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―――奥様に認知症の兆候があらわれたのはいつ、どのような形だったのでしょうか? |
「最初の兆候は、今から10年ぐらい前です。夜中に洋子と大喧嘩したんですね。洋子も気が強いですから『どの女のところにでも勝手に行きやがれ!』と啖呵を切った。それで、僕はパジャマから服に着替えて、身の回りの物をカバンに詰め込んで、こう言ったんです。『オレはしばらく頭を冷やしてくるから。お前もそうしろ』って。まあ、そこまでは今までもよくある喧嘩の光景でした。ところが、僕が家を出ようとして、ふと振り返ると、後ろに洋子が付いてきてる。そんなことは今まで1度もなかったんですね。しかも、『ねえ、どこに行くの?』と尋ねるんです。ちょっと僕は面食らいながら『頭冷やしてくるって言っただろ』と構わず外に出ました。すると、洋子も裸足でトコトコついてきた。『どこ行くの? 私も行く』と。さっきまでの喧嘩の剣幕はどこへやらで、本当に僕がどこに出かけるのかわからない表情です。何かがおかしいと感じながらも、こいつを守れるのはオレだけだなんてドワーッと気持ちが盛り上がって『ごめんね。心配ないよ』と彼女を抱きしめて家に戻りました。思えば、あれが最初だったんでしょうね。
それから、ある日、洋子が『私、台本のセリフが覚えられない』と言い出しました。でも当時の僕は、認知症に対しての認識があまりにも低かった。最初は認めてあげられなかったんですね。『そんなはずはないだろう』と。彼女は泣きながら必死にやるんだけれどやっぱり覚えられない。『もう役者を辞めたい』と。これは、ただごとではないと思い、そこで初めて病院でしっかりと診てもらうしかないと思いました。認知症の症状にも前期、中期、後期とあって、今の洋子はどの段階にいるのか、どういう薬を使っていると症状が進行するのかなど、先生から専門的に指示を仰ぐことにしました」
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―――奥様に認知症の兆候があると知ったとき、長門さん自身はどう感じ、そしてそれをどう受け入れていったのですか? |
「まず、神様を恨みましたね。洋子の人生を好きにはさせないぞ、と。心のどこかで『誰かのせい』にしたかったのでしょうね。それからやはり僕自身、自分も不幸だという被害者意識のような思いが湧いてきました。どうしても誰でも最初はそういう気持ちになりますよ。
でも、そのままの気持ちでは介護はできません。次に湧いてくるのが、『オレが看病してやる』というヒロイズム。ただ結果的には、それも邪魔なんですね。オレはできるんだと、なんでもできるつもりでいると、自分も一緒に老いていることをつい忘れてしまう。それに無意識のうちに、自分が勇者、妻が弱者、という構図で動いてしまうんですね。これは一番いけません。別に自分は勇者でもなんでもないし、ましてや患者さんは弱者ではないんです。一緒に歩いてきた夫婦のどちらかが、たまたまつまずいた。そういう状況に置かれてるだけなのに、オレは介護する人、あなたは介護される人、なんて明確な差別感を持っちゃいけません。ですから、そういった不要な先入観や感情を抱えていることを自覚して、それを捨てることからが本当のスタートでした。そうすることで、ひと回りもふた回りも成長できるんだと思います。すべては当たり前なんだと受け入れて、下の世話からなにから当たり前のようにニコニコ、スッスーとやるようにしました。洋子の病気の進行は止められないかもしれないけど、進行しながらも楽しく生きてくれるように、そういう環境をつくりたいと思ったのです」
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| ――――奥様の状況を受け入れた後、施設ではなく自宅介護を決めたのはなぜですか? 想像するだけで、長門さんにかかる負担が大きいと思うのですが……?
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「洋子が父・沢村国太郎(俳優・故人)の介護をしてくれた姿がヒントでした。親父は亡くなるまでの3年間、寝たきりだったんです。最初はプロの介護の人に頼んでいましたが、みんな『セーンセ、おげんきでーすか?』なんて、幼児に話しかけるような感じで接するんです。それが慰めになると思ってるんですね。でも親父は『あんな口の効き方は我慢ならん』と怒るわけです。何人も介護の人が変わりましたよ。それで、最後に洋子が『私がやる』と言ってくれました。葛藤はあったと思いますよ。でも、どうすれば万全なのかを洋子なりに考えて、自分がやればいいと帰着したんでしょう。
しかし、舅(しゅうと)といえども男ですから、下半身を触ったり、あるいは汚物にまみれて介護をすることはふつうなら誰もいやじゃないですか。もともとは血のつながっていない他人ですしね。でも、洋子は『私がやるのは当たり前のことだ』と言わんばかりに、本当にハツラツとしていたんです。彼女の介護の姿には躍動感があって、背中からはオーラが出てましたねえ。洋子が『お父さん、開けますよ』と部屋に入っていくと、中から聞こえる『おーっ』て親父の声が実に生き生きしてきました。さすがに最初は洋子も神経を張り詰めて気疲れしていましたが、だんだんと余裕が出てくるのもわかりました。それが本当の意味で親父を慰めることにつながったんですね。患者さんと同等の立場でいれば尊厳を傷つけることもない。やはり患者さんは、多かれ少なかれ自己嫌悪感を持ってますから。それに対して、いいんだよ、皆そうなるんだから、私も誰かの世話になるんだから当たり前だよ、というイメージを与えてあげる。洋子に介護が必要だと考えた時に、まず思い出されたのはあの光景でした。だから、僕もはつらつと介護をしようと決めたんです」 |