Fate/zero 二次創作
プロローグ
――二年前――
一人の少年の話をしよう。誰よりも人を憎み、誰よりも強く、そして誰よりも弱虫だった少年の話を。
少年の想いは醜かった。
他人のものが欲しくなる。その感情に正直だっただけ。
そうしなければ生きられなかっただけ。
一般的な家庭に育てば、普遍的な教育を受ければ、普通の感性を持っていれば、幼いうちにも芽生えるはずの罪の意識が、少年には根付かなかった。
むしろ奪えば奪うほど、その価値が他者にとって多大であればあるほどに強奪の悦びは増していった。
他人の宝物、他人の恋人、他人の命――
気づけば奪う快感を味わうためだけに生きてきた。
貴重なもの、愛着あるもの、大切なものを奪われた喪失感と絶望、それらが他者の貌を悲痛に歪める様を想うだけで得も言えぬ恍惚とした感情が胸を満たした。
愛したものを奪われた男の吝気に駆られる様と失望感を想像するだけで間男である自分に酔い痴れる女が堪らなく愛おしくなった。
自分の手の中で失われてゆくあたたかさと流れ出る血液の噎せ返るような匂い、人のもっとも尊いとされる命を奪った感触は、殊更に自ら生を意識させ、さながら反面教師の如く命の尊厳を実感させてくれた。
人間を憎み、社会を恨み、世界を蔑んだにも関わらず――奪ったものにだけは狂おしいほどの愛情を懐くことができた。
自身で成し得た事柄には微塵も関心を寄せられない反面で、他人の所有物は身が張り裂けんばかりに恋しくなる。
この異常性を、だが彼は別段、狂っていると思ったことはなかった。むしろなぜ誰も彼もが胸のうちをひた隠しにして生活しているのかと不信感すら懐いていた。
なぜ自分に正直に生きられないのか。
自分が空腹な時に他人が至福の表情で飯を咀嚼する様に生唾を飲む。
富裕層の人間が見せびらかす高級な車や宝石に心躍る。
経済面や容姿の優れた男が連れた美しい女を抱きたくなる。
自身にはないものを持った羨望の対象。それを欲しいと思うのは当然ではないか。だのになぜ今の庶民は現状で満足してしまうのか。自分のように欲求に正直に生きることが最高の幸せだとなぜ気づかないのか。
法や体裁に縛られる――その何処に法治国家が謳う自由や平等なんて大層な理想があるというのか。
晴らしようのない鬱憤が堆積していく一方で、だが彼は自身の抱える苦悩にも心身を苛まれていた。
他人のものしか愛せない彼は、能動的に人を愛することができない。
他人のものしか愛せないなら――誰のものでもない自分は、憎しみの対象でしかない。
どうやって自分を奪えばいい?
どうすれば自分を愛せる?
鏡に映る己の姿を憎々しげに睥睨する自分が堪らなく悔しかった。
鬱屈とした感情を紛らわすように強奪の限りを尽くしても、心は晴れなかった。
いつしか自分に恐怖すらするようになり、誰かに自分を奪って欲しかった。
そうした誰とも解り合えない苦悩を抱えながら過ごしていたある日のこと。風の噂に眉唾ものの儀式の存在を知った。
聖杯戦争――七体のサーヴァントを従えて最後の一人のなるまで殺し合う魔術師同士の抗争。勝者には万能の釜たる聖杯に祈る権利が与えられるという。
無論、この聖杯は神の御子の血を受けた本物ではないが、願いを叶えるという一点に於いては本物である――と。
これを聞いてすぐさま、彼は噂の真贋をあらゆる方法で調べ上げ、確証を得ると同時に冬木の地へと進む算段を取り決めた。
これだ、これしかない。この苦悩を拭い去り、彼にとっての楽園を体現させてくれるのはこの聖杯でしか有り得ない。まだ誰のものでもない聖杯――それ単体にはなんの魅力も感じないが、『自分の苦悩を奪い去ってくれるもの』なら話は別だ。
期待に胸を膨らませ、本来の歴史にはないイレギュラーがこの冬木の地に足を踏み入れた。
―― 一年前――
間桐雁夜は胸中を占める暗澹とした怒りに突き動かされながら、二度と足を踏み入れまいと決めていた深山町に十年ぶりに足を踏み入れていた。二度と見ることもあるまいと思っていた景観は、十年前とまるで変わりない。日毎に開発が進む新都とは対照的な閑散とした街並みは、雁夜に不快な郷愁を思い起こさせる。
しかし、いま雁夜の脳裏の過るのは、感情を押し殺した声で雁夜を突き放した葵の目尻に溜まる小さな涙だった。
これまでは我慢できていた。間桐の生家を飛び出してから、どれだけ卑劣な行いを受けようと、醜い事柄を間の当たりにしようと、耐えることができていた。……間桐の家で目にしたおぞましい魔術の真相に比べれば、世間の卑しい物事など取るに足らない些細なものだったから。
だが――今回ばかりは許せない。
遠坂葵……幼馴染であり、嫁いでしまった今もなお変わらずに想い続ける女性。その彼女の愛娘である桜が、よりにもよってあの忌まわしい間桐の家に養子に出された。
雁夜は正気を疑った。なぜ遠坂時臣は、妻である葵や娘を悲しませるような真似をするのか。生まれながらに魔道に携わる時臣が、間桐に養子に出された桜が辿る悲惨な運命を知らなかったとは思えない。
そして何より、そのような男に葵を譲り、敗北を認めた過去の自分を悔んだ。やはり魔術師という輩は、一人の例外もなく人でなしの集まりでしかないのだ。
悲しみを表に出すことなく、気丈に明るく振る舞う幼い凛の姿を見て――
魔術師の妻として、人並みの幸せを諦めた振りをして、それでも悲観に暮れ影で流した葵の涙を見て――
何も感じないのであれば、それは人として間違っている。断じて許しておけない。もしあのような男の元に嫁がなければ――葵は子供たちと共に、平穏で幸福な人生を歩めたかもしれないのに。
そう想えば想うほど、悔恨と自責に押し潰されそうになり、いてもたってもいられなくなった雁夜は、憎悪し嫌悪して止まなかった生家を訪れていた。
鬱蒼と聳え立つ間桐の屋敷。忌まわしいばかりの洋館の玄関先に雁夜は足を踏み入れた。
* *
玄関先を眺めた雁夜が懐いたのは、奇妙な違和感。十年ぶりの生家に既視感を感じたなどという生半可な印象ではない。違う――この空間は、雁夜の知る、魔道と聖杯への盲執に囚われた間桐の家とは完全に乖離していた。
生来から間桐の魔術に間接的に触れてきた雁夜には確信できた。この家は、雁夜の知らない家庭的なあたたかさと人の生活感に満ち満ちている。蟲の腐ったようなおぞましい匂いもない。これはいったい――
驚愕し、動揺する雁夜の前に、来訪者を迎える一人の少女が現れた。
「どちらさまでしょうか」
雁夜は、変わり果てた生家をも凌ぐ驚愕に言葉を失った。
眼前に佇む少女は、まさに絶世の美貌の持ち主だった。歩くたびに揺れる艶美な黒髪の妖しさ、白く透き通るような肌理細かさ。秀麗な眉に黒曜石が嵌め込まれたように煌めく双眸。すっと通った無駄のない小さな鼻梁と緋色の糸を引いたかのような唇。
ジーンズにタートルネックという体格を露呈するラフな衣服から、未だ少女の域を出ない未完成な年頃であることが窺える。だが年齢に似つかわしくない落ち着いた雰囲気を纏っていた。この少女は誰だ? 間桐の関係者か? なぜこの家にいる?
忘我から立ち直り、募るこの少女への不信感に目を眇めた雁夜に少女が声をかけた。
「……立ち話もなんですし、上がってください。お茶でも飲みながら、ゆっくりお話ししましょう」
上がるよう促した少女は、背を向けキッチンへと歩き出した。怪訝さを露わにしながらも、雁夜は渋々と少女に従うしかない。正体を今すぐにでも問い詰めるべきだったのか。言い様のない不安に駆られながら、勧められるがまま、知らない生家に上がってしまった。
* *
果たして間桐のリビングは、以前の隠しきれない陰鬱さが滲み出る空間から様変わりしていた。
瀟洒な家具はそのままに雁夜の好む質素な飾り付けが追加されている。豪奢なものを嫌う雁夜には、これらの調度品のセンスは雁夜を満足させるに足るものだった。加えて出された紅茶の芳醇な味わいは、高級品を物好きの見栄と蔑んでいた雁夜に市販品との違いを思い知らせるに充分だった。
テーブルを挟んだ対面に座る凛冽とした美貌の少女は、優雅な仕草で紅茶を嗜んでいる。害意はないことを示すためか、わざわざ目の前で紅茶を淹れ、注いだそれを先に飲んでみせた。
警戒した様子が伝わっているのだろう。だが少女はまるで雁夜に意識を割いていない。取るに足らない相手だとでも判断しているのか。
判然としない雁夜をよそに、一息ついた少女は唐突に話を切り出した。
「それで、なんの用でしょうか。間桐雁夜さん?」
十年前に親兄弟と決別して以来、間桐を訪れたことのない雁夜の名を知る家政婦でもない少女。やはりこの少女は一般人などでは断じてない。俗世間には秘匿されるべき神秘に関わる、雁夜が背を向けた道を行く人間だ。いっそう貌が強張るのを感じながら、間桐にはそぐわない華々しさを備えるこの異質な少女に、雁夜は瞠目して低い声で言葉を捻り出した。
「お前は……何者だ?」
「何者だ、なんて不躾に申されても返答に困りますね。まぁ、あなたからすればわたしは不法侵入者で不審者なんでしょうけど」
「誤魔化すな。何者だと訊いている。どうしてお前は此処にいる? 鶴野とその息子――そして臓硯はどうした?」
得体の知れない少女を前にしても怯まず、強気の言葉を紡ぎだしてゆく。元より自己犠牲の精神で命を投げ出す覚悟を伴い来訪した雁夜には、確固たる意志があった。あの臓硯であろうとも対等に交渉してみせる気概を持って臨んでいるのだ。
引ける訳がない。だが……
「その三人は、もしかしてコイツらのことかな?」
そう呟いた少女の全身が、ぶよぶよと蠢く肉塊に変貌したことに、雁夜は悲鳴を上げそうになるのをすんでの所で抑えた。水泡が泡立つように一瞬で膨張した肉塊はしかし、瞬時に収縮して人の形を取り戻す。
その容貌は――彼がよく知る、実兄・間桐鶴野そのものだった。
「それともコイツかな?」
人を食ったような声音で紡ぐその声は、紛れもなく間桐鶴野のもの。見知った肉親の容姿が原型を留めずに崩れる醜悪な生理的嫌悪感に背筋が凍てついた。膨れ上がった肢体は、今度は幼い甥・間桐慎二へと変態する。そして遂には、雁夜の戸籍上の父親であり憎悪して止まなかった魔術翁・間桐臓硯にまで姿を変えた時、彼の決して怯むまいと誓った心が折れた。蒼褪めた相貌で椅子から立ち上がり、茫然と禿頭の老いさらばえた老人を見つめる。
いったい何が起きているのか。この少女の正体は何なのか。間桐の者たちはどうなってしまったのか。
狼狽する雁夜をよそに再び麗しい少女の形に変貌した少女は辟易とした様子で、
「あー、気持ち悪い。ねえ、醜いと思わない? 生への執着だけに囚われ、本質を見失い腐れ果てた蟲の爺。奪うまでは良いけど、いくらなんでも愛でるのは無理だよね」
「な……なにをした……何だ? 何なんだ、お前は!?」
恐慌する一歩手前の雁夜を見止め、少女はその唇を凄惨に吊り上げた。姿形は可憐な少女であるというのに――雁夜には彼女が臓硯と比してなお禍々しい異物に見える。
「狡いと思ったんだよ。始まりの御三家――聖杯戦争を仕組んだってだけで優先的に令呪が授かるなんてさ。調べてみたらこの間桐って一族、衰退しきって今代の世継ぎには魔術回路が備わらなかったらしくてさ。そんな落魄れた一族に未だに特権があるなんて宝の持ち腐れだろ?
だから奪ってやったんだよ。家も魔術も財産も命も何もかもをね」
残虐極まりない言葉とは裏腹に褥で睦言を囁くかのような淫蕩な響きだった。告げられた事実と先ほどの怪現象に確証する。
この少女は――信じ難いことに、何代にも渡って間桐家に君臨してきた不死の魔術師を殺害した上でこの家を乗っ取ったのだ。何百年も続いた魔道の歴史。忌諱してきたとはいえ、肉親が惨殺されたことには奇妙な喪失感があった。
「もっともあの爺、無駄に生き長らえている所為か油断ならなくてね。間桐の魔術だけじゃなく知識含めてすべて奪い去ってやろうと思ってたんだけど、さすがに相手のホームじゃきつくてね。結局、聖杯戦争について奪えたのは令呪の知識だけさ」
さして悔む様子でもない独白に面喰らった雁夜だったが、異様に砕けたこの少女の調子に恐怖に揺れる心が平静さを取り戻すことができていた。冷えた頭は、眼前の怪異ではなく、此処を訪れた当初の理由を雁夜に思い起こさせる。
――そうだ、桜……桜は何処だ? すべての元凶である臓硯がいないのなら、もう間桐にいる必要はない。
雁夜の目的、葵と凛の元に桜を取り還すという願いは達成される。雁夜は努めて冷静に少女に声をかけた。
「桜……桜はどうしてるんだ? いるんだろう?」
「ああ……」
縋るかのような雁夜の眼差しに少女は苦笑で応えた。雁夜から視線を外した少女の美貌が、人の感情を逆撫でる嫌な笑みに歪む。
「たとえばの話だけど、後継ぎ問題で、二人の娘のうち片方を凡俗に隋とさなければならない魔術の家系があるとするよね。そして一方で衰退しきり、新たに外部から力ある後継者を貰い、その子を次代の後継者として育成しなければならない家系がある。
さて、利害が一致した両者はどうするでしょう?」
「……」
それは、言うまでもなく今回の遠坂と間桐の取り決めのことを指すのだろう。人の、親の感情を一切抜きに魔術師としての体裁のみを取り繕った外道共の事情など知ったことではない。雁夜にとって重要なのは、大切な女性が、愛する娘たちと幸せに過ごすこと、一点のみなのだから。しかし――
「ですが、その衰退した一家の元に一人の魔術師が訪れ、一族を皆殺しにしてしまいました。そして略奪した知識から、その切羽詰まった一家の事情を知ると、魔術師はこう思ってしまったのです。
――その子供を親の元から奪ってやりたい」
「――テメエ、まさか……」
人を蔑むような瞳と吊り上がった唇から紡がれた言葉に、雁夜は少女への恐怖すら忘れ、胸にどす黒い情念が沸々と沸き立つのを感じた。
「軽い気持ちでこの家の家長に成り済まして送った打診に、向こうは拍子抜けするほどあっさり承諾したよ。むしろ天恵に等しい申し出だったと歓喜していたくらいだ。
いや、騙していながら、なかなかに悲しい別れだったと思うよ。なにせまだ小学校にも通わない幼児が、物心もつかない間に親元から引き離されるんだからね。あのコ、泣いてたっけ」
もはや隠すことすらせずに少女は嬉々として語り始めた。雁夜は――暗澹と濁り、抑えきれないほどに煮え立つ、身を焦がさんばかりの怒りに己を見失っていた。コイツだ。コイツだったのだ。葵と凛から桜を奪い、絶望に叩き落した張本人は。
時臣も熟考すらせず桜をこんな家系に手放しただと。こんな……こんな奴らが存在していい訳がない。やはり一人の例外もなく、魔術師という連中は腐っている。
「ふざけるな……」
爪が掌を食い破るほどに握り締めながら、雁夜は怨敵を睥睨した。年端もいかぬ少女だろうと関係ない。殺してやる――
「ふざけるなよ貴様ァ――!」
相手が冷酷かつ強力な魔術師である臓硯すら殺害した怪物だというのに、雁夜は激情に突き動かされるままに殴りかかった。この少女の細頸を圧し折り、一刻も早く息の根を止めてやる――!
だが――想いとは異なり、雁夜の特攻はまったくの徒労に終わった。少女の手が雁夜の頭を掴んだ。雁夜には、いつ少女が肉薄したのかさえ認識できなかった。圧倒的な死の気配だけが全身を包んでいる。
少女の手が触れた瞬間に総身の活力が喪失し、四肢が脱力して崩れ落ちた。反骨する気力すら湧いてこない。生殺与奪を握られた恐怖に震えるしかない。
「ふーん……桜を助けるために此処へ、ねえ。ご苦労様なことで」
鼻を鳴らし、まるで朗読するような淡々とした口調で雁夜の記憶を読み上げていく。精一杯の抵抗として少女を睨んでも、脅しにすらなっていない。
「へえ、葵さんっていうんだ、あんたの好きな人。綺麗だね。よりにもよって最も憎い男の所に嫁いじゃったのに、決死の覚悟で此処に来るくらい、まだ好きなんだ」
記憶が、暴かれていく。幼馴染との記憶、幼馴染への想い、幼馴染への未練、何もかもが。
「や、め……ろ……」
掠れる声で漏れた小さな拒絶も、少女には届かない。むしろ益々愉悦に歪む嘲笑は、淫靡な艶に濡れ、雁夜を見つめている。
「そうだよ……その貌だ。奪われ、嫉妬に、怒りに狂ってる怨嗟の表情が――堪らなく心地良い……」
今にも絶頂しそうな淫蕩に耽る少女に雁夜は確信した。
この少女は狂っている。魔術師とは別の次元で、精神の在り方ではなく、心の根底から狂ってしまっている。性癖や趣向などではなく、それのみが存在理由として確定してしまっている。
目的のために手段を選ばず、己の快楽のためならばどんな犠牲も厭わない。快楽主義の狂人。人でなしのろくでなし。
・・
「さて、雁夜さん。話は変わるけど、オレはね、さっきも言った通り、奪うのが好きなんだ。人の大切なものを見ると、奪い取りたくて仕方がなくなっちゃうんだよ」
口角を吊り上げ、舌舐めずりする蛇のように少女が嗤った。獲物にすぎない雁夜には、自分が辿る末路がまざまざと予感となって浮かんでしまう。
「止めろ……」
「あんたの思い出――葵さんと凛さん、そして桜と築いた記憶の総てを、根こそぎ奪ってあげる。あんたが懐いていた想いも夢も、全部をね」
「止めろぉぉおおッ!」
絶叫が空しく、間桐邸に轟いた。大切なものを奪われてゆく喪失感。絶望し、悲哀し、慟哭するその絶望を、その面貌に張り付けて。
* *
「ク……クク……ハハ、アハハ、アハハハハハハハハハハハハッ!」
記憶を奪われた雁夜が幽鬼の如き様相で間桐邸を後にしたのを見届けて、少女は張り裂けんばかりに腹を抱えて哄笑した。瞳に涙を滲ませ、美貌を綻ばせるその姿は、無邪気な童女にも見える。
「なんて――傑作なんだ――あははは! あの悲愴な貌! 報われない片思い! 悲劇のヒーローみたいな心の唯一の支えだった好意を奪われて――何もかも失くしちゃってんの! あははははははははは!」
窒息しかねない勢いで転げて大笑し、ひとしきり笑い終えたところで、少女は再び変態した。
膨れ上がった肉塊から形を成した姿は果たして――ユニセックスな風貌の美少年であった。背中まで届く黒髪をうなじで縛り左肩へと流している。長い睫毛に色素の薄い瞳。やや日本人離れした端正な顔立ちは、少女の可憐さと少年の凛々しさを完璧に両立させている。耽美という言葉をまさしく体現する美貌の持ち主は、ふと慈しむような声音で、
「ま、あんたには魔道は似合わないよ。平凡に、慎ましく生きるのが一番似合ってるさ」
奪い尽くした相手を想う言葉を口にした。狂っている、狂っている筈なのに、この少年には決定的な違和感がある。
「先生ーっ!」
「なに、桜ちゃん」
舌っ足らずな少女の声に振りかえる。視線の先には、幼い貌を綻ばせて駆けてくる黒髪の少女の姿。“記憶にあった”母親譲りの美貌の兆しを見せる、幼い少女。間桐桜――
「先生! できました!」
快活な声音で少年へと差し出されたのは、先刻桜へと出した魔術の課題だった。小さな掌に乗せられている硝子の小鳥は、元は粉々になった硝子片を再生し細工を加えた品だ。
まだ幼い桜に発想の柔軟さと魔力のコントロールを身に付けさせる練習である。あまり過度な魔術の行使は躰に毒だ。もはや間桐などなくなってしまった今、彼はこの希代の才能を持つ少女の将来を、本人の意思を尊重し、自由に成長させるつもりでいた。
基礎を磨き、礎を築き上げてからの研鑽は本人に任せる。もちろんその先に置いても手を貸すつもりだ。だが、この無色の才覚を自分の方向性に色付け、道を決定づけてしまうのはあまりに惜しい。故に、
「うん、良い出来栄えだ。上達したね」
「えへへ……」
頬を緩め、賞賛し、頭を撫でると、桜はくすぐったそうに微笑んだ。――故に、彼はこの少女の育成に心血を注いでいる。それこそ、本当の親子、兄妹のように。人として、魔術師として、彼は桜を愛していた。
遠坂から奪い取った愛娘、それが宿す奇跡に等しい才能を愛せない訳がない。
「先生っ! 次はなにをすればいいんですか?」
「今日はもう勉強は終わり。お腹すいたよね、ご飯にしようか。今日は特別に桜ちゃんの好きなものを作ってあげる」
「ほんと!? やったぁ! じゃあわたし、シチューがたべたい!」
二人の取り決め――魔術に携わる間だけ、師弟として接する――が解除されると、桜は破顔して歓喜の声をあげた。彼は屈んで桜を抱き上げると、はしゃぐ桜をあやすかのように慈しみ、頭を撫でた。
「よし、じゃあ桜ちゃんが喜ぶ、とっておきのシチューを作ってあげるから、それまで良い子にして待ってるんだよ?」
「はーいっ」
手を挙げて返事をする桜の無邪気さに苦笑しながら桜をリビングに降ろし、夕飯の支度に従事する。
その光景は、ありふれた平坦な家庭の一幕だった。少年はありったけの慈愛を持って桜に接し、桜は与えられる日常を享受する。
少年は気付けない。狂っていながら――この少年は、極普通の一般人が持つ感性を持ち得ていることに。
少年は気付けない。こうまで人としての幸せな日々を営んで置きながら――己が狂っていることに。