山梨県内の保存鉄道車輌
1.山梨交通電車線 801号車
上田丸子電鉄=江ノ島電鉄「チョコ電」
場所
: 南巨摩郡増穂町 利根川公園内
長澤新町(長澤?)駅の跡か
甲府盆地の西辺、国道52号線の直ぐ西側を平行して南北に走る道路(旧軌道跡)が、利根川を渡る橋の北側にある小さな公園。
略歴 : (同公園に増穂町が設置した説明板から)
昭和23年に製造され、昭和37年6月まで甲府盆地を走っていたが、長野県の上田丸子電鉄に移り、昭和46年からは神奈川県の江ノ島電鉄を走っていました。江ノ電ではその塗装色から「チョコ電」の愛称で親しまれていました。
昭和61年4月27日の運行を最後に廃車され、24年ぶりに生まれ故郷である増穂町に里帰りしました。現在は上記公園内に屋根付で静態保存されています。
山梨交通株式会社電車の歴史 :(同上の説明板から)
甲府盆地を県民に親しまれ走り続けた山梨交通株式会社(旧峡西電鉄)の電車は明治から大正時代にかけて隆盛を誇った馬車鉄道にかわり、昭和5年、当時の山梨電気鉄道株式会社によって甲府〜青柳間の運行が開始された。
この電車の開通により、峡西・南地方の人にとっては甲府を結ぶ重要な輸送機関として利用され、また終点の甲斐青柳駅と身延線鰍沢口駅をバスで連絡し、甲府と静岡を連結される旅客輸送の一幹線となるなど、峡西・南のローカル交通として果たした役割は大きいものがあった。
甲府から甲斐青柳までの間、26の駅があり、本町には終点の甲斐青柳駅と永沢、永沢新町駅が設けられていた。甲府〜甲斐青柳間20.3キロメートルを所要時間約55分で運行し、上下線とも30分ごとに発車されていた。
戦後、この利用状況は、年間2〜3百万人の利用客があったが、自動車交通の著しい発展により利用客がしだいに遠のき、昭和37年6月3日の運行を最後に廃線となった。
(一部省略=展示車輌の略歴部分)
山梨交通株式会社の電車は、昭和5年から昭和37年まで、わずか32年間の運行であったが、太平洋戦争を挟み、幾多の変遷を経ながら山梨県民の足として地域の発展に役立ち、交通輸送歴史の1ページを刻んだ。
数々の思い出を乗せ、愛され親しまれたこの電車を、増穂町、また、山梨県の交通輸送歴史の記念として永久に保存していくため、旧軌道沿いのここ、利根川公園に設置したものである。
同社電車年表 :
大正13年8月 甲府電車軌道株式会社設立
大正15年8月 甲府〜青柳間の軌道敷設免許おりる
昭和 4
年1月 起工式(貢川電車停留所予定敷地において
同
4月 山梨電気軌道株式会社に社名変更
昭和 5 年5月 貢川〜大井間運行開始
同 8月 大井〜青柳間運行開始
同 9月 大井〜上石田間運行開始
昭和13年
峡西電気鉄道株式会社に社名変更
昭和20年
戦時下の統制により合併し山梨交通株式会社電車部となる
昭和36年1月 株主総会で電車軌道の廃止決定
同 3月 沿線町村長会議の席で山梨交通株式会社より廃止の発表
同 4月 町、町議会、商工会、住民による廃止反対陳情
昭和37年5月 運輸省の廃止認可おりる
同 6月 3日 最終運行
30日 電車廃止・バス切り替え記念式
廃止車輌のうち2両が長野県上田丸子電鉄へ
(2001年5月31日取材)
2.小田急塗装の富士急車輌 富士急 5707、5708号車
場所 :
東八代郡一宮町 日本システムウェアKK山梨IT工場構内
甲府盆地の東辺部、笛吹川の支流、金川の右岸。国道137号下黒駒交差点近く。
小田急から富士急に移籍、富士急で廃車になり、1997年秋に河口湖駅から陸路搬入された。搬入当初はあちこちがはげ落ちた富士急塗装だったが、工場完成と同時にブルーとオレンジの旧小田急塗装に化粧直しされた。しかし、車体にはFKKの社名と車番が表示され、車内吊り広告は下がったまま。
社長さんが相当の「乗り物」・「鉄」ファンなのでしょうか。末永く整備保存されることを希望します。
車歴 :
1956(昭和31)年3月
日本車輌製
小田急時代の車番は
2212−2211
1982(昭和57)年11月
富士急に移籍
富士急時代の車番は
5707−5708
1996(平成8)年? 使用終了
5700形について
(平成9年3月31日まで有効の富士急「さよなら5700形記念乗車券」の台紙より)
5700形は昭和57年より昭和59年にかけて、小田急電鉄より8編成16両が導入されました。
カルダン駆動、電磁直通ブレーキ、75KWモーター、オールMの5700形の導入により、従来の吊り掛け駆動車輌がすべて淘汰され、富士急線のスピードアップが図られました。富士急線においては14年間に亘り主力車輌として活躍してきましたが、この度冷房付、空気バネ台車、ATS装備の1000系に道をゆずり引退することになりました。
私が世田谷区赤堤に住んでいた頃は小田急線豪徳寺駅から、藤沢市に住んでいた頃は善行駅から、通勤に利用していたはず。富士急時代にも乗ったことがあるかも知れない懐かしい車輌なのです。
3.見るも哀れな高原のポニィー 蒸気機関車 C56−149号機
場所 : 北巨摩郡高根町
町営「美し森・たかね荘」(キャンプ場)脇
八ヶ岳山麓、清里の美し森からスキー場「キッツメドウズ・ハイランドパーク」に向けて数百メートル、たかね荘への入口を入ると同施設の数十メートル手前の左側、林の中に「高原のポニー」ことC56−149号機が保存、イヤ捨てられたも同じ状態です。
25年ほど前に子供たちを連れて訪れたと時は、切り開かれた広場の中に展示してあったのです。現在は自然に生えたのか唐松を中心とした雑木林の中に、熊笹に囲まれて、道路からは気が付かないような場所です。説明板も文字がはげ落ちて、内容は読みとれません。
八ヶ岳をバックにした高原を、野菜を積んだ貨車との混合列車を牽引して走っていたSLです(残念ながら、現役当時の写真は持っていない)。清泉寮に行った時など、実際に乗ったこともあるのです。
太平洋戦争中に外地に出征した仲間たち、特に泰緬鉄道で働いていた仲間は有志の手で帰還したものもあるというのに、住民や観光客の足として働いていた地元で、大事に保存出来ていないのは本当に残念です。
キャンプ場の事務所で係の人に場所を教えてもらい、探し当てたのです。目に入った瞬間は、「エッ!これがあのポニー」と信じられないくらい。ショックは大きかったです。
車体は赤さび、シリンダーの外壁は崩れ落ちて中身がはみ出しています。
管理者は何処へ行ってしまったのでしょうか。
車歴 : 昭和13(1938)年6月27日製造(この部分だけ、案内板から読みとれました)
4.幸せなプリマス県内第1号?の鉄道車輌
展示場所: 甲府市内 長田組土木株式会社本社構内
JR甲府駅南口を出て右(西)へ進むと道路はT字路に突き当たる。左折して直ぐ、
左側の道路沿いに展示してある。
前項の「高原のポニー」に比べると、本当に大事に保存されている釜です。訪れたのがクリスマスに近い頃だったからか、電飾が施され(昼間だったので実際に点灯したのか不明)、奇麗に磨き上げられています。
説明板によると、明治36年11月に中央線の八王子=甲府間が開通したが、その工事に活躍した機関車である。当時の工事は人力に依存せざるを得なかったが、工事を早期に完成させるために土砂運搬用として米国プリマス社から最新鋭機を導入したという。工事を担当した会社は、山梨県土木請負業鑑札第1号で、創業者の業績を讃える文面が出ています。
本機の側面には:「発注者:日本鉄道会社名古屋鉄道局長。現場名:八王子・甲府間隧道工事・長田組機関車第壱号」とあり、PLYMOUTH
MFD BY THE FATE-ROOT-HEATH CO. PLYMOUTH OHIO U.S.A.と書かれています。機番はD57−1761。
機関室の両側板はなく、内部が良く見えます。機構部はその一部しか残っていないのでしょうが、それにしてもこんな簡単なメカだったのかと感心しました。
(2001年12月2日取材)
5.自動車博物館のコッペル機
場所:河口湖町自動車博物館
自動車博物館の駐車場脇、柵と道路との間にコッペル機が展示してある。
2001年夏、同博物館の飛行機博物館で復元された「ゼロ戦」を見に訪れた際、駐車場の柵外に展示してある同機にお目にかかった。その時は土砂降りの雨で写真が撮れない。
博物館の係員に聞くと館長が富士急から譲り受けたものとか。富士急に聞くと、遊園地で展示したことがあるとかで、その前は京浜地区の工場で働いていたらしい。詳細は不明。
2001年暮れに再び訪れた時は自動車博物館は冬季休館中で駐車場へは入れない。雪の残る中を草むらに入り込み、枯れ草の中に座る釜を撮影した。
2002年1月 記
2005年8月、同博物館に併設の飛行機博物館に復元された「零戦」を見学に訪れた際、自動車博物館の受付嬢に調査を依頼しました。その結果を電話(留守電でしたが)でお教え頂きました。それによると、戦後は富士急で大月=河口湖間で使用、その前は北海道夕張炭坑で使用されていたとのことでした。
2005年8月 記
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