déraciné日記  Spice of Life or Kiss of Death

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2010.06.23 Wednesday  濁世の水その9

前回…と言ってもかなり前になるけど…の日記に書いたヘナタトゥーはメヘンディアートともいい、
スタンプのものは天然のへナ100%では無い事もあるらしく、かぶれたり、といった肌トラブルが
起こる場合があるので気を付けて下さいね〜。

私は幸い何もなかったけど…勝手に捺されたのにその上かぶれてたら最悪でしたねー。
気を付けましょう!

さて。そろそろインドとのお別れも近づいて来て、ダラムサラ記もやっと終わりに。
私も記憶が薄まる前に書かなきゃ、と思いつつもう、3ヶ月も前の事になってしまい、
今週の土曜日は日本に来られるダライラマ法王の講演を聴きに行く日。
監督と美元ちゃん、チニちゃんには会えるワケだ。

ダラムサラの最後の夜も皆で食事をして、部屋でお灸、体操?というフルコースで
元来た道をまた戻る。
しかし車で10時間以上、というのは眠れない私にはなかなかの業でした(笑)。
みんな喋り疲れると交代で寝ているのに私1人だけが起きていて全然眠れない!という辛さ。
不眠が恨めしい〜。

休憩ポイントではみんなで「オイッチニ!」


そうそう。せっかくだから私達が泊まったホテルの内装とかも紹介ね。
可愛かったんだよ。


手前が遅く寝て多分誰よりも早く目が覚めていた私のベッド。同室のチニ嬢の目覚まし時計でございました。


一度も開けなかった冷蔵庫。暖房が必要なくらいとにかく寒かった!!お灸ブームになるワケだ。


停電したときに役に立った例のローソク(笑)。
部屋にずーっと飾らせてもらって、チニ嬢には感謝です。
朝、「番長(なぜかこの呼び方をされてたアタシ)、スカートすごく素敵!」って言った後に
「…まだコンタクトしてないけど」と言ったりするチニ嬢はオンナ実業家という顔も


早朝のバルコニーからの眺め。飛びたくなるー。


空の青は吸い込まれそうなくらいコワイ。撮っても撮っても撮りきれなかった。










そして光の強さ。空が近い証拠。


早朝6時半に出発して夜、デリーに着いたら花火が上がってて祝福された気分に

翌朝、旅行の最終日は、本気の観光をしました。
コレはコレでまた楽し。やっとインドだぁ、って感じ。







リキシャ?に乗ったり、お土産屋さんに寄ったり。膨大な写真、ホントは全部紹介したいくらいなんだけど(笑)。

楽しくて、切なくて、嬉しくて、辛くて、色々なことに気付けた旅だった。
有給休暇の許可をくれた職場、私がいない間の図書室業務を請け負ってくれた同僚、上司。
それから愛するセガレのお世話をしてくれたシッコちゃん。
私ですら、こんなに沢山の人間に支えられてるのに、支えのない人達が大勢いる現実。

旅のメンバーはもちろん、ダラムサラでの沢山の不思議な不思議な縁。
旅が終わってもその連鎖はまだ止まらない。


いつか、この子供達へ続くと、いい。


“密教”とはチベット語で「サンガ」。
「サン」は秘密という意味で、誰にでも教えてよいものでは無く、
ふさわしい人物が正しい指導者に導かれるべきもの。

そしてその教えは強烈なので勝手な実践は危険を伴う為、秘密とされているという。

チベット密教の特徴はどんな問題であれ、徹底的に、回答がある、というコト。
どんな事でも理論的に説明可能だというコト。
だからこチベット人はそどんな逆境にも屈せず、「業」として受け入れるコトが出来る。

日本人は「個」になった時に精神的支柱が無い人が多い。
せめてこのワールドカップで心に愛国心が芽生えたヒト、もうしばらくはそれが点ってるといいね(笑)。













オマケ。
車移動中のランチ。皿が見えないくらい溢れてたパスタ的なもの。(見た目に近い味だったよ〜ナポリタン的な)
Veg Manchurian Hakka Noddles…とメモしてる。
メニューがね、写真がイチイチ無いから皆カンで頼むのでドキドキなのだ。
ここのアイスも笑えたんだよねー。絶対再冷凍を数回繰り返してそうな感じで。


帰国して一番最初に食べたいつもの飲み屋のランチ。オマケいっぱいしてくれたマスターどうもありがとう♪♪


インドの学生さん達に逆に撮られる。…げ、アタシ待ち受け画面になってたらどーしよう(笑)


夜な夜なの、お灸とチアキ嬢のストレッチ?体操?教室。


今回、メンバーの中に姉弟がいたのだけど、弟君と色々話したときに、私の座右の銘というか、
チベット人にも通じる、自分より他人、「自分のして欲しいことを他人にする」を心がけたいと思ってる、って
話をしたらその言葉を「ボクも忘れません!」と言ってくれたのだけど、
旅の最中、彼はダラムサラのお店でお姉ちゃんが気に入って手に取っていたアクセサリーを
後でこっそり買っていて、みんなで夕食を食べてる時にプレゼントしたんだよね。

そう、彼はちゃんとそういうコトが元々出来るヒト。
ヒトが喜んでくれるコトが自分の喜びになるヒト。
だから大工さんになって、彼が建てる家は絶対信頼出来るんだろうなと思ったよ。
そしてプレゼントされるお姉ちゃんもすっごくいいお姉ちゃんなんだよね。
いい姉弟。
私も弟いるのだが、ダメな姉だな…。

…その時アタシが泣いたのは言うまでも無いトシトルトルイセンガ〜








FREE TIBET !! Mar 2010

去年、チアキ嬢の知り合いに会いにいくハズが時間が合わず、
たまたまその日、その時間に監督の映画を、監督の挨拶付きで観たことがこの旅行につながった。

これって運命?…うっかり思いがちなのだけど、そこは冷静なアタシです。

監督の不思議な人生に私達が巻き込まれているんです。
職業、生年月日、住所、国籍…私達のありとあらゆるところに軽々とリンクしてくる不思議なヒト。

思えば全く同じ生年月日の某氏に出会ったから今私はここ、東京に住んでて、
この生年月日の監督にはインドに連れてってもらった。
…まだいるかな?そしていたら次はどこに連れ出してくれるのかな、なーんて。

監督の人生に登場出来てヨカッタ。

じゃ、今度こそ三茶で近所飲みを

みんなとも年に一度は集まれるといいな。




2010.05.25 Tuesday  濁世の水その8

すっかり止まっていましたが、まだダラムサラ記が終わらない。

だんだん薄れていく記憶もあるがそれはそういう出来事だったんだろう、と思いつつ、
旅の写真やノートを見返しながら、記憶を頼りに資料を探しながら(ウチの図書館も使えるぜ)のめんどくさい作業。
余計な事を考える時間は無くなってるかな。
今週末、すっかりダウンしてしまい、ベッドから起きあがれずまた無駄に過ごした
なんかこう、コントロールがうまくいかない。出す宛の無い手紙を書いた様な感じ。…わかんないか。


いよいよこの旅のメイン、スムチュドゥチェン(3月10日記念日)というチベットの人達にとって特別な日。
ダライラマ法王の声明が聴ける、日本から待ちに待っていた日です。
私達も道端で買ったチベットの国旗を身体に巻き付け参加しました。すごい安かったと記憶。

まず、前日も行ったパレスの入り口では危険物を持っていないか、こちらのゲート?を
くぐってチェックを受けます。(本当にコレ、ちゃんと働けてるのか不安

カメラ(写真)はここまで。(もうこの時がギリギリ)

この先は事前申請していたメディア関係者以外はカメラの持ち込みは禁止。
という事で申し訳ない事に監督が(!!)一旦私達のカメラ類(携帯も含む)を全部
ホテルまで持って帰ってくれました。(本当にありがとうございました)

ゲートをくぐり抜けたらヒトの手によってまたボディーチェックがあります。
普段このパレスで行われている法王のティーチングでは無いと思いますが。
私達、残念ながらそれには間に合わなかったのでわかりません。

それから、ダライラマ法王の住居とパレスをつなぐ広場へみんな入っていきます。

これは夜に撮影したものですが、ダライラマ法王が住居としている建物。
今回の旅の最年少参加者、18歳のユウキくん。巻いてるのはチベット国旗。
彼は今時珍しく、この後、大工の修行に入ります。もう、人間国宝級のすごい棟梁に弟子入り。
若いのに、しっかり将来を見据えてて頼もしかった。(この写真なら顔バレない、ギリギリオッケーかな?)

法王はこの門を出て、この道を通って向かいのパレスまで歩いていくのです。

カメラが無いので、皆同じ事をしてました(笑)
美元ちゃん(色鉛筆)、チアキ(長いの)、アタシ(黄色)のノート。
ついでに2人の旅日記も載せるぜ。

チアキ http://ooshima-chiaki.arekao.jp/category-8d744d90b146d022ed7f9acb5040e421.html 
写真というカテゴリの3月以降。さすが写真家!基本的に「空」の写真(飛行機から、とか)が得意。
常にアタシより10センチ以上も上から撮れるしいいなー。
バタフライエフェクトじゃないけど、どの時代のアタシに戻って何をすれば今より身長が伸びてたかもなの?

美元 http://ameblo.jp/miwon/archive50-201003.html#main 
インド一日目の夜〜から。
美元ちゃんらしい愛情と優しさ溢れる、女の子らしい旅日記になってる。
メンバーの中でいちばん女の子だった。メンバーの中で一番おっきいのに守ってあげなきゃ的な(笑)


TCVの子ども達、沢山のチベット人、そして我々を含む沢山の外国人が法王が現れるのを待ちます。
子供達は“STOP MARTIAL LAW IN TIBET”や、“Tibet will never die”などのコトバを
頬にペイントしたり、それらが書かれたプラカードを手にしています。
私達も日本では鉄平石と言われる石の上に座りその時を待ちます。
そんな私達の間を一匹の中型犬がうろうろするのもご愛敬でしたね。…もちろん野良犬ですけど。
ホント、怖くないのが不思議だったー。

日本からも某テレビ局が2社、来ていました。
前日、旅の間ずっと同室のチニちゃんとたまたま朝の集合時間より早めに支度が出来たので入ったチャイ屋に
チベット人のスカイさんというヒトがいて。日本語で喋っていた私達に話しかけてきてくれた。
彼は今回の集会、デモの取材に来ている日本のテレビクルーと仕事をしているとかで
スカイさんは私達に自分の朝食をわけてくれながら(笑←チャイもおごってくれた。また会った別の日にも!)
2人の日本人の名前をあげてくれた。


さて。
ついにその時が来ました。
日本時間の12時半。現地時間の13時10分過ぎ。
少し暗めの赤色と山吹色に近い黄色の僧衣を着た法王です。
ゆっくりと、にこやかに手を挙げながら私達のわずか10メートルほど先を
住居からパレスへ(右から左)歩いていきます。
そして事前に私達に配られていた声明をチベット語で読み上げます。
法王の温かくて深い声は、慣れない土地、旅で疲れた私達の体に何の抵抗もなく染みこんでいき、
癒してくれる様でした。
自分が生きている間にお会いしたい…いや、恐れ多いですよね、この眼で観ておきたかった人物の1人でしたから
本当に感激でした。
そして、法王様の声を聴いている間中、私はこれまでの人生で出会った人達の事を
ゆっくりと思い起こしていました。なんだか、色々な荷物を持って行っていた様です。


一通り、色々な方々のお話が終わるといよいよ赤い僧衣の僧侶達を中心に、
ダラムサラの街を隅々まで行進するデモンストレーションの始まりです。

…と、ここでスカイさんの姿発見。…と、話していた日本人の報道の方々ともお会い出来ました。
スカイさんが紹介してくれていた方は今バンコク支社にいるとその時に聞きました。
名刺も頂いていたので、私はこのダラムサラ記が書き上がったら、皆さんにメールしようと思っていたので
実はまだスカイさんにも連絡出来ていないのですが…今、バンコクは大変な暴動の中です。
ニュースをみていてバンコクで取材を続けている日本人記者や報道関係の方が映るたびに緊張します。
私達は現地にいる日本人の皆さんのお陰で世界情勢を知ることが出来ているのだと改めて実感します。
1日も早い終息を祈るばかりです。


スムチュドゥチェン(3月10日記念日)は今年は51回という数字だったので、
ダライラマの声明を取材に来ていたメディア関係者が少なかった様です。
去年が50回ですごく多かったのだとか。…チベットの人達にはこんな数字なんて関係ない事なのに。


さて。デモ行進ですが、ダラムサラという街は高地にある為、行進はまず下の方まで降りていき、
夕方までかかってまたこのパレスに戻ってきます。

我々は行進が戻ってくるまでの間、ルンタハウスへ寄ったり、バグスという滝のあるインド村へ行ったりしました。


ヒトもわんこ(もちろん野良)も寝てます。
この下にはプールがありインドの子供達が沢山泳いでいました。

我々は二手に分かれて行動。私は滝を目指すチーム。
舗装された、滝へと続く道を歩いている途中、様々なスタンプを並べているインド人の少女がいました。
それをしゃがんで見ていたら彼女は私の手をいきなり掴んで、
「勝手に」ヘナタトゥーをはじめました
「待って!」と言ってるのに「勝手に」ペタペタと左手からスタンプを捺しはじめ(甲にも指にも)、
右手を掴んだ時に「あなたは蝶」とその少女は言って蝶のスタンプを捺しました。(意味は不明)
別の日、ホテル近くのチャイ屋にいく途中、道端であった僧侶にも突然話しかけられ
「Like a
Butterfly」と言われていたのだが(その後に続いたコトバがナンパっぽかったけど…)
彼等にとっての「蝶」はどういう意味を持つのだろう?
私はモチーフ的にも昔から好んではいるけれど、やはり昔から
バタフライ効果、現象にかなり傾倒してる。
そういえば、ずっと昔にも私用に、と蝶をデザインしてくれたヒトがいたな…その時、何故か普通すぎる、
と思って違うデザインに変えちゃったけど。


そんな勝手な、インチキな(笑)スタンプのタトゥーでもね、彼女達の生活の足しになればよいか、と
100ルピーという言い値を渡しましたよ…。高すぎだけどね。
まぁそんな事があり、遅れを取った分気を取り直して滝へ向かって更に歩いたのですが…。

あともう少し、のトコロで高所が余り得意では無い私に難関があり(岩の上に昇ってそれを超えないといけない)
どうしても滝の近くには行けませんでした…。(蝶なら飛んでいけるだろーに!)

この矢印の様に岩の上を…越える!真下はもちろん崖!

滝が目の前…しかも15分以上も歩いたのになー。見上げると野生のヤクがアタシを見てた。

で、気を取り直してその後、インド村のあちこちの壁写、しまくってました。
帰国して写真を見せてる時、正にその時のしょんぼりで写してた「壁」を知人が気に入ってくれたみたいで
「写メ撮っていい?」というので「あげますあげます!!」ってあげたのだけど、その時、ナンカちょっと救われた(笑)。

それからこの日のメイン、日が落ちると行進はキャンドルパレードになるのでそれに合流すべく、
またダラムサラのメイン、マクロード・ガンジへ戻った。
と、そこでたまたま旅行でダラムサラに来ていたというインド人青年に会ったのだが、
彼はみんながキャンドルを持ってるのを見て「何があるのですか?」という。
彼はなーんにも知らなかったのでした。
インド、でかすぎるぜ。

キャンドルは昼間に配られていたの。
歩いてる途中、消えてしまったら、隣のヒトの火をもらう。それはそれは自然にあげたり、もらったり。
私も僧侶やチベットの人、外国の人とコトバの無いコミュニケーション、沢山しました。
とてもとても自然に。

そして皆が手にしていたキャンドルはパレス内の一画に集められます。


これはたくさんの希望の光だ。

チベット仏教界は第二次世界大戦後の「チベット解放」と「文化大革命」により、壊滅的な被害を受けました。
さらに活仏であるダライ・ラマ法王も1959年に無念の国外亡命を余儀なくされ、このダラムサラにいます。
その為、チベット自治区では僧院が正常に機能できず、教えを伝えられる人も(拘禁されている僧侶も多い)
減少しています。
それでも、修復された大寺院の多くで読経や問答修行に励む若い僧は絶えません。
しかし、仏教を学ぶ事は中国政府の規制下にあり「自由」ではありません。
その為、
教えの相承が人伝えである事が多いチベット仏教を教え伝える人も場所も自治区では不足しており、
チベットという僻地で大切に守られ伝えられてきた教えが途絶えてしまう不安が否めません。
その結果僧侶が亡命という道を選び、亡命先で最も多いインドを中心に世界中で継承されるしか
今は方法が無いのです。

チベット自治区では教育も全て「中国語」で行われています。
チベットという国の言語そのものを無くすために。
自分の子供にはチベット人としての教育を受けさせたい、そう願う親は命をかけて子供を亡命させるのです。
もう二度と会えないかもしれないのに。…究極の愛情だと思いませんか?
私は小さい頃、毎晩両親に捨てられない様に祈っていました。
自分は必要ない子供だと思っていて。残念ながら当時のソレは的はずれでも無く。
今の私の戸籍がその全てを表してるなぁ…と。

…キャンドルがどんどん小さく溶けてゆくのを観ながらそんな事をぼんやり思い、
TVCの子供達を羨ましいとすら思ってしまった夜でした。

帰り道、美元ちゃんと私はユウキくんの道案内で彼が昼間にみつけたという、ダラムサラの街らしい、
坂の山道、裏道を通ってホテルへ帰りました。
地元のヒトしか知らないような道。旅でのちっちゃーい冒険。
頼もしかったユウキくん。

おねーさん2人は本気で楽しかったぞ!!




2010.04.14 Wednesday  現実逃避その16 濁世の水その7



馬場崎研二氏 チベットタンカ 第16回定例個展 (帰国記念企画第2回展)
日時:2010/5/2(日)〜5/8(土) 午前11〜19時(初日午後13時から、最終日は16時まで)
会場:世界観ギャラリー

http://www015.upp.so-net.ne.jp/BabasakiKenji/0000_top/top_page.html

タンカとは↑↑でも説明していますが、仏画だと思えばいいと思います。
昨年の夏までダラムサラにいたという馬場崎氏の描いた曼荼羅やタンカです。
馬場崎氏は30年以上ダラムサラにいたのですねー。

※上記写真はダラムサラにて私が撮影した壁画です。

曼荼羅の世界、その構成は神とは呼び難い様な姿(怒りをあらわにしていたり、ドクロや
生首を持っていたり…)の仏が描かれています。
これは死や性が全て交錯し合った人間の精神世界だといいます。

ダラムサラでも、ノルブリンカにある曼荼羅やタンカを描く
芸術家の若者達のいるアトリエを見学させてもらいました。
選ばれた彼等がズラーッと並んで創作している中、我々は「邪魔にならないかな…」と気にしながらも
繊細な筆使いをギリギリの距離まで近づいて見せて頂いた。
なんだか懐かしい空間。(一応、オイルをやっていた時期がありやす)






私が一番気になった彼(笑)。黒縁メガネ。←そこ?



右側の余白(になる部分)には本番前のリハ?の後。



アトリエの隅にあった顔料。
美しいなぁ…。
これが天然の石(岩)だよ。
曖昧な放置が慢性化してココロが磨り減り続けてるような世界と決別してここでずっと、
曼荼羅を描いて過ごすのもいいなぁ…なんて思ってしまったよ。そう、死ぬまで高みに行けそうだから。

でも美輪様が今日
「自分には才能がない、生きる資格がないと思っている方へ。本当にそうでしょうか?
何十種類も病気があるのに、二十年、三十年、四十年と生き続けることだけでも大変な才能。
生きる資格がある証拠。

とつぶやいておられたので40年までは我慢。


もしまた人間に生まれかわるコトが出来たら…次の人生は絶対に日本画をやると決めてるの。




アトリエを出たところで12年前のメッセージをそっと受け取る。
壁好きが高じた瞬間(笑)




2010.04.13 Tuesday  濁世の水その6



日本に戻ってきて今日でちょうど1ヶ月経つ。

ネルソン・マンデラの27年間よりも長く投獄された上、その間、普通の人であれば死んでいたかもしれない
「拷問」を受け続けたパルデン氏の映画と先日の集まりで旅のメンバーと懐かしい再会をした。
持ち寄った写真を見せ合っているとまた旅の空気が蘇る。

メンバーはそれぞれの日常、日本の生活が始まっていた。
中には今回の旅が大袈裟でなく、人生の「変化」のきっかけになったメンバーもいた

私、といえば帰国して、未だにダラムサラで会ったチベット人女性との出会いがココロの中に巣くっていて、
その事を思い出さない日が本当に、無い。

チベットで尼僧だった彼女は仲間の尼僧達と一緒に「チベットに自由を!」と
声を上げた事で捕まり(その間、わずか10分ほど)、トータルで6年もの間、
獄中生活を余儀なくされたことを、中原氏が通訳する形で話してくれた。

歳も変わらない(年下?)同性から刑務所での拷問の話を直接聞くという経験は、
希有だと思っていた自分の人生でさえ(外傷的な痛みを伴ったことは殆ど無いけれど)、
比べものにならないほどの衝撃で。
しかもこれがわずか数年前の出来事であり、現在進行形で続いている現実…。
それは、戦争の経験も無ければ暴力的な場面も映画でしか観たことの無い私には、
彼女の話が真実だと頭ではわかっていても現実のものだと理解するのが困難で、
耳から、というよりも身体、細胞レベルで受け止めている様な感覚になっていて、
昔、知人が入院先で生死の境を彷徨っていた夜、その数時間前に、眼が見えなくなった彼女から
何故か携帯電話をあずかって欲しいと渡されていた私はそれを握りしめたまま、
彼女の病室の前の廊下のにあった長椅子に溶けるように座っていて、自分の体が殆ど心臓だけになっていた。
ダラムサラのカフェで彼女の体験を聞いていた時も、私は何故かその時の私の、
あの心臓の鼓動と同じ音を感じていたのだった。

辛い告白を最後までしてくれた彼女に質問があれば、と中原氏が言って下さり、
彼女への感謝と労いのコトバを私の隣にいたカオリさんがかけた。…と、同時に泣きながら私に
寄りかかって来た彼女の重みが私の意識をそこから引き戻してくれた。
そして、この地で自由になれた彼女の未来に何でもいいから希望をみたい、と
「この場での質問にはふさわしくないかもしれませんが、あなた自身の夢はありますか」
というコトバを通訳して頂いた。

自分の夢、を聞かれて多くの日本人(だけではないと思います)は、きっと個人の夢、を最初に思うでしょう。
私は彼女自身が「それ」を持っているのか、今、「それ」を見つけていて欲しい…と思ったのだ。
でも、彼女の答えは「思い切って」聞いた私の想像通り、

「チベットの自由と独立。」
「ダライラマ法王と一緒に(チベットへ)帰りたい。」

これが、この2つの事だけが、今も彼女の「夢」でした。
多くの亡命した多くのチベット人と同じ「夢」。



ダラムサラはとてもよいところだけれど彼女の家族はまだチベット自治区とよばれている場所にあるのです。
亡命者した彼女と連絡を取り合っていないか始終見張られ、肩身の狭い思いをしながら生活しているそうです。
彼女と家族がごくごく普通に会える、そんな日が彼等が生きている間に来るのでしょうか。
ベルリンの壁が崩壊した様に、ヒマラヤを、ルンタをなびかせて渡れるのでしょうか。

http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51101231.html


この写真をみるまで、テーブルの色や飲み物の食器なども全て忘れてしまっていた。
とても雰囲気のいいカフェだったのだね。



帰国後は季節柄、慌ただしく時間が過ぎていった。
卒業式、合格発表があり、国内のフェス史上ワースト1、2位を争うという噂のフェスでは
京葉線の弱さを改めて思い知らされたり(笑)、短い春休み、それらの合間に未だ消化不良の
ショックな出来事を2、3聞き、退職していった先生の送別会、亡くなった職員の告別式…。
私自身は去年から何度目かの母親のメールが来ていて、また今回も返信出来ずにいる。
あの一件から。
…このまま彼女が私を忘れてくれないかとどこかで望んでるな、私。


そんな不安定ながらも家族がいる場所があっても行きたくないし、会いたくないと思っている私は
それだけで罪深く思えて、元尼僧だったチベット人の彼女の前にいるべきではない、
汚れた人間の様に思えて涙が止まらなかった。
そんな私を彼女は優しく抱きしめてくれた。

本来なら、私が彼女を抱きしめてあげる側のハズだった。
でも正直、私は彼女の「夢」を聞いた瞬間から彼女を羨ましく思っていたのだ。
この世で絶対的なもの、裏切らない「それ」を彼女が持っていたから。

僧だった彼女にもまたあの子供達の様に「慈悲」という心が自然に備わっている。
パルデン氏も彼女も刑務所で会った自分を拷問した人間達を責める様な言葉は決して言わない。

生きとし生けるもの全てに完全に平等な深い愛情をもつこと、
どんなモノに対してもその「苦しみ」から離れられるように、なんとか救いたいと想える気持ち、
それは好ましくない対象、存在に対しても、仏教を信じていない者にも全く同じ様に思える事。
「慈しみ」のココロこそが混乱の世の中を救うと信じているのだ


それは個人主義の我々が創った無関心だらけの世の中とは次元が違う。



あちこちで見られるこの「ルンタ」(五色の旗)だって自分の為だけのものでは無い、

「全ての人達」
の幸福と健康を願う為のものなのだ。


今、友人夫妻宅の子供である猫が細胞の限界まで頑張って生きてる。
メールから、その献身的な介護の様子が目に浮かんで涙目になる。
去年の夏からそれは続いてるのだ。あと数ヶ月と言われた余命がこんなに延命してる。
それは無理矢理生かされている訳ではなく、両親の愛情に応える彼女(猫)の生命力なのだ。
この闘病の、奇跡の話を沢山聞いたし、彼女の奇跡の姿を私も目の当たりにした。

夫妻にこのルンタを土産にした。彼女=猫のお守りになる様に。

今、気付いたのだけどルンタは「ヒト」だけじゃなく

「全ての生きとし生けるもの」の幸福や健康、平和を願うものでした。

そう、この地球上に存在しているのは人間だけじゃないのだから。
…ヒトだけ、なんてエゴの固まりだなアタシ。




2010.04.01 Thursday  濁世の水その5

ダラムサラ2日目。
ホテルから徒歩でいける学校で朝、子供達があげる読経を聞けるということで皆で向かう。






かわいらしい図書室。


出発前、今年に入って宅配のDVD予約リストに、この旅行に間に合わなくても構わないという気持ちで
なんとなく登録していた「セブン・イヤーズ・イン・チベット」。
これはオーストリアの登山家と少年時代のダライ・ラマ法王の実話で、
監督とブラッド・ピッドは半永久的に中国への入国が出来なくなった、というエピソード付きの映画ですが、
その順番が回って来たらしく家に届き(古い映画だったからでしょうね)、出国前になんとなく観ていました。
その中の流して観ていたとあるエピソード。私はそれをこの学校で目の当たりにすることになったのでした。



チベット国旗とインド国旗に挟まれたダライラマ法王のお写真の前に子供達が座って並び、



まだ覚えていない子供達はオレンジ色の表紙の本をみながら全員でその真言を唱えます。
でも殆どの子供達が何も手に持たないで唱えていました。





ある箇所に差し掛かったら一斉に指を組み替える子供達。

読経は10分以上続くのですが、チベット語の持つ独特の音が本当に心地よいのです。
子供達の声の幼さも重なると独特の世界をつくっていましたし、何より、朝のまだ冷たい空気の中、
建物内に響き渡るその“音”は確実に私達の心の中の色々な雑念を浄化していました。


読経が終わると子供達は順序よく校庭に出てゆき、朝礼までのつかの間、一斉に遊び始めました。



みんなが遊んでいる中、私が気になったのは校庭の隅にいた2人の女の子。



少し離れたその場所で何やら2人でしゃがみ込んでいます。
すぐには声をかけず、しばらくじっとその子達の様子を後ろから見ていました。



さっき居た日陰の場所から日向の方へ、少しずつですが移動しています。

ここで我慢出来なくなった私(笑)、彼女達に声をかけてみました。
すると、彼女達が振り返ってみせてくれたのは…



小さな小さな虫でした。


彼女達はこの小さな虫をこのコインと葉っぱを使ってそっと移動させていたのでした…。



…この植木鉢の中に。


映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」の中で少年時代のダライ・ラマに
パレス内に映画館を作ってほしいと頼まれたブラッド・ピッド扮するオーストリアの登山家ハラーが
現場監督となり、僧侶達と一緒に基礎工事を始める場面があるのですが、土を掘り、ミミズが出て来る度に
作業を中断する僧侶達に最初あきれていたハラーも、彼等を認め、ミミズを殺さない様に
土を掘る作業と、ふるいを使って土とミミズを分ける作業をつくって工事を進めて行く、という場面がありました。

私はその映画をこのダラムサラに来る前に確かに観ました。
そしてチベット仏教の教えについても短い期間の付け焼き刃ですが出来る限り色々な本を読み、
殺生についても知っていましたが本当の意味で私にはわかっていなかった。
彼女達がコインに乗せたわずか1センチにも満たないその虫を見せてくれた時に、
自分は全くそれが理解出来ていないという事実を知ったのです。

植木鉢に虫を放った彼女達はその後、子供らしく皆の遊びの輪の中に走って行きました。
残された私はその植木鉢をみつめたまま少しの間体が痺れた様に動けなくなっていて、
そのうち涙があふれて止まらなくなっていました。

日本から遥か遠いここダラムサラで激動の時間の中に生きている10歳にも満たない子供達に
「慈悲」という言葉のただの意味ではなく、その言葉の全てを教えてもらった瞬間でした。



こんなに素晴らしい人間を育てることが出来る教えをずっとずっと育み、見守って来た大地。
どうか彼等が一日も早く自由に帰ることが出来ます様に。




2010.03.31 Wednesday  濁世の水その4

出国したその日はデリー泊。
翌日、早朝から車三台に分かれてダラムサラ(本によってはダラムシャーラー)へ向かいました。(バスがでてます)
3つの州を通過したでしょうか。とにかくヒマラヤの麓を目指して北上しました。
通常10時間ほどのところ、休憩を挟みつつ我々の車は渋滞に巻き込まれたりしながら15時間(!)かけて到着。
でも、車窓から見える景色は本当に素晴らしかったです。(写真は時系列通りでは無いよ)







私は不眠症が幸いして?車の中で全く眠らなかったので全ての景色を観る事が出来ました。
インドでかすぎ!を体感。



チャイを飲んで休憩したり。



一般道路を歩くヤクの群れに会ったり。
それを撮影するちあきちゃんと、ご主人の側にいるかの様なわんこ…(笑)。
とにかくわんことウシが自由に生きてたインド。
それは多分人間よりも。

ダラムサラに着いた夜はメインストリートの入り口にあるレストランで食事をし、



翌日の午前中、ダライラマのいらっしゃるパレスの見学に行きました。
残念ながら説法は終わっていましたが残っていた僧侶の方々がとても優しくしてくれ、
ある僧侶の方がもう配給は終わっていたミルク粥を是非食べて行きなさいと、ずーっとずーーっと
言ってくださるので、ずうずうしくも厨房まで行き、器が無いので掌に乗せてもらって頂く。
それはここの、チベット僧侶達の様にほんのりと温かく、味もやわらかい甘さで美味しかった。
そして私達が食べるところをその僧侶は少し高い場所からとても満足そうに見てくれていた。

この後ランチに行ったのはヒマラヤが見える屋上のレストラン。
世界の屋根。…パンダもこれも手に入れたいのだろうな、とぼんやり思ってみたり。

そんなダラムサラはインド国内でも避暑地になっている場所で、我々が訪れた時期は
昼間は長袖Tや薄手のジャケット程度で(日本の春、日陰は少し気温が下がる)、
夜は東京の3月初旬くらいの冷え込みになりましたが、とにかく空気が澄んでいて日差し、
光の量が日本よりはるかに多く、強く、空が、太陽が本当に近かった。



午後はダラムサラにあるチベット難民の子供達の学校、チベタンチルドレンビレッジ(略称TCV)へ。

ここにいる子供達は本当に様々な事情で両親と暮らすことが叶わない為、この学校は全寮制で、
18歳までの子供達がチベット人としての教育を受けていました。

私達がお邪魔した時は数人の子供達が取り込まれた洗濯物を選別している?たたんでいる?時間。
ここの案内をしてくれたのが中原氏http://blog.livedoor.jp/rftibet/で色々な説明をしてくださいました。
フォトジャーナリストの野田氏もいらして、先日撮った君たちだよ、と子供達に写真をみせていました。

そして我々も日本から持ってきたお土産(折り紙、風船、飴、シャボン玉、髪留めなど)を広げて
少しの間皆で遊びました。



一番上手に鶴が折れた女の子。美人になりそう。



彼がじーっと見ているので「?」と見返すと…



口の中にこんなおもちゃを仕込んでいました(笑)。

全寮制の学校ですが月に一度は親戚等がいれば外出可能だそうです。
でも頼る人間がいない子供達は外の世界をあまり知らないまま過ごす事になる様でしたね…。
彼等はここで一生懸命勉強すれば数%の子達がアメリカの大学、もしくはインドの大学へ進む事が出来ます。
看護師になった卒業生もいるのだとか。


このTCVの中にはチベット様式の


窓が黒く縁取られたデザインが特徴の窓の建物が沢山並んでいます。(奥行きがある様に錯覚します)

次に尋ねた建物(Baby Homeと書かれてました)には彼等より小さい子供達が大勢いました。


西日が本当に眩しかった、そんなご飯の時間。



部屋に入るなり、何故かこの男の子が私の手を引っ張って横に座らせてくれました(笑)

彼はご飯そっちのけで私に面白い顔を沢山見せてくれるのです。
ご飯が終わった後は外でぐるぐると回されて本当に目が回りかけて座り込むほど。
そんなやんちゃで有り余るほどの元気!の彼ですが、ふと頭を過ぎるのは、
この子の両親はまだチベットにいるのか…
それともチベットでは無いどこかにいるのか…
もしくは、もうこの世にはいないのかもしれない…という現実。

でも、私の目の前の、この小さな彼の笑顔にその答えは見えませんでした。


それから


この上にあるのが



敷地内の寺院。

四面八臂(しめんはっぴ)の観自在(かんじざい)菩薩(観音菩薩、観世音、または世自在とも呼ばれる)
の生まれ変わりがダライ・ラマです。
観自在はこの世の生きとし生ける者が悟りを得るまでは自分も仏となって涅槃にはおもむかず、
この世で利他行(他者の利益のための行)を行い続けている菩薩とされ、多様なる姿で現れ、
救済の願いに応える神で菩薩とは「悟りへの勇気を持つ者」という意味である。

ダライ・ラマは先代の死後(13世 は1933年に亡くなった)転生者を探す為に、
チベット議会が捜索の責任者、「摂政」を選任、神のお告げを取り次ぐ神託僧を選び、
様々な神秘的サインの解釈を元に転生者を探しました。

そのサインとは、
ポタラ宮(チベット自治区の首都ラサのマルポリの丘に立つ、高さ120メートル、
東西の長さ360メートル、斜面に そって建造された部屋数1000以上の宮殿)に安置されていた、
13世ダライ・ラマの遺体の頭部が、初めは南向きだったのに数日後に北東に向きを変えたこと、
摂政がチベット南部にある聖湖アモイラツォでAh、Ka、Ma、の文字が湖面に浮かぶのを見たこと、
トルコ石の色と金色の屋根の三階建ての僧院から一本の道が丘に続く映像を見たこと。

それらから目星をつけた候補と思われる幼児のいるタクツェルという村の一軒の農家に
捜索隊が一晩の宿を頼み、その幼児を観察したところ、教えてもいないのに
セラ院の高僧であったキゥツァン・リンポチェを「セラ・ラマ」と呼び驚かせたそうです。
そして数日後、ダライ・ラマ13世の遺品とそっくりの偽物をいくつか持参し、みせたところ、
この男児はいずれも正しい方を選び「ボクのだ」と言いました。
これが13世の死後、2年目に生まれ、1939年、4歳で14世に即位した現ダライ・ラマ法王です。
(参考文献:「チベット密教の本」他)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E

http://twitter.com/DalaiLama

この学校で校長をしているのはダライ・ラマ法王のお姉様です。

子供達はここで皆、五体投地をします。
これは全身を大地に繰り返し投げ出す礼拝の方法で、己の存在を無化させることを意味します。
私達もここでさせて頂きました。

この五体投地を行いながら(一度に自分の身の丈分の距離だけ進む)1年もかけて巡礼する僧侶もいるそうです。



中国とインドに挟まれたヒマラヤの麓にある秘境。
薄い空気と過酷な自然条件の中にある為「雪の国」と称されたこの大地こそ、
今も脈々と受け継がれているチベット人達の不屈の精神、意志の強さの源なのだろう。



日本でも昔よく見かけた風景…といっても ボロボロの小さなボールでサッカーをする子供達。



どの窓の周りにも色々な空き容器を鉢にした色とりどりの花々が並べられていた。
それはここに暮らす子供達の心の平穏と同時にこの花々ひとつひとつが子供達を見守っている様にも感じました。




六色で書かれた言葉。「オーム・マニ・ペメ(パドメー)・フーム」(オーム、宝珠と蓮華よ幸いなれ)
6つの音節で人類の幸せと健康を祈る言葉です。



言葉、言語は無数にあっても願いはたったひとつなのに。




2010.03.18 Thursday  濁世の水その3

自分用に今回のダラムサラとデリーの旅メモ、持ち物編を。

トランク(今回はリモワの一番デカイので行くことに!)
帰りにFREE TIBETなんてステッカーを貼ってしまったアタシはこれで中国へは行けないかも
小5枚、お土産に買ってきたので欲しい方がいたら予約をー(笑)


衣類(一週間分+現地調達)
3月のインド。デリーは暖かい(暑い)らしいが、ダラムサラは少し涼しいので季節的には春仕様。
Tシャツ4枚、長Tシャツ3枚
ジャケット1枚(日本で行き帰りに着る春用ジャケット)←結局ダラムサラの夜が寒くて着ることに。
薄手の羽織りモノ1枚←持っていった綿100%のともう一枚薄いのがあってもよかった。
薄手のマフラー、ショール2枚←ダラムサラの寒さとデリーの焼けよけに。現地で買うのもいいかも。
靴下、タイツ、下着類←捨てるタイミングを失ってるよーなのを(笑)
綿のスカート2枚(デザイン同じ膝下丈の黒と白)
デニンス2枚(ブルーとブラック)、黒レギンス1枚今回は珍しくデニムを持っていかなかった。
動きやすいレギンス&スカートで快適。
デニンス(デニムのうすーい生地のレギンスね)は、デニム感覚なのに楽で超旅向き!

あと、時間が無い中、頑張ってスカート(ロング)やピアス、ショールなんかは現地調達。カワイイ!

ホテルにパジャマ的なものが無いのでTシャツ(タワレコ×タツオさんの)&レギンスを。
更に今回のダラムサラのホテルは暖房設備が無く、東京より寒かったので湯たんぽ欲しかったなー。
私の愛用してるのはドイツ製のコイツなんだけどぺっちゃんこになるから持っていってもよかったな。
  ↓


後ろ向きだから顔のイメージをこのジャケットで。一時期部屋に飾ってたなー。
茶色はスミヲ用で私は黒のベアー使ってます。
スミヲ用のは毛玉だらけでエライコトになってますな…
そうそう、何年か前、知り合い夫婦に誘われて初参加の花見にどーせ鞄でかいし、と持って行ったら、
ぬいぐるみを持っている危ないオンナ?と、思われてたらしく(笑)
実用的なものだと理解された後はなかなか戻ってきませんでしたけどね。
熱湯入れても大丈夫だから、家から花見の間充分持つし、帰りはお湯を捨てて帰ればぺっちゃんこ。
ふつーの形のチョイ大きめもあるよ。fashy社で検索ねー。
私は夏は冷凍庫で凍らせてほぼ一年中使ってます。

昼間は長Tの重ね着程度で過ごせるけど、夜は寒くて、薄手のダウンやマフラー、手袋があってもよかった。
最後まで迷って買わなかったけど、ダラムサラの街中で見かけたもこもこニットの帽子も買いたかったくらい。
カイロは冷房の無い国も冷房の国でも必需品だね。

デリーは最後の1日が観光だったのだけど、Tシャツだと腕が焼けちゃうから薄手の(リネンくらいの)
長袖シャツを羽織る感じで日差しガードするといい感じ。
薄手のシャツ感覚で羽織れるものはいつでも重宝するね。寒いときも暑い(日差し)ときも。

日焼け止めは毎日塗ってた。それでも焼けたね。指輪ハズしててよかったわー。
あと、砂埃もかなりあるのでマスク必需品でした(男性陣はしてなかったけど)
帰国して今頃、喉が嗄れてますわー。(もともと弱いんだけど)

帽子→夏用のニット帽を持っていってたのだけどダラムサラはこれでよかった。
    デリーはツバのある帽子がいいです。日差しが眩しかった。麦わらのハット持って行けばよかった。

靴はスリッポンと迷ったけど、靴擦れが絶対にない(笑)コンバースのハイカット。
これがねー結構お寺とかに行ったので靴を何度も脱がなきゃいけなくて着脱が大変でした。
育て上げた(笑)慣れた、スリッポンタイプがやっぱりベストだったなー。飛行機の中でも脱ぐしー。
ひもをしょっちゅう踏んでほどけまくりでした。

薬類(正露丸は効きません説を何人にも聞いたのでその類はインドの薬を飲むつもりで)
ロキソニン(鎮痛剤)、ガスター20(処方薬)、大正漢方胃腸薬←胃薬は一度しか飲まず!
ビタミン剤←これは毎日飲んでるのをそのま
消毒液(スプレー、詰め替え)←ウェットティッシュタイプを持参してる人が多かったけどゴミになっちゃうし
すぐ無くなる。そんなワケで
スプレーに正解を感じた私。残ったのは居残り組の女子に渡してきました。

シャンプー、リンス←ホテルに無かったのでよかった。
オイル←髪の毛や肌とかね。ホテルの部屋も乾燥してるから使う。
ボディ用とハンドクリーム←使う使う。乾燥しまくり。

歯ブラシ、歯磨き粉←ホテルのメニティは石鹸しかなかったよ。
ま、歯磨き粉は界面活性剤入りは使わない主義だから国内でも絶対持参してます。


海外仕様のドライヤー←ダラムサラは夜寒かったから重宝した。デリーは勝手に自然乾燥してたわ(笑)

変圧器とプラグ←基本ねー。

iphone←今回、思いがけず「使える!」と思った。
貸すハズだったipod←行きのみ使用。長時間飛行機や車で(みんなと一緒だったし)使わなかったからか
成田から帰りの約2時間、考え事してたら忘れてて(!)そのまま家に着いちゃった一度も充電せず。

PCは今回やめました。なんかそーゆーものから離れるのもよかった。集合時間守らないと大変的な。

化粧品類←アイメイクだけしてあとは日焼け止めを顔にベタベタ。
で、卒業生のハナちゃんの韓国土産、日本で暴走族扱いされた紫に白ドットのマスクが日の目をみましたぜ!


洗濯セット(ロープとか板とか洗剤とか)←今回使用せず。ダラムサラはランドリーバッグがあり洗濯を頼めた。

お灸←夜な夜な、女子はこれを求めてマイルームへやって来たのです。続けたいと皆言ってくれ啓蒙活動成功!

ロウソク←上田さんの写真と共に祭壇を作ろうと持っていったのだけど停電になったので役に立つことに(笑)
女子達がトイレに行くときに「上田さん、借りますねー」って(笑)


梅干しと羊羹←やはり日本人、こういう旅には必需品かもとしみじみ。

ふろしき、大判のバンダナなど3枚←トランクの中がきちんと整理できますー。開けてもキレイー。
ちりめんだと皺にもなりづらいしー。日本人ステキー。


ハンカチ←すぐ乾くリネンの。
ぷちぷち←コーラの瓶を持って帰る使命があったけど、それ以外も何かと結構役に立ちます。
頂いた、あずかった、お線香
お土産(飴、おりがみなど)←チベット学校の子供達用に。他にも風船(好評) やシャボン玉、
それから
たまたま見つけた空気をいれ るタイプの地球儀が好評。
女の子には、もう女の子は卒業してしまった(笑)私の使用後だけどキレイなもの、未使用 の、
大量のピン止めやリボン、ヘヤーゴムなどを。

以上がトランクの中。

〈手荷物〉
乗り物用グッズ(スリッパと頚の枕とアイマスク)←これは必需品。気付けば全く同じ格好の女子が隣に。

声が聞こえないと思ったら爆睡。誰でしょうー。

ぬいぐるみ(大きさ比較のため)
ただのトモダチです…名前は無いけどねー。
筆記用具、ノート←メモすることがいっぱいでした。罫線の無い、スケッチブックもあればよかったかな。


特にアレ忘れたー、は無かったけど、職場の先生に言われた様に、旅先でも体を冷やしちゃいけない、
は守った方がいいなーと思った。
特に暑い国だと油断するけど、必ずカイロや羊羹を持って行きなさいと言われた。
羊羹は黒豆だから体を温める作用があるし、疲れが取れていいんだって。
小さい小分けの羊羹を持っていって10日のデモの日にみんなに配ったら殆どがその場で食べてた(笑)
疲れてたのねー。
あと、龍角散のど飴が絶対効くから、と言われてたんだけど忘れてて(汗)
今回同行した旅の達人のおねーさんがちゃんと持ってきてた。さすが〜!!
トイレがなかなか無いから(あってもアバンギャルド過ぎると聞き、断念した場所も)水を多くは飲めなくて、
結構飴を舐めてました。

ここはまた思い出したら追記していきます…次回(当分なさそう…)の参考に。

あ、ダラムサラで買ったヘヤースティック(かんざし)、インドの空港で没収。(送ってくれないのだよー)

アンタ達の国で買ったのにー!!

…せめてかわいいアーミーのおねーさんに使って欲しいなぁー捨てないでー。




2010.03.16 Tuesday  濁世の水その2

今回の旅のコンセプトはダラムサラにて毎年3月10日に開催されるチベット決起のデモンストレーションに
チベット人達と一緒に参加することにより、チベット人の現状を より深く理解・実感するというものでした。

以下が我々の旅の日程。

3月6日に成田を出国、夕方デリー着。
翌日の7日は早朝ロビーに集合、今回参加の9人が3台の車に別れてダラムサラへ向けて出発。
途中何度も(2〜3時間おき)休憩しながら、当初予定していた12時間をオーバー、15時間近くかけて到着。

そして8日はお寺に続く巡礼路(パルコル)を歩き、ダライ・ラマのパレスの見学、ダライ・ラマ14世の実の妹、
ジェツェン・ペマさんが校長を務めるチベタンチルドレンビレッジ(全寮制チベット難民学校)の見学。

9日も別の学校で早朝から子供達のあげるお経を聞きに行き、再びパレスに行き、その後、
元尼僧だった拷問被害者の方に直接証言を聞きに。
沢山のお寺や(日本人が寄付したものも多くあります)建物、ダライ・ラマ法王の部屋も見学。

10日、デモ当日はパレスへ行き、チベットの旗を持った多くのチベット人や外国人達と一緒に
ダライ・ラマ法王の声明を聞きました。もちろんチベットの言葉なのだけれど、法王の温かくて深い声は
旅で疲れた体になんの抵抗もなく染みこんでいき、癒してくれる様でした。
午後は急遽インド村へ行き、夕方からはキャンドルを持ってパルコルをみんなと歩き、
はじまりの場所であり、最後の場所、パレスへ。

11日はまた早朝から車でデリーへ向けて出発。(やはり15時間ほどの車旅に)
最終日の12日だけはデリー市内の観光を数時間、夜には居残り組み(監督以下4人の内、
一部はこの後スラムへ)以外は搭乗し、翌日、13日に成田着。

ホテルは事前に色々と聞いていたのですが、今回泊まったホテルの印象だけ、で言うと
田舎のダラムサラの方が、デリーよりよかったかも。
内装とかすごいかわいくて(そこ?)。

デリーは20℃以下のぬるーい風邪引きそうなシャワーしか出なくて、もうホントに笑うしか無いって感じでね。
他の部屋は大丈夫だったみたいだけど。髪が長い自分が恨めしかった(笑)

そんなデリーのホテル前でチアキ嬢をパチリ。

チアキ嬢は撮影してばっかりなのでこの旅ではそんなチアキ嬢をいかに格好よくとるか、という
「ベストチアキ賞」争奪戦をやることに(笑)

部屋がかわいかったダラムサラだったけど、夜は寒かったので家から成田まで着ていったジャケットを着て
ストールをぐるぐるまいて…みたいな格好をしてた。

…それなのに部屋には暖房設備が無いのだった…サムイノニガテナノニ〜

あと、停電になったり、お湯(ボイラー)が出なくて他の部屋にシャワー借りに行ったり、借りに来られたり…
トイレットペーパーは流しちゃいけないからゴミ箱に捨てなきゃいけなかった。

でも、その不便さが妙に楽しくてあんまり「苦」じゃなかったなー。

まず、デリーの空港なのに!!…いや、「だから」なの?、で、既にトイレに関しては洗礼を受けたからねー
あと、旅慣れた人達がいっぱいだったから機内でもイロイロ聞いてて事前のココロの準備万端だったのよね。
いつも最悪なコトをシミュレーションしておく主義なのアタシ(ココロが折れやすい)。

それと、今回のチームダラムサラ第一期生(?)は誰も深刻な体調不良が無かったのもラッキーでした!
すごく何かに守られてる感じがしたよ。

あ、ちなみにチーム構成は肖像権その他の確認を全員にしてませんのでぼんやり紹介すると
監督、カメラマンのチアキ嬢、某モデル嬢、芸術、職人肌姉弟、某大学の先生、キュートなオンナ社長、
とっても聡明な旅の達人女性、そしてアタシの9人という、年齢も見た感じも見事にバラバラなメンツでした。
共通項はこのツアーを企画、主催…というか、「マキさんの初めてのインドは私が案内しますね」と
言ってくださったキム・スンヨン監督の映画「チベットチベット」http://www.tibettibet.jp/

監督は言葉、言霊を本当に大切にする人だな、と一緒に旅をしてしみじみ実感。
そして今改めてプロフィールをみてある事実が発覚。
私がその昔…人生で一番大きい、上京という事件?のキッカケになった人と生年月日がまるっきり同じ!!
優しい話し方とか声のトーンとか、変なところで潔癖というか保守的(監督は食べ物にそれが・笑)
なところとか、同じ日に生まれたヒトには何やら共通項があるのかもしれんー(笑)

それからダライ・ラマ法王日本代表部事務所や本当に本当にお世話になったルンタプロジェクトダラムサラの
中原一博氏http://blog.livedoor.jp/rftibet/(このブログは是非読んで下さい!)には本当にお世話になったし、
ツアー会社/ヒマラヤトレッキングサパナhttp://www.sapanatrek.com/にも感謝の気持ちでいっぱいです。


http://www.youtube.com/v/mW38ZeWE7Us&hl=ja_JP&fs=1&">




2010.03.15 Monday  濁世の水その1

 

無事帰国してます、今朝から社会復帰してます。
「濁世の水」っつータイトルでダラムサラ記、書いてみよーかと。

今日は帰国編。

土曜日、成田に着いたらバーってメールが入って、中には旅行の件を全く知らない卒業生から
「図書室に今日いますか?」って入ってて、ごめんね茨城から来てくれたのに的なのもあったりして
ホント迷惑かけちゃったなー

あと、ただの旅行くらいでは私も有休なんて取らないし、友人知人達にもどこどこに行きます程度
だっただろうけど、今回思ったよりも多くの人がチベット問題に関心があるのだなーと改めて感じました。
正直、日本人は愛国心が薄いというか普段から日本に生まれて幸せとか、国を特に意識してない民族だからね。
…他の国と比較して、の話だけど。

この旅行ではチベット人達の国を想う気持ちに直に触れて胸がいっぱいになりました。

10日のダライ・ラマ法王の声明もニュースでは流れたのかな。
http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/message/uprising51st.html
私、あの場にいたんだよ。
いただけ、なのに今それがとても誇りに思えます。
日本のメディアではTBSの人達が頑張ってたみたいだね。
前日の朝、予定の集合時間より準備出来たのが少し早かったのでホテルの近くで偶然入った
チャイのお店にいた人と喋ってたらTBSの人達のコーディネーター兼ガイドをしてるチベットの方でね。
その後、また、TBSの人達とも2回ずつ、偶然会うことになるんだけど、またそれは後で書く機会があれば。

監督や同行の皆さん、有休を許可してくれた職場のお陰で貴重な経験が出来ました。
奇跡的に誰も深刻な体調不良にならなかったしね。



さて。
みんなに伝えるコトが沢山あるよ。
今もまだね、涙が溢れ出るくらい、鮮明にその瞬間の気持ちが消えずにあります。
うまく伝えられるかはわかんないけど。
でも人それぞれだから私が感じたように伝わらなくてもいいし、無理に伝えるつもりも無いのだけどね。
ただ「1人でも多くのヒトに伝えて下さい」とメッセージをあずかったコトは事実だから
聞いてみたいと言ってくれたヒトにはせいいっぱい伝えようと思ってる。

今回はインドであってインドじゃないトコに行ってたワケだから、どこにいるのかわからなくなりかけたな。
ダラムサラは日本よりも空に近くて、不思議な空気の漂う場所でした。




帰り、トランクを引きずったまま、どうしても食べたくて買って帰ったのが上の写真(笑)。
ははは。
成田でお茶した後からどーしてもねー(笑)。
関西人のくせにって思ったアナタはまだマニアじゃないねぇ。
私は出生地が山口県下関市。どんどん東へ進んでるワケですな。

そしてしっこちゃんにお世話してもらってたセガレに玄関の扉を開けて「ただいまー!」って呼んだのに
ベッドの上でスヤスヤと寝ておった(笑)
その顔を見てしっこちゃんともうまくやっていたことを悟り安心。


しかし、寝起きなんてかわいすぎー!!




2010.03.06 Saturday  旅立つ前に

今更ひどく躊躇してるのだよーアタシ…
もう、あと数時間で家を出なければいけないと言うのに。

今年、インド行きを決めてから
「インドに行くまでに」っていうのが何となく、でも常に目標になっていた様に思う。

旅の準備になるかな?と、先日の安養院訪問、監督の「チベットチベット」をもう一度読み返したり、
「セブンイヤーズ・イン・チベット」をまた観直したり。(映画の善し悪しは略)

あと、前々から行こうねーと言い続けていたのがなかなか叶わなかった卒業生と飲みに行った際、
最初はインド観光の様に今回の旅について話していたのだけれど、なんとなく彼女には話してもいいかなと
実はダラムサラが目的地なんだというコトを告げたら、彼女のダーリン(イギリス人医師)が
ダライラマ法王に謁見したコトがあるという話が。
今回、職場にはダラムサラという場所の特異性からただのインド旅行としか告げていない。
…というか言えない。
それはどうしてもチベットと中国の関係が浮き彫りになってしまうから。
ウチには中国人の学生さんがいるし、中国とはとても友好的な関係にある職場だから勘違いされたくない。

単純、シンプルに言えば
「もっと自分の国を知りましょう、そして地球を愛しましょう」
という、ただそれだけのコトなんだけどね。
ざっくり過ぎかな。
まぁ、また今度。

それと、基本的に旅行は2人(または3人)、気心の知れた人間としか行ったことが無いので
見知らぬ、年齢も違う男女混合という、構成的にも初めてだし。

そして今じんわり、確実にきてるのが「インドの旅」ってコトに関して昔から誰もが言う、
特徴的な現象なんだけど、
「インドに行ったら自分の価値観が変わる」
という呪文の様な言葉。

この「変わる」の、部分。
なんとなく、コレが徐々に気重になってたりして


私がインドへ行く事は思ったよりも多くのヒトが「いいことだ」と言った。
普通の旅行にいく程度では言わない言葉だと思うから、やっぱりインドは特別扱いだ。
そして私自身が割と問題児だってことを知ってる人達(…だな、大半は)で、
もちろん私はそんな彼女、彼等に感謝してるし大好きなワケで。

だからね、

「変わらなかったらどうしよう」

…という不安が心の中に巣くってきていたのだ。
彼等が眼をきらきらさせて言ってくれた「期待」(適当なコトバがないからこれで)を
アタシは裏切ってしまうんじゃないかという不安。

インドに行ってその洗礼を受けたヒト達は、みんな今までの自分の視野の狭さと
偏った価値観、自分自身を一度壊されてしまうと言う。
まるでショック療法だ。

私も私自身でどうしても変えられない「ソレ」が本当に変わるのならひどく嬉しいのだ。
本当に変わりたい。

変わりたい。
変えたい。
変わりたい!!

ずっとずっと、ずーっと願ってる。
幼い頃から。

周りの期待を裏切らない様に、周りのイメージを崩さないように「フリ」してるコトが多いんだぜ、アタシ。
ホントは根暗なのに。
関西人っぽくと(ホントは下関ですけどね…)自分に言い聞かせてるときもあるし。


今回の旅。
もしも「ソレ」が変わらなかったら?
やっぱり私は私のままだったら?
行く前にこんなコト考えさせるインドって…。

でも、色々なコトが、チャラになる様な、
そんな何かがあるのを勝手に期待してる自分も正直いるから、
やっと見つけた「今度こそ!」な、カウンセラーに会いに行く様な気持ちもある。

だってここに書いてしまえばチャラになるなら書くだろう。
何の迷いも無く書く。

でもならないの知ってるから書かない。
誰もわかってくれないの知ってるから書かない。
誰も解決してくれないのも知ってるから、書かない。
どうしたって一生消えない事だから書かない。


こんな気持ちのままだけど行ってきますー。

もちろん、インドが合わなかったヒトの話もちゃんと聞いてるのでいつもの様に
残念だった時のシミュレーションはちゃんとして心の準備はしたし、
先日、もし変われなかったらどうしよう〜と電話で訴えた時には
「悩みがインドに勝ったと思えばいいじゃん」というアドバイス?も頂いた。
全然浮かばない発想…ポジティブすぎ…



スミヲとしばらくバイバイ。(これも億劫になる原因のひとつだ)
先日、キミのお世話をする為にわざわざ時間を空けて来てくれてたしっこちゃんに
可愛がってもらっててー。
学園祭の金魚すくいで残って困った金魚をひきとって飼っていたのだけど、
次々に病気で死んでしまい、今、ロシアのカメラの名前のついた子が一匹だけ残っていたのだけど

死んでしまいました。
たった今の、少し前に。

しっこちゃんが来てくれている間に死ななくてよかった。
いい子だ。とっても。
夜が明けたら埋めてあげよう。

9日の命日と、12日、元同僚、脳卒中で突然死した年下の若い先生の命日。
たまたま、ちゃんとこの2つの日が入っているのも運命だしちゃんと供養してきます。
もちろん私の周りの全ての人の幸せも祈ってくるよ。

「いつまで行くの?」
と、帰国の日を聞いてくれた人達のコトバが、深い意味なんて無く、例え何となくであろーが、
救われたというか、ちょっと嬉しかった。

「行ってらっしゃい」だけじゃ、放り出された、って感じで寂しい。
「気を付けて」と付け足して言われたってそれはそれは…もう、寂しいのだ。
そのヒトとの距離をそれで感じてしまったりして。深読みする、やな大人なのだ。


やっぱり何も変わらない…変えられない私かもだけど。
「いつまで?」と一応聞いてくれた(笑)人達の顔を見るために、
ダラムサラで感じた事をきちんと伝えられる様にしっかり観てきます。
すごくすごく大事な、貴重な経験になると思うので。

私が変わる変わらない以前に、今回はチベットの人達のコトを知るための旅なのだから。
そしてきっとそこは私なんかの悩みなんて可笑しくて比べ物にならないくらいの世界なんだろう。

みんな、ありがとね。
行ってきまーす。

LOVE

Makixxx






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