言っていたか思い出せないーーそれで、わたし、自慰をしてしまったのだ……。 ああ……なんてことを……。 やましさ。罪悪感、情けなさ、疲労。虚無感。自慰の後特有の、ひどい虚脱感が彼女を襲っていた。さっきまで彼女を支配していた股間の熱さが、とても虚しい物のように思えた。 わたし……いったいどうして……そもそもわたしは、なぜこんなところにいたんだったかしら……たしか……。 そのとき、再び、教会の鐘が鳴った。 ピクン。 ポピレアの肩が震える。 彼女にとって、その音は単なる鐘の音ではない。 彼女にとって至福の音。 わたしはタローマティ様の忠実なしもべ。 わたしはタローマティ様の忠実なしもべ。 わたしはタローマティ様の忠実なしもべ。 その言葉は、ポピレアの中で何度も反響し、彼女の中を満たしていく。 そのとき、彼女の頭の配線が、繋ぎ変わった。 彼女の両目が大きく見開かれる、太陽の光を反射していた水色の瞳から、すうと光が消え、かわりに黒い紗が掛かる。まるで黒い蛇が、貝の殻を内側から食い破って出てくるように、彼女の目の内側から闇が姿を現したのだ。 これが、ポピレアが闇の祝福を受けた証であった。 「タローマティ様……」 彼女はうっとりとその名を口にした。まだ見ぬ主君の名を。 今までの価値観が、まるで意味のないつまらないゴミのように思えた。自分のすべては至高の主人のもの。そう思うことが何より彼女に満足感を与えた。 「タローマティ様……わたしの心も身体もタローマティ様の物です……」 ポピレアは妖しく身をよじりながら、胸の底からの想いを口にしていた。 主人に会いたい。顔を見たい。声を聞きたい。自分という人間が主人に忠誠を誓っていることを知ってもらいたい。そしてできるなら、声をかけて、名前を呼んでもらいたい。我がしもべ、ポピレア、と。 そう思うだけで股間が再び熱くなり始めた。さっき絶頂を迎えたばかりだというのにもかかわらず、さらなる刺激を求め、前以上に、炎のように燃え始めた。 「ふ……ぁ」 彼女はその熱さを歓喜とともに享受した。 「あは……」 ポピレアは笑った。その笑みはあどけない姫の笑みではなく、女の悦びを知ったものの妖しい笑みだった。 彼女はためらいなくスカートを下ろし、ショーツを外した。髪と同じ、蜂蜜色の茂みに覆われた秘部が外気に触れる。そこは、何かを求めるようにまた蜜を溢れさせていた。何を? 当然、彼女の主君の男性器だ。 「タローマティ様……あん……」 生娘であるにもかかわらず、ポピレアは主人のそれの色形をつぶさに思い描くことができた。それになぞらえ、彼女は自分の指を陰部に差し込んでいく……。 主人を思い描きながらの自慰は、さっきまでの自慰とはまるで違う。やましさ。罪悪感、情けなさ、疲労。虚無感。そんな物とは無縁の、切れることのない永遠の熱さが約束されている気がした。 「はああぁ……」 路地に、ポピレアの喘ぎ声と、ぴちょぴちょと陰部の音が響き始めた。 そこには使命に燃えたレンの王女はいなかった。何もかも忘れ、自慰に没頭する牝がいるだけだった。 一方、リーゼロッテとタローマティの戦いは続いていた。 戦いは、全くの互角だった。 リーゼロッテはその小柄な体で光の剣を操る。タローマティの攻撃をすべて受け流しながら、ほんの刹那の隙を逃さず反撃を加える。 しかもリーゼロッテは、それと同時に、周囲への警戒――潜んでいるであろうタローマティの配下への警戒――も怠らなかった。百戦錬磨の彼女だけができる戦いだった。 「驚いたな……これほどの強さとは思わなかった。さすが星辰の巫女最強だけはある」 「ふん」 リーゼロッテは光の剣を捌きながら、撤退の機会を伺っていた。距離をとって、一気にこの場を離脱したい。そういう手筈だ。 しかし、リーゼロッテは同時に逆のことも考え始めていた。 ここで、タローマティを倒すべきではないか? わたしが本気を出せば、タローマティを殺せる可能性は十分ある。奴も実力を隠していることを計算に入れても、わずかだが、わたしの全力のほうが上だ。 もちろんそれは本来の予定とは違うし、リスクを伴う。が、一度引き返しこいつに成長の時間を与えるほうが、より危険ではないか? 復活してから1月かそこらでここまで強くなったのだから、さらに猶予を与えたらどうなるかわからない。ここで仕留めるほうが安全ではないのか? リーゼロッテにそんな気持ちが強まっていた。 それはリーゼロッテの性分ーーというより、本能のためだった。 強敵に背を向けることは、生理的にできなかった。敵が強ければ強いほど、戦って、勝利し、自分の最強を証明しなければ気が済まなかったのだ。 やはり、今ここで全力でこいつを倒すべきだ……! ついに、彼女はその決断をした。 「! く!」 そう決断した瞬間、頃合よく、タローマティが体勢を崩す。 ここが勝機! リーゼロッテは覚悟を決めた。 彼女は全神経をタローマティへの攻撃に注ぎこんだ。 そのとき、彼女は今まで片時も怠らなかった撤退の算段や、周囲への警戒をかなぐり捨てた。 「せいやああっ!」 しかし、敵はその時を息を潜めて待っていた。 まさに、その瞬間を狙われたのだった。 「!」 彼女の肩を、何かが貫いた。 「ぐはっ……! 彼女は地面に勢いよく倒れこむ。 「っ……! うぐううっ!」 矢だ。 それも、エネルギーの矢。 や ら れ た ……。 弓……! それも……毒……! 「残念だったな月の巫女。お前のその強さが災いしたな」 タローマティの笑いが耳に届く。 「皮肉だな。お前がもう少し弱ければ、逃げることに徹し、助かったかもしれないのに」 薄れいく意識の中、リーゼロッテはぼんやりと矢を射った者のシェルエットが見えた気がした。 い っ た い、だれ…………が……。 …………………。 …………。 ……。 彼女が、矢を放った者の姿をはっきり見る前に気を失ったことは、幸運だったのかどうかわからない。
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