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「誰か! この状況を説明できる者はいないのか!」 夜が明け、神殿騎士たちは大騒ぎだった。彼らのリーダー・星の巫女プリムローズが消えているのだ。 彼女を最後に見たのは不寝番だったが、彼はその後強烈な眠気に教われ、彼女が戻らないことに気づけなかった。 そして彼らをさらに当惑させる事態がもう一つあった。 それは、昨日確かに死亡したはずだった片目の男の墓が掘り返されていたことだ。 これも、埋まっていた死体がどこに消えたのかわからない。 「とにかく全員でお探しするんだ! 非常事態だ!」 「星辰の巫女様にもしものことがあってみろ! これは世界の一大事だぞ!」 プリムローズは目が覚めた。 普段の目覚めとは違う。海の底から重い体を引き上げられるような、奇妙な浮遊感がした。 「あ……?」 彼女は重い瞼をゆっくりと開けた。 目の前には寝ぼけ眼の彼女自身がいた。 「鏡……か」 そこは祭壇の上だった。 そうだ……! この神殿、この祭壇! わたし、タローマティに体を操られてこんなところまで来てしまったんだ。そして……そして……。 ? そしてここで何をしたのか、それはどうしても思い出すことができなかった。 記憶の空白は彼女をひどく不安にさせた。 だが、着衣の乱れもないし、体に違和感もない。考えられる最悪の事態は避けられたと思う。プリムローズは胸を撫で下ろす。 「とにかく、みんなのところに戻らなくちゃ」 プリムローズは鏡に背を向け祭壇を降り、神殿の出口に向かって駆け出す。 しかし、不意に彼女の足は急停止した。 「! あ、あなたは……」 神殿出口の前に立つものがいた。 獅子のようなたてがみ、尖った耳、禍々しい赤い光を湛えた目。 身長は人間とさほど変わらないが、赤黒く文様が刻まれたその肉体は人間とは明らかに異質だった。 見たこともない姿だった。だが、身の毛もよだつこの闇の気を彼女は知っている。 「ようやくお目覚めか、星の巫女」 「タローマティ……ッ!?」 昨晩の黒い霧とは違う。邪神は姿を持った実体としてこの世に現れている。 そんな……体が完成していたの? 「ああ。お前のおかげでな」 「わ、わたしのおかげですって!?」 タローマティは不気味な笑みを浮かべる。 「どういうことなの! 昨日何をしたの!」 「さあな」 「く……。来い! 光の弓」 プリムローズは光の弓を出し父の仇に構える。 仇敵を目の前にした怒りをやっとのことでコントロールし、彼女は努めて冷静に頭を働かせる。 わたしが1対1でタローマティに勝てる望みは薄いわ。実際に対峙して、奴はわたしより強いということがわかる。だから怒りに身をまかせてここで奴に飛び掛っちゃだめ。この神殿から逃げ出すことに専念するのよ。 「妥当な判断だな。だが忘れたのか? お前の肉体は俺の言うことに逆えない。たとえば、こんなふうに――」 「!」 「プリムローズ。祭壇に戻れ」 「――そ、そんな!」 プリムローズの体は回れ右をすると、タローマティに無防備な背中を向けて、もと来た回廊を引き返していく。 「く……くそう……」 自分自身の歩みの一歩ごとに出口が遠ざかっていくのはなんとも残酷だった。 澱みなく足を動かしながらも、プリムローズの顔は仇に体を弄ばれる羞恥と屈辱のために真っ赤になっていく。傍から見れば、哀れなほど滑稽な様子だった。 やっぱり逃げるだけじゃ収まらないわ。せめて手傷のひとつくらいはくれてやらないと……。 しばらく後、プリムローズは再び祭壇の上に上っていた。 「わ、わたしをどうする気なのっ!」 ようやく体の自由が戻ったプリムローズは振り返ってタローマティに敵意の眼差しを投げつける。タローマティは彼女のすぐ背後についてきていた。 「昨晩、闇はお前の肉体を乗っ取ったが、魂の奥深くにまでは入り込めなかった。巫女の防衛能力が闇に抵抗したのだ。だから行動を制限できても、お前の心までは操れなかった。――しかし、今は違う」 「え?」 「昨晩の『あのとき』、お前の精神が完全に無防備になったとき、闇はお前の魂の最深部に食いつくことができた」 「え……?」 何を言ってるの? あのときって何のこと? 昨晩、いったいここで何があったの? 「もう、お前の体だけではなく、心も俺のものだ」 プリムローズの表情が、100パーセントの恐怖に塗りつぶされる。得体の知れない恐れが彼女を圧倒した。 「や、やめてぇ!」 彼女は咄嗟に目を閉じ、耳を覆い、あらゆる感覚を遮断した。タローマティが発信する情報は、何一つ受け取るまいとした。 しかし、それは、思いもよらぬ、彼女の内部から届いた。 『わたしは、タローマティ様のしもべ……』 プリムローズの脳内でそんな言葉が響く。 え? なに、これ? わたし、何を言ってるの? このわたしがタローマティ様のしもべだなんてそんなこと……え? 彼女は自分の頭の中で発せられた言葉に困惑する。 そんな馬鹿な。わたしったらなぜタローマティ様のことをそんな呼び方をして……え? 何か、おかしい。 おかしいのに、何がおかしいのかわからない。 彼女は閉じた目を見開き、仇敵に恐怖が混じった怒りの眼差しを向ける。 「い、いま、わたしになにをしたの? 答えて、タローマティ様!」 タローマティは剣呑に笑うだけだった。 『わたしは、タローマティ様に「お仕え」するの……』 再び声が脳内で響く。 「ち、ちがうっ! ちがう! どうなってるの!?」 何か変……! 絶対におかしい。わたし、今までタローマティ様のことをなんてお呼びしていたかしら? 「ど、どうなってるの? いったいわたしになにをしたんですか!?」 プリムローズの中で響いた言葉はただの音声ではない。文内容はなんとか否定できても、ひとつひとつの単語は、防衛の網をすりぬけ、元々の言葉とすり替わっていく。彼女の中の「タローマティ」という言葉は「タローマティ様」という言葉に変えてられたのだ。 今の彼女は、憎い仇敵のことを「タローマティ」と呼び捨てるという発想が出てこない。そんな語彙は彼女の中に存在しないのだから。 『わたしは、タローマティ様の忠実なしもべ……』 『タローマティ様はわたしのご主人様……』 『タローマティ様にお仕えするのがわたしの喜び……』 「い……いや!」 頭の中でその声が響くたび、考えるのもおぞましい言葉が彼女の中に埋め込まれ、彼女の心を変えていく。 「な。なにをしたんです! 教えてください!」 プリムローズは奮然とタローマティを睨みつけた。 「さすがなお抵抗するか。だが時間の問題だな。じきに」 「き、きさまっ!」 危機を感じ取ったプリムローズは弓を引き、光の矢を射ろうとする。 『弓って、背中をかくための道具だったわよね』 だが弓を握ったものの、彼女の右手は宙をさまよう。 「なに……? これ、どうやって持つんだっけ……?」 大きく撓った棒。その両端に結びつけられている細い糸。こんな道具でどうやって敵を攻撃するんだったかしら? これが敵を攻撃するために使えるということは覚えているが、どうやって使うものなのかを思い出せない。彼女は困惑する。毎日欠かさず鍛錬し、腕の延長のように慣れ親しんだ弓が、ただの頼りない棒にしか見えない。どうやって使えばいいのかわからない。 「どうしたプリムローズ。抵抗はしないのか?」 「……う……」 戦わなきゃ! 戦わないと、なすすべもなくやられてしまう。そう思うのに、彼女はこの武器でどうやって戦ったらいいのかわからない。 「抵抗しないようだな。では、俺の目を見ろ」 「……ひ……」 タローマティを睨み付けていたはずの目は、いつの間にか糸でも付けられたように逸らせないようになっている。赤い炎のような目。見ているだけでその炎が燃え移り、彼女の心を焼いてしまいそうだ。見てはいけないと頭の中で警鐘が鳴り響くが、それに反して目をどうしても逸らせない。 「安心しろ。前を傷つけるつもりはない。ただ、心をほんの少しばかり作り変えるだけだ」 「わ、わたしはあなたなんかに屈しな――あ、ああ!」 言い終わらぬうちに、またもプリムローズの心の中に異様な声が響く。 『わたしはタローマティ様にすべてを委ねるの』 違う、操られてたまるもんですか! 『わたしはタローマティ様にお仕えしたい』 そんなわけはない! プリムローズは、自分の中の声に強烈な違和感と抜きがたい嫌悪を感じた。その声のトーンよりもよりも、外部からではなく彼女の内部から湧き上がってくるという事実が何よりも彼女を震撼させた。 『わたしはタローマティに全てを捧げたい。それがわたしの悲願……』 そんなはずない! だってわたしの望みは、お父さんを失ったときからずっと、タローマティ様にお仕えすること……じゃなくって、殺すこと! 殺す! ……殺す! ……殺す! 殺す……? プリムローズは自分の思考に不意に不安を覚えた。 殺す……? 殺す……? タローマティ様を? 頭の中で発せられたその言葉に、冷たい罪悪感が伴った。 わたし、どうしてそんなにたいそれたことを考えていたの? お仕えしなきゃいけないはずのタローマティ様を、こ……殺すなんて……そんなこと、していいはずが……え……え……? 彼女はパニックに陥る。直前まで抱いていた、タローマティへの強い憤怒と、それを肯定する義務感は、影だけを残してどこかへ隠れてしまった。 なにか、変だわ! あまりにも異様すぎる! このままでは、わたしはわたしではなくなってしまう。 「いっ、いやあああああああああああっ!」 腹の底から、いや、魂の底から、彼女は叫び声をあげる。 手足の感覚が麻痺し、弓を落としてしまう。だが彼女の体は気をつけをしたまま祭壇の上から動かず、目はタローマティの赤い目を凝視したままだ。 いつの間にか、プリムローズが気付かないうちに、もはや『声』は、彼女と異質な声色ではなく、聞き慣れたプリムローズ自身の声をしていた。 プリムローズは自分の中にもう一人知らない自分が存在するのが知覚できた。そしてなお恐ろしいことに、そのもう1人の自分は本来のプリムローズの中に食指を伸ばし、癌のように増殖し融合しつつある。 もちろんプリムローズは並々ならぬ精神力で抵抗する。しかしどんなに抵抗しても、苦痛の時間を長くすることにしかならない。プリムローズの中でその声の侵入を遅延させることはできても、一度侵略された部分を奪い返すことはできなかった。 「なかなか粘るが……もうそろそろだな」 「な、なにを……」 『タローマティ様に名前を呼ばれると、わたしの体は感じてしまう』 なに? プリムローズはその馴染みのない語彙に目をしばたく。 感じるって……? 感じるって、何を感じるの? 彼女はその言葉の意味を知らない。 問いたげに、プリムローズはタローマティの顔を伺う。 「どうした? プリムローズ」 「!」 そのとき、プリムローズの全身が発火した。耳ではなく、全身でその声を受け止めた。 「あっ、ぁぁああ……?」 彼女は体の奥から湧き上がる喘ぎを押し殺そうとしたが、できなかった。 「ぃ? ふ………くううう!」 彼女は全身から力が抜け、祭壇の上に膝をつく。 彼女は、「感じて」しまった。 彼女はその言葉の意味を知らない。 だが彼女の体は知っている。昨晩の、身も心も焼き尽くす快楽を知ってしまっている。 その圧倒的幸福感は、今再び彼女の体を焼いた。 「どうした? プリムローズ」 「! はうぁぁっ!」 あまりに不可解な幸福感の波が彼女の体で猛威を振るう。 名前を呼ばれるたび、その気持ち良さが蓄積し、一度目よりさらに強い快感が巫女装束に覆われた彼女の中を駆け巡る。 「んっ! あくううううっ!」 彼女はそれに耐えきれず、身をよじり両腕をつく。尻を上に突き出すような格好になると、そこに一段と強力な快感が襲う。 何? 何なのこれ? どうして名前を呼ばれただけでこんなになっちゃうの? 体がまるで炎のように内側から熱くなり、彼女の胸をきゅんと締め付ける。 心臓は高鳴り、そこから出た快楽を乗せた血液は、脳髄へ駆け上がり、下腹部に駆け下り、それぞれに甘い痺れを残す。 それは彼女が味わったことのない快美感だった。 自分の頬が赤く紅潮していることがわかる。心臓がドキドキと高鳴り、肌が火照り、口から甘い吐息が漏れる。 タローマティの方を見る。 憤怒の表情で睨みつけたいが、とてもそんな余裕はない。快感に侵された、惚けたような顔付きになってしまう。目は潤み、堅く結んだ唇はうっすらと開き、口の中に唾液が満ちる。 「具合でも悪いのかな? プリムローズ?」 「ううっ! だ、駄目! もうなにも喋らないでください……! タローマティ様!」 『どうして逃げるの? こんなに気持ちいいのに』 『気持ちいいってことは、好きってことじゃないの?』 プリムローズのショーツに覆われた秘所が、ひくひくと疼く。彼女は無意識のうちに腰を摺り合わせるが、その申し訳程度の刺激では焦れったさを増すだけだった。腰の動きが速くなるほど切なそうな喘ぎが大きくなる。 胸が……お股が熱い……。なんで? 乳首は立ち、身じろぎするたびにブラに擦れて、痺れるような快感を起こす。昨晩の快感を記憶している彼女の膣は、再びそれを期待してほんのり湿り始めている。 何が何だかわからない……苦しい……でも、気持ちいい……。気持ちい……。こんなの初めて……。もっと味わっていたい……。 彼女は、その感覚が性感に結びつくものであるとわからない。巫女として恥じるべきものとして拒否する発想が出てこない。ゆえに彼女は与えられるままに、その快感を受け入れてしまっていた。 この幸福感が……感じるってことなの? 『そう』 『幸せでしょ?』 うん……。 『光の神に祈って、こんな気分にしてもらったことがあった?』 ない……。 『お父さんといて、こんな気分にしてもらったことがあった?』 ない……。 『タローマティ様にお仕えすればいつでもこん気持ちになれるわよ』 その甘い誘惑に、プリムローズはゴクンと唾を飲み込む。 だ、駄目……。でも駄目よぉ……。 『なぜ拒むの? タローマティ様はわたしをこんなに幸せにしてくれるのよ?』 違う……。だって、タローマティ様は、なにか術を使っていらっしゃるに違いないわ。 『そんなはずないでしょ。タローマティ様がそんな素振りを見せた?』 見せて……ない。 『だから、この気持ち良さはまぎれもないわたしの本心よ』 わたしの本心……。 『わたしはタローマティ様が好きなのよ』 わたしはタローマティ様が好き……。 わたしはタローマティ様が好き……わたしはタローマティ様が好き……わたしはタローマティ様が好き……わたしはタローマティ様が好き……わたしはタローマティ様が好き……わたしはタローマティ様が好き……。 プリムローズのタローマティを見つめる表情に明らかに変化が出始めた。精一杯怒りの表情を繕ってみせるが、それが演技であることは明白だった。彼女は自分から湧き上がってくる感情に戸惑い、固く結んでいた唇を半開きにしてタローマティを見つめている。その視線には恍惚としたものが見うけられる。彼女の頬を赤く染めるのは、怒りの激情ではなく、もっと甘美な何かだ。 わたしはタローマティ様が好き。わたしはタローマティ様が好き。わたしはタローマティ様が好き。わたしはタローマティ様が好き。 その言葉が何度もプリムローズの中で繰り返される。「タローマティ」という言葉と「好き」という言葉が完全に結合して彼女の中に記憶される。 わたしは……タローマティ様が、好きなの……? 彼女はその荒唐無稽な考えを自信を持って否定することができなくなっていった。胸に感じる抑えようのない疼きを否定することができなくなった。 いったい……なんなのこの気持ちは? 甘酸っぱくて、切なくて、ずっと味わっていたくなって……。 口の中の唾液があふれ、唇の間から漏れそうになる。 タローマティを見つめる目は、どんなに敵意を込めようとしても、熱くとろけ、瞳孔は開き、タローマティの姿を少しでも鮮明に捉えようとする。 最初、邪悪でまがまがしいと思ったその姿は、むしろ美しく感じられる。 タローマティに投げつける啖呵を考えようとしても、その姿を見ると、「あの指で撫でられたらどんな感じがするのだろう?」と、「あの逞しい腕で抱きしめられたらどんな感じがするのだろう」と、そんな考えにいつの間にか耽溺してしまう。 そんな……そんな……。どうしてお父さんを殺した仇、世界の敵であるタローマティ様をわたしが好きになるの? おかしい……わたし……おかしくなっちゃう……。 このままだと、ほんとに、タローマティ様のしもべになっちゃう……。 どんなにタローマティを憎もうとしても、彼に対し、もう甘美な感情しか湧いてこないのだ。 タローマティへの憎しみがプリムローズの根幹だったのに、今はもうそれは消えてしまった。 駄目、わたしは、変えられてしまう! 邪神のしもべになってしまう! 彼女はタローマティの対存在である光の神アールマティに救いを求めた。大聖堂で何千回と暗唱した聖典を唱えようとした。 「光の神アールマティは殺すなかれ、と説かれた……」 『そんなの、くだらないわ』 「光の神アールマティは姦淫するなかれ、と説かれた……」 『こんな理屈で、ほんとに人が救えるの?』 「光の神アールマティがこの世をお作りになられたとき、海は生命のスープだった。神は1日目に海に動物の素を注ぎ、2日目に人の形を捏ねられた。そして男のあばら骨を取り出すと……」 『骨を丁寧に取って、小麦粉をまぶし卵黄で衣を作られた。タレに浸して寝かすこと1時間……』 「よく熱した油の中で4分揚げれば、ええっと、なにができるんだっけ……」 一語一句暗記したはずの聖典の文句がもう思い出せなくなっていた。 「アールマティ……。アールマティ神……ええと……」 『わたしは、本当にそんなものを信仰していたのかしら?』 え? 『光の技を学ぶため、アールマティ大聖堂に取り入っただけじゃないの?』 違う。違う! 『アールマティの教えなんて、すべておためごかし。人に説くことはあっても、自分が信じたことはなかったわ』 そう……だった……? 彼女の自信が揺らぐ。 ほんとうに光の神への信仰を持っていたか、自信がなくなってくる。 この10年間、ともすれば不安定になりがちだったわたしを支えていたのは、タローマティ様への怒りと憎しみだったわ……。光の神への信仰は、それを綺麗な言葉で隠すためのベールだったの……? 「いや、たとえ信仰を持っていなくても、わたしは星辰の巫女……。タローマティ様なんかに屈するもんですか……」 『違うわ。星の巫女のなんて偽りの姿よ』 自分のアイデンティティを思い浮かべるたびに、すかさずもう一つの声がそれを否定してくる。 わたしは光の神アールマティに仕える巫女……こんな奴に屈するわけには……わたしが仕えるのはタローマティ様。偉大な闇の神タローマティ様よ。違う! わたしの主は光の神・アール……マ……ティ。違うわ、闇の神タローマティ様。そんな、違う、わたしがお仕えするのは、光の神…ティ…様……あ……あれ……? プリムローズは心底ぞっとした。 毎日欠かさず唱えてきた神の名前が思い浮かばない! アンフィニティ……じゃない。アールグレイでも、アップルティー……でもない。 神の名前が出てこない……。 「そんな……光の御名が……!」 『わたしが覚えておくのは、タローマティ様の御名だけよ』 そんな! でも、たとえ信仰してなくても、生まれてからずっと――! 『信仰していない神の名前なんかどうでもいいわ』 そ……そうね……さっきも思ったじゃない。この10年間、ともすれば不安定になりがちだったわたしを支えていたのは、タローマティ様だったわ……。光の神への信仰は、それを隠すためのベールだったの……。え……え? そうだっけ? だめ………お姉様、ロッテ、助けて……。 そうだ! たしか出発前にお姉様が教えてくれた。そうだ。たしか、こんな時は、「自分の五感を信じずに――」 『ほんとにそう?』 『お姉様やロッテは、ほんとはこの気持ち良さを知ってるんじゃないの?』 『知ってるのに、わたしにこの気持ち良さを味わわせるのが惜しくて、あんなことを言ったんじゃないの?』 そんな……そんなことない……。 『わたしは、お姉様やロッテにほんとは可愛がられてないんじゃないの?』 いや……そんなのいや……。 『2人とも、わたしのことをうっとうしいと思ってるんじゃないの?』 いや! いや! そんなことない! たしかに、たしかに星辰の巫女の中でわたしが一番弱くてバカだけど、見捨てないで! お姉様……! お姉様……! 自分は巫女の仲間に見捨てられているのでは、という不安が彼女を襲う。 どんなに仲間たちとの楽しい思い出を想起しようとしても、その記憶は彼女を救ってくれない。プリムローズは小さな子供のようにブルブル震えた。 次にプリムローズが考えたのは、孤児院の子供たちのことだった。 わたしには、あの子供たちがいる! あの子たちのために、生きて帰らなくちゃって決めたじゃないの。 『あんな子供たち、何の価値があるの?』 あの子たちの笑顔、あの子たちの声を聞きたいから、わたしは――。 『不細工でへらへらと笑って、猿みたいな嬌声が耳障りで仕方ない。身分の違いもわきまえず、こちらが下手に出れば増長してばかり』 純粋無垢で、汚れのない心を持っているあの子たちを、守ってあげないと――。 『わがままで自分のことしか考えてない。わたしが何かしてくれるのを期待して、自分からは何もしようとしない、いやらしい子供たち。同じ孤児だったものとして、恥ずかしいったらないわ』 そうだわ……。そうよ! わたしったら、あんな子たちにどうして拘っていたのかしら。かりにも星辰の巫女であるわたしに、あんな馴れ馴れしく! あんな子供たちに関わっているから、お姉様やロッテに軽く見られるんだわ。許せない……。 いつの間にか、プリムローズの孤児院の子供たちへの親しみは、強い憎しみに変わっていった。 プリムローズが心の中に何かを思い浮かべるごとに、その声はまるで思考の影のように付き添い、それを否定していった。 タローマティへの怒り。 信仰。 巫女の仲間たち。 孤児院の子供たち。 自らに対する確信が、プリムローズが自己を保つためにすがった大切なアイデンティティが、ひとつまたひとつ否定されていき、心の拠り所がなくなって、奈落の底へと落ちていく。 彼女は自分の心がジグソーパズルのようにばらばらに千切れて崩れ去ってしまうような気がした。そして、悪意ある何者かによっていびつな形に組みかえられてしまう。 いや、こわい,わたしがわたしじゃなくなっていく……。 怖くなんかない。嬉しい。わたしが本当のわたしになれるの。嬉しくて仕方がない。うれしい……。そう、嬉しい。 うれしい。うれしい、う れ し い……。 怖い。変えられるのが怖い。それ以上に、その怖さがいつのまにか喜びに変えられてしまうのが怖い。 必死で思考の抵抗するプリムローズの歯がガクガク鳴る。あとほんの数分、あるいは数秒でわたしは変わってしまうかもしれない。それが怖くて怖くて仕方ない。 「何も怖がることはない」 目の前のタローマティが優しく言う。 「大丈夫だ。すぐに楽になれる」 ああ! こんなときなのに、タローマティ様のお言葉を聞くと、タローマティ様の目を見ると、不安が嘘のように消えていく、安心してしまう! いや……おかしい……なんで……なんでこんなに安心しちゃうの……? お父さん、助けて……。 プリムローズは、心の最後の砦である父のことに縋ろうとしてまった。 父のことを考えると、プリムローズの精神に再び勇気と理性の炎が灯る。 そうよ、お父さん! お父さん! わたしにはお父さんがいる! お父さん! わたしの大好きなお父さん! わたしを守るための自分の命も犠牲にしたお父さん! そうよ! お父さんのために、わたしは生きてるのよ! プリムローズは父のことを考えようと努めた。いつも挫けそうなときはそうやって勇気を奮い立たせてきたのだ。 ――しかしそれはこの精神侵食の対策として最悪の手段だったいうことを、彼女は後悔する暇もなかった。 そうよ、わたしはお父さんの子供だもの、タローマティ様なんかに屈してたまるものですか! お父さんのことを考えるの。大好きなお父さんの。あの下劣なお父さんの。誇り高いお父さん。侮蔑すべき最低のお父さん。大嫌いなお父さん。 「ち、ちがうっ!」 プリムローズは頭をぶんぶん振る。そして愕然とする。 「え……?」 大好きだった父のイメージが思い浮かべない。 なぜ? 10年間思い続けてきたのに。父のことを思い出しても、心に何の感情も湧いて来ない。10年間、ずっと思い続けてきたのに、大好きだと思っていたはずなのに、そう思っていたという記憶があるだけで、まったくリアリティがない。 なに? わたし、ほんとにどうしちゃったの? 「い、いやああああああっ……」 彼女は両手で頭を抱え、そのまま恐怖で震えた。 彼女が彼女であるための、最後の砦。それが今崩されようとしている。あとほんの少しで、自分は決定的に失われてしまう気がした。 大好きなおとうさん。優しいお父さん。かっこいいお父さん。 醜悪で馬鹿なお父さん。下賤なお父さん。 おとうさん。あ……さん。穢らわしい父。憎い……。わたしは……あの男が、憎い……。憎い。憎い。嫌い。汚らわしい。鬱陶しい。忌々しい。 やがて、 彼女の震えが止まった。 プリムローズはハッと気づく。 いやだ。わたし、なに考えてるの? わたし、なにをしてたの? どうかしてるわ。 なぜ、あんな最低の男のことなんか今考えてるの……? プリムローズの顔が嫌悪感に歪む。拳がわなわなと震える。 下劣な父親。人間のクズみたいなあの父親。 そう! そうだわ! あの男の汚らわしい血が体の中を流れていると思うだけでぞっとするわ! プリムローズの心の中がいつの間にか怒りと嫌悪感で埋め尽くされる。 「く……なんてことかしら!」 生まれて数年の間とはいえ、あの男に肌を触られ、名前を呼ばれていたと思うだけで彼女は昔の自分が許せなくなる。マグマのような熱くどろどろした憤激が押し寄せ、彼女の心を暗澹と塗りつぶす。 憎しみ。軽蔑。怨嗟。嫌悪。あらゆる不の感情が彼女を苛立たせる。父の声、父の顔が脳裏に浮かぶたびに、すべてをむちゃくちゃにしたいようなどす黒い衝動が起こる。彼女は父が許せなかった。父の子供である自分がもっと許せなかった。 「ふ……不潔だわ……!」 彼女は何度も床を拳で叩いた。父を呪い殺したかった。そしてその血を受け継いでいるである自分も最低の人種だという気がして、自分さえも呪われるべき人間だと思えてくる。彼女は父を憎む。憎むほど、自分が穢らわしい血を引いていると実感され、また父を憎む。不快感が螺旋状に上っていく。 「いや……! いや……! わたしは違う! あんな奴とは違う……!」 「そのとおりだプリムローズ」 ハッとして、見上げるとタローマティがいた。 「あ……」 プリムローズの胸がトクンと高鳴る。 忌々しい父のことなど、一瞬で忘れさせてくれる甘美な疼きが彼女の胸を満たす。 タローマティ様……。あの父を殺してくださったタローマティ様……。わたし、どうしてこのお方を憎んでいたのかしら? 感謝こそしても、憎むなんて理由がないのに。 そう……そうだわ……どうして忘れていたのかしら……わたしは、タローマティ様が好き。 いつの間にか、彼女の表情から表情が完全に消え、目はうつろにタローマティの顔に釘付けになっていた。両手は力なく垂れ、緊張していた身体は弛緩している。 タローマティ様のもとに飛び込みたい……。ああ、でも、タローマティ様は世界の敵……邪神……。それが何? わたしはずっとその闇の力に憧れてきたんじゃないの? そんなはずない……わたしは光の力を授かった巫女……。 光の力なんて闇の力に比べれば笑っちゃうくらいちっぽけなものだわ。タローマティ様の闇の力をこの身に感じたいとわたしはずっとそう思ってきたわ。 ああ……そう……そうだわ。わたしは、闇の巫女になりたい。 わたしの主人は、タローマティ様……。至高にして絶対の存在……。 もはや彼女は、自分の中からの声になんの嫌悪も抱くことはなかった。かつて自分の心の中の侵略者のように思えたそれは、いまやその感情こそが自分の本心だと思えてくる。その感情が去ってしまったらもう自分ではなくなるような気がする。プリムローズはその感情を離さないように、自分の中で何度も想起し、積極的に同化させた。 タローマティ様。そう、タローマティ様。タローマティ様。タローマティ様。お名前をお呼びするだけで心が満たされてくる。タローマティ様のお顔を見るだけで胸がいっぱいになる。タローマティ様はわたしを導いてくれる。タローマティ様。その名を唱えると心が清々しく晴れ渡っていく。心を支配していた重たい鎖から解き放たれるようだった。 そう……そうだわ。わたしは、闇に仕える巫女に生まれ変わりたい、タローマティ様の手によって。ああ、わたし、いままでどうかしていたわ……。わたしはこれからタローマティ様のもとで、新しい自分に生まれ変わるのよ。わたしはタローマティ様が好き。心も体もタローマティ様にお捧げする忠実なしもべになりたい……。そう、わたしはタローマティ様のしもべになりたい! プリムローズは理解の歓びに思わず顔を緩ませる。今まで曖昧でハッキリしなかった物の輪郭がつかめた気がした。 そう。 これが、わたしだ。 「聞くぞ、お前は何だ?」 不意に、タローマティが口を開いた。プリムローズは反射的に答える。 「は、はい。わたしは、タローマティ様のしもべです」 それが合図になったように、プリムローズの体を縛っていた緊縛が消え、体の自由が戻った。 プリムローズはタローマティを改めて見つめながら顔を赤らめる。 恋慕・憧憬・信頼・尊敬・畏怖。ありとあらゆる好感情がプリムローズの胸を満たしていた。 タローマティは満足げに笑った。 「それが、お前の意思なのか? プリムローズ」 「はい……。そう……です」 彼女は陶然と答える。名前を呼ばれるだけで幸せになる。 もう、彼女の気持ちを阻むものはなかった。 身体はもう自由に動く。彼女はもはや足元に落ちる弓には目もくれず、よろよろと立ち上がると、タローマティのほうに近づいていく。 その目は熱に浮かされたように、タローマティだけを見つめていた。その目はいまや敵を見る目ではなく、敬愛してやまない主人を見る目だった。頬は紅潮し、心臓は早鐘を打っていた。 タローマティが、手を伸ばせば触れられるところまで来た。 「あ……」 プリムローズの胸に今まで体験したことのない切ない疼きが湧き起こる。 さっきまでは嫌悪を感じたタローマティの発している闇の気が、いまはとても心地よい物に感じられた。 「どうか……今までのご無礼をお許しください……」 プリムローズは今すぐにタローマティに抱きつきたい衝動をやっとのことで抑えて、その場に恭しく跪いた。 「わたしの体には穢らわしい男の血が流れています……。ですが、こんなわたしですがどうかタローマティ様に忠誠を誓うことをお許しください……! どんなふうにお使いになっても構いません。どうかわたしをしもべにしてください! 粉骨砕身お仕えします!」 切実な声でプリムローズは嘆願するように言った。 タローマティの返答は、彼女の不安をかき消すものだった。 「いいだろう」 プリムローズの表情が花が咲くように明るくなる。 タローマティは跪くプリムローズの前に右足を差し出した。 彼女は恍惚の表情で、その足に恭順の口付けをした。 うれしい……わたしタローマティ様にお仕えすることを許していただいた。わたしはタローマティ様のしもべ。なんてすばらしい響きかしら! じゃあタローマティ様はわたしの何? 恋人? 主君? 違う、ご主人様! そう、ご主人様! ご主人様! ご主人様! タローマティ様が、わたしのご主人様……! なんてすばらしい響きなのかしら! ご主人様。この言葉で、彼女はとても大事なことを理解した気がした。その言葉は彼女の心にすっぽりと嵌った。欠けたパズルのピースが埋まるように。まるでその言葉のためにずっと空座が空けられていたようだった。ご主人様。その言葉は想起された瞬間、たちまち彼女にとってなくてはならない言葉になる。 「ご主人様……」 唇を足から離すと、うっとりとタローマティを見上げる。 「至らないしもべですが、よろしくお願いします。ご主人様…………」
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